「読書の秋」という言葉に乗っかる訳ではないけれど、確かにこの季節は読書に向いている。窓辺に座って本を読みながら、僕はそんな事を思った。
開かれた窓から差し込む光に目を細める。夏の頃と比べると、日差しは随分と柔らかだ。夏の日差しの鋭さでは、こうして窓辺でゆったりと読書する事もままならない。何よりあの季節は蝉がうるさくて、落ち着いて読書など出来やしない。今年の夏は特にそれが酷かったので尚更だった。
そんな頃と比べて、店は今、ゆったりとした静けさに包まれている。まさに読書日和だ。
静かという意味では冬もそうなるのだが、冬の静けさは、気候的なものとは別にして、どこかうすら寒い静けさだと思う。それに対して秋の静けさは、みんながそっと耳を澄ましているような、そんな暖かな感じがする。
それならば、気候的に今と近い春はどうだろう。暖かな陽気は読書向きだが、空気がどこか浮き足立っているのが少々よろしくない。とくに僕の知り合いの誰かさんなどはその最たるもので、騒がしく店にやって来ては騒がしく花見に誘い、帰る時もやっぱり騒がしい。
そうして季節をめぐりめぐって、やっぱり読書は秋に限る、とあらためて思うのだった。
ただまあ、こうして日がな読書に没頭出来るという事は、それだけ時間を持て余しているという訳で、それはつまり、店には僕以外は人っ子一人いないという訳で。
僕は一応は商売人である訳で、これでいいのだろうかと頭の片隅で思わなくもない。しかし、今ここにある快適な読書の時間という幸せを前にしては、そんな事も瑣末なものに思えてしまうのだった。
そんな瑣末事など、頭の片隅から窓外へと投げ捨ててしまえばいい。
そうして、意識を読書の方へ戻そうとした時だった。窓の外、上空を、黒い影がよぎったのは。
……来てしまったか。これで本日の快適で優雅な読書タイムはもうお開きだろう。
もちろん、僕は魔理沙を邪魔者扱いするつもりはない。旧知の間柄だし、小さい頃から面倒を見て来た相手である(それを魔理沙がどう思っているかは知らないが)。
ただそれでも、こうやって毎日のように来られると、つい煩わしいと思ってしまうのが人のサガである。来訪を無視して読書にふけっていてもいいが、ヘソを曲げられるとそれはそれで後が面倒なのでやめておこう。
しおりを挟んで本を閉じるのと同時に、カランカランとベルが鳴った。
「やっほう香霖、紅葉狩りの季節だぜ。紅葉狩りって言っても紅葉した葉っぱを狩るんじゃないぞ。色とりどりの紅葉を見て楽しむんだ」
――なんて事を、帽子にモミジやイチョウの葉っぱを乗っけながら言ってところで説得力なんて微塵もない。まだ紅葉していない、緑色の葉っぱまで乗っているのを見る限り、枝にくっついていた葉っぱを文字通り狩って来た疑いが強い。
それにしても、来て早々ポンポンとよく喋る。もっとも、それはいつもの事だが。
とりあえず、さっきの考えを訂正しよう。
魔理沙はいつでも浮き足立っていて、春夏秋冬季節を問わず騒がしい。
「帽子に葉っぱが乗っているよ、表で落として来なさい」
前にもこれと似たような事を言った覚えがあるのだが、深くは考えない事にする。
「だから、ワザと乗っけて来たんだって」
「どっちでもいいから、店の中に散らかさないでくれよ」
「そうかい。じゃあこれでどうだ?」
そう言うと魔理沙は、帽子に乗ったモミジの葉っぱを何枚かつまみ取り、何か意識を集中している。そして顔をこっちに向けてニヤリと笑うと、その葉っぱを投げたのだ。――僕の方へ。
その葉っぱは手裏剣か何かのように鋭く回転し、空気を切り裂きながらこちらに迫る。そして僕の顔のすぐそばをかずめ、そのまま開いた窓から外へと飛び去っていった。
「おいおい何するんだ魔理沙。僕は弾幕ごっこは出来ないんだぞ」
「いやまあ、モミジの葉っぱって、星型に似てるだろ? だから、秋期限定で弾幕のイメチェンでもしてみようかなって思ってな。風流だろう?」
イメチェンという言葉は、弾幕に対しても適用されるらしい。どうでもいい事だが。
季節に合わせた弾幕を張るのは、確かに趣があって面白いかも知れない。けれど、それを魔理沙が実際にやると、単に葉っぱを散らかしているだけにしか見えない気がする。仮に博麗神社あたりでそれをやろうものなら、霊夢によって速やかに掃除される事だろう。魔理沙が。
まあどの道、僕には関係のない話だ。弾幕をイメチェンした魔理沙がそれを披露する相手は、弾幕ごっこが出来る者に限られるのだから。
「そうだね。面白いかもね」
「……ちえっ、そっけない奴だな」
僕の当たり障りない返事は、魔理沙のお気に召さなかったようだ。
ブツクサ言いながら、魔理沙は扉を閉めて店に入ってくる。帽子に乗った葉っぱはそのままだ。
「……なんだよその目は。要は落とさなければいいんだろう?」
要はそういう事だが、魔理沙に慎重な行動など期待出来ないから外で落として来てくれと言っている訳で。まあ、たまには期待してあげようじゃないか。霊夢が賽銭の大入りを願うのと同じくらいの、詮無い期待だが。
「で、紅葉狩りに誘いに来た訳だが、どうだ?」
「紅葉狩り……か」
確かに、悪い話ではない。
窓から見える周辺の桜も紅葉は見せるものの、物足りない。花見と言えば桜の花なのと同様に、紅葉狩りと言えばやはりモミジを見なければと思うのが人の常であろう。
そういった意味で、今年はまだ紅葉狩りを愉しんではいない。だからこれは、丁度良い機会ではある。
ただ、魔理沙と一緒、となるとどうだろう。
紅葉狩りや花見のような、自然を味わう行為に没頭する時は、静かで慎ましくありたいものだ。けれど目の前に居る少女は生憎と、そんな謙虚な言葉とは真逆の性格をしている。
僕が理想とするような紅葉狩りが出来るのかどうか、そこが問題なのだった。
魔理沙は手持ち無沙汰なのか、紅葉したモミジの葉っぱの芯を指でつまんで、くるくると回している。何だかそれが、随分と子供っぽい仕草に見えた。
「一日中こんな薄暗い中でジメジメしてたら、頭からきのこが生えちまうぜ?」
僕の返答の遅さにじらされたのか、魔理沙がそんな下らない軽口を叩く。
何を言うのだ。窓からはきちんと採光しているし、時に空気の入れ替えもしているからジメジメなんてしていない。品物を扱う店において、温度や湿度の管理をしっかりするのは当たり前の事だ。全く、失礼極まりない。
やっぱり、一緒に行くのは遠慮しておこうか、と思う。
別に魔理沙の言葉に腹を立てた訳ではないけれど、紅葉狩りの最中もこんな風にいつもの調子でお喋りされたら、雰囲気もへったくれもあったものではない。
紅葉狩りであれば、気が向いた時にでも行けばいい。何より今日は読書日和なのだから、日暮れまでそれを楽しんでいたいと思う。
僕は、膝に置いていた本を手に取った。
「悪いけど、今日は――」
それを開きながら遠慮の言葉を言おうとして、僕は途中で口をつぐんだ。
僕の目に飛び込んで来たのは、見開いたページ。その真ん中に差し込まれた、一枚のしおり。もちろん、さっき自分で挟んでおいたものだ。
そのしおりは、ごく普通の和紙にモミジの葉っぱを貼り付け、表面を透明なシートみたいなもので保護した簡素なもの。保護の際に魔法的な何かが施されたのか、かすかな魔力が感じられる。
素朴な作りが僕の好みに合っていて、また普通のしおりよりも丈夫なので、僕は長年このモミジのしおりを愛用している。
「どうした香霖、何が悪いんだ?」
否定のニュアンスを持った僕の言葉に、魔理沙がやや顔を曇らせている。
このモミジのしおりと、目の前にいる、僕を紅葉狩りに誘いに来た少女。
このふたつは、僕の記憶の底に堆積しているひとつの出来事を思い起こさせるのに、充分な組み合わせだった。僕は、地面に散らばった落ち葉の中から目的の一枚を拾い上げるように、その記憶に手を伸ばした。
「魔理沙」
「何だ?」
僕は魔理沙の顔を真っ直ぐに見つめて、言った。
「覚えているかい? 随分昔だけど、君が小さい頃に、一緒に紅葉狩りに行った事を」
*
記憶は定かではないが、10年近く前の事だったと思う。確か、魔理沙が5つか6つくらいの頃だったから。
魔理沙がまだそのくらいの小さな子供だった頃、丁度今くらいの季節に、僕らは紅葉狩りに近くの山へ出掛けていった事がある。
ただ紅葉狩りと言うよりは、もともとは単なる散歩のつもりだった。僕は、外に遊びに出たいと言う魔理沙のお守り役としてついて行ったに過ぎないのだから。
それでもそんな秋の頃に山の方へと出掛ければ、ちょうど紅葉の時期を迎えた木々を目にする事が出来る。
見上げれば、あるものは葉を鮮やかな緋色に変え、またあるものは眩しい黄金色に彩色し、さらにあるものは深みある真紅に染め上げている。
足元を見渡せば、ありとあらゆる色合いの落ち葉が地面を埋め尽くし、彼方まで終わりのない、斑模様の絨毯を織り成していた。
魔理沙のような小さな子供に紅葉狩りは似合わない気もしたが、口をぽっかりと開けながら紅葉した木々を見上げ、時折感激したような声を上げていたので、彼女なりに紅葉狩りというものを楽しんでいたようだった。
「あまり遠くに行くんじゃないよ」
天然色の絨毯に腰を下ろしてのお弁当は、また格別だった。
僕は食休みがてら持って来た本でも読む事にしたが、魔理沙はまだまだ遊び足りない様子だった。食事の前にも散々駆け回ったりしていたのだが、子供というものはやはり、疲れ切るまではひたすらに遊ぶのが性分のようだった。
魔理沙が始めたのは、ひらひらと舞い降りて来る葉っぱを両手でキャッチする遊びだった。遊び盛りの子供は、どこに行ってもその場に応じた遊びを見い出せるのだから、大したものだと思う。
はじめのうちは、全く成功しなかった。魔理沙の直線的な動作は、ゆらゆらとたゆたう葉っぱに見事にかわされてしまうのだ。そうやって葉っぱに翻弄されている魔理沙は、見ていて面白かった。
時折、頭の上に舞う葉っぱを深追いし過ぎて、そのまま横や後ろにころんと転がってしまう事もあった。僕はそれを見て笑うのだが、魔理沙に怒られるので2度目以降は顔を本で隠して笑っていた。3度目あたりでそれがバレて、僕は怒った魔理沙に頬をぺちりと叩かれたりした。モミジの葉っぱよりは大きいが、まだまだ幼い、小さな手のひらだった。
しばらく失敗を重ねた後にようやく成功した時は、小さな身体をぴょんぴょん跳ねさせて全身で喜びを表現していた。そしてキャッチに成功するたびに、誇らしげにその葉っぱを見せに来るのだった。
そうして僕に見せる何枚かの葉っぱの中に、それはあった。
程良く紅葉した、モミジの葉っぱ。
それは、切れ込みによって葉っぱが7つの部分に分かれた、典型的なモミジだった。
「これは、イロハモミジ、って言うんだよ」
「いろはもみじ?」
「そう。葉っぱが7つの部分に分かれているだろう? これを、い・ろ・は・に・ほ・へ・と、って数えた事から、イロハモミジ、っていう風に呼ぶようになったんだ」
「へぇー」
魔理沙は感心したように、葉っぱの端の方から指で差し、い・ろ・は……と数えていた。
「モミジの葉っぱは、紅葉する葉っぱの中で一番綺麗だと思うよ。だからこの葉っぱを見ると、紅葉狩りに来たんだな、って感じがする」
「ふぅん……」
魔理沙は手のひらに乗っけたその葉っぱをまじまじと見つめていた。その葉っぱもそれなりに綺麗だったが、残念な事に、空中でキャッチした時に一度くしゃりと潰してしまったらしい。少しばかり、よれていた。
次に魔理沙が始めたのは、綺麗な葉っぱ探しだった。
彼女もモミジの葉っぱがお気に入りになったようで、あちこちに駆け回ってはそれを拾い、色合いや形などを検分していた。
今度は大人しい遊びなので、先程のように魔理沙の面白いところは見られそうにない。そう思い、僕は読書に戻る事にした。
大自然の中での読書も味なものだと、ある時僕はページを繰りながら思った。
そよ風が吹くと、どこからともなく葉擦れの音が聞こえて来る。その音は煩わしさを感じさせる事もなく、僕の耳に染み入るように馴染んでいく。
自然が紡ぎ出す穏やかな音は、静寂よりもずっと優しく、傍に寄り添ってくれる。
無音の店内に一人で居る時よりも、ずっと平穏な心持ちで読書に耽る事が出来るのだった。
そうしてしばらくの間、僕は読書に没頭していた。
ある時、それまでよりもやや強い風が辺りを通り過ぎ、僕は少しばかりの肌寒さを覚えた。日差しはまだ地上を照らす高さにあったが、この時期は冷え込むのも早い。
紅葉狩りはもう充分に堪能した。
そろそろ帰り時かと思い、僕は本を閉じて顔を持ち上げた。
――魔理沙が、どこにもいなかった。
慌てて立ち上がり辺りを見回すも、その姿は見られない。
大声で名前を呼ぶ。やはり返事はない。
「遠くへ行くなって言ったのに……」
とは言え、子供の足だ。そう遠くではあるまい。……不慮の出来事に遭遇してなければ、だが。
僕はとにかく、元いた場所を中心にして四方を走り回る。
名を叫んでも、返って来るのは葉擦れの音ばかりだった。
こういう時こそ、冷静にならねばならない。けれど、風が吹くたびに木々がざわざわと鳴り、足元の落ち葉ががさがさと喚き立てる。それが僕の焦燥感を煽るのだった。
そうやって、幾度目か魔理沙の名前を呼んだ時だった。
「こーりん……」
それはともすれば、木々のざわめきにかき消されてしまいそうな、か細い声だった。
けれど、その声は確かに、他の雑音の合間を縫うようにして僕の耳に届いたのだ。
声のした方に、僕は走る。
向かった先に、果たして魔理沙はいた。
「こーりん!」
僕に見つけて貰って、魔理沙が歓喜の声を上げる。けれどその表情には緊張が張り付いていた。
魔理沙は、木の上に居た。幹から分かれた太い枝に抱きつくようにしがみついていたのだ。
想像するに、木登りをしていて、気が付いたら高い所まで来過ぎていて動けなくなったという所だろう。真っ直ぐ前ばかりを見ている魔理沙らしいとも言える。
とりあえず無事であった事に安堵するも、どうしたものだろうと思う。
魔理沙は今、少なくとも僕の背丈の3倍はある高さの所にいる。もちろん僕の手では届かない高さだ。大人ならば大した事がなくても、小さな子供にとっては恐怖を感じる高さだろう。それも、当人からすれば知らぬ間にそんな高い所まで来てしまった事になるのだろうから。
どうして木登りなんてしていたのだろうと思ったが、先程まで魔理沙がしていた事を思い返して納得する。
確かに、落ち葉よりも未だ木にくっついている葉っぱの方が綺麗だろう。ただやはり、モミジは見て楽しむものであって、むしり取るものではない。
もしかしたら、さっき僕が言った「紅葉狩り」という言葉を間違って解釈してしまったのかも知れなかった。
「魔理沙、自分で下りられるかい?」
ふるふると首を横に振る。それはそうだろう。出来るのならとうにそうしている。
「じゃあ、僕が下で受け止めるから、そこから――」
言い終える前に、魔理沙が激しく首を横に振る。この高さから飛び降りる勇気はさすがにないようだった。
僕が登って助けに行く――というのはまずいだろう。登っている間に魔理沙が落ちてしまわないとも限らない。
やはり、自分の力で下りて来て貰うしかなさそうだった。
「魔理沙、自分の力で下りて来るんだ。ゆっくりでいい。手と足を片方ずつ、少しずつ動かすんだ」
あまり下を見ないように、と言おうとして、止めた。言ったらなおさら見てしまいそうだったから。
魔理沙は僕の言いつけに従い、手足を少しずつ動かしていく。いかにもおっかなびっくりな様子だった。
時折風に煽られると、枝に抱きつくように縮こまってしまうので、進行は遅い。それでも確実に、幹の方へ戻っていく。
そうして、元いた場所から幹の方へ半分ほど進んだ時だった。
順番通りに手足を移動させ、今度は右手の番だった。
右腕をそろそろと動かし、また止める。
そして今度は左手を動かすために、右手に力を込めて身体を支えようとして、
「あっ――」
それは僕の声だったのか、それとも魔理沙の声だったのか。
魔理沙が、右手を滑らせてバランスを崩した。
右半身の支えを失った身体は右側へと大きく傾ぐ。左手足が反射的に枝にすがろうとするが間に合わない。支えを失った魔理沙の身体はそのまま枝を離れていく。
「魔理沙!」
念のため魔理沙の真下で見守っていたのが、幸いした。僕はすぐに魔理沙を受け止める体勢を取った。落下して来る人間を受け止めた経験など当然皆無だが、やるしかないのだ。
それは、一瞬の出来事だった。
自由落下を始めた魔理沙の身体は瞬きする暇さえなく僕のもとに落ちて来た。腕と、そして腹部に強い衝撃が落とし込まれる。僕はその力に抗う事なく、膝を折ってそのまま後ろに倒れ込んだ。今度は腰に衝撃。落ち葉がささやかなクッション代わりになってくれたが、それでも痛いものは痛い。
僕はどうにか、魔理沙を受け止める事が出来た……と思う。
「魔理沙、大丈夫か?」
上半身を起こして声を掛ける。腕の中の魔理沙が小さく呻いて、身体を動かす。無事なようだ。
魔理沙が顔を上げると、僕と目が合う。目をぱちくりとさせている。何が起こったのか分かっていない風だった。
きょろきょろと辺りを見回し、上を見て、下を見る。そこでようやく、自らが地上にいる事に気が付いたようだった。
「怪我はないかい? どこか痛いところは?」
見たところでは、目に付く外傷はなかった。どこも打ち付けたりしていなければ良いのだけれど。
僕は魔理沙の目を見つめ、返事を待つ。
けれど、言葉による反応はなかった。
魔理沙はそのまま表情を崩し、僕の胸にすがって泣き出してしまったのだから。
無理もない。怖かったのだろうから。
こうやって、痛みを訴えるでもなく泣き喚くことが出来るのなら、身体は大丈夫なのだろう。僕はひとまず安心した。
本当なら、勝手な事をして心配掛けさせたのを叱らなければならないのかも知れない。けれど、目を離していた僕も悪いのだから、人の事は言えない。普段の魔理沙のやんちゃさを考えれば、自由に歩き回らせる事の危険性は明らかなのだ。
魔理沙はまだまだ小さな子供。だから、ちゃんと見守ってやらないといけないのだから。
……まあ、いい。
とりあえずは、泣きじゃくる魔理沙の背を撫でて、なだめてやる事だけに意識を回した。
ひとしきり泣いた後、魔理沙は泣き疲れるようにそのまま眠ってしまった。
日中は散々遊びまわり、木の上では長時間の緊張を強いられ、しまいにはあれだけ散々泣き喚いたのだから、無理からぬ事だった。
日暮れが近く、早く帰らないといけないが、魔理沙を起こす事も出来ない。仕方なく、僕は魔理沙をおんぶして帰路につく事にした。
魔理沙を背負い、腕を肩から前に回させる。軽くはないが、辛いと思うほど重くはなかった。
そうして魔理沙を背負って歩き出した時、僕はそれに気が付いた。
「これは……」
魔理沙の手には、一枚のモミジの葉っぱが握られていた。もちろん、葉の部分を折らないように、芯の部分を握っている。決して手放さないように、しっかりと。
今こうして持っているという事は、これは木に登っている時に手に入れたものなのだろう。そしてそれを、木の上で震えながらも手放さないようにしっかりと握っていたのだろう。
「やれやれ、こんなものを後生大事に持っているから、落ちてしまったんだ」
綺麗な葉っぱを探していたというのは解る。解るけれど、もう少し自分の身の安全とかも考えて欲しい。
あんな状況に置かれながらもこの葉っぱを手放さなかったのは、魔理沙が純粋だったからか、それとも頑固だったからか。
少なくとも、それを愚かな行為とは、思いたくはなかった。
なぜなら――と、僕は目の前の葉っぱを見て思う。
なぜならこのモミジの葉っぱは確かに、僕が今まで見て来た中で最も綺麗なものだったのだから。
*
「――なんて事があった訳だけど、君は覚えているかい?」
そんな事があった数日後に僕は、ごめんなさいを言う魔理沙からこのモミジのしおりを貰ったのだった。お詫びのしるし、らしかった。
普段は全く意識しないのだけれども、こうして思い出してみれば、昔の事も意外と鮮明に覚えているものだとあらためて思った。
「さあ……な。記憶にございません、ってやつだぜ」
小さい時の事だから、覚えていなくてもまあ不思議ではない。
しかし僕は、そう言う魔理沙の目が少しばかり泳いでいたのを見逃さなかった。覚えていながらしらばっくれていると僕は踏んだ。
ならばと思い、
「そうか、じゃあこのしおりに見覚えはあるかい? 君から貰ったものなんだけど」
僕は証拠品であるしおりを魔理沙に突き出した。もちろん、これ見よがしにモミジの貼り付けられた面を魔理沙に向けて、だ。
魔理沙はそれを見て、はっきりと目を見開いた。
「香霖、……何でそんなものを未だに持ってるんだよ」
「何故って、しおりとして使ってるからさ。ありがたく活用させて貰ってるよ。
これがどういうものか分かったって事は、その時の事も覚えてるんじゃないのかい?」
勝ち誇ったように僕は言った。
ちょっと意地悪なやり方かも知れないが、これが一番確実な方法だろう。
「……ああ、分かったよ。確かに私は昔、香霖と一緒に出掛けたよ。それで一人で勝手にあんな事になって、挙句の果てにお前にすがってギャーピー泣いたさ。言われりゃそんな事があったってちゃんと思い出せるよ。認めるよ。これで文句はないだろう? ったく、何でそんな昔の事を覚えてやがるんだ?」
魔理沙はそこまで一気に言い放ち、顔をぷいっと背けてしまった。顔を急に動かすものだから、帽子に乗った葉っぱが何枚か床に落ちてしまう。だから表で落として来なさいと言ったのに。
どうも、怒らせてしまったようだ。やはり過去の出来事に触れられるのは恥ずかしいらしい。事が事であるし、まあ無理もないか。
「悪かったよ、魔理沙。一緒に紅葉狩りに行くから機嫌を直してくれないか?」
「な、何だよ、さっきは断りそうな事言っておいて結局来るのかよ」
「そうだねぇ、それでまた君からモミジのしおりが貰えたらいいね」
「……どうやら今すぐ焼かれたいみたいだな。辞世の句があるなら聞いてやるぜ」
「すまない僕が悪かっただからその八卦炉をどうか仕舞ってくれ」
ミニ八卦炉を持つ手に微妙に力がこもって見えるのは気のせいだと信じたい。
「じゃあ、さっさと行くぜ」
僕が何か言う前に、魔理沙は扉を開けてさっさと表に出てしまった。落とした葉っぱはもちろんそのままだった。今度、箒というものの本来の使い方を教えてやらねばなるまい。
僕はしおりをもとのページに戻そうとして、ふと手を止める。貼り付けられたモミジの葉っぱをあらためて見つめた。
モミジのしおりが貰えたら、というのは、別にからかう意図で言った訳ではなかった。
僕のような読書家は、複数の本を同時に読む時もある。つまりは、しおりもその数だけあって欲しいという訳だ。
それに――。
このモミジのしおり以来、僕は魔理沙から何か物を貰った事があるだろうか、と思った。僕は僕で、魔理沙に物をあげた事はあのミニ八卦炉以外に何かあっただろうか。
記憶を探った限りでは、思い当たるものがない。
魔理沙のガラクタを引き取ったり、店の物を勝手に持って行かれたり、物のやり取りと言えばそんなものばかりだ。いつからこんな貧しい関係になってしまったのだろう。
こんな体たらくで、またモミジのしおりが欲しいなどと言うのはいささか図々しいなと我ながら思う。
今度、魔理沙の誕生日にでも何かプレゼントを用意するのもいいかも知れない。
「香霖、まだかー!」
と、外から魔理沙が急かす。
せっかちだなぁと思いながら、だからこそ魔理沙なんだよな、と思い直し、僕は急いで表に出て行った。
「なあ、知ってるか? 香霖」
色とりどりに紅葉した木々の下、少し前を歩く魔理沙が、僕に背を向けたまま言う。その金髪からかすかに覗く耳が、紅葉したみたいに赤くなって見えるのは気のせいだろうか。
「何だい? 魔理沙」
「モミジの花言葉って……『大切な思い出』なんだぜ?」
「へぇ、そうなんだ」
唐突だったので、僕は魔理沙の意図が読めずにありきたりな返事しか出来なかった。
やや言い淀むような気配がその後ろ姿から感じられたが、魔理沙は続ける。
「香霖にとって、その……、昔の私とかあのモミジのしおりとかは、『大切な思い出』であってくれるのか? あんな風になっちゃった事でも……さ」
あんな風にとは、何かと僕に苦労をかけた事を言っているのか。
まあ今になって思い出してみれば、そんな事もあったなあと懐かしんでいる自分が居る訳で。
時折こうして過去の記憶に触れてみて、それを素直に懐かしむ事が出来るのならば、それで以って大切な思い出と言えるのかも知れない。
「そうだね……」
我ながら曖昧な返事だった。けれど、魔理沙はそれを肯定の意と捉えたようだった。
スカートをふわりとはためかせ、魔理沙がこちらを振り返る。陽光を受けてきらめく金の髪が眩しい。
けれど、こちらに向かって満面の笑みを浮かべてみせる少女の顔は、それ以上に眩しかった。
普段は何かとマセている為だろう。こうして、背伸びせず年齢相応の笑顔を見せる魔理沙はどこか新鮮だった。
そうしてやや照れ笑いを浮かべる魔理沙が、手品でもするみたいな動作で右手を僕の顔の前に差し出す。そこには一枚のモミジの葉っぱがあった。
それは、僕が今しおりに使っているものに勝るとも劣らない、鮮やかな赤に色付いた綺麗なイロハモミジだった。
「……僕に?」
「……後でな」
そう言って魔理沙は得意げに、指でそのモミジをくるくると回していた。
大切な思い出、か。
こうして魔理沙と一緒に紅葉狩りに出掛けた今日という日も、いつの日か思い出と呼ばれるようになるのだろう。その時、僕の記憶の中で、今日の事はどんな風に色付いているのだろう。
なんてね。それを考えるのは気が早すぎるか。
大切な思い出――心引かれる花言葉だと思った。
と、魔理沙の葉っぱを見ながらそんな事を考えていて、ふと思った事があった。
深く考えた訳ではなく、本当にふと思いついただけだった。それゆえ僕は、その思いついた事を脳内でろくに吟味する事もなく、口走っていた。
「でも考えたら、これって花じゃなくて葉っぱだから、花言葉は関係ないね」
――ぴし、と音を立てて場の空気にヒビが入った、気がした。何だか周囲が突然冷え込んだ気がするのは何故だろう。秋も深まる頃合いだが真冬はまだまだ先のはず。
魔理沙の顔を見ると――それは見事に凍り付いていた。
いや、満面の笑顔がどこか引きつったような笑みに成り代わろうとしているあたり、凍り付いてはいないようだ。が、何とも言葉にしがたい妖気というか殺気というかそういうものをビシビシと感じる。
その表情が非常に痛い。
まずい事を言ったかも知れないと思い、僕はフォローを入れようとして、
「あ、魔理――」
――声を掛けようとした瞬間、僕の頬に強烈な一撃が炸裂していた。
「お前少しは雰囲気とか読めよっ!」
痛みを感じる時間こそあれども、僕が何か言う前に魔理沙はそう叫んで走り出してしまった。
すぐに後を追いたかったが、焼け付くような頬の痛みが、まともに思考をする事さえ許してくれない。ようやく我を取り戻した時には、魔理沙の姿はもうどこにもなかったのだった。
僕は、呆然と立ち尽くすしかなかった。
「真っ赤になってそうだなぁ。凄い音がしたし……」
頬を撫でつけながらぼやく。と言うか物凄く痛い。涙まで出て来た。
とりあえず僕は、すっ飛んでいった眼鏡を拾い上げる。良かった、割れていない。
これは……モミジのしおりは期待しない方がいいかな。物凄く怒ってそうだったし。
モミジの代わりに僕が貰ったのは、頬を真っ赤に染める見事な“もみじ”マークなのだった……。
……そうだよな、身も蓋もないセリフとか、
ついつい言っちゃうよな普通。うん。
オチも効いてて面白かったです。