霧雨魔理沙はご機嫌だった。
左には父親、右には母親。
どちらを向いても大好きな人がいて、にっこりと微笑んでくれる。
そして彼女の両手は二人と繋がれていた。
山風に吹かれて木々がざわめき、老いて変色した葉を落とす。
それらは土色の遊歩道を多彩な色で埋め尽くす。
歩けばざしざしと音がして、それを楽しみながら魔理沙は歩いていた。
親子3人揃って手を握り紅や金色に色づいた山道を歩く。
ただそれだけのことだが、魔理沙にとってはとても嬉しいことだ。
普段は店にかかり切りでなかなか遊び相手になってくれない両親と今日は散歩。
ただ歩いているだけで顔はにっこりと綻んでしまう。
「どこにいくの?」
「ちょっと神社に挨拶に行くんだよ」
父親はそう言った。
ジンジャという場所がどこなのか魔理沙は知らない。
でもなんだかわくわくする響きを感じ、魔理沙の心はさらに高鳴った。
☆
風が木々をざわめかせる音が耳に障り霧雨魔理沙は目を覚ました。
そろそろ外で一眠りするには風が冷たい季節となってきた。
起き上がると寒気を感じて二の腕をさする。
「ようやく起きた?」
隣に座っている霊夢の顔はこっちを向いていない。
縁側から見える風景は見事に紅葉した山々。雲一つない青空。
霊夢の視線は幻想郷の大自然に向けられている。
「あー、どれだけ寝てた?」
「小一時間てとこね」
「そっか……なぁ」
「何よ」
「私にもお茶くれ」
「はい」
言って霊夢が差し出したのは空っぽの湯飲みと急須が乗った盆。
飲みたいなら自分で入れろということだろう。
しかし魔理沙の分の湯飲みがあるということは、そこまで邪険にするつもりはないようだ。
魔理沙はしばらく恨めしそうに湯飲みと急須を見つめていたが、
流石に寒くなってきたらしく起き上がると自分で淹れ始めた。
「まったく、あんたはいつから神社に来るようになったのかしら」
「そういえばいつからだったかな」
二人とも生まれてからまだ十数年しか経っていない。
それなのにこの関係がいつからのものなのか覚えていない。
記憶なんてその程度のものだと言ってしまえば、それで終いだが。
「やぁ、お二人さん。今日も揃って一緒にいるね」
「あら珍しい。お店は留守にしてきて良いのかしら」
縁側にまで足を運んでやってきたのは二人にとってよくよく見知った男性だった。
魔理沙も住んでいる魔法の森の入り口に「香霖堂」という店を構えた森近霖之助だ。
「別に留守にしたって客が来ないから大丈夫なんだろうぜ」
「それは僕が言うべき事だろう。他人に言われてしまえば冗談じゃなくなる」
「私はいたって本気で言ってるぜ」
まあいいさと霖之助は別段怒りはしない。
「それで今日はなんの用かしら。道具の仕立てを頼んでいた覚えはないんだけど」
「いやなに、ちょっと懐かしい物を見つけてね」
霖之助はそう言うと、脇に抱えていた風呂敷包みを二人の側に置いた。
魔理沙も興味深そうにその手元をのぞき込む。
懐かしい物と霖之助は言っているが、いったい何が出てくるのか。
「これは?」
「忘れてしまったのかい? それとも覚えていないのかもしれないね」
なにせ10年以上も前の代物だからねと霖之助は言った。
霖之助が持ってきた物、それは――
☆
郷を出立してから結構歩いた。
すっかり疲れてしまった魔理沙は今は父親の背に背負われている。
最初は疲れても自分の足で歩くと言い張っていたのだが、どう頑張ったところで幼児の体では限界も早い。
だから背負われている魔理沙の頬は、秋に入って冬支度を始めたリスのように膨らんでいた。
「いつまでそうしてむくれているつもり?」
母親が窘めるが魔理沙はそっぽを向いて答えない。
「負けず嫌いは君に似たのかな」
父親は笑いながら魔理沙の頭を撫でた。
それでも魔理沙のふくれっ面は戻らない。
お手上げだなと肩をすくめる父親に、母親も困ったように笑うだけだ。
「あ、親父さん。お久しぶりです」
その時霧雨一家に掛かる声が届いた。
「やぁ霖之助君。今日は突然呼び出してすまなかったね」
話しかけてきたの青年はかつて霧雨家に弟子入りしていた森近霖之助だった。
今は独立して自分の店を構えている。
今日はかつての師匠から珍しく手紙が届き、こうして出向いてきたというわけだ。
「いえ、どうせ店を開けていてもお客は来ませんから」
いっそ清々しいまでの微笑を浮かべてさらりと言い放つ。
元より儲けるために自身の店を持ったわけではないから客が来なくても問題はないのだろうが。
「それにしても親父さんからのお誘いとは珍しいですね」
「そうかい? まあたまにはいいかと思ってね。ほら、魔理沙も挨拶しなさい」
父親が礼をするように少し体を前に倒すと、魔理沙と霖之助がちょうど目線を合わせる形になる。
「やぁ、随分大きくなったね」
にっこりと微笑む霖之助。
だが魔理沙はきょとんとした顔を浮かべるばかりだ。
「覚えてないのね。霖之助君が出て行ったのはまだ魔理沙が赤ちゃんのときだったから、無理もないわ」
「それでも少しは覚えていると思ったんだけどな。霖之助君は顔も背も変わってないのだし」
霖之助の姿は数年前とまったく変わっていない。
成長のない姿、それは彼が人外の種族であるという証。
しかし父親はそれを嫌味や蔑みとして言っているのではない。
彼を人外の者と認めた上で同等に付き合っているのである。
「魔理沙、この人は森近霖之助君。香霖堂という店の店主だ」
「こーりん……?」
魔理沙は父親と霖之助の顔を交互に見比べる。
そして父親がにっこりと微笑むのを見ると、魔理沙も同じように微笑んだ。
そのまま父親の背から降ろしてもらうと、とてとてと霖之助の元へ向かう。
「よろしくこーりん」
「うん、よろしく」
ぺこりと頭を下げる魔理沙に、霖之助も礼を返す。
「それじゃあそろそろ行くとしようか」
「そうね。後はそこの階段を上るだけよ」
☆
霖之助が持ってきた物、それは花びらの詰まった小瓶だった。
別に何か特別な力が備わっているわけでもない。本当にただの小瓶。
「これがいったい何だって?」
「開けば思い出すんじゃないかな?」
コルク栓を外すと、詰まっていた香りがそこら中に漂い始めた。
独特の甘ったるい香りは、一度覚えてしまえばすぐに察しが付くもの。
秋の訪れを感じさせる風物詩の一つとしても有名なキンモクセイの香りだった。
「これってキンモクセイの……」
「そう、所謂ポプリってやつさ」
花に、ハーブやスパイス、香料を混ぜ合わせ、さらにそれを瓶やポットのなかで熟成させた香りのことだ。
霖之助が持っているのは壺や瓶の中に入れて主に飾りとして用いられるモイストポプリと呼ばれるタイプの物である。
「意外と少女趣味だな」
冷やかし口調で魔理沙が笑う。
確かに霖之助のような男性が好んで持っているようなものではないだろう。
しかしそれはまさしく当然のことで、霖之助も例外ではない。
「女の子に言われたくない台詞だね。それと訂正しておくが、これは僕の趣味じゃない」
「へぇ、じゃあ誰の趣味でそんなものを持っているんだ」
魔理沙の言葉に霖之助は目を瞬かせる。
「覚えてないのかい」
「なんのことだ?」
「いや別に。人の変化というものは目まぐるしいなと思っただけさ」
霖之助は意味深な笑みを浮かべながら、手近にあった湯飲みに口を付ける。
それを見た霊夢が素っ頓狂な声を上げた。
「あーっ、それ私の湯飲み!」
「確信犯だぜ」
「いやちょっと待ってくれ。つい手が伸びてしまったんだ」
その一言はないだろうに。
霊夢の鉄拳が飛んできたのは言うまでもない。
☆
長い階段。
長い長い階段。
上を見上げると、ずっと先に真っ赤な鳥居が小さく見えた。
まだ幼い魔理沙にとってこの階段はまるで終わりがないように感じられる。
「魔理沙、疲れたの?」
ふるふると首を横に振って強情に疲れを隠そうとする。
だがさっきまで背負われていた体力が、そうそう保つものではない。
足が重くなり、一段一段を上がるスピードが落ちてくる。
動きも全体的に緩慢となり、終いにはへたり込んで動けなくなってしまった。
「ほら、またおぶってあげるから」
しかし魔理沙が首を振る方向は横への一点張り。
一度ならず二度までも自身の弱さを認めるのがよほど癪なようだ。
「筋金入りの負けず嫌いですね」
「だろう?」
父親が浮かべているのは勿論苦笑だ。
まだ五歳にも満たないというのに弱さを見せまいとしている。
「もしかして将来は妖怪と肩を並べるほどの力を身につけたりして」
「さて、どうだろうね。何か切っ掛けがあればそんな未来も考えられるが」
「切っ掛けですか。それはこの階段を上った先にあるとか?」
霖之助が父親に視線を向けるが、その顔は微笑を湛えたままで真意を読み取ることはできない。
後ろを見ると、やむなく観念した魔理沙が母親に背負われてこちらに登ってくるのが見えた。
階段を上りきった先。
そこにはそれほど大きくはないが存在感のある神社が建っていた。
その境内を竹箒で掃除する巫女が一人。
霧雨一家と霖之助が上がってきたのを確認すると、たおやかに一礼して挨拶をした。
「あら霧雨のご家族に霖之助さん。お揃いで散歩ですか?」
この女性はここ博麗神社の巫女である。
霧雨夫婦とも霖之助とも面識があるが、何分神社が人里から離れているため会う機会は少ない。
「いえ今日はうちの娘の挨拶回りの為に」
「僕はその付き添いです」
「そうですか……あら霊夢? どうしたの」
話をしている途中、巫女は本堂の扉からこちらを見ていた存在に気付き話しかけた。
声を掛けられると隠れていたその影は建物の中に引っ込んでしまった。
「もう、たまに人が来るといつもああなんだから」
巫女は腰に手を当て、困ったように溜息をついた。
「霊夢、お客さんが来ているのに失礼でしょう」
「娘さんですか。うちの魔理沙と同じくらいかしら」
「えぇ。遊び相手になれば良いんですけどなにせあの通り、人見知りが激しい性格ですから。
……こんなところで立ち話もなんでしょう、母屋の方へいらしてくださいな」
促されて夫婦と霖之助はその後に従う。
だがその途中、魔理沙は母親の背から降りると一人離れてしまった。
「あ、こら。遠くまで行ったらダメよ。妖怪が出てきて食べられちゃうんだから」
魔理沙はわかったと頷くとパタパタと駆けていった。
☆
そのポプリの香りは神社の一角に植えてあるキンモクセイとは少し異なっている。
それは保存のために他のハーブ類と混ぜて熟成させてあるからというのも勿論だが、
それ以上に懐かしさを感じる香りなのだ。
「霖之助さん。いったいこれは何なの?」
「少しは自分で思い出す努力をしたらどうだい」
「あら一言が切っ掛けで全部思い出すかもしれないでしょ」
どうやら霊夢は霖之助が教えないと考えないようだ。
魔理沙は考えてはいるが、思い出せないようで頭を掻いている。
「その程度のことでしかなかったということかい」
「そうね。そうなんでしょう」
あっさりと諦めてしまう霊夢に霖之助も呆れざるを得ない。
人間はもっと思い出を大切にするものだと思っていたがどうやらそうでもないらしい。
「まあ今すぐ必要でもないだろうし、思い出さないといけないことでもない」
「なら必要ないぜ」
魔理沙もいつまで経っても思い出せないからさじを投げたようだ。
霊夢はポプリの入った小瓶の蓋を閉めると元の位置に座った。
「お茶が美味しい。それだけで充分ね」
「そうだな。今はそれだけで良い」
二人はそう言うと揃って湯飲みに口を付ける。
霖之助の分は勿論出されてはいない。
☆
神社の端に咲くキンモクセイ。
その一帯には甘い香りが漂い、この世ならざる世界を作り出している。
霊夢はそこに隠れて客が帰るのを待っていた。
母親はもっと人を知れと言うが、霊夢はそんな必要はないと思っている。
どうせ人里とは離れたこの地で生き続けなければならないのに。
「何してるの」
「誰よ」
霊夢は話しかけてきた見慣れない相手に尋ねた。
自分と同じくらいの年頃だろうか。
背も似たり寄ったりで、大きく違うと言えば相手の髪の色が金髪ということくらい。
「お母さんが呼んでたよ」
「いいの。どうせ関係ないんだし」
関係ない。
どうせ帰ってしまったらそれまでだ。
何か用事があるときだけやってきてお願いするだけして帰って行く。
「あんただって帰ってそれっきりなんでしょ」
霊夢には友達がいなかった。
できるはずもないし、できる機会があっても作らない。
いたらいたで、会いたくても会えないと辛いのは自分自身だからだ。
「ね、遊ぼ」
「いやよ」
霊夢はツンとそっぽを向ける。
この子はきっと郷に帰れば友達がいる。
自分と違って会いたいときに会える友達がいる。
「ねー、遊ぼうよー」
「いやったらいやっ!」
霊夢の怒声に魔理沙も流石に遠慮したのかそれ以上の催促はしなくなった。
代わりにこんな言葉を掛けてきたが。
「なんで?」
そんなの決まってる。
遊んだら友達になってしまうからだ。
そうしたら寂しくて辛い日々が待っている。
「……もう会わないもの」
今までやってきた子供達がそうだったように、この子だって。
「私、きりさめまりさ」
突然自分の名前を名乗り出す少女に霊夢は目をぱちくりさせる。
人の話を聞いていなかったのか。
「名前は?」
今度はこっちの名前を聞いてきた。
完全にペースを自分のものにしようとしている。
それともそれが素なのか。
どっちにしても困惑させられてしまうタイプであることに変わりはない。
「れいむ。はくれいれいむよ」
「れいむ、遊ぼうっ」
またそれかと霊夢は溜息をつく。
どうあっても遊びに付き合わない限り引き下がりはしないようだ。
「こんな所で隠れ鬼でもしてるのかい?」
そこへまた新しい者がやってきた。しかも大人だ。
「あ、こーりんも遊ぶぞ!」
「僕は香霖じゃない。それは店の名前だよ」
「そんなことより遊ぶのっ」
名前という記号ではあるが大切なものをそんなこと呼ばわりされ――しかも子供に――
霖之助は若干本気で落ち込んだようにうなだれた。
言った本人はまったく気にしていない、というか気付いてすらいない。
「れいむ、こーりん、遊ぶぞっ」
「仕方ないな。ほら君も」
霊夢の前に差し出された大きな手。
なかなかそこに自身の手を乗せることができない霊夢は、手を出したり引っ込めたりを繰り返す。
その手を小さな手が引っ張った。
「行くぞっ」
ぐいと引っ張られて境内へと連れてこられる霊夢。
魔理沙の強引さにしかめ面をしていても、心の中では正直に嬉しさを感じていた。
☆
「それじゃあ今日のところは帰るぜ」
秋の日はつるべ落としというが、最近日の入りが随分早くなった。
それに伴って暗くなってからの気温肌寒さを増す一方。
魔理沙は寒がりということもあり、日が沈めば帰るのが常となっている。
「それじゃあ僕もおいとまさせてもらうよ」
箒の軌跡が魔法の森へと向かったのを見送ると、霖之助も帰り支度を始めた。
とはいっても持ってきたのはあの小瓶だけなのでそれを包めば支度は終わりだ。
「ねぇ霖之助さん」
階段を下りようとする足を引き留めて霊夢は尋ねた。
「そのポプリ、少し分けてくれないかしら」
「別に構わないよ。あぁそういえば、これは瓶に入れておけば50年は保つらしい」
「ありがとう。すぐに何かに移しておくわ」
霊夢は手の中に渡された乾燥したキンモクセイをじっと見つめながら礼を言った。
そのとき霊夢がどんな想いを抱いていたのか、それは霖之助の知るところではない。
別に知りたいとも思わないし、知る必要もないだろう。
霖之助はもう一度別れの言葉を口にすると石段を下りていった。
☆
結局霊夢は流されるがままに魔理沙達と遊んでしまっていた。
すでに夕刻も近くなっており、遊びが終わったのは魔理沙の両親が魔理沙を呼びに来たときだった。
「それじゃあ、また機会があれば」
「えぇ、いつでもいらしてください」
母親がそう言って、次があった試しがない。
霊夢は母親の横で無表情に魔理沙達が帰って行くのを見つめていた。
手も振らず、ただじっと見つめるだけ。
その時魔理沙がふとこちらを振り返った。
「またなー」
ニカッと笑って大きく手を振る魔理沙。
また、それが叶うことはあるだろうか。
霊夢はそんなことを考えながら、いつの間にか手を振り返していた。
「良かったわね、霊夢」
見上げると母親が優しく微笑んでいた。
全てを見透かされているようで、霊夢は慌てて俯く。
だがその頬は桃色に染まっており、悦びを隠し切れてはいなかった。
彼女とはまた会える。そんな気がしてならなかったのだ。
確信ではない。なんとなくそう思っただけだが、その勘は信じて良いと霊夢は思った。
☆
博麗神社へと続く長い石段。
陽も落ちかけて足下が暗くなり、霖之助は転げ落ちないように一歩一歩を踏みしめながら下りていた。
その手には中身の減ったキンモクセイの小瓶。
それはかつて魔理沙からもらった品だった。
本人はとっくの昔に忘れてしまっていたようだが。
人間の記憶は忠実に残される物ではない。
歳月の経過と共に後からの情報の影響などによっていくらでも脚色される。
しかし大切な感情は必ず心のどこで風化せずに残り、ひょんなことを切っ掛けとし突如として思い出されるものだ。
「思い出は思い出して楽しむためのものではない。悲しんだり、悔やんだりするものでもない」
太陽が沈み、代わりに昇った月を見上げて霖之助は呟いた。
それを聞いているのは夜の森を吹き抜ける風だけだ。
「思い出は人の“今”を作り出す要素だ」
小瓶の蓋を開け中のポプリを手の平にのせる。
風に乗ってその香りは霖之助の鼻孔へと届く。
それは人によっては、秋の深まりを感じさせる風物詩の一つでしかないだろう。
だが別の人にとっては、それだけでは終わらないものかもしれない。
手の平の上のキンモクセイ。
霊夢と魔理沙がこの香りを嗅いでどんな感情を抱き、何を思い出したのか。
気になるところではあるがこちらから聞くような無粋な真似はしたりしない。むしろする必要がない。
突如、強い山風が吹き抜けその花びらをさらっていく。
しかし霖之助はそれに慌てもせず、何を思ったのか小瓶に残っていたポプリを全てその風に乗せて飛ばしてしまった。
そして何をすることもなく再び石段を下り始めた。
誰もいなくなった石段。
残されたのは撒き散らされた山吹色の花びらだけ。
また強い風が吹き、その欠片も何処かへと運ばれていった。
しかしそれで思い出が消えるわけではない。
思い出は、その階段を上った先に残っているのだから――
《終幕》
切ない