「ネタに困ったら氷精を探せ――なんて、自分でも安易かなとは思ったのですが……」
現場を収めたカメラを胸元に戻し、文は呆れ顔でつぶやく。
「本っ当――――にあなたは、期待を裏切らない人ですよねえ……」
「……ぅるさぃ」
足元に突っ伏しているのは、息も絶え絶えの氷精。
目の前に広がるのは、一面の鈴蘭畑。
また一つ記事が書けそうだ。
――◇―― ◇―― ◇◇―◇ ―◇――◇
自分は記者であり観測者なのだから、事実を記録こそすれ干渉はすまい。
そう心掛けているとはいえ、まあ限度はある。
死人の出る記事なんぞ書きたくもない。猫が毒ガスで死にかけているとなれば、箱を開けて助けてやってもいいと思うのだ。今日は猫じゃなくて妖精だけど。
「まったく……感謝してくださいよ? 私があの場にいなければどうなっていたことか」
「……助ける前に……散々撮りまくったくせに……」
「記者ですから」
鈴蘭畑が終わり、雑多な草々が生い茂る緑の一画。
そこまで戻ってきた文は、抱えていたチルノを適当に転がし、手帖とペンを取り出した。
「そうだなあ……『湖の氷精、鈴蘭畑に散ル!』……いやいや、見出しとしてはもっとこう……」
空気とにらめっこしながら、うーん、と唸る文。
その足元で普通に唸るチルノ。
「う~ん……花に毒があるなんて聞いてない~……」
「また一つ学習したんだからいいじゃないですか。鈴蘭畑で転げ回ったりするとこういうことになる、と」
「せっかく新しい遊び場を見つけたと思ったのに~……」
チルノはだらりと手足を伸ばした体勢で倒れたまま、手近な野草にぶちぶちと八つ当たりを始める。
「残念でしたね。でも鈴蘭の毒を抜きにしても、ここで遊ぶのは難があると思いますよ」
「へ? なんで?」
「ここにも、主がいますから」
さて、と文は手帖を閉じた。そろそろここを去らないと、花を荒らされたことに気付いた毒人形がコンパロコンパロしにやってくるかもしれない。
「後は戻ってから考えようっと。それじゃチルノさん、私はこれで――」
「待って~」
ぐわし。
飛び立とうとする文の脚に、チルノがソウルフルにすがりつく。
「おいてかないでぇ~……」
「これから原稿を書かないといけないのですよ。あなたを送り届けている暇はありません」
「はうぁぅ」
文はにべもない。
鈴蘭の毒など本来致命的なものではないし、この場で放っておけばそのうち消える。相手に深刻な別状がない限り、この天狗はやはり不干渉を貫くのである。単に煩わしいだけ、とも言うが。
「う~ん……鈴蘭が大ガマを持って追いかけてくる~」
遅効性の毒がいい感じに効いてきたらしく、チルノは口から脱魂しかけながら謎の寝言を吐く。
「――はぁ」
脚にしがみついたままずるずると雑草の海に沈んでゆくチルノを見下ろして、ため息を一つ。
今日はネタを提供してもらったことだし、これくらいのアフターケアはしてやるか――
「しょうがないですね。私の家で休んでもらいましょう」
「ああー、レティがレティが」
「ほら、そうと決まれば行きますよ」
「むぎゅ」
グロッキー氷精をむんずと掴み、天狗の少女は風を従えて帰路につく。
――◇―― ◇―― ◇◇―◇ ―◇――◇
外から見ると、文の家はわりかし大きくて立派である。
「はい、どうぞ」
「……なによこれ。変な匂い」
ただそれは、新聞の発行に必要な印刷室や資料室などを自前で抱えているからであって、生活空間自体は決して広くはない。
「ドクダミ茶ですよ」
「ドク? あんた、これ以上私に毒を飲ませてどうする気よ!」
それでも、一人暮らしであり、取材で家を空けることも多い文は不満に思うこともなく、
「違いますって。これは解毒の効用があるんですよ」
「ゲドク? よくわかんないけどやっぱり毒なのね!」
もとより新聞第一の生活をしているわけだから、文にとってはむしろ使い心地のいい家であった。
「ああもう、いいから飲みなさいっ」
「やだ、そんなの近付けないでぇっ! あ、熱いよぉ……!」
そんな、来客などこれっぽっちも想定していない文々ハウスであったが、運良くお茶だけはおあつらえ向きのものが見つかったので、お出しすることにしたのである。
「いつまでも毒マヒ状態でいたくはないでしょう? ささ、ぐーっと」
「いやぁ、らめぇ……し、死んじゃうよぉ……んぐっ、」
ぐびぐびぐび。
「ふぅ……やっと原稿に取りかかれるわ」
おもてなしも済んだので、とりあえず客人はベッドに投げ込んでおくことにした。
文は腕をぐるぐる回し、執筆用の机に向かう。
まずは記事に使う写真の選定だ。肌身離さず持っている手帖を取り出すと、昨日と今日で撮り溜めた写真があちこちのページに挟み込んである。それらを机の上に並べてゆく。
ようやく花を散らせ始めた、季節外れの桜。
夜雀の屋台の新メニュー。
体にいい体操。
鼻歌まじりに写真の一枚一枚をあらためながら、使えそうなものを選り分けてゆく。
そうして最後に手帖から出てきた数点の写真は、今しがた鈴蘭畑で取ってきたものだった。花に埋もれて無邪気に遊ぶ妖精が毒にノックアウトされるまでの様子が、連続写真に収められていた。
なんとなく、背後のベッドを振り返って見る。
「――――……」
灰色の正方形に英字と鴉をあしらった柄の布団にくるまり、チルノはそれなりに安らかな表情ですうすうと寝息を立てていた。
――寝顔なんて、初めて見たな。
文とチルノ。
なにかと顔を合わせることも多い二人だが、今まで文が見たことのあるチルノといえば、楽しそうにはしゃいでいるか痛い目にあってヘコんでいるかの二つに一つであった。
人騒がせな氷精の、可憐な寝姿。
息を飲むような、それはギャップだった。
ぼんやり眺める文の手が、傍らのカメラをそろそろと手繰り寄せる。記事になろうはずもない光景に、なぜか胸が高鳴る。チルノの澄んだ寝息だけが響く静寂の中、揺れるレンズをベッドに向け、シャッターを――
「。」
フィルムを使い切っていたことに、ようやく気付いた。
「……はぁ。なにやってるんでしょうね。私は……」
気の抜けた顔でカメラを置き、ベッドに背を向ける。静謐な寝顔とはある意味で正反対の、掛け値なしの笑顔が、机の上の写真の中で輝いていた。
これが妖精の本分なのだろう、と文は思う。遊び好きで悪戯好きな彼女らにとって、安らかな休息など文字どおりの一休みに過ぎまい。そこの氷精もじきに起き出せば、とっとと外に飛び出してまたなにか楽しいことを探しはじめるに決まっている。
「――さて、原稿原稿」
とりとめのない思考を打ち切り、文は握り締めたペンをインクに浸した。
『花の異変もようやく静まろうかという初夏の一日、博麗神社には桜を見納めようと、多くの――』
――◇―― ◇―― ◇◇―◇ ―◇――◇
「わぁ! ねえねえ、これなに? この変なの!」
ほらね。
と言うべきなのか。文の予想は、半分当たって半分外れた。
くーすか寝ること数時間、毒もすっかり抜けた様子で目覚めたチルノは、案の定すぐにまた楽しそうなことを探しはじめたのだ。
文の家で。
「ねえってば。なにこれ?」
「あー……、バルカンとかいう、外の世界で使われる弾幕発生装置の模型ですよ。その銀色の樽みたいな部分を背負って使うんだそうです」
「ふーん」
取材であちこちを訪ね回っていれば、情報以外にいろんな品物も集まってくる。古い物や特に貴重な品は資料室に保管してあるが、ちょっと気に入ったとかいずれ記事にするからといった理由で身の回りに置いてある物も少なくない。
文に劣らず好奇心の旺盛なチルノがそれらに反応しないはずもなく、猛然とガサ入れが進行する様を、何かを諦めた表情で文は眺めているのだった。
「さーて、この奥にはなにがあるのかなー」
見えてる見えてるチルノさん見えてますパンツがチルノさん水玉。
「はっけーん! ねえ、これは?」
「えっと、それも外の世界で弾幕ごっこに使われる鉄人形の模型ですよ。なんでも、人間の脳髄が贄として捧げられたいわくつきのものだとか」
「ふーん。外の奴らって、よっぽど弾幕ごっこが好きなのね」
「……そうかも、しれませんね」
不思議と、「帰れ」の一言は口から出てこなかった。
家に誰かがやってきて、お茶を飲んで、おしゃべりをする。そんなありふれたひとときこそが、思えば事件ばかりを追い続けてきた自分にとっての事件なのかもしれない。我が家がこんなに騒がしいのは初めてのことだった。
まあいいか。別に大した実害があるわけでもなし。
そんなことを考えながらチルノを眺めていると、今度は棚に置いてあった瓶を手に取り、なにやら眉根を寄せてラベルを睨んでいる。書かれている字が読めないらしい。
「んー……ゆめ……まる……?」
「胡蝶夢丸。ちょっと前に記事にしたんですけど……読んでませんか。読んでませんね」
読んでないチルノは物珍しそうに、瓶の中でじゃらじゃらと踊る紅い丸薬に見入っている。
「これって飴玉?」
「薬ですよ。飲むと楽しい夢が見られるというふれこみの。まあ、飴みたいに甘いのは確かですけど」
「ほんと? ねえねえ、ちょっと頂戴!」
瓶を抱き締めたチルノが、期待のまなざしで身を乗り出す。こいつは絶対に人の話の後半しか聞いてなかったと思う。
「構いませんけど……どうせならそれじゃなくて、隣のやつを飲んでみてくださいよ」
「隣?」
隣。
チルノが目を向けた棚には、手にしているものと同じ形の瓶がもう一つあった。中には黒い丸薬が詰まっていて、張られたラベルにその名が記されている。
胡蝶夢丸――ナイトメア。
「あんまりおいしそうな色じゃないけど……こっちは何味?」
「味は一緒ですよ」
その発想から離れてください。
「じゃあなにが違うのよ」
「黒い方は、飲んで寝ると悪夢を見るんだそうです」
「あくむぅ?」
素っ頓狂な声を上げて、チルノは顔をしかめた。
「そう悪夢。うなされるような怖い夢が見られるかもしれませんよ? どうですか、おひとつ」
「やだよそんなの。わざわざ嫌な夢を見たがる奴なんているわけないじゃない」
ごもっとも。
当たり前に考えて、誰も好き好んで悪夢を見ようなどとは思わない。
文の周りにいるエキセントリックな人妖たちも、安眠を求めるという点では意外にまっとうな価値観を持っており、胡蝶夢丸ナイトメアを飲んだという物好きにはいまだお目にかかっていなかった。
文自身は試してみたものの、記者が自分の見た夢を記事にするなど興冷めもいいところだ。この薬の効果は個人差が大きいと聞くし、他者の感想を一度聞いてみたいと思っていたのだが――
「嫌ですか」
「いや」
まあそうでしょうね、と一旦は引き下がる文。
しかしブン屋としての飽くなき探求心が、心の声で「作戦その二」とささやいた。
「……ふぅん」
「な、なによ。その目は」
「怖いのですか? ただの夢が」
「なっ――」
薄ら笑いを浮かべる文の台詞に、たちまちチルノの眉が吊り上がる。
「まあ、仮にも悪夢ですからね。お子様には刺激が強いかもしれませんねー」
聞いている方が恥ずかしくなるくらいの、あからさまな挑発。
しかしそんな餌にチルノ。
「ち、違うわよ! まずそうだから嫌だって言ったの! 夢なんか怖くもなんともないんだから!」
「へえ。じゃあ飲めるんですか? それ」
「あ、あったりまえよ!」
「無理はしなくてもいいんですよ。夜、一人でお手洗いに行けなくなったら困るでしょう?」
すぽーん。
返事代わりに、小気味良い音を立てて薬瓶の栓が抜けた。邪魔だとばかりにそれを放り投げたチルノは、瓶の中身と文を交互に目で威嚇する。
「ふんっ、上等じゃない。こんな薬いくらだって飲んでやるわよ」
啖呵とともに瓶が威勢よく傾けられ、黒い小さな丸薬がチルノの掌にざらざらとこぼれ落ちてゆく。
「あ、子供は一回に三粒――」
あもっ。
使用上の注意もどこへやら、悪夢の種はまとめてチルノの口の中に消えた。
「あ、ほんとだ。甘い……」
その薬とは思えぬ甘さにチルノは顔をほころばせかけたが、すぐに勝ち誇った表情に戻って文を見返す。
「どう? ちゃんと飲んだわよ。これで文句ないでしょ!」
「え、ええ。しかと見ました」
思惑どおりに事が運びながらも、文は思わずたじろいだ。先程ちらりと見咎めたチルノの掌には十個近い丸薬が乗っていたと思うのだが――
「……ま、いいか。別に毒じゃないし」
「なんか言った?」
「あ、いえいえ。なんでもありませんよ」
とにかくモノは飲ませた。あとは密着取材あるのみである。
文は穏やかな口調に戻って切り出した。
「ところでチルノさん。もう暗くなってきましたし、今日はここに泊まっていきませんか?」
――◇―― ◇―― ◇◇―◇ ―◇――◇
いつもよりは、手間をかけたと思う。
「はい、できましたよ」
「めしだめしだー! おなかすいたー」
使い慣れた卓袱台を、初めて、小さいなと思った。
「氷精はありがたいですね。こんなによく冷えたお酒は久しぶりですよ」
「ふふん、これくらい楽勝よ。ねえねえ、私も飲みたい」
「いいですよ。……えっと、お猪口が一つしかないので、これを」
三本あったお銚子の一本が粉々に召されたことは、気にすまい。
「チルノさん、起きてますか?」
「……んー……」
「ベッドを使って構いませんよ。私はまだ原稿がありますし、畳の上で寝ますから」
「……んー……」
そして今は、かすかな寝息。
わずかに赤みが差したチルノの寝顔を見ていると、胡蝶夢丸を飲んだことなど忘れているのではないかと思えてくる。
――いや、忘れていたのは自分の方か。
自分以外の誰かのために料理を作り、一つの盃で酒を飲み交わしている間、チルノをここに引き止めた当初の目的など頭になかった。少し箸が大きすぎるかな、とか、蓮根は嫌いなのかな、とか、そんなことばかり考えていたのだ。
胡蝶夢丸の効果をこの目で確かめること。それが目的だったはずだ。
――そこまでして知りたかったのかな、私は。
チルノを焚きつけた自分と今の自分が、なんだか乖離しているように感じる。どうも彼女の寝顔を見ていると思考がまとまらない。
――やめ。
たかが夢、今更なにを考えても仕方がない。
自分が胡蝶夢丸を試したときに見たのも、悪夢というよりはただの風変わりな夢だった。彼女だって起き出せばきっと「これが悪夢? 大したことないわね!」なんて言って胸を張るのだ。
ねえチルノさん。
「……んっ……」
そのチルノの眉が、ぴくりと動いた。
――◇―― ◇―― ◇◇―◇ ―◇――◇
湖の上を、飛んでいる。
濃い霧が立ち込める湖の上を。
どこからか、声が聞こえる。
霧のカーテンに阻まれて、位置も距離も判然としない。
『誰かいるのー?』
呼びかけても返事は返ってこない。
あてもなくさまよい飛ぶうちに、声は次第にはっきりと聞こえてくる。
大勢の妖精がはしゃいで笑いあう声。
『ねえ』
霧の向こうに浮かぶ、いくつものシルエット。
こちらに気付いた様子は、まだない。
『私も』
近付いてゆく。
最後の霧をかきわけて、互いに姿を見せた。
『入れて』
…………っ!
妖精達が一斉にこちらを向く。
その顔に浮かぶのは、一様に恐怖。
『……え?』
――、――――!
皆が皆、幻想郷で一番恐ろしい妖怪にでも出くわしたかのように怯え、後ずさる。
『待ってよ。私はなにも』
困惑しながら、近くにいた一人の妖精の肩に手を伸ばす。
――びき。
恐怖のまなざしで身を縮めたその妖精は、不気味な音と共にそのままの姿で氷に包まれた。
――――!!
ぱきぱきとひびが入り、崩れはじめる妖精を中心に、恐慌が爆発した。
妖精たちは金縛りから解けたようにきびすを返し、散り散りに逃げ始める。
『待って、待ってよ。私、そんなつもりじゃ――』
二人。
三人。
なおも追えば追っただけ、目の前の妖精は次々と凍りつき、四散してゆく。
――気が付けば、周りにはもう誰もいなかった。
『……どうしよう……』
水面に浮かび、あるいは沈んでゆく氷と妖精の断片を見下ろしながら、途方に暮れる。
やがて、その水面までもが、めきめきと音を立てて凍り始めた。
『あっ』
爪先が、氷に捕らわれた。
飛んで逃げようとしたが、抜け出せない。
それどころか、氷はますます脚にまとわりつき、自由を奪ってゆく。
『誰か、誰か助けて』
呼びかけても返事は返ってこない。
氷は下半身から胸に達し、身動きもままならなくなる。
やがて、みしり、という音が、体の内と外から同時に響いた。
『――――っ』
見たくない。
怖い。
それでも、見てしまった。
――水面に浮かぶ、自分の足首を。
『ひっ』
崩壊は止まらない。
氷は首から下を覆い尽くし、ひびはそれを追いかけるように体を駆け上がる。
脚はすっかり崩れ落ちた。
後を追って両腕が。
下腹が。
そして、
心臓、
『――――やっ、』
――◇―― ◇―― ◇◇―◇ ―◇――◇
「やあああぁあぁぁ――――――っ!!
「チルノさん、チルノさんっ!」
様子をおかしく思い、起こそうと揺さぶっていたチルノの体が、絶叫と共に跳ね起きた。
「……ひっ……ぁ……!」
声とも息ともつかぬ乾いた音が、半開きの口から漏れる。その両目は限界まで見開かれ、焦点がまるで合っていない。
「チルノさん、大丈夫ですか?」
「ふ……ぇ? ……ぁ……えっ……?」
文の声がまるで聞こえていないようだ。
恐る恐るといった様子で、なにやら自分の両手を凝視したり、体中をぺたぺたと触ったりしている。
「チルノさん」
「――ひっ!?」
もう一度呼びかけながら肩に手を置くと、チルノは焼きゴテでも当てられたように身をすくめた。
ぐらぐらと定まらない首がゆっくりと回り、ベッドの脇にしゃがみこむ文を向く。
「夢だったんですよ。もう大丈夫です」
「……あ、ぁ」
ようやくチルノの目が焦点を結び、文の視線と混ざり合う。
「――あ、」
それが、口火だった。
「ねえ、チル――」
「うああぁあぁぁあぁん!」
チルノは泣いた。
泣いて文にしがみつき、胸に顔をうずめて猛然と泣いた。
「えっ? ちょっ、あの、」
「ひぅっ……寒い……寒いよぉ……!」
――寒い?
氷精の口からそんな言葉を聞くとは思わなかった。
しかし、胸の中でがたがた震えながら嗚咽を漏らすチルノを見て、困惑しながらも文は確信する。
この子は、自分などとは比べものにならない、正気を失うほどの、本物の悪夢を見たのだと。
――自分がそうさせたのだと。
「ふ……ぇ……、ふぇぇ……」
くぐもった呻き声が、押しつけられた頭から胸に直接響く。
服を染み通った涙の、濡れた感触。
好奇心が、罪悪感で塗りつぶされた。
「…………っ」
震える腕を、チルノの背中に回す。
「――――さい」
抱きしめた。自分の体温をありったけ注ぎ込むように。
「ごめんなさい。ごめんなさいチルノさん……」
――ごめんなさい閻魔様。
記事が事件を生むこともあるのだと、かの裁判長にかつて戒められたことを思い出す。それからはペンの力を良い方向に向けようと決意したことも。
その自分が、記事のネタ欲しさに被害者を作ってどうするのだ。
「ごめんなさい――」
頭の中で散々に自分を殴りながらしばらくチルノの背中をさすっていると、伝わる震えは次第に治まってくる。
「チルノさん、少しは落ち着きましたか?」
「……ふぅっ……ん…………」
胸に密着した頭が、しゃくり上げながらもわずかに頷いた。
「そうだ、お茶でも飲めば少しは気分が――」
「――っ」
すごい力だった。
立ち上がりかけた文の体に、チルノが必死の表情ですがりついていた。驚くほど軽い氷精の上半身が、文に引っ張られてベッドから浮く。
「チルノさん――?」
「……やだ」
絞り出すような声が、すぐ耳元で響く。
「お願い、ここにいて……。一人はやだよ……」
「……、わかりました」
そっと腰を落としてチルノをベッドに戻し、べそをかいて見上げる顔に手を添えた。
「このまま休みましょう。私も一緒に寝ますから、ね?」
「……うん。あっ――」
再びチルノを抱え上げて、今度は自分もベッドに入る。
氷精の頼りない体温に暖められた布団に、しっかりと抱き合ったまま一緒に横たわった。
「ほら、これでもう寒くないでしょう?」
「……ん……」
枕ではなく、文の懐に頭を預けるチルノ。
そのチルノが苦しくない程度に、軽く毛布をかけてやる。
「眠れそうですか?」
毛布越しに背中をぽんぽんと叩きながら問いかけると、ぶる、とわずかな身震いが返ってきた。
「寝るの、怖い……」
窓から差し込む月光に、チルノの目尻や頬がきらきらと光る。
チルノがどれだけ恐ろしい夢を見たのか、文には知るよしもない。
ただ思った――私が止めなければ。
この涙は、私が。
「ひゃんっ?」
気付けば、チルノの顔に口を寄せていた。
舌をそろりと伸ばし、溢れる雫を舐め取ってゆく。
「ん……」
「や、くすぐった……ぁん……」
突然のことにチルノは一瞬肩を強張らせたが、やがてその行為に無言で身を任せる。
氷精の涙は、少し冷たい気がした。
「大丈夫ですよ。チルノさん」
最後にチルノの目尻を指で拭い、後ろ髪を撫でながら、ささやく。
「怖い夢は、私が責任を持って追い返しますから」
「――――」
寂しさと、恐れと、戸惑い。
それらがない混ぜになって表情を失っていたチルノの顔に、数時間ぶりの笑みが兆した。
「――えへ」
目を細めたチルノの、まだ涙の跡の残る顔が、まっすぐ文に近付き、
「え」
触れた。
「――お、おやすみっ」
文が状況を理解する間もなくチルノは身を引き、岩影に逃げ込むオタマジャクシのように、文の胸元に顔を潜り込ませた。
「――――……」
今度は、我を失うのは文の方だった。
唇に手をやりながら胸元のチルノを惚けた顔で見つめ、
「……わ、わぁ」
遅れに遅れて事態を察した。
チルノを抱いているのでなければ、ベッドの上でのたうち回るところだった。
――それから一時間。
チルノと抱き合った姿勢で固まったまま、文はまだ眠れなかった。
「うぅ……眠れないよぅ……」
変な方向に冴えてしまった頭が、事の発端を思い出す。
胡蝶夢丸ナイトメア。
これは、もしかして、自分が悪夢を見るために飲む薬ではなく――
――◇―― ◇―― ◇◇―◇ ―◇――◇
『……師匠、起きてますか?』
「ウドンゲ? いいわよ。入ってらっしゃい」
「失礼します……」
「どうしたの? こんな時間に」
「す、すみません。実は……その、……あぅ……」
「ふふ、恥ずかしがらなくてもいいのよ。怖い夢を見たのね?」
「――えっ? ど、どうして……」
「わかるわよ。可愛い弟子のことだもの」
「師匠……!」
「さあ、いつまでもそんなところにいないで、こっちにいらっしゃい」
「はいっ……! あはっ、師匠……あったかい…………」
うふふふふふいい出来ね。姫には効かないのが惜しいところだけど。
「師匠、なにか言いましたか?」
「なんでもないのよー」
――◇―― ◇―― ◇◇―◇ ―◇――◇
結局、空が白み始めるまで文は眠れなかった。
だからもちろん、雀が朝の合唱を終え、鴉がやれやれ今朝は配達は無しかと溜め息をつき、氷精が活動を始める時分になっても文は眠っていた。それはもう緩みきった顔ですやすやと。
「……おーい」
ゆさゆさ。
「…………」
「朝だよー」
つんつん。
「…………ん……」
「起きてよー」
ぺちぺち。
「――ふ、ぁ――?」
眠気に錆びついた瞼がわずかに持ち上がり、文の半分溶けたような瞳が、覗き込むチルノを見上げた。
「あ、やっと起き……た?」
「んー」
寝てるんだか起きてるんだか判らない寝返りをもそりと打ち、文はベッド脇のチルノと向かい合う。
「ねえ」
「……ん」
「起きてる?」
ぴたぴた。
痺れを切らしたチルノが、文の頬を軽く叩く。
「…………」
文は半開きの目でその手をじっと見つめ、
「ん……チル……」
ゆるりと両腕を伸ばしてその手を包み込むように掴み、
「――――あむっ」
「ひにゃあっ!?」
口に含んだ。
「ちょ、ちょっと……ひゃ、 なにしてんのよっ!?」
「うふふふ……チルノさんてば、まだ足りないんですかぁ? じゃあもう一回だけ……」
チルノにはまるで理解不能な話をぶつぶつと口走りながら、根元までくわえた二本の指をちゅるちゅるぺろぺろはむはむはむ。
「はわ、はわわわわ」
「んー。ちょっと冷たくておいひー」
そりゃあここまでされれば、文が寝ぼけているのはチルノにだってわかる。
「あーもー起きろ――ーっ!!」
「んふ。よーく濡らしンむぅっ!?」
きーん、と。
文字通り夢見心地でチルノの細指を堪能していた文の頭を、冷たい痺れが突き抜ける。
業を煮やしたチルノが、口中で弄ばれている指の表面に霜を発生させたのだった。
「あ……」
ちゅぽん。
モーニングアイスチルノのワンショットでようやく目を覚ました文が、よだれで糸を引く指に釣り上げられるように上体を起こす。
「……あれ?」
枕元でなにやらこちらを警戒するチルノを見て、目をぱちくり。
「チルノさん、いつの間に服なんか着……」
「………」
「て………」
「……………」
「………………、」
――夢。
ぼんっ、と音がしそうな勢いで文の顔が赤く染まった。
「ああぁあぁあぁゎ」
とても顔を合わせていられず、文はチルノに背を向け、ベッドの上で頭を抱えながら身悶える。
「わ、わわ、私ったら、私ったら……」
胡蝶夢丸もなしに、なんという夢を。
ごめんなさいチルノさんごめんなさい閻魔様。
「あー……、あのさ」
すっかりおいてけぼりを食っていたチルノが、ぽつりと言った。
「私、帰るね」
「――えっ? あ……」
我に返った文が振り向くと同時に、チルノは背を向けていた。
なんだかいつもより小さく見えるその背中が、一歩また一歩と遠くなる。
――嫌われちゃったかな。
それも自業自得というものだろう。泣かせるようなことをしてしまったのだから。
昨夜のチルノの精神状態を思い返せば、寝る直前の「あの行動」とて混乱の延長に過ぎなかったのかもしれない。
ともあれ、お互いがしっかりと目を覚ましている今、もう一度ちゃんと謝っておくべきだと文は思った。
「……あの、チルノさん」
呼びかけた背中が、立ち止まる。
文はベッドのシーツに目を落としながら、詫びの言葉を繋ぐ。
「その、昨日のことは、本当に――」
「ねえ文」
「――――、はい?」
不意に名前を呼ばれ、間の抜けた返事で顔を上げると、おずおずといった様子で振り向くチルノと目が合った。
「あのね」
「は、はい」
その顔が、少し怒ったようにうつむき、
「……また来てもいい?」
ちら、と文を見た。
「もちろんでへぶっ!?」
「わぁっ!?」
ばね仕掛けのように身を乗り出した文が、ベッドから落っこちて床と壮絶なキスをした。
思わず飛び退くチルノ。
「あ、文? ……大丈夫?」
「…………ふっ」
モーニング床の一撃もなんのその。
文は即座に身を起こし、笑ってチルノに親指を立てる。
「え、えっと……それでその、また来てもいいの?」
「もちろんですとも。大歓迎です」
「また楽しい話、聞かせてくれる?」
「喉が潰れるまで語りましょう」
「一緒にごはん食べてくれる?」
「天狗料理のフルコースを振る舞います」
「あ、でもあの薬はもうやだな」
「燃やして埋めときます」
「一緒に寝てもいい?」
「ふ、ふ、ふつつかものですがつとめさせていただきます」
なぜか三つ指をついて深々とお辞儀する文。
「――えへ」
チルノは昨夜と同じ、安心したような笑みを浮かべてきびすを返し、
「またね、文!」
そのまま、弾む足取りで出ていった。
――◇―― ◇―― ◇◇―◇ ―◇――◇
「…………あー」
チルノの背中を見送ったまま、床にぺたりと座り込んで放心すること数分間。
「――またね、あや」
しまった。
頭の中でオートリピートされていた台詞が、つい口から漏れた。
「…………」
文はぐるうりと首を回して背後のベッドを見やり、
「…………」
よっこらせ、とベッドの上に這い上がり、
「…………」
…………。
「きゃ――――――っ☆」
今度はチルノがいないので、安心してのたうち回った。
――◇―― ◇―― ◇◇―◇ ―◇――◇
――このまま、二度寝しちゃおうかな。
ひとしきりシーツを皺だらけにして気が済むと、急に睡魔が襲ってきた。
昨夜はろくに眠れていないのだから無理もない。
――ああ、でも。
このまま眠ったりしたら、あの夢の続きを見てしまうかもしれない。
――うーん、それはちょっと。
あれが悪夢かといえばまるっきりその逆なのだが、いくらなんでもチルノに対して申し訳が立たない。
――あ、そうだ。
胡蝶夢丸ナイトメア。
あれを飲んで眠れば、あんな業の深い夢を見ることもないだろう。
さっそく棚から瓶を取り出して、黒い丸薬を掌にあける。
懺悔の意味も含め、チルノにならって十粒ほどをぱくり。
――ちょっと怖いけど。
鬼が出るか蛇が出るか。
どんな悪夢も罰と思い、甘んじて受け入れよう。
――おやすみなさい。チルノさん。
「…………」
「……ん……」
「…………」
「う……ぁ…………」
「…………」
「……ああ、ぶたないで……チルノさん……もっとぶたないでぇ……」
むしろ業が深くなった。
~続く~
あやちるあやちるあやちる。
ごちそうさまでした。
目からうろこが落ちた
むぅ、妙に納得してしまいました。
えーりんならありうる……。
ヤヴェエヨー
ここだけ見るとそこはかとなく…!
チルノが少し好きになった。
文は元々好きだった。
って今脳内けーね先生が言ってた
この発想はなかったな
業が深すぎますよあなたwwwwwwwww
その発想は無かったわ
そして物凄く納得した
少しは自重し(ry
そしてえーりん師匠GJ
これが文チルの威力ッ…!!
百合最高だ…
オチがすとんとしていて、これ単体でも十分に面白かったです。