『ドクダミハザード3-ドクダミを、君に-』
「くっ! うぅっ! 魔理沙め……魔理沙めぇーっ!!」
スキマは生ゴミの臭いに満たされ、その心の傷を癒そうにも藍の尻尾の毛は刈り取られ……。
紫は行き場の無い怒りをどうすれば良いのか、その術を見つけられずにいた。
「藍……藍……」
揺り起こそうとするも藍のダメージは相当に酷いらしい、息苦しそうな様子で小さく肩を動かしている。
尻尾の毛は一本残らず丁寧に刈り取られている、紫はその尻尾を見るたびに不快感と悲しさがこみ上げた。
地面に両手をつき、肩を震わせてすすり泣くしかなかった。
「なんでなの……少し箒を折られたぐらい、なんだというの……こんな、こんな残酷な!!」
藍を修復しようにも、己自信の妖力があまり残っていない。もっとも、毛までは修復できない……というよりも、
「したくない」のだ、できないことはないのだが……。
「天然モノが一番に決まっているじゃないの!!」
誇り高きフェチの魂が許してくれないのだった。バカバカしい。
「んんーーーーっ!!」
胸の中に鬱積した限りない憎しみをどうにも処理できず、ついに紫は駄々っ子のように寝転がり、手足をバタつかせ始めた。
今までなんだって力づくで思いのままにしてきたのだ。霊夢をとっ捕まえて付け腋毛を強要したり、鈴仙の耳をもぎ取ったり。
紫の人生は薔薇色だったのだ、間違いなく……霧雨魔理沙はそれを脅かした存在。
「……」
しかし紫はそのままぐったりと動かなくなった。謎だらけの現実を改めて不気味に思ったのだ。
あの魔理沙は本当になんだったのだろうか、確かにあの子には資質があったわ、けれどこんな急に……疑問だった。
いじめ続けてそのプライドを刺激してやれば、きっと幻想郷最強の魔法使いになっていただろう。
そしてその力で幻想郷を守る者となり得たはずだが……というのは口実で、ただいじめていただけなのだが。
だってあの子、良い顔で泣くんだもの……霊夢が頭突きなどして泣かすのもわかるわ、と紫は思う。
だが当の本人はマゾヒスティックな快楽を得るようなアブノーマルではない。魔理沙にしてみればただただ迷惑である。
愛着のある箒はへし折られるわ、お気に入りの可愛らしいとんがり帽子は剥ぎ取られるわ、散々だ。
とはいえやはり、何故突然あんなに強くなったのか……キノコのお陰だとは魔理沙以外誰も知らない。
「どうしてやろうかしら……」
ふらふらと立ち上がった紫は、難しい顔をして腕組みをする。
あの魔理沙はもう力押しではどうにもならないだろう……橙まで揃って万全の体勢でもどうしようもあるまい。所詮猫の手である。
「考えるの……何か策はあるはず……んっ?」
紫はまた大きな魔力が近付いてくるのを感じた、だがそれは魔理沙のものとは違う。
紫の目にじわりと涙が浮かぶ。もう既にボロボロだというのに、まだ何か嫌なことが起こるに違いないと確信した。
「藍……藍ったら……!!」
不本意だが今は逃げるしかないと紫は判断し、藍を揺り起こそうとする……が、やはり目を覚ましてくれない。
あの魔力の大きさは魔理沙に勝るとも劣らない、いや、魔理沙よりもいくらか強大だ。
それだけではない、その脇にそれよりは小さいながらに強大な力を感じる。紫は知らないが前者が鈴仙、後者が永琳である。
「仕方ない……くぅぅっ、藍ったら結構重いのね、いつの間にこんなに成長して……」
完全に脱力した人間を抱き上げると重く感じるものらしい。
指先一つ動かさない藍の身体は、紫自身にダメージが残っていることもあってかなり重いものに感じられた。
全身あちこちの関節が軋みを上げ、紫の表情が苦悶に歪む。
「ふぅ、ふぅ……逃げましょう、とりあえず幽々子のところにでも……うっクサッ!!」
スキマを開いて逃げようとした瞬間、そこから凄まじい生ゴミ臭が溢れ出してきた。まるで辺りが茶色くなりそうなほどの悪臭。
紫は驚いて前方に藍を振り落としそうになり、咄嗟に受け止めようとした……しかし。
「んっ……あぁっ!?」
藍を受け止めようと出した手に激痛が走り、滑り落ちた藍にのしかかるような体勢で地面に叩きつけてしまった。
紫の体重移動により落下のダメージは倍加……藍は背中と後頭部を強かに打ちつけられ、苦しそうな呻き声を上げる。
「うぐぅぅっ!?」
一瞬大きく目を見開いて呻いた藍を見て、紫は両手で口を覆い……わなわなと震えながらあとずさった。
「いやぁぁぁっ!? 藍! ラァーン!! 許して!! けしてパワーボムをするつもりではなかったのぉぉぉっ!!」
白目を剥いて、それまで以上に瀕死になってしまった藍を抱きかかえて紫は懺悔する。
誰も紫を責めることはできない……彼女自身ぼろぼろだというのに、式神の藍を救おうとしたのは紛れもない事実なのだから。
それにしても、スキマに入ったものはどこかに飛んで行ってしまいそうなものなのに、魔理沙の持ってきた生ゴミはスキマを超越しているのだろうか。
嫌がらせとしては最大級の成功を収めたと言っても過言ではない。まさにスーパー生ゴミ。
「はっ……い、いけないこんなことをしている場合では……」
魔力の主はもうすぐ側に来ていた。既に夜の帳は下りていたが紫は妖怪なので夜目が利く。
「遠くの空に二人の少女……一人はさらさらロング、一人は極太一本ロング三つ編み……永遠亭の連中……?」
紫様が毛ばかり見ている。
一方の鈴仙もそんな紫の様子に気付く。赤い瞳と紫の瞳、それら二つの視線が妖しい光となって交錯した。
「師匠、発見されました」
「問題無いわ、別にコソコソする必要など無いのだから……早いところ捕まえて永遠亭へ戻りましょう」
「はい、お腹空きましたしね」
「ふふふふ……余裕ね」
鈴仙は魔理沙との一戦で自分自身の想像以上の力に驚くと同時に、大きな自信をつけていた。
遠くに見える紫は随分とボロボロのようだ。肌で感じられるその妖気も明らかに弱々しい。
これまでの流れからしても、あの紫をやったのは魔理沙であろう。魔理沙はごまかそうとしていたがそれ以外のケースは考えられない。
多少は永琳の協力があったとはいえ、ものの数発で魔理沙を圧倒した鈴仙はその実力関係の頂点に君臨していると言える。
余裕の一つや二つ口から出ても不思議なことではない。
かたや紫は恐怖に震える立場である。
「どうしたものかしら……」
表向きそこまで酷くは取り乱していないものの、状況は絶望的……臭いのを我慢してスキマを通るぐらいしか道は無い。
しかし、鈴仙達までもが魔理沙のように突然攻撃を仕掛けてくると決まったわけではない。
そういった希望的観測をしてしまうほどにスキマは生ゴミ臭かった、かなり通りたくなかった。藍にまで臭いが染み付きそうだし。
かつて鈴仙の耳をもぎ取ったときの記憶が紫の頭をよぎる……恨まれている可能性は十分にあった。
「悩んでいる時間なんて無いの……」
いっそこのまま運命に身を委ねてしまおうか……そんな情けない気持ちがじわじわと心に広がってきた。
永琳はもしかしたら助けに来てくれたのかもしれない……都合の良い展開を希望してしまう。
しかし以前鈴仙の耳をもぎ取ったときは、それが原因で大事件が起きた……例のドクダ巫女騒動、第一次ドクダミファンタジアである。
紫は両手で頭を抱えて葛藤した、臭いスキマを通るか、永琳のされるがままになるか……。
「ふぅ……ふぅ……」
意を決してスキマを開く……鈴仙の耳の一件以来、紫と永琳はあまり仲が良くなかった、助けてなんてくれるはずがない。
大方攫われて怪しい薬の実験台にされて終わりだ、自分が永琳ならそうする……藍の身も危ない。
こんなときは橙が居なくて良かったと思う、こんな状態で二人も連れて逃げるのはそう簡単なことではない。
「く、くさいわぁ……あの白黒ったら、何食べてるのよ……何が腐ったらこんな臭いがするのよぉぉぉ!!」
ただの生ゴミではなかった。
魔理沙は勿体無く思いつつもぬか床を混ぜたり、腐ってなくてもとんでもない悪臭を放つキノコを拾って、最強の生ゴミを生み出したのだ。
紫は恐怖した。嫌がらせには自信があったが、人間側にもこんな嫌がらせの天才が生まれ落ちていたとは。
「す、少し生ゴミを除去しないとまずいわコレ……ああ、でももうあんな側に……ら、藍っ!! お先にどうぞ!!」
「う、うぅっ……オエッ!?」
スキマを大きく開く気力すら残っておらず、無理矢理押し込んだ藍がその悪臭で嗚咽を漏らす。
きっと藍は今、とても臭い悪夢の中を彷徨い歩いていることだろう。
「し、しまった!! 耳がひっかかったわ!! 藍! 耳を折りたたみなさい!」
「う、うぇっ……っぷ」
「何してるのよ……」
「はっ!?」
万事休す八雲一家。後ろには呆れた様子の鈴仙が立っている。永琳は追いつけなかったらしく、まだ少し離れたところに居た。
どういう押し込み方をすれば耳だけ引っかかるのかわからないが、紫は器用に藍の耳だけをスキマのふちに引っかけていた。
耳が引っかかっている時点で肩が通らない気がするし、毛をむしられてなお幅をきかせる尻尾など確実に無理だろう。
「藍! 出てきなさい! んっ、んんーっ!! な、何故抜けないの!?」
「うっ、うっ……」
「このままでは藍の首が取れてしまうの!! 誰かっ……誰か助けてえぇぇぇっ!!」
「んもー……どきなさいよ……誰かって私しかいないじゃない……」
錯乱する紫を押しのけると、溜息をつきながら鈴仙はスキマの両端に手をかけた。
そのまま無遠慮に力を込めて、一気にスキマをこじ開けようとする。
「待って!! いきなり開くと危険よ……ひっ!? ドクダミ臭っ!!」
「失礼ね!! 人が手伝ってやろうって言うのに!! もう知らない、それっ!! うっ、くさっ!?」
注意を促すために鈴仙に近寄った紫はそのドクダミ臭でのけぞり、鈴仙はスキマから噴出した茶色い煙を顔にかぶってのけぞる。
二人とも鼻を押さえて屈みこみ、しばらく言葉を発することもできずに身震いしていた。
そんな二人を尻目に、なんとか頭の抜けた藍がずるりと滑り落ち、地面の上に力無く倒れこんだ。
「な、なにこの臭い……あんたこの中に死体でも捨てたんじゃないでしょうね!?」
「違うわよ!! スキマの中はいつもは花の様な香りがするの!! そういう貴女こそなんだというの、そのドクダミ臭!!」
「強くなるためには犠牲になるものが必要なのよ!!」
「ま、まさか貴女達……また私の霊夢をドクダミ漬けにするつもりじゃないでしょうね!!」
「違うもん!! 私達はあんたをドクダ……むぐっ!!」
「ウドンゲ……おしゃべりが過ぎるわ、仮にも私の弟子ならもう少し思慮深い言動を心がけなさい」
「む、むぐ……」
「八意永琳……」
永琳を見上げて紫が身構える。永琳は鈴仙の口を手で塞ぎながらにっこりと微笑んだ。
その笑顔は紫にとって不気味以外の何ものでもない、永夜の一件で対峙したときもこんな表情だった。
何か悪巧みをしている笑顔、悪者の顔である……やはり何かされる、予感は今確信になった。
永琳は笑顔こそ崩していないが、その目は徐々に温かみを失い、凍るような冷たい視線を紫へと投げかけている。
「八雲紫、ついて来なさい」
「……嫌よ」
「拒否権は無いのよ、残念ながら」
「私をドクダミ漬けにするつもりなのね?」
「ああもう、ウドンゲったら……」
「なのね?」
「ええ、そうよ」
計画がバレてしまったことに少し落胆した永琳は、眉間に手を当てて二、三度首を横に振った。後ろでは鈴仙が申し訳なさそうに正座している。
しかし眉間から手を離した永琳の表情から薄ら笑いは消えておらず、むしろ不気味さを増した表情で紫を見下した。
「そんなことをして何になるの? 私は霊夢のようにはならないわ」
「説明する必要は無いわ……ウドンゲ、やりなさい」
「はい」
「え……?」
鈴仙の目が赤く煌き、発射された狂気光線が紫の意識を叩き斬った。
もはや鈴仙の狂気の瞳は互いの視線を合わせる必要すらなく、頭のどこかに光線が入ればその意識を支配することができる。
紫は呆然と、苦しむ様子すら無く座り込んだまま……その目の色だけが、紫色から赤色へと変色した。
そして紫の身体はゆっくりと傾き、永琳の胸に優しく抱きとめられた。
「あははは……泣く子も黙る『神隠しの主犯』もお前の手にかかれば赤子同然ね」
「し、師匠のおかげですよ……」
「それじゃウドンゲ、お前は式神の方を連れてきて頂戴、永遠亭へ帰るわよ」
「はい、もう真っ暗です」
「そろそろ新しいDも補充されたところでしょう」
「丁度良い頃合ですね」
一切の不安から解き放たれたかのように安らかな顔で眠る紫。永琳はそんな紫を優しく胸に抱いて、
鈴仙も藍を背負ったのを確認すると、目を見合わせて頷いてから静かに空へと浮かび上がった。
宵闇と静寂の中で永琳の計画は着々と進行していく……。
ペタ……ペタ……ちゃぷん、ちゃぷん……。
真っ暗な永遠亭の廊下に、十八の真っ赤な瞳。
てゐを筆頭としたイナバドクダミ絞り隊である。工場で絞りに絞ったDを永琳の部屋へと運搬している。
その誰もが強烈なドクダミ臭を振りまき、その衣服はDに濡れて緑に染まっている。
一言も発することなく、ただただ任務を遂行する……全員、目の焦点が合っていない。
「はぁ……はぁ……」
最後尾に居たイナバが、苦しそうに胸を押さえて地面にしゃがみ込む。
両手に持っていたDを容器ごと廊下に落とす、そのイナバの足元に緑色の水溜りができた。
「はぁ……はぁっ……」
足を止め、そんなイナバを見下ろす十六の瞳……感情が無く、燃えるように真っ赤なのに冷たい視線。
しかし全員その顔が紅潮している……不健康な様子は一切見られない、その顔は妖艶にさえ映る。
「熱い……体が燃える……!!」
しゃがみ込んだイナバが苦しげに胸をかきむしった。
彼女らはDを直接経口投与されたわけではないが、あまりにも長時間触っていたためにじわじわとDの影響を受けていた。
イナバは倒れこみ、ひとしきりのた打ち回ったあと、仲間達に哀願するような眼差しを向けた。
「……ダメよ、これは永琳様の……あんたは自分で床にこぼしたそれでも舐めてなさい」
てゐはまるで機械のように冷たく、一定の調子で呟いた。
Dを飲むとこの疼きは一定時間治まる……溢れる魔力を収めるに相応しい健康体を与えてくれるのだ。
暴走状態に入ると魔力の制御ができなくなる、その魔力は熱となって身体を侵蝕し、全身に激しい疼きが現れる。
「お願いします……一口で良いから……」
「……」
「う、うぅ……」
理性と衝動の狭間、イナバは床に顔を近付け舌を延ばす。
ぶるぶると全身が震えている、こんなことをしてしまうのは愛らしいウサギ妖怪の尊厳に関わるのではないか……。
しかしこの熱っぽい身体を鎮めるためには、これを舐めるしかない。
「……恥ずかしいことじゃないわよ、お舐め」
「んぐっ!?」
見るに見かねたてゐが、恍惚の表情でそのイナバの頭を踏みつけ、床に押し付けた。
床にこぼれたDを永琳様のところへ持っていくわけには行かない、汚れた床を舐めて綺麗にしなさい。とでも言いたげに。
「ふ……うぅ……ぴちゃっ、ぴちゃっ」
「あはははは、良い眺め……」
後ろに居る他のイナバ達もクスクスと笑っている。
プライドをかなぐり捨てて床を舐めるイナバの顔は、嬉しそうにほころんでいた。もう後戻りは……できない……。
一見淫靡な風景だが、舐めているのはドクダミの青汁なので騙されてはいけない。
「あらあら……少し離れた間に随分作ったのね……助かるわ」
「はい、永琳様」
地下室へと戻ってきた永琳は満足そうにイナバ達をねぎらった。
(思ったとおり……良い顔だわ皆。メンバーを固定したのはやはり正解だった……)
思わず顔がにやける。これも永琳の計算のうちだったのだ。
口から直接注入するのはもっとも手っ取り早い手段だが、コスト的に優れた方法ではない。
永琳の開発したD用ドクダミは、その臭いだけで魔力を増強する。
最も力を入れて育てるべきは鈴仙とその他の捕まえてきた妖怪だが、それだけでは少々心許ない。
あの霊夢はそこらに生えている普通のドクダミも大きな霊力に変えてしまう、ドクダミに選ばれし者。
念には念を入れておかなければいけない、やりすぎということはないのだ。
「もうタンク三つ分も作ったなんて……今日の分は十分ね、休みたければ休んでも良いわよ」
休むはずなどない、とわかっていながらも永琳はそう言った。
「いえ……まだやれます」
「あらそう……それじゃよろしく頼むわね」
鈴仙の狂気の瞳が直撃したてゐはもちろんのこと、他の八名のイナバも既に全員正気を失っている。
Dのつまみ食い、青汁につまみ食いという表現はおかしいが、工場で多少手を付けているはずだ。
そうでなくては苦しくてやっていられないのだ、Dの連鎖は終わりを知らない。
つまみ食いをしてなお、これだけの生産効率ならば永琳に文句のあろうはずがない。
イナバ達は空になった容器を手に一礼すると、嬉々としてドクダミ工場へと戻っていった。
そして入れ替わりに、今度は鈴仙が地下室の階段を駆け下りてきた。
「ししょ~、八雲藍は拘束しておきましたよー」
「ご苦労様ウドンゲ……それじゃ、始めましょうか」
「こいつにも適性があれば良いんですけどね……」
「そうねぇ」
例によって手術台には紫が縛り付けられている。今までと違うのは一切の拘束をされていないことであろう。
鈴仙が側に居る限りそれは必要無いとの永琳の判断だった。
狂気の瞳で狂わせてしまえば無抵抗になるし、逆に鈴仙の力さえ及ばないような事態になったら拘束具など意味が無いのだ。
「D注入マスク、セット完了よ」
「了解しました、D注入開始します」
「ええ、お願い」
マスクを装着させるとき、赤い目で呆然と空中を眺めていた紫の顔が恐怖に引きつったように見えた。
しかし紫はとっくに正気を失っているはず、そんなのは気のせいだろうと永琳は己の目を否定した。
「D、口内に到達……」
「さて……適性があればお前とこいつだけで良さそうなものなのだけれど……」
「ごぼっ……」
紫は苦しそうな表情を浮かべつつも、Dをその胃へと収めていく。
ゴクンゴクンと喉が蠢くたびに紫の妖気がメキメキと上昇していく。魔理沙によってつけられた体中の傷もみるみる修復されていった。
「すごい……適性ありって事ですか?」
「いえ……もともと薬として見てもかなり優秀なのよこれ、臭いけど。だから失った分の妖力が補充されているに過ぎないわ」
「失った分って……やっぱりとてつもないですね、こいつ……」
「そうね……」
今更ながら自分がDを飲んでいなかったらとてもじゃないが捕まえてくることなど不可能だった、と鈴仙は実感する。
魔理沙の襲撃により傷付いた状態ではあったが……そもそもD鈴仙でなければ、魔理沙に完膚なきまでに叩きのめされていたはずだ。
「……妖力は取り戻したみたい、ここからが本番よ」
「ど、どうなるでしょうか……」
「さぁ……神のみぞ知る、ってところね」
ゴボ……ッ。
「ぐっ!! んぐぅっ!! ぶふっ!!」
「きょ、拒絶反応です!!」
「いけない……ウドンゲ!! すぐにマスクを外して!!」
紫は目を見開いて、両手で自分の首を強く締め付け始めた。まるでそれ以上のDの侵入を拒むかのように。
両足でドンドンと手術台を蹴り付けている。その力は凄まじく、手術台は大きく軋んで今にも崩れそうだった。
そして逆流したDが撒き散らされ、紫の衣服を緑色に染め上げる。
「んっ!! ぶはっ!! げほげほっ!!」
「ふぅ、ふぅ……」
「くっ……」
鈴仙はマスクを取り去り、暴れる紫に覆いかぶさって動きを封じた。紫は口からDを垂らしたまま苦しげに胸を上下させている。
一方永琳は実験の失敗に落胆して、眉間を押さえて目をそむけていた。
「八雲紫『D』不適合……」
「ふりだしね……」
握り締めた拳を、憎々しげに手術台に叩きつける永琳。
――まだ手駒が足りない。
霊夢に圧勝する、圧勝でなければならない……かつて霊夢が永琳を完全に圧倒したように。
鈴仙はおそらく良い勝負をするだろう、先ほどのイナバ九人を合わせれば勝算も無くはない。しかし完全ではない。
「師匠……仕方ありませんよ……まだたくさん妖怪はいますし、何度かやれば八雲紫もDに馴染むかもしれないし……」
「……」
「少し外に出て月でも眺めませんか? 根詰めすぎたんですよ、休みましょう……」
「そうね……」
確かにここのところそればかり考えて、ろくに休息を取っていなかった。
この子もこんな気配りができるようになったのね、とは思いつつも、心の中にはモヤモヤと暗雲が立ち込めている。
とにかく少し気分転換が必要であろう……永琳は鈴仙に手を引かれて地下室を後にした。
「八雲紫はどうしましょう……?」
「放っといても大丈夫よ……しばらくは正気にならないだろうし」
「それもそうですね、片付けは後にしましょうか」
自分が不甲斐ないから永琳にこんな気苦労をかけているんだろうか、と鈴仙は少し申し訳なくなった。
一休みしたらまたDを注入してもらおう……まだやれるはずだ、臭いから飲みたくないけど仕方がない。
鈴仙は永琳の手を引いて、庭に面した屋根の上へと飛んだ。
夜空には眩しいばかりの星、そして自分達の故郷である月が浮かんでいる。半月の時期だった。
秋の夜風が少し肌寒い、鈴仙は永琳の手を握ったままそっと身を寄せた。顔だけが熱くなった。
永琳は少し嬉しそうな鈴仙を神妙な面持ちで見つめている。
「あの、ウドンゲ……」
「あ、は、はい?」
「……ドクダミ臭いからあんまり近付かないで欲しいわ、慣れたから多少は平気だけど流石にゼロ距離は、ね……ごめんなさい」
「はっ!?」
鈴仙は驚いて飛び跳ね、少し距離を置いてから自分の服の袖をクンクンを嗅ぎ始めた。
しかし悲しきかな、完全に嗅覚麻痺を起こしている鈴仙は自分がどれだけドクダミ臭いかがわからない。
師匠を元気付けるためだったのに、臭い思いをさせてしまって……目に涙が浮かんだ。
「まぁDの効果だから仕方ないわよ……事が済んだら好きなだけ寄り添うが良いわ」
「は、はぁ……」
溜息を付く永琳を見て、鈴仙もがっくりと肩を落とした。
適度に距離をとって二人で並び、そんな悲しさなど知らないかのようにギラギラ輝く星を眺める。
こっちはこんなにモヤモヤしてるのに、なんだか厚かましい星々だ、と腹が立った。
しかしせっかく気分転換に来たのにだんまり決め込むのでは意味が無い、鈴仙は半月を見て昔聞いた話を思い出した。
「ししょー。姫から聞いた、地上の童話なんですけどね」
「ん?」
「師匠も知ってると思いますけど、知らないふりして聞いてくれますか?」
「ん? 何の話かしら?」
「月が二つあるって話なんですよ」
(ああ、その話……)
もちろん博学な永琳はそれを知っていた。
しかしながら、頭が良すぎるとかえってそういう話の裏側ばかり見えてしまうものだ。
その話が伝えようとしている教訓、子供向けに残酷描写を捻じ曲げた、話の前後に整合性の無い不自然な童話。
永琳自身も幼い頃にいくつもの童話を聞かされたものだが、時折話の中に大人の意思が覗けるときがあって、その度に興醒めしたものだ。
だが鈴仙が自分を元気付けようと話してくれている、その心遣いは受け取るべきだろう。
永琳は知らないふりを装い……だからといって大袈裟に驚いたりするつもりもないが、静かに聞いてやろうと思った。
「明るい月と暗い月、二つの月があるんですよ」
「……どういう理屈なのかしら?」
「はい、月も一つじゃ大変なんですって……だから、明るい方の月を定期的に暗い月が隠して、休ませてあげるって話です」
「……じゃあ、今は暗い月が明るい月を休ませようとしているってことね」
「ええ……良い話ですよね」
「そうね……」
鈴仙が再び永琳に身を寄せ、そっと永琳の腕を抱きしめた。
「私も、修行して師匠と肩並べて……師匠を休ませてあげたいです……」
(やっぱりドクダミ臭いわ……霊夢が横に居るみたい……)
可愛い弟子をドクダミ漬けにしてしまった己の業……それは輝夜に蓬莱の薬を作っておきながら、自分だけ無実で済んでしまったときのことを思い出させた。
良い話のはずなのに、嫌な記憶ばかりが蘇る。永琳の目からとめどなく涙が流れた。
だが鈴仙の思いやりを無駄にすることは許されない、それこそ己が背負った業。
(あ、師匠……臭い気にならないのかな……感動してくれた? じゃ、もう少し……)
(目ぇ、目ぇに染みるわ!! キッツ!!)
涙が溢れてたのは臭いのせいだった。
さらに密着する鈴仙と永琳。永琳の鼻に突き刺さる強烈なドクダミ臭が、恐怖の記憶をも呼び起こす。
――あんた心の奥底で、どこか私を恐れているわ。
――このドクダミの戦いに、弾幕など不要ということよ!! 物言うは、肉体とドクダミのみ!!
――きっと健康に良いわよ、まぁ何かあっても責任は取らないけど。
――さー博麗神社特製の素晴らしいドクダミ茶よ~、残さず飲んでね。
――えぇぇぇぇいぃぃぃぃりぃぃぃぃん!!
その顔一杯に恐怖を湛えて永琳は大きく目を見開き、叫んだ。
「いやぁぁぁぁぁっ!! 空が落ちてくるぅぅぅぅ!!」
「し、師匠!?」
鈴仙の腕を振り払い、永琳は頭を抱えて苦しみ始めた。ドクダ巫女のトラウマによる発作。かくも傷は深かったのだ。
そうとも知らず鈴仙は本当に空が落ちてくるのかと思い、頬を赤らめたままで夜空を見上げた。
「あ、ししょー! 流れ星……ん? 流れ星にしてはマンガ星……すごい数、本当に空が落ちて……」
夜空を見上げる鈴仙の表情が徐々に曇っていく……大量のマンガ星が空から降ってくる……。
かすかに叫び声が聞こえてくるような……。
「出て来い鈴仙んんん!! でないとぉぉ……鼻が疼くだろうがぁぁぁ!!」
第二の復讐者、霧雨魔理沙の出現は唐突だった。喉がはちきれそうな大声で怒り狂っている。
キノコを撫でるだけ撫でて霧雨キノコ発電所の発電量は過去最大だ。
なにせあのときから今まで、一秒たりとも休まずにキノコを撫で続けていたのだ。
「超高高度からのスペル攻撃……これはスターダスト……いや、イベントホライズン!? し、師匠!! 魔理沙が!!」
「キャン、ディ……」
師匠はイっちゃっていた。
「あぁぁぁぁもぉぉぉぉ!! こんなときにぃぃぃぃぃ!!」
せっかく憧れの師匠と良いムードだったのにぶち壊しにされた。鈴仙も怒り狂ってつやつやの髪をかきむしる。
真っ赤な目がさらに赤く燃え上がった、周辺では魔理沙の放ったマンガ星が紫電を纏って着弾、永遠亭の屋根あちらこちらに穴を空けていた。
鈴仙の側を一つの星がかすめ、その頬を一筋の赤い血が垂れる。血走った目、食いしばった歯、鈴仙の怒りも並々ではない。
師匠は隣で頭を抱えて震えている。魔理沙がそんなに怖いなんて……師匠をこんな状態にして……魔理沙を許さない。鈴仙は盛大に勘違いした。
「跡形もなく消し去ってやるんだから!!」
敵に回してはいけない者というのがいる。
例えば何度でも食って掛かってくる、執念深い霧雨魔理沙。
そして……。
神隠しの主犯、八雲紫……。
「ふ、ふふ……うふふふふ」
手術台の上で不気味に笑う声。がばっと上半身を起こした紫の目は、既に元の紫色に戻っている。
キョロキョロと辺りを見回して誰もいないことを確認すると、紫はさらに笑った。
「ふふ、あはははは、おバカさん……目の色の境界、赤と青の境界をいじっただけなのにまんまと騙されて……
おかげで回復したし侵入できたわ……泣く子も黙る『神隠しの主犯』侮ったわね……あの程度の狂気、何のこともないの」
紫はそっと耳に手を当てて、周囲から響く轟音を確かめる。
「これは……藍? ……いや藍ではないわね、藍の妖気とは違うし、まだ起きていないはずよ」
手術台から飛び降りて紫は腕組みをする。それにしてもけったいな研究をしているものだ、部屋を見回す紫の目は嫌悪感に満ちている。
ドクダミから抽出したエキスでドクダミ妖怪を増殖させようとは……永遠亭のウサギだけにしておいてほしいものだと思った。
「これは、魔理沙ね……くぅっ!!」
そしてこの魔力は、あの憎たらしい魔理沙のものだ。永遠亭を襲撃しているのはどういうことだろう。
紫自身は散々仕返しされたので、再び紫を追跡してこの永遠亭にちょっかいをかけたとは考えにくい。
となれば、おそらく八雲邸の襲撃を終えた後に鈴仙や永琳と一悶着あったのだろう。
魔理沙が帰った直後に永琳達が来たことも考えると、それほど不思議なことではない。
「幻想郷の危機じゃない? ねえ霊夢……」
確かに鈴仙と魔理沙の戦闘力はおかしなことになっているが、こんな個人的な争いが幻想郷の危機であるはずがない。
なのに勝手にそうこじつけた紫は、腕を組んだまま目を閉じてうんうんと大きく頷いた。
「さあ霊夢、再び手と手を取り合って幻想郷の危機に立ち向かいましょう……合わせて六重結界、うふふふふ」
自分自身が壮絶なまでにドクダミ臭くなっている紫は、スキマの生ゴミ臭をさして気にもかけず、中へと入っていった。
もちろんその目的地は博麗神社である。だがそのままの霊夢で奴らを倒せるかはわからない……。
「大丈夫なの霊夢、ドクダミ臭くたって……私もドクダミ臭いしね、うふっ」
やはり鈴仙の攻撃で若干狂っているらしいが、普段の挙動がアレなだけにわかりにくかった。
そして紫は、何らかの手段を講じて霊夢を再びドクダミ漬けにすることに決めたらしい。
「喧嘩両成敗よねえ……」
逃げろ霊夢!!
もちろんそんな願いは通じるわけもなく、事態は最悪の展開へ。
「すぅ……むにゃむにゃ……ぷっ、魔理沙何その格好……」
ミシ……ミシ……。
特にやることも無かった霊夢は既に床についていた。枕元には翌日袖を通す巫女服とお払い棒がちょこんと待機している。
霊夢が早寝というよりは、今永遠亭に居る連中の生活リズムがおかしいのだ。
もう日付は替わっている、その辺の規則正しさだけは巫女として立派なものなのかもしれない。
ミシ……ミシ……ミシ……。
「すぅ……むにゃむにゃ……レミリア、太陽の光大丈夫になったの……?」
「まぁ霊夢、寝言言いすぎよ……不自然なの」
「むにゃ……やめて紫、それだけは……」
「あら、夢に出演してしまったなんて光栄だわ」
「……汚された、洋風に……」
「どれどれ……あ、この服臭いから巫女服借りるわね」
浴びまくったDとスキマを通ったときに染み付いた生ゴミ臭が酷かったので、紫は無断で枕元の巫女服を装着し始めた。
「ん? なんだか複雑な構造ね……あらでも良い匂い、ちゃんと洗濯しちゃって……霊夢は乙女なの」
紫は藍にやらせているのでそう思うらしいが、別に霊夢でなくても普通は洗濯している。
まるで霊夢が目を覚ますことなどまったく恐れていないかのように、無遠慮に振舞う紫。
「腋がスースーするわ、よくこれで風邪ひかないわね霊夢」
「むにゃ……うっさい腋フェチ……」
「なっ!?」
思わず紫はあとずさって、酷く焦った様子で周囲を見回した。が、もちろん誰も居ない。
今霊夢の寝室に居るのは無防備に眠っている霊夢と、それを良いことに好き放題やってる紫だけである。
「ふぅ、びっくりしたわ……他に誰かいるのかと思ったじゃない、腋フェチな誰かが」
「すぅ……」
「もう、ややこしい寝言言うんだから……えいっ」
まるで母親のような優しい笑顔を浮かべて、霊夢の頬を指で突付く紫。
しかし単なる不法侵入者なので、その笑顔の優しさは全く逆ベクトルの気味悪さに変換される。かなり不気味な光景だ。
「さぁ行くわよ霊夢。幻想郷は私達が守るの、良いわね」
ミノムシのように布団に包まる霊夢、紫はその砦たる掛け布団を掴むと、乱暴にそれを引っ剥がした。
コマ回しよろしく、霊夢は空中で数度キリモミ状に回転した後、頭から床に突っ込んだ。
「んぎゃっ!?」
「あ、いけない、起こしてしまったわ」
「ぅぅ~……?」
霊夢は地面に手をついてのっそりと四つん這いになると、状況がつかめず緩慢な動作で周囲を見渡し、後頭部をぽりぽりとかいた。
目の前には自分が明日着るはずだった巫女服を着た変な奴がいる……。
「ん~? 紫何してるの……?」
「なんてこと霊夢……寝巻きまで腋丸出しなのね……貴女の美学、見事……!!」
どうでもいいことに何故か感動する紫。霊夢の寝巻きはやはり袖が胴の部分と分離して、肩と腋が露出していた。
一方霊夢は現実離れしたこの状況を見て、まだ夢の中にいる気分らしい。
特に紫を咎めるでもなく、不思議そうな面持ちでただ首を傾げるだけだった。
闇の中でギラギラと禍々しく輝く紫の視線と、とろんとした霊夢の視線。何も語らずただ見つめ合う時間が続く。
「はっ!?」
突然霊夢が飛び上がり、自分の腋に手を当てる。焦りの表情はすぐに安堵の表情で塗りつぶされた。
寝ている間に付け腋毛をやられたのかと思ったのだが、紫の目的はそれではないらしい。
しかし安堵の表情も束の間、すぐ直後に怒りの表情へと目まぐるしく変化した。
「何してんのよ紫!! ……ちょっと!! 服返してよ!!」
「あ、目が覚めたのね。ちょっと聞いて霊夢、このままだと幻想郷が大変なことになってしまうの」
「えっ……? 何事?」
永夜の一件のときもこんな感じだった。紫は突然来訪し、霊夢を叩き起こしたのだ。
あの時は勝手に服を着たりはしなかったけれど、紫の扱いに慣れている霊夢は多少の「おいた」は気にしなかった。
別に服ぐらい何着も替えがあるのだし、それよりも「幻想郷が大変なことになる」という言葉に敏感に反応した。
「このままだと魔理沙が幻想郷を滅ぼすわ!!」
「……バカじゃないのあんた?」
そういえば、そんなに大変なことなら藍だって連れてくるはずである。
そもそもなんで私の服着てるんだこいつ、この時点で確実にふざけてるじゃないか、と霊夢は思いなおした。
しかも脱ぎ捨ててある紫の服の方から異臭がする、生ゴミのような、ドクダミのような……。
「寝るわ、服は適当に洗って今度返してよね、あとそこの臭い物体はどこかに持って行ってよ……ぐぅ……」
「ね、寝るの早!! 霊夢ぅ~~……報酬あげるからぁ! ついてきてってば!!」
「すぅ……え、報酬?」
「ええ、はずむわよ」
「なにくれるのよ?」
「……付け腋毛……」
「……すぅ……地獄に落ちろ……」
「もぉぉぉぉぉぉ!!」
再び布団に包まった霊夢。紫が布団を引っ剥がそうにも、かなり強い力で巻き込んでおり上手くいかない。
もどかしくて仕方の無い紫は霊夢を跨いで思いっきり掛け布団を引っ張り上げたのだが、なんと布団もろともに霊夢が持ち上がって辟易した。
今、霊夢と掛け布団は凄まじい結合力によって一心同体と化しているのだ。
「すぅ、すぅ……」
「くぅぅぅっ!! 流石霊夢、凄まじい根性……一筋縄ではいかないわね。この掛け布団こそ貴女を守る結界!!」
そう、とてつもなく強固だった。難攻不落の無敵要塞さながらである。
持ち上がった霊夢を下ろすときに少し乱暴に落としたのだが、掛け布団がクッションとなり霊夢が目を覚ますことはなかった。
焦り気味に周囲を見回す紫、魔理沙が暴れている隙に霊夢にあのドクダミ液を飲ませないといけないのだ。一刻を争う。
「はっ……!」
紫の目に入ったもの、それは霊夢お気に入りのお払い棒……。
時には武器になり、時には盾になり、暇なときは一人チャンバラに興じたりと万能なステキ棒(ステッキ)だ。
「ブフッ!! さむっ!!」
紫は『ステキステッキ』という言葉を想像して思わず噴出すと、ステキステッキを手に取った。ステッキは杖のことだったような気もするが……。
右手で握り締め、左手の手のひらの上でぽんぽんと弄ぶ。大好きな霊夢をこれで……引っぱたいて起こす。
えもいわれぬ不思議な感情が紫の心の中に満ちていく。
「はぁはぁ……霊夢、貴女が悪いの……大人しくついてくればこんなことせずに済んだのに!」
紫は霊夢に馬乗りになると、手にしたステキステッキを頭上に掲げて一息にそれを振り下ろした。
ステキステッキは寸分狂わず霊夢のこめかみに直撃し、一瞬にして霊夢を夢の世界から引きずり出した。
「痛ぁぁぁっ!!」
「れ、霊夢! 貴女が悪いのよぉぉ!!」
「痛い! 痛いっ!! 何すんのよーっ!!」
霊夢は布団に包まったままもがき、必死に抜け出そうとしているのだが、紫が馬乗りになっているためにままならない。
三段、四段……霊夢の頭にそびえ立ったタンコブタワーは殴打数に比例してその高さを増していく。
「せいっ!!」
「んぐっ!! ぎぎぎ……」
霊夢が十分に弱ったのを見計らってミノムシな霊夢にのしかかると、紫は霊夢の寝巻きの襟を利用して絞め技をかけた。
霊夢の顎の下に左腕をもぐりこませ、右手で掴んだ襟を反対側に向かって思い切り引き絞る。
脳に流れる血流が遮られて霊夢の顔は段々青く染まり、その目は意識が薄れると共に焦点を見失う。
「ゆ、ゆかっ……おぼえっ……がくり」
「ふぅ、ふぅ……し、死んでないわよねまさか……」
霊夢を布団の砦から引きずり出してその胸に耳を当てると、心臓はしっかりと動いている。
この手の絞め技は相手が意識を失ってすぐに離せば死に至ったりはしないのだ、そのぐらい紫も知っていそうなものだが……。
やはり心臓の鼓動を確認した後も、しばらく嬉しそうな顔でその姿勢を維持していた辺り、知っていてやっていたのだろう。確実に。
他に誰も居ないのだからもっと思い切った事だってできるのにそうしないのは、ある意味謙虚さを感じさせる。
「さて、寝巻き霊夢を他の奴らに見られるのもシャクだわ……着替えさせるけど良いわよね? じゅるっ」
紫は霊夢の上半身だけを抱き起こし、頭を掴んで無理矢理頷かせる。
『うん! 良いわよ紫! 着替えさせて!』
――腹話術。
「ふふふ、物分りが良いわ」
滅茶苦茶だった。
紫はまるで自宅であるかのように、一発で巫女服のしまってあるタンスを探り当てて、一着取り出した。
そして手際よく霊夢の寝巻きを脱がせ、巫女服を装着させていく。自分で着る時は手間取った割に、脱がせるのや着せるのはやたら早い。
「こうしてると昔を思い出すわぁ、藍もなかなか服の着方を覚えられなかったの、うふふ」
そこのところには正当性があるようだ。本当の話かどうかは不明だが。
次に自分の脱ぎ捨てた臭い服をまさぐって櫛を持ってくると、それで霊夢の髪の毛を梳いて整え、ポニーテールを結ってやった。
「これでよし、と……どこに出しても恥ずかしくない立派な霊夢に仕上がりましたっ」
手際良く……というよりも手早かっただけで、結構ぐちゃぐちゃである。無理も無い、霊夢は意識が無いのだから。
藍に服を着せていた話が本当だったとしても、そのときは藍だって服を着るために手伝いをしただろう。
そういう状況では、やれ右腕を上げろだとか、首をここに通せだとか、指示をしつつ着る相手の助力を得て着せるものだ。
しかしうなだれている霊夢がそんなことできるはずもなく、どこかに出したら結構不審である。顔色も悪いし。
ポニーテールもなんだか曲がっている。結んでいる最中霊夢が頭を垂れていたからだろうか。
まるで、もつれ合っている間にうっかり殺してしまって、そのまま山にでも埋めに行くかのような血生臭い装いである。
服がお揃いなのも不可解だ。とてもじゃないが姉妹になんて見えっこない。
「さて急がないとね、魔理沙がいつまで暴れているかもわからないし、霊夢がいつ目覚めるかもわからないし」
当の紫はそんなこと気付きもせずに霊夢を担ぎ上げると、永遠亭に戻るべく再度スキマの口を開けた。
少しだけ頭を突っ込んで臭いを嗅いでみると、いくらかは生ゴミの臭いが落ち着いたようにも感じる。
どっちにしたって、これを通らなければ無駄な時間がかかるので選択の余地は無い。目的地はもちろん永琳の地下室。
「どれどれ……行く前に一応確認しておこうかしら」
結構な時間離れていたはずだが、相変わらず地下室の中はもぬけの空だった。
きっと魔理沙の暴れ方が相当に酷くて大混乱に陥っているのだろう。丁度良いのでこの隙にドクダ巫女を復活させ、根こそぎ抹殺させよう。
その光景を想像すると紫は楽しみでしょうがなかった。あの憎たらしい魔理沙がドクダミ漬けにされるのはさぞ気分が良かろう。
「それじゃ行きましょう霊夢……」
何も答えない霊夢を担いだまま、紫はスキマの中へ身体を滑り込ませていった。
永遠亭の真っ暗な廊下を照らすかのような金色の瞳、鈴仙による拘束を自力で解いた八雲藍は疾走していた。
何やら様子がおかしい。さっきから星が降ってくるのもそうだが、警備のイナバ達の様子が殊更に奇妙だった。
皆地面に倒れて苦しげに唸ったり、胸元をかきむしったりしている。脱走している藍のことなど見向きもしない。
たまに気付いて追いかけてこようとする者もあるが、その動作は極めて緩慢で、藍の俊足に追いつけるものではない。
(何事……? 傷を負っている様子でも無いし……)
一つ気付いたことがあるとすれば、屋敷中に漂うドクダミの臭いだ。
魔理沙にやられて落ちかけていた袖を引き裂き、口元に当てているのだが、それでも眉をしかめたくなるほどの臭い。
(疫病でも蔓延しているのか……?)
ドクダミは臭いこそきついが身体に良いもののはず、屋敷のあちらこちらに緑色の水溜りがあるが……。
この臭いに住民がやられているとでも言うのだろうか。
(紫様はどこだ……早く見つけてここを脱出しないと……)
それは野性の勘などというものではなく……先ほどから自分の体が、疼きという形で発する警告音による焦りだった。
どうやら自分も疫病に感染してしまっているらしい、強力な妖怪である藍は身体も丈夫だからその進行は遅いようではあるが。
しかし式神が落ちてしまっているのもあって、紫の位置がまったく把握できない。藍は心細かった。
「はぁ……はぁ……どうなってるのよ」
永遠亭は広すぎる、かといって何が起こるかわからないこの状況、妖力は温存したいので飛ぶわけにもいかない。
どうせ警備も薄いので一休みしようと壁にもたれかかり、やたら高鳴る胸に手を当てて何度か深呼吸した。
(疲れかと思ったけどこれは息切れじゃない……疲れが、ない? 何なのよ、体が熱い……紫様……)
妖力も少しずつ回復してきた気がする……元々、使った後ゆっくりと回復するものではあるが、その回復力が普段より大きい。
それなのに何だか得体の知れない渇きがある、妖力だけがどんどん大きくなっていく不思議な感覚。
ふと、弱々しい気配を感じてそちらへと目を向けると、一匹のイナバが壁に手をつきながらフラフラと歩いてきた。
「うぅ~……」
「……おい、何があったの? これは私の主の仕業ではないようだが」
「で、でぃ~……まり……クサッ……」
「でぃー、まり……魔理沙か?」
「はや、く……永琳様に……ごふっ!!」
「おい、どうした!?」
倒れこんだイナバの小さな体を抱き起こし、揺さぶったり頬を打ったりしてみるが反応は無い。
揺さぶられた方向と逆に首がカクンカクンと動くだけだ、死んではいないようだが意識が無いらしい。
「何が起こったんだ本当に……っ!!」
イナバをそっと床に寝かせると、藍は顔を抑えてしゃがみ込んだ。
こんなに恐怖を感じたのは久しぶりのことだった、魔理沙と戦ったときも多少は感じたが、戦いで感じる恐怖とは違う。
紫を怒らせてしまったときの恐怖とも違う……これは得体の知れない不気味な何かに生命を脅かされるような恐怖。
逃げ出そうにも永遠亭は広すぎて道が分からないし、空から逃げることは可能かもしれないが……どちらにせよ紫を放っておくわけにもいかない。
「紫様……紫様っ!! ……藍はここに居ます、どうか、どうか……」
「うぅーっ」
「な、なんだっ!?」
「でぃー……でぃーちょうだいぃぃ」
「うわぁっ!!」
先ほど意識を失ったはずのイナバがいつの間にか起き上がって、ゆらゆらと生気の無い動きで藍に迫り、肩を掴んだ。
驚いて突き飛ばしたものの、辺りを見回すと既に同じようなイナバがうろうろと徘徊している。
Dの臭いで、妖力がキャパシティを超えてしまったイナバ達は正気を失い、
元気に走り回っている藍ならばDを所持しているのではないかと勘違いしているのだ。
Dを欲するのは丈夫な身体を作る手段として、本能的にそれを感じているからだろう。
「ま、まるで食屍鬼だ……!! 魔理沙め、何をしたというの!?」
これだけ妖力が有り余っているならば飛んで逃げてしまっても問題ないと判断した藍は、飛び上がってイナバ達を振り切った。
藍、紫、永琳辺りの実力者は、その身体に宿せる妖力の量も相応に高い。
現に永琳は平気で動き回っているし、イナバ達のリーダー格であるてゐにもそこまで深刻な症状は出ていないことが予想される。
影の薄い輝夜は相変わらずイナバ達の居住区から遠く離れた部屋におり、一人で何かしているので影響は無い。
それに先んじて工場でDを盗み飲みしているので、大分耐性もあるはずだ。
何故こんな状況になったのか?
永琳の誤算がまずその原因だった。
それはDに耐性の無いイナバ達が、臭いだけ与えられると暴走状態に陥る事実に気付いていなかったこと。
もちろんてゐ達もそれを知らず、永琳の部屋に運ぶ途中に結構こぼしていたのだ。
それだけでなく、たまに耐えられなくなって廊下でDをかけあったりもした、大はしゃぎだった。そのせいでDの臭いに汚染されたのだ。
そして先ほど、てゐが床を舐めさせたイナバのような症状が無関係のイナバ達にも現れ始めた。
かくして、イナバゾンビが大量に出現してしまったのである。ゾンビと言っても死んでいるわけではないが。
後はイナバゾンビがその臭いの媒介として屋敷内をうろつけば、次々に症状が飛び火する。
「紫様ぁーー!! どこにおられるのですか!! 藍はもう長くはもちません……!!」
藍の悲痛な叫びは、永遠亭の闇の中へと溶けていってしまった。
その紫はというと……無事永琳の地下室へと侵入を果たして、Dの入っているタンクをいじくり回している。
手術台の上には霊夢が寝かされている、その血色は既に元に戻っているのだが、
「ぐぅ……」
器用なことに、気を失って目を覚ますことなくそのまま眠りについたらしい。
紫はそれに気付いていないようだが、霊夢はそう簡単に目を覚まさないようなので何の問題も無かった。
「う、うーん……この管を使ったらすぐに目を覚ましてしまいそうだし、使い方もよくわからないの」
タンクは一見それほど複雑な仕組みには見えないが、扱ったことの無い紫にしてみたら難解らしい。
それに紫が言ったとおり、管でDを飲ませようものなら口に入った瞬間息ができなくなって霊夢は目を覚ますだろう。
大量に飲んでくれなければ意味が無いので、その方法も望ましい結果に繋がるものではなさそうだ。
「そのまんま入れてしまいましょうか」
紫はもっとも短絡的で凶悪な手段を選んだ。タンクの中にそのまま霊夢を放り込むつもりだ。タンクは三つもあるし一つぐらい良いだろう。
大きなタンクの蓋をずり下ろし、そのままタンクの横へと立てかければ準備完了。あとは霊夢を放り込むだけ。
タンクの中にはてゐ達の苦労の結晶であるDがたっぷりと蓄えてあった。霊夢をぶち込んで少し待てばドクダ巫女の完成です。
「どっこいせ、そーれっ!」
紫は軽々と霊夢をお姫様抱っこして、そのままDタンクの中へと投げ落とした。
勢い余ってタンクの側面に頭をぶつけた霊夢は、錯乱状態のまま緑色の液体の中でもがき苦しむ。
「ぶぁぁぁぁぁっ!! な、何よぉぉぉぉぉ!!」
「許して霊夢!! これも幻想郷のためなの!!」
「がばばぼぼぼぼぼ!!」
紫は右手で霊夢の頭を押さえつけてDの中へと沈め、左手でDの蓋を手繰り寄せる。
霊夢は何が何だかわけがわからず、両手を出してその水面を何度も叩き、Dを飛び散らせていた。
最後にもう一度霊夢を思い切り沈めると、紫は蓋をしてさらにその上に載りかかり、霊夢を中へと封印した。
タンクの蓋や側面を殴る音が聞こえる。霊夢は中で相当苦しんでいるらしい。だが紫は一切の情けをかけない。
「魔理沙をドクダミ漬けにしてやるのよ!!」
内側からタンクを殴って必死に抵抗していた霊夢だったが、次第にその音が小さくなり、回数が少なくなり……。
ついには力尽きて何の音もしなくなった。紫は額に流れる汗を巫女服の袖でぬぐい、大きく息を吐く。
そしてタンクから身を離し、改めて地下室の中を見回した。様々な薬品のみならず拘束具も色とりどり並んでいる。
「丁度良くそこら辺に縄もいっぱいあることだし……」
紫は手頃な縄を拾い上げて両手に持つと、その強度を確かめるように何度も両側に引っ張った。
その手ごたえは見るからにがっちりとしており、紫が望んだ十分な強度を持っているようだ。
ご機嫌な様子でそれをタンクに巻き付け、霊夢が出てこられないように強く縛った後、背負うのに都合の良い肩紐を作った。
縄の扱いが妙に巧みなのが気持ち悪いが、それはおそらく考えすぎだ。
「ふっ!! んむぅぅぅ!! ふふ、ふふふふふ……」
霊夢がすっぽりと収まってまだいくらかの余裕があるタンク。
そんな巨大なものに人一人と液体がたっぷり入っているのに、紫はさほど苦労せずにそれを背負った。
そしてそのまま不気味に笑っているのは、これから繰り広げられる惨劇を想像してのものだろう。
「熟成するのに少し時間がかかりそうだし、藍を探してこようかしら。きっと心細い思いをしているはずなの」
紫は軽快な足取りで地下室の階段を駆け上がり、藍の妖気を探った。
少し離れたところに微弱ではあるが藍の気配を感じる。まるで何かから逃げているかのような様子だが……。
永遠亭のはるか上空から鈴仙と魔理沙の気配も……まだ決着がついてないようだ。
そして最後に、永琳と九つの巨大な妖気がここに向かってきている。何をするつもりなのだろうか……。
「……思ったほど芳しくないわね、早いところ済ませないと」
久しぶりに真剣な表情を取り戻した紫は、重いタンクを背負っているにも関わらず藍の方角へと全力で走っていく。
「待っていなさい藍、最後に勝利を収めるのは私達……」
――続く――
「くっ! うぅっ! 魔理沙め……魔理沙めぇーっ!!」
スキマは生ゴミの臭いに満たされ、その心の傷を癒そうにも藍の尻尾の毛は刈り取られ……。
紫は行き場の無い怒りをどうすれば良いのか、その術を見つけられずにいた。
「藍……藍……」
揺り起こそうとするも藍のダメージは相当に酷いらしい、息苦しそうな様子で小さく肩を動かしている。
尻尾の毛は一本残らず丁寧に刈り取られている、紫はその尻尾を見るたびに不快感と悲しさがこみ上げた。
地面に両手をつき、肩を震わせてすすり泣くしかなかった。
「なんでなの……少し箒を折られたぐらい、なんだというの……こんな、こんな残酷な!!」
藍を修復しようにも、己自信の妖力があまり残っていない。もっとも、毛までは修復できない……というよりも、
「したくない」のだ、できないことはないのだが……。
「天然モノが一番に決まっているじゃないの!!」
誇り高きフェチの魂が許してくれないのだった。バカバカしい。
「んんーーーーっ!!」
胸の中に鬱積した限りない憎しみをどうにも処理できず、ついに紫は駄々っ子のように寝転がり、手足をバタつかせ始めた。
今までなんだって力づくで思いのままにしてきたのだ。霊夢をとっ捕まえて付け腋毛を強要したり、鈴仙の耳をもぎ取ったり。
紫の人生は薔薇色だったのだ、間違いなく……霧雨魔理沙はそれを脅かした存在。
「……」
しかし紫はそのままぐったりと動かなくなった。謎だらけの現実を改めて不気味に思ったのだ。
あの魔理沙は本当になんだったのだろうか、確かにあの子には資質があったわ、けれどこんな急に……疑問だった。
いじめ続けてそのプライドを刺激してやれば、きっと幻想郷最強の魔法使いになっていただろう。
そしてその力で幻想郷を守る者となり得たはずだが……というのは口実で、ただいじめていただけなのだが。
だってあの子、良い顔で泣くんだもの……霊夢が頭突きなどして泣かすのもわかるわ、と紫は思う。
だが当の本人はマゾヒスティックな快楽を得るようなアブノーマルではない。魔理沙にしてみればただただ迷惑である。
愛着のある箒はへし折られるわ、お気に入りの可愛らしいとんがり帽子は剥ぎ取られるわ、散々だ。
とはいえやはり、何故突然あんなに強くなったのか……キノコのお陰だとは魔理沙以外誰も知らない。
「どうしてやろうかしら……」
ふらふらと立ち上がった紫は、難しい顔をして腕組みをする。
あの魔理沙はもう力押しではどうにもならないだろう……橙まで揃って万全の体勢でもどうしようもあるまい。所詮猫の手である。
「考えるの……何か策はあるはず……んっ?」
紫はまた大きな魔力が近付いてくるのを感じた、だがそれは魔理沙のものとは違う。
紫の目にじわりと涙が浮かぶ。もう既にボロボロだというのに、まだ何か嫌なことが起こるに違いないと確信した。
「藍……藍ったら……!!」
不本意だが今は逃げるしかないと紫は判断し、藍を揺り起こそうとする……が、やはり目を覚ましてくれない。
あの魔力の大きさは魔理沙に勝るとも劣らない、いや、魔理沙よりもいくらか強大だ。
それだけではない、その脇にそれよりは小さいながらに強大な力を感じる。紫は知らないが前者が鈴仙、後者が永琳である。
「仕方ない……くぅぅっ、藍ったら結構重いのね、いつの間にこんなに成長して……」
完全に脱力した人間を抱き上げると重く感じるものらしい。
指先一つ動かさない藍の身体は、紫自身にダメージが残っていることもあってかなり重いものに感じられた。
全身あちこちの関節が軋みを上げ、紫の表情が苦悶に歪む。
「ふぅ、ふぅ……逃げましょう、とりあえず幽々子のところにでも……うっクサッ!!」
スキマを開いて逃げようとした瞬間、そこから凄まじい生ゴミ臭が溢れ出してきた。まるで辺りが茶色くなりそうなほどの悪臭。
紫は驚いて前方に藍を振り落としそうになり、咄嗟に受け止めようとした……しかし。
「んっ……あぁっ!?」
藍を受け止めようと出した手に激痛が走り、滑り落ちた藍にのしかかるような体勢で地面に叩きつけてしまった。
紫の体重移動により落下のダメージは倍加……藍は背中と後頭部を強かに打ちつけられ、苦しそうな呻き声を上げる。
「うぐぅぅっ!?」
一瞬大きく目を見開いて呻いた藍を見て、紫は両手で口を覆い……わなわなと震えながらあとずさった。
「いやぁぁぁっ!? 藍! ラァーン!! 許して!! けしてパワーボムをするつもりではなかったのぉぉぉっ!!」
白目を剥いて、それまで以上に瀕死になってしまった藍を抱きかかえて紫は懺悔する。
誰も紫を責めることはできない……彼女自身ぼろぼろだというのに、式神の藍を救おうとしたのは紛れもない事実なのだから。
それにしても、スキマに入ったものはどこかに飛んで行ってしまいそうなものなのに、魔理沙の持ってきた生ゴミはスキマを超越しているのだろうか。
嫌がらせとしては最大級の成功を収めたと言っても過言ではない。まさにスーパー生ゴミ。
「はっ……い、いけないこんなことをしている場合では……」
魔力の主はもうすぐ側に来ていた。既に夜の帳は下りていたが紫は妖怪なので夜目が利く。
「遠くの空に二人の少女……一人はさらさらロング、一人は極太一本ロング三つ編み……永遠亭の連中……?」
紫様が毛ばかり見ている。
一方の鈴仙もそんな紫の様子に気付く。赤い瞳と紫の瞳、それら二つの視線が妖しい光となって交錯した。
「師匠、発見されました」
「問題無いわ、別にコソコソする必要など無いのだから……早いところ捕まえて永遠亭へ戻りましょう」
「はい、お腹空きましたしね」
「ふふふふ……余裕ね」
鈴仙は魔理沙との一戦で自分自身の想像以上の力に驚くと同時に、大きな自信をつけていた。
遠くに見える紫は随分とボロボロのようだ。肌で感じられるその妖気も明らかに弱々しい。
これまでの流れからしても、あの紫をやったのは魔理沙であろう。魔理沙はごまかそうとしていたがそれ以外のケースは考えられない。
多少は永琳の協力があったとはいえ、ものの数発で魔理沙を圧倒した鈴仙はその実力関係の頂点に君臨していると言える。
余裕の一つや二つ口から出ても不思議なことではない。
かたや紫は恐怖に震える立場である。
「どうしたものかしら……」
表向きそこまで酷くは取り乱していないものの、状況は絶望的……臭いのを我慢してスキマを通るぐらいしか道は無い。
しかし、鈴仙達までもが魔理沙のように突然攻撃を仕掛けてくると決まったわけではない。
そういった希望的観測をしてしまうほどにスキマは生ゴミ臭かった、かなり通りたくなかった。藍にまで臭いが染み付きそうだし。
かつて鈴仙の耳をもぎ取ったときの記憶が紫の頭をよぎる……恨まれている可能性は十分にあった。
「悩んでいる時間なんて無いの……」
いっそこのまま運命に身を委ねてしまおうか……そんな情けない気持ちがじわじわと心に広がってきた。
永琳はもしかしたら助けに来てくれたのかもしれない……都合の良い展開を希望してしまう。
しかし以前鈴仙の耳をもぎ取ったときは、それが原因で大事件が起きた……例のドクダ巫女騒動、第一次ドクダミファンタジアである。
紫は両手で頭を抱えて葛藤した、臭いスキマを通るか、永琳のされるがままになるか……。
「ふぅ……ふぅ……」
意を決してスキマを開く……鈴仙の耳の一件以来、紫と永琳はあまり仲が良くなかった、助けてなんてくれるはずがない。
大方攫われて怪しい薬の実験台にされて終わりだ、自分が永琳ならそうする……藍の身も危ない。
こんなときは橙が居なくて良かったと思う、こんな状態で二人も連れて逃げるのはそう簡単なことではない。
「く、くさいわぁ……あの白黒ったら、何食べてるのよ……何が腐ったらこんな臭いがするのよぉぉぉ!!」
ただの生ゴミではなかった。
魔理沙は勿体無く思いつつもぬか床を混ぜたり、腐ってなくてもとんでもない悪臭を放つキノコを拾って、最強の生ゴミを生み出したのだ。
紫は恐怖した。嫌がらせには自信があったが、人間側にもこんな嫌がらせの天才が生まれ落ちていたとは。
「す、少し生ゴミを除去しないとまずいわコレ……ああ、でももうあんな側に……ら、藍っ!! お先にどうぞ!!」
「う、うぅっ……オエッ!?」
スキマを大きく開く気力すら残っておらず、無理矢理押し込んだ藍がその悪臭で嗚咽を漏らす。
きっと藍は今、とても臭い悪夢の中を彷徨い歩いていることだろう。
「し、しまった!! 耳がひっかかったわ!! 藍! 耳を折りたたみなさい!」
「う、うぇっ……っぷ」
「何してるのよ……」
「はっ!?」
万事休す八雲一家。後ろには呆れた様子の鈴仙が立っている。永琳は追いつけなかったらしく、まだ少し離れたところに居た。
どういう押し込み方をすれば耳だけ引っかかるのかわからないが、紫は器用に藍の耳だけをスキマのふちに引っかけていた。
耳が引っかかっている時点で肩が通らない気がするし、毛をむしられてなお幅をきかせる尻尾など確実に無理だろう。
「藍! 出てきなさい! んっ、んんーっ!! な、何故抜けないの!?」
「うっ、うっ……」
「このままでは藍の首が取れてしまうの!! 誰かっ……誰か助けてえぇぇぇっ!!」
「んもー……どきなさいよ……誰かって私しかいないじゃない……」
錯乱する紫を押しのけると、溜息をつきながら鈴仙はスキマの両端に手をかけた。
そのまま無遠慮に力を込めて、一気にスキマをこじ開けようとする。
「待って!! いきなり開くと危険よ……ひっ!? ドクダミ臭っ!!」
「失礼ね!! 人が手伝ってやろうって言うのに!! もう知らない、それっ!! うっ、くさっ!?」
注意を促すために鈴仙に近寄った紫はそのドクダミ臭でのけぞり、鈴仙はスキマから噴出した茶色い煙を顔にかぶってのけぞる。
二人とも鼻を押さえて屈みこみ、しばらく言葉を発することもできずに身震いしていた。
そんな二人を尻目に、なんとか頭の抜けた藍がずるりと滑り落ち、地面の上に力無く倒れこんだ。
「な、なにこの臭い……あんたこの中に死体でも捨てたんじゃないでしょうね!?」
「違うわよ!! スキマの中はいつもは花の様な香りがするの!! そういう貴女こそなんだというの、そのドクダミ臭!!」
「強くなるためには犠牲になるものが必要なのよ!!」
「ま、まさか貴女達……また私の霊夢をドクダミ漬けにするつもりじゃないでしょうね!!」
「違うもん!! 私達はあんたをドクダ……むぐっ!!」
「ウドンゲ……おしゃべりが過ぎるわ、仮にも私の弟子ならもう少し思慮深い言動を心がけなさい」
「む、むぐ……」
「八意永琳……」
永琳を見上げて紫が身構える。永琳は鈴仙の口を手で塞ぎながらにっこりと微笑んだ。
その笑顔は紫にとって不気味以外の何ものでもない、永夜の一件で対峙したときもこんな表情だった。
何か悪巧みをしている笑顔、悪者の顔である……やはり何かされる、予感は今確信になった。
永琳は笑顔こそ崩していないが、その目は徐々に温かみを失い、凍るような冷たい視線を紫へと投げかけている。
「八雲紫、ついて来なさい」
「……嫌よ」
「拒否権は無いのよ、残念ながら」
「私をドクダミ漬けにするつもりなのね?」
「ああもう、ウドンゲったら……」
「なのね?」
「ええ、そうよ」
計画がバレてしまったことに少し落胆した永琳は、眉間に手を当てて二、三度首を横に振った。後ろでは鈴仙が申し訳なさそうに正座している。
しかし眉間から手を離した永琳の表情から薄ら笑いは消えておらず、むしろ不気味さを増した表情で紫を見下した。
「そんなことをして何になるの? 私は霊夢のようにはならないわ」
「説明する必要は無いわ……ウドンゲ、やりなさい」
「はい」
「え……?」
鈴仙の目が赤く煌き、発射された狂気光線が紫の意識を叩き斬った。
もはや鈴仙の狂気の瞳は互いの視線を合わせる必要すらなく、頭のどこかに光線が入ればその意識を支配することができる。
紫は呆然と、苦しむ様子すら無く座り込んだまま……その目の色だけが、紫色から赤色へと変色した。
そして紫の身体はゆっくりと傾き、永琳の胸に優しく抱きとめられた。
「あははは……泣く子も黙る『神隠しの主犯』もお前の手にかかれば赤子同然ね」
「し、師匠のおかげですよ……」
「それじゃウドンゲ、お前は式神の方を連れてきて頂戴、永遠亭へ帰るわよ」
「はい、もう真っ暗です」
「そろそろ新しいDも補充されたところでしょう」
「丁度良い頃合ですね」
一切の不安から解き放たれたかのように安らかな顔で眠る紫。永琳はそんな紫を優しく胸に抱いて、
鈴仙も藍を背負ったのを確認すると、目を見合わせて頷いてから静かに空へと浮かび上がった。
宵闇と静寂の中で永琳の計画は着々と進行していく……。
ペタ……ペタ……ちゃぷん、ちゃぷん……。
真っ暗な永遠亭の廊下に、十八の真っ赤な瞳。
てゐを筆頭としたイナバドクダミ絞り隊である。工場で絞りに絞ったDを永琳の部屋へと運搬している。
その誰もが強烈なドクダミ臭を振りまき、その衣服はDに濡れて緑に染まっている。
一言も発することなく、ただただ任務を遂行する……全員、目の焦点が合っていない。
「はぁ……はぁ……」
最後尾に居たイナバが、苦しそうに胸を押さえて地面にしゃがみ込む。
両手に持っていたDを容器ごと廊下に落とす、そのイナバの足元に緑色の水溜りができた。
「はぁ……はぁっ……」
足を止め、そんなイナバを見下ろす十六の瞳……感情が無く、燃えるように真っ赤なのに冷たい視線。
しかし全員その顔が紅潮している……不健康な様子は一切見られない、その顔は妖艶にさえ映る。
「熱い……体が燃える……!!」
しゃがみ込んだイナバが苦しげに胸をかきむしった。
彼女らはDを直接経口投与されたわけではないが、あまりにも長時間触っていたためにじわじわとDの影響を受けていた。
イナバは倒れこみ、ひとしきりのた打ち回ったあと、仲間達に哀願するような眼差しを向けた。
「……ダメよ、これは永琳様の……あんたは自分で床にこぼしたそれでも舐めてなさい」
てゐはまるで機械のように冷たく、一定の調子で呟いた。
Dを飲むとこの疼きは一定時間治まる……溢れる魔力を収めるに相応しい健康体を与えてくれるのだ。
暴走状態に入ると魔力の制御ができなくなる、その魔力は熱となって身体を侵蝕し、全身に激しい疼きが現れる。
「お願いします……一口で良いから……」
「……」
「う、うぅ……」
理性と衝動の狭間、イナバは床に顔を近付け舌を延ばす。
ぶるぶると全身が震えている、こんなことをしてしまうのは愛らしいウサギ妖怪の尊厳に関わるのではないか……。
しかしこの熱っぽい身体を鎮めるためには、これを舐めるしかない。
「……恥ずかしいことじゃないわよ、お舐め」
「んぐっ!?」
見るに見かねたてゐが、恍惚の表情でそのイナバの頭を踏みつけ、床に押し付けた。
床にこぼれたDを永琳様のところへ持っていくわけには行かない、汚れた床を舐めて綺麗にしなさい。とでも言いたげに。
「ふ……うぅ……ぴちゃっ、ぴちゃっ」
「あはははは、良い眺め……」
後ろに居る他のイナバ達もクスクスと笑っている。
プライドをかなぐり捨てて床を舐めるイナバの顔は、嬉しそうにほころんでいた。もう後戻りは……できない……。
一見淫靡な風景だが、舐めているのはドクダミの青汁なので騙されてはいけない。
「あらあら……少し離れた間に随分作ったのね……助かるわ」
「はい、永琳様」
地下室へと戻ってきた永琳は満足そうにイナバ達をねぎらった。
(思ったとおり……良い顔だわ皆。メンバーを固定したのはやはり正解だった……)
思わず顔がにやける。これも永琳の計算のうちだったのだ。
口から直接注入するのはもっとも手っ取り早い手段だが、コスト的に優れた方法ではない。
永琳の開発したD用ドクダミは、その臭いだけで魔力を増強する。
最も力を入れて育てるべきは鈴仙とその他の捕まえてきた妖怪だが、それだけでは少々心許ない。
あの霊夢はそこらに生えている普通のドクダミも大きな霊力に変えてしまう、ドクダミに選ばれし者。
念には念を入れておかなければいけない、やりすぎということはないのだ。
「もうタンク三つ分も作ったなんて……今日の分は十分ね、休みたければ休んでも良いわよ」
休むはずなどない、とわかっていながらも永琳はそう言った。
「いえ……まだやれます」
「あらそう……それじゃよろしく頼むわね」
鈴仙の狂気の瞳が直撃したてゐはもちろんのこと、他の八名のイナバも既に全員正気を失っている。
Dのつまみ食い、青汁につまみ食いという表現はおかしいが、工場で多少手を付けているはずだ。
そうでなくては苦しくてやっていられないのだ、Dの連鎖は終わりを知らない。
つまみ食いをしてなお、これだけの生産効率ならば永琳に文句のあろうはずがない。
イナバ達は空になった容器を手に一礼すると、嬉々としてドクダミ工場へと戻っていった。
そして入れ替わりに、今度は鈴仙が地下室の階段を駆け下りてきた。
「ししょ~、八雲藍は拘束しておきましたよー」
「ご苦労様ウドンゲ……それじゃ、始めましょうか」
「こいつにも適性があれば良いんですけどね……」
「そうねぇ」
例によって手術台には紫が縛り付けられている。今までと違うのは一切の拘束をされていないことであろう。
鈴仙が側に居る限りそれは必要無いとの永琳の判断だった。
狂気の瞳で狂わせてしまえば無抵抗になるし、逆に鈴仙の力さえ及ばないような事態になったら拘束具など意味が無いのだ。
「D注入マスク、セット完了よ」
「了解しました、D注入開始します」
「ええ、お願い」
マスクを装着させるとき、赤い目で呆然と空中を眺めていた紫の顔が恐怖に引きつったように見えた。
しかし紫はとっくに正気を失っているはず、そんなのは気のせいだろうと永琳は己の目を否定した。
「D、口内に到達……」
「さて……適性があればお前とこいつだけで良さそうなものなのだけれど……」
「ごぼっ……」
紫は苦しそうな表情を浮かべつつも、Dをその胃へと収めていく。
ゴクンゴクンと喉が蠢くたびに紫の妖気がメキメキと上昇していく。魔理沙によってつけられた体中の傷もみるみる修復されていった。
「すごい……適性ありって事ですか?」
「いえ……もともと薬として見てもかなり優秀なのよこれ、臭いけど。だから失った分の妖力が補充されているに過ぎないわ」
「失った分って……やっぱりとてつもないですね、こいつ……」
「そうね……」
今更ながら自分がDを飲んでいなかったらとてもじゃないが捕まえてくることなど不可能だった、と鈴仙は実感する。
魔理沙の襲撃により傷付いた状態ではあったが……そもそもD鈴仙でなければ、魔理沙に完膚なきまでに叩きのめされていたはずだ。
「……妖力は取り戻したみたい、ここからが本番よ」
「ど、どうなるでしょうか……」
「さぁ……神のみぞ知る、ってところね」
ゴボ……ッ。
「ぐっ!! んぐぅっ!! ぶふっ!!」
「きょ、拒絶反応です!!」
「いけない……ウドンゲ!! すぐにマスクを外して!!」
紫は目を見開いて、両手で自分の首を強く締め付け始めた。まるでそれ以上のDの侵入を拒むかのように。
両足でドンドンと手術台を蹴り付けている。その力は凄まじく、手術台は大きく軋んで今にも崩れそうだった。
そして逆流したDが撒き散らされ、紫の衣服を緑色に染め上げる。
「んっ!! ぶはっ!! げほげほっ!!」
「ふぅ、ふぅ……」
「くっ……」
鈴仙はマスクを取り去り、暴れる紫に覆いかぶさって動きを封じた。紫は口からDを垂らしたまま苦しげに胸を上下させている。
一方永琳は実験の失敗に落胆して、眉間を押さえて目をそむけていた。
「八雲紫『D』不適合……」
「ふりだしね……」
握り締めた拳を、憎々しげに手術台に叩きつける永琳。
――まだ手駒が足りない。
霊夢に圧勝する、圧勝でなければならない……かつて霊夢が永琳を完全に圧倒したように。
鈴仙はおそらく良い勝負をするだろう、先ほどのイナバ九人を合わせれば勝算も無くはない。しかし完全ではない。
「師匠……仕方ありませんよ……まだたくさん妖怪はいますし、何度かやれば八雲紫もDに馴染むかもしれないし……」
「……」
「少し外に出て月でも眺めませんか? 根詰めすぎたんですよ、休みましょう……」
「そうね……」
確かにここのところそればかり考えて、ろくに休息を取っていなかった。
この子もこんな気配りができるようになったのね、とは思いつつも、心の中にはモヤモヤと暗雲が立ち込めている。
とにかく少し気分転換が必要であろう……永琳は鈴仙に手を引かれて地下室を後にした。
「八雲紫はどうしましょう……?」
「放っといても大丈夫よ……しばらくは正気にならないだろうし」
「それもそうですね、片付けは後にしましょうか」
自分が不甲斐ないから永琳にこんな気苦労をかけているんだろうか、と鈴仙は少し申し訳なくなった。
一休みしたらまたDを注入してもらおう……まだやれるはずだ、臭いから飲みたくないけど仕方がない。
鈴仙は永琳の手を引いて、庭に面した屋根の上へと飛んだ。
夜空には眩しいばかりの星、そして自分達の故郷である月が浮かんでいる。半月の時期だった。
秋の夜風が少し肌寒い、鈴仙は永琳の手を握ったままそっと身を寄せた。顔だけが熱くなった。
永琳は少し嬉しそうな鈴仙を神妙な面持ちで見つめている。
「あの、ウドンゲ……」
「あ、は、はい?」
「……ドクダミ臭いからあんまり近付かないで欲しいわ、慣れたから多少は平気だけど流石にゼロ距離は、ね……ごめんなさい」
「はっ!?」
鈴仙は驚いて飛び跳ね、少し距離を置いてから自分の服の袖をクンクンを嗅ぎ始めた。
しかし悲しきかな、完全に嗅覚麻痺を起こしている鈴仙は自分がどれだけドクダミ臭いかがわからない。
師匠を元気付けるためだったのに、臭い思いをさせてしまって……目に涙が浮かんだ。
「まぁDの効果だから仕方ないわよ……事が済んだら好きなだけ寄り添うが良いわ」
「は、はぁ……」
溜息を付く永琳を見て、鈴仙もがっくりと肩を落とした。
適度に距離をとって二人で並び、そんな悲しさなど知らないかのようにギラギラ輝く星を眺める。
こっちはこんなにモヤモヤしてるのに、なんだか厚かましい星々だ、と腹が立った。
しかしせっかく気分転換に来たのにだんまり決め込むのでは意味が無い、鈴仙は半月を見て昔聞いた話を思い出した。
「ししょー。姫から聞いた、地上の童話なんですけどね」
「ん?」
「師匠も知ってると思いますけど、知らないふりして聞いてくれますか?」
「ん? 何の話かしら?」
「月が二つあるって話なんですよ」
(ああ、その話……)
もちろん博学な永琳はそれを知っていた。
しかしながら、頭が良すぎるとかえってそういう話の裏側ばかり見えてしまうものだ。
その話が伝えようとしている教訓、子供向けに残酷描写を捻じ曲げた、話の前後に整合性の無い不自然な童話。
永琳自身も幼い頃にいくつもの童話を聞かされたものだが、時折話の中に大人の意思が覗けるときがあって、その度に興醒めしたものだ。
だが鈴仙が自分を元気付けようと話してくれている、その心遣いは受け取るべきだろう。
永琳は知らないふりを装い……だからといって大袈裟に驚いたりするつもりもないが、静かに聞いてやろうと思った。
「明るい月と暗い月、二つの月があるんですよ」
「……どういう理屈なのかしら?」
「はい、月も一つじゃ大変なんですって……だから、明るい方の月を定期的に暗い月が隠して、休ませてあげるって話です」
「……じゃあ、今は暗い月が明るい月を休ませようとしているってことね」
「ええ……良い話ですよね」
「そうね……」
鈴仙が再び永琳に身を寄せ、そっと永琳の腕を抱きしめた。
「私も、修行して師匠と肩並べて……師匠を休ませてあげたいです……」
(やっぱりドクダミ臭いわ……霊夢が横に居るみたい……)
可愛い弟子をドクダミ漬けにしてしまった己の業……それは輝夜に蓬莱の薬を作っておきながら、自分だけ無実で済んでしまったときのことを思い出させた。
良い話のはずなのに、嫌な記憶ばかりが蘇る。永琳の目からとめどなく涙が流れた。
だが鈴仙の思いやりを無駄にすることは許されない、それこそ己が背負った業。
(あ、師匠……臭い気にならないのかな……感動してくれた? じゃ、もう少し……)
(目ぇ、目ぇに染みるわ!! キッツ!!)
涙が溢れてたのは臭いのせいだった。
さらに密着する鈴仙と永琳。永琳の鼻に突き刺さる強烈なドクダミ臭が、恐怖の記憶をも呼び起こす。
――あんた心の奥底で、どこか私を恐れているわ。
――このドクダミの戦いに、弾幕など不要ということよ!! 物言うは、肉体とドクダミのみ!!
――きっと健康に良いわよ、まぁ何かあっても責任は取らないけど。
――さー博麗神社特製の素晴らしいドクダミ茶よ~、残さず飲んでね。
――えぇぇぇぇいぃぃぃぃりぃぃぃぃん!!
その顔一杯に恐怖を湛えて永琳は大きく目を見開き、叫んだ。
「いやぁぁぁぁぁっ!! 空が落ちてくるぅぅぅぅ!!」
「し、師匠!?」
鈴仙の腕を振り払い、永琳は頭を抱えて苦しみ始めた。ドクダ巫女のトラウマによる発作。かくも傷は深かったのだ。
そうとも知らず鈴仙は本当に空が落ちてくるのかと思い、頬を赤らめたままで夜空を見上げた。
「あ、ししょー! 流れ星……ん? 流れ星にしてはマンガ星……すごい数、本当に空が落ちて……」
夜空を見上げる鈴仙の表情が徐々に曇っていく……大量のマンガ星が空から降ってくる……。
かすかに叫び声が聞こえてくるような……。
「出て来い鈴仙んんん!! でないとぉぉ……鼻が疼くだろうがぁぁぁ!!」
第二の復讐者、霧雨魔理沙の出現は唐突だった。喉がはちきれそうな大声で怒り狂っている。
キノコを撫でるだけ撫でて霧雨キノコ発電所の発電量は過去最大だ。
なにせあのときから今まで、一秒たりとも休まずにキノコを撫で続けていたのだ。
「超高高度からのスペル攻撃……これはスターダスト……いや、イベントホライズン!? し、師匠!! 魔理沙が!!」
「キャン、ディ……」
師匠はイっちゃっていた。
「あぁぁぁぁもぉぉぉぉ!! こんなときにぃぃぃぃぃ!!」
せっかく憧れの師匠と良いムードだったのにぶち壊しにされた。鈴仙も怒り狂ってつやつやの髪をかきむしる。
真っ赤な目がさらに赤く燃え上がった、周辺では魔理沙の放ったマンガ星が紫電を纏って着弾、永遠亭の屋根あちらこちらに穴を空けていた。
鈴仙の側を一つの星がかすめ、その頬を一筋の赤い血が垂れる。血走った目、食いしばった歯、鈴仙の怒りも並々ではない。
師匠は隣で頭を抱えて震えている。魔理沙がそんなに怖いなんて……師匠をこんな状態にして……魔理沙を許さない。鈴仙は盛大に勘違いした。
「跡形もなく消し去ってやるんだから!!」
敵に回してはいけない者というのがいる。
例えば何度でも食って掛かってくる、執念深い霧雨魔理沙。
そして……。
神隠しの主犯、八雲紫……。
「ふ、ふふ……うふふふふ」
手術台の上で不気味に笑う声。がばっと上半身を起こした紫の目は、既に元の紫色に戻っている。
キョロキョロと辺りを見回して誰もいないことを確認すると、紫はさらに笑った。
「ふふ、あはははは、おバカさん……目の色の境界、赤と青の境界をいじっただけなのにまんまと騙されて……
おかげで回復したし侵入できたわ……泣く子も黙る『神隠しの主犯』侮ったわね……あの程度の狂気、何のこともないの」
紫はそっと耳に手を当てて、周囲から響く轟音を確かめる。
「これは……藍? ……いや藍ではないわね、藍の妖気とは違うし、まだ起きていないはずよ」
手術台から飛び降りて紫は腕組みをする。それにしてもけったいな研究をしているものだ、部屋を見回す紫の目は嫌悪感に満ちている。
ドクダミから抽出したエキスでドクダミ妖怪を増殖させようとは……永遠亭のウサギだけにしておいてほしいものだと思った。
「これは、魔理沙ね……くぅっ!!」
そしてこの魔力は、あの憎たらしい魔理沙のものだ。永遠亭を襲撃しているのはどういうことだろう。
紫自身は散々仕返しされたので、再び紫を追跡してこの永遠亭にちょっかいをかけたとは考えにくい。
となれば、おそらく八雲邸の襲撃を終えた後に鈴仙や永琳と一悶着あったのだろう。
魔理沙が帰った直後に永琳達が来たことも考えると、それほど不思議なことではない。
「幻想郷の危機じゃない? ねえ霊夢……」
確かに鈴仙と魔理沙の戦闘力はおかしなことになっているが、こんな個人的な争いが幻想郷の危機であるはずがない。
なのに勝手にそうこじつけた紫は、腕を組んだまま目を閉じてうんうんと大きく頷いた。
「さあ霊夢、再び手と手を取り合って幻想郷の危機に立ち向かいましょう……合わせて六重結界、うふふふふ」
自分自身が壮絶なまでにドクダミ臭くなっている紫は、スキマの生ゴミ臭をさして気にもかけず、中へと入っていった。
もちろんその目的地は博麗神社である。だがそのままの霊夢で奴らを倒せるかはわからない……。
「大丈夫なの霊夢、ドクダミ臭くたって……私もドクダミ臭いしね、うふっ」
やはり鈴仙の攻撃で若干狂っているらしいが、普段の挙動がアレなだけにわかりにくかった。
そして紫は、何らかの手段を講じて霊夢を再びドクダミ漬けにすることに決めたらしい。
「喧嘩両成敗よねえ……」
逃げろ霊夢!!
もちろんそんな願いは通じるわけもなく、事態は最悪の展開へ。
「すぅ……むにゃむにゃ……ぷっ、魔理沙何その格好……」
ミシ……ミシ……。
特にやることも無かった霊夢は既に床についていた。枕元には翌日袖を通す巫女服とお払い棒がちょこんと待機している。
霊夢が早寝というよりは、今永遠亭に居る連中の生活リズムがおかしいのだ。
もう日付は替わっている、その辺の規則正しさだけは巫女として立派なものなのかもしれない。
ミシ……ミシ……ミシ……。
「すぅ……むにゃむにゃ……レミリア、太陽の光大丈夫になったの……?」
「まぁ霊夢、寝言言いすぎよ……不自然なの」
「むにゃ……やめて紫、それだけは……」
「あら、夢に出演してしまったなんて光栄だわ」
「……汚された、洋風に……」
「どれどれ……あ、この服臭いから巫女服借りるわね」
浴びまくったDとスキマを通ったときに染み付いた生ゴミ臭が酷かったので、紫は無断で枕元の巫女服を装着し始めた。
「ん? なんだか複雑な構造ね……あらでも良い匂い、ちゃんと洗濯しちゃって……霊夢は乙女なの」
紫は藍にやらせているのでそう思うらしいが、別に霊夢でなくても普通は洗濯している。
まるで霊夢が目を覚ますことなどまったく恐れていないかのように、無遠慮に振舞う紫。
「腋がスースーするわ、よくこれで風邪ひかないわね霊夢」
「むにゃ……うっさい腋フェチ……」
「なっ!?」
思わず紫はあとずさって、酷く焦った様子で周囲を見回した。が、もちろん誰も居ない。
今霊夢の寝室に居るのは無防備に眠っている霊夢と、それを良いことに好き放題やってる紫だけである。
「ふぅ、びっくりしたわ……他に誰かいるのかと思ったじゃない、腋フェチな誰かが」
「すぅ……」
「もう、ややこしい寝言言うんだから……えいっ」
まるで母親のような優しい笑顔を浮かべて、霊夢の頬を指で突付く紫。
しかし単なる不法侵入者なので、その笑顔の優しさは全く逆ベクトルの気味悪さに変換される。かなり不気味な光景だ。
「さぁ行くわよ霊夢。幻想郷は私達が守るの、良いわね」
ミノムシのように布団に包まる霊夢、紫はその砦たる掛け布団を掴むと、乱暴にそれを引っ剥がした。
コマ回しよろしく、霊夢は空中で数度キリモミ状に回転した後、頭から床に突っ込んだ。
「んぎゃっ!?」
「あ、いけない、起こしてしまったわ」
「ぅぅ~……?」
霊夢は地面に手をついてのっそりと四つん這いになると、状況がつかめず緩慢な動作で周囲を見渡し、後頭部をぽりぽりとかいた。
目の前には自分が明日着るはずだった巫女服を着た変な奴がいる……。
「ん~? 紫何してるの……?」
「なんてこと霊夢……寝巻きまで腋丸出しなのね……貴女の美学、見事……!!」
どうでもいいことに何故か感動する紫。霊夢の寝巻きはやはり袖が胴の部分と分離して、肩と腋が露出していた。
一方霊夢は現実離れしたこの状況を見て、まだ夢の中にいる気分らしい。
特に紫を咎めるでもなく、不思議そうな面持ちでただ首を傾げるだけだった。
闇の中でギラギラと禍々しく輝く紫の視線と、とろんとした霊夢の視線。何も語らずただ見つめ合う時間が続く。
「はっ!?」
突然霊夢が飛び上がり、自分の腋に手を当てる。焦りの表情はすぐに安堵の表情で塗りつぶされた。
寝ている間に付け腋毛をやられたのかと思ったのだが、紫の目的はそれではないらしい。
しかし安堵の表情も束の間、すぐ直後に怒りの表情へと目まぐるしく変化した。
「何してんのよ紫!! ……ちょっと!! 服返してよ!!」
「あ、目が覚めたのね。ちょっと聞いて霊夢、このままだと幻想郷が大変なことになってしまうの」
「えっ……? 何事?」
永夜の一件のときもこんな感じだった。紫は突然来訪し、霊夢を叩き起こしたのだ。
あの時は勝手に服を着たりはしなかったけれど、紫の扱いに慣れている霊夢は多少の「おいた」は気にしなかった。
別に服ぐらい何着も替えがあるのだし、それよりも「幻想郷が大変なことになる」という言葉に敏感に反応した。
「このままだと魔理沙が幻想郷を滅ぼすわ!!」
「……バカじゃないのあんた?」
そういえば、そんなに大変なことなら藍だって連れてくるはずである。
そもそもなんで私の服着てるんだこいつ、この時点で確実にふざけてるじゃないか、と霊夢は思いなおした。
しかも脱ぎ捨ててある紫の服の方から異臭がする、生ゴミのような、ドクダミのような……。
「寝るわ、服は適当に洗って今度返してよね、あとそこの臭い物体はどこかに持って行ってよ……ぐぅ……」
「ね、寝るの早!! 霊夢ぅ~~……報酬あげるからぁ! ついてきてってば!!」
「すぅ……え、報酬?」
「ええ、はずむわよ」
「なにくれるのよ?」
「……付け腋毛……」
「……すぅ……地獄に落ちろ……」
「もぉぉぉぉぉぉ!!」
再び布団に包まった霊夢。紫が布団を引っ剥がそうにも、かなり強い力で巻き込んでおり上手くいかない。
もどかしくて仕方の無い紫は霊夢を跨いで思いっきり掛け布団を引っ張り上げたのだが、なんと布団もろともに霊夢が持ち上がって辟易した。
今、霊夢と掛け布団は凄まじい結合力によって一心同体と化しているのだ。
「すぅ、すぅ……」
「くぅぅぅっ!! 流石霊夢、凄まじい根性……一筋縄ではいかないわね。この掛け布団こそ貴女を守る結界!!」
そう、とてつもなく強固だった。難攻不落の無敵要塞さながらである。
持ち上がった霊夢を下ろすときに少し乱暴に落としたのだが、掛け布団がクッションとなり霊夢が目を覚ますことはなかった。
焦り気味に周囲を見回す紫、魔理沙が暴れている隙に霊夢にあのドクダミ液を飲ませないといけないのだ。一刻を争う。
「はっ……!」
紫の目に入ったもの、それは霊夢お気に入りのお払い棒……。
時には武器になり、時には盾になり、暇なときは一人チャンバラに興じたりと万能なステキ棒(ステッキ)だ。
「ブフッ!! さむっ!!」
紫は『ステキステッキ』という言葉を想像して思わず噴出すと、ステキステッキを手に取った。ステッキは杖のことだったような気もするが……。
右手で握り締め、左手の手のひらの上でぽんぽんと弄ぶ。大好きな霊夢をこれで……引っぱたいて起こす。
えもいわれぬ不思議な感情が紫の心の中に満ちていく。
「はぁはぁ……霊夢、貴女が悪いの……大人しくついてくればこんなことせずに済んだのに!」
紫は霊夢に馬乗りになると、手にしたステキステッキを頭上に掲げて一息にそれを振り下ろした。
ステキステッキは寸分狂わず霊夢のこめかみに直撃し、一瞬にして霊夢を夢の世界から引きずり出した。
「痛ぁぁぁっ!!」
「れ、霊夢! 貴女が悪いのよぉぉ!!」
「痛い! 痛いっ!! 何すんのよーっ!!」
霊夢は布団に包まったままもがき、必死に抜け出そうとしているのだが、紫が馬乗りになっているためにままならない。
三段、四段……霊夢の頭にそびえ立ったタンコブタワーは殴打数に比例してその高さを増していく。
「せいっ!!」
「んぐっ!! ぎぎぎ……」
霊夢が十分に弱ったのを見計らってミノムシな霊夢にのしかかると、紫は霊夢の寝巻きの襟を利用して絞め技をかけた。
霊夢の顎の下に左腕をもぐりこませ、右手で掴んだ襟を反対側に向かって思い切り引き絞る。
脳に流れる血流が遮られて霊夢の顔は段々青く染まり、その目は意識が薄れると共に焦点を見失う。
「ゆ、ゆかっ……おぼえっ……がくり」
「ふぅ、ふぅ……し、死んでないわよねまさか……」
霊夢を布団の砦から引きずり出してその胸に耳を当てると、心臓はしっかりと動いている。
この手の絞め技は相手が意識を失ってすぐに離せば死に至ったりはしないのだ、そのぐらい紫も知っていそうなものだが……。
やはり心臓の鼓動を確認した後も、しばらく嬉しそうな顔でその姿勢を維持していた辺り、知っていてやっていたのだろう。確実に。
他に誰も居ないのだからもっと思い切った事だってできるのにそうしないのは、ある意味謙虚さを感じさせる。
「さて、寝巻き霊夢を他の奴らに見られるのもシャクだわ……着替えさせるけど良いわよね? じゅるっ」
紫は霊夢の上半身だけを抱き起こし、頭を掴んで無理矢理頷かせる。
『うん! 良いわよ紫! 着替えさせて!』
――腹話術。
「ふふふ、物分りが良いわ」
滅茶苦茶だった。
紫はまるで自宅であるかのように、一発で巫女服のしまってあるタンスを探り当てて、一着取り出した。
そして手際よく霊夢の寝巻きを脱がせ、巫女服を装着させていく。自分で着る時は手間取った割に、脱がせるのや着せるのはやたら早い。
「こうしてると昔を思い出すわぁ、藍もなかなか服の着方を覚えられなかったの、うふふ」
そこのところには正当性があるようだ。本当の話かどうかは不明だが。
次に自分の脱ぎ捨てた臭い服をまさぐって櫛を持ってくると、それで霊夢の髪の毛を梳いて整え、ポニーテールを結ってやった。
「これでよし、と……どこに出しても恥ずかしくない立派な霊夢に仕上がりましたっ」
手際良く……というよりも手早かっただけで、結構ぐちゃぐちゃである。無理も無い、霊夢は意識が無いのだから。
藍に服を着せていた話が本当だったとしても、そのときは藍だって服を着るために手伝いをしただろう。
そういう状況では、やれ右腕を上げろだとか、首をここに通せだとか、指示をしつつ着る相手の助力を得て着せるものだ。
しかしうなだれている霊夢がそんなことできるはずもなく、どこかに出したら結構不審である。顔色も悪いし。
ポニーテールもなんだか曲がっている。結んでいる最中霊夢が頭を垂れていたからだろうか。
まるで、もつれ合っている間にうっかり殺してしまって、そのまま山にでも埋めに行くかのような血生臭い装いである。
服がお揃いなのも不可解だ。とてもじゃないが姉妹になんて見えっこない。
「さて急がないとね、魔理沙がいつまで暴れているかもわからないし、霊夢がいつ目覚めるかもわからないし」
当の紫はそんなこと気付きもせずに霊夢を担ぎ上げると、永遠亭に戻るべく再度スキマの口を開けた。
少しだけ頭を突っ込んで臭いを嗅いでみると、いくらかは生ゴミの臭いが落ち着いたようにも感じる。
どっちにしたって、これを通らなければ無駄な時間がかかるので選択の余地は無い。目的地はもちろん永琳の地下室。
「どれどれ……行く前に一応確認しておこうかしら」
結構な時間離れていたはずだが、相変わらず地下室の中はもぬけの空だった。
きっと魔理沙の暴れ方が相当に酷くて大混乱に陥っているのだろう。丁度良いのでこの隙にドクダ巫女を復活させ、根こそぎ抹殺させよう。
その光景を想像すると紫は楽しみでしょうがなかった。あの憎たらしい魔理沙がドクダミ漬けにされるのはさぞ気分が良かろう。
「それじゃ行きましょう霊夢……」
何も答えない霊夢を担いだまま、紫はスキマの中へ身体を滑り込ませていった。
永遠亭の真っ暗な廊下を照らすかのような金色の瞳、鈴仙による拘束を自力で解いた八雲藍は疾走していた。
何やら様子がおかしい。さっきから星が降ってくるのもそうだが、警備のイナバ達の様子が殊更に奇妙だった。
皆地面に倒れて苦しげに唸ったり、胸元をかきむしったりしている。脱走している藍のことなど見向きもしない。
たまに気付いて追いかけてこようとする者もあるが、その動作は極めて緩慢で、藍の俊足に追いつけるものではない。
(何事……? 傷を負っている様子でも無いし……)
一つ気付いたことがあるとすれば、屋敷中に漂うドクダミの臭いだ。
魔理沙にやられて落ちかけていた袖を引き裂き、口元に当てているのだが、それでも眉をしかめたくなるほどの臭い。
(疫病でも蔓延しているのか……?)
ドクダミは臭いこそきついが身体に良いもののはず、屋敷のあちらこちらに緑色の水溜りがあるが……。
この臭いに住民がやられているとでも言うのだろうか。
(紫様はどこだ……早く見つけてここを脱出しないと……)
それは野性の勘などというものではなく……先ほどから自分の体が、疼きという形で発する警告音による焦りだった。
どうやら自分も疫病に感染してしまっているらしい、強力な妖怪である藍は身体も丈夫だからその進行は遅いようではあるが。
しかし式神が落ちてしまっているのもあって、紫の位置がまったく把握できない。藍は心細かった。
「はぁ……はぁ……どうなってるのよ」
永遠亭は広すぎる、かといって何が起こるかわからないこの状況、妖力は温存したいので飛ぶわけにもいかない。
どうせ警備も薄いので一休みしようと壁にもたれかかり、やたら高鳴る胸に手を当てて何度か深呼吸した。
(疲れかと思ったけどこれは息切れじゃない……疲れが、ない? 何なのよ、体が熱い……紫様……)
妖力も少しずつ回復してきた気がする……元々、使った後ゆっくりと回復するものではあるが、その回復力が普段より大きい。
それなのに何だか得体の知れない渇きがある、妖力だけがどんどん大きくなっていく不思議な感覚。
ふと、弱々しい気配を感じてそちらへと目を向けると、一匹のイナバが壁に手をつきながらフラフラと歩いてきた。
「うぅ~……」
「……おい、何があったの? これは私の主の仕業ではないようだが」
「で、でぃ~……まり……クサッ……」
「でぃー、まり……魔理沙か?」
「はや、く……永琳様に……ごふっ!!」
「おい、どうした!?」
倒れこんだイナバの小さな体を抱き起こし、揺さぶったり頬を打ったりしてみるが反応は無い。
揺さぶられた方向と逆に首がカクンカクンと動くだけだ、死んではいないようだが意識が無いらしい。
「何が起こったんだ本当に……っ!!」
イナバをそっと床に寝かせると、藍は顔を抑えてしゃがみ込んだ。
こんなに恐怖を感じたのは久しぶりのことだった、魔理沙と戦ったときも多少は感じたが、戦いで感じる恐怖とは違う。
紫を怒らせてしまったときの恐怖とも違う……これは得体の知れない不気味な何かに生命を脅かされるような恐怖。
逃げ出そうにも永遠亭は広すぎて道が分からないし、空から逃げることは可能かもしれないが……どちらにせよ紫を放っておくわけにもいかない。
「紫様……紫様っ!! ……藍はここに居ます、どうか、どうか……」
「うぅーっ」
「な、なんだっ!?」
「でぃー……でぃーちょうだいぃぃ」
「うわぁっ!!」
先ほど意識を失ったはずのイナバがいつの間にか起き上がって、ゆらゆらと生気の無い動きで藍に迫り、肩を掴んだ。
驚いて突き飛ばしたものの、辺りを見回すと既に同じようなイナバがうろうろと徘徊している。
Dの臭いで、妖力がキャパシティを超えてしまったイナバ達は正気を失い、
元気に走り回っている藍ならばDを所持しているのではないかと勘違いしているのだ。
Dを欲するのは丈夫な身体を作る手段として、本能的にそれを感じているからだろう。
「ま、まるで食屍鬼だ……!! 魔理沙め、何をしたというの!?」
これだけ妖力が有り余っているならば飛んで逃げてしまっても問題ないと判断した藍は、飛び上がってイナバ達を振り切った。
藍、紫、永琳辺りの実力者は、その身体に宿せる妖力の量も相応に高い。
現に永琳は平気で動き回っているし、イナバ達のリーダー格であるてゐにもそこまで深刻な症状は出ていないことが予想される。
影の薄い輝夜は相変わらずイナバ達の居住区から遠く離れた部屋におり、一人で何かしているので影響は無い。
それに先んじて工場でDを盗み飲みしているので、大分耐性もあるはずだ。
何故こんな状況になったのか?
永琳の誤算がまずその原因だった。
それはDに耐性の無いイナバ達が、臭いだけ与えられると暴走状態に陥る事実に気付いていなかったこと。
もちろんてゐ達もそれを知らず、永琳の部屋に運ぶ途中に結構こぼしていたのだ。
それだけでなく、たまに耐えられなくなって廊下でDをかけあったりもした、大はしゃぎだった。そのせいでDの臭いに汚染されたのだ。
そして先ほど、てゐが床を舐めさせたイナバのような症状が無関係のイナバ達にも現れ始めた。
かくして、イナバゾンビが大量に出現してしまったのである。ゾンビと言っても死んでいるわけではないが。
後はイナバゾンビがその臭いの媒介として屋敷内をうろつけば、次々に症状が飛び火する。
「紫様ぁーー!! どこにおられるのですか!! 藍はもう長くはもちません……!!」
藍の悲痛な叫びは、永遠亭の闇の中へと溶けていってしまった。
その紫はというと……無事永琳の地下室へと侵入を果たして、Dの入っているタンクをいじくり回している。
手術台の上には霊夢が寝かされている、その血色は既に元に戻っているのだが、
「ぐぅ……」
器用なことに、気を失って目を覚ますことなくそのまま眠りについたらしい。
紫はそれに気付いていないようだが、霊夢はそう簡単に目を覚まさないようなので何の問題も無かった。
「う、うーん……この管を使ったらすぐに目を覚ましてしまいそうだし、使い方もよくわからないの」
タンクは一見それほど複雑な仕組みには見えないが、扱ったことの無い紫にしてみたら難解らしい。
それに紫が言ったとおり、管でDを飲ませようものなら口に入った瞬間息ができなくなって霊夢は目を覚ますだろう。
大量に飲んでくれなければ意味が無いので、その方法も望ましい結果に繋がるものではなさそうだ。
「そのまんま入れてしまいましょうか」
紫はもっとも短絡的で凶悪な手段を選んだ。タンクの中にそのまま霊夢を放り込むつもりだ。タンクは三つもあるし一つぐらい良いだろう。
大きなタンクの蓋をずり下ろし、そのままタンクの横へと立てかければ準備完了。あとは霊夢を放り込むだけ。
タンクの中にはてゐ達の苦労の結晶であるDがたっぷりと蓄えてあった。霊夢をぶち込んで少し待てばドクダ巫女の完成です。
「どっこいせ、そーれっ!」
紫は軽々と霊夢をお姫様抱っこして、そのままDタンクの中へと投げ落とした。
勢い余ってタンクの側面に頭をぶつけた霊夢は、錯乱状態のまま緑色の液体の中でもがき苦しむ。
「ぶぁぁぁぁぁっ!! な、何よぉぉぉぉぉ!!」
「許して霊夢!! これも幻想郷のためなの!!」
「がばばぼぼぼぼぼ!!」
紫は右手で霊夢の頭を押さえつけてDの中へと沈め、左手でDの蓋を手繰り寄せる。
霊夢は何が何だかわけがわからず、両手を出してその水面を何度も叩き、Dを飛び散らせていた。
最後にもう一度霊夢を思い切り沈めると、紫は蓋をしてさらにその上に載りかかり、霊夢を中へと封印した。
タンクの蓋や側面を殴る音が聞こえる。霊夢は中で相当苦しんでいるらしい。だが紫は一切の情けをかけない。
「魔理沙をドクダミ漬けにしてやるのよ!!」
内側からタンクを殴って必死に抵抗していた霊夢だったが、次第にその音が小さくなり、回数が少なくなり……。
ついには力尽きて何の音もしなくなった。紫は額に流れる汗を巫女服の袖でぬぐい、大きく息を吐く。
そしてタンクから身を離し、改めて地下室の中を見回した。様々な薬品のみならず拘束具も色とりどり並んでいる。
「丁度良くそこら辺に縄もいっぱいあることだし……」
紫は手頃な縄を拾い上げて両手に持つと、その強度を確かめるように何度も両側に引っ張った。
その手ごたえは見るからにがっちりとしており、紫が望んだ十分な強度を持っているようだ。
ご機嫌な様子でそれをタンクに巻き付け、霊夢が出てこられないように強く縛った後、背負うのに都合の良い肩紐を作った。
縄の扱いが妙に巧みなのが気持ち悪いが、それはおそらく考えすぎだ。
「ふっ!! んむぅぅぅ!! ふふ、ふふふふふ……」
霊夢がすっぽりと収まってまだいくらかの余裕があるタンク。
そんな巨大なものに人一人と液体がたっぷり入っているのに、紫はさほど苦労せずにそれを背負った。
そしてそのまま不気味に笑っているのは、これから繰り広げられる惨劇を想像してのものだろう。
「熟成するのに少し時間がかかりそうだし、藍を探してこようかしら。きっと心細い思いをしているはずなの」
紫は軽快な足取りで地下室の階段を駆け上がり、藍の妖気を探った。
少し離れたところに微弱ではあるが藍の気配を感じる。まるで何かから逃げているかのような様子だが……。
永遠亭のはるか上空から鈴仙と魔理沙の気配も……まだ決着がついてないようだ。
そして最後に、永琳と九つの巨大な妖気がここに向かってきている。何をするつもりなのだろうか……。
「……思ったほど芳しくないわね、早いところ済ませないと」
久しぶりに真剣な表情を取り戻した紫は、重いタンクを背負っているにも関わらず藍の方角へと全力で走っていく。
「待っていなさい藍、最後に勝利を収めるのは私達……」
――続く――
タイトルはそういう意味でしたか
>>(やっぱりドクダミ臭いわ……霊夢が横に居るみたい……)
折角のいいムード台無しwwwww
うふふふふふ……。