――今日も、幻想郷は平和だった。
/序
紅葉が舞い降りている。
縁側から庭を見回した時、八雲 藍には一瞬そう見えてしまった。実際には、紅葉を通り過ぎ、赤茶けた葉っぱが多数を占めている。ゆるやかに吹く風に誘われて、まだ生き終えていない葉が落ちるから、そう見えただけのことだ。
それでも、見目は良い。はらり、はらりと舞い散る様は、春の桜の別れにも似ていた。どこか寂しさを憶えるのは、この先に待つのが夏ではないせいだろう。
秋が終わろうとしていた。
風に冷たさが増してきた。紅葉を散らす風は、その強さではなく、冷たさを以って葉を落としていた。強風がくれば、思わず身体を縮めたくなる。寒がりの橙などは、最近めっきり布団から出てくるのが遅くなってしまった。太陽が出ていれば温かいものの、日陰に入ると冬の到来を感じてしまう。氷精が元気になってきたのも無関係ではないだろう。
季節は移り変わる。
夏から秋へと移ったように。今、幻想郷は秋から冬へと移ろうとしていた。
幻想郷の冬は厳しい。冬の精にとっては楽園のような時期だが、普通の人間や妖怪にとってはそうもいかない。資源は無限ではなく、暖房のようなものも数少ない。香霖堂にはストーブが置いてあるが、すべての家がそうできるはずもない。純粋に食料などの備蓄も考えれば、冬を越す、というのは一大事なのだ。
それはここ――幻想郷の境に住む、八雲の家においても例外ではなかった。
「藍」
名前を呼ばれて、縁側から庭を見下ろしていた藍は振り返る。主である少女、八雲 紫がこちらを見ていた。眠そうな瞳は、瞼が中ほどまで降りているせいではっきりと見えない。布団の中で丸くなったまま、顔だけをあげて藍を見ている。
あるいは――藍の向こうに広がる、秋の終わりかけた幻想郷の風景を。
「何でしょうか」
よく透る声で答えながら、藍の頭脳はまったく別のことをも同時に考えていた。賢すぎる藍にとっては、複数思考など苦にもならない。
――珍しく、起きるのが早い。
八雲 紫という妖怪は、季節に関係なく常日頃から一日の半分を寝て過ごしている。冬が近づくにつれその時間はゆっくりと伸び、本格的に冬が訪れれば、紫は一冬の間冬眠して過ごす。起きるのは次の春、だ。
よほどの異変がない限りは。
それを踏まえた上で藍は思う――早起きだな、と。昨日の夕方眠りについてから、まだ半日と経っていない。遅く起きることは多々あれど、早く起きることは珍しかった。実は聞き間違いで、紫はまだ寝ているのではないかとすら考えてしまった。
そんな思考が顔に漏れていたのか、半目の紫は微笑み、
「おはよう、藍」
とろけるような声で、そう挨拶した。
挨拶されては――無視するはずもない。藍は小さく丁寧に頭を下げ、
「おはようございます、紫様」
頭をあげると、先以上に紫の笑みが濃くなっていた。「はい、おはよう」ともう一度紫が言い返す。そのやりとりが嬉しく思ったのかもしれない。
まだ寝ぼけているのかもしれない、と思う。
が、よく考えてみれば、常人から見た八雲 紫というのは、いつも寝ぼけているように見える。その真意を掴むことなど、恐らく本人にしかできないだろう。
「良い空ね」
寝転がったまま、紫がそう言った。半眼での笑みは変わらないままだ。
「そうですか?」
「ええ、そうよ。お日さまも綺麗」
言われるがままに、藍は振り返り、庭と、その彼方に広がる空を見た。
――良い空、なのだろう。
どこか寂しさを覚える、突き抜けるような秋空だった。遠くから近くへと、近くから遠くへと雲が流れている。季節のように流れる雲は白く、雨の気配を感じさせなかった。晴れてはいるものの、太陽の光を眩しいとは思わない――
そこまで考えて、気付いた。
寝ている八雲 紫。その位置からでは――空も太陽も見えないということに。
「紫様――」
からかわれたのだろうか。そう思いながら藍は振り返り、
「――、?」
振り帰った先に、紫はいなかった。
布団は文字通り、もぬけの殻だった。セミの抜け殻のように、人型に膨らんだままの掛け布団。衣擦れの音も畳を踏む音もしなかったのに、まるで世界から削り取られたかのように、紫の姿だけが消えていた。
何が、と思うよりも早く。
「ほら、良い空じゃない」
紫の声がした。布団から、ではない。藍の真後ろ、縁側と庭の方から声がしたのだ。
「…………」
恐る恐る――半ば確信を持って――藍は振り返る。案の定そこには、浴衣姿の紫が座っていた。縁側に腰を降ろし、素足をぷらぷらと揺らしている。子供のような眼差しで、秋空を見上げて笑っていた。
はぁ、と藍はため息一つ。
「……紫様。布団から出るのに、わざわざ隙間を使わないで下さい」
「あら。だって」
「だって?」
「布団から出る瞬間が、一番の労苦なんだもの」
「…………」
一瞬藍の脳裏に浮かんだのは、布団の中で丸くなる橙の姿だった。布団から出るようにいっても、あと五分だけといって中々出てこようとしない。目が覚めても寒いという理由で布団から出てこない。そのくせ、一度布団から出てくればてきぱきと動くのだ。出る瞬間が一番辛い、というのは、ようするにそういうことだろう。
何を言う気にもなれなかった。
「とにかく、着替えてください」
「ええ。――はい、これ」
言葉と共に突き出された紫の手には、服と帽子と櫛が握られていた。いつも通りの、紫色を基調としたゆったりとした服。勿論今の今までそんなものを握ってはいなかった。一瞬の間に、隙間から取り出したのだろう。
布団から縁側へと移動したように。
八雲 紫は、境界という境界を操る妖怪なのだから。
「分かりました」
服と帽子、それから櫛を藍は受け取った。そしてその櫛を、紫の髪へと通す。紫はお願いね、とも言わないし、藍はやらせていただきます、とも言わない。これはもう、彼女たちにとっての日常なのだから。
無言で金の髪を梳く藍。寝癖が強く所々はねてもつれ絡んでいる――というわけではない。櫛を通す必要がないほどに髪は整っていた。それでもそうさせるのは、ある種の儀式――朝の始まりを告げるような行為なのだろう。
もう昼だけれど。
紫の言うように天気はいい。縁側は日が当たるため、影にいる時よりは暖かい。けれども、時折吹く風の冷たさに、冬の到来を思い出させられる。
ひと際強い風が吹き――庭に舞い散る枯葉が、重力を忘れたかのように地面から空へと舞い上がった。風に乗ってくるくると踊り、葉は再び地面へと戻ってくる。
髪を梳きながら、藍はぽつりと、
「もう――冬ですね」
髪を梳かれながら、紫が答える。
「もうすぐ――冬よ」
風が収まる。吹きすさんでいた風が遠くへ去り、枯葉たちは折り重なるようにして沈黙した。枝に残ったわずかな葉が、哀愁と共に揺れている。
「そうね、冬がくるのね……」
その景色を見ながら、紫が独り言のように呟いた。
今年もまた、冬眠なさるのですか――そういいかけて、藍はぐっと口を噤んだ。聞くまでもないことを聞く必要はない。彼女が何を言おうと言うまいと、そんなこととは関係なく、紫は冬眠につくだろう。昨年も、一昨年も、その前も、その更に前もそうであったように。
そして藍は、その間にも働き続ける。橙と共に。
遠くに聞こえる、春の足音を待ちながら。
「なら、」
そう言って、紫はすっくと立ち上がった。髪を梳くのはこれで終わり、という合図。藍は懐に櫛をしまいながら立ち上がり、紫の帯に手をかけた。
帯を解き、紫の浴衣を脱がす。布一枚とて覆われていない肌が露わになり、その上を金の髪が流れた。黄金と薄桃の色合いに藍の目が眩みそうになる。白に近い、柔らかそうな肌の色。それを隠すものは、何もない。
脱いだ浴衣を手に抱え、藍はいつもの服を紫に着せる。紫自身は一切動かない。手や足を藍が持ち上げるときに、わずかに力を抜く程度だ。
縁側でする以上、外から見られてもおかしくない――というよりも、外からは二人の姿は完全に見えている。隠すものは何もない。
ただ、見る者がいないだけだ。
縁側からは幻想郷が見渡せる。庭の向こうに広がる幻想郷は、冬の準備で慌しくなっている。ここからならば、そのほとんどを見ることができる。
逆がないだけだ。
幻想郷の境目に位置するこの場所は、普通の人間には来ることはおろか、見ることすら叶わない。もし訪れる者がいるとすれば――それはもう、普通でも人間でもない。そんな相手は限られているし、見られても困るようなものではない。
と紫は考えているのだろう――と藍は思う。思うが、自分が裸になっているのでもないのに、恥かしさを完全に消しきれない。とくに橙にまじまじと見られているときなど、しらず顔が赤くなってしまう。
幸い、この日は橙は現れなかった。八雲 紫の着替えはつつがなく終わり、何事でもないかのように平然とした顔で、紫は帽子をかぶった。
いつも通りの、八雲 紫が出来上がる。
開いた袖を翻しながら紫は庭へと降りる。その姿を、藍は脱ぎ終えた浴衣を畳みながら見やる。紫はどこか楽しげな足取りで庭の中ほどまで歩き、そこで立ち止まって藍を振り返った。
楽しそうに微笑む紫の瞳が、じっと九尾の狐を見た。
藍は手を止め、その瞳を見返す。
瞳は細まり、楽しそうな声で、
「人間を、食べに行ってくるわ」
まるで冗談のような軽さで、そう告げた。
それが嘘でも冗談でもないことを知っている八雲 藍は、小さく頭を下げて、
「行ってらっしゃいませ」
主の出立を見送った。
藍の返事に紫は満足そうに笑い、その瞬間に風が吹く。紫の足元に積もっていた枯葉たちが、空を目指して駆け上がる。くるりくるりと枯葉が舞う。枝から落ちた紅葉と交ざり、まるで桜吹雪のように世界が変わり、藍の視界が染まりに染まり――
風が止んだ後には、幻のように、八雲 紫の姿は消えていた。
/破
稲原 高志はその日、15歳の誕生日を迎えたばかりだった。都会と違い、田舎での15歳は大きい。未だに昔ながらの風習が伝わるその村では、男子は15歳にして成人と見られていた。その歳を過ぎれば、村の農作業に本格的に加わることになる。嫁をめとり、子供を作ることもできる。そういった風習が――良しにせよ悪しきにせよ――この村には残っていた。
そのことに対して、高志は嫌とも応とも思っていない。揶揄すれば『レールに乗った人生』だが、逆に言えば道が保証されているということでもある。それ以外の世界を知らないわけではなかったが、これが自分に最もあっていると高志は思っていた。
この村で生きて、村で歳をとって、村で死ぬ。
昔から彼はぼんやりとそう思っていたし、だからこそ村の老人たちは彼を可愛がっていた。ゆっくりと過疎へと向かいつつある村にとって、やる気のある若者とは何ものにも変えがたい宝なのだから。
しかし――
「……わざわざ誕生日に宴会することはないと思うけどなあ」
その場に集まった誰にも聞こえないように、小さな声で高志は独りごちた。もっとも、どんなに大きな声で呟いたとしても、その場に集まった誰に聞かれることもなかっただろう。長老の家――半ば公民館のような扱いだ――を使って行われている宴会で、大人たちはすでに出来上がっていたのだから。
「タカちゃん、飲んでるかぁ!?」
ふらふらと歩いてきた中年の男性が、酒臭い息と共にそう言った。高志、でタカちゃん。そう呼ばれることは少しだけ恥かしかったが、顔には出さずに「ええ」とだけ頷いた。
男性はそれで満足したのか、「いやぁめでたいめでたい」としきりにはげかけた頭を撫でながら、次の席へと歩いていった。今にもこけそうな足取りだったが、高志は止めようとは思わなかった。
実際、この広い畳部屋では、すでに何人かが倒れていた。呑みすぎと食べすぎである。
――宴会、だ。
名目上は秋の収穫祭。今年も無事に米の収穫が終わったことを祝う宴会だ。もちろん収穫祭が口実で宴会が主だが、今年はそれに高志の誕生日祝いが加わった。成人の儀を迎えた少年を飲ませ連帯意識を高める――という目的で、ようはどんちゃん騒ぎがしたかったらしい。
その証拠に、乾杯後十分とたたずに高志の存在は忘れられていた。後に残ったのは、幾つもの机の上に置かれた食いかけの料理と空いたビール缶、そして未だ呑み続ける大人たちだけである。
どうしようもなかった。
せめて、作ってくれた料理だけは食おう――そう思って皿に箸を伸ばし、
「タカちゃんタカちゃん」
名前を呼ばれて、箸が止まった。先の中年男性の声とは違う、若い女の子の声。
聞き覚えのある声だった。
顔をあげる――間もなく、声の主はあぐらをかいて座る高志の膝の上にすべり込んだ。農作業に関わっているせいか、同年代の子よりも高志が大柄なせいか、あっさりと組んだ足の上に座られる。
そして少女は、高志の顔を下から見上げて、にっこりと笑った。
「タカちゃん、ご飯ちょうだい」
満面の笑顔だった。
何か言おうと思って――結局何も思い浮かず、高志は止めていた箸を動かし、から揚げをつまんで、少女の口元まで持っていった。
「ほら」
高志が差し出すから揚げに、少女は嬉しそうな顔で飛びついた。茶色がかかった髪の毛が揺れ、少女の匂いが高志の鼻をくすぐった。どうしてこうも男と違うのか、たまに不思議に思ってしまう。
から揚げを一口で食べ、もぐもぐと咀嚼しながら、少女は高志へと背を預けた。軽い衝撃のあとに、軽すぎる身体からじんわりと体温が伝ってくる。
食べながら、少女が言う。
「ほひひい」
「それはよかった。柳瀬さんちの伯母さんに言ったら喜ぶよ」
「ひはふよ」
「食べてから喋れよ……」
ごっくん、と音が聞こえそうな勢いで少女はから揚げを飲み込み、高志を見上げて、
「タカちゃんが言った方が、もっと喜ぶよ?」
「……それはちょっと恥かしいな」
でしょー、と少女が人差し指を立てて自慢げに言う。その仕草が可愛くて、高志は少女の短い髪をくしゃくしゃと撫でた。んー、と目を細めて、少女は気持ち良さそうな顔をする。撫でてもらうのは好きらしい。
来年小学校を卒業する少女の身体は小さく、高志の膝の上にすっぽりと納まってしまう。猫のように身体を寄せながら高志を見上げ、
「楽しんでる?」
「あんまり」
高志は正直に答えた。食べているときならまだしも、そこまで腹の膨れた今は、やることがない。酒は少し飲んだが、その少しでもう十分だった。
「ならタカちゃん」高志を見上げる少女の瞳に、好奇心のそれが交ざった。「外いこ外。お散歩しよっ」
「…………」
少しだけ、悩んで。
「いいよ」
高志はそう答えた。少女もまた、自分と同じように暇を持て余しているだろうことは、十分に分かったからだ。従妹にあたる少女との付き合いは長い。何を考えているかくらいは、高志には十分過ぎるほど分かった。
「酔いさましにふらふらとでいいなら」
「? タカちゃん、酔ってるの? お酒飲んだの?」
「少しだけだよ」
答えて、高志は少女の両脇を持ち、「よっ」という掛け声と共に立ち上がった。少女の小さな身体がぐんと持ち上げられ宙に浮く。空を飛ぶかのような感覚に、少女の顔が笑いに染まる。
「わっ、わっ、」
脚が届かないのでふらふらと揺れる少女を、高志はとん、と畳の上に降ろした。いきなりの動作についていけず、ぺたん、と少女は座ってしまう。
その少女に、高志は手を差し出し、
「行こうか」
「……ん」
差し出された手を少女は握り、「んしょ」と掛け声を出して立ち上がった。二人が並んで立つと親子のように見えるが、誰も宴会に夢中で二人が立ったのを見ていない。
わざわざ説明するのも面倒なので、二人は誰にも言わずに――そっと宴会場から抜け出した。
誰にも、知られることなく。
田舎の道は暗く、明るい。矛盾しているがそうとしかいえなかった。月と星が見える場所は明るいというのに、それが遮られる森や林に入ると、光一つない本当の闇が待っている。民家のほとんどが早々に灯りを消し、街灯やビルが存在しないせいだ。
明るいところを歩くにはいいが、暗いところは絶対に歩いたら駄目だ、と言われている。
高志たちが歩いているのは、その丁度中間だった。
村長の家。その裏口から、山の頂へと伸びる石階段。空には何もなく、月と星明りが届くものの、少し脇に行けば森の中へと入ってしまう。神社へと通じる石階段は、昼間ならば散歩には丁度いいもの、夜に行こうとするものはいない。
いないからこそ、行きたくなったのかもしれない。
「あーー」
夜の空に向かって、高志は意味もなく声に出して息を吐いた。冬も近づいてきたせいか、風が肌寒い。が、酒が入ってほてった体には丁度よかった。少女にとっては肌寒いのか、高志の腕に抱きつくようにして歩いていた。
当たるほど胸はないな、と少しだけ思ってしまう。
「あー?」
「いや……何でもない。今何時?」
自分の思考が漏れてしまったような恥かしさに陥り、高志は無理やり話題を変えた。話題転換に気付いてか気付かずか、少女は空を見上げながら考え込み、
「九時十三分四十七秒」
「秒までいらないよ」
「11月の――」
「日付もいらない」
ちぇっ、と少女は舌打ちして、少しだけ足を速めた。腕に抱きつかれている高志も、あわせるようにして歩調をあげる。石造りの階段はゆるやかで、昇るのにそう苦労はしない。
「眠くない? 九時過ぎてるけど」
「タカちゃん……子供じゃないんだよー?」
「子供だろ?」
「女だよ」
「女の子なら、なおさら早く帰らないと」
「もー。タカちゃん、人を追い返したいの!?」
「いや、そういうわけじゃないけど」
ただ単純に『夜道は危ないから』という理由で言ったのだが、少女には変なふうにとられたらしい。ぷりぷりと頬を丸くして怒る少女に、高志は言葉に詰まる。
何を言っても怒られるような気がする。
「――なんてね」
が、少女は一点して笑顔を浮かべてそう言った。
わけもわからず首を傾げる高志に、少女はにぃぃと笑って、
「タカちゃんが心配してくれてるの、ちゃんと分かってるもん」
「…………転ばないようにね」
それを言うので精一杯だった。そんな高志の横顔を見て、少女は嬉しそうな顔をする。
三つほど歳の差はあっても、主導権は完全に少女にあった。
それでもいい――と高志は思う。ようは、何かあっても自分が守ればいいのだろう。高志は少女の手を少しだけ強く握る。
少女はちょっとだけ驚いて、すぐに先よりも嬉しそうな顔に戻り、高志の隣を歩いた。
「寒くない?」
「だーいじょーぶ」
手をつないで、二人は歩く。
夜は暗い。月と星の明かりは頼りなく、今にも夜が堕ちてくるような気がした。だからこそ二人は身体を寄せ合い、ゆっくりと階段を昇った。
森は静かだ。音がたたないのではない。全ての音を吸い込んでしまうかのように、夜の森には『静かさ』が確かに存在した。静寂に押しつぶされそうな気がして、二人は互いの息が聞こえるような距離を歩く。
かつん、かつんと、靴が石階段を叩く音だけが響く。
獣の声も。
風の音も。
何も――聞こえない。
村の宴会の声が聞こえなくなったことにも、二人は気付いていなかった。頭の片隅では気付いていたが、奥まで昇ったせいだろう、と同じ片隅で思っていた。
すぐ側に相手がいることで満たされていて、それ以外のことには、まったく気付いていなかった。
楽しく、囁くように会話をしながら――二人は階段を昇る。
ゆっくりと、長い階段を昇り続ける。
神社へと続く階段を。
「何かお祈りする?」
階段の頂上が近くなった頃、高志は少女にそう尋ねた。階段を昇りきった先には神社があり、賽銭箱と拝殿がある。そこで手を合わせて帰ろうか――という話を昇りながらしていたのだ。
「んー。タカちゃんが健康でありますよーにー、とか?」
「俺のことはいいよ、自分で祈るから」
気恥ずかしくて、突き放すような口調で高志はいう。それすらも読まれていたのか、少女はへへへーと嬉しそうに笑い、
「じゃあ、変な親友が出来ますように、とか」
「変?」
「変わってるけどすっごいいい親友。タカちゃんみたいな」
「俺は変だったのか」
「変だよ、優しいけど」
そう言って、少女はまた笑う。つられるように高志も笑い――――最後の一段を昇った。
その先に、神社がある。
もはや神主も巫女もいない、そのくせ寂れることなく存在する神社。普段から人が寄り付かないというのに、なぜか朽ちることもなく、その神社はいつからかそこにあった。
正確な由来を覚えているのは、老人たちだけかもしれない。が、高志たち子供らにとっては、たまにいく遊び場に過ぎなかった。
とはいえ、夜の神社は、いつもとはまったく別物に見えた。
世界の裏側が、ひょいと顔をのぞかせてきたような――まったく異質なナニカのようだと、高志は思ってしまった。その思いを振り切るように、少女の手を握り直して、笑みを浮かべて脚を勧める。
「お金、持ってきた?」
んーん、と少女が首を横に振る。
「手、合わせるだけでいいかな」
「その分、じっくりお願いしよっ」
それがいい――高志はそう頷き、神社の前に立つ。
ぞくり、と背筋を何かが這った気がした。
神聖なはずの神社。
それに対して、何か――酷く、悪い印象を感じてしまう。
薄暗いせいだとは分かっている。昼間に見る神社はただの神社だ。そう分かっていても、本能的な恐れが這うのを止めることはできなかった。
――早く帰ろう。
そう思いながらも、少女を心配させないよう、高志は勤めて平静でいた。
「それじゃあ、」
言って、高志は賽銭箱の前に立つ。その奥にある拝殿の扉は、今は閉まっていた。からころとなる鈴から垂れる縄は一本。
その前の場所を、高志は少女に譲る。
「鳴らしていいのっ?」
「いいよ」
「やったっ!」
少女は嬉々として賽銭箱の前に立ち、がらん、ごろんと鈴を鳴らした。夜の神社に響く鈴の音が、どこか乾いた音だったのは、高志の気のせいではないだろう。
がらん、ごろん、と。
頭の中で、鈴の音が響く。少女は嬉しそうに鳴らし、そのたびに、微かに、頭痛がした。
悪寒は止まない。
がらん、ごろん――いつまでも続くかのような音は、あっさりと止んだ。横目で見れば、縄から手を離した少女が、同じように高志を見ていた。
「えへ」
目があったのが気恥ずかしかったのか、少女が笑った。可愛らしい笑みに、少しだけ高志の心に温もりが戻る。
――不安に思う必要なんて、何もない。
心に淀む不安を押し込めて、高志も笑った。笑って、拝殿に正対する。頭痛は嘘のように消え去り、悪寒の代わりに、冬を感じる風の寒さだけが残った。
――風邪を引かないように、早く帰ろう。
そう思いながら、高志は拍手を打った。隣に立つ少女も、同じようにぱん、ぱんと二度打ち、瞼をぎゅっと閉じて頭を下げた。
そう。
その様を――高志は見ていた。
本気で深々と頭を垂れてまで、時間をかけて祈った少女と違い。
その少女を横目で見ていた高志は、拍手を打っても、瞼を閉じることをしなかった。
だから――
だから、見てしまった。
つい、と。
視線を、少女から拝殿へと戻したときに。
見て――しまった。
拝殿の扉が、開いているのを。何の音もしなかった。そして、扉が閉まっていたのも確かだった。だというのに――魔法でも使ったかのように、閉じていたはずの扉は、今、その奥に隠されているものを曝け出していた。瞼を閉じて祈る少女はそれに気付かない。
だから――中を見たのは、高志だけだ。
開いた扉の奥。
光の点らないはずの中。
紫に輝く瞳と――はっきりと、視線があった。
「――、」
うぁ、と言おうとしたのだ。
叫びとも呻きともつかない声を漏らそうとしたのだ。しようとしただけで、実行に移すことはできなかった。拝殿の奥からにゅうぅ、と白く細い手が、高志の口を塞いだ。女の手にしか見えないというのに――大の男に押さえつけられたかのように、高志は口を動かすことすらできない。
恐怖を感じる暇もなかった。
手の主は――その時間を、高志に与えなかった。
出てきたときと同じように、にゅうぅ、と手が拝殿の中へと戻っていく。
――高志を掴んだままに。
賽銭箱にぶつかることもなく、吸い込まれるように高志は手に引きずられ、闇の奥に紫に光る目玉と、赤く赤く赤く微笑んだ唇が見え、その唇がゆっくりと笑みにを変え、
扉の向こうが、遠ざかる。
最後に見えるのは、顔を伏せたまま、祈り続ける少女の姿。
高志は少女の名を、叫ぼうとした。押さえられた口の端から、その叫びが漏れることはなく――
拝殿の扉が音もなく――――閉じた。
そして少女は顔を上げた。
祈っている最中だった。世界が平和でありますように。ちょっと変わった、でも変な親友が、いつかできますように。そして高志がいつまでも元気でいますようにと祈ろうとした瞬間、少女は聞いたような気がした。
――蓮子、と、自分の名前を呼ぶ声を。
が、顔をあげても、そこには誰もいない。声を発するような人はいなかった。
目の前にあるのは、きっちりと扉が閉まった拝殿と賽銭箱。
右を見る――森がある。
左を見る――森がある。
正面を見る――神社がある。
巫女も神主もいない、遠い昔に途絶えたはずの神社がそこにはある。
博麗神社と呼ばれるその敷地内にいるのは、蓮子だけだった。
周りを見ても――誰も、いない。
誰も、いない。
いや、そもそもいるはずもないのだ。秋の収穫祭が終わっての宴会。その宴会が退屈で退屈で、独りで抜け出して裏の神社へと散歩に来たのだから。他に誰かがいるとしたら、それは妖怪変化か変質者のどちらかだろうと蓮子は思う。
誰も、いるはずもないのだ。
だというのに――聞いたこともないその声は、懐かしく温かみのある声のような気がした。
「…………変なの」
誰かに聞かせるように、そう呟いて。
蓮子は、来た時と同じように独りで、神社を後にした。
誰の健康を祈っていたのかも、思い出せぬままに。
/急
幻想郷に冬が訪れる。秋の名残は降り積もる雪の下へと覆い隠された。幻想郷は白に覆われ、春までの長い眠りにつく。雪の下では新たな生命が眠っているが、目覚めはまだ遠い。冬は始まったばかりなのだから。
その中でも、八雲 藍の一日は変わりなく続いている。
去年の冬と同じように。そして、冬以外とは、少しだけ変わった日常。
主である、八雲 紫が冬眠に入ったのだ。その間雑事はすべて藍が請け負うが、それは主がおきている間も変わりは無い。むしろ紫が冬眠に入った分だけ仕事は減るとも言えた。
橙は走り回っている。コタツの中で丸くなるのは朝と夜だけで、昼間は幻想郷のあちこちで楽しんでいるようだった。主の藍としては心配な部分もあったが、それもひとつの経験だろうと思う部分もある。泣かされたら出ていってやっつけてやる――と馬鹿親のような決心はもっているが。
だから、藍の仕事は一つだけだ。
春を待つこと。
春もまた、変わらぬ幻想郷がそこにあることを信じて。
そのために、彼女たちはいるのだから。
八雲 紫は、幻想郷を愛している。ひょっとすると、誰よりも。
主がそうである以上――藍もまた、幻想郷を愛していた。
だからこそ。
今日もまた、仕事を終わらせて、ひょいと散歩をしに出かけた。
――人里へと。
もっとも、九尾の狐である藍がのこのこと人里まで出て行ったらさすがに騒ぎが起きる。妖怪に慣れている幻想郷とはいえ――あるいは、だからこそ――軽々しく人の地に踏み込むべきではない。
だから、遠くから見るだけだった。
幻想郷の人里。その、冬の生活を。
里もまた雪で覆われている。それでも、人が死に絶えるわけではない。冬眠する熊や紫と違い、人間たちは冬も生き続けなければならない。川魚は冬でも取ることができるし、獣を狙うこともできる。
もっとも、秋からの備蓄こそが、最も大切な食料だ。それの配給と保管は、人里では直接生き死に沙汰に関わってくる。
ネズミ返しが高床式倉庫――その脚の部分の雪をかいている男たちの中に、藍は一人の少年の姿を見つけた。
――稲原 高志の姿を。
彼が元気にやっていることを確認して、藍はほっとため息を吐く。『幻想郷でもやっていける人間』を紫が選んでいるのは知っているが、それでもごく稀に、幻想郷と外側の違いを容認できずに死んでしまう子もいる。そういう時、やるせない悲しさが藍を襲うものだ。
が、今藍が見る限りでは、高志は男集に混じって平然と仕事をしていた。元々そういうことに慣れているのだろう。芯の強い子なのかもしれない。
高床式倉庫に入っているのは、米や肉やら、生きる上で必要な食料だ。
それらの大半は――少年・高志と共に、八雲 紫がこっそりとこちら側へと運んだものだ。
そう。
八雲 紫は冬眠し――冬眠前には人間を蓄える。
蓄えるのだ。
自身が眠りにつく間、愛すべき幻想郷に生きる生物が滅びないように。
閉ざされた楽園で暮らす人間たちが滅びないように、外の血を持ってくるのだ。彼らが生き延びることができるように、食料と共に。向こう側から人間を連れてきて、里へとあてがう。里の人間は、その風習が長く続いているおかげで混乱なく、『突如記憶を失い、食料と共に現れる若く有力な働き手』を暖かく迎え入れる。
同時に、向こう側の記憶を軽く操作する。元々閉鎖的な村からしか連れてこないのだから、その僅かな数の記憶さえ弄くれば、大きな問題にはならない。
子供は、幻想郷に食われ。
全ては、神隠しの三文字に隠される。
そのおかげで――幻想郷で人間は、滅ぶことなく生き続ける。
さながら、永久機関のように。
「……もっとも、最近は大変だそうだな……」
その平和な里を見下ろしながら、藍は誰にともなく呟いた。紫曰く、年々、神隠ししやすい人間が減っているのだという。大昔はさらい放題だったというのに、今では選ばなければ連れてこられないのだそうだ。
そのうち、誰一人として幻想郷へ神隠しすることができなくなるのか。
それとも、向こう側で人間が幻想となってなだれ込んでくるのか。
どちらにせよ、そのときが幻想郷が滅びるときだ。
その光景を想像して、八雲 藍はぞっと悪寒を覚える。彼女もまた、幻想郷を愛する一人なのだ。
そうならないことを、彼女は心から祈る。
祈る神は、ありはしないけれど。
さもなくば――八雲 紫に、願うだけだ。
今日も平和でありますように、と。
そう願いながら、藍は踵を返し、愛すべき式と主の待つ境へと足を進めた。
眼下の野は冬、白く雪に染まっている。
それでも、人は生き続けている。
昨日と同じように――明日もそうであるように。
いつかどこかで、少女が願ったように。
――今日も、幻想郷は平和だった。
今日も幻想郷は平和だった――
そんな言葉から始まる連作の最後、八雲 紫と幻想郷の話でした。あるいは、それ以外の全てについての話。
作品について。
八雲 紫が人を喰う、という話はわりかし溢れています。
違和感を感じた切っ掛けはスペルカード『第一種永久機関』。
外部からのエネルギー供給を必要としない存在が、なぜコストパフォーマンスが良さそうではない人を喰うのか。
(博麗の巫女ならコストパフォーマンスが良さそうだ、と思った瞬間、とある黒いネタが出ましたが……まあ、それは書きません。いつか書くかもしれないけれど。もっとも、すでに誰かが書いている気がします)
永夜抄のテキストには、『人間を蓄える』とだけ書いてある、神隠しの妖怪でしかなく――人を喰うとは書いていなかった覚えがあります。
そんな色々な思考をこねくりまわして出来たのが、この作品です。
オリキャラについて一言だけ。
ウサギの従妹はイナバだろうという、ただそれだけの、人を喰った冗談です。
非常に面白い解釈です。
これは思いつきませんでした
誰よりも幻想郷を愛する紫の姿が浮かびました
久しぶりに納得できる文章で良かったです。
発想が特に。こういう解釈もありだと思いました。
同感ですね
「蓄える」だけど「食べる」ではない、と面白い解釈でした。