「ねぇ、妖夢ぅ」
「はい、何ですか。幽々子様」
片手に湯飲みとお茶菓子の載ったお盆を持ってやってきた妖夢へと、縁側に座って、のんびりとしている幽々子が話しかける。
「わらしべ長者ってぇ、知ってるぅ?」
「えっと……確か、一本のわらしべから交換を経て、お金持ちになった人の話……でしたよね?」
「大体正解ねぇ」
お茶を一口。続いて、お茶菓子のお団子をぱくりと一口。
ほんわ~とした笑顔を浮かべる幽々子は、懐から、ごそごそと、何かを取り出した。
「はぁい」
「これは?」
渡されたのは、一枚の手紙。
開いてもいいと言われたので開けてみると、中には以下のようなものが書かれていた。
『風邪薬を一つ』。
「……は?」
「この前ぇ、妖夢が夏風邪を引いたでしょぉ?」
「……はい。あの時は、自分の鍛錬の至らなさに……」
「そういうんじゃなくてぇ。
それでねぇ、今度からぁ、うちでもぉ、常備薬を用意しておこうと思ってぇ」
――つまりは。
「お使いに行ってこい、ということでしょうか」
当たりぃ、とびしっと指でおでこをつつかれて、妖夢。
かくして、彼女は白玉楼を飛び立つことと相成ったのでした。
「風邪薬と言えば」
と言うか、この幻想郷において、およそ『薬』という単語が示す輩など一人しかいない。言うまでもなく、永遠の竹林の主、八意永琳である。要するに、彼女の所に行ってこい、という意思表示のわけである。この手紙は。
「白玉楼は、基本的に涼しいところだからなぁ」
幽霊達の住まう冥界。
幽霊という奴は普通の生き物よりも遙かに体温が低いためか、それらが住まう土地もまた、ここ、緑おりなす幻想郷と比べると年がら年中涼しい気候にある。当然の事ながら、夏場は避暑地として利用しようとする若干名の輩に頭を悩ませたりするわけなのであるが、それはともあれとして、そう言う場所であるから健康には、より一層の気を遣わなければいけない。冥界で健康に気を遣う、というフレーズには実に矛盾が含まれているのだが、魂魄妖夢(みょん歳)はそういうところにまで気を回すほどのバカではなかった。
「あ、見えてきた」
うっそうと茂った竹林が彼女の視界一杯に広がっていく。
少しだけ、飛行する高度を落としてそこに入っていけば、やがて程なく、しんと静まりかえった森の中に佇む一軒の日本家屋。ここがくだんの人物が住まう屋敷、永遠亭である。
ちなみに、この竹林、基本的には一度入ったら出ることかなわずの迷いの森なのだが、最近はちょっとその辺りの事情が違ってきている。その理由はと言うと、
「すいませーん」
ドアをがらがらと引き開ければ、「はーい」とやってくる白衣のうさぎさん。
「あ、鈴仙さん」
「妖夢ちゃん、こんにちは」
「あ、はい。どうもこんにちは、鈴仙さん」
「うーん、礼儀正しいいい子だねぇ。お姉さんは嬉しいよ」
頭を下げた妖夢を、なぜか『いいこいいこ』してくれるのは、この屋敷で日々を暮らすうさぎ達の一人、鈴仙・優曇華院・イナバである。なぜか、彼女は妖夢と仲がよく、最近では妖夢の姉として振る舞うことが多くなっていた。元から面倒見がよかった、というわけではないのだが、恐らく、共通の苦労を抱えたもの達のみが互いに感じるというシンパシィのたまものだろう。
「どうしたの? 今日はお腹が痛いの? それとも、頭が痛いの?」
「……あの、あんまり子ども扱いするのやめてくれます?」
「あははは、いやぁ、ごめんごめん」
実はですね、と妖夢が懐から取り出す手紙。それを受け取り、鈴仙は「ふーん」とうなずいた後、妖夢を連れて永遠亭の廊下を歩いていく。
ちらりと視線をやれば、あちこちの『待合室』に、この屋敷の住人ではないもの達の姿が多数。
――これが、永遠亭の最近の『変わった』理由である。ここの表の主、八意永琳は、簡単に言えばお医者さんだ。その彼女曰く、「幻想郷の皆様のお役に立ちましょう」ということで立ち上げられたのが、ここ、『八意永琳医療相談所』なのである。彼らは、そこにやってきている患者であり、妖夢も過去、ここのお世話になったこともある。
この医療相談所の営業時間中は、迷いの森である竹林にかけられていた術も解かれ、外界からの行き来が容易になっている。たまに、それで、『うさみみナースはぁはぁ』な奴らもやってくるのが、最近の悩みなのだとか。
「あの、いいんですか? 待たなくて……」
「いいのいいの。私と妖夢ちゃんの仲だよ」
「あ……はぁ」
曖昧な返事をして、鈴仙の後をついていく。
二人は、やがて、ある部屋の前へとやってきていた。鈴仙が中の人物に断りを入れて障子を開く。その向こうにいるのは、目的の人物。
「あらあら。いらっしゃい」
「師匠、これ、幽々子さんからです」
「はいはい」
おっとりと優しく微笑む八意永琳ご当人様だ。
座って、と鈴仙に促され、妖夢は用意された座布団に腰を下ろす。何となく、周囲を包み込む医療器具や薬、薬学などの本のおかげで居心地が悪いのか、そわそわとする妖夢を見て、永琳が「あらあら」と笑った。
「はい、わかりました。では、お薬の方、用意しておきますね」
「あ、どうもすいません……」
「あらあら、いいのよ。ここは病院ですものね」
「何かご迷惑をおかけしているみたいで……。本当に、何というか……」
「あらあら、いいのいいの。
でも、少しお待たせしちゃいそうなの。次の患者さんがいるからね。
ウドンゲ、彼女を連れて、少し待っていて」
「はい。妖夢ちゃん、こっちおいで」
また後で、と微笑む永琳に頭を下げて、鈴仙と一緒に、元来た道を歩いていく妖夢。
「とりあえず、お茶でも飲んでいて待っていて。お茶請けに、美味しいキャロットケーキを出すから」
「美味しいんですか?」
「美味しいよ。この前、師匠が考えたの。何というか……今までのケーキとはひと味違う甘さと柔らかさ。さすがは『月の大料理人』だよねぇ……」
そんな異名もあったのか、あの人には。
ある意味、とっても納得がいくと同時に納得のいかない事実を聞かされ、顔を引きつらせる妖夢などお構いなしで鈴仙は「それでね」と愛する師匠の事をぺらぺらとしゃべり倒していく。本当に、この人は永琳のことが好きなのだなと思うと同時に、半分以上、おのろけになっているのが何とも言えず、妖夢は苦笑したのだった。
「じゃあ、またね。また何かあったら、遠慮なくお姉さんを頼ってね」
「はい。……って、鈴仙さん、私は別に……」
「いいじゃない。妖夢ちゃんのこと、私は好きだよ」
じゃ、またね、と。
それから一時間ほど後、妖夢は鈴仙から常備薬としての薬一式――風邪薬以外のも混じっているのは、恐らく、永琳の厚意だろう――とおみやげのキャロットケーキを受け取り、永遠亭を飛び立っていた。
「けど、これ、本当に美味しかったなぁ……」
ふわふわのパウンドケーキとして目の前に出されたケーキのおいしさと言ったら。まさに『ほっぺたが落ちる』くらいの味だった。
鈴仙曰く、『砂糖が特別なの』ということである。よっぽどいい材料を使っているのだろうと考え、妖夢は差し出された分だけでは足りず、厚かましくもお代わりをしてしまい、お腹一杯ケーキを食べてのご帰還だ。
「幽々子様にあげたら喜びそう」
竹林を離れ、お使いも終わったので、と冥界を目指す妖夢。
――と、その時だ。
「特ダネですよ特ダネですよー! これぞ一世一代ですよー!」
「へ?」
横手からいきなり響いてきた強烈な声と同時に疾風に弾き飛ばされ、盛大にすっ飛ばされていく。
「わわわぁぁぁぁぁっ!?」
情けない悲鳴を上げて、くるくると周りながら吹っ飛んでいく妖夢。それでも何とか体勢を整えるのだが、手にしていた薬とケーキがすっぽ抜けて地面へと向かって落下していく。
「まずいっ!」
幽々子から仰せつかって手に入れた薬。それをなくした、あるいは落としてめちゃくちゃにしてしまったと言えば、彼女は恐らく、大層怒るだろう。ケーキはこの際、仕方ないが、何としても幽々子からの『厚意』は守らなくては。
加速し、危うく、地面に落下するその一歩手前で薬の入った袋だけは拾い上げる。しかし、悲しいかな、ケーキの入った袋はそのまま地面に落下していき――、
「はい」
ぐちゃぐちゃになって食べられなくなってしまうだろうと思われていたそれは、意外にも、そこを通りすがった人物によって華麗にキャッチされていた。それを受け止めた人物――金髪の人形遣い、アリス・マーガトロイドが笑顔でそれを妖夢に渡してくる。
「あっ、アリスさん……」
「奇遇ね。それから、私が下にいてよかったね」
「……あ、はい」
ふと周りを見渡せば、永遠の竹林に勝るとも劣らない森が周囲を覆い尽くしていた。加えて、もう秋だというのに、この特有のじめじめした熱気。言うまでもなく、幻想郷の一部に広がっている、通称『魔法の森』。そこに住まう人物であるアリスは、笑顔で妖夢へと歩み寄り、「どうしたの?」と訊ねてくる。普段、冥界にいて、こちらの世界には出てこない妖夢がここにいることを不思議に思ったのだろう。かくかくしかじかと事情を説明する妖夢に、へぇ、と彼女はうなずいた。
「そっか。妖夢も風邪とか引くのよね」
「ええ……まぁ、お恥ずかしながら」
「それで、こっちのが、そのおみやげのケーキ、か」
「……そうですけど?」
「お礼に、一口欲しいな? って言ったら怒る?」
「ああ、いえ……一杯もらいましたから」
袋を開ければ、中から漂ってくる、芳醇な誘いの匂い。誘惑の香りと言い換えてもいいだろう。女の子なら、誰もが心引かれる香りを放つそれを胸一杯に吸い込んで、アリスの顔がほんわかととろけていく。
「じゃあ、私の家でお茶にしましょう。……それとも、お茶は飲んできたからいらない?」
「ああ、いえ、お誘いですから。それに、ケーキの命の恩人ですし」
「またかわいいこと言ってくれちゃうのね」
「かわいい……ですか」
「そう、かわいいかわいい」
なでなで、といいこいいこされてしまう。
つくづく、自分ってそんなにかわいいのだろうか、と疑問に思う彼女の行動である。しかし、それを言い出すことも出来ず、アリスに従って妖夢は歩き出した。
間もなくして、白亜の外壁が美しい館へと、彼女は案内される。「適当に座っていて」と言われ、部屋の中央に置かれているお茶用のテーブルへとついて、待つことしばし。
「この前、いいお茶が手に入ったの」
出されたのは、永遠亭で飲んできた、渋みたっぷりの大人の味がする緑茶ではなく、口の中で甘みがとろけていく、実に極上の紅茶だった。
「あ~、このケーキ美味しいわ~。さすがは永琳さんね」
「そうですね。私でもこれほどのものは……」
「ほんと、料理の上手な人って憧れちゃうな。私はそうでもないから」
「そうなんですか? 以前、アリスさんにごちそうしてもらったソーセージはすごく美味しかったですけど……」
「え? そう? まったまたぁ。お世辞が上手なんだから」
嫌だわもう、な手つきで語るアリス。
普段は、どこか厭世じみている感じが漂うアリスであるが、こうして真っ向からおしゃべりに興じてみると、やはり外見相応の少女であると言うことがよくわかる。そうですよ、と話を先に進める妖夢に気をよくしたのか、彼女は立ち上がると、部屋の片隅から一体の人形を持ってきた。
「これ、あげるわ」
「え?」
「この前、作ったの。かわいいでしょ」
どことなく、目の前のアリスに雰囲気の似ている女の子の人形。その、サファイアのように透き通った瞳に映りこむ自分を見つめてから、「でも」と妖夢は声を上げる。
しかし、それを当然の如く遮ったアリスは「ケーキのお礼よ」と笑うだけだ。
「妖夢ちゃんのおみやげだったのに、私がもらっちゃったんだもの」
「……アリスさんも、ちゃんづけなんですね」
「ん? どうかした?」
よっぽど、気をよくしているのだろう。自分の言葉の言い回しにすら気がついてないようだった。しかし、それもアリスの厚意と受け取って、妖夢はありがたく人形をちょうだいする。
「あなたも女の子でしょ。お人形とか、好き?」
「好き……と言えば好きですけど。でも、やっぱり、私には似合わないというか……」
「そんなこと言わないの。女の子なら、かわいいもの、きれいなもの、柔らかいもの、色々好きなものがあるものね」
「はぁ……まぁ、そうですけど」
「だから、持って行って、思う存分、女の子しなさい」
「……ありがとうございます。ご好意、ありがたくちょうだいします」
「また固いなぁ。ほら、笑顔笑顔。スマイルだよ」
ぐに~っとほっぺた引っ張られ、苦笑いのような表情を浮かべる妖夢を、また、『いいこいいこ』してくれるアリスだった。
片手にケーキ、片手に薬、さらに人形を抱え、妖夢は冥界への道のりを急ぐ。予定外の時間を過ごしてしまったため、時刻は、あれからさらに一時間ほどを過ぎていた。幽々子様、怒ってるだろうか。そんなことを考えながら道を急ぐのだが、
「おや、妖夢じゃないかい」
横手からかかる声。
振り返れば、そこには特徴的な形をした鎌こそ持っていないものの、見慣れた相手が浮かんでいた。
「小町さん」
「あいよ、久方ぶりだね」
「ええ……どうもお久しぶりです。……またサボりですか?」
「おっと。言われちまったよ」
参ったね、と笑いながら、彼女は妖夢の頭をぽんぽんと叩く。両者の身長の差は、それこそかなりのものであるため、そうされても妖夢には抵抗が出来なかった。ちょっとむなしい事実だが。
「あたいが、そんないっつもいっつもサボっていると思ってるのかい?」
ここで『思っている』と言うのは簡単だが、『空気を読め』と言われるのは自明の理だった。だから、何も言わず、微妙な笑顔でそれに返すことにする。小町は苦笑しながら、片手に提げていた紙袋をちらつかせる。
「いいんだよ、今回のこれは四季さま直々のご命令さ」
「映姫さんの?」
「ああ、そうだ。
いやね、香霖堂……だったかい? そこにさ、面白いものが入荷したから買ってきてくれ、とね」
「面白いもの?」
見るかい? と彼女は妖夢の返答を待たず、その紙袋からものを取り出した。
「わぁ……」
一抱えほどもありそうなくまのぬいぐるみ。つぶらな瞳が愛らしいそれを、小町は片手でぽんぽんと叩きながら、
「四季さまは、ほんと、あー見えて少女趣味だからねぇ。こいつを前に、この前は二時間も眺めてたよ。で、我慢できなくなったんだろうね。あたいに、『特別休憩時間を与えますから、これこれこういうものを買ってきなさい』とさ。
全く、かわいい人だよ」
「あ、そ、そうですか……」
「だけど、なかなか手に入れるのが大変でねぇ。たまたま、居合わせたメイドと一発やりあってきたよ。それは私が目をつけてたのよ! って。おー、こわ」
大きな肩をひょいとすくめる小町。
その『メイド』とやらには、妖夢には覚えがあった。なるほど、とうなずく彼女。
「こっちゃ武器も持ってきてなかったからさ、危うく奪い取られるところだったよ」
「勝ったんですか?」
「まぁ、ね。何も腕っ節だけが死神の特権じゃないよ。舌先三寸も、あたいの専売特許さね」
してみると、どうやってか、あの『メイド』を言い負かしたと言うことだろう。この小町、その性格から物事に対してはかなり大雑把であると見られがちだが――実際、そうなのであるが――、その実、実は全てに対して、かなりの『やり手』なのだ。その辺りは、あの『メイド』も勝てなかったのだろう。これも、してみると人生経験の差なのだろうか。
「あんたは何でこんなところにいるんだい?」
「あ、えっと……」
かくかくしかじかと、自分の経緯を語る妖夢に、ふぅん、と小町はうなずいた。
「なるほどね。あんたも大変だね」
「いや……はは……」
「しかし……」
じっと、小町は妖夢を見つめる。
な、何ですか? とどぎまぎする妖夢に、彼女はにっと笑うと、
「あんたも欲しいかい?」
手にしたぬいぐるみをちらつかせる。
妖夢の視線が、そのぬいぐるみを追いかけて行き来するのを小町は見逃さなかった。なるほどねぇ、と腕組みしてうなずく彼女。
「あ、その……」
「まぁ、わかるよ。あたいはこういうのは卒業したけど、あんたの年頃じゃ、欲しくてたまらないだろう?」
「……まぁ……はい」
「どれ」
妖夢の頭を、ぽん、と叩いて。
「そっちのお人形さんと交換でどうだい?」
「え? でも……」
「いいんだよ。四季さまにゃ、あたいが何とでも言っておくさ。それに、あの人もかわいいものが好きだけど、『ぬいぐるみ』だけが好きなわけじゃないしね。その人形でも気に入ってくれるだろうさ。
最初に言っただろう? 舌先三寸は、死神の専売特許だ、ってね」
ほれ、と押し付けられるぬいぐるみ。代わりに、さっと妖夢が持っていた人形は取り上げられてしまった。「なかなかかわいいじゃないか」とそれの頬をつつきながら笑う小町は、どこか、普段のはすっぱな感じが抜けて可愛らしい。自分のことを『姐さん』と自称する彼女だが、やはり本質は女の子なのだということだろうか。
「いいんですか? 本当に」
「いいよいいよ。
あ、そうそう。ついでにさ、ちょっとあたいからもお使い頼まれてくれないかね?」
「お使い……ですか?」
「そう。あのメイドさんの忘れ物だ」
ひょいと懐から取り出すのは、ぎらりと輝くナイフ――ではなく。
「あ、これ……」
彼女がいつも肌身離さず持っていた懐中時計だった。
「落としていったんだよ。それにも気づかないなんて、よっぽど、あたいに負けたのが悔しかったんだろうね」
かんらからからと大笑いし、「じゃ、任せたよ」と笑って小町は飛び去っていく。去り際に人形を大きく振りながら「手間を取らせて悪いね!」と言って。
彼女はそのまま、妖夢の視界の向こうに消えた。
「……お使い、か」
結局、押し付けられてしまったわけだが。
しかし、手に持ったぬいぐるみを見れば、そんな気持ちも消えてなくなる。ここまで遅れたんだ、後はもうどれだけ遅れても一緒だろう。そう開き直ると、妖夢もまた、そこを去っていく。向かう先は、もちろん、紅の悪魔の館。
「あの~……」
「あ、妖夢さん。こんにちは」
湖の上を飛び越え、館の前に降り立った妖夢に、その門の前で暇そうにしていた門番――紅美鈴が笑顔を向けてきた。妖夢『さん』という言い方に新鮮なものを覚えつつも、『実はですね』と小町から仰せつかったことを告げると、彼女はにっこりと笑う。
「そうですか。道理で、咲夜さん、機嫌が悪かったわけだ」
「え?」
「ううん、何でもないですよ。
さあ、中へどうぞ。咲夜さんは、私の方から呼んできますね」
「あ、どうもすいません」
通された館の中、「ちょっと待っていてね」と応接室に通され、妖夢は時計をちらりと見る。時刻、現在、すでに夕方。本来なら、すぐに行ってすぐ戻るだけの用事だったはずなのにこれだ。帰ったら、思いっきり豪勢なご飯を作らないといけないな、と幽々子に対する償いの内容を考えていたところに、ばたん、とドアが開く。
「何?」
「あ……」
そこに立っていたのは、紅の館で随一と恐れられるメイド長。腕組みし、目をぎりぎりと三角につり上げながら妖夢を見据えている。
……どうやら、よっぽど、小町とのことが腹に据えかねているらしい。
「ほら、咲夜さん。妖夢さんが怖がってるじゃないですか」
「うるさいわね。私は仕事が忙しいのよ」
後ろから、おかしさがこらえきれないという顔で声をかける美鈴を一蹴し、改めて、彼女の視線は妖夢に向く。
「あ、あの、咲夜さん。これ……小町さんから」
「何よ」
「あの……大事にしている時計です」
「……え?」
差し出されたそれを見て、咲夜の表情が一変した。慌てて体のあちこちをまさぐってみるのだが、それがないことに気づいたのだろう。ようやく、自分が、自分にとっての大切なものすら手放してもそれに気づかないほどに心をかき乱されていたことに感づいたのか、咲夜の顔が真っ赤に染まり、次には肩から力を抜いてため息を一つ。
「……ありがとう」
「あ、いえ……」
「はぁ……。ダメね、私……。
何でこんな……」
ぶつぶつつぶやきながら、咲夜は受け取った時計を、後生大事にポケットの中へ。しかし、次の瞬間、顔を上げた時には彼女の顔はいつもの彼女へと戻っていた。
「ありがとう、大切なものを届けてくれて。感謝するわ」
「あ、はい。それで……」
「よかったらお茶の一杯でもいかが? 私からのお礼と言うことで……」
「その、ですね」
ごそごそと、持っていた袋を探って。
「……どうぞ」
「え?」
小町から受け取ったぬいぐるみを、咲夜へと差し出す。
正直、かなり後ろ髪が引かれる思いなのだが、今、自分にとってはこれが一番だと思ったのだろう。精一杯、笑顔を作って、妖夢は「欲しかったんですよね?」と一言。
「あ……その……」
「ほら、咲夜さん」
「な、何言ってるの。それ……って、どうしてあなたが持ってるのか……」
「妖夢さんから聞いたんですけどね」
後ろから美鈴が事情をフォローする。
それを受けて、咲夜の顔には困惑の色。どうしたらいいものか、と瞳が完全に迷っていた。
「元々、私は小町さんからもらっただけですし。それに……まぁ、あんまり、欲しいというわけでもないから。それなら、これをほしがってる人の所に行くのが、この子にとっても幸せだと思います」
「で、でも……いいの?」
「はい」
正直、あんまりよくはないのだが。
しかし、それを受け取った時の咲夜の顔といったら。普段の鉄面皮はどこへやら。まるで花の咲いたような笑顔を浮かべて、ぬいぐるみのふかふかのお腹に顔を埋める彼女を見れば、そんな気持ちもどこへやら。
それじゃ、私はこれで、と頭を下げる妖夢に「待ちなさい」と咲夜が声をかける。
「ありがとう……何だか、すごくあなたには……あなたと小町には悪いことをしてしまったようね。
あっちにも当然として、あなたにもお礼をあげないと」
「そんな、私は……」
「と言っても、すぐに用意できるものがこれしかないのだけど、いいかしら?」
咲夜のメイド服から取り出されるのは、三十枚のチケット。それの表面を見れば、『紅魔館レストランサービス特別優待券』と書かれている。
「それ一枚で何人でも無料で、一日の食事を食べられるの。この前、お嬢様が考えた限定サービスなんだけど、大好評でね。あなたの所のお嬢様にはちょうどいいんじゃないかしら。それに、あなたの好きそうなものも、うちにはたくさんあるから」
是非、利用してちょうだい、と咲夜。
そう言われては受け取るのを断れない。ありがとうございます、と頭を下げて、妖夢はそのチケットを持っていた袋へと入れた。
「ほんと、咲夜さんってかわいいんだから」
「う、うるさいわね! ほっときなさい!
……あ、それから、妖夢。このことは、他のみんなには内緒にね」
「はい、わかってますよ」
鬼のメイド長として恐れられる彼女が、実は少女趣味まっすぐの女の子だなんてことが知られたら、絶対にそれをからかいにやってくる不逞の輩がいるだろう。こう見えて口は堅いんです、と微笑む妖夢に安心したのか、ほっと胸をなで下ろす咲夜。
「……けど、ありがとう。本当に感謝するわ」
「いいえ。それじゃ、私は……」
「……ああ、それから。迷惑かけついでに悪いのだけど……頼まれ事を頼まれてくれないかしら」
「え?」
「実はね、お嬢様が、今日、パーティーを開くと言っていて。霊夢を呼んでこいと言われたのだけど、正直、厨房が忙しくてそれどころじゃないの。それで、あなたに行ってきて欲しいんだけど……ダメかしら? 伝えてくれたら、あなたはそのまま帰ってくれても構わないわ。どう?」
「まぁ……いいですよ。乗りかかった船ですから」
「ありがとう。……ああ、あなた達もパーティー、どう?」
「いえ、そこまでは。咲夜さんの手を、よけいに煩わせることになっちゃいそうですから」
では、引き受けました、と一礼する妖夢。その彼女を連れて、美鈴が最初に部屋を後にした。
「本当に、咲夜さんったら」
「そうですねぇ」
「けど、あんな人だからファンも多いんですよ」
なるほど、とうなずく。
ちらりと振り返れば、未だ、幸せそうな笑顔でぬいぐるみを抱きしめている咲夜の姿があった。心なしか、ぬいぐるみの顔も嬉しそうだ。正直、あのぬいぐるみを手放すのは惜しかったのだが……彼女のあんな笑顔が見られたのだから、それでよしとしよう。そう結論づけて、妖夢は次の場所へと向かって飛び立つのだった。
「あの~……」
すっかり、辺りは暗くなってしまっていた。
神社の母屋にもほとんど明かりはともっておらず、恐る恐る、といった具合に妖夢は足を進めていく。理由は簡単、「霊夢さん、いますか?」と何度声を上げても彼女が現れなかったからである。
「霊夢さ~ん……?」
そ~っと、普段、彼女がいる茶の間の障子を引き開ける。中に人の気配は……なし。
「あれぇ? 霊夢さん、どこに?」
「……なぁ~にぃ~?」
「ひみゃぁぁぁぁぁぁぁぁっ!?」
後ろから、まるで世界の全てを呪い殺すような声が響いた。悲鳴を上げて飛び上がり、がくぶる震えながら後ろを振り返れば、そこには幽鬼のような顔をした神社の主の姿がある。
「れっ、れれれれれ霊夢さんっ!? 何があったんですかっ!?」
「うぅ……今朝、楽しみに……楽しみにしていた大福に……かびが……」
振り返れば、茶の間に置かれた卓にお皿が一つ。その上には、緑色のかびが生えた大福の姿。
「うっ、うぅ……半日並んで手に入れた、極上の大福だったのにぃ……」
そのままさめざめと泣き出す彼女。
なるほど、大福にかける魂とリビドーが突き抜けてしまったおかげで、そこに蓄えていたエネルギー全てが消滅し、ゾンビ状態となったのか。……と、納得はしたものの、妖夢の足はまだがくがくと震えていた。
理由は簡単。霊夢のその姿が『お恨み申し上げます』の一言で有名などこぞの幽霊にそっくりだったからだ。
「あっ、あああああのっ! こ、ここここれどうぞっ!」
反射的に、今の状況をどうするべきか考えた妖夢は、手にしていた袋の中から、まるで魔除けのお札のように紅魔館でもらったチケットを取りだして霊夢に渡した。それを受け取った瞬間、霊夢の動きが完全に停止する。
時間停止は十秒。きっかり十秒。
「妖夢ぅぅぅぅぅっ!」
「は、はひぃぃぃぃぃっ!」
「あなたが好きよぉぉぉぉぉっ!」
突撃してくる彼女をひらりと回避し、部屋の隅に逃げる妖夢。霊夢は勢い余って卓の角に『がつん!』と激しい音を立てておでこをぶつけ、「ぐわぁぁぁぁぁ!」とごろごろ転げ回った。
……ようやく落ち着いたのは、それから、やっぱり十秒後。
「妖夢……あなた、本当にいい子だったのね……。まさか、こんな貴重なものをくれるなんて……」
「そ、そうだったんですか……?」
てっきり、レミリアのことだから、霊夢に優先的にチケットを配布していたのかと思ったのだが。
「ええ、そうなのよ……。配布は抽選でね……並んだのだけど、私の前で……!」
「……それはまた」
「だけど、これをあなたが私に届けてくれた! 妖夢、あなたはまさしく、私に幸運を運んできてくれるキューピッド!」
キューピッドは愛の天使です、とツッコミ入れたかったが、今の霊夢にそれを言うのは、何だかとっても命を天秤にかけるような気がして、ぐっと言葉を飲み込む。
「そ、それでですね、霊夢さん。レミリアさんが、『今夜のパーティーにいらっしゃい』って……」
「なぬっ!? それを早く言いなさいよ!
よーっし、大福の分も食べまくってやるわ!」
「よ、よかったですね……」
引きつった声で笑う妖夢。この一瞬で、今までの一生分に相当するような恐怖体験をしたのである。歯の根もあわなくなって当然だ。
しかし、霊夢はそんな妖夢などお構いなしに「ちょっと待ってなさい!」とその場を駆け出していった。はっきり言って逃げ出したかったが、逃げたら逃げたで後でどんな目に遭わされるかわからない。それに、実を言うと、まだ抜けた腰が立ち直ってないのである。
「妖夢!」
「ひ、ひゃいっ!」
「はいこれ!」
「……はい?」
何の前触れもなく差し出されたのは一升瓶だった。
「……えっと……これは?」
ようやく、場の空気も正常に戻ってきた。それで、ようやく妖夢の思考もまともに回り始めるようになったのか、首をかしげてそれを受け取る。
「ん? いやね、麓の村の蔵本がさ。この前、妖怪退治をしたんだけど、その時のお礼ですって持ってきたのよ」
「え? い、いいんですか?」
「いいのいいの。樽で持ってこられたしさぁ」
あっはっは、と笑う霊夢。
正直、酒であろうとも霊夢が他人に食べ物を渡すなどと言うことはあり得ないと思っていた妖夢だったが、その一言を聞いて納得する。なるほど、いくら霊夢であろうとも、樽酒を一人で飲み干すだけの許容量はないということらしい。
「美味しいわよ。その蔵元の秘蔵の酒らしいから」
「そう……ですか」
「あんたにも飲めるわ。口当たりがすっごい軽かったから」
「あ、はい。どうもありがとうございます」
「いいのいいの。あんたはうちのキューピッドだしね」
「……」
打算まみれの一言だった。
顔を引きつらせる妖夢を無視する形で踵を返し、霊夢は宣言する。
「レミリア、待ってなさいよー! あんたの全てを食い尽くしてやるー!」
「……いや、あの、霊夢さん。その一言には色々と倫理的な問題が……」
もちろん、そんなことをこの巫女が聞いているはずもないのだが。
しかし、それでも妖夢が復帰するのは待ってくれているようだった。妖夢の腰が立つようになったのは、それから五分ほど後。それを見届けた霊夢は、音速を突破する速度で紅魔館へと向かって突き進んでいったのだった。
「……ただいま~」
「あら、お帰り。妖夢」
「ゆ、紫さま?」
白玉楼に妖夢が戻ってきたのは、完全に日が落ちた頃合いである。さすがに、気後れしている妖夢の前に現れたのは、なぜか館の主人ではなく、その友人である紫である。
「うふふ。さ、早く来なさい」
「え? あ、あの……」
「いいから」
ぐいっと手を引っ張られ、あれよあれよと連れて行かれてしまう。
広い屋敷の中、連れてこられたのは襖の前。それが開かれて――、
「……あ」
「お帰りぃ、妖夢ぅ」
「お疲れ様だな、妖夢」
「妖夢おねーちゃん、おかえりー」
「……あ、えっと……」
これは? という眼差しを、後ろの紫に向ける。
妖夢の前には、幽々子は当然として、紫の使いである藍、そしてその式の橙までが勢揃いして、さらに用意された卓の上には煮立った鍋が一つ。
「ふふっ。さあ?」
「あらぁ、妖夢ぅ。それなぁにぃ?」
「え? これは……」
「ほう……うまそうなケーキだな」
「いい匂い~」
「美味しそうなお酒ねぇ。やっぱりぃ、お鍋にはぁ、お酒よねぇ」
――というわけで。
『いただきま~す』
みんなで卓を囲んでの夕食と相成った。
一体どういう状況なのか。それを理解できず、目を白黒させている妖夢の前に、熱々の具が入れられた小鉢が回されてくる。
「あの……紫さま。これは……」
「妖夢。わらしべ長者、って知ってる?」
「え、ええ……」
「さしずめ、あなたはわらしべ妖夢かしら?」
「……は?」
くすくす笑う紫の言葉は、いつも通り、さっぱりわからなかった。
救いの視線を藍に向けるのだが、猫舌の橙の面倒を見るのに手一杯でこちらに気を回す様子はなさそうだ。となると――、
「あの、幽々子さま?」
「妖夢ぅ」
「あ、はい」
「はい、あ~ん」
「へっ? あ、あ~ん」
「美味しい?」
はむっ、と一口したのは、今の時期、美味しくなってくるしゃけである。もちろん、味は極上。誰が用意したものなのかはわからないが、これがうまくないわけがない。『美味しいです』と笑う妖夢に、幽々子は、いいこいいこ、とやってから、
「本当に、あなたはわらしべ長者ね」
「……えーっと」
「幸運を掴む天才かもね」
――と、いうことだった。
「はい、何ですか。幽々子様」
片手に湯飲みとお茶菓子の載ったお盆を持ってやってきた妖夢へと、縁側に座って、のんびりとしている幽々子が話しかける。
「わらしべ長者ってぇ、知ってるぅ?」
「えっと……確か、一本のわらしべから交換を経て、お金持ちになった人の話……でしたよね?」
「大体正解ねぇ」
お茶を一口。続いて、お茶菓子のお団子をぱくりと一口。
ほんわ~とした笑顔を浮かべる幽々子は、懐から、ごそごそと、何かを取り出した。
「はぁい」
「これは?」
渡されたのは、一枚の手紙。
開いてもいいと言われたので開けてみると、中には以下のようなものが書かれていた。
『風邪薬を一つ』。
「……は?」
「この前ぇ、妖夢が夏風邪を引いたでしょぉ?」
「……はい。あの時は、自分の鍛錬の至らなさに……」
「そういうんじゃなくてぇ。
それでねぇ、今度からぁ、うちでもぉ、常備薬を用意しておこうと思ってぇ」
――つまりは。
「お使いに行ってこい、ということでしょうか」
当たりぃ、とびしっと指でおでこをつつかれて、妖夢。
かくして、彼女は白玉楼を飛び立つことと相成ったのでした。
「風邪薬と言えば」
と言うか、この幻想郷において、およそ『薬』という単語が示す輩など一人しかいない。言うまでもなく、永遠の竹林の主、八意永琳である。要するに、彼女の所に行ってこい、という意思表示のわけである。この手紙は。
「白玉楼は、基本的に涼しいところだからなぁ」
幽霊達の住まう冥界。
幽霊という奴は普通の生き物よりも遙かに体温が低いためか、それらが住まう土地もまた、ここ、緑おりなす幻想郷と比べると年がら年中涼しい気候にある。当然の事ながら、夏場は避暑地として利用しようとする若干名の輩に頭を悩ませたりするわけなのであるが、それはともあれとして、そう言う場所であるから健康には、より一層の気を遣わなければいけない。冥界で健康に気を遣う、というフレーズには実に矛盾が含まれているのだが、魂魄妖夢(みょん歳)はそういうところにまで気を回すほどのバカではなかった。
「あ、見えてきた」
うっそうと茂った竹林が彼女の視界一杯に広がっていく。
少しだけ、飛行する高度を落としてそこに入っていけば、やがて程なく、しんと静まりかえった森の中に佇む一軒の日本家屋。ここがくだんの人物が住まう屋敷、永遠亭である。
ちなみに、この竹林、基本的には一度入ったら出ることかなわずの迷いの森なのだが、最近はちょっとその辺りの事情が違ってきている。その理由はと言うと、
「すいませーん」
ドアをがらがらと引き開ければ、「はーい」とやってくる白衣のうさぎさん。
「あ、鈴仙さん」
「妖夢ちゃん、こんにちは」
「あ、はい。どうもこんにちは、鈴仙さん」
「うーん、礼儀正しいいい子だねぇ。お姉さんは嬉しいよ」
頭を下げた妖夢を、なぜか『いいこいいこ』してくれるのは、この屋敷で日々を暮らすうさぎ達の一人、鈴仙・優曇華院・イナバである。なぜか、彼女は妖夢と仲がよく、最近では妖夢の姉として振る舞うことが多くなっていた。元から面倒見がよかった、というわけではないのだが、恐らく、共通の苦労を抱えたもの達のみが互いに感じるというシンパシィのたまものだろう。
「どうしたの? 今日はお腹が痛いの? それとも、頭が痛いの?」
「……あの、あんまり子ども扱いするのやめてくれます?」
「あははは、いやぁ、ごめんごめん」
実はですね、と妖夢が懐から取り出す手紙。それを受け取り、鈴仙は「ふーん」とうなずいた後、妖夢を連れて永遠亭の廊下を歩いていく。
ちらりと視線をやれば、あちこちの『待合室』に、この屋敷の住人ではないもの達の姿が多数。
――これが、永遠亭の最近の『変わった』理由である。ここの表の主、八意永琳は、簡単に言えばお医者さんだ。その彼女曰く、「幻想郷の皆様のお役に立ちましょう」ということで立ち上げられたのが、ここ、『八意永琳医療相談所』なのである。彼らは、そこにやってきている患者であり、妖夢も過去、ここのお世話になったこともある。
この医療相談所の営業時間中は、迷いの森である竹林にかけられていた術も解かれ、外界からの行き来が容易になっている。たまに、それで、『うさみみナースはぁはぁ』な奴らもやってくるのが、最近の悩みなのだとか。
「あの、いいんですか? 待たなくて……」
「いいのいいの。私と妖夢ちゃんの仲だよ」
「あ……はぁ」
曖昧な返事をして、鈴仙の後をついていく。
二人は、やがて、ある部屋の前へとやってきていた。鈴仙が中の人物に断りを入れて障子を開く。その向こうにいるのは、目的の人物。
「あらあら。いらっしゃい」
「師匠、これ、幽々子さんからです」
「はいはい」
おっとりと優しく微笑む八意永琳ご当人様だ。
座って、と鈴仙に促され、妖夢は用意された座布団に腰を下ろす。何となく、周囲を包み込む医療器具や薬、薬学などの本のおかげで居心地が悪いのか、そわそわとする妖夢を見て、永琳が「あらあら」と笑った。
「はい、わかりました。では、お薬の方、用意しておきますね」
「あ、どうもすいません……」
「あらあら、いいのよ。ここは病院ですものね」
「何かご迷惑をおかけしているみたいで……。本当に、何というか……」
「あらあら、いいのいいの。
でも、少しお待たせしちゃいそうなの。次の患者さんがいるからね。
ウドンゲ、彼女を連れて、少し待っていて」
「はい。妖夢ちゃん、こっちおいで」
また後で、と微笑む永琳に頭を下げて、鈴仙と一緒に、元来た道を歩いていく妖夢。
「とりあえず、お茶でも飲んでいて待っていて。お茶請けに、美味しいキャロットケーキを出すから」
「美味しいんですか?」
「美味しいよ。この前、師匠が考えたの。何というか……今までのケーキとはひと味違う甘さと柔らかさ。さすがは『月の大料理人』だよねぇ……」
そんな異名もあったのか、あの人には。
ある意味、とっても納得がいくと同時に納得のいかない事実を聞かされ、顔を引きつらせる妖夢などお構いなしで鈴仙は「それでね」と愛する師匠の事をぺらぺらとしゃべり倒していく。本当に、この人は永琳のことが好きなのだなと思うと同時に、半分以上、おのろけになっているのが何とも言えず、妖夢は苦笑したのだった。
「じゃあ、またね。また何かあったら、遠慮なくお姉さんを頼ってね」
「はい。……って、鈴仙さん、私は別に……」
「いいじゃない。妖夢ちゃんのこと、私は好きだよ」
じゃ、またね、と。
それから一時間ほど後、妖夢は鈴仙から常備薬としての薬一式――風邪薬以外のも混じっているのは、恐らく、永琳の厚意だろう――とおみやげのキャロットケーキを受け取り、永遠亭を飛び立っていた。
「けど、これ、本当に美味しかったなぁ……」
ふわふわのパウンドケーキとして目の前に出されたケーキのおいしさと言ったら。まさに『ほっぺたが落ちる』くらいの味だった。
鈴仙曰く、『砂糖が特別なの』ということである。よっぽどいい材料を使っているのだろうと考え、妖夢は差し出された分だけでは足りず、厚かましくもお代わりをしてしまい、お腹一杯ケーキを食べてのご帰還だ。
「幽々子様にあげたら喜びそう」
竹林を離れ、お使いも終わったので、と冥界を目指す妖夢。
――と、その時だ。
「特ダネですよ特ダネですよー! これぞ一世一代ですよー!」
「へ?」
横手からいきなり響いてきた強烈な声と同時に疾風に弾き飛ばされ、盛大にすっ飛ばされていく。
「わわわぁぁぁぁぁっ!?」
情けない悲鳴を上げて、くるくると周りながら吹っ飛んでいく妖夢。それでも何とか体勢を整えるのだが、手にしていた薬とケーキがすっぽ抜けて地面へと向かって落下していく。
「まずいっ!」
幽々子から仰せつかって手に入れた薬。それをなくした、あるいは落としてめちゃくちゃにしてしまったと言えば、彼女は恐らく、大層怒るだろう。ケーキはこの際、仕方ないが、何としても幽々子からの『厚意』は守らなくては。
加速し、危うく、地面に落下するその一歩手前で薬の入った袋だけは拾い上げる。しかし、悲しいかな、ケーキの入った袋はそのまま地面に落下していき――、
「はい」
ぐちゃぐちゃになって食べられなくなってしまうだろうと思われていたそれは、意外にも、そこを通りすがった人物によって華麗にキャッチされていた。それを受け止めた人物――金髪の人形遣い、アリス・マーガトロイドが笑顔でそれを妖夢に渡してくる。
「あっ、アリスさん……」
「奇遇ね。それから、私が下にいてよかったね」
「……あ、はい」
ふと周りを見渡せば、永遠の竹林に勝るとも劣らない森が周囲を覆い尽くしていた。加えて、もう秋だというのに、この特有のじめじめした熱気。言うまでもなく、幻想郷の一部に広がっている、通称『魔法の森』。そこに住まう人物であるアリスは、笑顔で妖夢へと歩み寄り、「どうしたの?」と訊ねてくる。普段、冥界にいて、こちらの世界には出てこない妖夢がここにいることを不思議に思ったのだろう。かくかくしかじかと事情を説明する妖夢に、へぇ、と彼女はうなずいた。
「そっか。妖夢も風邪とか引くのよね」
「ええ……まぁ、お恥ずかしながら」
「それで、こっちのが、そのおみやげのケーキ、か」
「……そうですけど?」
「お礼に、一口欲しいな? って言ったら怒る?」
「ああ、いえ……一杯もらいましたから」
袋を開ければ、中から漂ってくる、芳醇な誘いの匂い。誘惑の香りと言い換えてもいいだろう。女の子なら、誰もが心引かれる香りを放つそれを胸一杯に吸い込んで、アリスの顔がほんわかととろけていく。
「じゃあ、私の家でお茶にしましょう。……それとも、お茶は飲んできたからいらない?」
「ああ、いえ、お誘いですから。それに、ケーキの命の恩人ですし」
「またかわいいこと言ってくれちゃうのね」
「かわいい……ですか」
「そう、かわいいかわいい」
なでなで、といいこいいこされてしまう。
つくづく、自分ってそんなにかわいいのだろうか、と疑問に思う彼女の行動である。しかし、それを言い出すことも出来ず、アリスに従って妖夢は歩き出した。
間もなくして、白亜の外壁が美しい館へと、彼女は案内される。「適当に座っていて」と言われ、部屋の中央に置かれているお茶用のテーブルへとついて、待つことしばし。
「この前、いいお茶が手に入ったの」
出されたのは、永遠亭で飲んできた、渋みたっぷりの大人の味がする緑茶ではなく、口の中で甘みがとろけていく、実に極上の紅茶だった。
「あ~、このケーキ美味しいわ~。さすがは永琳さんね」
「そうですね。私でもこれほどのものは……」
「ほんと、料理の上手な人って憧れちゃうな。私はそうでもないから」
「そうなんですか? 以前、アリスさんにごちそうしてもらったソーセージはすごく美味しかったですけど……」
「え? そう? まったまたぁ。お世辞が上手なんだから」
嫌だわもう、な手つきで語るアリス。
普段は、どこか厭世じみている感じが漂うアリスであるが、こうして真っ向からおしゃべりに興じてみると、やはり外見相応の少女であると言うことがよくわかる。そうですよ、と話を先に進める妖夢に気をよくしたのか、彼女は立ち上がると、部屋の片隅から一体の人形を持ってきた。
「これ、あげるわ」
「え?」
「この前、作ったの。かわいいでしょ」
どことなく、目の前のアリスに雰囲気の似ている女の子の人形。その、サファイアのように透き通った瞳に映りこむ自分を見つめてから、「でも」と妖夢は声を上げる。
しかし、それを当然の如く遮ったアリスは「ケーキのお礼よ」と笑うだけだ。
「妖夢ちゃんのおみやげだったのに、私がもらっちゃったんだもの」
「……アリスさんも、ちゃんづけなんですね」
「ん? どうかした?」
よっぽど、気をよくしているのだろう。自分の言葉の言い回しにすら気がついてないようだった。しかし、それもアリスの厚意と受け取って、妖夢はありがたく人形をちょうだいする。
「あなたも女の子でしょ。お人形とか、好き?」
「好き……と言えば好きですけど。でも、やっぱり、私には似合わないというか……」
「そんなこと言わないの。女の子なら、かわいいもの、きれいなもの、柔らかいもの、色々好きなものがあるものね」
「はぁ……まぁ、そうですけど」
「だから、持って行って、思う存分、女の子しなさい」
「……ありがとうございます。ご好意、ありがたくちょうだいします」
「また固いなぁ。ほら、笑顔笑顔。スマイルだよ」
ぐに~っとほっぺた引っ張られ、苦笑いのような表情を浮かべる妖夢を、また、『いいこいいこ』してくれるアリスだった。
片手にケーキ、片手に薬、さらに人形を抱え、妖夢は冥界への道のりを急ぐ。予定外の時間を過ごしてしまったため、時刻は、あれからさらに一時間ほどを過ぎていた。幽々子様、怒ってるだろうか。そんなことを考えながら道を急ぐのだが、
「おや、妖夢じゃないかい」
横手からかかる声。
振り返れば、そこには特徴的な形をした鎌こそ持っていないものの、見慣れた相手が浮かんでいた。
「小町さん」
「あいよ、久方ぶりだね」
「ええ……どうもお久しぶりです。……またサボりですか?」
「おっと。言われちまったよ」
参ったね、と笑いながら、彼女は妖夢の頭をぽんぽんと叩く。両者の身長の差は、それこそかなりのものであるため、そうされても妖夢には抵抗が出来なかった。ちょっとむなしい事実だが。
「あたいが、そんないっつもいっつもサボっていると思ってるのかい?」
ここで『思っている』と言うのは簡単だが、『空気を読め』と言われるのは自明の理だった。だから、何も言わず、微妙な笑顔でそれに返すことにする。小町は苦笑しながら、片手に提げていた紙袋をちらつかせる。
「いいんだよ、今回のこれは四季さま直々のご命令さ」
「映姫さんの?」
「ああ、そうだ。
いやね、香霖堂……だったかい? そこにさ、面白いものが入荷したから買ってきてくれ、とね」
「面白いもの?」
見るかい? と彼女は妖夢の返答を待たず、その紙袋からものを取り出した。
「わぁ……」
一抱えほどもありそうなくまのぬいぐるみ。つぶらな瞳が愛らしいそれを、小町は片手でぽんぽんと叩きながら、
「四季さまは、ほんと、あー見えて少女趣味だからねぇ。こいつを前に、この前は二時間も眺めてたよ。で、我慢できなくなったんだろうね。あたいに、『特別休憩時間を与えますから、これこれこういうものを買ってきなさい』とさ。
全く、かわいい人だよ」
「あ、そ、そうですか……」
「だけど、なかなか手に入れるのが大変でねぇ。たまたま、居合わせたメイドと一発やりあってきたよ。それは私が目をつけてたのよ! って。おー、こわ」
大きな肩をひょいとすくめる小町。
その『メイド』とやらには、妖夢には覚えがあった。なるほど、とうなずく彼女。
「こっちゃ武器も持ってきてなかったからさ、危うく奪い取られるところだったよ」
「勝ったんですか?」
「まぁ、ね。何も腕っ節だけが死神の特権じゃないよ。舌先三寸も、あたいの専売特許さね」
してみると、どうやってか、あの『メイド』を言い負かしたと言うことだろう。この小町、その性格から物事に対してはかなり大雑把であると見られがちだが――実際、そうなのであるが――、その実、実は全てに対して、かなりの『やり手』なのだ。その辺りは、あの『メイド』も勝てなかったのだろう。これも、してみると人生経験の差なのだろうか。
「あんたは何でこんなところにいるんだい?」
「あ、えっと……」
かくかくしかじかと、自分の経緯を語る妖夢に、ふぅん、と小町はうなずいた。
「なるほどね。あんたも大変だね」
「いや……はは……」
「しかし……」
じっと、小町は妖夢を見つめる。
な、何ですか? とどぎまぎする妖夢に、彼女はにっと笑うと、
「あんたも欲しいかい?」
手にしたぬいぐるみをちらつかせる。
妖夢の視線が、そのぬいぐるみを追いかけて行き来するのを小町は見逃さなかった。なるほどねぇ、と腕組みしてうなずく彼女。
「あ、その……」
「まぁ、わかるよ。あたいはこういうのは卒業したけど、あんたの年頃じゃ、欲しくてたまらないだろう?」
「……まぁ……はい」
「どれ」
妖夢の頭を、ぽん、と叩いて。
「そっちのお人形さんと交換でどうだい?」
「え? でも……」
「いいんだよ。四季さまにゃ、あたいが何とでも言っておくさ。それに、あの人もかわいいものが好きだけど、『ぬいぐるみ』だけが好きなわけじゃないしね。その人形でも気に入ってくれるだろうさ。
最初に言っただろう? 舌先三寸は、死神の専売特許だ、ってね」
ほれ、と押し付けられるぬいぐるみ。代わりに、さっと妖夢が持っていた人形は取り上げられてしまった。「なかなかかわいいじゃないか」とそれの頬をつつきながら笑う小町は、どこか、普段のはすっぱな感じが抜けて可愛らしい。自分のことを『姐さん』と自称する彼女だが、やはり本質は女の子なのだということだろうか。
「いいんですか? 本当に」
「いいよいいよ。
あ、そうそう。ついでにさ、ちょっとあたいからもお使い頼まれてくれないかね?」
「お使い……ですか?」
「そう。あのメイドさんの忘れ物だ」
ひょいと懐から取り出すのは、ぎらりと輝くナイフ――ではなく。
「あ、これ……」
彼女がいつも肌身離さず持っていた懐中時計だった。
「落としていったんだよ。それにも気づかないなんて、よっぽど、あたいに負けたのが悔しかったんだろうね」
かんらからからと大笑いし、「じゃ、任せたよ」と笑って小町は飛び去っていく。去り際に人形を大きく振りながら「手間を取らせて悪いね!」と言って。
彼女はそのまま、妖夢の視界の向こうに消えた。
「……お使い、か」
結局、押し付けられてしまったわけだが。
しかし、手に持ったぬいぐるみを見れば、そんな気持ちも消えてなくなる。ここまで遅れたんだ、後はもうどれだけ遅れても一緒だろう。そう開き直ると、妖夢もまた、そこを去っていく。向かう先は、もちろん、紅の悪魔の館。
「あの~……」
「あ、妖夢さん。こんにちは」
湖の上を飛び越え、館の前に降り立った妖夢に、その門の前で暇そうにしていた門番――紅美鈴が笑顔を向けてきた。妖夢『さん』という言い方に新鮮なものを覚えつつも、『実はですね』と小町から仰せつかったことを告げると、彼女はにっこりと笑う。
「そうですか。道理で、咲夜さん、機嫌が悪かったわけだ」
「え?」
「ううん、何でもないですよ。
さあ、中へどうぞ。咲夜さんは、私の方から呼んできますね」
「あ、どうもすいません」
通された館の中、「ちょっと待っていてね」と応接室に通され、妖夢は時計をちらりと見る。時刻、現在、すでに夕方。本来なら、すぐに行ってすぐ戻るだけの用事だったはずなのにこれだ。帰ったら、思いっきり豪勢なご飯を作らないといけないな、と幽々子に対する償いの内容を考えていたところに、ばたん、とドアが開く。
「何?」
「あ……」
そこに立っていたのは、紅の館で随一と恐れられるメイド長。腕組みし、目をぎりぎりと三角につり上げながら妖夢を見据えている。
……どうやら、よっぽど、小町とのことが腹に据えかねているらしい。
「ほら、咲夜さん。妖夢さんが怖がってるじゃないですか」
「うるさいわね。私は仕事が忙しいのよ」
後ろから、おかしさがこらえきれないという顔で声をかける美鈴を一蹴し、改めて、彼女の視線は妖夢に向く。
「あ、あの、咲夜さん。これ……小町さんから」
「何よ」
「あの……大事にしている時計です」
「……え?」
差し出されたそれを見て、咲夜の表情が一変した。慌てて体のあちこちをまさぐってみるのだが、それがないことに気づいたのだろう。ようやく、自分が、自分にとっての大切なものすら手放してもそれに気づかないほどに心をかき乱されていたことに感づいたのか、咲夜の顔が真っ赤に染まり、次には肩から力を抜いてため息を一つ。
「……ありがとう」
「あ、いえ……」
「はぁ……。ダメね、私……。
何でこんな……」
ぶつぶつつぶやきながら、咲夜は受け取った時計を、後生大事にポケットの中へ。しかし、次の瞬間、顔を上げた時には彼女の顔はいつもの彼女へと戻っていた。
「ありがとう、大切なものを届けてくれて。感謝するわ」
「あ、はい。それで……」
「よかったらお茶の一杯でもいかが? 私からのお礼と言うことで……」
「その、ですね」
ごそごそと、持っていた袋を探って。
「……どうぞ」
「え?」
小町から受け取ったぬいぐるみを、咲夜へと差し出す。
正直、かなり後ろ髪が引かれる思いなのだが、今、自分にとってはこれが一番だと思ったのだろう。精一杯、笑顔を作って、妖夢は「欲しかったんですよね?」と一言。
「あ……その……」
「ほら、咲夜さん」
「な、何言ってるの。それ……って、どうしてあなたが持ってるのか……」
「妖夢さんから聞いたんですけどね」
後ろから美鈴が事情をフォローする。
それを受けて、咲夜の顔には困惑の色。どうしたらいいものか、と瞳が完全に迷っていた。
「元々、私は小町さんからもらっただけですし。それに……まぁ、あんまり、欲しいというわけでもないから。それなら、これをほしがってる人の所に行くのが、この子にとっても幸せだと思います」
「で、でも……いいの?」
「はい」
正直、あんまりよくはないのだが。
しかし、それを受け取った時の咲夜の顔といったら。普段の鉄面皮はどこへやら。まるで花の咲いたような笑顔を浮かべて、ぬいぐるみのふかふかのお腹に顔を埋める彼女を見れば、そんな気持ちもどこへやら。
それじゃ、私はこれで、と頭を下げる妖夢に「待ちなさい」と咲夜が声をかける。
「ありがとう……何だか、すごくあなたには……あなたと小町には悪いことをしてしまったようね。
あっちにも当然として、あなたにもお礼をあげないと」
「そんな、私は……」
「と言っても、すぐに用意できるものがこれしかないのだけど、いいかしら?」
咲夜のメイド服から取り出されるのは、三十枚のチケット。それの表面を見れば、『紅魔館レストランサービス特別優待券』と書かれている。
「それ一枚で何人でも無料で、一日の食事を食べられるの。この前、お嬢様が考えた限定サービスなんだけど、大好評でね。あなたの所のお嬢様にはちょうどいいんじゃないかしら。それに、あなたの好きそうなものも、うちにはたくさんあるから」
是非、利用してちょうだい、と咲夜。
そう言われては受け取るのを断れない。ありがとうございます、と頭を下げて、妖夢はそのチケットを持っていた袋へと入れた。
「ほんと、咲夜さんってかわいいんだから」
「う、うるさいわね! ほっときなさい!
……あ、それから、妖夢。このことは、他のみんなには内緒にね」
「はい、わかってますよ」
鬼のメイド長として恐れられる彼女が、実は少女趣味まっすぐの女の子だなんてことが知られたら、絶対にそれをからかいにやってくる不逞の輩がいるだろう。こう見えて口は堅いんです、と微笑む妖夢に安心したのか、ほっと胸をなで下ろす咲夜。
「……けど、ありがとう。本当に感謝するわ」
「いいえ。それじゃ、私は……」
「……ああ、それから。迷惑かけついでに悪いのだけど……頼まれ事を頼まれてくれないかしら」
「え?」
「実はね、お嬢様が、今日、パーティーを開くと言っていて。霊夢を呼んでこいと言われたのだけど、正直、厨房が忙しくてそれどころじゃないの。それで、あなたに行ってきて欲しいんだけど……ダメかしら? 伝えてくれたら、あなたはそのまま帰ってくれても構わないわ。どう?」
「まぁ……いいですよ。乗りかかった船ですから」
「ありがとう。……ああ、あなた達もパーティー、どう?」
「いえ、そこまでは。咲夜さんの手を、よけいに煩わせることになっちゃいそうですから」
では、引き受けました、と一礼する妖夢。その彼女を連れて、美鈴が最初に部屋を後にした。
「本当に、咲夜さんったら」
「そうですねぇ」
「けど、あんな人だからファンも多いんですよ」
なるほど、とうなずく。
ちらりと振り返れば、未だ、幸せそうな笑顔でぬいぐるみを抱きしめている咲夜の姿があった。心なしか、ぬいぐるみの顔も嬉しそうだ。正直、あのぬいぐるみを手放すのは惜しかったのだが……彼女のあんな笑顔が見られたのだから、それでよしとしよう。そう結論づけて、妖夢は次の場所へと向かって飛び立つのだった。
「あの~……」
すっかり、辺りは暗くなってしまっていた。
神社の母屋にもほとんど明かりはともっておらず、恐る恐る、といった具合に妖夢は足を進めていく。理由は簡単、「霊夢さん、いますか?」と何度声を上げても彼女が現れなかったからである。
「霊夢さ~ん……?」
そ~っと、普段、彼女がいる茶の間の障子を引き開ける。中に人の気配は……なし。
「あれぇ? 霊夢さん、どこに?」
「……なぁ~にぃ~?」
「ひみゃぁぁぁぁぁぁぁぁっ!?」
後ろから、まるで世界の全てを呪い殺すような声が響いた。悲鳴を上げて飛び上がり、がくぶる震えながら後ろを振り返れば、そこには幽鬼のような顔をした神社の主の姿がある。
「れっ、れれれれれ霊夢さんっ!? 何があったんですかっ!?」
「うぅ……今朝、楽しみに……楽しみにしていた大福に……かびが……」
振り返れば、茶の間に置かれた卓にお皿が一つ。その上には、緑色のかびが生えた大福の姿。
「うっ、うぅ……半日並んで手に入れた、極上の大福だったのにぃ……」
そのままさめざめと泣き出す彼女。
なるほど、大福にかける魂とリビドーが突き抜けてしまったおかげで、そこに蓄えていたエネルギー全てが消滅し、ゾンビ状態となったのか。……と、納得はしたものの、妖夢の足はまだがくがくと震えていた。
理由は簡単。霊夢のその姿が『お恨み申し上げます』の一言で有名などこぞの幽霊にそっくりだったからだ。
「あっ、あああああのっ! こ、ここここれどうぞっ!」
反射的に、今の状況をどうするべきか考えた妖夢は、手にしていた袋の中から、まるで魔除けのお札のように紅魔館でもらったチケットを取りだして霊夢に渡した。それを受け取った瞬間、霊夢の動きが完全に停止する。
時間停止は十秒。きっかり十秒。
「妖夢ぅぅぅぅぅっ!」
「は、はひぃぃぃぃぃっ!」
「あなたが好きよぉぉぉぉぉっ!」
突撃してくる彼女をひらりと回避し、部屋の隅に逃げる妖夢。霊夢は勢い余って卓の角に『がつん!』と激しい音を立てておでこをぶつけ、「ぐわぁぁぁぁぁ!」とごろごろ転げ回った。
……ようやく落ち着いたのは、それから、やっぱり十秒後。
「妖夢……あなた、本当にいい子だったのね……。まさか、こんな貴重なものをくれるなんて……」
「そ、そうだったんですか……?」
てっきり、レミリアのことだから、霊夢に優先的にチケットを配布していたのかと思ったのだが。
「ええ、そうなのよ……。配布は抽選でね……並んだのだけど、私の前で……!」
「……それはまた」
「だけど、これをあなたが私に届けてくれた! 妖夢、あなたはまさしく、私に幸運を運んできてくれるキューピッド!」
キューピッドは愛の天使です、とツッコミ入れたかったが、今の霊夢にそれを言うのは、何だかとっても命を天秤にかけるような気がして、ぐっと言葉を飲み込む。
「そ、それでですね、霊夢さん。レミリアさんが、『今夜のパーティーにいらっしゃい』って……」
「なぬっ!? それを早く言いなさいよ!
よーっし、大福の分も食べまくってやるわ!」
「よ、よかったですね……」
引きつった声で笑う妖夢。この一瞬で、今までの一生分に相当するような恐怖体験をしたのである。歯の根もあわなくなって当然だ。
しかし、霊夢はそんな妖夢などお構いなしに「ちょっと待ってなさい!」とその場を駆け出していった。はっきり言って逃げ出したかったが、逃げたら逃げたで後でどんな目に遭わされるかわからない。それに、実を言うと、まだ抜けた腰が立ち直ってないのである。
「妖夢!」
「ひ、ひゃいっ!」
「はいこれ!」
「……はい?」
何の前触れもなく差し出されたのは一升瓶だった。
「……えっと……これは?」
ようやく、場の空気も正常に戻ってきた。それで、ようやく妖夢の思考もまともに回り始めるようになったのか、首をかしげてそれを受け取る。
「ん? いやね、麓の村の蔵本がさ。この前、妖怪退治をしたんだけど、その時のお礼ですって持ってきたのよ」
「え? い、いいんですか?」
「いいのいいの。樽で持ってこられたしさぁ」
あっはっは、と笑う霊夢。
正直、酒であろうとも霊夢が他人に食べ物を渡すなどと言うことはあり得ないと思っていた妖夢だったが、その一言を聞いて納得する。なるほど、いくら霊夢であろうとも、樽酒を一人で飲み干すだけの許容量はないということらしい。
「美味しいわよ。その蔵元の秘蔵の酒らしいから」
「そう……ですか」
「あんたにも飲めるわ。口当たりがすっごい軽かったから」
「あ、はい。どうもありがとうございます」
「いいのいいの。あんたはうちのキューピッドだしね」
「……」
打算まみれの一言だった。
顔を引きつらせる妖夢を無視する形で踵を返し、霊夢は宣言する。
「レミリア、待ってなさいよー! あんたの全てを食い尽くしてやるー!」
「……いや、あの、霊夢さん。その一言には色々と倫理的な問題が……」
もちろん、そんなことをこの巫女が聞いているはずもないのだが。
しかし、それでも妖夢が復帰するのは待ってくれているようだった。妖夢の腰が立つようになったのは、それから五分ほど後。それを見届けた霊夢は、音速を突破する速度で紅魔館へと向かって突き進んでいったのだった。
「……ただいま~」
「あら、お帰り。妖夢」
「ゆ、紫さま?」
白玉楼に妖夢が戻ってきたのは、完全に日が落ちた頃合いである。さすがに、気後れしている妖夢の前に現れたのは、なぜか館の主人ではなく、その友人である紫である。
「うふふ。さ、早く来なさい」
「え? あ、あの……」
「いいから」
ぐいっと手を引っ張られ、あれよあれよと連れて行かれてしまう。
広い屋敷の中、連れてこられたのは襖の前。それが開かれて――、
「……あ」
「お帰りぃ、妖夢ぅ」
「お疲れ様だな、妖夢」
「妖夢おねーちゃん、おかえりー」
「……あ、えっと……」
これは? という眼差しを、後ろの紫に向ける。
妖夢の前には、幽々子は当然として、紫の使いである藍、そしてその式の橙までが勢揃いして、さらに用意された卓の上には煮立った鍋が一つ。
「ふふっ。さあ?」
「あらぁ、妖夢ぅ。それなぁにぃ?」
「え? これは……」
「ほう……うまそうなケーキだな」
「いい匂い~」
「美味しそうなお酒ねぇ。やっぱりぃ、お鍋にはぁ、お酒よねぇ」
――というわけで。
『いただきま~す』
みんなで卓を囲んでの夕食と相成った。
一体どういう状況なのか。それを理解できず、目を白黒させている妖夢の前に、熱々の具が入れられた小鉢が回されてくる。
「あの……紫さま。これは……」
「妖夢。わらしべ長者、って知ってる?」
「え、ええ……」
「さしずめ、あなたはわらしべ妖夢かしら?」
「……は?」
くすくす笑う紫の言葉は、いつも通り、さっぱりわからなかった。
救いの視線を藍に向けるのだが、猫舌の橙の面倒を見るのに手一杯でこちらに気を回す様子はなさそうだ。となると――、
「あの、幽々子さま?」
「妖夢ぅ」
「あ、はい」
「はい、あ~ん」
「へっ? あ、あ~ん」
「美味しい?」
はむっ、と一口したのは、今の時期、美味しくなってくるしゃけである。もちろん、味は極上。誰が用意したものなのかはわからないが、これがうまくないわけがない。『美味しいです』と笑う妖夢に、幽々子は、いいこいいこ、とやってから、
「本当に、あなたはわらしべ長者ね」
「……えーっと」
「幸運を掴む天才かもね」
――と、いうことだった。
大きな笑いではなく、クスリと来るぐらいというのもまた丁度良い。
妖夢は可愛いなぁ。
作品全体から醸し出される空気に負けました………
超ほのぼのでした。
久方ぶりに心に清涼剤を貰った気分です
うれしかったw
真面目にがんばる妖夢はやっぱり可愛いなぁ。
こんな子が幸せにならないはずがないよ・・・
みんないい雰囲気出してましたよ、ええ。どこぞの暴走巫女以外は(ぇ)
可愛い妖夢とみんなの暖かさに癒されました。ありがとうございます。
でも花の咲いたような笑顔を浮かべる咲夜はもっと好きです(ぇ
ここで、いきなりやられました。 これ大好きだw
このほんわか感は、半端じゃない。
特に年下扱いされて悩む妖夢が一番かわえぇ・・・
はじめっからそのつもりだったゆゆ様とゆかりんが
逐一妖夢の狂言回しを覗いていたと思うと、もうニヤニヤがとまりませんw
あと「あんたの全てを食い尽くしてやるー!」で大爆笑(w 霊夢ヤバ過ぎ(www
ギャグのために誰も傷ついてない。そしてみなそれぞれ代えがたい役を果たしている。
妖夢も変につっぱってなくていい娘。最高ですね。
て、事ですかな。