紅魔館が遠方に見えてきた。こんなに遠くから見ても感じ取れる圧迫感から分かるように、その存在感は圧倒的である。幻想郷でも一、二を争う大きさかもしれない。
館の前に大きく広がる湖に差し掛かると、氷精が大きなカエルとじゃれついている(?)のが視界に入ってきた。よくもまあ飽きないもんだと思いながら視線を逸らし、そのまま通り過ぎようとした。しかし、どうやら彼女はアリスに気付いたらしい。カエルから離れて、アリスに向かって飛んでくる。
「珍しい」
氷精―――チルノは心底驚いているようで、一言目がそれだった。
「挨拶もなしにいきなりそれとは、それこそご挨拶ね」
皮肉たっぷりに返した。しかしチルノは意に介した様子も無い。気付いていないだけなのか、流したのかは分からないが。
「なんでここにいるの? 普段はこっちから声かけても近寄らないのに」
「……まあ自分でも後悔はしてるんだけど。頼まれ事よ」
「ふーん、頼まれ事なんだ。誰からの?」
チルノには珍しく、食い下がってくる。興味が無いことには見向きもしなさそうな幼い氷精の疑問に、アリスは正直に答えようかどうか迷う。まさかおつかいです、だなんて、口が裂けてもとは言うが、裂けたら言えないんじゃなかろうか。まあ、言えるはずも無いわけで。
「……」
さあ、どうしようか。
「そ、それは秘密よ」
「なんで?」
「そ、その方がカッコイイじゃない!」
ああ、私は何を口走っているのだろう。私はこんなキャラじゃなかったような気がする。
後悔に打ちひしがれる中、チルノの反応は無く、やはり無理があったと少し後悔するアリスだったが。
「な、なるほど!」
しかし通ってしまう。これこそチルノがチルノたる所以だろうが、アリスは「助かった」と思うよりも「この子の将来が心配だわ」と少しばかり考えた。
「そ、それじゃあ私はこれで失礼するわね」
身を翻し、逃げるように去っていく。出来るだけ速く。
ちらりと少しだけ振り返ると、チルノが「がんばれー!」と大声で叫びながら両手をぶんぶん振り回している様子が見えた。冷たい空気が和らいでくのと同時に距離も開いていくが、どうやらチルノはアリスが見えなくなるまでやめるつもりは無いらしい。「はぁ」と溜息を吐き、道を往く。
湖の終わりは、すぐそこだ。
湖を越えてしまえば、あとは一直線で辿り着ける。空気の色が赤く染まってきているのもその証拠で、レミリア・スカーレットの存在の強さをも同時に表している。こんな状況でなければ近付きたくも無い場所の一つではあるが、こちらが警戒してしまえばあちらも警戒するだろう。(普段警戒していないわけではないが)
友好的に。そう、友好的に。りぴーとあふたーみー。ふぉーみー。ぴーすふるぴーすふる。
心の中で平和を望みながら、門へと近付いていく。
館の荘厳な雰囲気を守るに相応しい門が徐々に近付いていくと、一層その言葉を反芻せざるをえない。
「そこで止まれ!」
と、アリスの裂帛の心境を一瞬で崩壊させる声がそこで放たれた。
気配を上空に感じ、上を見る。独特の衣装を纏い、門の前に立ちはだかる彼女は、紅魔館が門番、紅美鈴である。気を操る程度の能力を持つ彼女の能力かどうかは分からないが、妙な圧力を感じた。アリスは言われたとおりにそこで止まり、大地に降り立った。美鈴はそれを見届けてから同じように着地した。
「……って、なんだ。七色か」
少しだけ緊張感が和らぐ。少なくとも、アリスに対して敵意は無いようだ。心の中で安堵の息を吐く。
「どうもこんにちは、門番さん」
先程まで詠唱していた平和の言葉が頭をよぎり、普通の挨拶。続いて、上海と蓬莱もお辞儀をした。「よく出来てるなぁ」と美鈴が独り言を漏らしたが、それはアリスの耳には届かない。
「何の用かしら? あなたがここに来るなんて、珍しいにも程があるけど」
「八雲紫に頼まれてね。ちょっとした妖怪助けよ」
間違ってはいないが、やはり素直に「おつかい」とは言えない。
「……ああ、八雲さんが遣すおつかいって、あなたのことだったのね。てっきり式神たちかと思ってたわ」
言わずとも知れ渡っていたようだ。隠す意味など無かったのだ。アリスはごほんごほんと咳き込んで、誤魔化すかの如く続けた。
「ま、まあそういうわけだから。通してくれる?」
「ええ、そういうことなら」
美鈴は右に三歩移動し、道をアリスに譲った。門から館への道が拓いて、全景が嫌でも目に入ってくる。それでも前に進まなければいけないので、気が少し重い。
まだ昼間だというのにひっそりと薄暗く、莫大な妖気を隠すこともせず、堂々と聳え立っている。一瞬だけ帰りたい気持ちが強まったが、手ぶらで帰ってみろ、何をされるか分かったもんじゃない。弱い気持ちを押し殺して、しかし相手に敵愾心を抱かせないように。平然としているのが一番だと思い、深呼吸をした。これで幾分かは落ち着け、私の心よ。そう願った。
再び空に舞い、歩いていくには遠すぎる距離を、アリスは縮めていく。
やがて大きな扉が彼女の前に現れて、威圧するようにその存在をアピールしてきた。
(……はぁ)
正直なところ、このまま百八十度転回し、前に向かって飛んでいきたい。外出してくる住人たちとは顔見知りといった程度の仲でしかないので、気は徐々に重くなってくる。
「……」
しかしここでまごまごしていても仕方ない。やらないよりかはやった方が少しは健全なのだから。
さて、覚悟を決めよう。主に自分の為に。
アリスは袖を捲くり、両手でドアを押し―――
「え」
「あら?」
た、と思ったら。内側から扉が開いて、アリスの額をそこそこ強烈に打ちつけた。
じんじんとした痛みが額を嘲笑う。
「痛ったぁ……」
思わずその場にへたり込み額を摩ると、聞き覚えのある声が耳に飛び込んできた。
「誰かと思えば七色じゃないの。大丈夫?」
涙目のまま、ドアを開けたと思われる「額強打事件」の犯人へと目を向けた。
メイド服に身を包んだ彼女は心配なんてしてなさそうな表情で、もう一度「大丈夫?」と訊ねてきた。
「え、ええ。まあ。こんなのへっちゃらよ」
痩せ我慢に近い返答をし、立ち上がった。そしてそのまま用件を述べる。
「八雲紫に言われて、おつかいに来たわよ」
そう告げると、メイド―――十六夜咲夜は手を打った。
「ああ、その件ね。窺ってるわ。どうぞ入って」
すんなりと中に通される。お邪魔します、と小さくも礼儀正しい儀礼をし、中へと遠慮なく入る。
館の内部は外見に負けじと豪華絢爛な造りになっており、中世ヨーロッパの城のような佇まいを見せる。落ち着いた雰囲気の中にも煌びやかな退廃さが散りばめられていて、流石は「お嬢様」が住む場所に相応しい。初めて中を見るが、素直に感心した。
(そういえばここには図書館もあったんだっけ。あとで寄ってみようかな)
掘り出し物があるかもしれない。もしかしたらそれで自分の研究が進むかもしれない。いい事尽くしじゃあないか。そんな淡い期待を抱いていると、
「さ、急いで頂戴」
「え、急ぐ?」
何を? 何で? ただのおつかいなんだから、急ぐ必要は無いのでは?
当たり前の疑問を言う前に、アリスの腕は咲夜に掴まれていた。そして瞬きをした瞬間、周囲の風景はガラリと変わっていて、入り口辺りから、広間へと変貌を遂げていた。
自分の腕を掴んでいた筈のメイドは一歩後ろに控えていた。凛とした表情からは何も読み取る事が出来ない。
(成程、空間を操ったわけね)
しかしこれでは最初に感じた情緒もへったくれも無い。急いでいるとは言っても忙しなさ過ぎる。
さて、一言文句でも言ってやろうか。とした瞬間、
「ようこそ紅魔館へ。歓迎するわ、アリス・マーガトロイド」
突然凄まじい魔力を感知した。それはアリスのすぐ前方にあり、どんどん増えていく。アリスは思わず戦慄してしまい、無意識的に警戒色を強めてしまう。
が、そんなアリスの様子をさぞや当然と言わんが如く、紅魔館の主―――レミリア・スカーレットは泰然としている。
「お嬢様、今はまだ昼時ですよ。寝ていらしても結構ですのに」
「あら咲夜、折角の客人なのよ。主人が直々に挨拶するのは礼儀でしょう?」
淡々としたやり取りの後、その幼くも重い声は、アリスへと向けられる。
「こうやって直に話すのは初めてかしらね、アリス」
もしかして、もしかしなくても、自分はとんでもない所に来てしまったのではないだろうか。
おつかいなんて単語自体の響きほど、内容は軽くは無かったのかもしれない。そういや「最初は紅魔館」とだけ書いてあって、何をどうするかなんて書いてなかったのが気になったが、まさか何かヤバイ物でも運ばされるのだろうか。
アリス・マーガトロイド最大のピンチって奴が間近まで迫っているような雰囲気だ。
「用件はあのスキマから聞いているかしら?」
「え、ええと、聞いてないわね。ただ紅魔館におつかいに行けって事だけ」
気圧されながらも、平和的に、との思いは捨てていない。戦っても勝ち目は無いのだ。正直に答えた。
するとレミリアはくすりと笑い、ある日の霊夢のようないやらしい笑みを満面に浮かべた。
ぞくりとし、「ある意味」嫌な予感、そして悪寒がアリスの脳髄を駆け巡る。
「わ、私用事を思い出し―――」
「咲夜」
「はい、お嬢様」
レミリアが促し、咲夜が頷く。瞬間、自分の体に違和感が走る。まるで今まで半袖だと思っていた服が実は長袖だったかのような、具体的な違和感だ。
そろっと自分の姿を確かめてみる。いつもの自分の服ではない、後ろで凛然としている咲夜と似ている―――いや、「同じ服」。
上海と蓬莱がじっと自分を見ているのに気がつき、その視線が「似合っている」と語っているような気がする。
そう、アリスの服はメイド服に変えられてしまっていた。
「ちょっ、これはいったいどーゆーこと!?」
「実はね、メイドの一人が急に辞めちゃって。結構有能な子で、今のところその穴を埋めるのに相応しい後任がいないのよ。だからしばらく紫の式を貸して貰おうと思ったんだけど。ほら、あいつの式神って通常のと違って凄い使えるじゃない。だからって思ったんだけど、そうしたらあいつ、『もっと有能な人材を紹介しますわ』って言うのよ」
嫌な予感ほど的中するのは悲しい事だ。
おつかいは、『お使い』。つまり、使われる事。使用人になること。まあ、「おつかい」という言葉だけでそこまで連想するには無理がある。
そう言えば、メモに「最初は」とあった事を思い出す。アリスは顔から血の気が引いていくのを実感できた。
「期間は一週間。頑張ってね、『有能な人材』さん」
ここまで来ると自分一人がみんなに嵌められているような被害妄想まで生まれてくる。上海と蓬莱もいつのまにか大きさに合ったメイド服を着ており、嬉しそうにアリスの周囲を飛んでいる。
ああ、自分の人形までも私を欺いていたのだろうか? こんなに悲しいことは無い。
「……こ、こんなの詐欺じゃなーい!」
存在自体が詐欺っぽいスキマ妖怪に向かって叫ぶも、届くはずも無く。しかしどこかで八雲紫がにやにやと笑っているような気がした。
遊びは須らく楽しくあるべきであり、惰性や仕方なくといった感じで流されてやるものではない。八雲紫はそう考えている。
どうすればもっと面白おかしくなるのか、引っ掻き回せるのか、常に無駄な程考えている。
「紫様、いったい何をお考えなのです? 嘘までついて」
「あら、嘘じゃあないわよ。結構前に、あなた水に浸かって大変なことになったじゃない。橙だって以前、マタタビで凄いことになったし」
世間ではそういうのを屁理屈って言うんです、というセリフを言いそうになったが、以前体験したお仕置き風景が背筋を毛虫のように這い蹲り、意識的に遮った。
「それに、今のあの娘には色々と必要なのよ。色々とね」
「はあ。でも珍しいですね。一つのことにこんなに執着するなんて」
「『それ』が終わるまでは『それ』に集中するのは普通じゃなくて? それとも藍? あなた、私が集中力が無い八方美人とでも思っているのかしら?」
ぞくり。この方向は駄目な方向だ。心では否定的に思っていても、藍は慌てて首を振るしかない。お仕置きされるのは誰だって嫌なものである。
「ち、違いますよ! そんなことはありませんって!」
「そう、ならいいのよ」
そうは言うものの、紫の視線はすべてを見透かしてそうで、藍は苦笑いを浮かべるしかない。くすりと紫が笑った。
「さて、あの娘の行方はどこへやら、ね」
きっと今頃、自分に向かって「ふざけんなー!」とでも叫んでいることだろう。
そう考えると、憎まれ役も少し辛く、結構楽しいものだ。
続く
館の前に大きく広がる湖に差し掛かると、氷精が大きなカエルとじゃれついている(?)のが視界に入ってきた。よくもまあ飽きないもんだと思いながら視線を逸らし、そのまま通り過ぎようとした。しかし、どうやら彼女はアリスに気付いたらしい。カエルから離れて、アリスに向かって飛んでくる。
「珍しい」
氷精―――チルノは心底驚いているようで、一言目がそれだった。
「挨拶もなしにいきなりそれとは、それこそご挨拶ね」
皮肉たっぷりに返した。しかしチルノは意に介した様子も無い。気付いていないだけなのか、流したのかは分からないが。
「なんでここにいるの? 普段はこっちから声かけても近寄らないのに」
「……まあ自分でも後悔はしてるんだけど。頼まれ事よ」
「ふーん、頼まれ事なんだ。誰からの?」
チルノには珍しく、食い下がってくる。興味が無いことには見向きもしなさそうな幼い氷精の疑問に、アリスは正直に答えようかどうか迷う。まさかおつかいです、だなんて、口が裂けてもとは言うが、裂けたら言えないんじゃなかろうか。まあ、言えるはずも無いわけで。
「……」
さあ、どうしようか。
「そ、それは秘密よ」
「なんで?」
「そ、その方がカッコイイじゃない!」
ああ、私は何を口走っているのだろう。私はこんなキャラじゃなかったような気がする。
後悔に打ちひしがれる中、チルノの反応は無く、やはり無理があったと少し後悔するアリスだったが。
「な、なるほど!」
しかし通ってしまう。これこそチルノがチルノたる所以だろうが、アリスは「助かった」と思うよりも「この子の将来が心配だわ」と少しばかり考えた。
「そ、それじゃあ私はこれで失礼するわね」
身を翻し、逃げるように去っていく。出来るだけ速く。
ちらりと少しだけ振り返ると、チルノが「がんばれー!」と大声で叫びながら両手をぶんぶん振り回している様子が見えた。冷たい空気が和らいでくのと同時に距離も開いていくが、どうやらチルノはアリスが見えなくなるまでやめるつもりは無いらしい。「はぁ」と溜息を吐き、道を往く。
湖の終わりは、すぐそこだ。
湖を越えてしまえば、あとは一直線で辿り着ける。空気の色が赤く染まってきているのもその証拠で、レミリア・スカーレットの存在の強さをも同時に表している。こんな状況でなければ近付きたくも無い場所の一つではあるが、こちらが警戒してしまえばあちらも警戒するだろう。(普段警戒していないわけではないが)
友好的に。そう、友好的に。りぴーとあふたーみー。ふぉーみー。ぴーすふるぴーすふる。
心の中で平和を望みながら、門へと近付いていく。
館の荘厳な雰囲気を守るに相応しい門が徐々に近付いていくと、一層その言葉を反芻せざるをえない。
「そこで止まれ!」
と、アリスの裂帛の心境を一瞬で崩壊させる声がそこで放たれた。
気配を上空に感じ、上を見る。独特の衣装を纏い、門の前に立ちはだかる彼女は、紅魔館が門番、紅美鈴である。気を操る程度の能力を持つ彼女の能力かどうかは分からないが、妙な圧力を感じた。アリスは言われたとおりにそこで止まり、大地に降り立った。美鈴はそれを見届けてから同じように着地した。
「……って、なんだ。七色か」
少しだけ緊張感が和らぐ。少なくとも、アリスに対して敵意は無いようだ。心の中で安堵の息を吐く。
「どうもこんにちは、門番さん」
先程まで詠唱していた平和の言葉が頭をよぎり、普通の挨拶。続いて、上海と蓬莱もお辞儀をした。「よく出来てるなぁ」と美鈴が独り言を漏らしたが、それはアリスの耳には届かない。
「何の用かしら? あなたがここに来るなんて、珍しいにも程があるけど」
「八雲紫に頼まれてね。ちょっとした妖怪助けよ」
間違ってはいないが、やはり素直に「おつかい」とは言えない。
「……ああ、八雲さんが遣すおつかいって、あなたのことだったのね。てっきり式神たちかと思ってたわ」
言わずとも知れ渡っていたようだ。隠す意味など無かったのだ。アリスはごほんごほんと咳き込んで、誤魔化すかの如く続けた。
「ま、まあそういうわけだから。通してくれる?」
「ええ、そういうことなら」
美鈴は右に三歩移動し、道をアリスに譲った。門から館への道が拓いて、全景が嫌でも目に入ってくる。それでも前に進まなければいけないので、気が少し重い。
まだ昼間だというのにひっそりと薄暗く、莫大な妖気を隠すこともせず、堂々と聳え立っている。一瞬だけ帰りたい気持ちが強まったが、手ぶらで帰ってみろ、何をされるか分かったもんじゃない。弱い気持ちを押し殺して、しかし相手に敵愾心を抱かせないように。平然としているのが一番だと思い、深呼吸をした。これで幾分かは落ち着け、私の心よ。そう願った。
再び空に舞い、歩いていくには遠すぎる距離を、アリスは縮めていく。
やがて大きな扉が彼女の前に現れて、威圧するようにその存在をアピールしてきた。
(……はぁ)
正直なところ、このまま百八十度転回し、前に向かって飛んでいきたい。外出してくる住人たちとは顔見知りといった程度の仲でしかないので、気は徐々に重くなってくる。
「……」
しかしここでまごまごしていても仕方ない。やらないよりかはやった方が少しは健全なのだから。
さて、覚悟を決めよう。主に自分の為に。
アリスは袖を捲くり、両手でドアを押し―――
「え」
「あら?」
た、と思ったら。内側から扉が開いて、アリスの額をそこそこ強烈に打ちつけた。
じんじんとした痛みが額を嘲笑う。
「痛ったぁ……」
思わずその場にへたり込み額を摩ると、聞き覚えのある声が耳に飛び込んできた。
「誰かと思えば七色じゃないの。大丈夫?」
涙目のまま、ドアを開けたと思われる「額強打事件」の犯人へと目を向けた。
メイド服に身を包んだ彼女は心配なんてしてなさそうな表情で、もう一度「大丈夫?」と訊ねてきた。
「え、ええ。まあ。こんなのへっちゃらよ」
痩せ我慢に近い返答をし、立ち上がった。そしてそのまま用件を述べる。
「八雲紫に言われて、おつかいに来たわよ」
そう告げると、メイド―――十六夜咲夜は手を打った。
「ああ、その件ね。窺ってるわ。どうぞ入って」
すんなりと中に通される。お邪魔します、と小さくも礼儀正しい儀礼をし、中へと遠慮なく入る。
館の内部は外見に負けじと豪華絢爛な造りになっており、中世ヨーロッパの城のような佇まいを見せる。落ち着いた雰囲気の中にも煌びやかな退廃さが散りばめられていて、流石は「お嬢様」が住む場所に相応しい。初めて中を見るが、素直に感心した。
(そういえばここには図書館もあったんだっけ。あとで寄ってみようかな)
掘り出し物があるかもしれない。もしかしたらそれで自分の研究が進むかもしれない。いい事尽くしじゃあないか。そんな淡い期待を抱いていると、
「さ、急いで頂戴」
「え、急ぐ?」
何を? 何で? ただのおつかいなんだから、急ぐ必要は無いのでは?
当たり前の疑問を言う前に、アリスの腕は咲夜に掴まれていた。そして瞬きをした瞬間、周囲の風景はガラリと変わっていて、入り口辺りから、広間へと変貌を遂げていた。
自分の腕を掴んでいた筈のメイドは一歩後ろに控えていた。凛とした表情からは何も読み取る事が出来ない。
(成程、空間を操ったわけね)
しかしこれでは最初に感じた情緒もへったくれも無い。急いでいるとは言っても忙しなさ過ぎる。
さて、一言文句でも言ってやろうか。とした瞬間、
「ようこそ紅魔館へ。歓迎するわ、アリス・マーガトロイド」
突然凄まじい魔力を感知した。それはアリスのすぐ前方にあり、どんどん増えていく。アリスは思わず戦慄してしまい、無意識的に警戒色を強めてしまう。
が、そんなアリスの様子をさぞや当然と言わんが如く、紅魔館の主―――レミリア・スカーレットは泰然としている。
「お嬢様、今はまだ昼時ですよ。寝ていらしても結構ですのに」
「あら咲夜、折角の客人なのよ。主人が直々に挨拶するのは礼儀でしょう?」
淡々としたやり取りの後、その幼くも重い声は、アリスへと向けられる。
「こうやって直に話すのは初めてかしらね、アリス」
もしかして、もしかしなくても、自分はとんでもない所に来てしまったのではないだろうか。
おつかいなんて単語自体の響きほど、内容は軽くは無かったのかもしれない。そういや「最初は紅魔館」とだけ書いてあって、何をどうするかなんて書いてなかったのが気になったが、まさか何かヤバイ物でも運ばされるのだろうか。
アリス・マーガトロイド最大のピンチって奴が間近まで迫っているような雰囲気だ。
「用件はあのスキマから聞いているかしら?」
「え、ええと、聞いてないわね。ただ紅魔館におつかいに行けって事だけ」
気圧されながらも、平和的に、との思いは捨てていない。戦っても勝ち目は無いのだ。正直に答えた。
するとレミリアはくすりと笑い、ある日の霊夢のようないやらしい笑みを満面に浮かべた。
ぞくりとし、「ある意味」嫌な予感、そして悪寒がアリスの脳髄を駆け巡る。
「わ、私用事を思い出し―――」
「咲夜」
「はい、お嬢様」
レミリアが促し、咲夜が頷く。瞬間、自分の体に違和感が走る。まるで今まで半袖だと思っていた服が実は長袖だったかのような、具体的な違和感だ。
そろっと自分の姿を確かめてみる。いつもの自分の服ではない、後ろで凛然としている咲夜と似ている―――いや、「同じ服」。
上海と蓬莱がじっと自分を見ているのに気がつき、その視線が「似合っている」と語っているような気がする。
そう、アリスの服はメイド服に変えられてしまっていた。
「ちょっ、これはいったいどーゆーこと!?」
「実はね、メイドの一人が急に辞めちゃって。結構有能な子で、今のところその穴を埋めるのに相応しい後任がいないのよ。だからしばらく紫の式を貸して貰おうと思ったんだけど。ほら、あいつの式神って通常のと違って凄い使えるじゃない。だからって思ったんだけど、そうしたらあいつ、『もっと有能な人材を紹介しますわ』って言うのよ」
嫌な予感ほど的中するのは悲しい事だ。
おつかいは、『お使い』。つまり、使われる事。使用人になること。まあ、「おつかい」という言葉だけでそこまで連想するには無理がある。
そう言えば、メモに「最初は」とあった事を思い出す。アリスは顔から血の気が引いていくのを実感できた。
「期間は一週間。頑張ってね、『有能な人材』さん」
ここまで来ると自分一人がみんなに嵌められているような被害妄想まで生まれてくる。上海と蓬莱もいつのまにか大きさに合ったメイド服を着ており、嬉しそうにアリスの周囲を飛んでいる。
ああ、自分の人形までも私を欺いていたのだろうか? こんなに悲しいことは無い。
「……こ、こんなの詐欺じゃなーい!」
存在自体が詐欺っぽいスキマ妖怪に向かって叫ぶも、届くはずも無く。しかしどこかで八雲紫がにやにやと笑っているような気がした。
遊びは須らく楽しくあるべきであり、惰性や仕方なくといった感じで流されてやるものではない。八雲紫はそう考えている。
どうすればもっと面白おかしくなるのか、引っ掻き回せるのか、常に無駄な程考えている。
「紫様、いったい何をお考えなのです? 嘘までついて」
「あら、嘘じゃあないわよ。結構前に、あなた水に浸かって大変なことになったじゃない。橙だって以前、マタタビで凄いことになったし」
世間ではそういうのを屁理屈って言うんです、というセリフを言いそうになったが、以前体験したお仕置き風景が背筋を毛虫のように這い蹲り、意識的に遮った。
「それに、今のあの娘には色々と必要なのよ。色々とね」
「はあ。でも珍しいですね。一つのことにこんなに執着するなんて」
「『それ』が終わるまでは『それ』に集中するのは普通じゃなくて? それとも藍? あなた、私が集中力が無い八方美人とでも思っているのかしら?」
ぞくり。この方向は駄目な方向だ。心では否定的に思っていても、藍は慌てて首を振るしかない。お仕置きされるのは誰だって嫌なものである。
「ち、違いますよ! そんなことはありませんって!」
「そう、ならいいのよ」
そうは言うものの、紫の視線はすべてを見透かしてそうで、藍は苦笑いを浮かべるしかない。くすりと紫が笑った。
「さて、あの娘の行方はどこへやら、ね」
きっと今頃、自分に向かって「ふざけんなー!」とでも叫んでいることだろう。
そう考えると、憎まれ役も少し辛く、結構楽しいものだ。
続く
久しぶりに覗いたら、待ち望んでいた続編が!
もう一度1話目から読み返して来ようっ
あっ、あっ、それから『おかえりなさい』!!