私は、何を考えていたのかわからない。
ただ知っているのが、雪原に仰向けになって、大空を見上げている事だった。
吐く息が白い。幻想郷は冬だった。
手を伸ばしてみる。何も起こらない。
当たり前だ。握り返してくれる手なんてないのだもの。
少なくとも、この空間には、だ。
空は灰色の雲に覆われていた。
あれだ。黒い絵の具を少しだけ取って、白い絵の具をたっぷり付ける。
そして、筆を使ってぐちゃくちゃに良く混ぜた後、出来る色だ。
その雲から降ってくるのは、雪だった。
私は目を瞑る。脳裏には何も浮かばない。
もし過去の栄光が戻せるのであれば、戻したい。
しかし、私でもそんな事が出来るはずはない。
私はあくまで時を止めるのであり、未来操作や過去操作を行うことは出来ない。
空間を捻じ曲げたり、拡張することはできるが、時空と時空を行き来できない。
転移することも然りだ。
前に彼女が研究していたが、その彼女はもう、この世にはいない。
時の流れと言うものは、とても儚いものだ。
そんな哀しいだけの時代に生きて、良く精神が壊れないものだ。
「寒くないのか?」
私は首だけ動かして、声の方を見た。
くるぶしにまでかかる、長い青白い髪の毛を持った少女。
丁寧に編みこまれたマフラーを首にかけ、両手はポケットに格納されている。
「ずっとここにいると、寒さも忘れてしまいそうね」
感状を込めず、半ば棒読みに私は答えた。
彼女、藤原妹紅は雪原に座り込んだ。
「どうした。お前らしくも無い」
私に同情しているのか、そうでないのか。
それはわからなかったが、何か相談に乗るような姿勢である事は理解できた。
私と同じ目線に立って、何かを考えてくれているのであろう。
「あぁ、……しかし、寒いな」
妹紅は座っていても両手を決して外に出さなかった。
手袋をしているのはわかっていたが、それでも寒そうにしていた。
私の格好はというと、常用のメイド服だった。
メイド長にのみ与えられる、「Red Magic」の刺繍と、スカートにローマ数字が描かれた特注品。
不慮の事故で破れては補修し、汚れたら綺麗になるまで洗って………。
もう、何年もの私の汗と匂いが染み込んだ、私の人生でもあった。
「咲夜、どうした?」
妹紅は私の名前を告げた。
どうやら、本格的に心配してくれるのは確かだった。
私は口を開く。
「ねえ、妹紅」
人を頼る、というのは、恐らく私は滅多にしないと思う。
逆に言えば、専ら頼りになる存在だったので、常に何でも出来るイメージが私についていたのかもしれない。
そうか、だからこそ、私を頼ってくれたのか。
「おう」
妹紅は力強く返事をした。
微妙に女の子っぽくなければ、女の子っぽい一面も見せる少女。
そんなやんちゃな存在が、幻想郷にいたのは覚えている。
……懐かしいわね。
「私は、どうして老いもせず、死にもせず、………永遠の命を与えられたのかしらね」
雲は、相変わらず雪を降らしていた。
決して止みそうに無い雪。まるで私の心象世界みたい。
雪のように白く、誰彼も寄せ付けず、己の領域を侵す者は全力を持って排除する。
白という世界は、どんな色も塗り潰してしまう。私はそれが嫌で、拒否するのだ。
「それは……………」
妹紅は口を閉ざした。
「わかってる」
私は少し安堵したような表情で言った。
だって、それはお嬢様ですら操る事の出来ない運命だから。
あの時、私はわかっていない振りをしていたけれど、違うのよ。
全部理解していた。そう、私が彼女の娘である事を。
「親が蓬莱の薬を服用すると、その作用は子にも受け継がれる…」
真剣な目付きをして妹紅が言った。
彼女にとってはある意味では死活問題なのだろう。
永遠の命を得た時、その瞬間こそは、素晴らしい事だと思っていた。
しかし、時の流れを経る度に、栄光は一瞬にして恐怖へと変化する。
つまりは、自分以外消えていく事実を信じたくないのだ。
「噂には聴いていたが、本当だったのか」
「あら、何処からの情報?」
「烏天狗だ」
妹紅はきっぱりと答えた。
「あら、あの子もなかなか侮れないわね」
「発行部数が極端に少ないけどな。きっと、ありとあらゆる情報を持っているのだろうな」
情報は、時に銃よりも強力な武器となる。
ウチは購読…というより無理矢理投函されるのだけど、一応礼儀として私は読んでいる。
いや、新聞というのは貴重な情報源だ。
前に外の世界の情勢に詳しい妖怪から聴いたが、外の世界では電算から成る国際網というシステムがあるらしい。
それは、瞬時に世界中の情報を手に入れられるらしいのだ。
「わんわんっ!」
暫しの沈黙を破ったのは、犬の鳴き声だった。
力強い脚力で、私の方へ向かってくる。
「ちび?」
「ちび」というのは、私へ走ってきた犬の名前だ。
実は私は大の犬好きであり、特にこの青い目をした犬がお気に入りである。
外見こそ怖く、般若みたいであるが、性質は大人しい女の子である。
私は起き上がった。
尻尾を大きく振って、胸に飛び込んでくる犬を抱きかかえる。
飼い始めた時はそれこそ小さかったのに、今は私が持つのも精一杯な大きさだ。
「さくやさーんっ」
呆然としていた私の前に現れたのは、もう何年もの付き合いがある親友だった。
昔と全く変わらない風貌は、私と同じ。
私は人であり、彼女は妖であるが、私は蓬莱の人の形であり、彼女は人間より何倍も寿命が長い妖怪だ。
「美鈴…」
空が飛べるのに、彼女は雪原を走っていた。
途中、転びそうになるが、何とか体勢を立て直す。
そこはいつもの性格に良く現れており、私はそんな彼女に憧れていた。
「はぁ……はぁ、咲夜さんっ! どうしたんですかっ! こんな所まで来て…」
腰まで届く、燃えるような紅い髪をした彼女は息を切らしながら言った。
彼女、紅美鈴は腐っても武闘家なので、この程度で息が切れるはずが無いと思っていた。
………やはり、時の流れは彼女の体力をも奪っていた。そうなのかもしれない。
美鈴は、どうやら本当に心配していたらしかった。
確かに、私がこうやって誰にも行き先を告げずに、何処かふらりと行ってしまうのは今まで無かったからだ。
「私は…ここで用済みだな」
真っ直ぐ幻想郷の森林を鋭い目付きで見ていた妹紅は、そう言うと立ち上がる。
服に付いた雪を掃うと、彼女は私の方に顔を向けた。
「咲夜、お前には―――――いや、よそう」
妹紅はそれだけ言うと、手を振って歩き出した。
私は何故か、彼女の言いたい事がわかってしまっていた。
それは、私には紅美鈴という友達がいるということだろう。
…確かに、私に名前を与え、私を信頼し、私と言う存在が特別な存在であったお嬢様は、今はいない。
彼女は永遠に幼きまま、私の側で逝った。
私はその時泣かなかった。お嬢様の死は、皆が泣いていたのに。
どうしてだろう。あの時の空虚感は、今でもこのように思い出してくる。
お嬢様がはかなくなり、後を追うようにフランドール様が逝き、パチュリー様が仆れた。
紅魔館が成り立ってから生き残っているのは、私と美鈴と小悪魔だけだろう。
私がここのメイド長になってからのメイド達も皆、逝ってしまったのだから。
「咲夜さん………」
私はちびを離し、再び仰向けになった。
美鈴は、立ったまま私を見ていた。…そんな哀れむような目で見ないで、お願い……。
ちびは私の周りを歩いていた。きょろきょろと、何かを探すような動作をしていた。
「大丈夫よ、美鈴。私はもう、何処にも行かないから」
そう言うと、私はため息にも近いほど、大きく息を吐いた。
気温は氷点下を下回っている。勿論寒いので、私は紅魔館を出る前に防寒対策はしていた。
マフラーを巻き、手袋をして、流石に生足だと堪えるので黒いストッキングを着用している。
これを履くだけで、思った以上に温かいのである。あの歴史家が言っていた事は嘘では無かった。
空からは相変わらず雪が降っていた。
先程よりか、幾分弱まったと思うが、それでも寒いのに変わりは無かった。
私が何かを考えていると、突然立っていた美鈴が、私の横に座り込んだ。
「咲夜さん……、さっきのこと、本当ですよね?」
美鈴は私に言った。
雪原に座り、長く綺麗な足は伸ばされていた。彼女は、遠くを見つめていた。
さっきのこと、というのは私が何処にも行かないと言ったことを踏まえての事だろう。
「ええ……。本当よ。心配させて本当にごめんなさい」
「咲夜さん……」
元からの性格なためか、美鈴の声は震えていた。
嗚呼、…私は本当に頼りにされているのだろう。そう思うと、ほっとする。
「美鈴。………私と貴女が会って、もう何年経つのかしらね…」
「…そうですね。もう、かなり経っていると思います」
私は蓬莱の人の形にして、彼女は妖。
死への恐怖というものが全く無い私に対して、彼女にはそれがある。
お嬢様が、フランドール様が、パチュリー様が、そして仲間がそれを教えた。
「………思えば、いろんな事があって、まだまだいろんな事が続くのね」
「……………」
美鈴は黙ってしまった。
……この先、何年の時を生きれるのだろう。言い換えれば、後何年生きれるのだろう。
「美鈴」
「はい」
美鈴は力強い声で応じた。
まだまだ余力は残っている。そうではなくては、紅魔館の門番という大役、務まるはずが無い。
私が最も信頼し、私の事をいつも想ってくれた、大切な親友。
今は亡き白黒の魔法使いと戦い、傷付いてもなお立ち上がる彼女。
…正直、そこが辛かった。
そう、私は末期だったのである。狂おしい程に、彼女を愛してしまったのだ。
だからこそ、逆に私は彼女を喪うのが怖いのだ。
彼女が自分の最期を怖がり、私は彼女という存在が消えてしまうことを恐れる。
………何て、儚いのだろう。
「貴女は………、ううん、なんでもないわ」
「へ?」
美鈴の眼が、突然丸くなった。
「さあ、帰りましょうか。……私達が帰るべき場所に」
それは、とても紅い館だった。
外観は強烈な紅い色。一年の終わりの間近と共にペンキを塗りなおす為、その外観に変化は無かった。
季節が季節なため、その紅い館の色は、白いものとなっていた。
紅魔館の大きな門は、施錠されることもなく開いている。
もう、侵入者を撃退することもない、古びた入口。
空から降る雪が、寂しく笑っているかのように見えた。
私は美鈴と並んで紅魔館の大広間に出る。後から遅れてちびが歩いてきた。
何も変わっては居ない。手を加えられる事も無ければ、壊れる事も無い場所。
横を見れば、美鈴が両手に息を吐いていた。幻想郷の冬は、室内でも寒いのだ。
何を血迷ったか、私は何も言わずに歩いていた。
途中、清掃中にメイドに出くわしたが、私は気付かぬ振りをしていた。
事あるごとに美鈴が頭を下げていた事だけ、私は鮮明に覚えていた。
私と美鈴、そしてちびが来たのはヴワル魔法図書館だった。
紅魔館に隣接するこの大図書館は、主を失った今日でも、きちんと機能されている。
その年の終わりの季節なため、ここだけは一週間をかけて丁寧に大掃除が成される事になっていた。
何しろ広い。本を取り出し雑巾をかけるだけで、へとへとになってしまう。
わざわざ一週間という時間をかけて掃除をするのはそのためだ。
まあ、元の主が喘息持ちだったため、極端に埃と相性がよろしくないのも事実であった。
そして、その大図書館の総てを初代管理者たる魔女から受け継いだ存在は、
初代管理者が長年愛用してきた机にもたれ、椅子に座ったまま、すやすやと眠っていた。
机の上には積まれた本。頭と背中に翼を持つ少女の足と背部には、毛布がかけられていた。
私はひたすら歩いていた。美鈴も、ちびも、何も言わず私の後をついてきた。
ふと、私は足を止め、本棚に格納されていた一冊の本を取り出した。
「ねえ美鈴、オルフェウスの物語を知っているかしら?」
「オルフェウス? ギリシア神話の詩人ですか?」
「良く知ってるじゃない」
私は美鈴に言いながら、その本のページを捲った。
本は優しい文体の文章と、柔らかい筆遣いで描かれた絵が一緒に載っていた。
つまりは絵本だった。
「えっと、確か蛇にかまれて死んじゃった奥さんを冥界へ迎えに行って、
決して奥さんを見てはいけないと言われたのに、見てしまったって話ですよね?」
「そうよ。モンテヴェルディとグルックの歌劇が有名ね」
ぺらぺらとページを捲りながら、私は美鈴との会話を楽しんだ。
その本のタイトルは、まるで初代管理者を思わせるような文章であった。
「さてと……、私は部屋に戻るわ。…なんだか眠くなっちゃったわ」
「それじゃあ、この子は私が連れますね」
美鈴はちびのことを言っていた。
「ええ、お願いするわ」
「はい、お願いされました」
いつものような笑顔を私に見せ、美鈴はちびを連れて行く。
最初は私だけに懐いていたが、今では紅魔館の皆から愛される存在であった。
紅い首輪をし、丁寧にブラッシングされた毛並は、とても綺麗だった。
代々のメイド長が使用する部屋に戻った私は、迷わずベッドの上に飛び込んだ。
雪原とは違い、ゆったりとした、温かい感触が得られた。
私の眼は開いたままだった。
このまま目を瞑り、眠ってしまうと、そのまま永遠に眠り続けてしまうという幻想さえ見てしまいそうだ。
しかし、私の心臓は、喩え弓で射られようが、槍で穿たれようが、永遠に動き続ける。
理由は私が不老不死の存在だからだ。そう、私に死という概念は、この世に生を受けた時から決まっていたのだ。
その運命は、お嬢様でさえ変えることは出来なかった。
お嬢様。…嗚呼、貴女の今際の言葉、今でも覚えています。
本当に、あのお姿はご自分でも想っていたのでしょうね。とても、哀れだという事を。
博麗の巫女には、決して見せたくなかった最期の時。もっとも、彼女はその前に逝ってしまったけれど…。
いや、むしろお嬢様は霊夢に臨終の時を看取って欲しかったのかもしれない。それがお嬢様の本望ならば。
お嬢様は、永遠に幼き姿のまま、眠るように息を引き取った。
老いもせず、皺も作らず、私と出会ったあの時と同じ姿で、この世を去った。
彼女の意志とも言うべきか、最期は、私と2人きりにして欲しいと言った。
妹も、親友も寄せず、2人だけでいたい。
外見上は普通であるが、衰弱したお嬢様は、そう仰った。
お嬢様は、最後に一言、こう言ったのは今でも鮮明に覚えている。
『……貴女と、フランと、パチェと、……美鈴、小悪魔、……いいえ、…違うわね、みんな、私を愛してくれたわ。
こんな性格の吸血鬼を、……私として見てくれたみんなに………。
……さくや、…これが…わたしのさいごのねがいよ』
……………お嬢様。
『……………ありがとう』
今夜だけは、泣いていいのかしら。
……いや、違うわね。悲しい時は、思いっきり泣くべきだと思う。
感情を抑制したら、かえって何がどうなっているかわからない。
喪うということに、慣れてしまった自分が怖い。
そして、時が1秒進むたびに、確実に判る事がひとつだけある。
不死の者以外の存在が、死への階段を登っている事を………。
時の流れに逆らう事はできない。
時を止める事はできても、逆行と加速はできないのだ。
私の力は、階段を登る足を止める事しかできない。
ただ、自分がその階段を登るだけ。
ふと気付くと、私は自分が泣いていた事に気付いた。
いや、それが普通なのだろう。
そして、聴こえるはずのない足音が聴こえる。
次に消えてしまう存在の、足音が。
やがて総てを喪った時、私はどうなるのだろうか。
考えるだけでも、不快な気分になる。
いっそのこと、彼女も蓬莱の人の形にするべきか。
私の母親が作った薬。
あの時、私は素知らぬ振りをしていたけれど、本当は気付いていたのよ。貴女の驚きにね。
自分が壊れかけているのは………自分が良くわかっていた。
この世界と同じように、狂おしくも、………いとおしい世界と同じように…………。
ただ知っているのが、雪原に仰向けになって、大空を見上げている事だった。
吐く息が白い。幻想郷は冬だった。
手を伸ばしてみる。何も起こらない。
当たり前だ。握り返してくれる手なんてないのだもの。
少なくとも、この空間には、だ。
空は灰色の雲に覆われていた。
あれだ。黒い絵の具を少しだけ取って、白い絵の具をたっぷり付ける。
そして、筆を使ってぐちゃくちゃに良く混ぜた後、出来る色だ。
その雲から降ってくるのは、雪だった。
私は目を瞑る。脳裏には何も浮かばない。
もし過去の栄光が戻せるのであれば、戻したい。
しかし、私でもそんな事が出来るはずはない。
私はあくまで時を止めるのであり、未来操作や過去操作を行うことは出来ない。
空間を捻じ曲げたり、拡張することはできるが、時空と時空を行き来できない。
転移することも然りだ。
前に彼女が研究していたが、その彼女はもう、この世にはいない。
時の流れと言うものは、とても儚いものだ。
そんな哀しいだけの時代に生きて、良く精神が壊れないものだ。
「寒くないのか?」
私は首だけ動かして、声の方を見た。
くるぶしにまでかかる、長い青白い髪の毛を持った少女。
丁寧に編みこまれたマフラーを首にかけ、両手はポケットに格納されている。
「ずっとここにいると、寒さも忘れてしまいそうね」
感状を込めず、半ば棒読みに私は答えた。
彼女、藤原妹紅は雪原に座り込んだ。
「どうした。お前らしくも無い」
私に同情しているのか、そうでないのか。
それはわからなかったが、何か相談に乗るような姿勢である事は理解できた。
私と同じ目線に立って、何かを考えてくれているのであろう。
「あぁ、……しかし、寒いな」
妹紅は座っていても両手を決して外に出さなかった。
手袋をしているのはわかっていたが、それでも寒そうにしていた。
私の格好はというと、常用のメイド服だった。
メイド長にのみ与えられる、「Red Magic」の刺繍と、スカートにローマ数字が描かれた特注品。
不慮の事故で破れては補修し、汚れたら綺麗になるまで洗って………。
もう、何年もの私の汗と匂いが染み込んだ、私の人生でもあった。
「咲夜、どうした?」
妹紅は私の名前を告げた。
どうやら、本格的に心配してくれるのは確かだった。
私は口を開く。
「ねえ、妹紅」
人を頼る、というのは、恐らく私は滅多にしないと思う。
逆に言えば、専ら頼りになる存在だったので、常に何でも出来るイメージが私についていたのかもしれない。
そうか、だからこそ、私を頼ってくれたのか。
「おう」
妹紅は力強く返事をした。
微妙に女の子っぽくなければ、女の子っぽい一面も見せる少女。
そんなやんちゃな存在が、幻想郷にいたのは覚えている。
……懐かしいわね。
「私は、どうして老いもせず、死にもせず、………永遠の命を与えられたのかしらね」
雲は、相変わらず雪を降らしていた。
決して止みそうに無い雪。まるで私の心象世界みたい。
雪のように白く、誰彼も寄せ付けず、己の領域を侵す者は全力を持って排除する。
白という世界は、どんな色も塗り潰してしまう。私はそれが嫌で、拒否するのだ。
「それは……………」
妹紅は口を閉ざした。
「わかってる」
私は少し安堵したような表情で言った。
だって、それはお嬢様ですら操る事の出来ない運命だから。
あの時、私はわかっていない振りをしていたけれど、違うのよ。
全部理解していた。そう、私が彼女の娘である事を。
「親が蓬莱の薬を服用すると、その作用は子にも受け継がれる…」
真剣な目付きをして妹紅が言った。
彼女にとってはある意味では死活問題なのだろう。
永遠の命を得た時、その瞬間こそは、素晴らしい事だと思っていた。
しかし、時の流れを経る度に、栄光は一瞬にして恐怖へと変化する。
つまりは、自分以外消えていく事実を信じたくないのだ。
「噂には聴いていたが、本当だったのか」
「あら、何処からの情報?」
「烏天狗だ」
妹紅はきっぱりと答えた。
「あら、あの子もなかなか侮れないわね」
「発行部数が極端に少ないけどな。きっと、ありとあらゆる情報を持っているのだろうな」
情報は、時に銃よりも強力な武器となる。
ウチは購読…というより無理矢理投函されるのだけど、一応礼儀として私は読んでいる。
いや、新聞というのは貴重な情報源だ。
前に外の世界の情勢に詳しい妖怪から聴いたが、外の世界では電算から成る国際網というシステムがあるらしい。
それは、瞬時に世界中の情報を手に入れられるらしいのだ。
「わんわんっ!」
暫しの沈黙を破ったのは、犬の鳴き声だった。
力強い脚力で、私の方へ向かってくる。
「ちび?」
「ちび」というのは、私へ走ってきた犬の名前だ。
実は私は大の犬好きであり、特にこの青い目をした犬がお気に入りである。
外見こそ怖く、般若みたいであるが、性質は大人しい女の子である。
私は起き上がった。
尻尾を大きく振って、胸に飛び込んでくる犬を抱きかかえる。
飼い始めた時はそれこそ小さかったのに、今は私が持つのも精一杯な大きさだ。
「さくやさーんっ」
呆然としていた私の前に現れたのは、もう何年もの付き合いがある親友だった。
昔と全く変わらない風貌は、私と同じ。
私は人であり、彼女は妖であるが、私は蓬莱の人の形であり、彼女は人間より何倍も寿命が長い妖怪だ。
「美鈴…」
空が飛べるのに、彼女は雪原を走っていた。
途中、転びそうになるが、何とか体勢を立て直す。
そこはいつもの性格に良く現れており、私はそんな彼女に憧れていた。
「はぁ……はぁ、咲夜さんっ! どうしたんですかっ! こんな所まで来て…」
腰まで届く、燃えるような紅い髪をした彼女は息を切らしながら言った。
彼女、紅美鈴は腐っても武闘家なので、この程度で息が切れるはずが無いと思っていた。
………やはり、時の流れは彼女の体力をも奪っていた。そうなのかもしれない。
美鈴は、どうやら本当に心配していたらしかった。
確かに、私がこうやって誰にも行き先を告げずに、何処かふらりと行ってしまうのは今まで無かったからだ。
「私は…ここで用済みだな」
真っ直ぐ幻想郷の森林を鋭い目付きで見ていた妹紅は、そう言うと立ち上がる。
服に付いた雪を掃うと、彼女は私の方に顔を向けた。
「咲夜、お前には―――――いや、よそう」
妹紅はそれだけ言うと、手を振って歩き出した。
私は何故か、彼女の言いたい事がわかってしまっていた。
それは、私には紅美鈴という友達がいるということだろう。
…確かに、私に名前を与え、私を信頼し、私と言う存在が特別な存在であったお嬢様は、今はいない。
彼女は永遠に幼きまま、私の側で逝った。
私はその時泣かなかった。お嬢様の死は、皆が泣いていたのに。
どうしてだろう。あの時の空虚感は、今でもこのように思い出してくる。
お嬢様がはかなくなり、後を追うようにフランドール様が逝き、パチュリー様が仆れた。
紅魔館が成り立ってから生き残っているのは、私と美鈴と小悪魔だけだろう。
私がここのメイド長になってからのメイド達も皆、逝ってしまったのだから。
「咲夜さん………」
私はちびを離し、再び仰向けになった。
美鈴は、立ったまま私を見ていた。…そんな哀れむような目で見ないで、お願い……。
ちびは私の周りを歩いていた。きょろきょろと、何かを探すような動作をしていた。
「大丈夫よ、美鈴。私はもう、何処にも行かないから」
そう言うと、私はため息にも近いほど、大きく息を吐いた。
気温は氷点下を下回っている。勿論寒いので、私は紅魔館を出る前に防寒対策はしていた。
マフラーを巻き、手袋をして、流石に生足だと堪えるので黒いストッキングを着用している。
これを履くだけで、思った以上に温かいのである。あの歴史家が言っていた事は嘘では無かった。
空からは相変わらず雪が降っていた。
先程よりか、幾分弱まったと思うが、それでも寒いのに変わりは無かった。
私が何かを考えていると、突然立っていた美鈴が、私の横に座り込んだ。
「咲夜さん……、さっきのこと、本当ですよね?」
美鈴は私に言った。
雪原に座り、長く綺麗な足は伸ばされていた。彼女は、遠くを見つめていた。
さっきのこと、というのは私が何処にも行かないと言ったことを踏まえての事だろう。
「ええ……。本当よ。心配させて本当にごめんなさい」
「咲夜さん……」
元からの性格なためか、美鈴の声は震えていた。
嗚呼、…私は本当に頼りにされているのだろう。そう思うと、ほっとする。
「美鈴。………私と貴女が会って、もう何年経つのかしらね…」
「…そうですね。もう、かなり経っていると思います」
私は蓬莱の人の形にして、彼女は妖。
死への恐怖というものが全く無い私に対して、彼女にはそれがある。
お嬢様が、フランドール様が、パチュリー様が、そして仲間がそれを教えた。
「………思えば、いろんな事があって、まだまだいろんな事が続くのね」
「……………」
美鈴は黙ってしまった。
……この先、何年の時を生きれるのだろう。言い換えれば、後何年生きれるのだろう。
「美鈴」
「はい」
美鈴は力強い声で応じた。
まだまだ余力は残っている。そうではなくては、紅魔館の門番という大役、務まるはずが無い。
私が最も信頼し、私の事をいつも想ってくれた、大切な親友。
今は亡き白黒の魔法使いと戦い、傷付いてもなお立ち上がる彼女。
…正直、そこが辛かった。
そう、私は末期だったのである。狂おしい程に、彼女を愛してしまったのだ。
だからこそ、逆に私は彼女を喪うのが怖いのだ。
彼女が自分の最期を怖がり、私は彼女という存在が消えてしまうことを恐れる。
………何て、儚いのだろう。
「貴女は………、ううん、なんでもないわ」
「へ?」
美鈴の眼が、突然丸くなった。
「さあ、帰りましょうか。……私達が帰るべき場所に」
それは、とても紅い館だった。
外観は強烈な紅い色。一年の終わりの間近と共にペンキを塗りなおす為、その外観に変化は無かった。
季節が季節なため、その紅い館の色は、白いものとなっていた。
紅魔館の大きな門は、施錠されることもなく開いている。
もう、侵入者を撃退することもない、古びた入口。
空から降る雪が、寂しく笑っているかのように見えた。
私は美鈴と並んで紅魔館の大広間に出る。後から遅れてちびが歩いてきた。
何も変わっては居ない。手を加えられる事も無ければ、壊れる事も無い場所。
横を見れば、美鈴が両手に息を吐いていた。幻想郷の冬は、室内でも寒いのだ。
何を血迷ったか、私は何も言わずに歩いていた。
途中、清掃中にメイドに出くわしたが、私は気付かぬ振りをしていた。
事あるごとに美鈴が頭を下げていた事だけ、私は鮮明に覚えていた。
私と美鈴、そしてちびが来たのはヴワル魔法図書館だった。
紅魔館に隣接するこの大図書館は、主を失った今日でも、きちんと機能されている。
その年の終わりの季節なため、ここだけは一週間をかけて丁寧に大掃除が成される事になっていた。
何しろ広い。本を取り出し雑巾をかけるだけで、へとへとになってしまう。
わざわざ一週間という時間をかけて掃除をするのはそのためだ。
まあ、元の主が喘息持ちだったため、極端に埃と相性がよろしくないのも事実であった。
そして、その大図書館の総てを初代管理者たる魔女から受け継いだ存在は、
初代管理者が長年愛用してきた机にもたれ、椅子に座ったまま、すやすやと眠っていた。
机の上には積まれた本。頭と背中に翼を持つ少女の足と背部には、毛布がかけられていた。
私はひたすら歩いていた。美鈴も、ちびも、何も言わず私の後をついてきた。
ふと、私は足を止め、本棚に格納されていた一冊の本を取り出した。
「ねえ美鈴、オルフェウスの物語を知っているかしら?」
「オルフェウス? ギリシア神話の詩人ですか?」
「良く知ってるじゃない」
私は美鈴に言いながら、その本のページを捲った。
本は優しい文体の文章と、柔らかい筆遣いで描かれた絵が一緒に載っていた。
つまりは絵本だった。
「えっと、確か蛇にかまれて死んじゃった奥さんを冥界へ迎えに行って、
決して奥さんを見てはいけないと言われたのに、見てしまったって話ですよね?」
「そうよ。モンテヴェルディとグルックの歌劇が有名ね」
ぺらぺらとページを捲りながら、私は美鈴との会話を楽しんだ。
その本のタイトルは、まるで初代管理者を思わせるような文章であった。
「さてと……、私は部屋に戻るわ。…なんだか眠くなっちゃったわ」
「それじゃあ、この子は私が連れますね」
美鈴はちびのことを言っていた。
「ええ、お願いするわ」
「はい、お願いされました」
いつものような笑顔を私に見せ、美鈴はちびを連れて行く。
最初は私だけに懐いていたが、今では紅魔館の皆から愛される存在であった。
紅い首輪をし、丁寧にブラッシングされた毛並は、とても綺麗だった。
代々のメイド長が使用する部屋に戻った私は、迷わずベッドの上に飛び込んだ。
雪原とは違い、ゆったりとした、温かい感触が得られた。
私の眼は開いたままだった。
このまま目を瞑り、眠ってしまうと、そのまま永遠に眠り続けてしまうという幻想さえ見てしまいそうだ。
しかし、私の心臓は、喩え弓で射られようが、槍で穿たれようが、永遠に動き続ける。
理由は私が不老不死の存在だからだ。そう、私に死という概念は、この世に生を受けた時から決まっていたのだ。
その運命は、お嬢様でさえ変えることは出来なかった。
お嬢様。…嗚呼、貴女の今際の言葉、今でも覚えています。
本当に、あのお姿はご自分でも想っていたのでしょうね。とても、哀れだという事を。
博麗の巫女には、決して見せたくなかった最期の時。もっとも、彼女はその前に逝ってしまったけれど…。
いや、むしろお嬢様は霊夢に臨終の時を看取って欲しかったのかもしれない。それがお嬢様の本望ならば。
お嬢様は、永遠に幼き姿のまま、眠るように息を引き取った。
老いもせず、皺も作らず、私と出会ったあの時と同じ姿で、この世を去った。
彼女の意志とも言うべきか、最期は、私と2人きりにして欲しいと言った。
妹も、親友も寄せず、2人だけでいたい。
外見上は普通であるが、衰弱したお嬢様は、そう仰った。
お嬢様は、最後に一言、こう言ったのは今でも鮮明に覚えている。
『……貴女と、フランと、パチェと、……美鈴、小悪魔、……いいえ、…違うわね、みんな、私を愛してくれたわ。
こんな性格の吸血鬼を、……私として見てくれたみんなに………。
……さくや、…これが…わたしのさいごのねがいよ』
……………お嬢様。
『……………ありがとう』
今夜だけは、泣いていいのかしら。
……いや、違うわね。悲しい時は、思いっきり泣くべきだと思う。
感情を抑制したら、かえって何がどうなっているかわからない。
喪うということに、慣れてしまった自分が怖い。
そして、時が1秒進むたびに、確実に判る事がひとつだけある。
不死の者以外の存在が、死への階段を登っている事を………。
時の流れに逆らう事はできない。
時を止める事はできても、逆行と加速はできないのだ。
私の力は、階段を登る足を止める事しかできない。
ただ、自分がその階段を登るだけ。
ふと気付くと、私は自分が泣いていた事に気付いた。
いや、それが普通なのだろう。
そして、聴こえるはずのない足音が聴こえる。
次に消えてしまう存在の、足音が。
やがて総てを喪った時、私はどうなるのだろうか。
考えるだけでも、不快な気分になる。
いっそのこと、彼女も蓬莱の人の形にするべきか。
私の母親が作った薬。
あの時、私は素知らぬ振りをしていたけれど、本当は気付いていたのよ。貴女の驚きにね。
自分が壊れかけているのは………自分が良くわかっていた。
この世界と同じように、狂おしくも、………いとおしい世界と同じように…………。
私は悲しいお話は苦手です。現実の世界は悲しいお話で溢れているのだから、小説という『創られた世界』の中は幸せであって欲しい、そういう事が文学の役目だと思っているのです。
ですが、その一方で、『死』という『悲しさ』と直結するテーマで、読む人に色々な事を考えさせるというのもまた、文学の大切な役目だと思います。
先の発言を訂正しましょう。ただ人が死に、悲しませるだけの小説は嫌いです。お話はただそこで終わってしまうのですから。
ですが、こうして読んだ人に深く考えさせるお話というのは、苦手ですが素直に尊敬します。
『死』というテーマから逃げず、そしてそれで『遊ばず』に、しっかりとした物語にした貴方の技量、お見事でした。
死というものが隠されがちな現代。こういったお話を読むときぐらいは、死の存在を思い起こすべきかもしれません。
あと咲夜さんと美鈴さんの仲良し設定は僕も好きです。自分にあまり気の利いた感想を書く能力はありませんが、いたずらに人を憂鬱な気分にさせるような終わり方ではない、よい作品だったと思います。
紅魔館の面々の人生(妖生?)にこんな解釈もあるんだと
そして閉じない門と雪には別の感情を感じます
もう生きているのは美鈴、こぁ、咲夜、妹紅、輝夜、永琳しか居ないんじゃないのかと感じさせるほど
これだけの推理をさせる要素を盛り込みつつ、読み込ませる展開が出来てるから読んでる途中にだれてこない
胸の奥と目頭にじんわりと来ましたですよ…