1:
ぱちくり、と目が覚める。
生まれてこの方、寝起きが悪かったという記憶は無い。
生まれてからどのぐらい生きてるのか、何回朝を迎えたのかすら覚えてないけど、それはまぁ私の長所の一つと勝手に自負している。
「ん…………」
それでも喉はカラカラに乾いて、干からびた寝声を出す。
「あ゙ー」
なんとなくその声が面白くて、他に誰が居るわけでもないのに声を震わせてみる。
面白くても、喉がいがらっぽくなってしまってまで続けるつもりはない。
仕方ないので夏掛けの布団からモゾモゾと抜け出し、土間の水瓶から柄杓で水を飲む。
いがらっぽい喉を落ち着かせると、冷たい水が乾いた身体の隅々まで浸透していくのが良く解かる。
さらに水をすくい、今度は近くの手ぬぐいを濡らし、寝汗を軽くふき取れば完全に目は覚めていた。
すっきりした頭で今日の予定を思い出す。
今日の予定、特に無し。
じゃない、今日は出かけるんだった。丁度いい酒が手に入ったからあのお節介焼きでも労ってやろうと思ってたんだっけ。
視線を傍らの出窓へと向けると、今日はどうやら晴れているらしい。
残暑はすっかりなりを潜めて、夏というには遅く秋と言うには早い。そんな空気を肌に感じながら、いい加減夏布団をしまおうと思う。
水瓶の隣にある釜土に火をつけ、温まるまでに手早く着替えを済ませる。
手早く襦袢を脱ぎ、寸法のやや大きい洋服を着て、両袖を二の腕あたりでバンドで止める。そしてこれまた大きいもんぺに足を通す。ずり落ちたら大変はしたないので両肩で吊るようにサスペンダーを通して、金具を止める。
髪の手入れをしようとしたが、どうやら先に鍋の方が忙しいようだ。
釜土の上の鍋からは味噌汁のいい匂いが漂ってくる。
よし、髪の手入れは後でもできる。まずは朝食を取ろう。
鍋を下ろし、網に取り替えたら魚の干物を乗っける。
魚のいい匂いを堪能しつつ漬物樽から野沢菜を取り出し、適度な大きさに刻んで皿に盛り付ける。勿論その間に魚を引っくり返すのは忘れない。
一通り確認できたら、釜土の傍に置いておいた御飯釜の蓋を開ける。昨日食べ残してしまった御飯は程よく温められていた。
しゃもじで御飯をよそい、おかずと共に居間の食卓の上に乗せる。
そして自分も腰を下ろしながら「よっこらしょ」なんて年甲斐があるのか無いのか良く解らない掛け声でさぁ御飯を食べようとして、
「あ、お箸忘れた」
慌てて立ち上がり、台所から箸を持ってきて、ようやく朝食にありつける。
やや水気を失ったものの、それでもまだふっくらとした白い御飯と香ばしい匂いの焼き魚。夏に比べて冷え込んできた朝には嬉しい味噌汁と、サッパリとした味わいの野沢菜。
やっぱ日本人はこうでなくちゃねぇ。
今日は出かける用事があるので避けたが、これで納豆でもあればまさに完璧だろう。
それでも満足のいった朝食を平らげ、食器を軽く洗う。
その後は洗濯をするために近くの小川へと赴く。
溜め込んでる訳でもないので洗濯自体はあっさりと済んで、ついでとばかりに身体を洗う。
軽い寒気に鳥肌を立てながら、そろそろ川でお手軽に身体を洗うのも限界だろうか、そろそろ暖かいお風呂でもいいんじゃないかと思う。
空は晴れて太陽が顔を出しているというのに、暑さどころか軽く寒気を覚えた。
身体を手ぬぐいで拭き、服を着たら、最後にその手ぬぐいを軽く水で洗って、持ち帰る。
家の前にあるこじんまりとした広場に渡した紐で洗濯物を乾し、お茶を入れて一服。
髪の毛はまだ乾ききっていないが、それは後で整える事にしてあるので今は放っておく。
お天道様は朝を通り過ぎ、昇っていく。冷えはじめた、といってもまだまだ夏服で充分な気候は今年も変わらない。
空が――高いなぁ。
天高く伸びる竹林の中といえど、生活できる範囲からでも充分望める青空と澄んだ空気を吸い込む。
ぼんやりと空を見上げる。
「うん」
一言頷いて、今日の予定を少し変更する。
今日は歩いていこう。
いつもならこの高い空を飛んで行くのだけど、お天道様に届く訳がない。
なんだか我ながら無茶苦茶な理由だがたまにはそんな日もあっていいだろうと納得する。
とりあえずお茶を飲み干して、それからさらに土間へと降りていく。
お昼御飯用にと、取っておいた御飯で手早くおにぎりを作り、野沢菜の漬物を添えて大きい竹の葉で包み、さらに布で包む。
あまり使わないながらも、手製ながらお気に入りの竹の水筒を水瓶に突っ込んで水を入れて蓋をする。
用意が整ったところで出かけ……しまった髪の手入れとか忘れてた。
残り少なくなった香油を手に取り、適度に乾いて程よい質感の髪に塗り込んでいく。椿の香りが鼻を撫でて行く感触に目を閉じる。
香油もどこかで仕入れないとなぁ。
大き目のリボンで足首まで伸びる髪を結い、さらに肩口にもいくつかリボンをつける。
そんじょそこらの妖怪には負けないし、何より私は死なないのだが、このリボンには魔除けの意味も込めてある。昔に習ったとおりにやっただけだが、それでも緊急時にはスペルカードの代わりにもなるぐらい便利なシロモノだ。
ようやく身支度が整った。
さぁ、今日は歩こう。
だって私は、この藤原妹紅は人間なのだから、人間らしく歩こうじゃないか。
2:
……失敗した。
いくら歩いて行くといっても普段は飛んでるものだから、この竹林に道なんてある訳が無いのを忘れていた。
幸い、竹林特有の下草の無さには助かっているのだが、うっかり間違えると熊笹の藪に突っ込むので油断は出来ない。
いっそ竹林だけ飛び越えてしまおうかと思うけど、歩くと決めたからには歩きたいなぁ。
そんな事を考えながら目の前の竹を回り込んで避ける。
ガクン。
と思ったら不意に首を引っ張られた。
「あーあ、もう何度目なのかしら……」
振り返ると、小さな枝に絡みついた自分の髪。
陽光も弱まる竹林でも輝きを失わない青銀色の糸を見て思い出す。
そういえば、こんな色の髪になってどれぐらい経つのだろう。
月のいはかさを刺して蓬莱の薬を奪った時はまだ私の髪は黒かった。
絡まった髪を解きながら、あれから何年経ったのか数えようとしたけど、すでに馬鹿らしいほど年月が経っているので無駄だろう。どうせ私も覚えてないし。
……なかなか解けないな。
そういえば彼は生き伸びたのだろうか。噂では帰って来なかったらしいので死んだのかもしれない。
まぁあの当時から生きてるのはもう三人しかいないから気にしてもしょうがない。
私と、輝夜と、永琳だ。
今じゃお伽話になってるなんてアイツも出世したものだ。まぁ本人自体は相変わらずどうしようもない奴なんだけど――っと、やっと取れた。
「うん、やっぱ竹林だけ飛び越えよう」
このままじゃ竹林を出るまでに日が暮れそうだ。
軽く地面を蹴り、空へと飛び上がる。
こう見えてもよく切れるので、笹の間を丁寧に抜けて行き、青い空を拝む。
「ふうっ!……んん~~」
さっきまでの鬱蒼とした竹林から広々とした空に出たところで大きく伸びをする。
空は良く晴れている。日本晴れという奴はどこまでも清々しくて、高い。
澄んだ空気は、同時に秋の訪れを告げる程度に冷たい。
ふ、と視界の片隅に移る黒い影。
何事かと見てみれば、いつぞやのブン屋――射命丸文だっけ――がもの凄いスピードでこっちに向かって来ている。
何か用事なんだろうか。
「おーい、どうしたのさ?」
とりあえず声をかけてみる。
またいつかのように根堀り葉掘り聞かれるのも困り物だが、黙って見過ごすほど知らぬ仲でもない。
「あ、妹紅さんじゃないですか! 丁度良いところに!」
なんとこの鴉、今私に気が付いたのか。
羽音もけたたましく、慌てて黒い翼を広げて止まる。
「そんなに慌てて何処へ行くんだい?」
「あー……そうですね、いいネタがないかなーと探してたんですけどね」
歯に物の挟まったような口調。いつもの飄々とした文とはちょっと違うようだ。
「それで?」
「あぁーそうだ、妹紅さん、ちょっとお願いがあるんですけどいいですか?」
なにやら勝手に話を進めようとする。端から見ててさっぱり解らないが、お願いって何だ?
「お願い?」
「そうです。誰かに私の行方を聞かれたら、あっちへ行ったと言ってもらっていいですか?」
といって私の背後を指差す。
あっちの方には何かあったっけ? ……紅い館ぐらいしかないけど?
「なんだい、やぶから棒に。まぁそれぐらいならいいけどさ。誰かに追われてるのかい?」
「あははー、まぁそんなようなところです。ちょいとヘマをしましてねぇ……」
私の疑問をいつもの笑顔でアッサリと肯定してくれた。ようはこの鴉天狗は私に嘘の情報を教える事で、追ってくる誰かを撒いてしまう算段らしい。
「好奇心は身を滅ぼすわよ?」
「それは今後気をつけるという事で……、それじゃ、任せましたよ!」
言うだけ言った文はバサリ、と翼をはためかせてあっという間に空の中へと消えていく。指をさした方向とはてんで違う、神社のある方角に向かって。
「狭い幻想郷、そんなに急いで何処へ行く? ……ってね」
呟きに込められた皮肉は文には届かないだろうけどね。
最後まで終始笑顔だった文の、その自由気まま、というか風まかせな生き方は実にここの妖怪らしいなぁ。
あんな風な毎日はとても楽しそうだ。勿論私の勝手な思い込みだけどさ。それに何より彼女は妖怪で、私は人間だ。物の見方や考え方も根本的に違うだろうしね。
あの天狗がどれだけ生きてきたのかは解らない。解らないが、彼女は彼女なりに昔も今もこれからも生きていくのだろう。妖怪として。
私は……はたして生きていると言えるのかね?
3:
竹林を飛びながら、文を追っている相手は誰だろう? なんて考えてみる。
どうせおおかた藪を突付いて蛇を出したに違いない。
文と別れて数分。竹林が終わりを見せ、山のふもとが見えてくる。
ここらへんでいいか。
ゆっくりと高度を落とし始めよう。
「そこの蓬莱人!」
出し抜けに上空から声を掛けられる。
降りる場所を探していた為に下を向いていて、気が付かなかった。
見上げればそこにはお伽話に出てくるような箒に乗った黒い服の魔女、霧雨魔理沙。そしてその箒の後ろにちゃっかり乗ってるのは、人形遣い、アリス・マーガトロイド。
何時だったか、今ぐらいの季節に肝試しとか言ってやってきた連中じゃないか。
「動くな! 動かないと撃つ!」
……付き合う必要も無いな。
どっちにしろ撃たれるなら動いてた方がいいし、何より私は死ぬ事などないのだから。
「こっの馬鹿魔理沙! 貴女なんて事言うのよ!」
この二人が揃うと進む話は三歩進んで三歩下がる。つまり、いつまでも先に進まない。
「というわけで妹紅……だったかしら。ちょっと聞きたい事があるんだけどお時間よろしい?」
「お時間はよろしくないけど、なんだい?」
「文を見かけなかった? 今探してるんだけど……」
ははぁん、あの鴉はこの二人に追われてるのか。
なるほどなるほど。なんて思うと自然に笑いがこみ上げてくる。
ちょっとあの詮索好きには『好奇心、猫を殺す』ということわざを思い出してもらおうかね。
「くっくっく……あぁ、アイツか」
「……何を笑ってるのよ?」
訝しげに問い掛けてくるアリスの顔は困惑していた。
私は当初の計画通りに文の行き先を教えてやるとしよう。
「あぁ見かけたよ。『アッチに行ったと伝えてくれ』と言ってあっちに行ったよ」
ニヤニヤと笑いながら神社のある方角を指差してやる。
「はーん、そいつは面白いな」
魔理沙が意地の悪い笑顔を見せる。
「その心は?」
「鴉の好奇心は強すぎてね、探られて痛くない腹もある」
問いかけに対して正直に言ってやる。
「ふふふ……分かったわ。ありがとう、妹紅。なんだったら一緒に行く?」
地獄の底から響くような声で呟いたのはアリス。
その声に思わず寒気が走るのを辛うじて取り繕いながら、あの鴉にこれから起こるであろう悲劇にほろりと涙を流す。嘘だけど。
「そこまで恨まれるなんて、鴉天狗ってのも大概だねぇ」
遠まわしに文が何をしたのか聞いてみる。
「まぁちょっとね? この前に起きた突風でね、その……余計な事を書かれたのよ」
そういえば、この前読んだ文々。新聞に『突風に注意、特にMさんのように下着等軽い物を干す場合は気をつけましょう』なんて書いてあったのを思い出す。
魔理沙……じゃなくてマーガトロイドの方か。
視線を放り投げてやると、もう一人のM、魔理沙は立てた親指でアリスを示しながらニヤリと笑う。
「そのMさんだぜ」
「あら魔理沙、口は災いの元って言葉の意味を今すぐに身を持って知りたいのね」
……初めて会った秋の夜長には、魔理沙の方が前に出るタイプだと思ってたんだけどね。
「ま、今日は報酬もあるしな。大人しくしておくのが賢明だぜ」
「解かったらそろそろ行くわよ、行き先が解かったところで追いつかなきゃ意味が無いわ」
「人使いが荒いな」
「何か言ったかしら?」
アリスにジロリと睨まれて魔理沙はやれやれと肩をすくめて見せる。
「それでは私たちは行くわね。情報、ありがとう」
アリスは苦笑いで見ていた私に向き直ると礼儀正しく挨拶をして、魔理沙を急かす。
「ほらほら、ちゃっちゃと行くわよ」
「それじゃあな、また今度宴会に呼ぶから、今度は喧嘩するなよ?」
「引き篭りとの相席でなければ、喜んで」
軽い挨拶を交わすと、一人と一匹は猛スピードで去っていった。
アリスの腕が魔理沙の細い腰をしっかり掴んでいた辺り、なんだかんだでお互いに信頼しているんだろう。
ふと、それはどこまで続くのだろう? なんて思ってしまった。
人と妖怪の寿命は違う。せめて同じ時を歩ける間ぐらいは楽しく生きられれば、それに越した事はないだろうね。長い時間を生きてきて、他の人間ともすいぶん疎遠になってしまったけど、一緒に暮らせるならばやはりそれに越した事は無い。まぁそれが無理だという証明は今の私の住処が竹林の奥、小さな一軒家に暮らしてる、という結果から自ずと出てくるだろうけどね。
ゆっくりと地上に降りて、歩き始める。
辛うじて残っている細道は荒れ放題で、道なのか草むらなのかの境界はとことん曖昧だ。
夏の間に伸び放題に伸びた草は胸元まで伸びて、しかし季節の訪れを告げるように先端から黄色く染まって垂れ下がっていく。
この季節特有の、実りの黄金と生命の緑が交じり合う光景を間近に見て、その生命の儚さとその再生を少し自分と重ねる。
そんな綺麗なモンじゃないな、私は。
草を蹴りたて、私はそれでも歩き出した。
4:
さくさくと草を踏みしめ、辛うじて残っているような道を降りていく。
山間を挟んで反対側にある目的地にはまだ遠い。
散歩がてらにでも、なんて思ったのだけど、案外遠いなー。
まぁ歩くと決めたんだし、歩き通そう。
しかしこうして歩いていると昔を思い出す。
空なんて飛べなかったあの頃。初めて自分が何をしても死なない……いや、死ねない身体になった時の事を。
あの頃は私もまだ若かったな、なんて思い出すと、妙なくすぐったさに苦笑が浮かぶ。
あの頃は生きてるって意味もわからなくて、ただ単に歩き回ってたっけ。
旅とも言えないような――何しろただ本当に歩き回ってただけだ――旅の最中は本当に酷かった。
餓死もできず、熊や狼、野犬に食われそうになっても生きてるなんて、本当に生き汚い物だと思ったっけ。
不意に視界が広くなる。隣の里と繋がる大きな道にようやく出れた。
比較的小奇麗に整備された道はさっきまでの獣道を多少広くしたような道と違って、随分と歩きやすい。
草から整備された土を踏みしめ、歩き出す。
とりあえずは里へと降りていく。
空は雲も少なく、太陽もそろそろ中天に差しかかろうかという頃合になってきた。
しばらく進んだら山を下りきるので、そうしたらお昼にしよう。
誰かとすれ違う事も無く、山を下りきる。
下りきったところは既に田んぼや畑が広がる田園地帯だ。
谷間を吹き抜けるやや強めの風と、それに煽られて揺れる作物や稲。
広い空間を駆け抜けていく風を一陣浴びるごとに、自分の中から不純物が抜けていくような感じが心地良い。
道端の大きな木の陰に腰を下ろして、お昼御飯と休憩を兼ねる事にしよう。
「すまんね、アンタの分は無いんだ」
傍らの地蔵に語りかけ、木に寄りかかる。
出る前に作ってきた包みをほどき、おにぎりを食べる。
手早く済ませ、水筒から水を飲むと、食休みのために横になる。
目を閉じて、葉が風に揺られる音を聞いていると、
「こちら、よろしいかしら?」
不意に声を掛けられた。
目を開ければ青いメイド服に銀の髪。
涼しげな声の持ち主は紅いお屋敷のメイド長じゃないか。
「ここは誰かのモンでもないしね、いいんじゃない?」
気軽に声を掛けてみる。
「ご協力、感謝しますわ」
軽く会釈をした後ろからは木陰だというのに日傘をさした小さな影。
「おや、こんな昼間に吸血鬼」
メイド長――十六夜咲夜の住む紅魔館の主にして永遠に幼い紅い吸血鬼。レミリア・スカーレット嬢まで一緒とはね。
「なんだ蓬莱人か、つまらない」
「なら誰ならよかったのですか?」
「そりゃもちろん食べられる人間に決まってるじゃない」
陽光の下で日傘を差すだけで平気な吸血鬼はやっぱり思考もおかしいのだろうか。
「一応、血は飲み放題だよ?」
腕を掲げて見せてみる。当然の事だが黙って血を飲ませる気も無いけどね。
「いらないよ、私を畏れない人間の血なんか味が知れてるもの」
木陰でも日傘を手放さないレミリアの前にふわりとスカーフを広げる咲夜。
「どうぞ」
当然のようにその上に座るレミリアは優雅で、貴族的。
そんな仕草に、遠い昔を思い出してしまうような気がして、ついつい声をかけてしまう。
「それにしてもこんな昼間からアンタが起きてて、さらには外に出てるとはね。今日は博麗神社で宴会でもあったっけ?」
「珍しい時間に起きたからね。たまには外に出ようかと思って散歩してたんだけど……やっぱり昼間っていうのは動きづらいわねぇ」
はぁ、と溜息をつきながら目を伏せるレミリア。風は涼しくなったとはいえ、まだまだ太陽の威光は強いこの季節。さしもの吸血鬼もつらいのかねぇ。
「ですから、夕暮れを迎えてからになさった方がよろしいと……」
「まぁいいじゃない。たまにはこんな日も必要よ。毎日同じ生活じゃすぐに飽きてしまうでしょう?」
「そいつはそうだね。たまには刺激が無くっちゃ生きてる実感がしないよ」
この辺の感覚ってのはやっぱり長く生きてる者でないと解らないのだろうか。
私やレミリアの返事を聞いた咲夜は、困惑と呆れの混ざった微妙な笑顔を浮かべた。
「そんなもんですか」
「そんなもんなのよ」
「そんなもんだねぇ」
それきり交わす言葉もなく、木の葉が風に揺れ、さらさらと囁く。笛のような音を残して風が去っていく。
そろそろ腹もこなれてきただろうか。いつまでも休んでいては遅くなる。先にお暇を告げよう。
「さて、それじゃ先に行くよ」
尻に付いた草を手で払いながら立ち上がる。
「あ……と」
何かを言いかけたレミリアを振り返る。
何かを言い悩む表情は見た目の年相応に可愛らしい。こんなにあどけない容姿でいながら、それでも五百年は生きているのだから中々侮れない。
「どうしたのさ?」
「まぁ今さら私が何を言ったところでアレかもしれないが、面白いね。お前」
言うに事欠いてそれか。
呆れる私を尻目にレミリアは言葉を選んでいるかのようにゆっくりと続けていく。
「ん……まぁ色々あるけど、頑張ってるみたいだし、大丈夫だと思う。ただまぁ……あーでもこれは必要な要素なのかしら? 難しいわね……」
レミリアの言う事は胡散臭い易師のように的を射ず、要領も得ない。
「なにが言いたい?」
傍らの咲夜に視線を投げてやると、彼女は黙って目を伏せている。
神のお告げを聞く神官のような神妙な面持ちだが、口の端に浮かぶかすかな微笑みはいつも通りだった。
「大きな周期で言えばいつも通りだけど、近い未来の視点で言えば頑張りなさい。それぐらいしか私に言えることは無いわ」
「なんだいそれ、結局はいつも通りって事じゃないか」
「だから難しいって言ったのよ。……まったく、占い師の真似事なんてするものじゃないわね」
目を閉じてボヤくレミリア。
「なんだい、お得意の運命操作でも視えないのかい?」
「視えるよ。視えるんだけどね、どこをどう弄ったら面白くなるかまではちょっと……」
なんて奴だ、面白半分で人の運命変えようだなんて。
「他人様の運命をそうホイホイと変えるんじゃないよ、お嬢ちゃん」
「それだけお前が面白くないって事だよ、蓬莱」
途端に私とレミリアの間の温度が下がる。
「案外使えないモンだねぇ、運命操作って奴は」
「言ってくれるじゃないか、規格外。運命の流れを垣間見せてやろうか?」
こちらの視線を鋭くしてやれば、相手はより強い視線を飛ばしてくる。
しばらく無言で睨み合っていると、咲夜が微笑んだまま口を開いた。
「あら、案外便利なのよ? 明日の天気とか、買い物が安く済む時間帯とか……」
なんだそれは。
咲夜には切れ者だという印象があるけど、こんな間抜けな事言う奴だったっけ……
「貴女ねぇ……」
ほら見ろ、主だって呆れてるじゃないか。
「それじゃ今度こそ私は行くよ」
なんだか興も殺がれたしね。とは口に出さずに背を向ける。
「あ、妹紅」
またかい、今度は咲夜か。
「やれやれ、主従揃って呼び止めるのかい……なんだい?」
やや呆れながら振り向くと、そこにはいつもの微笑を浮かべた咲夜がこっちを見て、こう言った。
「保存用としてなら、いつでも歓迎するからいらっしゃい」
……このメイド、何を考えてるんだ?
「そいつはお断りだが、まぁたまにはハイカラな紅茶でも飲みたくなったらお邪魔するよ」
苦笑しながら右手をあげて返事を返し、歩き出す。
人間と悪魔……ねぇ、面白い取り合わせだ。
もちろん、人間の方が先に死ぬんだろうけど、私にはどうしてもレミリアの傍から彼女が消えることが想像できなかった。それだけ、あの二人はお似合いなのだろう。
その、いつか来るであろう別れの日まで、あの二人の幸せぐらいならあの地蔵にお願いしてもいいかもしれない。供え物は何もしてこなかったけどね。
向かって左側から段々と下がっている畑や田んぼを見るともなしに見ながら里へと近づいていく。
すでに外を遊びまわる子ども達の楽しげな笑い声が風に乗って届いて来る。
谷間を流れる川に沿って栄えたこの集落はやはり川に沿って縦長だ。今日の目的地は私の家とは里を挟んで反対側にあり、私の家からは歩いて行けば四里ぐらいだろうか。竹林を飛び越えたものの、半里程度しか飛んでないし、残りは三里程度だろう。やや涼しくなってきた風に身を任せ、歩いていく。
あぁ。
咲夜のとぼけた言葉は、仲裁の言葉だったのか。
言葉一つで主を諌め、その場をやり過ごす。紅魔館のメイド長はその二つ名に違わず、実に瀟洒なのね。
クスリ、と笑いを零しながら、私は歩き続けた。
5:
里に入った。
子ども達が楽しそうに遊ぶ声が聞こえてくる。
男の子達は枝を片手に閧の声を上げてサムライの真似事を。女の子達は手鞠をついて高い声で歌う。
男達は畑に出たのだろうか、見かける数は少ない。
女達は軒下で談笑に華を咲かせている。
通りを三本ほど抜けると、さほど大きくは無い通りでは店が軒を連ね、声高らかに品物を売っている。
とはいえ、こじんまりとした里だ、民芸品なんかを扱う店は殆ど見当たらない。生活用品のやりとりが大半を占めてるんだろうね。
そういえば歩いて里を訪れるのは何年ぶりぐらいだろう?
栓無いこととはいえ、私も人間の端くれだ、もうちょっと利用してもいいのかも。
軒先の露店に積まれた林檎から充分な蜜の甘い香りが漂って来る。
「ん……っと」
ごそごそとポケットに手を入れる。お金なんて持ってきてたっけ。
指先に数枚の硬貨が触れる。お、あるじゃない。
「おっちゃん、いくらだい?」
手近な林檎を手に取り、額に鉢巻を捻ったおっちゃんに声をかける。
「おう、そいつは取れたてでな、七銭だよ!」
「そいつは高いね。四銭だ」
「む、言ってくれるねぇ。こいつは里でも評判の林檎だよ、そいつを四銭とは低く見られたもんだ」
よし、引っかかった。値切り交渉はまず相手がこちらの話に付き合ってくれる事が前提だ。
「じゃあ四銭五厘だね」
もっとも、喋った時点で値切られる覚悟はしてもらわないとねぇ。
「いやいや、六銭五厘だね」
「四銭七厘」
「むぅ……やるね、お嬢ちゃん。わかった! 六銭キッカリでどうだ!」
おっちゃんがしばらく考え込んでから思い切ったように手を突き出す。
ここで折れてもいいんだけど……見たところ今日の売上はあまり芳しくないかな?
「じゃあこの話は無かった事に」
興味を失ったかのように林檎を山に戻してやる。
「だぁ~! 悪かった! お嬢ちゃん! 悪かったから!」
大声を上げて観念するおっちゃん。今日はこれぐらいでカンベンしてやろう。
「わかったよ、五銭五厘ね」
「へいへい……」
ポケットから硬貨をつまみ出し、おっちゃんに渡す。うん、まぁこんなもんか。
「毎度あり~」
おっちゃんの笑顔にあと五厘は値切れたかなぁと思うけど、過ぎたことは仕方ない。
林檎を片手に通りを横切ろうとした時だった。
「あれ、妖夢じゃん」
今日はよく知り合いと会う日だね。なんて苦笑してみる。
買い物用なのだろう、大きな藤の手提げを下げた白玉楼の庭師、魂魄妖夢が歩いていた。
「あぁ、妹紅さんだったのですか」
いきなりなにやら納得したような事を言われる。それにしても半分は死んでるくせに、よくこっち側に来るね。
「どういう事だい?」
「いえ、今日は珍しく幽々子さまも一緒に来られていたんですけど……なにやら苦手な気配がする、と言ってどこかに行ってしまわれたのです」
「ははぁん、なるほどね」
そういえば初めて会った時もそんなような事を言ってたな。
あそこの亡霊嬢――西行寺幽々子、だったか――は何でも死に誘える能力を持っていたんだけど、私はさすがに無理だったみたいだしね。それで苦手呼ばわりなのだろう。なんせ自分の能力が届かない相手というのは相手に一方的にやられるだけなのだから。
「それで、とりあえず幽々子様がいない間に買い物は済ませてしまったのですが、如何せんどちらに行かれたのか、さっぱりなので……」
はぁ、と溜息をつく妖夢。
「あのいつも一緒にいる白いのはどうしたのさ?」
気がつけば彼女は生身一つだ。生きてる側だけしかいなくて、死んでる側が見当たらない。
「怖がられるといけないんで、上空にいますよ」
ぴっと人差し指を立てて空を指す妖夢。見上げれば雲と見間違えそうな、小さい白い固まりがふわふわと浮かんでいた。なるほど、たしかにあの状態ならば、ぱっと見は小さなはぐれ雲にしか見えないだろう。
「あれからは見えないの?」
「なにぶん、上空過ぎて……これ以上高度を下げるわけにもいきませんし……」
はぁ、とまた溜息をつく妖夢。大分困っているようだねぇ。
「ま、歩いてるうちに見つかるさ、気楽にいこう、気楽に」
妖夢の肩をぽんぽんと叩いて励ましてやる。いくら私を避ける形でいなくなったとしても、私に責がある訳でもない。変に責任を感じて心配してやるよりかは、気楽にしてやった方がいいだろうし、その事は妖夢も解かっているだろう。だから恨み言の一つも言わずに、代わりに溜息を吐くのだ。
「これから私はこのまま真っ直ぐに里の反対側に出るつもりだ。見かけたらあの白いのに連絡してやるよ」
見かけるとも思えないけどね。なんせ私を避けてるぐらいだから。とは口に出さずに気休めの言葉を掛けておく。実際、私が一緒に探したらもっと出てこないだろうしね。
「はぁ、よろしくお願いします」
妖夢はがっくりと肩を落とし、通りを歩き始める。そんな妖夢の背に苦労人の影が差していたが、あえて言うまい。がんばれ妖夢。若い頃の苦労は買ってでもしろ、って言ってたよ。誰かが。
妖夢と別れ、再び歩き出す。
さらに通りを三本も抜ければ里の反対側に行き着く。家の数は少なくなり、ちらほらと畑が見えてくるが、こちら側にはあまり多くは無い。山と近いせいだろうか。
「あらあら、これは大変」
ふわふわと頼りない声が聞こえてくる。
「よりによって私が見つけちゃうのかい……」
里の中でも一際大きな木。私が昼食をとった木よりもさらに大きな木の下、比較的大き目の石に腰掛けて、にこにこと笑顔を浮かべているのは妖夢の探し人、幽々子だった。
「ひどいわ~、折角貴女から逃げ出したというのに、結局見つかっちゃうのね~」
存在感自体もふわふわとして、まるで雲のようだ、亡霊だけど。
それにしてもひどい言われようだ。
「随分嫌われたねぇ」
苦笑交じりに言ってみる。この食えない亡霊の事だ、ただ一概に自分の能力が通じないからとかいう理由でもないんだろう。
「だって嫌いなんですもの、仕方ないじゃない?」
にこにこと笑ういながら私を「嫌い」だと言う幽々子。
そのあまりといえばあまりな言い様に、私はちょっとした引っ掛かりを感じた。だってそうでしょう? いつも遠回りすぎて何を言ってるんだかよく解らないような事をいう彼女が、これだけ直線的な物言いをするなんて。
だから、つい、
「その心は?」
なんて聞いてしまった。
幽々子は一瞬だけ、本当に一瞬だけその笑顔を凍らせた。
「あらあらまぁ、ちょっと露骨過ぎたかしらね~」
ふっと元の表情に戻った幽々子だが、どこか固さの無い、本当に柔らかな笑顔だった。
「貴女の、その死なないという特性が故に貴女は揺らいでいるわ。それはあの永遠亭の姫君達もそう。貴方達蓬莱人はいつ死んでも……いいえ、いつ消えてもおかしくないのよ」
笑顔から滲み出るのは……哀切。
私は黙って彼女の続きを待つ。
「輪廻転生、という摂理があるでしょう。貴方達はその輪から外れた者達。それを見逃すほど……甘くないわよ」
「何がさ?」
「それでも、貴女達は死なないわ。ずっと生きて、ずっと苦しみを味わい続ける。それが罰なのか、それとも貴女達だけに許された特権なのか……貴女はどちらかしら?」
私の疑問に答えず、あくまでも笑顔でやんわりと聞いてくる幽々子。その問いは彼女の能力と同じように、
残酷で、優しい。
私は似たような事を何年考えたのだろう。
罰だと思った事もある。
特権だと思った事もある。
だから、私はこう答える。
「両方であり、そのどちらでもないよ」
「そう……」
その答えを聞いて、彼女はやや悲しげに俯いて、ポツリと漏らした。
「いっそ死んでしまえば楽なのにね」
「………………」
その答えは返さずに沈黙が場を支配する。風が吹き抜け、しゃらしゃらと木の葉がさざめき、枝が波打つ。
永遠とも、須臾ともつかない時間が流れた頃に私は口を開いた。
「そうだ、あんたのところの庭師が探してたよ。そろそろ行ってやらないといけないんじゃない?」
「そうね……そろそろ行くわ」
こちらに背を向け、ふわふわと頼りない足取りで歩き出す。どこかへ、まるで風に吹かれたら消えそうな頼りない歩きに、私は思わず声を掛けた。
「いつか……いつか私が死んだら、そっちでもよろしくやってくれよな!」
幽々子はピタリと立ち止まり、こちらを振り向く事無く、でもかすかに頷いたのが見えたような気がした。
解かっている、こんな言葉は気休めにしかならない。
それでも、純粋に私の為を思って伏せられた表情に、何か声を掛けねばならないと思った。私が……蓬莱人が死後の事について何を語ったところで全ては空論でしかない。これまでの千年で死ねないのならば、これからの千年でも死ぬかどうかは怪しいものでしかない。そういうのが蓬莱人なのだから。
手にした林檎を見る。植物だって、花が咲き、実が生り、種から芽が生える。しかし、無限と思える輪廻のくり返しも、途中で収穫され、人間の腹に収まってしまえばそれでおしまいだ。蓬莱人にも、いつか蓬莱人でなくなる時が来るのかもしれない。それが生きながらなのか、それとも死ぬ事によってなのか、解らないけれど、いつか……
いつかそんな日が来ればいいなと思う。
6:
幽々子と別れ、再び歩き出す。
目的地まではあとちょっと、約半里と言ったところだろうか。
やたらと顔見知りと会うせいか、予定より軽く遅れているかもしれない。とはいえ、明確な目標や制限時間があるわけでもないので、さしたる問題は無い。
小腹が減ったなぁ。今日はよく歩いているからねぇ。
さっき林檎を買ったのは正解だったかもしれない。シャツの裾でちょっと磨いてから齧りつく。
しゃくっと小気味のいい音と共に、蜜の甘い匂いが口の中に広がる。こりゃ美味い。なるほどおっちゃんが七銭なんて高価な値段をつけたくなるわけだ。
時折り水筒で喉を潤しながら、甘い林檎を齧り、周りの風景を楽しみながらゆっくりと歩く。これって結構贅沢な時間の使い方なのかな? まぁ幻想郷なんて何処に行ってもゆっくりとした空気が流れているから、大差無いかもしれないけど。ま、急ぐ理由もなし、ゆっくり行こう。
食べ終わって空を見上げれば、お天道様は傾きかけ、夕暮れと言うには早いが昼過ぎというにはやや遅い時間。いわゆる「おやつの時間」という奴だ。
……だからさぁ、なんでこうも知り合いと良く会うのかね、今日は。
「あら妹紅」
中途半端な時間に中途半端に空に浮かんでる中途半端な紅白の巫女、博麗霊夢を見かけるのか。
「やぁ霊夢」
軽い挨拶が交わされ、私は霊夢を見上げる形で話し掛ける。
「珍しいね、こんなところで見かけるなんて。どっか行ってきたの?」
「えぇ、この近くに住んでる誰かさんに呼ばれたのよ」
そう言って両手で抱えていた籠を持ち上げてみせる。その籠の中身は霊夢が上空にいるのでよく見えなかった。
「こっからじゃ見えないよ」
「あれ?」
苦笑しながらそう言うと、霊夢はゆっくりと私の前に下りてきた。
「これよ、これ」
改めて手にした籠を見せてくる。その籠の中身は米と野菜、それにお酒がこれでもかという程ぎっしりと詰まっていた。
「どうしたのさ、こんなに。それに、重くない?」
「私を誰だと思ってるのよ」
何を当たり前の事を、と嘆息する霊夢。
そりゃたしかにアンタは無重力の巫女だけどね。
「それに、これはお礼よ、お礼」
「お礼?」
首を傾げる私に「そうそう」と頷く霊夢。
「何度か、この辺りの妖怪も退治してるからね。そのお礼だって、貰っちゃったわ」
嬉しそうに微笑む霊夢。この辺りの妖怪も退治してたのか。
「相変わらず妖怪退治してるんだ。巫女の本職ってなんだっけね」
「妖怪退治でしょ」
あっけらかんと言い放つ霊夢。
言うまでもないが、巫女の本職とは神の御言葉を言祝ぎ、その意を解し、伝え、人々の行く末を導くのが本来の姿だと教えられた事がある。勿論、それだけに留まらず、荒ぶる神をなだめ、治める役割を持った巫女も見た事もある……が、妖怪退治が役割だなんていう巫女は古今東西でも霊夢しかいないんじゃないんだろうか。なんせ妖怪退治と神様は関係ないしね。
「あんたの神社に神様はいないのか」
苦笑交じりに皮肉を投げてみる。
「悪霊ならいるけど?」
「それが巫女の、神職の人間のいう言葉かしら……」
何を言ってるんだこの巫女は。何とも言い難い疲労感が押し寄せてくる。
「あらあら、霊夢にそういう事を求めちゃだめよ~」
「おっと!」
ちょっとびっくりしたじゃないか、いきなり傍らから声がするんだもの。
「紫? こんな時間に起きるなんて珍しいわね」
さも当然というように虚空を睨みつける霊夢。その視線を追ってみるが何もない。
「そっちに……」
いるの? という言葉を続けようとした私の目の前で、空間が亀裂が走る。
「おはよう、二人とも」
昼過ぎにしてはいささか不釣合いな挨拶をしながら、まるで立体感を感じさせない虚空の亀裂が広がり、靴を履いた足がにょっきりと生えてくる。
ぱっと見だと横に開いていて、その向こう側が見えるような気もするのだが、そこから出てくる紫といえばその横に開いたであろう隙間から縦に降りてくるとかどうなってるんだこの隙間。
解かりやすく表現するなら、壁に掛けられた隙間という絵画から出てきそうなのに、結果としては上から落ちてくる、と言えばわかりやすいだろうか。いずれにせよ、胡散臭い登場をしてくれたのは隙間妖怪、八雲紫だ。
「それで、こんなにお礼を貰うぐらいに妖怪退治を頑張っている私に何を求めちゃダメなのかしら?」
「甘いわね、妖怪退治は人間の仕事だけど、巫女の仕事ではないわ」
手にした蘭傘を広げながら軽い調子で霊夢をあしらう紫。
「紫がそれを知ってるとは思えないわね」
「貴女はもっと修行をすべきよ。神の声が聞けるぐらいに」
修行、という単語が出た途端、霊夢の顔がしかめられる。
「あんまり好きじゃないのよねぇ……それに、今の状態でも負けないんだし、いいじゃない」
口を尖らせ、巫女と思えないような言葉を口にする。
「それで? アンタは何しに来たのさ」
私がもっともな事を聞いてやる。
「ちょっと霊夢をからかいに」
「何よそれ!」
「それはそれとして、早起きは三文の得って知ってるかしら」
などと言いながら霊夢の荷物を覗き込む。
「ダメよ、このお酒は私のだからね。それに得じゃなくて徳よ」
霊夢は紫の視線から遠ざけるように籠を動かす。
「あぁん、いけずぅ」
「「可愛くない」」
わざとらしくいじける紫に対して異口同音に突っ込む私と霊夢。結局、紫が来た目的というのは曖昧になったままじゃないか。
「それはそれとして、蓬莱人はなんでこんなところを歩いてるのかしら?」
一瞬で立ち直った紫は扇を広げ、口元を隠しながら優雅な所作で聞いてくる。これも彼女なりの話題逸らしなんだろうか。
「いや何。この先に住んでるお節介焼きに用事があってねぇ」
「飛んで来ればいいじゃない」
それが当たり前の事だと言わんばかりに呆れた顔をする霊夢。
「急ぎの用事って訳でもないしね、散歩代わりさ」
返事をする私に紫が扇の奥で妙な笑いを浮かべる。
「あらそぉ? それにしてもいい匂いさせてるじゃない」
いい匂い?
「林檎の事? ふもとの村で売ってたよ、確か七銭ぐらいだったかな」
「いえいえ、林檎も確かに旬だし、美味しそうではあるけれど……その腰につけた瓢箪からですわ」
そう言った紫は視線を私の腰に向ける。そこには確かに瓢箪があるけれど、残念ながらこれはくれてやる訳にもいかないのよねぇ。
「これは駄目よ。今日の夜を楽しむ為の物だからね……っていうか良く気がついたわね、これがお酒だって」
「生粋の呑兵衛なのよ、こいつ」
「あら、貴女に言われたくないわ、この前だって……」
「それ以上喋ったらはり倒すわよ」
霊夢が睨みつけているが、そんな視線をものともせずにのんびりとしている。
「まぁまぁ落ち着きなさいな。秋の夜長に月見酒かしら? 風流ね。お相手はこの先の半獣かしら」
疑問系だけど、確信めいた紫の口調に頷いておく。
「それじゃ、お邪魔しちゃ悪いわねぇ……ここは一つ、目の前の霊夢で手を打とうかしら」
「はぁ? 何の事よ?」
紫の言葉にすっとんきょうな声で返す霊夢。言ってから何の事なのか感づいたのだろう。露骨に嫌そうな顔をしてみせる。それにしても、お邪魔ってどういう事よ?
「これは私のだって言ったでしょう。やらないわよ」
「まぁまぁ、それにしても重そうね」
「そりゃ人々の感謝の篭った食料だからね、重くて当然よ」
胸を反らして自慢気に言う霊夢。
甘いね、甘すぎる。その質問に答えてしまったらもう紫の話術に取り込まれているようなものだ。
「なんなら、運んであげましょうか? 隙間を通せばすぐよ」
「それは助かるわね……ってそれをダシにお酒を呑ませろなんて取引には応じないわよ?」
霊夢は警戒しながら紫を胡散臭そうな目付きで見る。私にはこの後どんな取引が行われるのかすでに解かってしまった気がするので、ここはニヤニヤしなが見守る事にしよう。さらば霊夢。ここらへんの駆け引きは年の甲が勝つと相場が決まってるんだよ。
「お酒は後で私は自分で用意するわ、それでいいかしら?」
「ん……ならいいか、じゃあお願いしようかしら」
ほうら、引っかかった。この時点で霊夢と呑む約束をしちゃってるような物だ。となれば酔っ払った霊夢に「そのお酒、味見をさせて」といえばまんまとそのお酒は大酒飲みでウワバミな紫のお腹に収まるっていう寸法。何気ない会話でも、相手が紫である以上、疑って掛かるべきだよ。
なんて私の内心を他所に霊夢は荷物を眺めながら「うーん」と唸っている。ほら、霊夢の視界の外で紫が扇の奥で笑ってるじゃないか。
じっと紫を見ていると、紫はこちらの視線に気がついて、口の前で人差し指を立てた。はいはい、黙ってますよ。
「まぁ、持ってたところで重いことに変わりは無いんだし……お願いしようかしら」
暢気な口調であっさりと紫の申し出を受ける。哀れ霊夢。貴女のお酒の大半は紫に呑まれるでしょう。
「それじゃ行きましょうか」
そんな運命が待ち受けているとは露とも知らない霊夢から荷物を受け取り、隙間の中に放り込む。あとは神社まで行ってから取り出すだけなんだろう。結構便利だな隙間って。
「それじゃあね、妹紅」
霊夢がヒラヒラと手の平を振って背を向ける。
「ごきげんよう、蓬莱の人の形。貴女は貴女で上手くやりなさいな」
「何をさ?」
紫の言葉は雲のように掴み所がない。
「あらら、そっちの意味だったけど……そうね、それを考えるのも一興よ。貴女の時間はそれこそ無限にあるのだから」
「そりゃあ、ね」
「私と貴女が知り合いでいられる時間ですら、貴女の人生の中では僅かなものよ。貴女達が何処へ行くのかは解らないけれど、この幻想郷が存在して……」
「紫ー、何やってんのよー、置いてくわよー!」
霊夢が遠くから声をかけてくる。
「あらら、それでは最後に一つ、『幻想郷は楽しいわよ』」
手にした扇を楽しそうに揺らめかせて、そんな事を言う。
「それでは、失礼いたしますわ」
結局、彼女は言うだけ言って、ふわりと浮かび上がると、霊夢の後を追っていった。
まぁそっちの意味でってのは流石に解かるけど、別段それほど仲がいいって訳でもないし何より女同士じゃないか……それにしたって顔見知り以上、友人以下って感じぐらいだしね。
とはいえ、問題は後者の方だ。一体紫は何が言いたかったのだろう。妖怪の思考とはいえ、あんな調子で喋る紫は珍しいんじゃないだろうか。だとしたら何を言おうとしていたんだろうか。気になるとはいえ……内容が内容だ。注意深く思い出し、それぞれの言葉尻をよく考えてみる。
よく考えながら足を動かし始める。じっとしながら考えるっていうのは性に合わないからね。
「あ」
唐突に答えが出た。
「なるほど……ね。なぁんだ」
そういう事か、と思うとなんだか笑えてくる。
「紫も案外、甘ちゃん……というか、まともな事考えて……というか、幻想郷の妖怪なんだねぇ」
これからも幻想郷をよろしく。だなんて当たり前の事を言ってるんだから――
7:
紫の言ってることが理解できたせいか気分良く足が進む。
随分と話し込んでしまったせいか、既に夕暮れだ。急がないと夕飯を食べ損ねるかもしれない。
何しろ前もって知らせていないし。急な来訪で驚かせてやろうとしたのが裏目に出たのだろうか。一人分の食事を追加するのも中々面倒なのだ。
この時点で私は夕飯をたかるつもりである。代償として酒を提供するんだ、それぐらいいいでしょう?
「それにしても……こりゃちょっと急がないとやばいかな?」
そう思って歩く足を速めたその時だった。
「む……そこを行くのは妹紅か?」
上空から声が掛けられる。
やっと会えた。今日の目的の人で、妖怪。上白沢慧音だ。
「お、やっと会えたね」
空を飛んでいる慧音に微笑みかける。
「珍しいな、お前の方からやってくるとは。何か用事でもあるのか?」
「んー、ま、大した用事じゃないんだけどね」
私の目の前に着地した慧音に、腰から取り出した瓢箪を見せながら事情を説明してみる。
「ちょいといい酒が手に入ったんでね。一緒に酒を酌み交わしてみようかなー、と」
「ほぅ、なるほどね」
感心したように頷く慧音に少しくすぐったさを覚える。
「ついでに……なんか妙にお世話になってるみたいだから、そのお礼も兼ねてたりもする」
うわぁ、何年生きてもこういう事言うのは恥かしいなぁ。
なんて思ってると、夕焼けに負けないぐらいに紅潮した慧音があわあわと喋りだした。
「あ、いや、そんな、別に私が好きでやってる事だし、妹紅が気にする必要なんか無いわけで……その、なんだ……」
「あああぁ、別にそっちが気にする事も無いよ! その、ただの気まぐれだし、酒だってたまたま手に入ったからだし」
なんだなんだ、どうしてこんなに緊張しているんだ? 私は!?
「うん、まぁ、そいう事なら、その、ありがたく頂いておこう……」
「うん、そうしてくれると助かる……」
そう言ってから、私は体中の熱が顔に集まるのを感じて、恥かしくなってさらにまた頬が熱くなってきたのをどうにか取り繕おうとして、押し黙ってしまう。
「………………」
「………………」
見ればどうやら慧音も同じような感じらしく黙ってしまっている。
黙り込んだ私達の周りではすでに気の早い虫達が鳴き始め、鴉が遠くで帰宅の知らせを告げていた。
そのまま地面を歩き続け、いつしか慧音の家が見えてきた。思えば場所は知っていても、こうして訪ねるのは初めてだ。
「そっ、そうだ!」
「えっ、何、どうしたの?」
いきなり大きな声を出す慧音にビックリした。
「良かったら……夕飯でも食べて行かないか!? まぁ、その、大したものは用意できないが……その、食事は一人よりも二人の方が美味いし……あ、でもそっちが良ければだけど……」
しどろもどろになりながら慧音が言ってくれる。
「あ、うん、ご馳走になるよ、うん。そっちが良ければだけど……」
さっきまではたかる気だったくせに、どうしてこう申し訳ない気分になるのだろう? 初っ端に気恥ずかしい事言ったら、向こうが緊張してしまって、それが私にもうつったのかも……いや、それとも逆に最初っから私が緊張していたんだろうか……
とりあえず、緊張をほぐして、いつも通りにしないと……
「いやー、今日ずっと歩いてきたら、お腹すいちゃってねー」
なんだこのぎこちない会話ー! と思ったら慧音が不思議そうな顔で覗き込んできた。
「歩いてきたのか? あの山の向こうから? 何故飛ばなかったんだ?」
そう言えば結局竹林を飛び越えただけで、後はずっと歩いてたなぁ。おかげでなんか知り合いと一杯会うし。
「えーっとね……」
何で歩いてきたんだっけ? と考え込んで、今日会った人妖が思い出される。そこで話した内容、思った事。
あぁ、そうか……
「私は、私の人生を歩いているからさ」
そいえばこのメンバー何かなって思ったら、けー姉ぇ除けば全員が、ゲーム中でもこと対峙した人妖なのね。
永遠の命ってどんなもんなんだろうか?
それが存在する世界が滅びようとも、それは存在するんだろうか?
果てしないカオス…
良いSSでございました。
人物の立場から来る妹紅との会話の違い。これだけ人数だすような作品だと理想的な話の作りだなと思いました。
面白かった!
恒例のコメント返しをさせて頂きますね。
長くなっても気にしない方向でw
>コイクチさん
ありがとうございます。初めて妹紅を書いたので、きちんと書けているかどうかはずっと不安でしたので、そう言って頂けると苦労が報われたと感じますねw
>Admiralさん
思いついた時点で、「こんな起伏のないストーリーでも大丈夫?」と思っていましたが、結果的にはそれが良い方向に働いてくれたようで、何よりです。
>一人目の名前が無い程度の能力さん
妹紅に焦点を当てながら、既存の作品様とどのような色の違いを出すかで四苦八苦しました。結果的に大人しめになりましたがそれでも「らしく」はなってくれたのでホッとしています。
>二人目の名前が無い程度の能力さん
一人称にしてはちょっと風景描写に鎬を割き過ぎたような気もしますが、その分まったりとした空気感が出てくれたので結果オーライですねw
>三人目の名前が無い程度の能力さん
咲夜さんは瀟洒で完全で可愛いです(何
咲夜さんを違和感なく出すために他のメンバーをフル登場させたような物です(何
>SSを読む程度の能力さん
蓬莱人ならでは感覚や考え方を想像しながら書くのはとっても楽しいです。が、同時にあまりの遠大さに疲れますw 実際に蓬莱人になってみないと解らないでしょうが、彼女たちが幸せに過ごせるなら、それはそれでいいのかもしれません。
>FENCERさん
ただ淡々と進んでいくような話ですが、途中で飽きられないかというのは懸念していました。テンポ自体はかなり緩めですが、一定を保てたようなので読めたのではないかと(汗 楽しんでいただけた様なので、幸いです。
>あざみやさん
いままで自分の書いた話でもダントツに登場人物が多く、また、各キャラを上手く書けている自信も(咲夜だけは例外ですがw)あまり無かったので、その辺りは気を使って書きました。あまり動きのある話ではありませんが、それぞれがそれぞれらしく感じていただければ、大成功です。
この場をお借りして、読んでいただいた方全てに感謝の意を。
また来月ぐらいにはお目見え出来るかもしれません。それではまた。
コメント返しを書いている最中にお一人様増えましたので、後書きの方に増やそうと思ったのですが、よく考えれば二重投稿になりそうなので、無茶を承知でこちらに。
>四人目の名前が無い程度の能力さん
輝夜も出ない、慧音とも殆ど絡まない。そんな妹紅の他のキャラとの絡みが見たくて書いてみました。結果としてこんなゆるゆるな話になりました。楽しんで頂けたら幸いです。
それでは、また。
やはり河瀬さんの作品は安心して読めて好きです。
ほのぼので目指すところ、って感じですかね。
何はともあれ良い道筋でした。