篠田と熊谷に肩を貸してもらいながら、霧島はよろよろと森の中を進み続ける。その先を高田は警戒しつつも先行していた。確か穴の近くで少年が何かに襲われたとかは霧島は聞いていたが、疲労が頂点以上に達し常人が決して経験しないような出来事を幾つも体験してきた今となっては、その事実は頭の中から消えうせてしまっていた。
姿が見えない美村のことが頭をかすめるが、今霧島が最も求めているのはシャワーと布団だった。あらゆる汚れと垢を洗い落とす熱い湯、そして汚れ一つ無い真っ白な布団、きっとふわふわとしていてその中に飛び込めばすぐにでも眠れるだろう。それから後では十時間も二十時間でも、死んだように眠るに違いない。その様を空想するだけでも力が抜けてしまい、足が動くのをやめてしまいそうだった。気絶するほど疲れている中、必死に意志の力を振り絞って足を進める。靴に鉛か鉄でも仕込んでいるのではないかと思うほど、足は重かった。
夜の森は先が見えなく、それに雪が邪魔をするため動きにくい。それでも霧島たちはのろのろと、かつて自分達が入ってきた穴へ戻るために歩く。今ではあのキャンプの日々が何年も、それこそ二百年も前の出来事に思えていた。刑務所の服役なんて別の惑星で起きた出来事に違いない。
霧島一人では絶対に迷っていただろうが、高田の方向感覚と手製の地図が効を奏しているのか、迷うことなくずんずんと歩いていく。疲れ果てているため全員が何も喋らず、黙々と何十分も歩き続けた。どこかで風が枝葉を吹き散らかす音が聞こえ、鳥がそれに反応して何匹か飛び立っていった。それに反応して高田が狙いを定めるが、すぐに銃を仕舞って進み始める。
胸中をぴりぴりした、何か嫌なものが巡り始めるのを霧島は感じ取った。誰かが、何かが敵意を向けているような、それとも殺意を向けているような感覚。隣の篠田がホルスターから拳銃を抜き取った。
「何か、見てるな」高田が言った。
「同感だ」篠田が同意する。
「こんなの初めてだぜ」
「ここは幻想郷だぞ、常識なんか期待するな」
顔を強張らせながら熊谷が言う。
「どこから見てると思う?」
霧島が尋ねたが、それに答えられる人物は誰もいなかった。この森の中では、隠れる場所なんてそれこそ無限にある。草むら、樹上、枝の上、霧島たちにとってこの状況は圧倒的に不利だった。ただ一つ有利なものと言えば、自分たちの近くにゴールがあるということだ。そこに入ってしまえば敵も手出しが出来ないだろうし、もし入ってきたら兵士たちになんとかしてもらえばいい。
最大限警戒しながらチームは進み続けた。上、右、左、どこかに敵意を向ける生物はいるかと血眼になって探し、草むらが大きく動いたりした時には思わず拳銃を向けた。森林の中では何もかもが異様な動きをし、暗闇の中からは得体の知れない目が霧島たちを睨んでいるように思えた。森全体が敵となり、彼らを排除しようとしているようだった。
だがそれでも距離そのものは縮まっていたようで、雪と樹木の向こうにようやく穴の姿がちらつくと、霧島は安堵するのを隠すことができなかった。そしてまた、敵意を向けている生物なんて実は自分達の勘違いで、本当はいないんじゃないか、緊張のしすぎじゃないか、とも思えてきた。大体その子供だって変にそいつの縄張りに入ったから襲われたんじゃ――
どこからか、まるで蒸気機関車が立てる音みたいな吠え声が聞こえた。霧島の心臓と脳と身体が一瞬凍りつき、次の瞬間彼の目にはこちら目掛けて突進するイノシシの姿が見えた。それは見た感じ確かにイノシシだったのだが、身体のパーツとか作りとかが微妙に違っているようで、正確には何と表現できるのか分からなかった。大まかな作りはイノシシであるけれども、細部が別の生物から取ってきたような、そんな感じ。オオカミとイノシシの配合みたいだな、となんとなく思った。
霧島めがけてまっしぐらに突っ込んできたそれを、熊谷と篠田が動いたおかげで殆ど皮一枚という所で回避する。物凄い音をたててイノシシは木に激突し、何メートルもあって横幅は霧島よりも広そうなそれは、イノシシの直撃を受けてべっこりとへこんでしまっていた。あれがもし人間の身体に適用されたらと思うと、今日何度目になるか分からない感覚――背筋を悪寒が走りぬける――を味わった。くそ、こいつは俺が役立たずであることを知っている。だから真っ先に殺そうとしている!!
「先に行けッ!!」
自動小銃を握った高田が前に出て、霧島たちを庇う格好になる。自分たちが持てる全速力でトリオは走り始め、続けざまに突っ込もうとしたイノシシに高田が自動小銃の連射を浴びせかけた。何発か食らったようで、悲鳴を上げながら草むらに逃げ込む。
肺が爛れるような心地を味わいながら霧島はのろのろと走り続ける。穴までの距離はあと何十メートルぐらいだというのに、何キロにも、何十キロにも感じられる。隣の篠田ががんばれ、がんばれと声を掛けてくれているが、それはもしかしたら自分を鼓舞しようとしているだけかもしれない、とどうでもいいことを霧島は考えた。熊谷は後ろをちらちらと見ながら足を進め、緊張で肺がおかしくなったみたいにか細い呼吸をしている。
視界のどこかで影がちらつき、目を向けると再びイノシシが突っ込んでこようとしていた。いつのまにか遥か前方に移動していたらしい。霧島たちは草むらの中を歩きながらだから歩みが遅いが、あのイノシシにとってここは平地も同然だ、草むらも平然と突っ込んでくる。高田が走りながら銃を向けていたが、あまりにもイノシシが速過ぎた。篠田が何発か銃を撃ったが、獣の身体を掠めて過ぎるだけだ。反射的に自分の死が頭の中で映像として流れ始め、BGMは誰かが叫ぶ怒鳴り声、地べたを走る足音、そして自分自身が発する悲鳴だった。腹がべっこりとへこんだ時、痛みはどれほどのものなのだろう? それはどれほど続くだろう? 何回苦しんで吐きそうになって、すぐに死ねるようにと何度願うのだろう? 生きたまま食われるのだろうか? それとも突き殺されるのか? それとも―――
気がつくと、自分の手には拳銃が握られていた。いつのまにホルスターから抜き出したのか、それとも最初から手に持っていたのか。覚えていなかったが、そのことは重要ではなかった。大事なのは自分がこれを持っているということだった。時間の歩みがとてもゆっくりとしたものに感じられて、熊谷の肩から余裕を持って腕を外すことができた。それから雪と土を巻き上げて殺意をむき出しにしたイノシシの顔に銃口を向け、引き金を引く。
一発、発射の衝撃で腕がブレる、身体を掠った。
二発、口の中に撃ち込まれる。血を噴出しながらイノシシは向きを変えない。
三発、イノシシの右目に銃弾は突っ込み、大きく回転しながら目玉の中を突き進み、内容物を撒き散らしていく。
唐突に時間の流れが元に戻った。物凄い勢いでイノシシは悲鳴をあげると、間一髪で向きを変えて草むらに逃げ込む。高田が走り寄ると、「早く走れっ」と急かす。霧島たちは走った。後ろで高田が自動小銃を乱射しイノシシを威嚇している。どこかで吠え声があがったが、今の霧島の頭には穴のこと以外頭には無い。十メートル、五メートル、三メートル。三日前に脱いだ防護服は誰かが回収していたのか、とっくに影も形もなくなっている。
「高田、お前も来い!」と後ろを向いて篠田が叫ぶ。どこから再びイノシシが現れるか、高田は辺りに油断無く銃を向けながら、こっちへと後ろ向きに走ろうとしている。熊谷と篠田は助けを呼ぶために先に穴の中へ入った。高田と一緒に霧島が入ろうとしていたが、後ろ走りの態勢から一瞬だけ高田の注意が穴に逸れた時、イノシシが突進してきた。片目が潰れ、今や顔中を血だらけにしながら、その顔は紛れもない敵意と殺意と執念に彩られていた。単なる獲物としてではなく、完全な敵としての。復讐するべき相手だとして。どんなに遠くまで逃げようとも、イノシシは自分たちを殺そうとしていた。
イノシシの姿を目に捉えて、高田が僅かに飛び退る。だがイノシシの方が遥かに速い。強烈な突進が腹に決まり、高田はなす術もなく吹っ飛ばされる。それが穴とは反対方向だったため、這って行ける距離でも無かった。いまやイノシシは高田以外に眼中に無く、霧島のことは完全に無視していた。
高田の名前を叫びながら霧島が拳銃を向けたその時、穴から手が伸びて霧島の肩や首を掴んだ。何だ、と反応するよりも先に霧島は穴の中に引きずり込まれ、最初入る時に感じた、あの世界が変転していく嫌な気分を味わった瞬間、現実世界へと霧島は戻ってきてしまっていた。丁寧に手入れされ、雪も無い地面の上に。霧島を押さえつけていたのは兵士たちだった。熊谷たちが戻ってきたのを見て行動を起こしたのだろうが、そんなこと霧島にとってはどうでもよかった。穴の向こうでは高田が死に掛けている! 今にもくそイノシシに食われそうになっているというのにこいつらは何をしてるんだ!? くそったれ!!
「離せっ! 離せえ、はな「動くなッ!!」」
暴れようとする霧島の顔に幾つも機関銃の銃身が伸び、黙らせようとする。だが霧島は黙らなかった。
「畜生、こんちくしょう、まだ穴の外には高田がいるんだ。助けにいかなくちゃいけないんだ。今にも死にそうなんだぞ、この人殺しども!」
鼻を啜らせながら霧島が言う。手荒に拳銃を奪い取られ、脇に放り投げられる。尚も助けを求めるが、兵士たちは無表情なままで何も言わなかった。あたかも何か言う事も禁則事項とされているかのように。既に熊谷と篠田も銃を取り上げられ、テントに向かって歩かされていた。反抗する意志は自分に向けられる何丁もの銃が封じてしまっている。
兵士達の脇には、かつて穴に入るための訓練を受けさせた男が、多分何十年か何百年か昔に霧島たちを異世界に送り込んだ男が立っていた。汚れだらけの霧島を見て顔を顰めたが、目の前に来ると一言だけ、それこそ強制されて言うような口調でこう言った。
「よくやった」
そして背を向け、テントに向けて歩いていった。
霧島はその背に、今すぐここで心臓発作を起こして死ぬように(できれば長く苦しんで死ぬように)呪いをかけた。無駄だった。霧島もテントに引っ立てられ、抵抗の甲斐なく連れ込まれた。
長い筒を持った男の身体が吹っ飛び、木に叩きつけられる。一応は満足の叫びを上げたものの、「獣」はそれだけで安心するような馬鹿な生き物ではなかった。長い筒が敵の手に渡らないように、容赦なく草の向こうに蹴り飛ばす。これを持った人間は油断が出来ない存在となるのだ、最後の最後まで侮ってはいけない。何せ奴らは自分の片目を殺してしまったのだ。
片目が死んだせいで視界の半分が潰れていたが、それでも憎き敵の姿を視認するには十分だった。木に身体をもたせかけて必死に逃走しようとしているが、身体が動こうとしないらしく苦労している。「獣」にとってはあらゆる意味で好都合だ。
あの人間、「獣」の目を潰した人間が逃げてしまったのは残念としか言い様が無かった。あいつの身体をバラバラに引きちぎって、頭を振り回して木に叩きつけてやりたかったが、穴を眺めるにそれは難しいということがよく分かった。これは得体の知れない物だ、異質そのものだ。そんなものからは離れるに限る。それにこんなものがある場所をかつて自分は縄張りにしていたのだ、こいつを殺した後で、いずれ別の場所を探した方が良いだろう。
「獣」は改めて敵に向き直り、足で地面を何度も踏み鳴らし、突き殺すべき相手の姿を直視した。自然と鼻息も荒くなり、残ったほうの目が充血する。自分の中で殺意と憎悪を何度も何度も環のように回転させ増幅させる。殺してやる、殺してやる、叩き殺してやる、ぶち殺してやる。ありとあらゆる痛みを味合わせてやる。
人間は「獣」を少しの間睨んでいたが、やがて諦めたように頭を下げ、ずるずると地面に座り込む。勝った!! 敵は自分の存在に怖気づき、そして敗北の意を露にしたのだ。全てにおいて勝利したというわけではないが、だが自分が完全に負けたわけではない。今はそれで十分だ。それに自分は、初めてあの筒を持った人間を打倒することができたのだ。これを勝利と言わずに何と言おう?
まずはこいつを殺して、その血から、肉から、臓物から、勝利の味をゆっくりと啜ってやろう。
十分に距離を離して、突進する準備ができたその途端、「獣」の本能が大きく叫び声をあげた――やめろ! やめろ!! 今すぐ逃げろ!! 今すぐに!
突如として相反する本能が出現したことに驚き、二つの思念に挟まれて「獣」はどうしていいか分からなくなった。そして外界に神経を集中させてみたその時、恐ろしい事実に気がついた。今までどうして気付かないのかと思うほどそれは大きく、純粋で、邪悪だった。あの人間に化けたアレよりも。遥かに…大きく…「獣」を見ている。
あの邪悪な悪鬼がいつのまにか戻ってきている。
「獣」は狼狽し、焦り、逃げようとした。しかしどこに逃げる? この森を覆い尽くすこともできるほど大きな物なのに? 「獣」は周りの様子を必死に確かめながら右往左往していたが、やがて自暴自棄に右へと走り出しかけた。
突然に、身体の中を何かで貫かれた。目が眩み脳が破壊されるような衝撃が体中を駆け回り、叫び、怒号を上げ、「獣」は悲鳴を上げる。降りかかってきたそれは槍のようで、「獣」を地面に串刺しにしていた。足がばたばたと動き、玩具みたいな動きをする。げぇぇ、と口からだらだらと血を吐き出し、「獣」は自分が悪鬼に捕まってしまったのだと、何もかもが終わってしまったのだということを悟った。
その事実を悟ると同時に、紅の刃が首をすっぱりと切断し、「獣」は地面を転がり、悪鬼の目の前でぴたりと止まった。勢い良く切り落とされたために、まだ脳の一部は生きており、悪鬼の姿を見ることが出来た。
「獣」が恐れた悪魔は、レミリア・スカーレットは紅の槍を振りかざすと、哀れな生き物の頭を完全に、それこそ悪鬼の姿を見てしまったことを後悔するより早く、木っ端微塵に粉砕した。
荒く息をして、目の前の光景を必死に理解しようとする。全く、最近は理解することさえ難しいことばっかり起きるな。
ついさっきまで自分を殺そうとしたイノシシが動きを止め、混乱しながら周りを見て、最後には自分から逃げようとした。そこに吸血鬼が現れると、たちどころに槍のようなもので串刺しにしてしまい、完全に殺してしまった。頭をなくした胴体がぐったりとした様子で地面に横たわり、中からはノミのようなものがぞろぞろと出てきている。きっとこの森にいる、他の動物(妖怪と言い換えてもいい)に再び取り付き、死ぬまで寄生し続けるのだろう。
「あんただろ、あいつら殺したの」
少女に対して感謝の言葉よりも、救援を求める言葉よりも、その言葉が真っ先に出てきた。林の中で発見した仲間の死体が頭に浮かぶ。手についた獣の血を忌々しそうに振り捨てると、吸血鬼は返事を返した。
「ええそうよ。だって、あの人たち弾幕ごっこを挑んできたんだもの、応えなきゃそれこそ失礼じゃない?」
身振りや口調こそ優雅だったが、だからこそ逆に高田は恐ろしく思えた。おそらくこの少女は、女や子供を含めて何万人も虐殺した後でも、平気でお茶会に参加して淑女の笑顔を浮かべるに違いない。怒りは最初から感じていなかったが、高田はうすら寒いものを覚え、同時にこの世界はほんとに狂ってるな、と思った。こんなのが俺達の世界にいなくて本当に良かった。
木に激突したせいで背中が酷く痛み、高田は呻き声を上げる。まともに頭突きされた腹の方が酷く痛んでいたが、もしかしたら脊髄を損傷したかもしれないと思うと、腹の痛みは弱くなり代わりに背中の痛みが強くなっていくような感覚を覚えた。口の中が苦々しい液体で満たされ、地面に唾を吐く。血が幾分混じっていた。
「あら、いたいけな少女の前で失礼な人ね」と吸血鬼が言うと、高田に向かって手を差し出した。
「立てる?」
結局、吸血鬼に肩を貸してもらうことにした。自己診断をしてみたが、肋骨がおそらく何本か折れてるだろうし、脾臓とか膵臓とか、その辺りも結構危ないかもしれない。背中に関しては考えたくなかった。
彼女の手は酷く冷たく、服の上からでも身体はひんやりとしていた。吸血鬼は十字架を恐れ、血を吸う死人だと本で読んだことがあったが、それを果たしてこの少女に聞いてもいいのか、迷った。逡巡した挙げ句に別の質問をすることにした。
「何で、俺を助けたんだ?」
少女は愉快そうに笑った。
「あなたの友達に、霧島…でいいんだったっけ。その人、いるでしょ?」
言葉の真意が掴めなかったが、頷いておく。
「私は人の運命を見通すことができるんだけど、霧島って男は面白い運命を持っていそうなのよ。別にあなたをほっといても良かったんだけど、生還させたほうが面白そうだから、それだけ」
おそらく本気だろうな、と高田はつくづく思った。この女は、自分の興味のために何でもするような生物だ。興味が惹けば大悪人でも助けるし、そうでなければ聖人だって平気で殺すだろう。神にだって平気で牙を剥くに相違ない。
「一応礼は言っとくよ。ありがとう」
吸血鬼は軽く笑って、どういたしまして、と答えた。もしかして俺は、吸血鬼に礼を言った始めての人間ということになるのか、とぼんやり考えたが、すぐに痛みがぶり返して頭の中から消えた。
吸血鬼はすぐ目の前にある穴を見て、よくできた玩具を見るようにしみじみとそれを観察していた。その様を横目で見て、やはりここの人間はこれの存在を知らないのかと考えたが、今この時はどうでも良かった。ただあのイノシシみたいな奴に再び襲われる前に穴の向こうに行って、横になりたかった。
穴の直前で、吸血鬼が言った。心底面白そうな口ぶりで、好奇心のためか目は細くなっている。モルモットを観察する科学者の目だった。
「そういえば、良い事教えてあげましょうか。多分まだ知らないと思うから」
「? なんだ?」
「お友達の美村って言う人、もう死んでるわよ」
高田が戻ってきたという報せをテントの中で受けた時、霧島は驚喜し、また狂喜した。あの状況では高田の安否は絶望視されていたからだ。高田は白い服を着た少女に連れられて穴から出てきており、その際少女と兵士の間で一悶着があったらしいが、すぐに兵士が退いた。霧島たちに事情を話した兵士はその当事者であるらしく、伝えている間はテントの中で寒風からは守られていたというのに、身体を大きく震わせていた。いい気味だ、と思ったが勿論言わないで置いた。
彼は一人で立つことが出来ないらしく、医療用のテントに収容されていた。急いで見舞いに行くとベッドに寝かされ点滴の針に繋がれていた高田がいて、元気そうに話をしてくれた。危機一髪の所で吸血鬼が助けてくれたこと、そいつに肩を貸してもらって歩いてきたこと、そこまで話した所で口を閉ざした彼は、どこか遠い空の彼方でも見上げるように天井を見上げて、豆電球がチカチカと輝いているのを見つめながら、霧島たちに美村が死んだことを話した。吸血鬼は簡潔に、死んだ、とだけ。その状況も、理由も、何も教えられなかった。事実だけしか彼女は話すことはなく、高田を兵士に預けるとさっさと穴に戻ってしまった。だから嘘か本当かどうかも確かめられなかった。
それを聞いても霧島には実感が沸かなかった。熊谷は神妙な顔つきで頷き、篠田はそれを聞くなりテントから出て行ったが、誰も後を追わなかった。霧島はぽかんとした顔で、何を聞いたのかさっぱり分からないように首を傾げた。言われた言葉は理解できるというのに、それが頭の中に染み入ってこない。感覚と脳みそとの間には大きな隔たりがあるようだった。
高田は話してくれている間、一度も起き上がらなかった。悪いな、身体が動かないんだ。と笑いながら話してくれたが、テントの外で医者がタバコを吸っている間に、霧島は彼を捕まえて高田の容態を尋ねた。実際はどんななんですか? 高田は大丈夫なんですか?
脊髄損傷だ。簡単に医者は言った。内臓の方は奇跡的に大丈夫だったから今すぐ病院に移す必要は無さそうだが、そこで奇跡が尽きたみたいだな。まあ更なる奇跡って奴が起きない限り、生涯車椅子の世話にならにゃならんね。ま、生き延びただけマシってもんか?
テントに帰り消灯時間になってから、寝袋の中で霧島は考えた。半身不随と殆ど行方不明扱いに近い死亡、後に残される者にとって、どっちが幸福なのだろう? それこそ医者が言った、「まだマシ」って所なのだろうか?
ぼんやりと壁を見ながら霧島は考えた。茶色いテントの壁を見つめていると、そのうちぼんやりとした形で美村と高田が映し出され、霧島に向かってVサインをした。美村は小銃を手にガチガチに緊張した笑顔で、高田は健常者らしくタバコを吸いながら、両足で地面の上にどっしりと構えるように、立っていた。
彼らのうち一人が死に、一人が二度と自分の足で立つことができないということに、全く実感が湧かない。無意識のうちに頭の中で美村との生活、高田との生活が蘇る。彼らは笑い、両足で立ち、飯を食っていた。銃を撃ち、山の中を走り、背嚢を背負っていた。
美村は慧音のことが好きだと言った。霧島が冗談半分で頑張れ、と言った時には真に受けているようだった。彼はウノをしたし、何回も作戦の詳細を確認するために緊張した声で質問をしていたし、雪が積もった岸辺で小銃を胸に抱きながら目を閉じていた。彼は友人であり、多分始めて出来た親友の一人だった。心を許せる存在だった。
美村は死んだ。そして高田は動けなくなった。
それらについて全く実感が無かった。誰かがそれは嘘だよ、と言えば霧島は信じてしまいそうだった。それくらい現実感が無かった。
だが目から涙が溢れ出てきた。何粒も何粒もぽろぽろと流れ、止めようとしても止まらなかった。死んだ、その単語だけで胸の中が握りつぶされたみたいに小さくなり、心臓が痛くなった。こんな涙を霧島は知らなかったし、止める術を知らなかった。
明け方まで泣き続けた。テントにいた他の人間は誰も文句を言わなかった。
翌日になって、兵士たちによる取調べが開始された。既にメモリースティックと慧音の話をまとめたメモ帳は渡していたから、教官たちのいるテントに呼び出され、嘘発見器を取り付けられた後で向こうで起きたことについて根掘り葉掘り、それこそ粗や矛盾が一つでもあったら罰を与えてやろうと言わんばかりに聴取された。高田の場合は、動けないので向こうの方からテントまでやってきた。向こうで会った人間はどんな格好をしていた? はい、農民風の格好で厚着をしていました。丁度明治時代の人とか、そんな感じです。紅魔館というのはどんな建物なんだ? 外装は? 内装は? どうして外から見て数階ほどの大きさしかないのに中の様子は全く違うんだ? 吸血鬼とは何物か? そいつは本当に吸血鬼だと自分で名乗ったのか? 上白沢慧音は人間なのか? 人間でなければなんだ? なぜ人間をそこまで助けたがる?
三日間かけてこれが続き、途中で霧島はノイローゼになるのではないかと思った。他の人間も同様だったが、高田に関してはそうでも無かったようだった。三日目など、尿瓶の中に用を足しながら平気で質問に答えていたらしい。
いつのまにかカレンダーの上では正月を迎えていたが、聴取は休みなく続いた。
それが終わると、何日か霧島たちは放置された。食事は出たし外で運動することもできたが、基本的にはテントの中に入っていなければならなかった。霧島たちは何度か高田の見舞いに行った。聴取のせいでまともに見舞いをする時間が取れなかったため、正式に向かうのはこれが始めてだった。外に出たらあれをしたいこれをしたいと四人で話し合ったりもした。例え半分以上のことを高田がするのは不可能だとしても、口にすることは楽しかった。高田は自分の症状について知っているのだろうかと疑問に思ったが、それはすぐに解消された。
ある日、夕暮れ直前にテントを訪れると、普段は医者や看護士がいるというのに、その時に限って誰もいなかった。こっそりと高田を脅かしてやろうと抜き差し差し足でいると、そのうち声が聞こえた。高田はいつものベッドに寝ており、こっちに背を向けていたが、彼は鼻を啜って泣いていた、その声が聞こえた。
全員が何も見なかったことにして、テントを去った。翌日になって改めて連れて見舞いに行った時、高田はいつもの笑顔で応対し、三人もそれに倣った。
一度見舞いの帰りに教官たちがいるテント前を通りかかった時、中から「じゃあどうするというのだッ!!!」という怒鳴り声が聞こえて、霧島を含めて三人が飛び上がった。すぐに声が止んでテント前は静かになったが、霧島たちは熊が冬眠している洞窟の前を通るように、音を立てずにこっそりとテントに戻った。
これから自分たちがどうなるかということについて不安はあったが、今の時点ではどうしようもなかった。ここで逃げ出してもカズの二の舞になるかもしれないし、高田がいないこの状況では作戦を立てることにも無理があった。もしかしたらテントの中に兵士達が乗り込んできて銃殺されるのではないか、という不安を抱きながら、霧島たちは生活していた。
こっちに戻ってきて七日目の午後、教官が再び姿を現した。何度も徹夜したのか隈がその目には見えて、本人も極めて疲労した様子だった。そしてテントの中の三人に、荷物をまとめるように言った。
正式に調査終了ということが決まった。
三人は大声で叫びながらテントの中を転げまわり、やがて外にまで飛び出して、ごろごろと雪の上を転げまわった。教官とお付の兵士がその様子を見て軽蔑しきった目をしたが、三人ともそんなことに頓着しなかった。大声で笑いながら笑顔で、ようやく解放されると全身で喜びを表現していた。医療用テントに行くと高田は既に知らされていたが、高田の場合は近隣の大型病院に入院し、入院費や生活保障は全て国が出すことになっていた。俺なんか個室付きで特例扱いの入院で、昼飯に牛丼だって食えるぜ、と高田は笑っていた。その後すぐに高田は車椅子に乗せられ、医者からバスで病院に収容されると言われた。
それからすぐに車椅子の人間でも乗れるようなバリアフリーのバスがテント前に止まった。それに乗ってきた看護人が高田をバスに乗せようとするのを止めて、高田は慣れない車椅子をどうにか動かしながら三人の前に来る。
「あー……まあ、なんだ。何と言うかだな」
高田はどうしたらいいか分からない風に頬を掻いていたが、照れたような顔で無愛想に霧島の前に片手を突き出した。
「またな」
その手を見て最初どうすればいいのか霧島にはよく分からなかったが、やがておずおずとその手を握る。高田がぶんぶんと手を振ってから、次は篠田、その次に熊谷というように手を差し出す。篠田の目が僅かに涙ぐんでいるように見えたが、霧島は努めて無視した。
「それじゃ、またな」
熊谷が握手を終えてから高田にそう言った。霧島と篠田が言葉に賛同し頷く。
「絶対にまた会うぞ。今度は一緒に酒でも飲もう」
そう言ったのは霧島だった。
「嬉しいことを言うじゃないか」
嘘でも嬉しいさ、と付け加えてから、手振りで看護人に合図をする。患者がこういったことをするのには慣れているのか、文句一つ言わずに看護人は高田をバスに乗せる。バスが出発すると、高田は窓側の席から三人に向かって手を振った。三人も振りかえして、その姿が見えなくなるまでどちらも振り続けた。
テントに戻ってから、調査が終わるということは二度と幻想郷に行かないということを意味することに思い当たった。慧音や村の人たちに対するある種の寂しさはあったが、正直な所、あんな場所にはもう行きたくなかった。あそこほど常識という概念をぐにゃぐにゃに歪め、侵し、破壊する場所なんて存在しないからだ。博麗神社の巫女や魔法使いにスペルカードなど、好奇心がうずく存在はたくさんあったが、無視するべきなのが最も正しいということを霧島は分かっていた。あの穴やこのキャンプなど、倫理的な観念からすれば告発しなければいけないことも同時に分かっていたが、ここまで来て殺されるのは真っ平だったし、既にこの問題は自分の手を離れてしまっていた。やることをやったから自分は日常に戻る、次に問題を押し付けられた奴が悲鳴をあげながら難題に取り組む、これはそういうものなのだ。最終的な解決なんてどこにも存在しない。美村の顛末(例え死んでいなくとも)が唯一心残りだったが、公式には死亡した人間として片付けられてしまっていたため、諦めるより無かった。
夜になると教官のテントに呼び出され、通帳や印鑑を渡された。別人の名前が入っているそれの中身を見ると、ゼロが幾つも並んだ数字がそこにあった。一千万が自分の物になったにも関わらず、さっぱり現実感が無い。それから一人ずつがテントの中でここを出た後に住むアパートを選ぶことになった。立地条件や家賃については全ての物件で問題が無かったものの、否応なしに他県を選ばされた。どうしてなのかと聞いてみたら、事件について住民の関心を引く恐れがあるためだと言われ、そこで霧島は思い出した。捕まってから何年も経っているが、覚えている人は死ぬまで覚えているものなのだ、特に自分のような事件は。
篠田や熊谷たちと会っていいかと聞いてみると、妙な考えを起こさないためにそういったことは許可できない、と告げられる。実際に住所や電話番号は当人でさえ知らされていないから、それはバスから降りてしまえば二度と会うことができないことを意味した。
最後に教官に、高田がどこに収容されたのかと聞いてみると、都心にある有名な――霧島も名前を知っていた――病院の名前があがった。見舞いに行っても良いかと聞いてみたが即答で拒否された。とはいえ、病院の名前は覚えておくことにした。何かの拍子で運が巡ってくる可能性もあったからだ。
期待に満ちた夜が過ぎ、朝になるとテントの中で待機していた霧島たちはトラックが止まる音を聞いた。入り口の幕を開けてみると、服や靴などの生活用品を各種揃えており、好きなものを取っていくと良いと言われ、彼らはそれに従った。直に高速バスがやってくると、霧島たちを乗せて出発した。ごとごとと揺れる雪道を揺られながら霧島は、前にここを通った時は秋だったことを思い出していた。枯葉がちらほらと落ち、こんなに寒くも無かった。ついでに言えば、あの時は不安で不安で仕方が無かった。今ではそうでもなく、消極的な希望というか、微かに胸の中がわくわくしている。
年が明けて間もないためか、外にはあまり人や車の姿が見えない。そこらじゅうに根雪はあったが、バスは苦も無く進んでいった。外を見ながら時間を潰していると、篠田が住むアパートの前に止まったのか、彼の名前を呼ばれる。顔をぐしぐしと擦ると、じゃあな、と二人と握手をして篠田はバスから降り、アパートの階段を上っていったが、途中で足を止めるとバスに手を振った。後ろの窓からできるだけその姿を目に留めようとしていたが、やがて見えなくなった。
何時間か再びバスは走っていき、続いて熊谷の名前が呼ばれる。色々あったけど楽しかったぜ、と霧島に告げると、彼もまたバスを降り、篠田と同じように見えなくなった。人生から消えるってこんな呆気ないものかと思うと鼻を啜りたくなったが、なんとか我慢することにした。
さらに数時間、昇り始めた日が落ち始めた頃、やがて霧島の名前を呼ばれる。返事をしてから出口に向かい、バスから降りて、アパートを見上げる。ごくごく普通の、誰でも住んでいそうなアパートだったが、ここを見て何故か霧島は、上白沢慧音の家を思い出した。どこがどう似てるのかは分からなかったものの、とにかくそんな感じがしたのだ。変なホームシックみたいなものでもあるのかもしれないと思うと、ちょっと笑った。
バスがどことも知れぬ場所へ走り去っていくのを横目に、霧島はかんかんと音を立てて階段を上る。入り口のドアを開けると、既に掃除されていたのか汚れてはいない。代わりに家具も何も置いてなく、部屋は文字通り空っぽだった。狭い畳の上に寝転びながら、これからの予定を考える。
まずは地図を買って場所を確認して、家具を揃えて、飯の作り方も本を買って習って、バイトを見つけて、それから―――。
目を閉じて考えをまとめているうちに、意識は紐が解けるようにゆっくりと小さくなり、やがてぷっつりと消えた。
「で」と、レミリア・スカーレットは目の前の椅子に座っている相手に尋ねた。身体を硬直させ、何か大きな決心をしたように目をぎらつかせ、レミリアを凝視している。
「何の用?」
真紅の椅子に腰掛けている少女――上白沢慧音は膝の上で手を組み合わせ、少しの間俯いていたものの、上目遣いでレミリアの脇に立っているメイド長、咲夜を盗み見た。咲夜の腕や足には幾つか包帯が巻かれ、顔には絆創膏が張ってある。レミリアはふうとため息をついてから、「咲夜ー、下がって」と言った。咲夜は文句一つ言わずに礼をすると、どんなモデルだろうと手本にしたくなるような歩き方で部屋から出て行き、音も無くドアを閉めた。
「申し訳なかったっ」と慧音が椅子から立ち上がり、床に土下座したのはその直後だった。何らかのアクションは起こすと思っていたが、まさかこんなことをするとは思わなかったレミリアはぽかんとした目で慧音を見て、とりあえず彼女が言う言葉に耳を傾けることにした。
「そちらの館を半壊させ、あまつさえ何人ものメイドを死なせてしまったのは全て私に責任がある。あの人間たちは自分の仲間を助けようとしただけで、あなたが思うほどの悪意は持っていなかった。誓って言える、だから責めを負うのは私一人で十分だし、村の人間に手出しは――」
「ああ、ああ、もういいから」
機関銃のように吐き出される慧音の言葉を遮ると、レミリアは椅子から立ち上がって、慧音の土下座を止めさせようとする。土下座なんてされてもこっちが困るだけだし、そんなもので満足できるような安っぽい嗜虐心を持ち合わせているわけではないのだから。
「しかし、現に紅魔館は「あなた、私がそんな事気にしてると思ってるの?」」
今度は慧音がぽかんとする番だった。慧音を立ち上がらせると椅子に座らせる。出て行ったメイドを呼び戻すのも面倒くさかったので、レミリアは自分で紅茶を淹れながら話し始めた。
「館は半壊状態で現在復旧工事の真っ最中、フランドールは夜中を散々暴れまわって咲夜に怪我を負わせた。メイドも数人死んだし、二人か三人かはバラバラになってるわね。でもまあ、そんなことどうでもいいのよ。そんなのよりもっと気になる対象を見つけたから」
「気になる対象?」
「あなたの下を訪ねた人間のうちに、霧島って男がいたでしょ」
慧音は頷いた。おいしくないと思うけど我慢しなさい、と言いつつ紅茶を渡す。
「今そいつは穴の向こうに行ってしまっているけど、その男を見ているとこれがなかなか面白いのよ。他の人間とは明らかに違った、特殊な運命構造の持ち主とも言うべきかしら? 言い方は何でもいいけど、私はその男に興味がわいたのよ。だから霧島を発見することが出来た時点で、十分お釣りは来てるってこと。私が礼を言う必要があるくらいだし、あなたが土下座なんてする必要は全く無いのよ。あの男を攫ったのはもともとこっちの方でもあるし」
言ってから自分で淹れた紅茶に口を付ける――まずい。少なくとも咲夜の淹れた紅茶とは大違いだ。慧音は尚も何か言いたそうに口をもごもごさせていたので、レミリアは妥協案を出してみた。
「それじゃ、正門と中庭の修理をする必要があるから、後で手伝ってきたら? 責任者には助っ人が一人来るって伝えとくから、あなたの良心が満足するならお好きなだけどうぞ」
慧音はぱっと顔を輝かせて、それじゃ準備をする必要があるから、すまないが今日はもう戻らなくてはならない、と言った。咲夜を再び呼ぶと、部屋に入ってきたメイドに連れられて出て行く慧音をレミリアは見送った。全く、ああいうのをくそまじめって言うのかしら。
まずい紅茶を啜りながらレミリアは外に目を向ける。自分で壊した分、人の倍働かされている門番の姿や、仕事着姿のメイドが多数目に入る。それらをぼんやりと眺めつつ、穴の向こうに侵入させたコウモリは上手くやっているかどうか考えた。明け方頃に一匹だけ侵入させたから人の目にはつかないだろうし、オオカミやイノシシでもないからすぐに自然の中に隠れてしまうだろう。今では霧島の傍に張り付いて、始終監視を行なっていた。時々レミリアもコウモリの目からその様子を見ては、面白いことをしていないかどうかチェックしている。
今のところはそれほど興味があることをしていないが、あとどれくらい経ったらか分からないが、霧島という男は何かをやってくれそうだった。何をするのかは皆目検討がつかないが、だからこそ楽しいとも言える。どれくらい続けられるかは分からなかったが、少なくとも穴が存在する限りは大丈夫だろう。穴について考えて、巫女を思い出す。
「そろそろ霊夢に穴のこと、教えてあげてもいいかもね」と、呟く。最近の巫女は勘が鈍ったのかそうでないのか、穴についてはさっぱり気がついていない。もし穴に気がついて、そこから出てきた一連のトラブルを知れば―――それもまた楽しいことだ。
まあ、もう少しぐらい放置しても良さそうだった。一週間、一ヶ月、もしくは一年ぐらいは。
何回も電車やバスを乗り継ぎ、人に道を尋ねながら霧島は歩き続け、ようやく目的の場所に到達した。子供の頃に一度だけ来たことがあり、道はなんとか覚えていた。天気は快晴とは言わずも晴れており、雲の隙間から太陽の光が大幅に差し込んでいる。休みの日ということもあって人の姿がちらほらと見られるが、もう厚着ではない。そろそろカレンダーの日付は四月に入ろうとしていた。
ここまで来ることにある程度の抵抗はあったし、自分がどういう目で見られるかは考えてみたものの、いざ来てみると何も不都合なことは起こらなかった。政府の人間が尾行でもしているのだろうと決め付けていたが、それらしい反応が無いということは、本当に自由になったのかもしれない。もしくは、声を掛けなくても大丈夫だろうと思っているのか。
もうあの事件は人々の中から消えて、多分霧島遼一という存在は刑務所にしか存在していないと思ってるのだろう。それも実在することなく、名前だけの存在として。だから外を似たような人間が歩いても勘違いか、自分の目が一時的に変になったと決め付けて目を擦るぐらいかもしれない。霧島はもう、大田という偽名にも慣れ始めてきていた。
来る途中の店で買った花束を目的物の前に置き、誰かが置いていったカップ酒の脇に、霧島は線香を立てかける。
季節はずれの墓参りだった。
目の前の墓には、「霧島家之墓」と簡単に彫ってあるだけだ。本当に簡単なんだな、と笑いながら霧島は両手を合わせる。この墓の中に、あいつらが――両親と弟が眠っているのだろう。多分。
アパートで色々と文句を考えていたにも関わらず、いざここへ来てみると何を言えば良いのかわからなくなってしまった。まあいいか、と霧島は思い、懐の中から今まで持っていたメモ帳とシャーペンを取り出し、墓に立てかける。
彼なりの決意表明。
今までの自分から決別して、家族の呪縛から逃れて、新しい人生を歩む積もりだった。
少なくとも、今までのように人形としてではなく、真っ当な人としての人生を。
そのためにこのメモ帳は邪魔だった。もう小説を書きたいとは思わないし、書かなくても生きていけると思ったからだ。改めて最初のメモ暢をくれた刑務官に感謝をする。彼がいなかったら俺は幻想郷に入る前に死んでしまっていただろう。
風が路面のゴミを吹き散らかしている間、墓石の前で拝んだ後に霧島は立ち上がり、今まで自分を散々苦しめて来た者が眠っている場所に声を掛けた。
「もう、来ないよ」
その一言だけを呟いて、墓へ背を向ける。真っ直ぐに後ろを振り返らず、彼は霊園から立ち去った。
一際強い風が吹いて、緑の葉を揺らめかせながら木が大きく揺れる。今まで隙間から顔を出すだけだった太陽が雲から完全に脱出し、下にいる生き物を穏やかに照らし始める。雪は解けかけて、表土が顔を出しつつあった。
そろそろ春が来る。
姿が見えない美村のことが頭をかすめるが、今霧島が最も求めているのはシャワーと布団だった。あらゆる汚れと垢を洗い落とす熱い湯、そして汚れ一つ無い真っ白な布団、きっとふわふわとしていてその中に飛び込めばすぐにでも眠れるだろう。それから後では十時間も二十時間でも、死んだように眠るに違いない。その様を空想するだけでも力が抜けてしまい、足が動くのをやめてしまいそうだった。気絶するほど疲れている中、必死に意志の力を振り絞って足を進める。靴に鉛か鉄でも仕込んでいるのではないかと思うほど、足は重かった。
夜の森は先が見えなく、それに雪が邪魔をするため動きにくい。それでも霧島たちはのろのろと、かつて自分達が入ってきた穴へ戻るために歩く。今ではあのキャンプの日々が何年も、それこそ二百年も前の出来事に思えていた。刑務所の服役なんて別の惑星で起きた出来事に違いない。
霧島一人では絶対に迷っていただろうが、高田の方向感覚と手製の地図が効を奏しているのか、迷うことなくずんずんと歩いていく。疲れ果てているため全員が何も喋らず、黙々と何十分も歩き続けた。どこかで風が枝葉を吹き散らかす音が聞こえ、鳥がそれに反応して何匹か飛び立っていった。それに反応して高田が狙いを定めるが、すぐに銃を仕舞って進み始める。
胸中をぴりぴりした、何か嫌なものが巡り始めるのを霧島は感じ取った。誰かが、何かが敵意を向けているような、それとも殺意を向けているような感覚。隣の篠田がホルスターから拳銃を抜き取った。
「何か、見てるな」高田が言った。
「同感だ」篠田が同意する。
「こんなの初めてだぜ」
「ここは幻想郷だぞ、常識なんか期待するな」
顔を強張らせながら熊谷が言う。
「どこから見てると思う?」
霧島が尋ねたが、それに答えられる人物は誰もいなかった。この森の中では、隠れる場所なんてそれこそ無限にある。草むら、樹上、枝の上、霧島たちにとってこの状況は圧倒的に不利だった。ただ一つ有利なものと言えば、自分たちの近くにゴールがあるということだ。そこに入ってしまえば敵も手出しが出来ないだろうし、もし入ってきたら兵士たちになんとかしてもらえばいい。
最大限警戒しながらチームは進み続けた。上、右、左、どこかに敵意を向ける生物はいるかと血眼になって探し、草むらが大きく動いたりした時には思わず拳銃を向けた。森林の中では何もかもが異様な動きをし、暗闇の中からは得体の知れない目が霧島たちを睨んでいるように思えた。森全体が敵となり、彼らを排除しようとしているようだった。
だがそれでも距離そのものは縮まっていたようで、雪と樹木の向こうにようやく穴の姿がちらつくと、霧島は安堵するのを隠すことができなかった。そしてまた、敵意を向けている生物なんて実は自分達の勘違いで、本当はいないんじゃないか、緊張のしすぎじゃないか、とも思えてきた。大体その子供だって変にそいつの縄張りに入ったから襲われたんじゃ――
どこからか、まるで蒸気機関車が立てる音みたいな吠え声が聞こえた。霧島の心臓と脳と身体が一瞬凍りつき、次の瞬間彼の目にはこちら目掛けて突進するイノシシの姿が見えた。それは見た感じ確かにイノシシだったのだが、身体のパーツとか作りとかが微妙に違っているようで、正確には何と表現できるのか分からなかった。大まかな作りはイノシシであるけれども、細部が別の生物から取ってきたような、そんな感じ。オオカミとイノシシの配合みたいだな、となんとなく思った。
霧島めがけてまっしぐらに突っ込んできたそれを、熊谷と篠田が動いたおかげで殆ど皮一枚という所で回避する。物凄い音をたててイノシシは木に激突し、何メートルもあって横幅は霧島よりも広そうなそれは、イノシシの直撃を受けてべっこりとへこんでしまっていた。あれがもし人間の身体に適用されたらと思うと、今日何度目になるか分からない感覚――背筋を悪寒が走りぬける――を味わった。くそ、こいつは俺が役立たずであることを知っている。だから真っ先に殺そうとしている!!
「先に行けッ!!」
自動小銃を握った高田が前に出て、霧島たちを庇う格好になる。自分たちが持てる全速力でトリオは走り始め、続けざまに突っ込もうとしたイノシシに高田が自動小銃の連射を浴びせかけた。何発か食らったようで、悲鳴を上げながら草むらに逃げ込む。
肺が爛れるような心地を味わいながら霧島はのろのろと走り続ける。穴までの距離はあと何十メートルぐらいだというのに、何キロにも、何十キロにも感じられる。隣の篠田ががんばれ、がんばれと声を掛けてくれているが、それはもしかしたら自分を鼓舞しようとしているだけかもしれない、とどうでもいいことを霧島は考えた。熊谷は後ろをちらちらと見ながら足を進め、緊張で肺がおかしくなったみたいにか細い呼吸をしている。
視界のどこかで影がちらつき、目を向けると再びイノシシが突っ込んでこようとしていた。いつのまにか遥か前方に移動していたらしい。霧島たちは草むらの中を歩きながらだから歩みが遅いが、あのイノシシにとってここは平地も同然だ、草むらも平然と突っ込んでくる。高田が走りながら銃を向けていたが、あまりにもイノシシが速過ぎた。篠田が何発か銃を撃ったが、獣の身体を掠めて過ぎるだけだ。反射的に自分の死が頭の中で映像として流れ始め、BGMは誰かが叫ぶ怒鳴り声、地べたを走る足音、そして自分自身が発する悲鳴だった。腹がべっこりとへこんだ時、痛みはどれほどのものなのだろう? それはどれほど続くだろう? 何回苦しんで吐きそうになって、すぐに死ねるようにと何度願うのだろう? 生きたまま食われるのだろうか? それとも突き殺されるのか? それとも―――
気がつくと、自分の手には拳銃が握られていた。いつのまにホルスターから抜き出したのか、それとも最初から手に持っていたのか。覚えていなかったが、そのことは重要ではなかった。大事なのは自分がこれを持っているということだった。時間の歩みがとてもゆっくりとしたものに感じられて、熊谷の肩から余裕を持って腕を外すことができた。それから雪と土を巻き上げて殺意をむき出しにしたイノシシの顔に銃口を向け、引き金を引く。
一発、発射の衝撃で腕がブレる、身体を掠った。
二発、口の中に撃ち込まれる。血を噴出しながらイノシシは向きを変えない。
三発、イノシシの右目に銃弾は突っ込み、大きく回転しながら目玉の中を突き進み、内容物を撒き散らしていく。
唐突に時間の流れが元に戻った。物凄い勢いでイノシシは悲鳴をあげると、間一髪で向きを変えて草むらに逃げ込む。高田が走り寄ると、「早く走れっ」と急かす。霧島たちは走った。後ろで高田が自動小銃を乱射しイノシシを威嚇している。どこかで吠え声があがったが、今の霧島の頭には穴のこと以外頭には無い。十メートル、五メートル、三メートル。三日前に脱いだ防護服は誰かが回収していたのか、とっくに影も形もなくなっている。
「高田、お前も来い!」と後ろを向いて篠田が叫ぶ。どこから再びイノシシが現れるか、高田は辺りに油断無く銃を向けながら、こっちへと後ろ向きに走ろうとしている。熊谷と篠田は助けを呼ぶために先に穴の中へ入った。高田と一緒に霧島が入ろうとしていたが、後ろ走りの態勢から一瞬だけ高田の注意が穴に逸れた時、イノシシが突進してきた。片目が潰れ、今や顔中を血だらけにしながら、その顔は紛れもない敵意と殺意と執念に彩られていた。単なる獲物としてではなく、完全な敵としての。復讐するべき相手だとして。どんなに遠くまで逃げようとも、イノシシは自分たちを殺そうとしていた。
イノシシの姿を目に捉えて、高田が僅かに飛び退る。だがイノシシの方が遥かに速い。強烈な突進が腹に決まり、高田はなす術もなく吹っ飛ばされる。それが穴とは反対方向だったため、這って行ける距離でも無かった。いまやイノシシは高田以外に眼中に無く、霧島のことは完全に無視していた。
高田の名前を叫びながら霧島が拳銃を向けたその時、穴から手が伸びて霧島の肩や首を掴んだ。何だ、と反応するよりも先に霧島は穴の中に引きずり込まれ、最初入る時に感じた、あの世界が変転していく嫌な気分を味わった瞬間、現実世界へと霧島は戻ってきてしまっていた。丁寧に手入れされ、雪も無い地面の上に。霧島を押さえつけていたのは兵士たちだった。熊谷たちが戻ってきたのを見て行動を起こしたのだろうが、そんなこと霧島にとってはどうでもよかった。穴の向こうでは高田が死に掛けている! 今にもくそイノシシに食われそうになっているというのにこいつらは何をしてるんだ!? くそったれ!!
「離せっ! 離せえ、はな「動くなッ!!」」
暴れようとする霧島の顔に幾つも機関銃の銃身が伸び、黙らせようとする。だが霧島は黙らなかった。
「畜生、こんちくしょう、まだ穴の外には高田がいるんだ。助けにいかなくちゃいけないんだ。今にも死にそうなんだぞ、この人殺しども!」
鼻を啜らせながら霧島が言う。手荒に拳銃を奪い取られ、脇に放り投げられる。尚も助けを求めるが、兵士たちは無表情なままで何も言わなかった。あたかも何か言う事も禁則事項とされているかのように。既に熊谷と篠田も銃を取り上げられ、テントに向かって歩かされていた。反抗する意志は自分に向けられる何丁もの銃が封じてしまっている。
兵士達の脇には、かつて穴に入るための訓練を受けさせた男が、多分何十年か何百年か昔に霧島たちを異世界に送り込んだ男が立っていた。汚れだらけの霧島を見て顔を顰めたが、目の前に来ると一言だけ、それこそ強制されて言うような口調でこう言った。
「よくやった」
そして背を向け、テントに向けて歩いていった。
霧島はその背に、今すぐここで心臓発作を起こして死ぬように(できれば長く苦しんで死ぬように)呪いをかけた。無駄だった。霧島もテントに引っ立てられ、抵抗の甲斐なく連れ込まれた。
長い筒を持った男の身体が吹っ飛び、木に叩きつけられる。一応は満足の叫びを上げたものの、「獣」はそれだけで安心するような馬鹿な生き物ではなかった。長い筒が敵の手に渡らないように、容赦なく草の向こうに蹴り飛ばす。これを持った人間は油断が出来ない存在となるのだ、最後の最後まで侮ってはいけない。何せ奴らは自分の片目を殺してしまったのだ。
片目が死んだせいで視界の半分が潰れていたが、それでも憎き敵の姿を視認するには十分だった。木に身体をもたせかけて必死に逃走しようとしているが、身体が動こうとしないらしく苦労している。「獣」にとってはあらゆる意味で好都合だ。
あの人間、「獣」の目を潰した人間が逃げてしまったのは残念としか言い様が無かった。あいつの身体をバラバラに引きちぎって、頭を振り回して木に叩きつけてやりたかったが、穴を眺めるにそれは難しいということがよく分かった。これは得体の知れない物だ、異質そのものだ。そんなものからは離れるに限る。それにこんなものがある場所をかつて自分は縄張りにしていたのだ、こいつを殺した後で、いずれ別の場所を探した方が良いだろう。
「獣」は改めて敵に向き直り、足で地面を何度も踏み鳴らし、突き殺すべき相手の姿を直視した。自然と鼻息も荒くなり、残ったほうの目が充血する。自分の中で殺意と憎悪を何度も何度も環のように回転させ増幅させる。殺してやる、殺してやる、叩き殺してやる、ぶち殺してやる。ありとあらゆる痛みを味合わせてやる。
人間は「獣」を少しの間睨んでいたが、やがて諦めたように頭を下げ、ずるずると地面に座り込む。勝った!! 敵は自分の存在に怖気づき、そして敗北の意を露にしたのだ。全てにおいて勝利したというわけではないが、だが自分が完全に負けたわけではない。今はそれで十分だ。それに自分は、初めてあの筒を持った人間を打倒することができたのだ。これを勝利と言わずに何と言おう?
まずはこいつを殺して、その血から、肉から、臓物から、勝利の味をゆっくりと啜ってやろう。
十分に距離を離して、突進する準備ができたその途端、「獣」の本能が大きく叫び声をあげた――やめろ! やめろ!! 今すぐ逃げろ!! 今すぐに!
突如として相反する本能が出現したことに驚き、二つの思念に挟まれて「獣」はどうしていいか分からなくなった。そして外界に神経を集中させてみたその時、恐ろしい事実に気がついた。今までどうして気付かないのかと思うほどそれは大きく、純粋で、邪悪だった。あの人間に化けたアレよりも。遥かに…大きく…「獣」を見ている。
あの邪悪な悪鬼がいつのまにか戻ってきている。
「獣」は狼狽し、焦り、逃げようとした。しかしどこに逃げる? この森を覆い尽くすこともできるほど大きな物なのに? 「獣」は周りの様子を必死に確かめながら右往左往していたが、やがて自暴自棄に右へと走り出しかけた。
突然に、身体の中を何かで貫かれた。目が眩み脳が破壊されるような衝撃が体中を駆け回り、叫び、怒号を上げ、「獣」は悲鳴を上げる。降りかかってきたそれは槍のようで、「獣」を地面に串刺しにしていた。足がばたばたと動き、玩具みたいな動きをする。げぇぇ、と口からだらだらと血を吐き出し、「獣」は自分が悪鬼に捕まってしまったのだと、何もかもが終わってしまったのだということを悟った。
その事実を悟ると同時に、紅の刃が首をすっぱりと切断し、「獣」は地面を転がり、悪鬼の目の前でぴたりと止まった。勢い良く切り落とされたために、まだ脳の一部は生きており、悪鬼の姿を見ることが出来た。
「獣」が恐れた悪魔は、レミリア・スカーレットは紅の槍を振りかざすと、哀れな生き物の頭を完全に、それこそ悪鬼の姿を見てしまったことを後悔するより早く、木っ端微塵に粉砕した。
荒く息をして、目の前の光景を必死に理解しようとする。全く、最近は理解することさえ難しいことばっかり起きるな。
ついさっきまで自分を殺そうとしたイノシシが動きを止め、混乱しながら周りを見て、最後には自分から逃げようとした。そこに吸血鬼が現れると、たちどころに槍のようなもので串刺しにしてしまい、完全に殺してしまった。頭をなくした胴体がぐったりとした様子で地面に横たわり、中からはノミのようなものがぞろぞろと出てきている。きっとこの森にいる、他の動物(妖怪と言い換えてもいい)に再び取り付き、死ぬまで寄生し続けるのだろう。
「あんただろ、あいつら殺したの」
少女に対して感謝の言葉よりも、救援を求める言葉よりも、その言葉が真っ先に出てきた。林の中で発見した仲間の死体が頭に浮かぶ。手についた獣の血を忌々しそうに振り捨てると、吸血鬼は返事を返した。
「ええそうよ。だって、あの人たち弾幕ごっこを挑んできたんだもの、応えなきゃそれこそ失礼じゃない?」
身振りや口調こそ優雅だったが、だからこそ逆に高田は恐ろしく思えた。おそらくこの少女は、女や子供を含めて何万人も虐殺した後でも、平気でお茶会に参加して淑女の笑顔を浮かべるに違いない。怒りは最初から感じていなかったが、高田はうすら寒いものを覚え、同時にこの世界はほんとに狂ってるな、と思った。こんなのが俺達の世界にいなくて本当に良かった。
木に激突したせいで背中が酷く痛み、高田は呻き声を上げる。まともに頭突きされた腹の方が酷く痛んでいたが、もしかしたら脊髄を損傷したかもしれないと思うと、腹の痛みは弱くなり代わりに背中の痛みが強くなっていくような感覚を覚えた。口の中が苦々しい液体で満たされ、地面に唾を吐く。血が幾分混じっていた。
「あら、いたいけな少女の前で失礼な人ね」と吸血鬼が言うと、高田に向かって手を差し出した。
「立てる?」
結局、吸血鬼に肩を貸してもらうことにした。自己診断をしてみたが、肋骨がおそらく何本か折れてるだろうし、脾臓とか膵臓とか、その辺りも結構危ないかもしれない。背中に関しては考えたくなかった。
彼女の手は酷く冷たく、服の上からでも身体はひんやりとしていた。吸血鬼は十字架を恐れ、血を吸う死人だと本で読んだことがあったが、それを果たしてこの少女に聞いてもいいのか、迷った。逡巡した挙げ句に別の質問をすることにした。
「何で、俺を助けたんだ?」
少女は愉快そうに笑った。
「あなたの友達に、霧島…でいいんだったっけ。その人、いるでしょ?」
言葉の真意が掴めなかったが、頷いておく。
「私は人の運命を見通すことができるんだけど、霧島って男は面白い運命を持っていそうなのよ。別にあなたをほっといても良かったんだけど、生還させたほうが面白そうだから、それだけ」
おそらく本気だろうな、と高田はつくづく思った。この女は、自分の興味のために何でもするような生物だ。興味が惹けば大悪人でも助けるし、そうでなければ聖人だって平気で殺すだろう。神にだって平気で牙を剥くに相違ない。
「一応礼は言っとくよ。ありがとう」
吸血鬼は軽く笑って、どういたしまして、と答えた。もしかして俺は、吸血鬼に礼を言った始めての人間ということになるのか、とぼんやり考えたが、すぐに痛みがぶり返して頭の中から消えた。
吸血鬼はすぐ目の前にある穴を見て、よくできた玩具を見るようにしみじみとそれを観察していた。その様を横目で見て、やはりここの人間はこれの存在を知らないのかと考えたが、今この時はどうでも良かった。ただあのイノシシみたいな奴に再び襲われる前に穴の向こうに行って、横になりたかった。
穴の直前で、吸血鬼が言った。心底面白そうな口ぶりで、好奇心のためか目は細くなっている。モルモットを観察する科学者の目だった。
「そういえば、良い事教えてあげましょうか。多分まだ知らないと思うから」
「? なんだ?」
「お友達の美村って言う人、もう死んでるわよ」
高田が戻ってきたという報せをテントの中で受けた時、霧島は驚喜し、また狂喜した。あの状況では高田の安否は絶望視されていたからだ。高田は白い服を着た少女に連れられて穴から出てきており、その際少女と兵士の間で一悶着があったらしいが、すぐに兵士が退いた。霧島たちに事情を話した兵士はその当事者であるらしく、伝えている間はテントの中で寒風からは守られていたというのに、身体を大きく震わせていた。いい気味だ、と思ったが勿論言わないで置いた。
彼は一人で立つことが出来ないらしく、医療用のテントに収容されていた。急いで見舞いに行くとベッドに寝かされ点滴の針に繋がれていた高田がいて、元気そうに話をしてくれた。危機一髪の所で吸血鬼が助けてくれたこと、そいつに肩を貸してもらって歩いてきたこと、そこまで話した所で口を閉ざした彼は、どこか遠い空の彼方でも見上げるように天井を見上げて、豆電球がチカチカと輝いているのを見つめながら、霧島たちに美村が死んだことを話した。吸血鬼は簡潔に、死んだ、とだけ。その状況も、理由も、何も教えられなかった。事実だけしか彼女は話すことはなく、高田を兵士に預けるとさっさと穴に戻ってしまった。だから嘘か本当かどうかも確かめられなかった。
それを聞いても霧島には実感が沸かなかった。熊谷は神妙な顔つきで頷き、篠田はそれを聞くなりテントから出て行ったが、誰も後を追わなかった。霧島はぽかんとした顔で、何を聞いたのかさっぱり分からないように首を傾げた。言われた言葉は理解できるというのに、それが頭の中に染み入ってこない。感覚と脳みそとの間には大きな隔たりがあるようだった。
高田は話してくれている間、一度も起き上がらなかった。悪いな、身体が動かないんだ。と笑いながら話してくれたが、テントの外で医者がタバコを吸っている間に、霧島は彼を捕まえて高田の容態を尋ねた。実際はどんななんですか? 高田は大丈夫なんですか?
脊髄損傷だ。簡単に医者は言った。内臓の方は奇跡的に大丈夫だったから今すぐ病院に移す必要は無さそうだが、そこで奇跡が尽きたみたいだな。まあ更なる奇跡って奴が起きない限り、生涯車椅子の世話にならにゃならんね。ま、生き延びただけマシってもんか?
テントに帰り消灯時間になってから、寝袋の中で霧島は考えた。半身不随と殆ど行方不明扱いに近い死亡、後に残される者にとって、どっちが幸福なのだろう? それこそ医者が言った、「まだマシ」って所なのだろうか?
ぼんやりと壁を見ながら霧島は考えた。茶色いテントの壁を見つめていると、そのうちぼんやりとした形で美村と高田が映し出され、霧島に向かってVサインをした。美村は小銃を手にガチガチに緊張した笑顔で、高田は健常者らしくタバコを吸いながら、両足で地面の上にどっしりと構えるように、立っていた。
彼らのうち一人が死に、一人が二度と自分の足で立つことができないということに、全く実感が湧かない。無意識のうちに頭の中で美村との生活、高田との生活が蘇る。彼らは笑い、両足で立ち、飯を食っていた。銃を撃ち、山の中を走り、背嚢を背負っていた。
美村は慧音のことが好きだと言った。霧島が冗談半分で頑張れ、と言った時には真に受けているようだった。彼はウノをしたし、何回も作戦の詳細を確認するために緊張した声で質問をしていたし、雪が積もった岸辺で小銃を胸に抱きながら目を閉じていた。彼は友人であり、多分始めて出来た親友の一人だった。心を許せる存在だった。
美村は死んだ。そして高田は動けなくなった。
それらについて全く実感が無かった。誰かがそれは嘘だよ、と言えば霧島は信じてしまいそうだった。それくらい現実感が無かった。
だが目から涙が溢れ出てきた。何粒も何粒もぽろぽろと流れ、止めようとしても止まらなかった。死んだ、その単語だけで胸の中が握りつぶされたみたいに小さくなり、心臓が痛くなった。こんな涙を霧島は知らなかったし、止める術を知らなかった。
明け方まで泣き続けた。テントにいた他の人間は誰も文句を言わなかった。
翌日になって、兵士たちによる取調べが開始された。既にメモリースティックと慧音の話をまとめたメモ帳は渡していたから、教官たちのいるテントに呼び出され、嘘発見器を取り付けられた後で向こうで起きたことについて根掘り葉掘り、それこそ粗や矛盾が一つでもあったら罰を与えてやろうと言わんばかりに聴取された。高田の場合は、動けないので向こうの方からテントまでやってきた。向こうで会った人間はどんな格好をしていた? はい、農民風の格好で厚着をしていました。丁度明治時代の人とか、そんな感じです。紅魔館というのはどんな建物なんだ? 外装は? 内装は? どうして外から見て数階ほどの大きさしかないのに中の様子は全く違うんだ? 吸血鬼とは何物か? そいつは本当に吸血鬼だと自分で名乗ったのか? 上白沢慧音は人間なのか? 人間でなければなんだ? なぜ人間をそこまで助けたがる?
三日間かけてこれが続き、途中で霧島はノイローゼになるのではないかと思った。他の人間も同様だったが、高田に関してはそうでも無かったようだった。三日目など、尿瓶の中に用を足しながら平気で質問に答えていたらしい。
いつのまにかカレンダーの上では正月を迎えていたが、聴取は休みなく続いた。
それが終わると、何日か霧島たちは放置された。食事は出たし外で運動することもできたが、基本的にはテントの中に入っていなければならなかった。霧島たちは何度か高田の見舞いに行った。聴取のせいでまともに見舞いをする時間が取れなかったため、正式に向かうのはこれが始めてだった。外に出たらあれをしたいこれをしたいと四人で話し合ったりもした。例え半分以上のことを高田がするのは不可能だとしても、口にすることは楽しかった。高田は自分の症状について知っているのだろうかと疑問に思ったが、それはすぐに解消された。
ある日、夕暮れ直前にテントを訪れると、普段は医者や看護士がいるというのに、その時に限って誰もいなかった。こっそりと高田を脅かしてやろうと抜き差し差し足でいると、そのうち声が聞こえた。高田はいつものベッドに寝ており、こっちに背を向けていたが、彼は鼻を啜って泣いていた、その声が聞こえた。
全員が何も見なかったことにして、テントを去った。翌日になって改めて連れて見舞いに行った時、高田はいつもの笑顔で応対し、三人もそれに倣った。
一度見舞いの帰りに教官たちがいるテント前を通りかかった時、中から「じゃあどうするというのだッ!!!」という怒鳴り声が聞こえて、霧島を含めて三人が飛び上がった。すぐに声が止んでテント前は静かになったが、霧島たちは熊が冬眠している洞窟の前を通るように、音を立てずにこっそりとテントに戻った。
これから自分たちがどうなるかということについて不安はあったが、今の時点ではどうしようもなかった。ここで逃げ出してもカズの二の舞になるかもしれないし、高田がいないこの状況では作戦を立てることにも無理があった。もしかしたらテントの中に兵士達が乗り込んできて銃殺されるのではないか、という不安を抱きながら、霧島たちは生活していた。
こっちに戻ってきて七日目の午後、教官が再び姿を現した。何度も徹夜したのか隈がその目には見えて、本人も極めて疲労した様子だった。そしてテントの中の三人に、荷物をまとめるように言った。
正式に調査終了ということが決まった。
三人は大声で叫びながらテントの中を転げまわり、やがて外にまで飛び出して、ごろごろと雪の上を転げまわった。教官とお付の兵士がその様子を見て軽蔑しきった目をしたが、三人ともそんなことに頓着しなかった。大声で笑いながら笑顔で、ようやく解放されると全身で喜びを表現していた。医療用テントに行くと高田は既に知らされていたが、高田の場合は近隣の大型病院に入院し、入院費や生活保障は全て国が出すことになっていた。俺なんか個室付きで特例扱いの入院で、昼飯に牛丼だって食えるぜ、と高田は笑っていた。その後すぐに高田は車椅子に乗せられ、医者からバスで病院に収容されると言われた。
それからすぐに車椅子の人間でも乗れるようなバリアフリーのバスがテント前に止まった。それに乗ってきた看護人が高田をバスに乗せようとするのを止めて、高田は慣れない車椅子をどうにか動かしながら三人の前に来る。
「あー……まあ、なんだ。何と言うかだな」
高田はどうしたらいいか分からない風に頬を掻いていたが、照れたような顔で無愛想に霧島の前に片手を突き出した。
「またな」
その手を見て最初どうすればいいのか霧島にはよく分からなかったが、やがておずおずとその手を握る。高田がぶんぶんと手を振ってから、次は篠田、その次に熊谷というように手を差し出す。篠田の目が僅かに涙ぐんでいるように見えたが、霧島は努めて無視した。
「それじゃ、またな」
熊谷が握手を終えてから高田にそう言った。霧島と篠田が言葉に賛同し頷く。
「絶対にまた会うぞ。今度は一緒に酒でも飲もう」
そう言ったのは霧島だった。
「嬉しいことを言うじゃないか」
嘘でも嬉しいさ、と付け加えてから、手振りで看護人に合図をする。患者がこういったことをするのには慣れているのか、文句一つ言わずに看護人は高田をバスに乗せる。バスが出発すると、高田は窓側の席から三人に向かって手を振った。三人も振りかえして、その姿が見えなくなるまでどちらも振り続けた。
テントに戻ってから、調査が終わるということは二度と幻想郷に行かないということを意味することに思い当たった。慧音や村の人たちに対するある種の寂しさはあったが、正直な所、あんな場所にはもう行きたくなかった。あそこほど常識という概念をぐにゃぐにゃに歪め、侵し、破壊する場所なんて存在しないからだ。博麗神社の巫女や魔法使いにスペルカードなど、好奇心がうずく存在はたくさんあったが、無視するべきなのが最も正しいということを霧島は分かっていた。あの穴やこのキャンプなど、倫理的な観念からすれば告発しなければいけないことも同時に分かっていたが、ここまで来て殺されるのは真っ平だったし、既にこの問題は自分の手を離れてしまっていた。やることをやったから自分は日常に戻る、次に問題を押し付けられた奴が悲鳴をあげながら難題に取り組む、これはそういうものなのだ。最終的な解決なんてどこにも存在しない。美村の顛末(例え死んでいなくとも)が唯一心残りだったが、公式には死亡した人間として片付けられてしまっていたため、諦めるより無かった。
夜になると教官のテントに呼び出され、通帳や印鑑を渡された。別人の名前が入っているそれの中身を見ると、ゼロが幾つも並んだ数字がそこにあった。一千万が自分の物になったにも関わらず、さっぱり現実感が無い。それから一人ずつがテントの中でここを出た後に住むアパートを選ぶことになった。立地条件や家賃については全ての物件で問題が無かったものの、否応なしに他県を選ばされた。どうしてなのかと聞いてみたら、事件について住民の関心を引く恐れがあるためだと言われ、そこで霧島は思い出した。捕まってから何年も経っているが、覚えている人は死ぬまで覚えているものなのだ、特に自分のような事件は。
篠田や熊谷たちと会っていいかと聞いてみると、妙な考えを起こさないためにそういったことは許可できない、と告げられる。実際に住所や電話番号は当人でさえ知らされていないから、それはバスから降りてしまえば二度と会うことができないことを意味した。
最後に教官に、高田がどこに収容されたのかと聞いてみると、都心にある有名な――霧島も名前を知っていた――病院の名前があがった。見舞いに行っても良いかと聞いてみたが即答で拒否された。とはいえ、病院の名前は覚えておくことにした。何かの拍子で運が巡ってくる可能性もあったからだ。
期待に満ちた夜が過ぎ、朝になるとテントの中で待機していた霧島たちはトラックが止まる音を聞いた。入り口の幕を開けてみると、服や靴などの生活用品を各種揃えており、好きなものを取っていくと良いと言われ、彼らはそれに従った。直に高速バスがやってくると、霧島たちを乗せて出発した。ごとごとと揺れる雪道を揺られながら霧島は、前にここを通った時は秋だったことを思い出していた。枯葉がちらほらと落ち、こんなに寒くも無かった。ついでに言えば、あの時は不安で不安で仕方が無かった。今ではそうでもなく、消極的な希望というか、微かに胸の中がわくわくしている。
年が明けて間もないためか、外にはあまり人や車の姿が見えない。そこらじゅうに根雪はあったが、バスは苦も無く進んでいった。外を見ながら時間を潰していると、篠田が住むアパートの前に止まったのか、彼の名前を呼ばれる。顔をぐしぐしと擦ると、じゃあな、と二人と握手をして篠田はバスから降り、アパートの階段を上っていったが、途中で足を止めるとバスに手を振った。後ろの窓からできるだけその姿を目に留めようとしていたが、やがて見えなくなった。
何時間か再びバスは走っていき、続いて熊谷の名前が呼ばれる。色々あったけど楽しかったぜ、と霧島に告げると、彼もまたバスを降り、篠田と同じように見えなくなった。人生から消えるってこんな呆気ないものかと思うと鼻を啜りたくなったが、なんとか我慢することにした。
さらに数時間、昇り始めた日が落ち始めた頃、やがて霧島の名前を呼ばれる。返事をしてから出口に向かい、バスから降りて、アパートを見上げる。ごくごく普通の、誰でも住んでいそうなアパートだったが、ここを見て何故か霧島は、上白沢慧音の家を思い出した。どこがどう似てるのかは分からなかったものの、とにかくそんな感じがしたのだ。変なホームシックみたいなものでもあるのかもしれないと思うと、ちょっと笑った。
バスがどことも知れぬ場所へ走り去っていくのを横目に、霧島はかんかんと音を立てて階段を上る。入り口のドアを開けると、既に掃除されていたのか汚れてはいない。代わりに家具も何も置いてなく、部屋は文字通り空っぽだった。狭い畳の上に寝転びながら、これからの予定を考える。
まずは地図を買って場所を確認して、家具を揃えて、飯の作り方も本を買って習って、バイトを見つけて、それから―――。
目を閉じて考えをまとめているうちに、意識は紐が解けるようにゆっくりと小さくなり、やがてぷっつりと消えた。
「で」と、レミリア・スカーレットは目の前の椅子に座っている相手に尋ねた。身体を硬直させ、何か大きな決心をしたように目をぎらつかせ、レミリアを凝視している。
「何の用?」
真紅の椅子に腰掛けている少女――上白沢慧音は膝の上で手を組み合わせ、少しの間俯いていたものの、上目遣いでレミリアの脇に立っているメイド長、咲夜を盗み見た。咲夜の腕や足には幾つか包帯が巻かれ、顔には絆創膏が張ってある。レミリアはふうとため息をついてから、「咲夜ー、下がって」と言った。咲夜は文句一つ言わずに礼をすると、どんなモデルだろうと手本にしたくなるような歩き方で部屋から出て行き、音も無くドアを閉めた。
「申し訳なかったっ」と慧音が椅子から立ち上がり、床に土下座したのはその直後だった。何らかのアクションは起こすと思っていたが、まさかこんなことをするとは思わなかったレミリアはぽかんとした目で慧音を見て、とりあえず彼女が言う言葉に耳を傾けることにした。
「そちらの館を半壊させ、あまつさえ何人ものメイドを死なせてしまったのは全て私に責任がある。あの人間たちは自分の仲間を助けようとしただけで、あなたが思うほどの悪意は持っていなかった。誓って言える、だから責めを負うのは私一人で十分だし、村の人間に手出しは――」
「ああ、ああ、もういいから」
機関銃のように吐き出される慧音の言葉を遮ると、レミリアは椅子から立ち上がって、慧音の土下座を止めさせようとする。土下座なんてされてもこっちが困るだけだし、そんなもので満足できるような安っぽい嗜虐心を持ち合わせているわけではないのだから。
「しかし、現に紅魔館は「あなた、私がそんな事気にしてると思ってるの?」」
今度は慧音がぽかんとする番だった。慧音を立ち上がらせると椅子に座らせる。出て行ったメイドを呼び戻すのも面倒くさかったので、レミリアは自分で紅茶を淹れながら話し始めた。
「館は半壊状態で現在復旧工事の真っ最中、フランドールは夜中を散々暴れまわって咲夜に怪我を負わせた。メイドも数人死んだし、二人か三人かはバラバラになってるわね。でもまあ、そんなことどうでもいいのよ。そんなのよりもっと気になる対象を見つけたから」
「気になる対象?」
「あなたの下を訪ねた人間のうちに、霧島って男がいたでしょ」
慧音は頷いた。おいしくないと思うけど我慢しなさい、と言いつつ紅茶を渡す。
「今そいつは穴の向こうに行ってしまっているけど、その男を見ているとこれがなかなか面白いのよ。他の人間とは明らかに違った、特殊な運命構造の持ち主とも言うべきかしら? 言い方は何でもいいけど、私はその男に興味がわいたのよ。だから霧島を発見することが出来た時点で、十分お釣りは来てるってこと。私が礼を言う必要があるくらいだし、あなたが土下座なんてする必要は全く無いのよ。あの男を攫ったのはもともとこっちの方でもあるし」
言ってから自分で淹れた紅茶に口を付ける――まずい。少なくとも咲夜の淹れた紅茶とは大違いだ。慧音は尚も何か言いたそうに口をもごもごさせていたので、レミリアは妥協案を出してみた。
「それじゃ、正門と中庭の修理をする必要があるから、後で手伝ってきたら? 責任者には助っ人が一人来るって伝えとくから、あなたの良心が満足するならお好きなだけどうぞ」
慧音はぱっと顔を輝かせて、それじゃ準備をする必要があるから、すまないが今日はもう戻らなくてはならない、と言った。咲夜を再び呼ぶと、部屋に入ってきたメイドに連れられて出て行く慧音をレミリアは見送った。全く、ああいうのをくそまじめって言うのかしら。
まずい紅茶を啜りながらレミリアは外に目を向ける。自分で壊した分、人の倍働かされている門番の姿や、仕事着姿のメイドが多数目に入る。それらをぼんやりと眺めつつ、穴の向こうに侵入させたコウモリは上手くやっているかどうか考えた。明け方頃に一匹だけ侵入させたから人の目にはつかないだろうし、オオカミやイノシシでもないからすぐに自然の中に隠れてしまうだろう。今では霧島の傍に張り付いて、始終監視を行なっていた。時々レミリアもコウモリの目からその様子を見ては、面白いことをしていないかどうかチェックしている。
今のところはそれほど興味があることをしていないが、あとどれくらい経ったらか分からないが、霧島という男は何かをやってくれそうだった。何をするのかは皆目検討がつかないが、だからこそ楽しいとも言える。どれくらい続けられるかは分からなかったが、少なくとも穴が存在する限りは大丈夫だろう。穴について考えて、巫女を思い出す。
「そろそろ霊夢に穴のこと、教えてあげてもいいかもね」と、呟く。最近の巫女は勘が鈍ったのかそうでないのか、穴についてはさっぱり気がついていない。もし穴に気がついて、そこから出てきた一連のトラブルを知れば―――それもまた楽しいことだ。
まあ、もう少しぐらい放置しても良さそうだった。一週間、一ヶ月、もしくは一年ぐらいは。
何回も電車やバスを乗り継ぎ、人に道を尋ねながら霧島は歩き続け、ようやく目的の場所に到達した。子供の頃に一度だけ来たことがあり、道はなんとか覚えていた。天気は快晴とは言わずも晴れており、雲の隙間から太陽の光が大幅に差し込んでいる。休みの日ということもあって人の姿がちらほらと見られるが、もう厚着ではない。そろそろカレンダーの日付は四月に入ろうとしていた。
ここまで来ることにある程度の抵抗はあったし、自分がどういう目で見られるかは考えてみたものの、いざ来てみると何も不都合なことは起こらなかった。政府の人間が尾行でもしているのだろうと決め付けていたが、それらしい反応が無いということは、本当に自由になったのかもしれない。もしくは、声を掛けなくても大丈夫だろうと思っているのか。
もうあの事件は人々の中から消えて、多分霧島遼一という存在は刑務所にしか存在していないと思ってるのだろう。それも実在することなく、名前だけの存在として。だから外を似たような人間が歩いても勘違いか、自分の目が一時的に変になったと決め付けて目を擦るぐらいかもしれない。霧島はもう、大田という偽名にも慣れ始めてきていた。
来る途中の店で買った花束を目的物の前に置き、誰かが置いていったカップ酒の脇に、霧島は線香を立てかける。
季節はずれの墓参りだった。
目の前の墓には、「霧島家之墓」と簡単に彫ってあるだけだ。本当に簡単なんだな、と笑いながら霧島は両手を合わせる。この墓の中に、あいつらが――両親と弟が眠っているのだろう。多分。
アパートで色々と文句を考えていたにも関わらず、いざここへ来てみると何を言えば良いのかわからなくなってしまった。まあいいか、と霧島は思い、懐の中から今まで持っていたメモ帳とシャーペンを取り出し、墓に立てかける。
彼なりの決意表明。
今までの自分から決別して、家族の呪縛から逃れて、新しい人生を歩む積もりだった。
少なくとも、今までのように人形としてではなく、真っ当な人としての人生を。
そのためにこのメモ帳は邪魔だった。もう小説を書きたいとは思わないし、書かなくても生きていけると思ったからだ。改めて最初のメモ暢をくれた刑務官に感謝をする。彼がいなかったら俺は幻想郷に入る前に死んでしまっていただろう。
風が路面のゴミを吹き散らかしている間、墓石の前で拝んだ後に霧島は立ち上がり、今まで自分を散々苦しめて来た者が眠っている場所に声を掛けた。
「もう、来ないよ」
その一言だけを呟いて、墓へ背を向ける。真っ直ぐに後ろを振り返らず、彼は霊園から立ち去った。
一際強い風が吹いて、緑の葉を揺らめかせながら木が大きく揺れる。今まで隙間から顔を出すだけだった太陽が雲から完全に脱出し、下にいる生き物を穏やかに照らし始める。雪は解けかけて、表土が顔を出しつつあった。
そろそろ春が来る。
疑問符を浮かべるようなところはあったのですけど、それでも先を読みたいと思わせてくれる展開で、何だかんだと最後まで楽しませて頂きました。
外の人間が幻想郷に……、というのは割とあった気がしますけども、ここまで取り込まれたのは初めてです。あとレミ様が最高、カリスマでした。
というか色々な意味で復路鵜さんらしかったと言えばいいのでしょうかww
続編、或いは別角度から見た話? があるようなのでそちらも楽しみに待たせてもらいます。
「フッ、、、あばよ」
「おう、、、またな、、、」
みたいな渋い雰囲気が良い
これはもう降参するしかありますまい。
次回作にも期待です。
とりあえず『GJ!』の一言に尽きました。
今後の貴方の東方世界に期待
そして今度は幻想郷のが外に……
とりあえず早く蝙蝠レポ(続編)も!そう言いたくなる作品ですな。
俺はアンタの文章が大好きだ。
最初こそ「なんじゃこれ?どこが東方なんだ、スルーケテーイ」
とか思ったが、2を読み終わったあたりでズルズル引き込まれて結局最後まで読んだ上に100点の感想をつける羽目になってしまった。
これは凄い、としか言いようが無いです。最高だ。
>名前ガの兎さん
ありがとうございます。
そう言ってもらえるとは作家冥利に尽きるというものです。
>空欄さん
目をつけられてしまいました。
脳内でレミリア×霧島という構図を五分程考えてみました。
頓挫しました。
それはともかく、後編というか続編もネタが浮かび上がったら書いてみたいと思いますので、その際は宜しくお願いします。へこへこ。
>名前が無い程度の能力さん
やりました(ノ>ヮ<)ノ
>名前が無い程度の能力さん
これひょっとして全面スルーされるんじゃないかなあと最初の作品を投稿する際に考えていましたが、プラス方面に受け取られたようで嬉しいです。
次回作は魔理沙関係を考えていますが、予定は未定とも言えるので変わるかも。変わらないかも。
>FENCERさん
ヽ(>ヮ<)ノGJ
>名前が無い程度の能力さん
続きは今のところ原稿用紙三枚程度しか考えていないのが現状ですが、ここまで書けたことですしどうにかしてひねり出したいと思います。むむむむ。
>74さん
白旗をゲットしましたヽ(>ヮ<)ノ
しかしこれ、他の作品と比べると違いすぎるな………
>名前が無い程度の能力さん
「命は羽みたいに軽い、だからこそしっかり捕まえておくんだよ」という名言を誰かが言っていた気がしましたが、まあそれはあんまり関係ないとして。
まあ力を持つ生き物ってのは大抵傲慢にしろ、幻想郷じゃそれが溢れてるからなあ(笑 人間の中にも霊夢や魔理沙みたいなのがいますし。
いずれにせよ、普通の人間があそこで生き抜くのは難しそうです。
>名前が無い程度の能力さん
霧島×レミリアという構図を(ry
>ななしさん
こちらこそ、読んでいただきありがとうございます(ノ>ヮ<)ノ
東方キャラに関してはどうなるものかと冷や冷やしてましたが、それほど悪く捉えられることもなくて安心。
>ZORKさん
辿り着く先がアパートってのが雰囲気をなんとなくぶち壊しにしている感がしなくもないのが残念。
ついでに書くと、篠田さんは意外と涙もろい性格です。
>翔菜さん
ひとまず完結しました。ありがとうございます。
前例の無い作品を作ってやろうと頭をこねくり回し続けた甲斐があって、大分物凄い作品を作ることができました。
そして作風が私らしいってΣ(ノ>ヮ<)ノ
そういえば霧島のトラウマになっている過去編ですけど、あれ以外と物語の割合として大きいんですよね。それと比べるとラストの展開なんて薄く見えます。ほんと血なまぐさい描写好きだな私は。
一応続編らしきものを考えているので、しばしの間お待ちください。一週間、一ヶ月、もしくは一年ぐらいは(えー
確かに現世から幻想郷に人が行くとこんな感じなんだろうな。
現世VS幻想郷のオチを予想してましたが、しっぽり締ってるのもいいかな。
なんというか、幻想郷が幻想的でない話でしたね。
後編期待してます。
けどこの話食わず嫌い?が多そうな気がします
>名前が有る程度の能力さん
ありがとうございます(ノ>ヮ<)ノ
まあ第一話でいきなり現実世界ですから、ここでやる気が0になる人も多いんじゃないかなと思ったわけですが、うーん……
>SSを読む程度の能力さん
「お気に入り登録のミス」←?
そういった機能でも存在していたのでしょうか。
それはそれとして、やっぱり現世vs幻想郷という構図は避けたいと思います。多分能力的に幻想郷側が圧勝ですし、世界大戦規模になって核や細菌兵器が持ち出されたら荒廃するしかありませんし。そうなってしまっては武器背景にボロが出まくりだろうという作者的な理由もありますがそれはそれで!
あと、誰も次が後編だなんて言ってませんよ?
ガクガクブルブル。
非常に重い話でしたが、引き込まれて一気に読んでしまいました。
ななし殿もおっしゃっていますが、各キャラが非常にたっていてイイ!
慧音、レミリア、フラン、中国などの既存キャラはそれぞれに「らしい」と感じさせましたし、
オリキャラについても心情が丁寧に書かれていて良かったです。
レミリア×霧島…個人的には気になります。^^
心情の面などはてってーてきに書き込んでやるぜ! みたいな心意気で書いたので、引き込まれた事は非常に嬉しかったりします。
霧島×レミリアはレミリア派の人から暴動を起こされそうなのでしません^^
感動しました。今後も期待してます。
作者さんGJ!
あ、あと美村さん? けーねは私の嫁だからダメ(笑)
何にせよ満足な一品です。
序盤がだるいのは確かですが、そこでしっかり主人公やその周りに関して描写されている為に後々の展開に入り込めました。
文章を複数に分けすぎているせいで読者を選んでいる感があると思います。
これだけの作品にはもったいないことです。
あとはレミリアが霧島に興味を持つくだりがやや余計というか、中途半端な気がしました。
でも総じて凄く面白かった。
あとおまいら忘れてるけど美村は連続幼女暴行犯なんだぜ(笑)
二話で衝撃を受けた自分としては素晴らしすぎる最後だったぜ・・・!!!!!
うおおおおおお・・・・・!!!
俺には大田と聞くとあの人がでてくるんだが…
前半は「なにこれ、全然東方関係無くね」といぶかしんでいましたけど、個人的に楽しめましたので、少しホッとしてます。
なにやらまだ不穏な予感がしてるようですが、後?の作品があるなら読みにいきます。
ですがいまは感想を。
彼らの勇姿には恐れ入りましたね。尊敬します。
政府に幻想郷が知られてしまうのは芳しくないですね。
誰もがそう思っていると思います。
その後の墓参りする慧音の描写が欲しかったです。
色々と楽しめました。
それでは失礼いたします。