Coolier - 新生・東方創想話

幻想郷調査部隊(六)

2006/10/15 05:32:32
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 ※一部グロテスクな表現が使われています。


 紅魔館の前で過ごす夜というのは大抵が暇だった。命知らずの雑魚妖怪が突っ込んでくるのは週に一度か二度で、それも拳の一つでも叩き込んでやればすぐに相手の生命が終わるし、もしくは部下が全て片付けてしまう。何も無いときは何時間もただ突っ立っていることが殆どだった。たまに霧雨の魔法使いが乗り込んでくるが、その時は運が悪いのだと諦めるしかない。常に弾幕ごっこでは負けを喫していたし、今後も勝てる可能性があるとは思えなかった。


 門番である紅美鈴は今日も暇な夜を過ごす積もりだった。あと二時間も立ちっ放しで居れば休憩時間に入るし、その時には人肉でこしらえた夜食でもお腹に入れ、終わることのない門番生活への愚痴でもこぼそうと思っていた。多分長い門番生活の中でも、それだけが唯一の楽しみだろうと半ば自嘲する。昔はもうちょっとまともに戦えたというのに、今では楽勝か惨敗のどっちかでしかない。それは仮にも戦うことをスキルとしている妖怪にとって、ある種の拷問も同じだった。


 平時とは何かが違うと直感したのは、猛スピードで何かがこちらに突っ込んできたのが見えた時だった。雑魚妖怪にしては気の規模が大きすぎ、それにあまりにも速過ぎる。遥かに遠くからでも感じられるその「気」は、他にいる妖怪とは一線を画していると言っても良かった。同じような物を持っているのは紅魔館の当主やメイド長だが、それほどまでにはいかない。自分より少し強いか低いかのどっちかだろう。久しぶりに戦闘が出来ると思うと、思わず背筋が総毛だった。何週間ぶりだろう? 何年ぶりだろう? こんな相手、ほんと久しぶりだ。血が滾る。


 顔面を平手で叩いて気合を入れた美鈴は、来るべき存在を待ちうけ――唐突にそれは横からもやってきた。何が起こったのか、と思う間も無く滅茶苦茶な光弾の嵐が真横から美鈴を襲い、吹き飛ばされた門と同じく彼女は為す術もなく吹っ飛んでしまう。空中で態勢を立て直している間に、「気」の持ち主は正門のすぐ前までやってきてしまっていた。


「あー……こっちの注意を真正面から逸らしている間に別方向から不意打ち、ってことかな」
 土を被って汚れた服を叩きながら美鈴は言い――気の持ち主目掛けて、超高速で突っ込んだ。相手のやる気は十分、ならばこちらも同じぐらいのやる気で当たらなくてはそれこそ失礼にあたる。ぐんぐんと距離を縮めて視認できる近さまで来ると、その相手は上白沢慧音だった。確か図書館の本を借りる目的で館にきたことが何度かある。顔が見えない相手の腹を高速でぶち抜いてやろうと思っていたが、思わぬ相手にやる気が緩んだ。


「あんた、こんな所で何やってるの?」
 減速すると、疑問を抑えきれずに美鈴が尋ねる。肝心の慧音は一言、「人間のためだ、許せ」と言った。懐からスペルカードを取り出すと、ぎょっとして距離をとろうとした美鈴に対して発動する。


「《旧秘境史 -オールドヒストリー-》…!」


 ヤバイ、と思った美鈴は自分もスペルカードを取り出す、慧音や彼女から発生した使い魔から放たれた弾幕の奔流が轟然と自分目掛けて真っ直ぐなだれ込んでくる直前、なんとか発動させることができた。
「っ、《セラギネラ9》!!」


 白と黒の流れと、紅を中心とした弾幕同士が激突し、相殺しあい、互いに食い合う。湖の上を光の流れが疾走し、特製の花火のように色とりどりの花を咲かせる。その光景を傍目から眺める者がいれば、ちょっとした眺めに気を取られていたかもしれない。湖の上を回っており、荘厳な奔流にあてられて思わず近づいてしまった雑魚妖怪が数匹、弾の中に飲み込まれて消えた。


 なんとか自分に向かってくる分の弾は消したものの、後ろを見ると初っ端から正門がボロボロになってしまっている。館にまである程度流れたかもしれない。今頃メイドたちは大慌てで起きだしているだろうか、それとも気にせず館の巡回を続けているだろうか。


「うわぁ………なんであんた、そこまで大規模なことするの。後で怒られるの私なのに…っと!」


 続けざまに放たれた弾をかいくぐり、一気に慧音へと肉薄する。角を生やしたその顔に回し蹴りをお見舞いしようとしたが、すれすれで避けられる。続く拳の二連撃も服を、顔をかすっただけで避けられてしまい、カウンターの弾幕を辛うじて避ける。そのせいでスカートが切れて台無しになってしまったが、美鈴はもう気にしていなかった。ただ目の前にいる妖怪を、叩き潰すべき敵だけを認識していた。


 久々にまともな敵とまともに戦闘をすることができる。こっちや相手が手加減をしてもらうんじゃなくて、素の殺し合いが、全力同士の戦い合いが出来そうだ。館を壊した事で後で怒られても、援護をするメイドを撃ち落してしまっても構わない。邪魔なのが悪い。


 美鈴はただただ目の前の敵に没頭し、慧音を潰すことに己自身を特化させ、ひたすらに先鋭化させていった。


 それほどに今の慧音には気迫があり、鬼気迫るものを感じていた。






「戦闘を確認」
 双眼鏡を構えていた高田が呟き、霧島も双眼鏡を構えて視認した。紅魔館の方角で大きな花火のようなものがあがり、小規模な爆発を繰り返している。数分ほど待ってから、行くぞと高田が言った。


 筏に乗り込むと高田と篠田がオールを持ち、こぎ始める。ほぼ全員がしゃがみこみ、何かに出くわしませんようにと祈っていた。風が耳に響き背筋を冷やすが、向かい風というわけでもないのでじわじわと距離を詰めていき、段々と小石みたいな大きさだった紅魔館が見えてくる。近くにそれらしい妖精がいないかどうか必死に確認したが、発見することができない。殆どが紅魔館に引き寄せられているらしかった。暗闇では正確な観測ができないが、やはり館全体が紅色に見えた。


 奇跡が通じたのか願いが叶ったのか、何かの襲撃に晒されることなく陸地に辿り着くことができた。完全な到着を待たずに陸地へ飛び移ると、霧島たちは筏と熊谷を残して走り出す。途中で美村と別れ、真っ直ぐ霧島たちは裏口へと向かった。やはりあの見取り図と同じく、裏口はそこに存在している。表の騒ぎに何人か取られているのか、見張りが一人いるだけだった。明かりと月明かりが味方してくれるのか、照準をつけるのは楽に思える。


 匍匐前進でゆっくりと高田が前に出て、死角の部分から自動小銃で狙いをつけて、ぱん、と一発撃った。ぽつりとメイドの側頭部に穴が開き、反対側から脳みそのようなものが噴出す。死体をすぐに引きずって木陰に隠したが、誰も裏口からは出てこない。気付かれなかったようだ。


「それにしても、この世界の生き物でもちゃんと死ぬんだな」
 高田がメイドの衣服を探りながら言う。それを見て霧島はぎょっとした。


「おい、お前何を「役に立つものがあるかチェックしてあるだけだ。くそ、何も無いな。行くぞ」」


 高田や篠田は平然とした顔をしていたが、霧島は裏口に走りこむまでメイドの死体から目を離すことが出来なかった。目的のためとは言え、やはり良心が痛むことは確かだ。あのメイドに家族はいるのだろうか? この館では友達と呼べるものも多いのだろうか? つまるところ俺達がやったことは、どうなんだ? 幾ら斉藤を救うためとはいえ、こんなことをしてもいいのだろうか?


 館の中は思い切り洋装の飾り付けがしてあり……壁、床、天井、全てにおいて真っ赤だった。人間の血を塗りたくっている様子が思い浮かんだが、それはむしろ死が近いことを意味するどす黒いものではなく、鮮血としての紅であり、館の美しさを際立たせるように思えた。だから紅魔館か、と眩みそうになる目を手で押さえて霧島は考える。明かりがついているため廊下の向こうまでよく見えたが、足音や姿は確認できない。少しの間待ったが状況は変わらなかった。外の騒ぎで全員そっちに向かってくれるといいけどな、と霧島は願った。


 異常な内装にも目が慣れてきたので慎重に進んでいくと部屋を見つけ、高田が恐る恐るドアノブを捻ってみる。がち、と音がして首を横に振る。鍵が掛かっていた。


 二つ目、三つ目の部屋も失敗し、四つ目の部屋で鍵が開いていた。ついでに中から女の声らしきものが聞こえる。一人のようだ。篠田がノブに手をかけ、開けると同時に霧島と高田が入り込む手はずにしていた。三、二、一、と合図をして篠田が慎重にドアを開けて、二人が入り込む。個室らしく、女が一人こっちに背を向けて着替えをしていた。カーテンをしているために窓に姿が映ることもない。よし。


「ああもう、…ああもー! なんでこんな時に侵入者なんかくんのよ…ああ服が入んない! このままじゃ班長にどやされる…!」


 女は独り言をぶつぶつ言いながら着替えていたが、高田は足音を立てずに近づくと、背中に銃口をつきつけた。
「動くな」


「は?」
 反射的に女が後ろを向こうとして、高田に背中を蹴り飛ばされる。げ、とカエルのような声をあげて壁に叩きつけられた女の喉元に、高田はサバイバルナイフを突きつけた。霧島と篠田も同じように顔面に銃口を向ける。


「ちょっとあんたら、何をし「黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ……!」」


 ナイフが首に触れ、じんわりと血が出てくると女は黙った。それでも目は油断無く動き、霧島、高田、篠田と揺れ動いている。身体検査でもしたほうがいいかと霧島は思ったが、そもそも女は脇にあるメイド服に身を通そうとしていたのか、下着しか身に着けていない。これならその必要も無いだろう。両手を上げさせ、女の身体をこっちに向けさせる。


「動くな、動いたり許可なく喋ったりすれば殺す。絶対にお前を殺すからな、いいな?」
 女は生唾を飲み込み、何度も頷いた。


「OK。それじゃ、お前は人間か? 妖怪か?」


「人間。住み込みで働いてる。あたし以外にも何人か人間はいるんだけど、一番上に――」


 篠田が自分のナイフを女の眼球に突きつけた。
「だ、ま、れ」


 女の顔がひきつり黙った。高田が続ける。


「一昨日に、この館に誰か連れて来られなかったか? 男だ。ここの当主が連れてきた筈だ」
 高田の問いに女は暫く首を捻っていたが、その間霧島は気が気でなかった。こうしている間にも武装した女たちがドアから流れ込んできて、侵入者を撃退しようとするかもしれないという妄想に悩まされていた。


「早くしろ」


「あ、ああ、来た、そう、レミリア様が館に連れて来られたわ。友達が世話係になってる」


「そいつはどこにいる?」


 女の目の色が変わり、さっきよりもゆっくりと霧島たちの目を順々に眺め始めた。その目には納得の色があった。そうか、こいつらはあの男を助けにきたんだ。そういうことだわ。


「最上階……レミリア様の部屋の近く。ほんとよ、信じて」
 高田はほんの少し考えただけで、すぐに答えを出した。霧島と篠田は両方一緒に目を剥いた。


「よし、お前も一緒に来い。嘘だったらその場で殺すからな。問答無用だ、撤回するなら今のうちだぞ」


「ちょっと待て、流石にそれは「信憑性を確かめるためだ。仕方が無い。最悪人質に出来る」」


 こう言われてはどうしようも無かった。高田は手馴れた様子で再び女の向きを変えて、篠田に千切ったシーツを渡してもらい、それで女の手を後ろ手に縛った。ついでに叫ばれては困るので口も塞ごうとしたが、その前に女が必死の形相で言った。


「待って待って待って、まだ下着よ!? 流石にこんな服装じゃ出られないわ、せめて服ぐらい着させて。お願い」


 霧島が着させてやったらどうだ? と言う前に高田が質問をした。「その下着を全部切り取って性器を曝け出したまま廊下を行くか、このままで行くか、どっちがいい?」


「おい待て、酷すぎるだろ、それは」
 流石に我慢できなくなって霧島は高田に食ってかかったが、彼は最初から見向きもしなかった。尚も女に決断を迫る高田の肩を掴もうとしたが、それを篠田が止めた。首を横に振って、霧島を高田から遠ざける。


「……分かった、分かったわ。このままでいい。この、鬼畜」


「褒め言葉だ。篠田、お前が手綱持ってくれ」


 部屋を出ると、ちょっと先に行っててくれ、と高田が頼み、女と篠田は身を隠しながら前に進んでいく。女は嫌々ながらだった。


 何か話でもあるのか、と霧島が言おうとしたら、いきなり高田が霧島の頬を張り飛ばした。頭の中が爆発し、風に吹き散らかされたように思考が消え、真っ白になる。瞬時に何も考えることができなくなった。刑務所やキャンプで何回か殴られたことはあったが、今回のそれは段違いの痛さだったし、それ以上に理不尽だった。殴られる理由なんて何も思いつかない。


「お前、真面目にやる気があるのか?」
 あくまで冷静な口調で高田が言う。だがその目は怒りで満ち満ちていた。霧島にはその意味が理解できない。


「何が……何がだよ」


「お前は俺達が全員死んでもいいって思っているのか? いいか、俺達は正義のヒーローじゃない。漫画や映画に出てくる奴らとは違ってな、俺は傭兵、お前は犯罪者、それだけの存在に過ぎないんだよ。綺麗事を行なうだけじゃ絶対にこの問題は解決できない。お前、こんな状況になっても手を汚さなくたって問題がどうにかなると思ってるのか? 生き残るためなら今は何でもしなくちゃいけないんだ、それこそ女を撃って、下着を剥いて、無防備な奴を人質にする覚悟だって要る。誰かを助けたいって思ったらな、誰かを殺す覚悟が必要だってことだ。甘えや躊躇が、覚悟の無さってのがこういう所じゃ死に繋がるんだ。分かったのか、お前は本気で分かっているのかッ!?」


 霧島は今や、高田の迫力に完全に気圧されていた。今まで戦場で戦ってきた男の言葉は重みを持ち、霧島の心にずぶずぶと入り込んで、錆びた鉄釘みたいに恐怖を伝染させていった。今この時、高田という存在があまりに恐ろしく大きな存在に思えて霧島は泣きたくなったが、その瞬間に渾身の力を込めて腕を噛み、無理矢理涙を押さえ込んだ。今ここで泣いてしまえばそれまで溜め込んできたものが全部逆流してしまいそうだったし、そうなれば自分のことをとことん嫌いになりそうだと思った。何より、そうした時の高田の反応が怖かったこともある。


 腕から口を離すと、きつく目を閉じて唇を噛み締め弱気の心を殺し、せめてもの仕返しに高田の肩を小突いた。もう涙は出てこなかった。高田の言葉を全て受け入れられた訳ではないが、その本意は掴めたような気がした。斉藤を救うためには、誰だって殺す覚悟が要る。例え女でも、子供でも。慈悲なんか与えたら自分が殺される。


「レベルアップ、ってところだな」
 さっきまでの威圧感はどこに行ったのか、高田は笑うと霧島の頭を指差した。
「そろそろ、それ捨てようや。メモリースティックだけ取っておけば、向こうで再生は出来るだろ?」


 頭に手をやると、今まで存在そのものを忘れていたハンディカムがあった。手にとって少し見つめた後で、メモリースティックを取り出し、部屋の隅っこに機械を置く。「それがいい」と高田は言い、先を促した。


 霧島と高田は先行している二人に追いつくため、小走りで移動を始めた。






 レミリア・スカーレットという存在は決して馬鹿ではない。ただ単に気まぐれなだけだ。たまに自分を馬鹿に見せる時があれば、それは己が望んでそうやっているのだし、誰かとじゃれあっているだけなのだとしても、そこには後に繋がる確かな打算というものが用意されている。彼女がこの世に生れ落ちたその時からそういった思考形態なのは変わらなかったし、これまでも変わることは無いだろう。


 その夜も、館の方角から上がった花火のような光に最初に気付いたのはレミリアだった。だが彼女は、ぷんと面白そうな香り――混乱と、血しぶきと、レモンのような恐怖の香り――を独特の嗅覚で嗅ぎ取り、だからこそ邪魔にならないよう遠くから眺めようと思っていた。それを妨げたのは彼女の従者だった。


「あれは……弾幕!?」
 吸血鬼に従って空を飛んでいた従者――十六夜咲夜がそれを認めると、すぐにレミリアに館への帰還を提案した。ああやれやれ、とレミリアは思った。咲夜はこうなったら絶対に戻ろうとするだろうし、このメイド長が帰ってしまえば、館で起きている騒動はたちまちのうちに鎮圧されるに違いない。折角久しぶりに眺められるのだから、芽の内に摘み取るのではなくもっともっと成長して欲しい。それに――


「私は残るわ。今日は満月がとても綺麗だし」と、レミリアは上を見上げた。この一週間は曇天や雨天が多かったせいか、邪魔な雲が存在しない今日の月は事のほか美しく見える。狂人の目のようにギラギラしていて、どんなものでもその体躯で押し潰してしまいそうな威圧感を放ち、生物ではとても真似できないような豪華絢爛なその姿。こんな満月を見たのは何年ぶりか、いや何十年ぶりか? レミリアはこの場を動く積もりは毛頭無かったし、意地でも動かそうとする者はバラバラにされる危険を冒さなければいけなかった。


「………分かりました、それでは先に館に戻り、狼藉物を懲らしめて参ります」
 自己の意思表明をしてから咲夜は深く頭を下げると、すぐに館へと向きを変え、銃弾のように素早く飛んだ。結構な距離があるが、彼女ならすぐに到達してしまうだろう。


「……はぁ」
 蝙蝠を下に敷いて椅子代わりにすると、レミリアはそこに座り込む。昔からあのメイド長はほんと融通が利かない、困ったものだ。時たまそれが役に立つことはあるのだが、やはりあれは犬ほどの愚直さを備えているとしか言い様が無い。少しは空気を読んでくれればいいのに。


 まあいい、それでも十二分に楽しめる余地はありそうだった。今やトラブルは芽の段階から成長し、もう少しで花を咲かせる段階までやってきている。その花はきっと血の色をしていることだろう。レミリアは目を瞑ると、紅魔館の中に潜り込んだ人間の運命を軽く見通してみた。咲夜が弄ったせいで長い長い廊下を走りながら、目的の部屋まで走り続けている……そして、その先は………


 ふむ、とレミリアは頷き、軽い笑みを浮かべる。あらかじめ考えておいたプランとそれはどんぴしゃだった。そうなると、次なる試練は目的地で、ということになるだろう。果たして男達はそれを乗り切り、次の試練に挑むことができるだろうか? いや次の次も? 次の次の次も?


 レミリアは己の慧眼ぶりに喜び、笑い始めた。






 長い長い廊下を走り続けた。数え切れないほどの階段を駆け上がり、また廊下を走り、階段を上り、時には下り、最早自分達がどこにいるかも霧島には分からなくなっていた。外からだとこの紅魔館はヨーロッパ辺りだと普通にありそうな館に見ることもできたのに、いざ中に入ってみると段違いだった。あまりにも広すぎるし、あまりにも廊下が長すぎるし、部屋の数が多すぎる。一体ここは何なのか? 館か? 異次元か? それともドラゴンが出現するダンジョンか? 吸血鬼が当主を努める館というのは、ここまで異常なものなのか?


 道中では、メイドたちの集団と二回すれ違った。いずれも五人か六人のグループで高速で疾走しており、その時には女を引きずって死角の場所に身を隠し、どうにか見つからずに済んだ。殺気を放ちながら大急ぎで廊下を突き抜けていくその様子から、正門あたりでは相当大騒ぎになっているに違いない、という結論に落ち着く。慧音の陽動は無事に成功しているに違いない。


「ここよ、ここ、そう」
 どれぐらいか分からないほど走り続けて、女を含め全員の息が完全に切れていた状態の時に、ぜいぜい息を吐きながら女が言った。女は途中で飛んだ方が早いと言ったが、普通の人間である霧島たちにそれを行なうのは不可能であったため、飛行という手段は丁重に断念してもらった。本当にこの世界では常識ハズレの出来事が当然のこととしてまかり通っている。


 そこは一見すると他の部屋とは違いもなく、ごくごく普通の部屋に見えた。だが、中では完全武装のメイドたちが待ち構えているかもしれないし、一歩踏み出せば部屋は奈落に通じている、という可能性だってあった。その他ありとあらゆる危険性が考えられたため、霧島たちは少し話し込んでから、女に先に入ってもらうことに決めた。決定に対して彼女はぶつくさと文句を言っていたが、特に異論は無いようだった。


 女をドアの前に立たせ、高田は女の首を掴み、部屋の中を確認する係。霧島たちは脇に張り付き、何かあった時のために動ける準備をしておいた。一二の三でドアを開けると、女が開口一番「助けて!!」と叫んだ。高田が降ろしていたナイフを真っ直ぐ首筋に上げるのが見えたが、一瞬してからそれが高田の手から弾き飛ばされるのが見えた。弾によって飛ばされたナイフに気を取られた隙に女は高田の手を振りほどき、部屋の中にタックルするように入る。


 騙された!! 霧島が反射的に部屋の中に銃を撃ち込もうとすると、こっちに突っ込んできた高田に体当たりされ、廊下に吹っ飛ばされる。その瞬間、開いたドアから幾つもの弾が飛び出し、ついさっきまで霧島がいた場所を掠める。弾は壁や窓に当たって、音もなく消えた。くそ、高田が助けてくれなきゃ死んでいたところだった!


「馬鹿、ドアから離れろ!!」
 高田が叫び、弾の勢いが衰えた隙を見計らって銃を部屋に突っ込んで連射する。反対側の篠田も同じように銃を突っ込み、撃ちまくっていた。


 部屋の中からはばしゅんばしゅんと単発的に光が飛び出すが、窓や壁にぶち当たっては消える。部屋の中からは微かに悲鳴が聞こえてくる――奴らも銃で傷つく。裏口で頭に穴が開いた見張りを思い出す、あの吸血鬼が異常だってことか?


 逃げたとすればそれを勘付いた彼女らはすぐさま追ってくるだろうし、このままここに居ても事態は悪化するだけだ。それに、やがて館の内外にいるメイドたちが音を聞きつけて大挙してやってくるだろう。彼女らがたちどころに霧島たちを狩り出してしまうのは明らかだった。


「どうする? 何か策はあるのか?」と霧島が叫ぶと、高田が頷き、背中にしょっていた背嚢を降ろして中を探り出す。


 そして背嚢から取り出したのは、何か瓶のようにも缶ジュースにも見えるものだった。武器についてはよく分からない霧島が尋ねると、


「手榴弾だ」と高田が叫び返してきた。返ってきた答えに呆然とした顔をしている霧島に、笑いながら高田が言った。
「西の背嚢を探ったら入っていたんだ。やっこさん、とんでもないものを隠し持っていたらしい。使う機会はなかったようだけどな」


 霧島を下がらせてからピンを抜く。少しの間時間を計ってから、弾の勢いが途切れた時を見計らって、手榴弾を部屋に投げ込む。


 ずどん。


 初めて聞く手榴弾の爆発音は、びりびりと耳の中で響いた。すぐに三人が銃を持つと、決死の勢いで部屋の中に踏み込む。


 部屋の中は、あの吸血鬼による虐殺跡と同じく、肉片が散乱していた。飛び散った腕、ばらばらになって判別もできない首、肉のかけらが壁に張り付き、こげついた服が落ちている。部屋の内装も真紅から黒ずんだ赤い色へと大々的に塗り替え作業が行なわれ、それは途中で放棄されてしまっている。目にした光景に吐き気を感じたものの、すぐに霧島はそれを抑えて部屋を調べ始める。高田はメイド達がやってきた時に備え、部屋の入り口で見張りに立った。


 中で立て篭もっていたのは二人か三人か、それとも四人だろうか。予想外に爆発の影響が大きいせいか、何もかもバラバラになっていてよく分からない。あの女も死んでしまったのかと思うと胃が再び歪みそうになったが、斉藤を助け出すことだけを考えて、ぐっとこらえる。


 だが部屋の中を調べても何も発見できないため、もしかして斉藤も殺してしまったのか、と顔が青ざめ始めたその時、篠田が隣室に繋がるドアを発見した。単に見落としていただけのようだ。


 ドアに鍵はかかっていなかった。おそるおそるドアを開けると、部屋の中ではぐったりとした男が一人、椅子に縛られて座っている。


 男の顔を見て、霧島たちは驚喜した――斉藤だ!!


「おい、おい大丈夫か、しっかりしろ、助けに来た」
 篠田がロープを切り霧島が話しかける。意識が無いせいか目を閉じているが、すぐに斉藤は目を覚ました。生きている。あの女たちは、きっと斉藤の見張り役だったに違いない。そうなると、表の騒ぎでも出て行かない理由の想像がつく。


「あ……うぁ」
 声を忘れてしまったのか口をぱくぱくさせて呻きながら、のっそりとした動きで斉藤が立ち上がろうとする。しかしバランスを崩して転びそうになり、慌てて霧島が抱きとめる。ふと首筋に目が行き、奇妙な点に気がついた。


 斉藤の首筋には、事務用のパンチで開けたような穴が二つ空いていた。もしくは釘を打ち込んで、無理矢理にでも開けたようなものが。ぽっかりと、等間隔で。それが一体何を意味しているのか、脳裏にわだかまるもやもやをなんとかしようと霧島は頑張ったが、思ったほど上手く行かずに、頭の中で不快感を伴いながら揺れ動いていた。


 唐突に斉藤が首を向けると、霧島の首目掛けて噛み付こうとした。うわぁっと悲鳴をあげて斉藤を突き飛ばすが、それはバランスを立て直すと再び向かってこようとした。だが篠田が拳銃を向けると斉藤は動きを止め、濁った瞳で銃口を睨みつける。


 木材さえへし折りそうなもの凄い力をかけられた首をおさえると、微かに痛みが走る。霧島は思った――ゾンビだ、吸血鬼に噛まれた奴はゾンビになる。


「冗談だろ、おい、さいと、う………」


 霧島の呼びかけは斉藤が口からだらだら涎を垂らす様を見て萎んでいった。今や斉藤は狂犬病に罹った犬のようにぐるぐると唸りながら歯と歯をこすりあわせ、飛び掛ってきそうなほど腰を屈めている。こんな状況ではなく仮装パーティーの真っ最中でもあれば笑えたが、この時に笑う者は一人もいなかった。


 ふと、手の中に違和感があることに思い至った。斉藤から視線を逸らさずにその手を見ると、あるべきものがないことに気がついた。――拳銃が無くなっている。


 目線を移すと、斉藤の手の中にはそれが収まっていた。きっちりと、いつでも死をもたらす塊を発射できるそれを握り締めながら、飢えた目で二人を眺めている。


「動くな」
 拳銃を斉藤に向け、篠田が低い声で警告をしたが、斉藤は拳銃を持った手をぶらぶらさせながら、霧島と篠田のどっちかに品定めをしているように、何度も視線を動かしている。今ここで不穏な動きをすれば、すぐにでも斉藤が拳銃を向けてしまうかもしれなく、動くことができない。


 少しの間だけ沈黙が流れ、斉藤の視線は霧島と篠田の間から、篠田一人だけに固定された。篠田が銃を持っていたからか、それとも肉付きが良かったからかは分からないが、とにかくそっちに向いてしまっている。


 今すぐにでも大声を出せば高田がやってくるだろうし、そもそも篠田が引き金を引いてしまえば全てが丸く収まる。だがそうならなかった。二人の喉は時間を止められたように凍りつき、篠田の指も動かなかった。部屋の中は適温だったというのに、汗が一筋顔から流れ落ち、床に落ちる。ここで起きている全てが間違いで、次の瞬間にでも斉藤は元の状態に戻るのではないか、と霧島は微かな希望さえ抱いていた。夢のまた夢のまた夢ぐらいの確率でしかなかったが、そうなることは十分にありえるように思えて、だからこそ決断することが出来なかった。篠田も同じような気持ちなのか? そうかもしれない。だからこそ隣にいるこいつも引き金を引いてこの悪夢を終わらすことができない。


 ああくそ、こんなブラックジョークなんて無いんじゃないか? 人を助けに来たってのに、肝心のそいつが襲ってくるなんて、畜生、どこの映画でも採用しようとしないぞ? 


 沈黙を最初に破ったのは斉藤だった。


「はらが、へった。はらが、へった。はらが、へった。はらが、へった」


 斉藤はぶつぶつと呟き続けていたが、後ろに一歩下がると持っている拳銃を上げ――霧島の頭が真っ白になった――自分の口の中に銃身を突っ込んだ。がぎ、がぎ、と鉄で出来た代物を噛み続けながら斉藤は呟き続ける。その目が涙で潤んでいるように見えたが、果たして本当にそうだったのか、後になっても霧島には分からなかった。


「はらがへったはらがへったはらがへったはらがへった俺はもう駄目だはらがへったさようならこん畜生くそったれめ!!」


 ぼん、と引き金が引かれて、斉藤の身体が崩れ落ちる。篠田と斉藤のどっちが撃ったのか、最初は判然としなかったが、斉藤の手にある拳銃からは煙が立ち上っているのが見えた。後ろの壁には血と脳みそが盛大にこびりつき、その時になって霧島は、斉藤が自害したという事実に思い至った。


 これが何秒程度の出来事だったんだろうと思っている間に、すぐに高田が小銃を構えながら飛び込んできた。手前にいる二人と奥にある死体を見て、状況を図りかねているようだった。だがそのうちに篠田が動くと、高田が身に着けていた無線機をひったくり、泣きそうな声でこう叫んだ。


「作戦失敗! 作戦失敗!! 斉藤は既に死亡、繰り返す斉藤は既に死亡!! 退却せよ退却せよ
 





 退却せよ!! 全員退却!! 急げッ!!』
 無線機から流れてきた声はひとしきりがなりたてた後、自分の意思を伝えて満足しきったかのようにぶつっと切れた。それを聞いた慧音は退却か、とやや自嘲気味に呟く。


 慧音が戦っている場所は、さながら大戦争でも始まったかのようだった。慧音の周りをメイドたちが包囲しつつ、負傷した仲間はすぐに館へと運び、次から次へと増援が湧いて出てくる。一応メイドを殺さない程度に手加減し、尚且つ行動不能になるように力を調整していたが、正直言って数が多すぎる。まさしく質より量、人海戦術もいいところだった。
「六時方向にメイド三体出現!! 攻撃来るぞ!!」という叫びたてるような美村のアドバイスが無ければ、とっくに自分は落とされていただろう。その美村は、島の隅っこにある草むらに隠れているため、どうにかメイド達には見つかっていない。館の中から煌々と照らす明かりによって慧音の姿は浮かび上がっているので、視界にも困らなかった。


 だが真に問題なのはメイドではなく、目の前にいる満身創痍状態の門番だった――そこらのメイドよりも遥かにしぶとく、遥かに頭が回り、遥かに凶暴。服が破れ所々血が噴出しているが、それでも動きに翳りが無く、退こうとも治療しようともしない。全力を叩き込んでいるが、未だに落ちようとはしなかった。一体こいつの何がここまでさせていると言うのか、慧音には分からなかった。


「あんた、……やっぱ強いんだね、こんなに戦ったのは久しぶりだよ」


「そういうお前もな……っと!!」
 槍状に放たれた弾を回避し、その上から被せられた大玉を自分の弾幕で相殺する。後方に流れた弾をメイドたちは辛うじて回避していたが、一人が被弾して落下する。看護役に抱えられて館へと運ばれていった。


「仲間を気遣おうとは思わないのか?」
 目線を美鈴から離そうともせず、慧音が言う。周りにいるメイドたちが不意をつかないよう、全方向に神経をめぐらしてはいたが。何十分程度しか戦っていないというのに、既に三日三晩戦い通したような疲弊ぶりだった。相手の門番もそれは同じようだったが。


「当たるのが悪い…ってとこかな。どうせ代わりは幾らでもいるんだし」


 その言い方に慧音は噴出した。いやはや、いつも館の前で突っ立っている門番と目の前にいるこいつはまるで違う。
「まるで阿修羅だな」


「褒め言葉として受け止めるよ」


 美鈴が姿勢を正して、懐からスペルカードを取り出す。
「最後まで残しておいた、とっておきの一枚。そっちもどう?」


 いいだろう、と慧音も同じく懐から取り出す。その意味は明らかだった――この一枚に全力を込めて、決着をつける。勿論回避なんて野暮なものは無し。普段の慧音ならそんな勝負には乗らないが、囮としての役割や場の空気に押し流されていたこともあり、やってやろうという気になっていた。


 二人がそうした様を見て、被害を恐れたメイドたちが退避しはじめる。美村も真似して退いてくれるといいが、と思ったが、避難するよう口には出さなかった。今の美鈴ならば読唇術も軽くこなしそうだったからだ。


「ラストワード、《無何有浄化》………!」
「彩符《極彩颱風》………!」


 最初に光が来て、次に音が遅れてやってきた。轟音とか轟然とか、そう言った段階は既に越えてしまった。耳が一時的に麻痺し、何も聞こえなくなる。


 紅魔館正門(正確には残骸)は完全な白一色に包まれ、さながら光の地震でも発生したように附近を揺るがし、今日発生した弾幕の中では最も大規模なものであった。美村は風圧によって吹き飛ばされそうになるも近くにあった石垣に飛びついて耐えて、上空にいたメイド達は殆どがちりぢりばらばらに吹っ飛ばされた。


 慧音は全身を刺し貫く凶暴な光に辛うじて耐え延びていたが、すぐ眼前にいる美鈴も同じようだった。自分がここへやってきた目的を一瞬、ほんの一瞬忘れ、互いに見詰め合う。不意に美鈴が笑い、つられてしまって慧音も笑う。耳の辺りに取り付けている無線機は既に光の中で蒸発していた。ふと、こんなに死力を尽くしたのは久しぶりかもしれない、と思った。


 光が果て、半ば真空状態のようになっているその場所で、二人が浮いていた。紅と暗闇が戻り、光によって捻じ曲げられた色彩も元に戻った。だが美鈴は少しの間ふらついた後で、やがて力を失い落下し始めた。意識を失っているのか目を閉じているが、地面に激突する前にメイドの一人が救出し、館へと戻っていった。


 それを見ていた慧音は深く息をつき、辺りの惨状を見回してこれからどうしたものかと思った直後に、耳元で鋭い風切音がした。脳が考えるより早く身体を動かし、寸前の所で心臓を貫くところだったナイフをかわす。


「あら、思ったよりも運動能力が落ちてないのね」
 ナイフの先を注視すると、そこには彼女が立っていた。


 メイド長、十六夜咲夜。


「どうやらうちの門番、相当鬱憤が溜まってたみたいね。あれがこんなに暴れたの、ほんと久しぶりだわ。全く……」
 廃墟も同然の正門を見るメイド長の目に殺気が帯び、いつのまにか二本の手に十本のナイフが握られている。
「どう処理したものかしら」


 まあその前に、と一つ呟き、もったいぶった奇術師のように大きく指を鳴らす。
「はい、一つ目終わり」


 時間を止めたのか、と慧音は思い、メイド長の手からナイフが消えていることに気がついた。だが自分の周りにナイフは来なかった。


 まさか、と思い下を見る。自分の予想が外れているよう、メイド長の行動がただのブラフであることを祈りながら。


 祈りは届かなかった。


 何本ものナイフのせいで地面に縛り付けられていた美村がそこにはあった。


 慧音は声にならない叫びを上げた。






 自分の身に今し方起こったことを、美村自身は理解することができなかった。今までのメイドたちとは違う奴が来たのを見た途端、全身をとんでもない激痛が瞬時に走りぬけ、地面にへばりついたまま動けなくなってしまったからだ。


 体中のあちこちから音を立てて血が噴出していたが、もう美村にはそれが何なのか理解することができない。体中を覆っていった激痛はやがて麻痺感へと変わり、気付けば指先の一本も動かすことができなくなっていた。まばたきが辛うじて出来る程度だった。それととてつもなくか細い呼吸。


 ものすごい速さで慧音が下りてきたが、それは美村の名前を呼ぶ声が近づいてきたから分かった。もう殆ど目が見えなくなっていて、視界は真っ白も良い所だった。天国とはこんな感じの場所じゃないだろうかと想像してみると、なかなかいい気分だった。こんな感覚で行けるなら、結構悪くない。


「死ぬな、美村、死ぬな」
 慧音らしき人物は彼に刺さったナイフ(確かそういう形のものだった気がする)を抜き取ろうと奮闘していた。そんなことをしなくてももう動けないのだから、抜かなくても良いよと言いたかったのだが、生憎と口が動かない。やがて彼は、自分が全ての物事を忘却しはじめていることに気がついた。俺はどうしてこんなところにいる? 俺はここで何をしているんだ? 俺は何がしたくてここにいるんだ? 俺は、……なんだ? 俺って何だ?


 自分にまつわる全ての物事が超高速で飛び退っていく光景が見えて、それから慧音のことを忘れかけている自分にも気がついた。出来うる限りの速度で首を振り、慧音の存在だけは頭の中に留めて置こうと努力する。慧音、慧音、なんとか慧音、上の名前は忘れた。だけどこいつは慧音だ。慧音。他は全て忘れてしまった。何とかという名前の友達がいたかもしれないが、それはもう何とかでしかなかった。形も声も分からなくなってしまっている。


 慧音は何かを喋っていたが、耳の機能も破壊されてしまったのかそれも聞こえない。どうせだから聞き取っておきたいのだけど、どうにも上手くいかない。おいおい、耳元でちゃんと喋ってくれ。


 不意にある光景が頭の中を流れ出した。路地裏、失神した幼女、男。男が誰なのか見分けがつかなかったが、それは自分の中にある記憶なのだということは分かった。幼女、叫び声、口を手で覆い隠して突っ込んで抜いて突っ込んで抜いて無理矢理突っ込んでまた抜いて――


 場面が飛んだ。男のような形をしているものは、女(粘土で出来ているのか形がはっきりしない)から頬をひっぱたかれていた。しゃがみこんだところを蹴られ、蹴られ、最後には携帯を拳に握り締めて殴られる。ああひどいざまだな、と空高くから見ていた美村は笑った。男が誰なのかは分からなかった。


 また飛ぶ。牢獄。建物。刑務所。裁判所。ブレているせいか正確に見分けられない。紙。バス。テント。教官。霧島。ああ、いたなそいつ。


 穴。


 そこまで記憶が飛んだ瞬間、頭の中を強い電流――しかし痛みは全く感じない――が走り、その先へと一気にジャンプする。何か重要なこと、何か大切なこと、何かこれを残しては逝けないこと。


 思い出した。


 霧島という名前の友達と、薄汚れた林の中で話し合ったこと。一緒にいると心が強くなれる気がする人間から励ましてもらったこと。そう、俺は慧音が、慧音が。…慧音が


「けいね」
 喉がおかしいのか、死にそうな犬みたいなうめき声でしか声が出ない。だがメッセージを伝えることはできる。まだ可能なのだ。
「おれ、おお、おれさ、おれ」


 慧音が美村の顔をひっつかみ、至近距離から何がしか言っている。何? 死ぬな? 無理だよ、こんなに血とかだらだら出てるし、心臓とかヤバイし、お前が神様でもどうにもなんないよ。ほんと。いいから話を聞いてくれよ。


「あ、おれ、おれ、おれ、さ――」
 喉のあたりが言葉の渋滞に巻き込まれたようで言葉が出てこない。喉を引き裂いて引きずり出してもいいのだけど、そうできるだけの力はもう無い。手は真っ白になって血が通っていない。


 その時、初めて実感した。俺は死ぬんだ。こんな所で、こんな時に、よく分からないことになって、血がだらだら出て、そうして、俺、死ぬんだ。じわじわとその事実は頭の中に染み込んできたが、恐怖は無かった。ただ血液が流れ出るように、心の内容物がからっぽになることの違和感しかなかった。死ぬってこういうことなのか、へえ。そういや俺は何で死ぬんだ?


 ぽつりと、言葉が零れ落ちた。


「あんたのこと、好きだ」


 それが慧音に届いたのかは分からないが、そんなことは彼にとってどうでも良かった。重要なのは口に出して伝えることであり、それで慧音がどう思おうとも結果がどうなろうと彼にとって知ったことではない。美村は満足した。これほどのものは味わったことが無いほどの満足感だった。生まれてから今までこんな満足感は初めてだった。


 最後にそれをからっぽの心で感じて、美村は死んだ。






 慧音の心は最初、その事実を認めようとしなかった。拒み、拒絶し、無かったことにしようとした。無意識のうちに何度も歴史を塗り替えようとし、何度も何度も試した。


 だが治らなかった。


 美村は致命傷を負い、そして今ではこうなった。人形のようにぐったりとした身体を慧音の腕の中に横たわらせ、だらんと開いた目は空の中を映し出している。彼の目には何も無い。魂は抜けてどこかへ消えうせた。脳は腐敗への短い道のりを歩き出し、心臓は動きを止めて、血液は循環することをやめた。彼の身体は死に屈した。


 彼は死んだ。


「………っっ、!!」


 歯を食いしばり、怒りの末に髪を浮き上がらせ、美村の仇を恐ろしい勢いで睨みつける。その相手は傲岸不遜にも上空で待機したまま、すっと目を細めて何が起きても対応できるよう、慧音の出方を伺っている。吹っ飛ばされていたメイドたちは態勢を立て直し、再包囲を量ろうとしている。このままの状態が続けば一斉放火を浴びるのは明らかだった。


 だがそんなことは、慧音にとってどうでもいいことだった。完全に目的を忘れ、ただただ腕の中で死んでいった人間の復讐をしてやりたいという執念と怨念で心が満たされ、身体が突き動かされる。遺体となった美村を地面の上にそっと横たえると、慧音はメイド長めがけて飛びかかろうとした。刺し違えても殺す積もりだった。


 屋敷の二階部分が轟音とともに爆発したのは、丁度その時だった。


 その刹那、メイド長及び屋敷前方に位置しているメイド全員が爆発に気を取られた時、慧音の頭に冷静な声――落ち着き払って、焦りというものが全く無い声――が囁いた。今がチャンスだ。今がチャンスだ。今がチャンスだ。


 何が? 何がチャンスだというのか?


 勿論、逃げる為のチャンスだった。ここで我を忘れて特攻してしまえば撃墜は確実だったし、そうなってしまえば全てがお終いだった。美村の仇も、自分の命も。


 ほんの一瞬ばかりの間に、慧音の頭は完全に冷え切り、さっきまでの凶暴さは鳴りを潜めている。屋敷を半壊させるほどの大きな爆発が発生している最中、慧音は全速力で美村の死体まで戻って担ぎ上げると、湖の方向へと飛び出した。冷水を浴びせかけられたように怒りの炎は消え、何をすればいいのかハッキリしているように慧音には思えた。


 十六夜咲夜が慧音が不在だということに気付いたのは完全に爆風が治まってから、爆発後十秒ほど後のことだったが、その時には慧音はもう、手の届かない場所へ逃げてしまっていた。
そろそろ物語も佳境に差し掛かってきました。上手くやれればおそらく、明日か明後日には終わりまで投稿することができるかと思われます。
隠密行動や戦闘シーンなどは慣れていないせいか随分奇妙なもののようになってしまいましたが、それでも楽しんでいただければ幸いです。まあそれを言うならば、東方キャラの心情表現も何気に奇妙なものに感じるかもしれませんが^^:
それでは。
復路鵜
http://clannadetc.s56.xrea.com/x/top.html
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コメント



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1.70ZORK削除
>>「あんたのこと、好きだ」

実は、美村が主人公だったんだよ・・・!!
3.100名前が無い程度の能力削除
俺も慧音のためなら死ねる!
9.無評価復路鵜削除
>名前が無い程度の能力さん
死ねるんですかwww

>ZORKさん
ちょwwww主人公死んだことになるよ!!
しかしまあ感動的に死んだなあ美村さんも。
22.無評価名前が無い程度の能力削除
妖精って死んでも司ってるものが無くならない限り復活するんじゃなかったっけ?
チルノも蝦蟇に飲み込まれて消化されてもすぐに復活するし