くつくつ、ことこと。軽くて温かな音を立てて、シチューが煮える。たくさんの野菜とキノコと、それにハーブも入れて、肉は軽く焦げ目をつけてから、下味つけもしっかりで。
甘いエキスを煮出したニンジンと、とろっと裏ごしトマトをベースに、ワインもたっぷり惜しげなく。身体の芯まであたたまる、太陽みたいに赤いスープが、暖炉にかかって煮えていく。ぱちん、と熾の弾ける音が、誘う眠りを追い払う。外はしんしんと降る雪だけれど、だからこそその景色がいっそう暖かい。
そんな、ふわふわでいい匂いの湯気に満ちた部屋の中で、人形達はちょこちょこと動きまわる。
「ほら蓬莱、胡椒はそれじゃないでしょ?その右よ。ああ、それはコリアンダーだってば。…って、上海。食卓の準備はいいんだけど、そろそろ火を見ないと焦げちゃうんじゃない?」
組んだ手にゆったりと顎をのせ、くすくす笑いながらアリスは人形達にあれこれ注意をしていた。一度失敗した方がよく覚えるのかも知れないが、一生懸命な様子が可愛らしくて、つい口出しをしてしまう。
最近、作品に情が移り過ぎているような気もする。魔術師としては、これは失格なのだろう。しかし、自然に頬のゆるむこの感覚は捨てられない。過保護なまでにアリスのことに神経質だった神綺の気持ちが、今はほんの少しだけわかる気がした。いやまあ、神綺の場合はそれにしても過保護だった気もしないでもないのだが。
(してみると、この子達は私の子供ってところかしら?)
思わず苦笑しながら、アリスは上海と蓬莱を見た。すると、彼女(?)らはいつの間にか焦げ始めていた鍋の前で右往左往していた。
「…あらら、ちょっと焦がしちゃったか。ほーら、そんな顔しないの。まだ台無しになったわけじゃないんだから、頑張って立て直してみなさい。私も手伝ったげるから」
「デモ、キノウマデズットジッケンデ、アリスツカレテルノニ…」
しょげきった上海人形の答えを聞いて、アリスは目を丸くした。人形達が夕飯を作りたいと唐突なことを申し出たと思えば、そう言うわけだったのか。人形達の知性には、主のアリスを中心とした行動の優先順位判断が組み込んであるから、アリスを中心とした動きなら当然生まれやすい。しかし、それにしてもいつの間にかここまで人形達の自我が進化していたとは、驚きだ。
頬が過度に緩まないよう、少し意識して顔を引き締めてから、アリスはそっと上海人形を抱き締め、その頭を優しく撫でてやった。
「大丈夫、私はちょっと助けを出すだけだから。やるべきことは、あなた達が自分でやるのよ。…いいわね?」
「ウン!」
まったく、教える役と言うのは難しい。
「…ふぅ」
どうやら後はとろ火でじっくり煮込むばかりとなった台所を後にすると、アリスは書斎でひと息ついていた。紅茶を片手に、お気に入りの安楽椅子をきしりと軋ませ、もう片手を伸ばしてちいさなストーブに薪を足してやる。どうも今夜はよく冷える。ふと窓の外を見ていれば、いつの間にか白い雪がちらついていた。寒いはずだった。彼女は毛織の膝かけを指先の動きひとつで呼び寄せ、椅子をさらにストーブの傍に寄せた。
魔法をちょいちょいと使えばそれで済むのかも知れないが、暖炉やストーブのほうが生活感があって好きだった。私空間に美学のひとつくらい持たなくて、都会派魔法使いたる資格はないと言うものだ。
もちろん、来客の時にその信条のせいで不自由をさせるようでも上等な都会派とは言えないから、その時だけは無駄遣いをいとわずに薪を事前にたっぷりくべておくのだ。
身体を前かがみに丸め、大き目のカフェオレボウルになみなみ注いだ紅茶の熱を、冷え性の手にたっぷりと吸い込んで、静かに啜る。思わずため息が出た。少し書斎にいただけなのに、台所であれだけ温もっていた身体は冷え始めていた。
しかし、寒いからこそこの紅茶の味を味わえる、そう思えば嫌な気分でもなかった。ストーブの熱も室内にようやくと巡り始め、身体がゆるんで行く。
気がつけば、あくびが出始める。上海人形の言ったとおり、最近ろくに寝ていなかったのだから無理もない。まだ調べておきたいこともあったが、とにかく視界がぼやけてどうにもならない、顔でも洗って…などと考えている内に意識がぷつりと途切れた。
「久しぶりね、アリスちゃん」
「お、お母さん!いつこっちに…」
「ちょっと寄っただけよ。あなたにこれを渡そうと思って」
「え、これって…人形?」
「そう。アリスちゃんがお人形が好きだって聞いたから、縫ってみたのよ」
「人形が好きなんじゃなくて、研究のために集めてるんだけどね…まあいいわ、せっかくだからもらっておく」
「ええ、大事にしてね」
アリスは、少し昔の夢を見ていた。そして、自分が夢の中にいると気付いていた。それは、彼女の人形研究が実を結ぶきっかけとなったある日の出来事だった。自律する人形の研究がうまく行かずに悩んでいたアリスに、唐突に尋ねて来た神綺が手縫いの、一対の人形をくれたのだ。
親の手造りの贈り物に、さすがに普段のような危険な実験は出来ず、ましてや爆弾がわりにするわけにも行かず、それらは長い間大事に彼女の部屋に置いてあった。
(…アリス…)
いつだったろう、人形たちの声に気付いたのは。
人形師としての勘に導かれるまま、アリスは彼女らに自らの研究の成果を施した。しかし複雑な実験ではなく、ほんの初歩だけだった。
それなのに、それまでどれだけ苦労しても宿らせることの出来なかった完全な心魂の芽が彼女らには宿ったのだ。
今になって考えてみれば、当然のことだった。そもそも人形というものは人や妖の心への感受性が強く、そこに宿る心魂は感じた心の影響を非常に強く受ける。どんなにまっさらな人形を持って来ても、実験までには魔法使いと接することで何かしらの素地が出来上がっているのだ。
(…ネー、アリス…)
実験材料としてしか人形を見ていない内は、アリスの「欲求」しか人形は受けず、一つの要素だけでは完全な素地は構成出来ない。それが、たまたま余裕を持って扱ったことで、様々な種類の感情が人形に注がれるようになった。だから完全な素地が構成され、実験は成功したのだろう。しかし、当時はそれに気付いていなかった。よほどに余裕がなかったのだろう。余裕がなくなると、自らの足元さえ見えなくなるものだ。
思い返してみると、あの頃使い捨てにしていた人形たちには痛みを感じることなど出来なかったのだが、それでも何とはなしに申し訳なく思ってしまう。実際、彼女らにも魂のかけらはあったのだ。アリスが育ててやれなかっただけで。
(…ツカレテルノカナ…オコサナイホウガイイカモ…)
神綺は、このことを知っていて人形を贈ってくれたのだろうか?おそらくそうだろうとアリスは思っている。しかし、彼女の知る母を鑑みるに、天然という可能性がゼロではないのでけして言い切りはしないが。
(…カゼ、ヒイチャウヨ…)
「…ん」
ふと、肩にかかる布の感触でアリスは目を覚ました。
「…ア、オキチャッタ」
見ると、上海人形が困った顔をしていた。その手には毛布がある。
「…いいのよ、別に。あのままだとたぶん明日まで目が覚めなかったでしょうし。すごくお腹すいたから、ご飯くらいちゃんと食べてから寝たいわ。たぶん、ご飯の時間だから呼びに来てくれたんでしょ?」
小さな頭を撫でてやると、申し訳なさそうに俯いたままこくこくと頷く。その様子があまりに愛らしくて、がばりと抱き上げて頬擦りしてしまう。
魔法使いは常に平静たるべし。つくづく今の自分は魔法使いとしては失格だなと、アリスは苦笑せずにはいられなかった。
「さあ、せっかくのシチューが温かいうちにさっさと案内してちょうだい。業務はすみやかに、って教えたでしょう?」
「ア、ウン」
上海人形の後について廊下に出ると、眠る前よりも更に冷え込んだ空気が身を切り裂いた。そう形容するのがふさわしいほど、温度は下がりきっていた。
「ぶるっ…ずいぶん冷えたものね。チルノあたりがさぞ喜んでそうだわ」
肩かけをきつく巻きつけ、アリスは身体をさすった。窓の外に視線をやると、空も風もすべて静謐な白と灰色に覆われて、宵闇が更に全てを溶かし始めていた。
こういう色合いは何とも静謐で心に優しいものだが、同時に陰鬱で寒々しいものだ。寝起き特有の虚ろさも手伝って、何ともいえない寂しさが彼女の全身を包む。
と、ひと筋の光が、かすかな隙間から漏れ出す温かさが、そんな寂しさを吹き払った。いつの間にか廊下はドアに突き当たり、少し開いたその隙間からは火明かりと、空きっ腹に染み入るような匂いが流れ出していた。
「…あら」
部屋に入って、アリスは驚いた。多少つたないが、部屋が飾り付けてある。飾り付けのセンスなどというものは、流石にまだ…そこまで考えて、ふと彼女は気付いた。確かこの飾りつけ方は、先日読んでやった絵本の中の部屋と同じだ。どうやら、文字通りお手本を引っ張り出してみたらしい。食卓に活けてある…と言っても花瓶に水が入っていない…ヒイラギの小枝を摘み上げ、アリスはくすりと笑った。
「サアアリス、ゴハンダヨー」
鉄板に貼り付けてこんがり焼いた(ちょっと焦げすぎた)パン、クリームから分離したばかりの新鮮なバター、雪の下から掘り出したキャベツやほうれんそう、半熟(しばらく蓋をしたまま放っておけば、まあそうなってくれるだろう)のオムレツ。
いつもアリスが作る通りの、精一杯アリスの真似をしているのがよくわかるメニューが次々と並んでいく。
多少教えただけで、曲りなりにも食卓ひとつを整えられるようになったのだから、人形たちの自己学習は大したものだ。その学習意欲はまだアリスが方向付けをしたためのものに過ぎないが、いずれは学習のための目的を見つけ出すことだろう。そうなった時が、今から楽しみだった。もっとも、人形たちはアリスの行動の全てを学習しようとして観察しているので、うかつなことが出来なくなってしまったが。
そして、最後に、いやに仰々しく、シチューの深皿が運ばれてきた。
皿を抱えている悪戯好きのグランギニョルが、アリスの反応をわくわくと窺っている。そのあまりに手元がお留守になって危なっかしいのを、落ち着きのある西蔵人形がうまく支えていた。
「うん、まずまずね。…もっとも、まだまだ学習は必要だけれど」
焦げたパンを手にとって、アリスは笑いかける。しゅんとしたオルレアン人形の頭を、そんなにへこまないの、と彼女は撫でてやった。オルレアン人形は、恥ずかしげにうつむいていた。どうも、こういった日常に関することでは彼女は成績が悪い。パンを焦がしたのはおそらく彼女だろう。
「さて…それじゃ、いただきます」
シチュー皿の蓋を取ってみると、ふわりと湯気が立ち上った。皿に手を添えると、火傷しそうなほどの熱さが冷え性の指先に心地よかった。銀のスプーンでシチューをそっとかき回すと、それは暖炉の火のように赤く揺らめいた。
その様子を見守る人形たちの視線をくすぐったく感じながら、アリスはスプーンを口に運ぶ。そして、瞑目して沈黙する。たっぷりと間を持たせてから、彼女はにこりと笑った。
「まあ、合格かな?」
まず舌にさっと広がるのは、トマトの大らかな甘み。そして、後から酸味がじわりと染み込んで来る。その土台を煮込んだ野菜と肉の旨みがしっかりと支える。そして、そこに加わった月桂樹やタイムの香味が全体を引き締める。
そんな細かい分析はさておいても、それは美味しかった。シチューとはそもそも単純な料理だけに、作り手の想いが直接味に響いてくる。よほど火に気をつけて、鍋の傍を離れずにじっくりと煮込んだのだろう。材料の味はひとつに融け合い、こくとまろみだけが素直に出ていた。
もちろん、野菜の切り方が下手で型崩れしていたり、胡椒の入れすぎで香味のバランスが悪かったり、塩が利きすぎていたり、ちょっと焦げの匂いがしたり、火をしょっちゅういじったせいで煮え具合がやや悪かったり…程度のことはあるが、それは経験の少なさのせい。これからじっくり仕込んで行けばいい。
そんなようなことを考えていると、アリスはふと何か引っかかるものを感じた。どうも、デジャヴと言うのか、どこかでこの光景に覚えがあるような気がしたのだ。
そんな彼女の姿を水晶に映して、母は遠い魔界で微笑んでいた。
「くすっ…失敗のしかたがアリスちゃんの小さいころそっくりなのね。子は親に似る、かしら?」
「子供を見てる時のにやけっぷりは、確かによく似てますよね」
「あ、あら、夢子ちゃん」
「見終わったら、ちゃんと仕事やってくださいよ?もう」
「はぁい…」
「はふ、はふ…」
都会派としては少々見た目が悪いが、自宅では熱々の料理は急いで食べるのがアリスの基本姿勢だった。社交辞令を使わなくてはならない他者がいるならともかく、料理を最もおいしい内に味わわなくては料理人に失礼にあたるからだ。
「あふ、あつッ…」
口の中でほろりと崩れたジャガイモの熱さに、目から涙が出る。もうほとんど形のない玉葱のとろんとした甘さが、熱にのって全身を駆け巡る。キノコと肉の土の香りが胸にじんと落ちて、身体が大地に快く繋ぎとめられる。
そこにかりりと焼けたライ麦粉のパンが加わって、腰の強いシチューの味を、まるでしっかりした布団のようにどっしりと包み受け止める。
更に、熱さと旨さで鈍くなりそうな舌へ程よく冷たい生野菜がのせられ、しゃきしゃきと爽やかな歯ごたえで気分を変えてくれた。
食べながら、アリスはこっそりと人形たちに視線をやる。すると、どの顔にもややぎこちない満足の表情があった。主人への服従という基本命令に従ったことによる、道具としての満足感、とそれは言えるものだ。それ以上のものにはなりはしない。彼女らは、まだ完全に自律してはいないのだから。
だが、それでよい。心の始まりは常に目的と手段、原因と結果から構成されていくものだ。本質的に、道具の喜びは知的生物のそれと何ら変わりがない。
「ふぅ…ごちそうさま」
アリスが額をそっと拭って息をつくと、倫敦人形と露西亜人形が横合いから緑色のガラス瓶をテーブルに運び、京人形と和蘭人形が切子細工のグラスを掲げた。
「アリス、イツモノハイル?」
「コラ露西亜、自分デ呑ムナ!」
「…あら。それじゃ、頂こうかしらね」
暖炉のそばに椅子を移動させると、アリスはグラスを受け取って軽く揺らした。濃い琥珀色が暖炉の炎を映して黄金色に燃え、華やかな香りが、気だるさで鈍くなりかけた感覚をそっと揺り起こした。
それは、彼女のお気に入り。熱々の食事の後に、暖炉のそばでブランデーをすすり、書物をめくる。賑やかな仲間といては叶わない、一人だけの時間をたまには過ごすのだ。
じわじわと送られる暖炉の熱で体内のシチューが加熱され、ブランデーがそこに火をつけて、アリスの身体はぽかぽかに暖まり、額には汗さえ滲んでいた。
滑らかで敏感な白い肌が、ぱちぱちと弾けてむず痒さを訴えていた。見た目がよくないのは分かっていても、彼女はついつい頭と腕をがりがりと掻き、その気持ちよさを味わいながら、体内にたまり過ぎた熱を思い切り吐き出して深呼吸した。そして、人形たちの視線に気付いてはっと居住まいを正した。彼女は毎回これではいけないと思うのだが、もうすっかり病みつきになってしまっていた。
思い切り伸ばした身体から来る安らぎに埋もれてしまいそうになるのを堪え、眼鏡をかけてじっくりと本を読み始めると、アリスは満足のあまりため息を押え切れなかった。
人形たちはそんなアリスの邪魔をしないよう離れて行き、台所で後片付けを始める。時折ガチャンだとかばしゃんなどという不穏な音が響いたが、今のアリスにはそんな不都合な音は届きはしなかった。
「割ッチャッタ…ドウシヨウ」
「カミカゼガタライニ落チター!」
「怯ムナ!状況ガ悪化スル前ニ立テ直セ!割ッタラ掃除!カミカゼハ箸デモ使ッテ救助セヨ!」
「倫敦、指示ダケジャナクテ手伝ッテ!」
届きはしなかった。あくまで過去形。アリスはゆっくりと本を脇にやると、手で顔を覆ってため息をつき、重い腰を上げて台所に入って行ったのだった。
そんな喧騒を覆い尽くそうとするかのように外の雪はいよいよ深く、いっそう静かに降り続いていたが、この室内には寒さは忍び込めはしない。魔を祓う音と言うものがあるが、寒気の魔は、賑やかな話し声や炭の弾ける音、鍋の煮える音が大嫌いなのだ。(どうも、幻想郷の寒気の妖はそうでもないらしいが)人がたくさん集まって話すと、すぐに熱気を帯びるのはその一例だ。だから、雪は音を吸ってことさら静寂を生む。今までの音にすっかり打ち払われて、寒気の魔はもはや外でただ無念そうに室内を窺っているだけだった。
やがて眠りの静寂が訪れた時に、魔はようやく室内に入ることを許されて、打ち払われたことに憤りながら室内を飛び回ることとなる。しかし、それはベッドのぬくみを更に心地よく彩る恵みともなるのだ。魔の真意は知らず、アリスは翌日、心地よい目覚めを迎えるに違いない。もっとも、ベッドから出たくはなくなるだろうが…。
アリスのシチュー食いてぇぇぇぇ!!
この雰囲気はええわぁ…
とても暖かいお話でした、ごちそうさま。
だがしかし、最後のアリスが眠ってからの話に引かれてしまった俺はどうすれば( ´Д`)
これも某SSの影響か?
>魔術師っぽくなさすぎになってしまったかな?
そんなことないよ。色々な具材を集めて煮込み、中和・調和させてひとつの料理にするという行為は魔術生成や錬金術に通じるものがあるしね。
某アトリエシリーズでもシチュー調合してたし。
もしもこのSSの目的が「読者に空腹感を起こさせること」だとしたら、それはほぼ完璧な成果を挙げたといえるでしょう。
今作れるものといえば・・・カップラーメンorz
ほんわかとした雰囲気の中でアリスと人形の日常の一こまが描かれている感じがします。
ほのぼのとさせていただきました。
ごちそうさまです。