※グロテスクな表現が一部使われております。※
霧島が住んでいた家は平凡な四人家族だった。父親、母親、霧島、そして弟。猫の額ほどの庭を持ち、車を一台所有した家族は住宅街の真ん中に居を構え、まさしく日本における普通の家族として平凡な暮らしを営んでいた。父親は外で働き、母親は家の中で家事全般を担当する。
一つ違うのは、弟の権力は兄である霧島よりも遥かに上だった。
幼い頃から、何故か霧島とその弟は差別され続けた。霧島の顔が気に入らなかったのかもしれないし、性格かもしれないし、弟よりも背が低いという体格が両親の目には不快に写ったのかもしれない。霧島には家族が破滅する最後の最後までその理由が分からなかった。
おやつの時は霧島のクッキーが二つ、弟は五つ。ご飯のおかわりも弟が優先され、霧島が頼んだ時には兄なんだから我慢しろと言われた。弟は小さい頃から十二分にその権利を享受し、幼い時分の霧島は兄とはこんなにも我慢しなければいけないのか、と不思議に思ったものだった。社会の時間にアラビア人について学んだ時は、アラブとかは大家族らしいから、一番末っ子が一番偉い地位に立って、一番上の兄は家の掃除係に違いないんだろうなあ、と勝手に考えたものだった。後でその考えは払拭されたが、しかし一部の有名な家庭がそうであって、八割方は自分の考えが正しいに違いないという考えは変えなかった。それくらい自分の中にその考えは染み付いていた。
兄は小学六年生で、運動は苦手、勉強は平凡、性格は大人しく、動くよりも家でテレビや本を読む方が好きなインドア派だった。それに対して弟は小学四年生、運動はクラスで一番、勉強はそれほど机に向かう姿を見かけたわけではないのに、いつも百点か九十点を取っていた。アウトドア派であり、いつも友達と遊びに出かけていた。弟ばかりが両親から褒められ、霧島は何も言われなかった。そのことを面白くないとは思ったものの、だからと言ってどうすればいいのか霧島には分からなかった。弟をいじめるなんて事は思いつきさえしなかった。
中学になってから、益々差は顕著になっていった。
弟は部活で大活躍、クラスの人気者であり、テストは常に学年上位をキープし続けた。霧島は学業、運動共に相変わらずであり、周りからはとろい奴というあだ名をつけられていた。恥ずかしいからそんなことを両親には話さなかったし、両親は弟の話ばかり聞いて霧島の話にあまり耳を傾けなかった。近所の人も弟が偉大な指導者であるようにちやほやしているのだが、霧島に対する対応は何故かそっけなかった。ただ霧島は、そういうものなんだろうなあ、ぐらいにしか推測することができなかった。自分に非があるとしても、どうすればいいのか分からないしあまりに虚しかったからだ。ただ考えないことにした。
それでも兄として自分はよくやっている、と霧島は思っていた。家の中や図書館で常に本を読んでいるから弟が知らないことをたくさん知っているし、両親に相手にされなくても弟はよく話し相手になってくれた。問題は、部活が忙しすぎて弟があまり家にいないことだった。そこでも弟はリーダーシップを思う存分発揮し、三年生の時分には全国大会に行ったこともある。両親が会場まで行って弟の応援をする間、霧島は図書館で本を読んでいた。
兄としての威厳も崩れ始めたのは、高校生からだった。既に弟は霧島の部屋に勝手に入るようになっていたし、好きな本を勝手に取っていったから、兄と弟の知識においての差分はなくなりかけていた。それどころか兄を上回ろうとしており、弟の脳みその中に兄の脳みそがすっぽりと入るのではないのかと思えるほどだった。霧島が弟の部屋に入ろうとしても激しく両親や弟から非難されたし(弟の所業については何故か一言も出てこなかった)、留守番をしている時にこっそり入ったとしても、目ぼしい物は見つからなかった。たまに忘れていったのか携帯電話を見つけることができたが、そこまでいってはやりすぎだと思って放置した。
兄は県立の高校に進み、弟は高い学費を出して私立に入った。そこでも弟はすくすくとクラスでの地位を伸ばしていき、兄は変わらなかった。普通に勉強して、普通にスポーツして、自慰することを覚えた。その頃の弟にはもう彼女が出来ていた。何回か隣の部屋でベッドがギシギシ言う音を聞いたことがある。弟のそれについて両親は何も言わなかった。
ある時部屋で本を読んでいた霧島が水を飲みたくなって居間に下りると、弟と両親が真剣に話し合いをしていた。霧島の目には、テーブルに広げられたものが大学のパンフレットに見えた。あそこがいい、いやそれよりもあっちのほうがいいかもしれない、と彼らは話し合っていた。
霧島が大学に行くなんて話はちっとも聞いたことが無かった。進路自体もまともに聞かれたことが無かった。
次の日から霧島は、両親と時間を過ごすのが苦痛になりはじめた。そんなに弟のことが大切なら、こんなところにいたくなんかないと思った。後で気付いたが、本当にこの家の中で霧島の存在価値は無かった。無いも同然だった。
霧島は、今度から夕飯は部屋に持ってきて欲しい、と母親に頼んだ。これで母親は困るだろうし、もしかしたら自分のことで何かの反応を得られるかもしれないと思ったからだが、それに反して彼女は何も反論せず、平然と霧島の部屋に夕飯が入った盆を持ってきた。呆然として下を覗くと、家族が和気藹々と話し合っている声が聞こえた。次の旅行はどこに行こう? そうだね、前は東京に行ったし、夏休みに北海道にでも行こうか。ねえねえ、私前から遠野って場所に目をつけてたの。一回行ってみない?
彼は東京なんて行ったことが無かった。以前に両親から三日間留守番してくれ、と頼まれて残ったことならあった。修学旅行ですら東京には行った事が無かった。遠野? なんだそこは? 柳田なんとかという作家が書いた小説が真っ先に思い浮かぶ。彼が覚えているのは、マヨイガという家だか屋敷だか分からない場所で、そこに入ると二度と戻ってくることができないが、もしも品物を持ち帰ることができれば幸運になる、という概念だった。何だか面白くも無かったので、そんな本はすぐに図書室内の本棚に仕舞った。
心の中を寒々しい風が一挙に吹き抜けて、彼は今更に自分がいる環境が恐ろしくなりはじめた。下にいる家族は、ドラマや漫画で見る家族という概念からは全く違っていた。かけはなれていた。次元がずれていた。何とでも言えるが、とにかく違っていた。異常だと言えるほど異なっていた。
その夜、霧島は布団を被って泣いた。夕飯は二階の窓から捨てた。下からはテレビかラジオか、真面目ぶった声で「では、やはりアメリカが月面に着陸した際に月兎という宇宙人を実は発見しており、彼らは知能を持った月兎を捕らえ、実験体にしていると。そういうことですね?」はいそうです、ともう一つ、真面目ぶった顔の声が答えていた。彼らはそんなことなど存在しないかのように振舞っていますが、そうではありません。彼らはエイリアンを捕獲しているのです。うんたらかんたら。
霧島が家の中で隔離生活を送り始めたころ、弟の様子が変わり始めた。
弟は、霧島の財布から金を抜き取るようになった。
最初にそれが発生したのは、二千円札が無くなったことからだった。外出する際に財布の中を見たら、二千円札が無く、千円札一枚しかなかった。両親や弟に聞いても知らない、の一言で済まされた。
次に金が無くなったのは三日後だった。両親が親戚の法事で出かけ、弟と家で留守番していた時のことだった。コンビニに行こうと思って部屋に入って財布を見ると、三枚あった千円札が無くなっていた。両親が出かける寸前に学校から帰ってきた時、霧島は財布を机の上に乗せた。その時中身はきちんとあった。もし泥棒が入ったとしても、そんなちゃちな額だけで済ますわけが無い。
弟だ、と彼は直感した。霧島と弟が居間にいる時、弟は一回だけ二階に上って行ったからだ。
決然とした態度で叱る決心をすると居間に下りて、テレビを見ていた弟に話しかけた。お前、俺の金取らなかったか?
「ああ、取ったよ」と軽い調子で弟は言った。先日尋ねた時の様子とは大違いで、こっちの目を見ようともしなかった。もしかしたら、両親のご機嫌を取ろうと以前は嘘をついたのかもしれない。両親は弟の言うことなら無条件に信じるが、霧島から出てきた情報は最初に疑問を向けたからだ。
「ちょっと欲しい写真集あったから」
何の躊躇いも無く言ってのけたことに驚いて、もしも惚けた時にはどういう追求をしてやろうかと考えていた思考が止まった。
それでも何とか考えをまとめると、霧島は弟を咎めた。そんなことやめろよ、俺の金なんだから、お前が取っていいはずないだろ、返せ。
「うるせえ」
言い放つと顔をこっちに向けた。まるでハエかアリでも見るような、蔑んだ目つきだった。
「お前なんかよりも俺がもっと良い使い方してやるよ。黙ってどっか行け、このウスノロ」
何を言われたのか、一瞬分からなかった。その言葉がようやく理解できた時、霧島はヤカンみたいに顔を真っ赤にして、手元にあったリモコンを投げつけようとした。弟が驚いた調子で顔を隠したのを見て、自分が何をしようとしたのか気がついた。もうリモコンを投げつける気にはなれずに、すっと下ろす。
弟は少しの間硬直したようにそのままでいたが、おそるおそる腕を下ろすと物凄い形相で霧島を睨みつけた。すぐに立ち上がると、リモコンをテーブルに下ろした霧島の腹を蹴り飛ばした。げぇ、と呻いて転がった霧島の頭をグーで殴りつけてもう一回、今度は尻を蹴った。ものすごい痛みと痺れが全身を一瞬にして支配し、耐えられなくて霧島は悲鳴をあげた。殺されるかもしれないと慌てて弟から離れると、二階への階段を四つん這いで駆け上がった。背後で「人の事コケにすんじゃねぇよ、この蛆虫野郎!!」と怒鳴り散らす声が聞こえたが痛くてそれどころではなかった。
部屋に入るとタオルを探して、それを頭に押し当てた。殴られた所がずきずき痛み始め、腹のあたりが今更に気持ち悪くなった。尻の辺りは他が痛くてあまり気にならなかったが、それでも痺れのような麻痺のようなものが存在していた。
ベッドに横になると、痛くて痛くて霧島はすすり泣き始めた。枕で顔を押さえる。
一体俺が何をしたんだ? 何で弟に金を取られて殴られなきゃならないんだ? どうしてこんなことになっちまったんだ? 俺は悪いことを何もしてないのに、どうしてこうなったんだ?
ゲロを吐いたのは一回だけだった。
夜遅くに両親が帰ってきたが、霧島の部屋には入らなかった。翌朝、弟と両親は何事も無かったかのように話をしていた。殴られた頭はそれほど腫れなかったから学校に行くことにしたが、その際霧島の泣きはらしたような顔を見ても、誰も何も言わなかった。霧島も無言だったし、弟は目さえ合わせようとしなかった。
その朝から、霧島にとって家族は敵意と策謀と軽蔑と侮蔑の象徴になった。
彼は家族を信用することをやめた。
うさ晴らしに動物を殺そうとしてみたが、どうしても出来なかった。夜になった時に遠くの町に行って犬を捕まえてふんじばり、バットを振り上げたとしても、ひゃんひゃんと悲鳴をあげる姿を目にすれば犬の姿が尻を蹴られた自分と重なってしまい、もうできなかった。まるで自分があの弟にすらなってしまったようで、軽い吐き気さえ覚えた。失意の手でロープを解くと犬は一目散に逃げていき、後には霧島だけが残された。それきり彼はその町に行かなくなった。
代わりに彼は、夜遅くに川へ石を投げることで我慢した。川面を弟の顔だと思って、一心にぶん投げ続けた。その時霧島は、世界とはこういうものだということに気がついた。
何事も上辺だけは丁寧に整えており、どんな悪魔でも自分のことを悪くは言わないものなのだ。何もかも表と裏の顔を併せ持っている。例えば、大通りですぐ横を通り過ぎた人が夜な夜な自分の子供をレイプしていないなんて確かな証拠があるだろうか? ない。少なくとも判断ができるはずがない。
そういうものだ。世界とは、欺瞞と疑惑と嘲笑と羞恥が寄り集まって完成した芸術品だ。みんなそこで苦しみながら生きて、苦しみながら死んでいく。マンションや豪邸に住める人間なんてほんの一部だ、彼らは運が良かっただけだ。
そして霧島には運が無かった。
数ヶ月して、彼は高校を卒業した。貰った日に卒業証書は部屋の隅っこに放り投げ、両親は卒業について触れようとしなかった。こんなものを使う日がやってくるとは思えなかったし、実際その通りだった。霧島はその日からフリーターになった。何でもいいからバイトというバイトを探し回って、無難なところで本屋に落ち着いた。工場勤務なども選択範囲にはあったが、自分の体力が保つか不安だったから取りやめた。
今や家の中でも油断がならなかった。手製の鍵をドアに取り付けて、家に帰ると彼は真っ先に部屋に入り、鍵を閉めた。飯は大体外で買ってきた(たまに深夜、台所からくすねた)し、トイレに行く時も部屋に入られないようにすぐさま済ませるようにした。家族とは敵であるのだから、一瞬たりとも無防備な背中を見せるわけにはいかない。そうすれば蹴られるかもしれないし、殴られるかもしれない。ひょっとしたらナイフで刺されることだってありえるのだ。
お金を溜めたら一人暮らしをはじめようと固く決意していたため、彼は身を粉にして働き続けた。両親には一切頼ることなく、不動産のパンフレットをもらったり、家事の本を読んで独学で学ぶことを始めた。アパートに持っていく家財道具は何がいいか、そういうのを空想したりもした。そういったことをしている間は家族と関わらなくて済むから気が楽だった。君さ、バイト先にいっそのこと住んだら? と熱心に働き続ける霧島に冗談半分で従業員に言ったが、それについて彼は本気で検討した。
未だに弟は無断で金を盗用していたが、これ以上言っても無駄だろうと思ったし殴られるのも嫌だったので、彼はもう何も言わなかった。財布の中には極々少量しか入れなかったし、バイトで溜めた金はすぐに現金にして部屋の隅っこの、切れた壁紙の裏に隠してあり、そこには物を置いて見えないようにしていた。彼はその場所に絶対の自信を持っていた。ここならば誰かに見つかることもないだろう。
それに通帳の中身を現金化した理由は、徐々に膨らんでいく封筒の中身を見るのが楽しかったからだ。通帳の数字を眺めるよりも、実際に手にとって確かめる方が良かった。それは夢を叶えるための部品であり、必要とするだけ溜めればここから脱出することができる。あとどれくらい、あとどれくらいと考えるとうきうきして、思わずベッドの上で金を抱きしめた。
ミミズが這うような感覚で一週間、一ヶ月と経ち、半年が経過し、人生で最も長い一年がやがて経った。弟は高校を卒業して、熾烈な受験戦争の外側を悠々と踏破し、推薦入試で大学に入った。その頃は両親や友人達と毎夜毎夜パーティーをしていたが、同じ頃に霧島はバイト先で文庫本の整理をしたり、レジで現金の清算をしていた。内心弟が大学に落ちれば良いと思っていたから、家に帰ったときに居間のテーブルに載っていた合格証明書を見た時は無意識に顔が落胆へと変わった。
その頃にはもう、霧島の資金はかなりの額が溜まっていた。もうそろそろ百万を越しそうだったため、次の給料日が来たらバイトを休んでアパートを探す気でいた。アパート! 自分だけの場所、自分だけの城、まさに聖域と呼べる場所。考えるだけでこれほど心が嬉しくなることは他に無いに違いない。
給料日までの遠く長く、地平線の向こうのように見えた距離が徐々に縮まっていき、とうとう待ち望んだ給料日がやってきた。霧島は金を手にし、家への道程を急いだ。明日にはアパートを探して、明後日か明々後日には住めるところが見つかるかもしれない。そうすれば……そうすれば、俺は、自由だ。
帰り道ではアパートに移ったら最初に何をしようとか、どんな本を揃えようかとか、そんなことばかり考えていた。敵がいない環境で生活することは彼にとって夢のようなものだったから、努力して隠そうとしても顔がにやけてしまった。誰も見ていないことを確認すると、星空に向けてガッツポーズを取った。
部屋の中で弟が封筒を手にしているのを見た時、それらの夢はたちまち崩れ落ちた。否、建設途中のビルに飛行機とかスペースシャトルが突入してきたような、それ以上の破壊的な衝撃があった。今目にしている光景が理解できずに顔を擦る。そのまま変わらなかった。
「よ、お疲れさん」
霧島にとってあまりにも、あまりにも特別な意味を持った封筒をぽんぽんと手ではたきつつ彼が言った。触るな、と彼は思った。それから呪い始めた。お前なんかがそれに触るなお前なんか消えてしまえ死んでしまえ破壊されてしまえ崩れてしまえ細切れにされてしまえこの世から消えてなくな
「入学祝いに車でも買おうと思ってたんだけどさ、あんまり余裕無かったんだよ。悪いね」
笑顔で弟は霧島の肩を叩くと、笑いながら部屋を出て行った。ま、そういうことで。あっはははははははははははははは。
笑い声が部屋から廊下に響き、階下に下りていき、やがて消えた。奈落の底に消えていくみたいだった。
この時何をするべきか、何をしたいのか、何をしなければいけないのかはすぐに霧島の頭に浮かぶ。それは最初から分かっていた。というか分かっていてもあえて考えようとはしなかった。最もしてはいけない方法として心の中で封殺していた代物だった。
あの金はただの金ではなかった。霧島にとっての夢であり、希望であり、自由の象徴であり、脱出するための片道チケットだった。
それを、何に使う? 車? 買い物? あいつなんかの買い物? 悪魔が何を買う? 三つ又か? 地獄への切符か?
また盗られるのか?
あの時と同じく盗まれて文句を言って、殴られて泣きながら部屋に戻るのか? めそめそ泣いて金を奪われて、また獄中で長い時間を過ごすのか? このまま一生あいつなんかの奴隷になって過ごす積もりか?
彼は心に問いかけた。すぐに返答が帰ってきた。
糞食らえだ。
埃を被った筆箱から鉛筆を取り出すと、気取られないように音を立てずゆっくり階段を下りていった。居間に入ると、弟はこっちに背を向けてソファに座っていた。その音からして金を数えているんだろう。あの腐った蝿がたかるような指で大切な金を今まさに汚そうとしている。許せる筈が無い。許されざることだ。今すぐやめさせろ。
そいつに触るな。霧島は声に出さずに呟いた。弟は聞こえず、馬鹿みたいに金を数えることに無心していた。
「きゅー…じゅう。おーすげえ、百万はあるぜ。こんぐらいありゃ何が買えるかなあ。トヨタ…ミツビシ…んーどこの買ったもんかな、迷う迷う。あの馬鹿でも結構溜められるもんだなー」
弟が何かを言っていたが、最早彼には聞こえなかった。これ以上傍観するわけにもいかなかったので、行動を起こすことにした。
鉛筆を振り上げると、何にも気付かない馬鹿で愚図な弟の延髄に突き刺した。げ、と弟が呻き、ばさばさと金を取り落とした。霧島は両手で拳を作ると、今までの恨みと金に手を触れられたことへの怒りを十二分に込めて、弟の後ろ頭を思い切り殴りつけた。ソファから前のめりに弟が倒れ、テーブルに頭をぶつけた。起き上がらないうちに霧島は急いで台所に行き、切れ味が良さそうな包丁を取ってきた。
戻ると、彼は弟を刺し始めた。
十五分掛けた。
途中で悲鳴の類は上がらなかった。
気がつくと、弟の身体は真っ赤だった。身体、胴体、両手両足全てに穴が開き、床や天井カーテンと部屋が赤に彩られている。霧島の身体も血みどろだった。返り血がひどく、手はもう最初から赤かったようだった。
弟の死体を無造作に蹴り飛ばすと、霧島は床に落ちた金を手に取り枚数を数え始めた。きちんと全額あった。二階にあるあれと合わせれば、ここから出るのに十分な額があるだろう。血に汚れたそれが痛まないようにそっとテーブルの上に置いた。
だが問題があった。彼は二度と動かない弟を見下ろした。目玉に包丁が突き刺してあった。
日本の警察は優秀だ、このままでは自分は逮捕されるに違いない。ならどうする? こいつを殺して尚且つ警察の目につくことなくまともな生活を送るにはどうすればいいか?
パッと思いついた。テレビや新聞でよく見たことがある、精神異常者の犯行に見せかければいいのだ。そうすれば霧島は精神病院に入れられ、何年かそこで過ごした後で日常に戻ることができる。逮捕した人間の家具や金を没収するなんて聞いたことがないから、きっと家の中に保管しておかれるに違いない。何年かロスしてしまうのは残念だが、刑務所に入れられるよりかはマシだ。そこでは全てがどん底だ、何もかも台無しになってしまう。
となると、そのためにどうすればいいか? 精神異常者とはこういう時に何をする人物なのか?
少し思案してからかがみこむと、弟の両手両足の指を切り取った。どつん、どつんと音をたてて、全体重をかけて一本ずつ切断していく。汗を掻きながら根気の要る作業をこなすと、全部で二十本あったそれをどうすればいいか分からないから、電子レンジの中に放り込み、適当にタイマーをセットして起動させる。ブスブスブスという音と鼻が曲がる臭いがしはじめたから、応急処置としてタオルを何枚か被せた。少なくとも見かけはマシになったし、臭いも幾ばくかは軽減された気がする。
ついでに死体でも食った方がいいかと思ったが、それは流石にしたくなかった。こんな奴を食うなんて御免だったし、食いきれる自信は正直無い。
異音が響く一階でやることは終えたと思ったので、二階に行くと弟の部屋から異臭がする布団を取ってきた。自分の部屋のものでなかったのは、こいつのために自分の布団を使いたくないからだ。悪臭がする布団を引きずっていき、狭い庭の上で広げた。倉庫代わりに使われている隅の物置から灯油を取り出すと、まんべんなく布団にぶっかける。無理矢理重たい死体を引きずってくると、べとべとする布団で包みこんでライターで火をつけた。表面へと一気に炎が広がり、中身が燃え始めた。どっちにしろ悪臭がしたので、霧島は肩を竦めて鼻をつまんだ。やれやれ、暫く誰も家には住めそうに無いな。
居間に戻ってから悪臭を防ぐために庭の戸を閉めると、他に足りないものはないだろうか、と霧島は考え始めた。これだけ細工してもまだ足りないような気がする。だとすれば何をしたらいいか………
女性の騒々しい悲鳴で霧島は我に帰った。部屋の入り口を見ると、母親が息子の姿を見てへたりこんでいる。足腰が震えているところを見ると、どうやら腰が抜けているらしい。彼女は今にも失禁してしまいそうに見えた。母親を見た時、ふと両親二人は用事で外に出ていたことを思い出した。
そこでピンときた。足りないものはこれだったのだ。
両親を殺せばいい。
躊躇いとか、同情とかそういうものは一切湧いてこなかった。両親は常に弟の味方をしてきたし、霧島の肩を持ったのはそれこそ小さい頃ぐらいだった。今ではもう両親は人間ではなく、弟と同類かもっと下等な生物のように見えていた。
既に抜き取っておいた包丁を手に近づくと、放心状態みたいに呆然としている母親の肩を突き刺した。ギャッと豚みたいな悲鳴をあげて這いずりながら逃げ始める。フローリングの床をじわじわと尿が濡らしていった。おかしいな、と霧島は首をひねった。一撃で殺そうと思ったのに、手元が狂ったのだろうか。
どういうわけか元来た玄関には向かわず、逃げ場も武器も無い風呂場へと母親は逃げ込んだようだった。どうせ追いつくのだからとのろのろ追いかける霧島の目の前で鍵をかけると、それこそ狂人みたいな声色で母親が叫び始める。確か窓が空いていたから、このままでは騒ぎを聞きつけて近所の人が来てしまうだろう。それに気付いた霧島は行動を起こした。
居間から椅子を持ってくると、それを構えて風呂場の戸に体当たりしはじめる。
一回、ドン。二回、ドン。三回、ドン、四回目、ガシャン。
彼は突入した。
一分後、母親だったものは息子に引きずられながら風呂場から出てきた。心臓やわき腹の場所から血が染み出しており、包丁が腹に突き刺さっている。まだ叫ぼうとするように口が半開きになっていた。
とりあえず母親をテーブルの上に乗せて適当に生クリームや砂糖にマヨネーズをぱらつかせていると(警察が儀式か何かを行なったのではないかと予測させるためにやっていた。精神異常者は大抵何かの宗教に被れているに違いないからだ)、彼は父親が帰ってくるのを待った。一分、来ない。五分。来ない。十分。来ない。三十分、声とともに玄関の開く音。
今頃彼はどんなことを考えながら靴を脱いでいるのだろう、と思った。弟が居間でテレビを見ている様子? 母親が夕食の準備に手をつけている様子? 二人揃って夕飯を作ろうとしているのかもしれない。
確実に言えることは、彼の頭の中に霧島の姿は無いだろうということだ。奥歯をぐっと噛み締め、改めて殺意を漲らせる。奴らは敵だ、俺は敵を殺さなければいけない。そうしないとこっちが殺されてしまう。
死角になって見えない場所から包丁を構えて、何も知らない父親が入ってきた所で包丁ごと背中から体当たりした。何も叫ばず反応をせず、どたーんと盛大な音を立てて父親が倒れて、そのまま動かなくなった。あまりに呆気なさ過ぎて本当に死んでいるのか心配になってきたため、台所からあるだけの包丁を持ってくると、首、背中、心臓に一本ずつ突き刺した。ついでに小便をかけてみたが、やはり動かなかった。もう死んでいるのだ。
ようやく成し遂げることができたようだった。
死屍累々とも修羅場ともキリングフィールドとも言えるこの場で、霧島は血まみれの椅子に座り込んで盛大なため息をついた。喉が渇いたので台所に行き、手を洗ってから水を飲んだ。もしかしたら蛇口から血液が流れ出るのではないかと心配になったが、ちゃんとした水が出てきてほっとした。
念には念を入れるべきだ、と霧島は思い、父親の部屋に行くと未使用のスーツを見つけ、血で汚れた自分の服を脱いで身に着けた。ネクタイはやり方が分からなかったのでつけなかったが、これで大分奇妙な状況になっただろう自分でも考えた。犯人はスーツ姿の男、被害者は三人、一人は庭で布団に包まれて燃やされており、母親は儀式の生贄に選ばれたのか、テーブルの上に乗せられ様々な物質が付着している。父親はまるでハリネズミのような惨状を呈している。
完璧な精神異常者だ。彼は確信した。これで俺は異常者になれるに違いない。精神病院行きは絶対だ。
彼はもう一度台所に立って水を飲んだ。弟を殺した時にはあれほど興奮していたものが、今では驚くほど落ち着いている。心臓の鼓動も平時にまで穏やかになり、疲れているのか目の前が少しふらふらする。やることはやった、果報は寝て待て、というのはこういうのを言うんだろうか。ついでにレンジの中をみると、良い感じにちりちりした臭いを発する指が二十本入っていた。皿に盛り付けてテーブルの上に置いてから調味料を適当にまぶす。
そのまま一時間、友人とか近所の人を待ったが、誰も来なかった。家族のうちの誰かと約束した人間も、母親の叫びを聞きつけた人間もいなかったらしい。まだ誰かが出歩いていてもおかしくない時間だというのに、住宅街の真ん中で煙が立ち上っていても誰も気に掛けないとは。一体現代人の頭の中はどうなっているんだ?
腹が立ったので弟の携帯電話を壁に投げつけたり本をレンジの中に放り込んだりしていたが、とうとう痺れを切らせた彼は、自分で警察を呼ぶことにした。そっちが来ないならこっちから呼んでやろうじゃないか。
受話器を取って、適当な理由で警察官を家に寄越すよう言った。あーもしもし警察ですか? ちょっと家の中が大変なことになってしまっているので、ちょっと警官を呼んでください。ええ、できれば銃とか持っている人を寄越した方がいいです、はい。ああそれと、なるべく早くきてくださいね。ほんと。
住所や名前を聞かれたが告げるのが面倒くさくなり、苛立って彼は受話器を置いた。病院から戻ったら買い換えようと思っていたので、電話機は床に思い切って叩きつける。どうせ誰かが掃除してくれるだろう。
そのまま待っていると、十五分程して警察官が呼び鈴を押した。彼は無視して待った。二回三回と鳴り、ドアが開く音が聞こえた。誰かいらっしゃいませんかー? と玄関口から告げる声も聞こえてきて、彼は噴出しそうになった。誰もいませんよ、死体ならたくさんいますよ? あはははははははははははっはははっははははははは。
あがってくださーい、と彼は大声を出した。警察官たちの声は何も聞こえなかったが、少しして部屋のドアが開いた。二人いた警察官は両方とも顔を強張らせて、目の前にいる霧島を見た。何を言ったら良いか咄嗟に思いつかなかったから、コップの水を掲げてこう言った。
「まあ、くつろいでください」
その後に関しては分かりきっていた。
逮捕、連れて行かれた交番での事情聴取、警察署への移送そして今度は刑事による事情聴取、留置所、検察による起訴、そして裁判。
裁判の直前に霧島は、ある部屋に連れて来られた。その中では白衣を着た男が一人居て、私は精神科医です、と自己紹介をした。それを聞いて霧島はほっとした、自分が狂人であるとみんなが思っている(少なくとも一般市民は)ということが分かったからだ。留置場にいる間に考え抜いた言葉をきちんと言うことができるか、言うべき事が詰まってしまいわけのわからない単語が飛び出さないかと思い、心臓の鼓動が一段と速くなった。ここが試練の時だった。
護送してきた警察官が部屋の外で待機して二人きりになると、犯行以前の経歴について様々なことを尋ねられた。病気の経験は? 何日間も頭痛に悩まされるといったことは? 人には見えないものが見えたりすることは? もしくは聞こえないものが聞こえたりとかは? 日頃自分の中では非常に重い悩みを抱えていたということは? そして誰かに自分の悩みを打ち明けられなかったということは? 等等。予期しているものもあれば、予期していないような突飛な質問もそこにはあった。
それらの質問に、霧島はできるだけ精神異常者ととられるように答えた。即答するのも不自然かと思い、表面上は少し悩んでから答えた。はい、頭痛はありません。ですが幻覚ならたまにありました。幻聴は一回だけ、具体的な事柄で悩んでいたことはありませんが、自分でもああ、ストレスが溜まってるなあと感じることはありました。もしかしたら幻覚はそのせいなのかもしれません。
長々と話をしたと思ったが、一体どれくらいの時間話し続けたのか霧島はもう覚えていなかった。二時間かもしれないし、五時間かもしれない。もしかすれば二十分程度だったかもしれなかった。部屋を出た後は疲れ果てたせいなのか、大して覚えていない。
二回目に精神科医と会った時、犯行について尋ねられると(というより、犯行について霧島が思い出そうとすると)質問に答えることが途端にできなくなった。これまでで予期したことのない方面から吐き気や頭痛が襲来し、その度に霧島の脳みそを占拠したため、何回も話は中断せざるを得なかった。事情聴取や尋問の時には全く見られなかった症状のため、霧島自身にとっても訳が分からなく、それは理不尽で恐ろしいものだった。もしかしたら人を殺した罰が自分に当たったのかと思い、このまま死ぬかもしれないと内心怯えはじめていた。身に覚えのない身体の変調が起きることがあれば、何だって起き得る。
何回かそういう症状を経験した後で、精神科医は霧島の中で発生したこの症状を、犯行によるショックのせいで発生したトラウマだと認定した。だがそれとは関係なく対話(精神科医は霧島と自身の話をこう呼んだ)は根気強く続けられ、幾多の中断を経て進められて、やがて結果が出た。
精神異常と認定されることはなかった。逆に霧島は異常者を装った健常者であると認定された。
その報を聞いた霧島の脳裏を一瞬にしてパニックが覆い尽くした。法廷内でその証言を聞いた瞬間、霧島はすぐさま自殺をしたくなった。自分の手で首を絞めるなり、机の角に頭を何回も打ちつけるなり、舌を噛み千切るなり、色々と方法はあったが、それ以上の吐き気と頭痛に襲われて意欲が減退し、結果的に取りやめた。
独房に戻ってからも、頭に住み着いたパニックは留まるところを知らなかった。パニックは霧島をレイプするだけでなく、殺そうとすらしているようだった。おいお前、そうお前だよこれから囚人になるお前、番号を割り振られてずっとそれと付き合っていくお前。お前の金は奪われてもう戻ってこないぞ、もうお前はあそこから脱出できないぞ、ずっとずーっとお前はあの中でみんなの死体と戯れるのさ、気が狂っても身体が朽ちてもあの中で家族と遊び続けるんだぞ。もう逃げられないぞもう逃げられないぞ逃げられないにににににげげげげげらららられれれれれななななないいいいいいいいいぞぞぞぞぞぞぞぞぞぞぉぉぉぉぉぉぉうううううううううう………。
そんなのは嫌だ!! 霧島は心の中で叫んだ。せめて自分に対しては気丈に接したかったというのに、ここでも怯えきった小犬のようにか細い声しか出てこなかった。
お前の気持ちなんて関係ない、どうやってもお前は刑務所だ。何年も何十年もあの中で、他の男達にカマを掘られる恐ろしさに震えながらネズミみたいに生きていくんだ。ああいやゴキブリかな? 微生物かな? アメーバみたいな。まあいいやなんでも。
形がないそれはまるで霧島が絶望に陥る時を待ち構えていたように、最も恐れている単語を巧みに使って叫びたてる。怖がらないようにしようと努めていたが、霧島はもう怯えていた。怯えきっていた。
まだ金がある!! 人の金を没収するなんて聞いたことが無いぞ!
馬鹿だなあ、お前。警察官が小額でもパクらないって保証無いのか? それに隣の家の奴は? どっかの泥棒は? それに酒に酔ったガキが入ってきて金を見つけてあらラッキー、持ち去るかもしれない。お前みたいな奴の家に忍び込む専門の泥棒もいるかもしれない。そうなったらどうするってんだ? ん?? いざ家に帰って何も無かったら、お前どうするつもりだ? どうやって生きていくつもりなんだ?
それは鋭かった。霧島が不安に思い、憂慮し、怖がっていることをひきずりだし、形のないナイフでざくざくと突き刺し始める。心が悲鳴をあげはじめ、あふれ出る血液の代わりに涙が出てきた。
黙れ黙れ黙れ! お前なんか消えてしまえ!! 死んじまえこのくそ野郎!
お前は俺なんだよ霧島遼一お前は俺なんだ。俺はくそ野郎、じゃあお前もくそ野郎だな。俺が死んだらお前も死んじまうぞお?
「黙ってくれ」
泣きながら霧島は呟いたが、誰にもそれは聞こえなかった。
「お願いだから、黙ってくれ………」
パニックは黙らなかった。それどころか日々を重ねる度に着実に勢力を増し、じっくりじっくり自分の頭を乗っ取ろうとするかのように思えた。パニックと理性が行なう闘争を固唾を呑んで見守るしかなかった霧島は宣誓や証言もおざなりになったが、これについては誰も気にしなかった。どうせ死刑か無期懲役だろうとみんな(一般市民を含む)が思っていたからだ。
正気と狂気が隅々まで交じり合った、非常に不安定で虚構に満ちた数ヶ月だった。その間霧島は起きて、食べて、差し入れられた本を読み、法廷に出廷し、帰ってきて飯を食い、本を読み、寝る。これをずっと繰り返した。というかは、無理矢理にでも継続させようと固執していた。その間も形がないものは霧島をいびり続け、追い詰め、狂わせようとしていた。あれほど待ち望んでいた狂人の服を着せようとしていたが、それを着てしまえば絶対に脱ぐことができないことは霧島にも分かっていた。
次第に自分の心がここではないどこか別の場所に移動していき、第三者的視点から実際に動き回る肉体としての自分を見守っているみたいだった。あたかも生霊になった人間が自分の身体をじっとみつめるかのように。身体の中では未だに理性と狂気が争いあっていたが、そんなのは霧島にとって遠い出来事に過ぎなかった。心は空へと舞い上がり、何もない場所をじっと見つめていた。そこでは煩わしいと思えるものが何も無く、霧島は自由でいることができた。
そしてようやく裁判長が判決を下した。
無期懲役だった。
未だにパニックと喧嘩していた霧島は、その言葉を聞いて一瞬だけでもパニックを忘れた。心はすとんと空から落ちてきて、脳みその感覚が繋がり、じわじわと嫌な臭いのする液体を放ち始める。無期懲役、つまり刑務所の中に入ること、一生その中にいること。それが霧島の定義だった。ああ何年かすれば出られるんだっけ? 何年だ? 三十年? 四十年?
つまり………希望に繋がる糸は完全に千切れてしまった。あとは天上を見上げながら落下していき、奈落の底で亡者に食われながら絶望するしかなかった。
二度と真っ当な人生を生きることができない。
たった今耳にした単語を完全に理解しきった時、パニックは益々恐ろしいもの、それこそ怪獣のように大きなものとして迫ってきた。霧島の理性は白旗を揚げて降参しながら逃げ惑い、先のことについて考えまいとした。それ以上の執拗さでパニックは彼を叩き潰そうとした。事実そうなる直前だった。後になってから控訴や上告によって判決に異議を唱えることができることに気付いたが、もう後の祭りだった。
いざ刑務所に収監される際、霧島は恐怖と絶望と虚しさのせいで死んでしまうのではないかと思ったぐらいだった。
その頃にはもう、殺人の際に彼の中に染み付いた狂気は残らず落とされ、漂白された後の洗濯物みたいに、真っ白い人形みたいな人格が残っていた。今となってみれば、どうしてあんな殺し方をしたのかさえ思い出せない。気が狂っていたのか? 多分、そうだったんだろう。一時的に気が狂っていた。頬は痩せこけて、身体が逮捕された時よりも明らかに細くなり、頭髪の一割か二割は白髪となっている。しかし誰も気に掛けなかった。
パニック(既に理性と半ば成り変っていた)は大きく霧島の頭に鎮座し、全てを食らおうとしていた。もう霧島は抗うのをやめて、完全にされるがままの状態になっていたが、しかし別れ際に刑務官がくれた鉛筆とメモ帳によってそれは思いがけなく解消された。顔が完全に死人だった霧島を心配したのか、これに何か思うものを書いてみろ、そうすると大分楽になると思うから、そう言うと刑務官は霧島の肩を叩いて、誰も見ていないうちにポケットの中へそれらを押し込んだ。当の霧島は、刑務所生活への不安と絶望のせいで、部屋に入るまでその存在すら忘れていた。
最初こそこれで自殺してやろうかと自棄だったが、二日目の夜、部屋の中にいる全員が寝静まってから霧島はメモ帳と鉛筆を取り出した。暫くの間ぼんやりとそれを見つめていたが、やがて暗闇の中で書き始めた。適当な詩、獄中に閉じ込められた恐ろしさと虚しさを書き綴っただけのものだった。
だが効果は絶大だった。最初の一週間であれほど脅威と化していたパニックは殆ど萎んでしまい、二週間目に入るとあの金、夢へと繋がる部品を数えていた時と同じようにうきうきするようになった。同室にいる趣味が合わない奴と無理に話すよりも、真っ白な手帳と向かい合う方がよっぽど楽しかった。思いつくものを何でも書き散らし、恐ろしいと思うもの、憎いと思うもの、欲しいと思うもの全てを書き殴った。その段階まで来ると、刑務所とはそれほど恐ろしい場所ではないことに気がついた。レイプされる人間なんてほんの一部だし、霧島には殆ど無縁だった。飯は一応食べることができるし、物は買える。ある程度の自由があった。
彼は鉛筆とメモ帳を抱いて眠るようになった。
ある日、月明かりを頼りに、夜中に半ばページが埋まった手帳を眺めていると、彼は泣きたくなった。自分がやった凶行に全く悔いは無かった。弟は死んで当然の存在だったし、両親も同列だった。罪から逃れるために行なった事も、あれはむしろ殺人という異常な雰囲気に呑まれた結果、やってしまったのだと霧島は思っていた。だが、何人も殺して人を欺こうとして、手に入れたのが刑務所での臭い飯とメモ帳、鉛筆だけなのかと思うと、やはり虚しくて悲しかった。生きる目標、喜びになっていたあの金は最早霧島の手が届かない所にあり、自身にもトラウマというどうしようもない心の傷が出来てしまった。それは大きく深い傷をつけられ、涙の代わりに苦痛を零し、いつだって近づくことができなかった。
だから彼は、以前と同じように布団を被って泣いた。誰も起きなかったのは幸いだった。そうして霧島は、なんとかこの刑務所で生きていくことができた。
金は幾度と無く夢の中に出てきた。弟を殺した時と同じ、血に塗れた状態でそれは霧島の手の中にあった。彼はそれを握り締めて街中を歩き、何とかしてこれが使える店を探そうとしていた。だがどの店も霧島を見て、もしくは金の有様を見て入店を断り、やがて町の中には入れる店が一つもなくなってしまう。ぽつんと吹きすさぶ風の中に霧島が取り残されると、やがて金も吹き飛ばされて、空に舞い上がって消えてしまう。そんな夢だった。
何度か見た後で、あの金はばったりと夢に出なくなった。代わりに暗闇の中で、霧島一人が取り残され、手の中には金の代わりにメモ帳とボールペンがあった。
その時こう思った―――あの金は、俺の目の前から永遠に消えてしまったのだと。
「おい、そろそろ起きろよ。おい」
頬をぺたぺたと触られて、ようやくそこで霧島の意識が覚醒した。一度二度瞬きをしたが、そこは刑務所内にある馴染みの和室ではなく、豆電球が吊り下げられた別の場所だった。茶色っぽい天井を見上げながら起き上がろうとすると喉の辺りが痛み、咳をする。
「ここ…、どこだ?」
「割り当てられたテントの中だ。他の奴も大体ここにいる」
声がした方を見ると、美村が体育座りの姿勢でいた。寝起きのせいか動こうとしない首をなんとか巡らすと、自分と同じような格好をした人間が三人いる。一人はぼんやりと寝そべっており、もう二人はなにやら言葉を交し合っている。そのうち寝そべっていた男が起き上がる。あの傭兵だった。
「お、起きたな」
首を回しながら言った。
「ちょっとタバコ吸ってくる、ついでに水でも貰ってきてやるよ」
傭兵は高い背を器用に曲げつつテントから出て行った。その間から外が見えたが、もう日は落ちていた。自分は何時間眠っていたのだろう?
「大体四時間くらい気絶してたんじゃないかな」
霧島が尋ねる前に、美村が先に言った。なんか病気でも抱えてるのか? と笑いながら言う。何と答えたものか分からなかったので、霧島は首をすくめることにした。どうせ人に話しても信じてもらえる代物じゃない。
そうだ、と美村が思い出したように言うと、尻ポケットから紙を取り出した。手渡してきたのでそれ何だ?と聞くと、明日からの予定表だって、と言う答えが返ってくる。
中はパソコンで打ったように無機質な文字でスケジュールがびっしりと書き込まれていた。朝七時起床、七時三十分に身支度を整え、訓練開始。訓練の内容はサバイバル訓練、器具の使い方指導、射撃訓練などなど。
射撃訓練?
美村に聞くと、「向こうは危険かもしれないから、最低限銃の使い方を学ぶんだって。なんか拳銃とか、そんなの」と自信なさげな答えが返ってきた。おそらく自分が銃を持たされることを想像できないのだろうが、霧島も同じく想像できなかった。この俺が、拳銃を撃つ? 撃つにしても何を撃つってんだ? こんなズブの素人が?
「何シケた面してるんだ」とその時、テントの外から声がした。振り向くと、水が入ったペットボトルを手にした傭兵が立っていた。ほれ、と霧島に水を投げてよこす。不意打ちだったので受け止められず、床に落としたものを拾い上げる。
「あーそうだ、まだ自己紹介とかしてなかったな。俺、高田って言うんだ。よろしく」
やけに人懐こい笑顔で霧島と美村に近づくと、高田は二人に握手を求めた。傭兵ってこんなにフレンドリーなもんなのか? と思いつつも霧島は手を握る。やはりというか何と言うか、長年の作業で鍛えられたみたいにごつごつとしていた。
気がつくと、三人からは離れて話し込んでいた二人もこっちに来ていた。そのうちの一人、背の高いほうが自己紹介をした。
「篠田だ。こいつは熊谷って言う」
脇にいる丸刈りを指差す。丸刈りの男はこっくりと頷いた。
「よろしく」
最初の印象では、篠田の方はなんとなく無口そうな奴だと思った。一言だけ言うと、むっつりとした顔で黙り込んでしまう。熊谷の方は道を歩いていればすぐに見かけそうな、どこにでもいるようなタイプに見える。多分二人とも犯罪者なのだろうが、霧島には二人がそんなことをするようには見えなかった。そう思った時、犯罪というのはそれをしそうにない人間が一番するものかもしれない、ということに思い至った。この二人の他にも、その、美村とか。
とりあえず二人と握手しておいてから、霧島はあることを聞いた。
「そういやさ、あの教官…説明してた男だけど、何て名前なんだ?」仏頂面の美村が答えた。「最後まで自己紹介とかしなかったよ、あいつ。霧島をテントから連れ出してから斉藤を一発殴って、それから解散になった」
霧島にはその理由が分かるような気がした。多分、こんな奴らに自分のことを紹介する意味などないと思ったのだろう。明らかにあいつは俺たちを軽蔑している。それは実際に目を見てすぐに分かった。
ぐいと水を飲んで霧島が寝転がったが、その横で美村が高田にこんな質問をしていた。
「なあ高田…さん、あんた何も言われてないけど、その何したんだ?」
おそるおそると言った口調だった。なんでそんな質問をするんだ、と霧島は思ったが、きっとそれが美村なりのコミュニケートなのだろう。少なくとも本人はそう思っている。どう見ても聞かれて楽しいと思われるような類のものではなかったが。
「俺は何にもしてないよ、というか…あんたら、要するに犯罪者、だよな?」
霧島はごろりとテントの壁に目を向ける。高田の問いに答える篠田だか熊谷だかの声が聞こえた。
「そうだ、俺たちみんな犯罪者だ」
ああそうなの、と平然とした声で彼は答えた。それどころか、どんな犯罪をしたんだと質問さえしたことに霧島は驚いた。普通の人間は犯罪者なんて人間の屑だと思ってるから、一緒の部屋に入ることさえ怖がるか、嫌悪するんじゃないのか。
その内に話がはじまったが、霧島は参加しようとは思えずに横になっていた。すぐ近くで話していることもあり、声は普通に聞こえてきたから、高田がどんな人物で今までどんなことをしてきたのか、大体において分かった。
ガキのころから戦争映画やアクション映画が大好きで、いつか兵士や特殊部隊の男たちのように祖国や家族のために勇敢に戦いつづける男になりたかった。別に家を継ぐような立場にいるわけでもなかったから、高校を卒業してから海外の紛争地帯に向かった。日本みたいに平和ボケしている国じゃ戦うことなんて無理だと思ったからだ。アフガニスタンやアフリカにイラク等、普通の感覚をしている人間なら二の足を踏むような地へと平気で足を踏み入れ、最終的にはビルマのカレン族軍隊の所で初めて傭兵になった。何でもビルマは日本人傭兵の登竜門らしいから、自分の他にもそういった希望者がたくさんいたらしい。明らかにヤクザあがりの人間や、殺人を犯して逃げてきた、という人間も普通にいたため、犯罪者との免疫なんて一番最初に無くなってしまった。おおっぴらに話せることではないが、犯罪者同士で作っているグループの会合にも一度か二度参加したことがあるらしい。
仲間の多くが死んだり負傷したり、訓練に耐えられないのか失踪したりするのを横目に見ながら二年ほどそこで戦った(戦う、と平然と高田は言ったが、霧島にはそう言うことができる感覚を心底すごいと思った)。それからはイスラエルでぽつぽつと発生している紛争に加わった。はっきり言って地元の人間からは疫病神のような扱いを受けたらしいが、高田はそれでもめげなかった。いじめに近いような待遇でも一年間意地になって戦線にしがみつき、愛用の銃を片手に戦い抜いた。そのころになると手持ちの金も殆ど底をつき、日本でバイトしようと帰ってきた所でスカウトされたらしい(「傭兵っておまえらが思うほど金を稼げるわけじゃないんだ」と高田は照れくさそうに言った。「月の収入なんて悪けりゃガキの小遣い、よくてもサラリーマンの給料の半分ぐらいだ。映画で傭兵ってのはやたらと大金取りでバーで高い酒を飲んでいるみたいに描かれているけど、ありゃ嘘だな。映画関係者は一回リアルの傭兵に取材するべきだよ」)。
高田の話が終わると、美村や篠田が話の中で気になった事柄について色々と質問しはじめていた。そんなに暇なら、いっそのこと眠ったほうがいいんじゃないだろうかと思い、時計を見ようと思ったが霧島は時計を持っていない。テントの中にもそれらしい壁時計は見当たらなかった。仕方ないので熊谷に尋ねると、ちょうど持っていた腕時計を見せてくれた。夜の八時。
「就寝時間は九時だ。あと一時間ある」とだけ言うと、熊谷は何も言わずにテントを出て行った。トイレに行くのかと思ったが、考えても仕方ないので元の位置に戻った。少しの間何をして時間を潰すか考えていたが、やがて小説を書くことに決めた。そのためには刑務所から送られてきたはずのバッグが必要だったが、テントの中には見当たらない。高田に聞いてみた。
「あるとすれば、本部の方じゃないか? 俺たちはここに入る前にバッグを貰ったから何とも言えないんだけどな」
仕方がないのでテントから出ると、ご丁寧に揃えてあった靴を履いて本部に向かうことにした。場所自体は高田から聞いておいたので分かっていたが、日はとっぷりと暮れているしどのテントも同じ迷彩柄なので、それっぽいものをしらみつぶしに当たっていくしかなかった。
この広場が元々あったものか、それとも木を切り倒して作ったのかは分からなかったが、時間が無いんだったら元々あったのを流用したのかな、と思った。辺りには紅葉がちらほらと見られて、夜の中でも鮮やかに綺麗だった。空には白にも黄色にも見えそうな月が浮かんでいて、なんとなく月の表面で兎が餅をついている絵が頭に浮かぶ。彼らは何を考えながら餅をついているのだろう。
ぐるりと周りを見渡しながら進んでいると、あちこちで兵士たちが立ち番をしているのが目に付いた。向こうは霧島を見かける度にじろりとした目で睨んでくるのだが、ただそれだけでこっちに近づくと言った事は無かった。外に出なければどこに行っても自由、ということか。おそるおそる兵士たちに本部テントのことを尋ねて、ようやくそこまでたどり着くことができた。
外からでは中が静まり返っているように見えたので、すみませーん、と霧島は声をかけながら垂れ幕をあげた。中では名称不明の教官と何人か、テーブルを囲んで話をしていた。音に気付いて一斉に霧島の方を向くと、驚いた霧島はバッグを取りにきたのですが、といかにも申し訳無さそうな声で言った。そのうちの一人は腰のホルスターに手さえかけていたので、もしかすればこのまま撃たれてしまうのではないかと肝を冷やしながらバッグを受け取る。中身を確認すると、急いでテントから出た。背後にはまだ教官たちの視線が刺さっているような気がした。
帰りも行きと同じような兵士の視線に晒されながら歩いていると、急に霧島はこの状況がとてつもなく恐ろしく、不気味なものに思えてきた。今まではこの状況は夢みたいなもので、何か刑務所側が施行することにした新種のレクリエーションのようなものだと心のどこかでは考えていた。論理的にはまったくつじつまが合わなくても、それこそ悪夢の一種みたいに目が覚めさえすれば、ぱっと事態が元に戻るのではないか、と。やはり自分がいるのは刑務所の中で、手にはボールペンと手帳を抱いたままで、窓からは月明かりが薄く差し込んでいるのだ、と。
ところがそうならなかった。射撃訓練、実際に銃を携えた兵士、今ここで自分が抱えているバッグ、教官の痛みさえ感じられる鋭い視線。すべてが現実だった。今まで空想の中で漂うだけだった悪夢が、急速に現実となりはじめていた。幻覚は形を取り、質量を持って脳内に侵入し、林の向こうでは虫の鳴き声が聞こえている。耳に指を突っ込むと音は聞こえなくなる。離すと聞こえるようになった。
これは現実なんだぞ、自分に言い聞かせた。俺はこれから俺達全員を殺すことができる人間から訓練を受けて、日本中(もしかすると世界中かもしれない)から集められた人間たちと共に意味不明の場所に放り出されるんだ。そこでは訳のわからない怪物がうようよしていて、隙あらばこっちを食い散らかそうと油断なく見据えている。もし逃げ出したりすれば、怪物ではなくて兵士によって自分は撃ち殺されるだろう。
さっきまでは空いた時間が暇で暇でしょうがなかったというのに、今ではそんな気が全くしない。軽く気分が悪く、何もかも放り投げて横になりたかった。当然のように小説を書く気にもならなかったからまっすぐテントに帰ると、「気分が悪い」と言って脇に積み上げられていた寝袋に無理やり体をおさめた。同室の男たちはさっきまで気絶していた霧島の事を思ってか、無理に声をかけようとしなかった。美村は一言、おやすみと言った。
現実に聞こえるその声が、やたらと頭の中で反響した。意識がまた暗闇に落ちるまで、それは霧島の傍をついて離れなかった。
森は静かだった。少なくとも、表面的には。
遠方から見て最も高かった木の頂上にある枝に座り込みながら、ミスティア・ローレライは何をするわけでもなく夜を眺める。気の済むまで存分に歌ってそこいらの生き物を鳥目にしてやっても良かったけれども、今は生憎その気分じゃなかった。そういえば、ここでは随分と歌っていない。
真下に広がる森林や月を眺めつつも、彼女はどうにも奇妙な違和感を覚えていた。体の中で蠢く腫瘍のような、そんなしこりにそれは似ていた。ここ数日で発生したような簡単なものではなく、いつのまにか森全体をそれが覆い尽くして、不気味な感覚がのっぺりと広がっていた。彼女は馬鹿だからそれを言葉にする術を知らなかったが、そもそも言葉にできたとしても誰が聞くものでもない。歌詞にするにしてもこれをどう表現すればいいのかよく分からなかった。
最近はこの森も変わった。今までよりもずっと。
前まではこんな夜には生き物みんなが静まり返り、わざわざ暴れまわると言った無謀で益のないことはしなかった。だが今は違う、今では夜の中でも食うわけでもないのに生き物同士が殺し合い、木々は嫌な臭いを放ち、空は淀み鳥も狂い始めている。本来なら流れ流れて様々な場所に向かう筈の空気が固まってしまい、森の上をぐるぐると回っている。端的に言うと、この森は息が詰まりそうな場所になっていた。
とは言っても、ミスティアでさえなかなかこの異変に気付けなかったのだ。自分よりも遥かに鈍感な人間どもは気づかないだろうし、仮に気づくとしてももっと後のことになるだろう。あの巫女や魔法使いならばちょっと分からないが、それでも時間がかかるのに変わりは無い。
近くの村に住んでいる半獣は気づいているかな、とミスティアは疑問に思い、彼女には珍しく頭をひねってみたが、しかし答えは出てこなかった。というか、途中で考えることが鬱陶しくなったからやめた。気付いても気付かなくてもそれで構わない、という結論で落ち着いた。
座り込んでいる巨大な木の枝から離れると、ミスティアは暑気を含む夜空へと踊り出た。ここにいても大して面白くないから、どこか別の場所に行って歌おうと思った。こんな暑苦しい夜なのだから、いつまでもこんな所にいる所以はない。
夜雀が立ち去った後、森では虫の鳴き声と獣の唸り声が続き、一晩中それは止まなかった。暑さはこの場所で益々集まり、どんよりと濁り、やがて腐ってしまうかと思うほどに留まっては消えていった。
霧島が住んでいた家は平凡な四人家族だった。父親、母親、霧島、そして弟。猫の額ほどの庭を持ち、車を一台所有した家族は住宅街の真ん中に居を構え、まさしく日本における普通の家族として平凡な暮らしを営んでいた。父親は外で働き、母親は家の中で家事全般を担当する。
一つ違うのは、弟の権力は兄である霧島よりも遥かに上だった。
幼い頃から、何故か霧島とその弟は差別され続けた。霧島の顔が気に入らなかったのかもしれないし、性格かもしれないし、弟よりも背が低いという体格が両親の目には不快に写ったのかもしれない。霧島には家族が破滅する最後の最後までその理由が分からなかった。
おやつの時は霧島のクッキーが二つ、弟は五つ。ご飯のおかわりも弟が優先され、霧島が頼んだ時には兄なんだから我慢しろと言われた。弟は小さい頃から十二分にその権利を享受し、幼い時分の霧島は兄とはこんなにも我慢しなければいけないのか、と不思議に思ったものだった。社会の時間にアラビア人について学んだ時は、アラブとかは大家族らしいから、一番末っ子が一番偉い地位に立って、一番上の兄は家の掃除係に違いないんだろうなあ、と勝手に考えたものだった。後でその考えは払拭されたが、しかし一部の有名な家庭がそうであって、八割方は自分の考えが正しいに違いないという考えは変えなかった。それくらい自分の中にその考えは染み付いていた。
兄は小学六年生で、運動は苦手、勉強は平凡、性格は大人しく、動くよりも家でテレビや本を読む方が好きなインドア派だった。それに対して弟は小学四年生、運動はクラスで一番、勉強はそれほど机に向かう姿を見かけたわけではないのに、いつも百点か九十点を取っていた。アウトドア派であり、いつも友達と遊びに出かけていた。弟ばかりが両親から褒められ、霧島は何も言われなかった。そのことを面白くないとは思ったものの、だからと言ってどうすればいいのか霧島には分からなかった。弟をいじめるなんて事は思いつきさえしなかった。
中学になってから、益々差は顕著になっていった。
弟は部活で大活躍、クラスの人気者であり、テストは常に学年上位をキープし続けた。霧島は学業、運動共に相変わらずであり、周りからはとろい奴というあだ名をつけられていた。恥ずかしいからそんなことを両親には話さなかったし、両親は弟の話ばかり聞いて霧島の話にあまり耳を傾けなかった。近所の人も弟が偉大な指導者であるようにちやほやしているのだが、霧島に対する対応は何故かそっけなかった。ただ霧島は、そういうものなんだろうなあ、ぐらいにしか推測することができなかった。自分に非があるとしても、どうすればいいのか分からないしあまりに虚しかったからだ。ただ考えないことにした。
それでも兄として自分はよくやっている、と霧島は思っていた。家の中や図書館で常に本を読んでいるから弟が知らないことをたくさん知っているし、両親に相手にされなくても弟はよく話し相手になってくれた。問題は、部活が忙しすぎて弟があまり家にいないことだった。そこでも弟はリーダーシップを思う存分発揮し、三年生の時分には全国大会に行ったこともある。両親が会場まで行って弟の応援をする間、霧島は図書館で本を読んでいた。
兄としての威厳も崩れ始めたのは、高校生からだった。既に弟は霧島の部屋に勝手に入るようになっていたし、好きな本を勝手に取っていったから、兄と弟の知識においての差分はなくなりかけていた。それどころか兄を上回ろうとしており、弟の脳みその中に兄の脳みそがすっぽりと入るのではないのかと思えるほどだった。霧島が弟の部屋に入ろうとしても激しく両親や弟から非難されたし(弟の所業については何故か一言も出てこなかった)、留守番をしている時にこっそり入ったとしても、目ぼしい物は見つからなかった。たまに忘れていったのか携帯電話を見つけることができたが、そこまでいってはやりすぎだと思って放置した。
兄は県立の高校に進み、弟は高い学費を出して私立に入った。そこでも弟はすくすくとクラスでの地位を伸ばしていき、兄は変わらなかった。普通に勉強して、普通にスポーツして、自慰することを覚えた。その頃の弟にはもう彼女が出来ていた。何回か隣の部屋でベッドがギシギシ言う音を聞いたことがある。弟のそれについて両親は何も言わなかった。
ある時部屋で本を読んでいた霧島が水を飲みたくなって居間に下りると、弟と両親が真剣に話し合いをしていた。霧島の目には、テーブルに広げられたものが大学のパンフレットに見えた。あそこがいい、いやそれよりもあっちのほうがいいかもしれない、と彼らは話し合っていた。
霧島が大学に行くなんて話はちっとも聞いたことが無かった。進路自体もまともに聞かれたことが無かった。
次の日から霧島は、両親と時間を過ごすのが苦痛になりはじめた。そんなに弟のことが大切なら、こんなところにいたくなんかないと思った。後で気付いたが、本当にこの家の中で霧島の存在価値は無かった。無いも同然だった。
霧島は、今度から夕飯は部屋に持ってきて欲しい、と母親に頼んだ。これで母親は困るだろうし、もしかしたら自分のことで何かの反応を得られるかもしれないと思ったからだが、それに反して彼女は何も反論せず、平然と霧島の部屋に夕飯が入った盆を持ってきた。呆然として下を覗くと、家族が和気藹々と話し合っている声が聞こえた。次の旅行はどこに行こう? そうだね、前は東京に行ったし、夏休みに北海道にでも行こうか。ねえねえ、私前から遠野って場所に目をつけてたの。一回行ってみない?
彼は東京なんて行ったことが無かった。以前に両親から三日間留守番してくれ、と頼まれて残ったことならあった。修学旅行ですら東京には行った事が無かった。遠野? なんだそこは? 柳田なんとかという作家が書いた小説が真っ先に思い浮かぶ。彼が覚えているのは、マヨイガという家だか屋敷だか分からない場所で、そこに入ると二度と戻ってくることができないが、もしも品物を持ち帰ることができれば幸運になる、という概念だった。何だか面白くも無かったので、そんな本はすぐに図書室内の本棚に仕舞った。
心の中を寒々しい風が一挙に吹き抜けて、彼は今更に自分がいる環境が恐ろしくなりはじめた。下にいる家族は、ドラマや漫画で見る家族という概念からは全く違っていた。かけはなれていた。次元がずれていた。何とでも言えるが、とにかく違っていた。異常だと言えるほど異なっていた。
その夜、霧島は布団を被って泣いた。夕飯は二階の窓から捨てた。下からはテレビかラジオか、真面目ぶった声で「では、やはりアメリカが月面に着陸した際に月兎という宇宙人を実は発見しており、彼らは知能を持った月兎を捕らえ、実験体にしていると。そういうことですね?」はいそうです、ともう一つ、真面目ぶった顔の声が答えていた。彼らはそんなことなど存在しないかのように振舞っていますが、そうではありません。彼らはエイリアンを捕獲しているのです。うんたらかんたら。
霧島が家の中で隔離生活を送り始めたころ、弟の様子が変わり始めた。
弟は、霧島の財布から金を抜き取るようになった。
最初にそれが発生したのは、二千円札が無くなったことからだった。外出する際に財布の中を見たら、二千円札が無く、千円札一枚しかなかった。両親や弟に聞いても知らない、の一言で済まされた。
次に金が無くなったのは三日後だった。両親が親戚の法事で出かけ、弟と家で留守番していた時のことだった。コンビニに行こうと思って部屋に入って財布を見ると、三枚あった千円札が無くなっていた。両親が出かける寸前に学校から帰ってきた時、霧島は財布を机の上に乗せた。その時中身はきちんとあった。もし泥棒が入ったとしても、そんなちゃちな額だけで済ますわけが無い。
弟だ、と彼は直感した。霧島と弟が居間にいる時、弟は一回だけ二階に上って行ったからだ。
決然とした態度で叱る決心をすると居間に下りて、テレビを見ていた弟に話しかけた。お前、俺の金取らなかったか?
「ああ、取ったよ」と軽い調子で弟は言った。先日尋ねた時の様子とは大違いで、こっちの目を見ようともしなかった。もしかしたら、両親のご機嫌を取ろうと以前は嘘をついたのかもしれない。両親は弟の言うことなら無条件に信じるが、霧島から出てきた情報は最初に疑問を向けたからだ。
「ちょっと欲しい写真集あったから」
何の躊躇いも無く言ってのけたことに驚いて、もしも惚けた時にはどういう追求をしてやろうかと考えていた思考が止まった。
それでも何とか考えをまとめると、霧島は弟を咎めた。そんなことやめろよ、俺の金なんだから、お前が取っていいはずないだろ、返せ。
「うるせえ」
言い放つと顔をこっちに向けた。まるでハエかアリでも見るような、蔑んだ目つきだった。
「お前なんかよりも俺がもっと良い使い方してやるよ。黙ってどっか行け、このウスノロ」
何を言われたのか、一瞬分からなかった。その言葉がようやく理解できた時、霧島はヤカンみたいに顔を真っ赤にして、手元にあったリモコンを投げつけようとした。弟が驚いた調子で顔を隠したのを見て、自分が何をしようとしたのか気がついた。もうリモコンを投げつける気にはなれずに、すっと下ろす。
弟は少しの間硬直したようにそのままでいたが、おそるおそる腕を下ろすと物凄い形相で霧島を睨みつけた。すぐに立ち上がると、リモコンをテーブルに下ろした霧島の腹を蹴り飛ばした。げぇ、と呻いて転がった霧島の頭をグーで殴りつけてもう一回、今度は尻を蹴った。ものすごい痛みと痺れが全身を一瞬にして支配し、耐えられなくて霧島は悲鳴をあげた。殺されるかもしれないと慌てて弟から離れると、二階への階段を四つん這いで駆け上がった。背後で「人の事コケにすんじゃねぇよ、この蛆虫野郎!!」と怒鳴り散らす声が聞こえたが痛くてそれどころではなかった。
部屋に入るとタオルを探して、それを頭に押し当てた。殴られた所がずきずき痛み始め、腹のあたりが今更に気持ち悪くなった。尻の辺りは他が痛くてあまり気にならなかったが、それでも痺れのような麻痺のようなものが存在していた。
ベッドに横になると、痛くて痛くて霧島はすすり泣き始めた。枕で顔を押さえる。
一体俺が何をしたんだ? 何で弟に金を取られて殴られなきゃならないんだ? どうしてこんなことになっちまったんだ? 俺は悪いことを何もしてないのに、どうしてこうなったんだ?
ゲロを吐いたのは一回だけだった。
夜遅くに両親が帰ってきたが、霧島の部屋には入らなかった。翌朝、弟と両親は何事も無かったかのように話をしていた。殴られた頭はそれほど腫れなかったから学校に行くことにしたが、その際霧島の泣きはらしたような顔を見ても、誰も何も言わなかった。霧島も無言だったし、弟は目さえ合わせようとしなかった。
その朝から、霧島にとって家族は敵意と策謀と軽蔑と侮蔑の象徴になった。
彼は家族を信用することをやめた。
うさ晴らしに動物を殺そうとしてみたが、どうしても出来なかった。夜になった時に遠くの町に行って犬を捕まえてふんじばり、バットを振り上げたとしても、ひゃんひゃんと悲鳴をあげる姿を目にすれば犬の姿が尻を蹴られた自分と重なってしまい、もうできなかった。まるで自分があの弟にすらなってしまったようで、軽い吐き気さえ覚えた。失意の手でロープを解くと犬は一目散に逃げていき、後には霧島だけが残された。それきり彼はその町に行かなくなった。
代わりに彼は、夜遅くに川へ石を投げることで我慢した。川面を弟の顔だと思って、一心にぶん投げ続けた。その時霧島は、世界とはこういうものだということに気がついた。
何事も上辺だけは丁寧に整えており、どんな悪魔でも自分のことを悪くは言わないものなのだ。何もかも表と裏の顔を併せ持っている。例えば、大通りですぐ横を通り過ぎた人が夜な夜な自分の子供をレイプしていないなんて確かな証拠があるだろうか? ない。少なくとも判断ができるはずがない。
そういうものだ。世界とは、欺瞞と疑惑と嘲笑と羞恥が寄り集まって完成した芸術品だ。みんなそこで苦しみながら生きて、苦しみながら死んでいく。マンションや豪邸に住める人間なんてほんの一部だ、彼らは運が良かっただけだ。
そして霧島には運が無かった。
数ヶ月して、彼は高校を卒業した。貰った日に卒業証書は部屋の隅っこに放り投げ、両親は卒業について触れようとしなかった。こんなものを使う日がやってくるとは思えなかったし、実際その通りだった。霧島はその日からフリーターになった。何でもいいからバイトというバイトを探し回って、無難なところで本屋に落ち着いた。工場勤務なども選択範囲にはあったが、自分の体力が保つか不安だったから取りやめた。
今や家の中でも油断がならなかった。手製の鍵をドアに取り付けて、家に帰ると彼は真っ先に部屋に入り、鍵を閉めた。飯は大体外で買ってきた(たまに深夜、台所からくすねた)し、トイレに行く時も部屋に入られないようにすぐさま済ませるようにした。家族とは敵であるのだから、一瞬たりとも無防備な背中を見せるわけにはいかない。そうすれば蹴られるかもしれないし、殴られるかもしれない。ひょっとしたらナイフで刺されることだってありえるのだ。
お金を溜めたら一人暮らしをはじめようと固く決意していたため、彼は身を粉にして働き続けた。両親には一切頼ることなく、不動産のパンフレットをもらったり、家事の本を読んで独学で学ぶことを始めた。アパートに持っていく家財道具は何がいいか、そういうのを空想したりもした。そういったことをしている間は家族と関わらなくて済むから気が楽だった。君さ、バイト先にいっそのこと住んだら? と熱心に働き続ける霧島に冗談半分で従業員に言ったが、それについて彼は本気で検討した。
未だに弟は無断で金を盗用していたが、これ以上言っても無駄だろうと思ったし殴られるのも嫌だったので、彼はもう何も言わなかった。財布の中には極々少量しか入れなかったし、バイトで溜めた金はすぐに現金にして部屋の隅っこの、切れた壁紙の裏に隠してあり、そこには物を置いて見えないようにしていた。彼はその場所に絶対の自信を持っていた。ここならば誰かに見つかることもないだろう。
それに通帳の中身を現金化した理由は、徐々に膨らんでいく封筒の中身を見るのが楽しかったからだ。通帳の数字を眺めるよりも、実際に手にとって確かめる方が良かった。それは夢を叶えるための部品であり、必要とするだけ溜めればここから脱出することができる。あとどれくらい、あとどれくらいと考えるとうきうきして、思わずベッドの上で金を抱きしめた。
ミミズが這うような感覚で一週間、一ヶ月と経ち、半年が経過し、人生で最も長い一年がやがて経った。弟は高校を卒業して、熾烈な受験戦争の外側を悠々と踏破し、推薦入試で大学に入った。その頃は両親や友人達と毎夜毎夜パーティーをしていたが、同じ頃に霧島はバイト先で文庫本の整理をしたり、レジで現金の清算をしていた。内心弟が大学に落ちれば良いと思っていたから、家に帰ったときに居間のテーブルに載っていた合格証明書を見た時は無意識に顔が落胆へと変わった。
その頃にはもう、霧島の資金はかなりの額が溜まっていた。もうそろそろ百万を越しそうだったため、次の給料日が来たらバイトを休んでアパートを探す気でいた。アパート! 自分だけの場所、自分だけの城、まさに聖域と呼べる場所。考えるだけでこれほど心が嬉しくなることは他に無いに違いない。
給料日までの遠く長く、地平線の向こうのように見えた距離が徐々に縮まっていき、とうとう待ち望んだ給料日がやってきた。霧島は金を手にし、家への道程を急いだ。明日にはアパートを探して、明後日か明々後日には住めるところが見つかるかもしれない。そうすれば……そうすれば、俺は、自由だ。
帰り道ではアパートに移ったら最初に何をしようとか、どんな本を揃えようかとか、そんなことばかり考えていた。敵がいない環境で生活することは彼にとって夢のようなものだったから、努力して隠そうとしても顔がにやけてしまった。誰も見ていないことを確認すると、星空に向けてガッツポーズを取った。
部屋の中で弟が封筒を手にしているのを見た時、それらの夢はたちまち崩れ落ちた。否、建設途中のビルに飛行機とかスペースシャトルが突入してきたような、それ以上の破壊的な衝撃があった。今目にしている光景が理解できずに顔を擦る。そのまま変わらなかった。
「よ、お疲れさん」
霧島にとってあまりにも、あまりにも特別な意味を持った封筒をぽんぽんと手ではたきつつ彼が言った。触るな、と彼は思った。それから呪い始めた。お前なんかがそれに触るなお前なんか消えてしまえ死んでしまえ破壊されてしまえ崩れてしまえ細切れにされてしまえこの世から消えてなくな
「入学祝いに車でも買おうと思ってたんだけどさ、あんまり余裕無かったんだよ。悪いね」
笑顔で弟は霧島の肩を叩くと、笑いながら部屋を出て行った。ま、そういうことで。あっはははははははははははははは。
笑い声が部屋から廊下に響き、階下に下りていき、やがて消えた。奈落の底に消えていくみたいだった。
この時何をするべきか、何をしたいのか、何をしなければいけないのかはすぐに霧島の頭に浮かぶ。それは最初から分かっていた。というか分かっていてもあえて考えようとはしなかった。最もしてはいけない方法として心の中で封殺していた代物だった。
あの金はただの金ではなかった。霧島にとっての夢であり、希望であり、自由の象徴であり、脱出するための片道チケットだった。
それを、何に使う? 車? 買い物? あいつなんかの買い物? 悪魔が何を買う? 三つ又か? 地獄への切符か?
また盗られるのか?
あの時と同じく盗まれて文句を言って、殴られて泣きながら部屋に戻るのか? めそめそ泣いて金を奪われて、また獄中で長い時間を過ごすのか? このまま一生あいつなんかの奴隷になって過ごす積もりか?
彼は心に問いかけた。すぐに返答が帰ってきた。
糞食らえだ。
埃を被った筆箱から鉛筆を取り出すと、気取られないように音を立てずゆっくり階段を下りていった。居間に入ると、弟はこっちに背を向けてソファに座っていた。その音からして金を数えているんだろう。あの腐った蝿がたかるような指で大切な金を今まさに汚そうとしている。許せる筈が無い。許されざることだ。今すぐやめさせろ。
そいつに触るな。霧島は声に出さずに呟いた。弟は聞こえず、馬鹿みたいに金を数えることに無心していた。
「きゅー…じゅう。おーすげえ、百万はあるぜ。こんぐらいありゃ何が買えるかなあ。トヨタ…ミツビシ…んーどこの買ったもんかな、迷う迷う。あの馬鹿でも結構溜められるもんだなー」
弟が何かを言っていたが、最早彼には聞こえなかった。これ以上傍観するわけにもいかなかったので、行動を起こすことにした。
鉛筆を振り上げると、何にも気付かない馬鹿で愚図な弟の延髄に突き刺した。げ、と弟が呻き、ばさばさと金を取り落とした。霧島は両手で拳を作ると、今までの恨みと金に手を触れられたことへの怒りを十二分に込めて、弟の後ろ頭を思い切り殴りつけた。ソファから前のめりに弟が倒れ、テーブルに頭をぶつけた。起き上がらないうちに霧島は急いで台所に行き、切れ味が良さそうな包丁を取ってきた。
戻ると、彼は弟を刺し始めた。
十五分掛けた。
途中で悲鳴の類は上がらなかった。
気がつくと、弟の身体は真っ赤だった。身体、胴体、両手両足全てに穴が開き、床や天井カーテンと部屋が赤に彩られている。霧島の身体も血みどろだった。返り血がひどく、手はもう最初から赤かったようだった。
弟の死体を無造作に蹴り飛ばすと、霧島は床に落ちた金を手に取り枚数を数え始めた。きちんと全額あった。二階にあるあれと合わせれば、ここから出るのに十分な額があるだろう。血に汚れたそれが痛まないようにそっとテーブルの上に置いた。
だが問題があった。彼は二度と動かない弟を見下ろした。目玉に包丁が突き刺してあった。
日本の警察は優秀だ、このままでは自分は逮捕されるに違いない。ならどうする? こいつを殺して尚且つ警察の目につくことなくまともな生活を送るにはどうすればいいか?
パッと思いついた。テレビや新聞でよく見たことがある、精神異常者の犯行に見せかければいいのだ。そうすれば霧島は精神病院に入れられ、何年かそこで過ごした後で日常に戻ることができる。逮捕した人間の家具や金を没収するなんて聞いたことがないから、きっと家の中に保管しておかれるに違いない。何年かロスしてしまうのは残念だが、刑務所に入れられるよりかはマシだ。そこでは全てがどん底だ、何もかも台無しになってしまう。
となると、そのためにどうすればいいか? 精神異常者とはこういう時に何をする人物なのか?
少し思案してからかがみこむと、弟の両手両足の指を切り取った。どつん、どつんと音をたてて、全体重をかけて一本ずつ切断していく。汗を掻きながら根気の要る作業をこなすと、全部で二十本あったそれをどうすればいいか分からないから、電子レンジの中に放り込み、適当にタイマーをセットして起動させる。ブスブスブスという音と鼻が曲がる臭いがしはじめたから、応急処置としてタオルを何枚か被せた。少なくとも見かけはマシになったし、臭いも幾ばくかは軽減された気がする。
ついでに死体でも食った方がいいかと思ったが、それは流石にしたくなかった。こんな奴を食うなんて御免だったし、食いきれる自信は正直無い。
異音が響く一階でやることは終えたと思ったので、二階に行くと弟の部屋から異臭がする布団を取ってきた。自分の部屋のものでなかったのは、こいつのために自分の布団を使いたくないからだ。悪臭がする布団を引きずっていき、狭い庭の上で広げた。倉庫代わりに使われている隅の物置から灯油を取り出すと、まんべんなく布団にぶっかける。無理矢理重たい死体を引きずってくると、べとべとする布団で包みこんでライターで火をつけた。表面へと一気に炎が広がり、中身が燃え始めた。どっちにしろ悪臭がしたので、霧島は肩を竦めて鼻をつまんだ。やれやれ、暫く誰も家には住めそうに無いな。
居間に戻ってから悪臭を防ぐために庭の戸を閉めると、他に足りないものはないだろうか、と霧島は考え始めた。これだけ細工してもまだ足りないような気がする。だとすれば何をしたらいいか………
女性の騒々しい悲鳴で霧島は我に帰った。部屋の入り口を見ると、母親が息子の姿を見てへたりこんでいる。足腰が震えているところを見ると、どうやら腰が抜けているらしい。彼女は今にも失禁してしまいそうに見えた。母親を見た時、ふと両親二人は用事で外に出ていたことを思い出した。
そこでピンときた。足りないものはこれだったのだ。
両親を殺せばいい。
躊躇いとか、同情とかそういうものは一切湧いてこなかった。両親は常に弟の味方をしてきたし、霧島の肩を持ったのはそれこそ小さい頃ぐらいだった。今ではもう両親は人間ではなく、弟と同類かもっと下等な生物のように見えていた。
既に抜き取っておいた包丁を手に近づくと、放心状態みたいに呆然としている母親の肩を突き刺した。ギャッと豚みたいな悲鳴をあげて這いずりながら逃げ始める。フローリングの床をじわじわと尿が濡らしていった。おかしいな、と霧島は首をひねった。一撃で殺そうと思ったのに、手元が狂ったのだろうか。
どういうわけか元来た玄関には向かわず、逃げ場も武器も無い風呂場へと母親は逃げ込んだようだった。どうせ追いつくのだからとのろのろ追いかける霧島の目の前で鍵をかけると、それこそ狂人みたいな声色で母親が叫び始める。確か窓が空いていたから、このままでは騒ぎを聞きつけて近所の人が来てしまうだろう。それに気付いた霧島は行動を起こした。
居間から椅子を持ってくると、それを構えて風呂場の戸に体当たりしはじめる。
一回、ドン。二回、ドン。三回、ドン、四回目、ガシャン。
彼は突入した。
一分後、母親だったものは息子に引きずられながら風呂場から出てきた。心臓やわき腹の場所から血が染み出しており、包丁が腹に突き刺さっている。まだ叫ぼうとするように口が半開きになっていた。
とりあえず母親をテーブルの上に乗せて適当に生クリームや砂糖にマヨネーズをぱらつかせていると(警察が儀式か何かを行なったのではないかと予測させるためにやっていた。精神異常者は大抵何かの宗教に被れているに違いないからだ)、彼は父親が帰ってくるのを待った。一分、来ない。五分。来ない。十分。来ない。三十分、声とともに玄関の開く音。
今頃彼はどんなことを考えながら靴を脱いでいるのだろう、と思った。弟が居間でテレビを見ている様子? 母親が夕食の準備に手をつけている様子? 二人揃って夕飯を作ろうとしているのかもしれない。
確実に言えることは、彼の頭の中に霧島の姿は無いだろうということだ。奥歯をぐっと噛み締め、改めて殺意を漲らせる。奴らは敵だ、俺は敵を殺さなければいけない。そうしないとこっちが殺されてしまう。
死角になって見えない場所から包丁を構えて、何も知らない父親が入ってきた所で包丁ごと背中から体当たりした。何も叫ばず反応をせず、どたーんと盛大な音を立てて父親が倒れて、そのまま動かなくなった。あまりに呆気なさ過ぎて本当に死んでいるのか心配になってきたため、台所からあるだけの包丁を持ってくると、首、背中、心臓に一本ずつ突き刺した。ついでに小便をかけてみたが、やはり動かなかった。もう死んでいるのだ。
ようやく成し遂げることができたようだった。
死屍累々とも修羅場ともキリングフィールドとも言えるこの場で、霧島は血まみれの椅子に座り込んで盛大なため息をついた。喉が渇いたので台所に行き、手を洗ってから水を飲んだ。もしかしたら蛇口から血液が流れ出るのではないかと心配になったが、ちゃんとした水が出てきてほっとした。
念には念を入れるべきだ、と霧島は思い、父親の部屋に行くと未使用のスーツを見つけ、血で汚れた自分の服を脱いで身に着けた。ネクタイはやり方が分からなかったのでつけなかったが、これで大分奇妙な状況になっただろう自分でも考えた。犯人はスーツ姿の男、被害者は三人、一人は庭で布団に包まれて燃やされており、母親は儀式の生贄に選ばれたのか、テーブルの上に乗せられ様々な物質が付着している。父親はまるでハリネズミのような惨状を呈している。
完璧な精神異常者だ。彼は確信した。これで俺は異常者になれるに違いない。精神病院行きは絶対だ。
彼はもう一度台所に立って水を飲んだ。弟を殺した時にはあれほど興奮していたものが、今では驚くほど落ち着いている。心臓の鼓動も平時にまで穏やかになり、疲れているのか目の前が少しふらふらする。やることはやった、果報は寝て待て、というのはこういうのを言うんだろうか。ついでにレンジの中をみると、良い感じにちりちりした臭いを発する指が二十本入っていた。皿に盛り付けてテーブルの上に置いてから調味料を適当にまぶす。
そのまま一時間、友人とか近所の人を待ったが、誰も来なかった。家族のうちの誰かと約束した人間も、母親の叫びを聞きつけた人間もいなかったらしい。まだ誰かが出歩いていてもおかしくない時間だというのに、住宅街の真ん中で煙が立ち上っていても誰も気に掛けないとは。一体現代人の頭の中はどうなっているんだ?
腹が立ったので弟の携帯電話を壁に投げつけたり本をレンジの中に放り込んだりしていたが、とうとう痺れを切らせた彼は、自分で警察を呼ぶことにした。そっちが来ないならこっちから呼んでやろうじゃないか。
受話器を取って、適当な理由で警察官を家に寄越すよう言った。あーもしもし警察ですか? ちょっと家の中が大変なことになってしまっているので、ちょっと警官を呼んでください。ええ、できれば銃とか持っている人を寄越した方がいいです、はい。ああそれと、なるべく早くきてくださいね。ほんと。
住所や名前を聞かれたが告げるのが面倒くさくなり、苛立って彼は受話器を置いた。病院から戻ったら買い換えようと思っていたので、電話機は床に思い切って叩きつける。どうせ誰かが掃除してくれるだろう。
そのまま待っていると、十五分程して警察官が呼び鈴を押した。彼は無視して待った。二回三回と鳴り、ドアが開く音が聞こえた。誰かいらっしゃいませんかー? と玄関口から告げる声も聞こえてきて、彼は噴出しそうになった。誰もいませんよ、死体ならたくさんいますよ? あはははははははははははっはははっははははははは。
あがってくださーい、と彼は大声を出した。警察官たちの声は何も聞こえなかったが、少しして部屋のドアが開いた。二人いた警察官は両方とも顔を強張らせて、目の前にいる霧島を見た。何を言ったら良いか咄嗟に思いつかなかったから、コップの水を掲げてこう言った。
「まあ、くつろいでください」
その後に関しては分かりきっていた。
逮捕、連れて行かれた交番での事情聴取、警察署への移送そして今度は刑事による事情聴取、留置所、検察による起訴、そして裁判。
裁判の直前に霧島は、ある部屋に連れて来られた。その中では白衣を着た男が一人居て、私は精神科医です、と自己紹介をした。それを聞いて霧島はほっとした、自分が狂人であるとみんなが思っている(少なくとも一般市民は)ということが分かったからだ。留置場にいる間に考え抜いた言葉をきちんと言うことができるか、言うべき事が詰まってしまいわけのわからない単語が飛び出さないかと思い、心臓の鼓動が一段と速くなった。ここが試練の時だった。
護送してきた警察官が部屋の外で待機して二人きりになると、犯行以前の経歴について様々なことを尋ねられた。病気の経験は? 何日間も頭痛に悩まされるといったことは? 人には見えないものが見えたりすることは? もしくは聞こえないものが聞こえたりとかは? 日頃自分の中では非常に重い悩みを抱えていたということは? そして誰かに自分の悩みを打ち明けられなかったということは? 等等。予期しているものもあれば、予期していないような突飛な質問もそこにはあった。
それらの質問に、霧島はできるだけ精神異常者ととられるように答えた。即答するのも不自然かと思い、表面上は少し悩んでから答えた。はい、頭痛はありません。ですが幻覚ならたまにありました。幻聴は一回だけ、具体的な事柄で悩んでいたことはありませんが、自分でもああ、ストレスが溜まってるなあと感じることはありました。もしかしたら幻覚はそのせいなのかもしれません。
長々と話をしたと思ったが、一体どれくらいの時間話し続けたのか霧島はもう覚えていなかった。二時間かもしれないし、五時間かもしれない。もしかすれば二十分程度だったかもしれなかった。部屋を出た後は疲れ果てたせいなのか、大して覚えていない。
二回目に精神科医と会った時、犯行について尋ねられると(というより、犯行について霧島が思い出そうとすると)質問に答えることが途端にできなくなった。これまでで予期したことのない方面から吐き気や頭痛が襲来し、その度に霧島の脳みそを占拠したため、何回も話は中断せざるを得なかった。事情聴取や尋問の時には全く見られなかった症状のため、霧島自身にとっても訳が分からなく、それは理不尽で恐ろしいものだった。もしかしたら人を殺した罰が自分に当たったのかと思い、このまま死ぬかもしれないと内心怯えはじめていた。身に覚えのない身体の変調が起きることがあれば、何だって起き得る。
何回かそういう症状を経験した後で、精神科医は霧島の中で発生したこの症状を、犯行によるショックのせいで発生したトラウマだと認定した。だがそれとは関係なく対話(精神科医は霧島と自身の話をこう呼んだ)は根気強く続けられ、幾多の中断を経て進められて、やがて結果が出た。
精神異常と認定されることはなかった。逆に霧島は異常者を装った健常者であると認定された。
その報を聞いた霧島の脳裏を一瞬にしてパニックが覆い尽くした。法廷内でその証言を聞いた瞬間、霧島はすぐさま自殺をしたくなった。自分の手で首を絞めるなり、机の角に頭を何回も打ちつけるなり、舌を噛み千切るなり、色々と方法はあったが、それ以上の吐き気と頭痛に襲われて意欲が減退し、結果的に取りやめた。
独房に戻ってからも、頭に住み着いたパニックは留まるところを知らなかった。パニックは霧島をレイプするだけでなく、殺そうとすらしているようだった。おいお前、そうお前だよこれから囚人になるお前、番号を割り振られてずっとそれと付き合っていくお前。お前の金は奪われてもう戻ってこないぞ、もうお前はあそこから脱出できないぞ、ずっとずーっとお前はあの中でみんなの死体と戯れるのさ、気が狂っても身体が朽ちてもあの中で家族と遊び続けるんだぞ。もう逃げられないぞもう逃げられないぞ逃げられないにににににげげげげげらららられれれれれななななないいいいいいいいいぞぞぞぞぞぞぞぞぞぞぉぉぉぉぉぉぉうううううううううう………。
そんなのは嫌だ!! 霧島は心の中で叫んだ。せめて自分に対しては気丈に接したかったというのに、ここでも怯えきった小犬のようにか細い声しか出てこなかった。
お前の気持ちなんて関係ない、どうやってもお前は刑務所だ。何年も何十年もあの中で、他の男達にカマを掘られる恐ろしさに震えながらネズミみたいに生きていくんだ。ああいやゴキブリかな? 微生物かな? アメーバみたいな。まあいいやなんでも。
形がないそれはまるで霧島が絶望に陥る時を待ち構えていたように、最も恐れている単語を巧みに使って叫びたてる。怖がらないようにしようと努めていたが、霧島はもう怯えていた。怯えきっていた。
まだ金がある!! 人の金を没収するなんて聞いたことが無いぞ!
馬鹿だなあ、お前。警察官が小額でもパクらないって保証無いのか? それに隣の家の奴は? どっかの泥棒は? それに酒に酔ったガキが入ってきて金を見つけてあらラッキー、持ち去るかもしれない。お前みたいな奴の家に忍び込む専門の泥棒もいるかもしれない。そうなったらどうするってんだ? ん?? いざ家に帰って何も無かったら、お前どうするつもりだ? どうやって生きていくつもりなんだ?
それは鋭かった。霧島が不安に思い、憂慮し、怖がっていることをひきずりだし、形のないナイフでざくざくと突き刺し始める。心が悲鳴をあげはじめ、あふれ出る血液の代わりに涙が出てきた。
黙れ黙れ黙れ! お前なんか消えてしまえ!! 死んじまえこのくそ野郎!
お前は俺なんだよ霧島遼一お前は俺なんだ。俺はくそ野郎、じゃあお前もくそ野郎だな。俺が死んだらお前も死んじまうぞお?
「黙ってくれ」
泣きながら霧島は呟いたが、誰にもそれは聞こえなかった。
「お願いだから、黙ってくれ………」
パニックは黙らなかった。それどころか日々を重ねる度に着実に勢力を増し、じっくりじっくり自分の頭を乗っ取ろうとするかのように思えた。パニックと理性が行なう闘争を固唾を呑んで見守るしかなかった霧島は宣誓や証言もおざなりになったが、これについては誰も気にしなかった。どうせ死刑か無期懲役だろうとみんな(一般市民を含む)が思っていたからだ。
正気と狂気が隅々まで交じり合った、非常に不安定で虚構に満ちた数ヶ月だった。その間霧島は起きて、食べて、差し入れられた本を読み、法廷に出廷し、帰ってきて飯を食い、本を読み、寝る。これをずっと繰り返した。というかは、無理矢理にでも継続させようと固執していた。その間も形がないものは霧島をいびり続け、追い詰め、狂わせようとしていた。あれほど待ち望んでいた狂人の服を着せようとしていたが、それを着てしまえば絶対に脱ぐことができないことは霧島にも分かっていた。
次第に自分の心がここではないどこか別の場所に移動していき、第三者的視点から実際に動き回る肉体としての自分を見守っているみたいだった。あたかも生霊になった人間が自分の身体をじっとみつめるかのように。身体の中では未だに理性と狂気が争いあっていたが、そんなのは霧島にとって遠い出来事に過ぎなかった。心は空へと舞い上がり、何もない場所をじっと見つめていた。そこでは煩わしいと思えるものが何も無く、霧島は自由でいることができた。
そしてようやく裁判長が判決を下した。
無期懲役だった。
未だにパニックと喧嘩していた霧島は、その言葉を聞いて一瞬だけでもパニックを忘れた。心はすとんと空から落ちてきて、脳みその感覚が繋がり、じわじわと嫌な臭いのする液体を放ち始める。無期懲役、つまり刑務所の中に入ること、一生その中にいること。それが霧島の定義だった。ああ何年かすれば出られるんだっけ? 何年だ? 三十年? 四十年?
つまり………希望に繋がる糸は完全に千切れてしまった。あとは天上を見上げながら落下していき、奈落の底で亡者に食われながら絶望するしかなかった。
二度と真っ当な人生を生きることができない。
たった今耳にした単語を完全に理解しきった時、パニックは益々恐ろしいもの、それこそ怪獣のように大きなものとして迫ってきた。霧島の理性は白旗を揚げて降参しながら逃げ惑い、先のことについて考えまいとした。それ以上の執拗さでパニックは彼を叩き潰そうとした。事実そうなる直前だった。後になってから控訴や上告によって判決に異議を唱えることができることに気付いたが、もう後の祭りだった。
いざ刑務所に収監される際、霧島は恐怖と絶望と虚しさのせいで死んでしまうのではないかと思ったぐらいだった。
その頃にはもう、殺人の際に彼の中に染み付いた狂気は残らず落とされ、漂白された後の洗濯物みたいに、真っ白い人形みたいな人格が残っていた。今となってみれば、どうしてあんな殺し方をしたのかさえ思い出せない。気が狂っていたのか? 多分、そうだったんだろう。一時的に気が狂っていた。頬は痩せこけて、身体が逮捕された時よりも明らかに細くなり、頭髪の一割か二割は白髪となっている。しかし誰も気に掛けなかった。
パニック(既に理性と半ば成り変っていた)は大きく霧島の頭に鎮座し、全てを食らおうとしていた。もう霧島は抗うのをやめて、完全にされるがままの状態になっていたが、しかし別れ際に刑務官がくれた鉛筆とメモ帳によってそれは思いがけなく解消された。顔が完全に死人だった霧島を心配したのか、これに何か思うものを書いてみろ、そうすると大分楽になると思うから、そう言うと刑務官は霧島の肩を叩いて、誰も見ていないうちにポケットの中へそれらを押し込んだ。当の霧島は、刑務所生活への不安と絶望のせいで、部屋に入るまでその存在すら忘れていた。
最初こそこれで自殺してやろうかと自棄だったが、二日目の夜、部屋の中にいる全員が寝静まってから霧島はメモ帳と鉛筆を取り出した。暫くの間ぼんやりとそれを見つめていたが、やがて暗闇の中で書き始めた。適当な詩、獄中に閉じ込められた恐ろしさと虚しさを書き綴っただけのものだった。
だが効果は絶大だった。最初の一週間であれほど脅威と化していたパニックは殆ど萎んでしまい、二週間目に入るとあの金、夢へと繋がる部品を数えていた時と同じようにうきうきするようになった。同室にいる趣味が合わない奴と無理に話すよりも、真っ白な手帳と向かい合う方がよっぽど楽しかった。思いつくものを何でも書き散らし、恐ろしいと思うもの、憎いと思うもの、欲しいと思うもの全てを書き殴った。その段階まで来ると、刑務所とはそれほど恐ろしい場所ではないことに気がついた。レイプされる人間なんてほんの一部だし、霧島には殆ど無縁だった。飯は一応食べることができるし、物は買える。ある程度の自由があった。
彼は鉛筆とメモ帳を抱いて眠るようになった。
ある日、月明かりを頼りに、夜中に半ばページが埋まった手帳を眺めていると、彼は泣きたくなった。自分がやった凶行に全く悔いは無かった。弟は死んで当然の存在だったし、両親も同列だった。罪から逃れるために行なった事も、あれはむしろ殺人という異常な雰囲気に呑まれた結果、やってしまったのだと霧島は思っていた。だが、何人も殺して人を欺こうとして、手に入れたのが刑務所での臭い飯とメモ帳、鉛筆だけなのかと思うと、やはり虚しくて悲しかった。生きる目標、喜びになっていたあの金は最早霧島の手が届かない所にあり、自身にもトラウマというどうしようもない心の傷が出来てしまった。それは大きく深い傷をつけられ、涙の代わりに苦痛を零し、いつだって近づくことができなかった。
だから彼は、以前と同じように布団を被って泣いた。誰も起きなかったのは幸いだった。そうして霧島は、なんとかこの刑務所で生きていくことができた。
金は幾度と無く夢の中に出てきた。弟を殺した時と同じ、血に塗れた状態でそれは霧島の手の中にあった。彼はそれを握り締めて街中を歩き、何とかしてこれが使える店を探そうとしていた。だがどの店も霧島を見て、もしくは金の有様を見て入店を断り、やがて町の中には入れる店が一つもなくなってしまう。ぽつんと吹きすさぶ風の中に霧島が取り残されると、やがて金も吹き飛ばされて、空に舞い上がって消えてしまう。そんな夢だった。
何度か見た後で、あの金はばったりと夢に出なくなった。代わりに暗闇の中で、霧島一人が取り残され、手の中には金の代わりにメモ帳とボールペンがあった。
その時こう思った―――あの金は、俺の目の前から永遠に消えてしまったのだと。
「おい、そろそろ起きろよ。おい」
頬をぺたぺたと触られて、ようやくそこで霧島の意識が覚醒した。一度二度瞬きをしたが、そこは刑務所内にある馴染みの和室ではなく、豆電球が吊り下げられた別の場所だった。茶色っぽい天井を見上げながら起き上がろうとすると喉の辺りが痛み、咳をする。
「ここ…、どこだ?」
「割り当てられたテントの中だ。他の奴も大体ここにいる」
声がした方を見ると、美村が体育座りの姿勢でいた。寝起きのせいか動こうとしない首をなんとか巡らすと、自分と同じような格好をした人間が三人いる。一人はぼんやりと寝そべっており、もう二人はなにやら言葉を交し合っている。そのうち寝そべっていた男が起き上がる。あの傭兵だった。
「お、起きたな」
首を回しながら言った。
「ちょっとタバコ吸ってくる、ついでに水でも貰ってきてやるよ」
傭兵は高い背を器用に曲げつつテントから出て行った。その間から外が見えたが、もう日は落ちていた。自分は何時間眠っていたのだろう?
「大体四時間くらい気絶してたんじゃないかな」
霧島が尋ねる前に、美村が先に言った。なんか病気でも抱えてるのか? と笑いながら言う。何と答えたものか分からなかったので、霧島は首をすくめることにした。どうせ人に話しても信じてもらえる代物じゃない。
そうだ、と美村が思い出したように言うと、尻ポケットから紙を取り出した。手渡してきたのでそれ何だ?と聞くと、明日からの予定表だって、と言う答えが返ってくる。
中はパソコンで打ったように無機質な文字でスケジュールがびっしりと書き込まれていた。朝七時起床、七時三十分に身支度を整え、訓練開始。訓練の内容はサバイバル訓練、器具の使い方指導、射撃訓練などなど。
射撃訓練?
美村に聞くと、「向こうは危険かもしれないから、最低限銃の使い方を学ぶんだって。なんか拳銃とか、そんなの」と自信なさげな答えが返ってきた。おそらく自分が銃を持たされることを想像できないのだろうが、霧島も同じく想像できなかった。この俺が、拳銃を撃つ? 撃つにしても何を撃つってんだ? こんなズブの素人が?
「何シケた面してるんだ」とその時、テントの外から声がした。振り向くと、水が入ったペットボトルを手にした傭兵が立っていた。ほれ、と霧島に水を投げてよこす。不意打ちだったので受け止められず、床に落としたものを拾い上げる。
「あーそうだ、まだ自己紹介とかしてなかったな。俺、高田って言うんだ。よろしく」
やけに人懐こい笑顔で霧島と美村に近づくと、高田は二人に握手を求めた。傭兵ってこんなにフレンドリーなもんなのか? と思いつつも霧島は手を握る。やはりというか何と言うか、長年の作業で鍛えられたみたいにごつごつとしていた。
気がつくと、三人からは離れて話し込んでいた二人もこっちに来ていた。そのうちの一人、背の高いほうが自己紹介をした。
「篠田だ。こいつは熊谷って言う」
脇にいる丸刈りを指差す。丸刈りの男はこっくりと頷いた。
「よろしく」
最初の印象では、篠田の方はなんとなく無口そうな奴だと思った。一言だけ言うと、むっつりとした顔で黙り込んでしまう。熊谷の方は道を歩いていればすぐに見かけそうな、どこにでもいるようなタイプに見える。多分二人とも犯罪者なのだろうが、霧島には二人がそんなことをするようには見えなかった。そう思った時、犯罪というのはそれをしそうにない人間が一番するものかもしれない、ということに思い至った。この二人の他にも、その、美村とか。
とりあえず二人と握手しておいてから、霧島はあることを聞いた。
「そういやさ、あの教官…説明してた男だけど、何て名前なんだ?」仏頂面の美村が答えた。「最後まで自己紹介とかしなかったよ、あいつ。霧島をテントから連れ出してから斉藤を一発殴って、それから解散になった」
霧島にはその理由が分かるような気がした。多分、こんな奴らに自分のことを紹介する意味などないと思ったのだろう。明らかにあいつは俺たちを軽蔑している。それは実際に目を見てすぐに分かった。
ぐいと水を飲んで霧島が寝転がったが、その横で美村が高田にこんな質問をしていた。
「なあ高田…さん、あんた何も言われてないけど、その何したんだ?」
おそるおそると言った口調だった。なんでそんな質問をするんだ、と霧島は思ったが、きっとそれが美村なりのコミュニケートなのだろう。少なくとも本人はそう思っている。どう見ても聞かれて楽しいと思われるような類のものではなかったが。
「俺は何にもしてないよ、というか…あんたら、要するに犯罪者、だよな?」
霧島はごろりとテントの壁に目を向ける。高田の問いに答える篠田だか熊谷だかの声が聞こえた。
「そうだ、俺たちみんな犯罪者だ」
ああそうなの、と平然とした声で彼は答えた。それどころか、どんな犯罪をしたんだと質問さえしたことに霧島は驚いた。普通の人間は犯罪者なんて人間の屑だと思ってるから、一緒の部屋に入ることさえ怖がるか、嫌悪するんじゃないのか。
その内に話がはじまったが、霧島は参加しようとは思えずに横になっていた。すぐ近くで話していることもあり、声は普通に聞こえてきたから、高田がどんな人物で今までどんなことをしてきたのか、大体において分かった。
ガキのころから戦争映画やアクション映画が大好きで、いつか兵士や特殊部隊の男たちのように祖国や家族のために勇敢に戦いつづける男になりたかった。別に家を継ぐような立場にいるわけでもなかったから、高校を卒業してから海外の紛争地帯に向かった。日本みたいに平和ボケしている国じゃ戦うことなんて無理だと思ったからだ。アフガニスタンやアフリカにイラク等、普通の感覚をしている人間なら二の足を踏むような地へと平気で足を踏み入れ、最終的にはビルマのカレン族軍隊の所で初めて傭兵になった。何でもビルマは日本人傭兵の登竜門らしいから、自分の他にもそういった希望者がたくさんいたらしい。明らかにヤクザあがりの人間や、殺人を犯して逃げてきた、という人間も普通にいたため、犯罪者との免疫なんて一番最初に無くなってしまった。おおっぴらに話せることではないが、犯罪者同士で作っているグループの会合にも一度か二度参加したことがあるらしい。
仲間の多くが死んだり負傷したり、訓練に耐えられないのか失踪したりするのを横目に見ながら二年ほどそこで戦った(戦う、と平然と高田は言ったが、霧島にはそう言うことができる感覚を心底すごいと思った)。それからはイスラエルでぽつぽつと発生している紛争に加わった。はっきり言って地元の人間からは疫病神のような扱いを受けたらしいが、高田はそれでもめげなかった。いじめに近いような待遇でも一年間意地になって戦線にしがみつき、愛用の銃を片手に戦い抜いた。そのころになると手持ちの金も殆ど底をつき、日本でバイトしようと帰ってきた所でスカウトされたらしい(「傭兵っておまえらが思うほど金を稼げるわけじゃないんだ」と高田は照れくさそうに言った。「月の収入なんて悪けりゃガキの小遣い、よくてもサラリーマンの給料の半分ぐらいだ。映画で傭兵ってのはやたらと大金取りでバーで高い酒を飲んでいるみたいに描かれているけど、ありゃ嘘だな。映画関係者は一回リアルの傭兵に取材するべきだよ」)。
高田の話が終わると、美村や篠田が話の中で気になった事柄について色々と質問しはじめていた。そんなに暇なら、いっそのこと眠ったほうがいいんじゃないだろうかと思い、時計を見ようと思ったが霧島は時計を持っていない。テントの中にもそれらしい壁時計は見当たらなかった。仕方ないので熊谷に尋ねると、ちょうど持っていた腕時計を見せてくれた。夜の八時。
「就寝時間は九時だ。あと一時間ある」とだけ言うと、熊谷は何も言わずにテントを出て行った。トイレに行くのかと思ったが、考えても仕方ないので元の位置に戻った。少しの間何をして時間を潰すか考えていたが、やがて小説を書くことに決めた。そのためには刑務所から送られてきたはずのバッグが必要だったが、テントの中には見当たらない。高田に聞いてみた。
「あるとすれば、本部の方じゃないか? 俺たちはここに入る前にバッグを貰ったから何とも言えないんだけどな」
仕方がないのでテントから出ると、ご丁寧に揃えてあった靴を履いて本部に向かうことにした。場所自体は高田から聞いておいたので分かっていたが、日はとっぷりと暮れているしどのテントも同じ迷彩柄なので、それっぽいものをしらみつぶしに当たっていくしかなかった。
この広場が元々あったものか、それとも木を切り倒して作ったのかは分からなかったが、時間が無いんだったら元々あったのを流用したのかな、と思った。辺りには紅葉がちらほらと見られて、夜の中でも鮮やかに綺麗だった。空には白にも黄色にも見えそうな月が浮かんでいて、なんとなく月の表面で兎が餅をついている絵が頭に浮かぶ。彼らは何を考えながら餅をついているのだろう。
ぐるりと周りを見渡しながら進んでいると、あちこちで兵士たちが立ち番をしているのが目に付いた。向こうは霧島を見かける度にじろりとした目で睨んでくるのだが、ただそれだけでこっちに近づくと言った事は無かった。外に出なければどこに行っても自由、ということか。おそるおそる兵士たちに本部テントのことを尋ねて、ようやくそこまでたどり着くことができた。
外からでは中が静まり返っているように見えたので、すみませーん、と霧島は声をかけながら垂れ幕をあげた。中では名称不明の教官と何人か、テーブルを囲んで話をしていた。音に気付いて一斉に霧島の方を向くと、驚いた霧島はバッグを取りにきたのですが、といかにも申し訳無さそうな声で言った。そのうちの一人は腰のホルスターに手さえかけていたので、もしかすればこのまま撃たれてしまうのではないかと肝を冷やしながらバッグを受け取る。中身を確認すると、急いでテントから出た。背後にはまだ教官たちの視線が刺さっているような気がした。
帰りも行きと同じような兵士の視線に晒されながら歩いていると、急に霧島はこの状況がとてつもなく恐ろしく、不気味なものに思えてきた。今まではこの状況は夢みたいなもので、何か刑務所側が施行することにした新種のレクリエーションのようなものだと心のどこかでは考えていた。論理的にはまったくつじつまが合わなくても、それこそ悪夢の一種みたいに目が覚めさえすれば、ぱっと事態が元に戻るのではないか、と。やはり自分がいるのは刑務所の中で、手にはボールペンと手帳を抱いたままで、窓からは月明かりが薄く差し込んでいるのだ、と。
ところがそうならなかった。射撃訓練、実際に銃を携えた兵士、今ここで自分が抱えているバッグ、教官の痛みさえ感じられる鋭い視線。すべてが現実だった。今まで空想の中で漂うだけだった悪夢が、急速に現実となりはじめていた。幻覚は形を取り、質量を持って脳内に侵入し、林の向こうでは虫の鳴き声が聞こえている。耳に指を突っ込むと音は聞こえなくなる。離すと聞こえるようになった。
これは現実なんだぞ、自分に言い聞かせた。俺はこれから俺達全員を殺すことができる人間から訓練を受けて、日本中(もしかすると世界中かもしれない)から集められた人間たちと共に意味不明の場所に放り出されるんだ。そこでは訳のわからない怪物がうようよしていて、隙あらばこっちを食い散らかそうと油断なく見据えている。もし逃げ出したりすれば、怪物ではなくて兵士によって自分は撃ち殺されるだろう。
さっきまでは空いた時間が暇で暇でしょうがなかったというのに、今ではそんな気が全くしない。軽く気分が悪く、何もかも放り投げて横になりたかった。当然のように小説を書く気にもならなかったからまっすぐテントに帰ると、「気分が悪い」と言って脇に積み上げられていた寝袋に無理やり体をおさめた。同室の男たちはさっきまで気絶していた霧島の事を思ってか、無理に声をかけようとしなかった。美村は一言、おやすみと言った。
現実に聞こえるその声が、やたらと頭の中で反響した。意識がまた暗闇に落ちるまで、それは霧島の傍をついて離れなかった。
森は静かだった。少なくとも、表面的には。
遠方から見て最も高かった木の頂上にある枝に座り込みながら、ミスティア・ローレライは何をするわけでもなく夜を眺める。気の済むまで存分に歌ってそこいらの生き物を鳥目にしてやっても良かったけれども、今は生憎その気分じゃなかった。そういえば、ここでは随分と歌っていない。
真下に広がる森林や月を眺めつつも、彼女はどうにも奇妙な違和感を覚えていた。体の中で蠢く腫瘍のような、そんなしこりにそれは似ていた。ここ数日で発生したような簡単なものではなく、いつのまにか森全体をそれが覆い尽くして、不気味な感覚がのっぺりと広がっていた。彼女は馬鹿だからそれを言葉にする術を知らなかったが、そもそも言葉にできたとしても誰が聞くものでもない。歌詞にするにしてもこれをどう表現すればいいのかよく分からなかった。
最近はこの森も変わった。今までよりもずっと。
前まではこんな夜には生き物みんなが静まり返り、わざわざ暴れまわると言った無謀で益のないことはしなかった。だが今は違う、今では夜の中でも食うわけでもないのに生き物同士が殺し合い、木々は嫌な臭いを放ち、空は淀み鳥も狂い始めている。本来なら流れ流れて様々な場所に向かう筈の空気が固まってしまい、森の上をぐるぐると回っている。端的に言うと、この森は息が詰まりそうな場所になっていた。
とは言っても、ミスティアでさえなかなかこの異変に気付けなかったのだ。自分よりも遥かに鈍感な人間どもは気づかないだろうし、仮に気づくとしてももっと後のことになるだろう。あの巫女や魔法使いならばちょっと分からないが、それでも時間がかかるのに変わりは無い。
近くの村に住んでいる半獣は気づいているかな、とミスティアは疑問に思い、彼女には珍しく頭をひねってみたが、しかし答えは出てこなかった。というか、途中で考えることが鬱陶しくなったからやめた。気付いても気付かなくてもそれで構わない、という結論で落ち着いた。
座り込んでいる巨大な木の枝から離れると、ミスティアは暑気を含む夜空へと踊り出た。ここにいても大して面白くないから、どこか別の場所に行って歌おうと思った。こんな暑苦しい夜なのだから、いつまでもこんな所にいる所以はない。
夜雀が立ち去った後、森では虫の鳴き声と獣の唸り声が続き、一晩中それは止まなかった。暑さはこの場所で益々集まり、どんよりと濁り、やがて腐ってしまうかと思うほどに留まっては消えていった。
ありがとうございます。
とりあえず面白くはあるのでがんばってほしい。
いくら、徐々に膨らんでいく封筒の中身を見るのが楽しかったからって、稼いだ金をわざわざ現金化して部屋に置いておくのは、盗ってくれって言ってるようなもん。口座に貯金しとけば暗証番号知られなければ引き出せないんだし。
精進します。