※ 本作品は、一部に人喰い及び血の描写を含みます。ご注意下さい。
私がそれと遭遇したのは、逢魔が時を迎える時分。いつもの見回りを終え、博麗神社に戻ろうとしている時だった。
地上近くを飛行していると、頬を撫ぜる微風の中にふと血の臭いを感じ取った。私は空中にとどまり、周囲に目をやる。眼下には、夕焼けの光も月明かりも届かない、黒く沈む森。
勘だけを頼りに、私はその森の中に降り立つ。そこは、いまだ残照の映える空よりも一足早く、夜の闇を迎え入れていた。闇は思った以上に深く、目が慣れない内は足元の確認さえままならない。まるで、底無し沼に足を踏み入れてしまったかの様な錯覚にとらわれる。
とっぷりと暗く沈んだ森は気味悪く静まり返り、木々は死んだように沈黙している。闇が、光のみならず物音まで呑み込んでいるようだった。
しだいに目が暗さに慣れ、二、三度まばたきをする。もう大丈夫だろう。
私は勘と、先程よりも確かに感じられる様になった血の臭いを頼りに、森の中を歩く。いつからこんなに鼻が利く様になったのだろうとふと思ったが、この仕事をしていれば、こうして血生臭い出来事に遭遇する事も少なくないから、段々と血の臭いを敏感に感じ取れる様になって来たのだろう。
そんな能力が身についても、ちっとも嬉しくない。
どうにも気が乗らない。一日の締めくくりがこれか、と思うと、溜息も出る。仕事とは言え、そういう気分の時もあるのは当然だ。こういう時は、さっさとカタをつけて帰るに限る。
私は足の運びを早める。
闇の色が深まるにつれ、血の匂いが、次第に強くなって来るのが分かる。
ぴちゃ、ぴちゃ、という水音が闇の向こうから微かに聞こえて来たのは、そんな時だった。
その音は粘性を帯びていて、私の耳にねっとりとまとわりついて離れない。
不快な音だ。
音の主――そして血の臭いの主は近い。もう遠慮する事も無い。私はさらに足を速めた。
「そこまでよ」
しゃらんと紙垂を鳴らし、手に持つ祓串を正面の暗がりへと差し向ける。
その方向、闇の中でもなお暗い黒に塗りつぶされた深い森の中に、うごめく影。
水音が止んだ。
おぼろげに見えるその影は四つん這いの姿勢で居て、顔だけをこちらに向ける。両の眼だけが、闇の中で赤い光を放っていた。
私は影の正体に興味などは無い。眼の色の禍々しさで何かしらの妖怪である事は分かるし、第一、妖気が駄々漏れだ。こんな逢魔が時に森の中で妖気を垂れ流しにしてうごめく妖怪と言えば、大概は低級のヤツと相場が決まっている。
問題はと言えば――。
私は祓串をそいつに向けて牽制しながら、ためらう事無く一歩二歩と近付いて行く。そのたびに、血の臭いが蜘蛛の巣の様にまとわりつく。
そいつが顔を伏せっていたあたりに眼を凝らすと、そこには、何かの影が横たわっていた。
暗くて背格好は判然としないが、やはりと言うべきか、それは人間だった。頭部が力無くごろんと横になっている。
どこかの里の者なのか、それとも外からの迷い人なのかは分からない。だが少なくとも、その者の命が既に屠られている事だけは確かだった。そして、先程の水音とを考え合わせれば、その身体も……。
見回りの経路が違っていて、もっと早く発見していれば、助ける事が出来たかも知れない。けれど、そんなありもしなかった情景に思いを馳せたところで、その者の供養になるとも思えなかった。
私は二歩三歩身を引き、あらためて祓串を突きつける。
「悪いけれど、博麗の名において、あんたを退治するわ」
喰われてしまったその人間がどこかの里の者であるならば、博麗の巫女として、人に仇なす妖怪を退治しなければならない。またその人間が、幻想郷の外から迷い込んだ者であったとしても、この妖怪が人間の血肉の味を覚えてしまった以上は、やはり排除の対象となるのだった。
そいつに人語を解するほどの頭があるとは思っていないが、私はどんな場合であっても、こうして口上を述べる事にしている。
もっとも、本当に力と獰猛さしか能が無い単純馬鹿であれば、私がこうして現れた時点で襲い掛かって来ているだろう。しかし眼前の妖怪は、食事の邪魔をされて怒り狂うでもなく、むしろ更なる“食料”の出現に喜んでいる様だった。
今そいつは四つん這いの姿勢のまま、醜い瞳をギラつかせて舐め回す様にこちらを見ている。目の前のヤツをどうやって喰ってやろうか、とでも考えているのか。
冷静に相手を仕留めようとしているあたり、多少は知恵がついているのかも知れない。だが、低い呻き声を漏らし、更には今にも喰いつかんばかりに歯をむき出しにしているあたり、内に秘めた凶暴さを隠せていない。
所詮は、その程度の妖怪なのだ。
ただ、野獣がエサでも見るかの様な眼で睨まれるのは正直いい気はしない。
むしろ――不快だ。
やはり今日は、さっさと終わらせてさっさと帰って寝よう。そもそもこちらには、相手の出方を待つ理由など無い。
私は得物を取り出そうと懐に手を入れる。
その動作に釣られたか、相手が咆哮を上げて四つ足のままこちらに飛び掛って来たのは、私が札と針を取り出したのとほぼ同時だった。
私は落ち着いて上に飛翔し、そいつをやり過ごす。そしてくるりと身体を後ろに回すと、相手はこっちより一拍遅れで向き直ろうとしているところだった。
「……所詮は、こんなもんね」
動きを封じる札をそいつの振り向きざまに投げつけ、更には針を数本打ち込む。それだけで勝負はついた。
「――で、何であんたらがいるのよ」
今日の仕事はもうおしまい。だから、博麗神社に帰り着いた私は本殿の方には行かずに、そのまま裏手の母屋の方に降り立った。そんな私を迎えたのは、縁側に腰掛ける魔理沙と紫だった。
当たり前の様に勝手にお茶を用意して飲んでいるあたりには、もう突っ込む気すら起きない。
「よう霊夢、どこ行ってたんだ」
「どこって、仕事よ仕事。私はあんたらみたいに年中自由奔放の暇人してるんじゃないのよ」
「ひどいぜ」
「ひどいわ」
言葉を合わせ、二人していつもの表情でのん気に笑っていた。相変わらずの二人に、私は嫌味ったらしく盛大に溜息を吐き出した。嫌味が通じる様な連中ではないと知りつつも。
私はあれから、一度里の方を回ってから、ここに帰って来た。
あの人間はまだ若い男で、幻想郷内の者だった。山菜採りか何かで里から山に出掛け、道に迷っている内に妖怪に見つかって……というところだろうか。外の迷い人は大抵は見た事の無い服装をしているので、着ている物を見ればそのあたりの判別は出来る。
あちこちに深い傷が刻まれ、臓物がある程度喰われてしまっていたが、亡骸としての原形は留めていた。
しかし、私一人の力で成人男性の身体を里まで運ぶのは、まず不可能だった。そのため、私は里へと飛び、慧音と話をつけた。そして、私が現場まで案内し、彼女と里の男たち数人で彼の遺体を運ぶ事となった。
物言わぬ骸と化した彼の姿を目の当たりにして、慧音は沈痛な表情を見せたが、それでも私に礼を言い、男たちと遺体を連れて里へと帰っていった。
私に出来る事はこれ以上は何も無いと考え、慧音たちとはそこで別れたのだった。
「それで、お賽銭も入れてくれないのに、こんな時間に何の用?」
慧音たちの案内をしていた事もあって、すっかり日が暮れてしまっている。代わりに、しっとりとした月明かりが慈雨の様に優しく地上に降り注いでいた。もう、そんな時間帯なのだ。
まあ、こいつらの場合はさしたる用も無いのに時間を問わずここにやって来るので、そんな事は聞くだけ詮無い事なのだけれど。
「ちょっとお茶っ葉を切らしてしまってな、それで霊夢におすそ分けして貰いに来たんだ」
「秋の夜長は霊夢としっぽりするのが、この季節の私の楽しみなのよ」
ほう、魔理沙の方は一応は用事があった訳か。紫はこの際放っておこう。
「お茶っ葉? まあ分けてあげるけど、いつもの魔理沙ならわざわざ断らないで勝手に持って行っちゃいそうなものじゃない。どうしたの?」
「いやまあ、お茶っ葉ならもう頂いてるんだ。ほれこの通り」
と、魔理沙は右手の布袋を私に見せる。私は呆れるしかなかった。
「じゃあ何でまだここにいるのよ」
「まあ、ここに来たついでに霊夢の晩飯でもご馳走になろうと思ってな」
「私も。霊夢の御飯食べたいわ~」
「帰れごくつぶし共」
「ひどいぜ」
「ひどいわ」
ホント、いつも通りのやつらだなと思う。人の気も知らないで。
そんな二人はほっといて、私はさっさと部屋に上がる。夕餉はともかく、今日は湯浴みをしない訳にはいかない。が、こいつらはどうしたものだろう。
私は、縁側に腰掛けてお喋りをしている二人の後ろ姿を見やる。ゆったりとした金色の髪が並んでいた。そのどちらも、月明かりをそっと受けて、さらさらと流れる様な綺麗な後ろ髪をしていた。
けれど両者には、決して目を瞑る事が出来ない違いがある。
一方は人間。そしてもう一方は、その人間という生き物を喰らう、妖怪なのだ。
――魔理沙、分かってるの? そいつは私たちと同じ「人間」を、喰うのよ?
けれど、それを魔理沙に言える立場には無い。私だって普段は、この胡散臭い妖怪を相手にしてお喋りをしている訳だし、憎まれ口を叩き合うのも日常茶飯事だ。
しかし、人を喰う妖怪を、そして実際に喰われた人間を目の当たりにした直後に、それと同じ本質を持つ相手と馴れ合う気にはなれなかった。ましてや、食事の用意をして卓を共にするなどもってのほかだ。
「あー、そうそう、夕餉の事なんだけど、今日は作らないわよ。さっき慧音に会いに里に行った時、ちょっと頂いて来ちゃったから」
だから私は、二人をさっさと追い出そうとそんな事を言った。何も貰ってはいないが、慧音の所に行っていたのは事実だから大した嘘にはならないだろう。
大体、何故こんな日に限って、あんたたち二人、なのだ。
もし居たのが魔理沙だけだったら、夕餉までたかろうとするその根性に悪態を突きつつも家の中へと招き入れ、共に夕餉の支度をしていただろう。そうして魔理沙と一緒におかずを突きつつ、次第に人心地がついてきたら、珍しく私の方から酒の一つでも振舞っていたかも知れない。
居たのが紫だけだったら、いつもより少し邪険に対応していたに過ぎないだろう。
そして、二人が来たのが明日であったなら、もう少しましな対応も出来るだろう。
しかし、今というこの時に、目の前に人間と妖怪の両者が居る。私は、どのような立ち位置にいればいいのだろう。いつも通りの私か、それとも妖怪退治を生業とする博麗の巫女か。
結局、いつも通りに振る舞えないのなら、どちらも叩き出すしかないのだった。
「何だ、そうならそうと早く言ってくれよ。待ち損じゃないか」
「勝手に待ってたのはあんたでしょ」
つい、きつい言い方になってしまう。……いや、いつもの私もこんなもんかな。普段は自然にこなしている事を変に意識してしまうと、却って加減が分からなくなる。
「まあ、霊夢の言う通りだな。じゃあ私は帰るぜ。お茶っ葉ありがとな」
「見返りを期待してるわよ」
「のび切ったお茶っ葉ならいくらでも返すぜ」
「さっさと帰れ」
「冗談だって。そんじゃな」
魔理沙は箒にまたがりながらいつもの笑みを見せて、そのまま帰っていった。基本的にはさっぱりとした性格をしているので、後に引く事が無い。そこは魔理沙のいいところだと思う。
「……で、個人的にはあんたにお帰り願いたかったんだけど」
私は相変わらず縁側に腰掛けたままの紫の背中に、出来るだけ嫌味ったらしく言った。さして暑くもないのに扇なんか取り出しちゃって、悠々としている。完全に居座る気だ。
「私は夕餉が無くても構わないわよ。藍が作った食事を食べて来たから」
「何だ、私はてっきり、あの式神に離縁状でも叩き付けられたから、ここにたかりに来たんだと思ったのに」
「あら、そんな事無いわよ。藍は敬愛する私のために今日も美味しい食事を作ってくれたわ」
「はいはい、ごちそうさま」
敬愛、ね。だったらこんなトコに来ないでその式神としっぽりしてなさいよ。
と、そんな下らない事を思う一方で、紫の言葉を受けて、私は脳の隅っこで一つの疑問を発していた。
――ねえ、紫。それは、人間が食べる様な食事? それとも、人間“を”食べる様な食事?
もちろんそんな事は聞けない。藪をつついて蛇を出す様なマネはしないに限る。それに、今日食べたものが何であれ、紫が時として人間を喰っている事はまぎれもない事実なのだ。
どうあれ、紫は魔理沙の様に大人しく帰ってくれそうには無い。
頭のリボンを解くと、髪が肩の荷を降ろした様にさらりと流れ落ちる。いつもならこれで巫女としての勤めから解放されるのだが、今日はスキマ妖怪のお守りという、厄介な残業があるのだった。
私はいったん部屋を離れ、風呂釜に火を入れる。風呂が沸くまでに紫が帰ってくれたらと思ったが、それは期待しない事にする。
私もお茶を淹れ、紫と並んで縁側に腰掛ける。もちろん、私は紫としっぽりする気などは無い。適当に喋って適当に喜ばせて、適当なところでお引き取り願うのが、結局はいちばん手っ取り早いのだろう。
「お風呂が沸いたら帰ってよ。私はのんびりと入ってたいから」
「湯上がりで上気した霊夢……。いいわぁ。想像するだけで涎が出そう」
「やめんか変態」
先制攻撃は失敗。まあ、一緒に入るとか馬鹿な事を言い出さなかっただけマシか。
「あら、そう言えばリボンは取っちゃったの?」
「そりゃあ、四六時中つけてる訳ないし、もうすぐお風呂だし。変かしら?」
「そんな事ないわよ。……髪をおろした霊夢もいいわねぇ。食べちゃいたいわ」
扇を閉じて口元に当て、妖しげに笑ってそんな事を言う。おちょくってるのかこいつは。
……実際、おちょくってるんだろうな。
いつもの私なら、この程度の売り言葉など軽くいなして三割増の買い言葉をお見舞いしているだろう。でも今の私は、冗談とは言え「私を食べる」という言葉への嫌悪感が先行してしまい、しかめっ面を返すだけにとどまるのだった。
それにしても。
どうも、今日私が何をして来たのかを紫は知っていて、そんな事をわざわざ言っている気がする。さっきからの紫の発言を振り返れば、食についての事ばかりだ。腹が減っている訳でもあるまいに。
と、そこでひとつの事実に思い当たった。
――血の臭い、か。
紫だって正真正銘の人喰い妖怪。人間の血の臭いに対しては嗅覚が敏感に働く事だろう。たとえ、誰かの血の臭いがわずかに移っているだけでも。
紫ならば、それだけの手がかりで、私の今日の出来事を大方は推測出来てしまうだろう。そしてさっき私は、仕事で出ていたと言った。私の仕事が妖怪退治である事は自明。紫の推測に決定打を与えたのは私の方だったのか。
皮肉を込めた発言が裏目に出るのは癪である。
そして、こっちからはその話題を出さないだろうと踏んだうえで、私を食べたいだの何だの言っているのだ。こいつは。
さっき紫は「霊夢の御飯食べたいわ~」などとのたまっていたが、あれは私を御飯にするという意味か? 冗談じゃない。
「あんたもつくづく性格が悪いわね」
「あら、何の事かしら」
「私が妖怪退治をして来たのを分かってて、そんな事を言ってるんでしょ。あんたが想像している通り、今日は妖怪を一体退治したわよ。罪状は里の人間を食べたから」
だから、あえてこっちからその話題を振ってやった。人間が妖怪に向かって妖怪退治の話をするとは、なんと奇妙な光景なのだろう。
紫は少しだけ意外そうな表情を見せたが、すぐにまた、何を考えてるのか分からないいつもの薄気味悪い笑みに戻った。
「そりゃあ、これだけ血の臭いをプンプンさせられたら、私だって、こう、ついムラムラとしちゃうじゃない」
「そんなにプンプンさせた覚えは無いわよ」
犬並の嗅覚ね、とでも言ってやろうかしら。
やはり紫は、分かっていながら食の話題を振っていた。そして、それに対しての私の反応を見て楽しんでいる。天下の大妖怪様はいいご趣味をお持ちである。
加えて、どうやら紫は、人間の血の臭いによって人間に対する食欲が少なからず喚起されるみたいだ。不気味な笑みという仮面の下に、人喰い妖怪という彼女の本質が見え隠れする。やはり紫は――正真正銘の妖怪なのだ。
「それにしても……あれねぇ」
「何よ」
「妖怪が人間を食べた。なんて事を、霊夢が今更気にするなんて意外よね」
「あのさあ、私が人間だって事、忘れてない?」
「覚えてるわよぉ。美味しそうな人間だって事は」
チッ、と心の中で舌打ちする。いちいち嫌な言い方をするヤツだ。
と言うか、何で私は妖怪とこんな話をしないといけないのだろうか。
「それにしても貴方、自分じゃまだ人間のつもりだったのねぇ……。色々と人外じみてるから、そんなものとっくに放棄してると思ってたのに」
「私は正真正銘の人間よ。人の道から外れた覚えは無いわ」
「ま、どれほどの人が貴方の事を人間だと思っている事やらね」
……こいつ、今すぐ絞め殺してやろうか。
そう思いつつ、私は紫の言葉に対する反論が思いつかないでいた。
確かに私は、普通の人間を基準とすれば異常とも言える力を持っているし、その力で以って退治して来た妖怪は数知れない。また普段は、紫をはじめレミリアやら何やらと、人間でない連中とばかり付き合っている。こんな私を傍から見て人間だと思う方が、無理がある。
私は、自分が里の人間たちにどう思われているかを知っている。普段から妖怪と仲良くし、神社はもはや妖怪の寄り合い場所である、と。人間であると一応は認識されていても、“人間扱い”はされない気がするのだった。
それでも。
他者がどう思っていようが、私は人間である。
たとえ人並み外れた力を持っていようと、常日頃妖怪共と付き合っていようと、私は自分を構成するものの根っこが「人間」である事を、知っている。
なぜなら――。
私は、夕刻に退治した妖怪の事を思い出す。
私はあの妖怪に札と針を打ち込み、致命傷を与えて動けなくなるまでにした。
そいつの事はいったんはそれで止めにして、私は倒れている人間の確認に向かった。もはや生きてはいないと分かっていたから、そのあたりの覚悟は出来ていた。
しかし、その人間の身体を確認し、腹部が食い荒らされているのを目の当たりにした時は、胃から込み上げる感覚を覚えた。
もちろん私は、その様な惨状の亡骸も幾度となく見て来ているから、今更吐いてしまう様な事は無い。それでも、吐き気が込み上げる事、それ自体を抑えるのは今も出来ていなかった。それが良い事なのか悪い事なのかは、分からない。
それから私は、彼の手を胸元で組ませてやり、せめてもの祈りを捧げる。そして、その亡骸に対して結界を張った。私が一時的にここを離れている間に、他の妖怪に狙われて身体を損なうのを防ぐ為だ。
そうして、慧音のいる里へと向かおうと振り返った時。
――先程の妖怪が、あらためて視界に入ったのだ。
そいつは全身を痙攣させ、瀕死の状態ながら、腕を少しずつ這わせる様にして動いていた。
それは、もはや消滅しつつある生に必死にすがろうとしていたのかも知れないし、自身を痛めつけた人間に報復をしようとしていたのかも知れない。今思えば、だが。
しかし、この時の私にはその姿が、死を目前にしてもなお人間の血肉を求めているかの様に見えたのだった。
耳の奥で、ぴちゃ、ぴちゃ、という水音が鳴り響いた。
私は、吐き気とは別の何かが込み上げて来るのを感じた。
ふつふつとせり上がるそれに流されるままに、私はその妖怪に、更に二本、三本と続けざまに針を投擲した。そいつはそれを受けるたびに小さく呻き声を上げながら痙攣し、やがて、動かぬ骸と化したのだった。
――そう、私は既に死にゆく運命にある者に対して、感情の赴くままに更なる苦痛を与えたのだ。
あの感情は、単純な怒りとはまた違う。……言うなれば、生理的な嫌悪感とでもなるのだろうか。自分の同胞が妖怪に喰われてしまったという、冷厳な事実に対しての。
そうして、私は自分自身が人間であるという事を、あらためて認識させられたのだった。
「まあまあ、そう思い悩む事無いじゃない。誰が何と言おうと、貴方は――霊夢は、人間よ。私が保障してあげる」
「妖怪に保障されてもちっとも嬉しくないわ」
「いえいえ、妖怪の私が言うからこそよ。だって霊夢って、凄く美味しそうなんだもの」
「うっさい」
美味しそうだから人間なのだ、などと言われて誰が喜ぶ。――それが人間側としての本音だが、一方では、妖怪から見れば人間なんてそんな程度なのだろうとも思う。
いつの間にか、月が思ったよりも高い位置にあった。結構な時間、紫としっぽり……もとい、喋っていた事になる。
「……そろそろ、いい湯加減かしらね」
「そう。じゃあ、私は帰るわ」
「あら、そう」
「何だか今日の霊夢はご機嫌斜めみたいだし、ね」
誰のせいでご機嫌斜めになってると思ってるんだ。と、そんな言葉が喉元まで出かかったが、帰っていく相手にいちいち突っ掛かる必要も無い。
「それじゃ、またね」
そう言って紫は、私の返事も聞かぬままスキマを開き、その中へするりと消えていった。去り際の表情はやっぱり、いつもの妖しい笑みだった。
スキマがそのまま消滅し、紫の気配が完全になくなる。私は肩の力を抜き、ふう、と溜息をついた。手をつけていなかったお茶を口にすると、もうすっかり冷めていた。
紫は美味しそうだの何だの言うが、まあ私を食べる気は無いだろう。今のところ、紫にとって私は格好の遊び道具であるみたいだから。
こうして手なずけておけば、少なくとも私の関知する範囲では人間を喰う事は無いと思う。ただ、こっちが飼い慣らしているのか、それとも私の方が飼い慣らされているのか、それはもう分からなかった。
私は妖怪退治を生業としている以上、本来なら紫もその対象になる。けれど紫の様に、一応の理性を持っている連中は、何かやらかした時に懲らしめる程度で、退治する事は無い。むやみやたらと退治するよりも、こうして馴れ合っている方が楽なのだ。何より、この方が幻想郷が平穏に保たれるのだから。
ただ……、それでいいのだろうかと思う時も、やはりある。
今日の様に、妖怪は人を喰い、人は妖怪に喰われるという現実をまざまざと見せ付けられた時が、まさにそれだった。そういう時はやはり、私の胸の奥深くの「人間」の部分が疼くのだった。
それでも、私は今の生き方を変えるつもりは無い。このやり方こそが、今の幻想郷の姿を保つ最も良い方法だと信じ、今まで続けて来たのだから。
その結果として、多くの人間たちから妖怪の仲間と見なされてしまうのも、仕方が無いと思っている。
ただし私は、今以上に妖怪たちに近付く気も無い。やはり「人間」として、譲れない一線というものがあるのだった。たとえ朱に交わろうとも、赤くなる気は毛頭無いのだ。
人と妖との狭間に立ち、そのどちらにも寄り添う事の無い存在。それが私。
私は、孤独なのかも知れない。
ただ、私の心は強く作られているので、この程度の事で心がくじける事は無い。博麗の者は、霊力だけでなく、心の強さをも併せ持つのだから。
そう、私は、人間である以前に――霊夢である以前に――博麗なのだから。
けれど、今の私の心の中にある、感情のゆらぎ。これは、私が博麗である以前に、霊夢――人間である事を明確に示しているのかも知れない。
私は、霊夢である以前に博麗として在らねばならないのか、博麗である以前に霊夢として居ていいのか。
答えなど、どこにもない。全ては在るがまま、なのだから。
ええと、どうして今日はこんな事を考えているのだろう。
……ああ、今日は妖怪退治をしたんだっけ。それで紫が来てヤな事を言うから、こんな事になっているのだった。
そうだ、さっさと風呂に入ろう。
顔を上げると、夜空にぽっかりと浮かぶ月。中秋の名月ももう過ぎてしまい、真円からほんの少しだけ欠けた月がそこにはあった。欠けていても、それはやはり綺麗だった。
湯船に浸かりながらのお月見というのも、悪くはない。すっかり秋も深まり、夜は肌寒ささえ覚える季節となった。少しぐらい、長湯をしてもいいだろう。
湯浴みで身体が清められ、それと共に月浴で心が清められたら、と私は思った。
この問題って最初から落とし所が無いんですよね、、、
レミリアの「食事」を用意してる咲夜にしてもそうですが、
いっそ幻想郷におけるこの微妙な問題を
とことん突き詰めて長編にしてしまうとか、、、
まぁ幻想郷の通俗、観念なんかは色々頭に描ける余地が大きい楽しめる所という事で。
それとも藍が調理するのか…?
あえて取り掛かり難いテーマを選んだ作者氏に敬意を表して。
でないとキツイだろうしその方が霊夢も楽だろうから・・・
難しく考えさせられる内容でした。良かったです。
それでも、これを書いたのは本当に敬服いたします。
また、観念的な描写に終始することなく、ちゃんと霊夢の経験に根差させる工夫もよかったと思います
上手く感想が言えずすみません。