ふと意識が醒めて目を開ける。
少年は、これまで見たこともないような場所に居た。空の中では半端に欠けた月が悠然と浮かんであり、ぽつぽつと点みたいな星が散りばめられている。それはどこにでもありそうな森の風景なのに、けれども少年は今まで一度もそんな所へやってきことは無かった。夢の中でさえも、空想の中でも。
今まで眠っていたのか気絶していたのか分からないが、とにかく意識は無かった。頭の中がこんがらがった糸みたいになっていて、あらゆる事象が乱れ飛んでいるせいで、まともに考えることができない。ここがどういった場所でどうしてやってきてしまったのか、身体を起こして痛む首を動かし周りを見回すが、自分のすぐ近く以外は暗くて見えない。薄ぼんやりと、幽霊みたいな木の群が見えるだけ。地面には草花が生えているが、今の少年にとってそれらはとても危険な代物に思えた。溶解性の液体を発するとか、そこから悪魔が湧いて出てくるとか。
けれども、どうしてこんなところに?
精一杯何があったのか思い起こそうとして、記憶をじりじりと探り始める。八月の夏休みに入って、いつもやっているみたいに家で夕飯を食べて、風呂に入ってからアニメを見て、それから―――
―――肝試し。少年はそのことにようやく思いが行った。
少年の住んでいる地域では毎年、子供だけでの度胸試しがある。その肝試しを大人に話してしまえば、「危険だから」というそれこそ何にでも応用できそうな理由で止められるのが分かっていたため、子供達がそれについて口外することはなかった(というよりは、一部の人間から殆どの子供たちに、それを話すのは口止めされていたと言うべきか)。いつからそんな非公式行事ができたのか少年には分からなかったが、とにかくそんなものがあるのは事実だった。開催場所は山々に面しているため、昼のうちに山の奥地に置いてきた目印を深夜遅く―――勿論家族が寝静まってから―――に取りにいってくること、ルールはそれだけ。そんなのやめたほうがいいよ、怪我したらどうすんの、と直前になって少年は抗議したが、「できなきゃお前男じゃないぞ、女の腐った奴だ」とガキ大将に言われ、しぶしぶ行かざるを得なくなった。どこの世界でも子供同士の派閥というのは存在しており、それから睨まれてしまうとまともに学校生活を過ごせなくなるのはよく分かっていたからだ。
既に少年の前を何人かが先行していたため、肝試しにそれほど大きな恐怖は感じなかった……だがもやもやとした不安感は胸の中を離れようとはしなかった。もしも茂みから突き出た木の枝で足を引っ掛けたら? 道に迷ってもっと奥の方に入っていってしまったら? 挙げ句の果てに崖から落ちてしまったら一体どうすればいいのか? 不安の種は尽きることが無かった。
もう一度ガキ大将に目を向けると、苛立った様子で彼は手に持った木の枝で地面を叩いた。他の付き添い何人かもはやし立てるように声をあげた。できなきゃお前は女の腐った奴だ、女の腐った奴だ。さっきの言葉が蘇ってくる。行かないわけにはいかなかった。
少年は仕方なく出発した。
出発する前、先に行った子供から目印の場所が書き込んである地図を渡された。目的地には何度か行ったこともあったため、そこまでの時間の目安は計ることができた。片道で十五分、往復すれば大体三十分ぐらいになるかな、と少年は辺りをつけておき、暗闇の中で感覚を無くしてしまわないように祈った。
異変に気付いたのは、いつまで経っても目的地に辿り着けないことに気がついた時だった。家から持ってきた暗闇でも光る腕時計を見れば、出発した時は十二時十分だったのに、もう三十分になっていた。心の中に小波が立ち始めるのを感じながら地図を確認する。月明かりの中で自分の居場所を確認しようとしたが、怯えと恐怖が入り込み始めた心では、一体どこにいるのか分からなかった。出発する前に確認した地図とは山の配置や目的地の場所が違って見え、もしや違う地図を持ってきてしまったのか、と思ったぐらいだった。
迷った、と自分の中で自分じゃない声が言った。この暗い森の中で一人きり。迷った。奥の方に入ったかもしれない、大人が入らないほど奥に入ったのかもしれない。迷った。周りには何がある? 木、茂み、草、あとは? 自分が安心できるものは一体何がある?
何も無かった。
自分が這い上がることのできない沼に漬かり始めていることを、少年はひしひしと感じ取った。それも足首や膝ではなく、腰までどっぷりと漬かってしまっているのだ。沼の底にはおぞましい悪魔が手招きしていて、そこに行ってしまえば頭からボリボリと食われてしまうだろう。
心を落ち着かせようと考えたが、耳の中では母親のような父親のような、誰かが喚き叫んで怒鳴りつけており、ちっとも考え事ができない。そうして少年は歩き出す。自分がどこにいるのかとか、どこに向かえばいいのか、そういうのは全く考えないで唐突に。とにかく前へ前へ向かって歩きまくった。
口を開けていると叫んでしまいそうだったから、両手で口を閉じながら少年は歩き続けた。そのうち早足になって、走り出した。恐怖は心に大きな傷を作り出し、少年は泣き出しはじめた。鼻から出てこようとする鼻水を拭おうと思ったが、ここには誰もいないんだ、ということに気付くと拭う気にもならなかった。森の空気が毒素と化して心の中に入り込み、自分を内側から殺そうとしているみたいだった。呼吸すらできない。
誰か助けて! 心の中で叫んだ。実際に叫ぶことは近所迷惑という理由で(というか、は目立つようなことは何でも、だ)親から禁止されていたし、もしもそうしてしまったら、本当に取り返しがつかないことになりそうだった。それに誰かに聞かれでもしたら、小学校に在籍している間少年は臆病者の弱虫扱いをされるだろう。少年のいる学校でそのあだ名をつけられることは、蛆虫か蝿と同じ地位に貶められることを意味する。
その時、何かが少年の脳裏をかすめた。何なのかは一瞬のことだから分からず、しかしその感覚は異質だった。自分の中にある何かが変化してしまったようなものを思い浮かべたが、すぐに違うことを悟る。そうではなく、これは―――
自分以外の全てが丸ごと変わってしまったような、そういった感覚。
少年は走りながらその感覚に気を散らされたため、すぐ足元にあった木の根に気付けなかった。やっと木の根の存在を発見できた時には、既に足の衝撃とともに身体が宙に浮いていた。
ぶつかる! と気を失う直前に彼は思った。思ったと同時に身体は地面に叩きつけられ、………多分、気絶したのだろう。そうとしか思えなかった。
自分が置かれた状況は分かったものの、こうして起き上がってからはどうすればいいのかまるで分からなかった。
肌の表面がぬめったもので撫でられたようにぞわぞわして、見ると鳥肌が立っている。森の中を通り抜ける空気が異様に生暖かいせいかもしれないが、それ以上にさっき感じた感覚が続いていた。とても大きな生き物の中に丸々飲み込まれたような錯覚すら覚えて、寒気が背中を走った。鯨の中に飲まれてしまったピノキオは、こんな気持ちだったんだろうか?
元来た道を戻ればなんとかなるかもしれない、そう思って後ろを振り返ろうとした途端に体中を痛みの無い電撃が走り抜けて、瞬時に少年の足が竦んだ。先生に怒鳴られた時でもこんなものを感じなかった。
少年の右手奥、亡霊みたいに聳え立つ木々の向こう側から音が聞こえた。草木が風に揺れる音でもなければ、夜行性の虫が飛び回る音でもなかったし、少年が今まで聞いたことのある音の中では、今のそれは最も恐ろしい所に位置していた。前にテレビで聞いたことがあって、思わずその時は父親の服にしがみついてしまった、あの音。
獣の唸り声。
前に近所の犬がガキ大将に向かって唸っていたのを見たことがある、それと辛うじて種類を同じくしているもの。それは犬の吠え声よりもっと凶暴で、もっと敵意をむき出しにして、そして………空腹を訴えている。腹が減った、俺は腹が減ったぞ、と。少なくとも、少年の耳に唸りはそう聞こえた。
目が飛び出さんばかりに見開かれて、足のみならず全身が動くのを頑なに拒否している。こういう時こそ活発に動かなくてはならない筈の脳みそはとっくに役目を放り出して、今そこで命令を発するのは本能、生存本能だった。このまま動かない方がいいこのまま動かない方がいいこのまま動かない方がいいこのまま動かない方がいい―――
森の奥にいる獣はもう唸っていなかった。代わりに足音がした―――獣と言えば臭いを嗅いで相手を追跡するんだから、僕がここにいることなんて丸分かりだ、少年はそう考えた。むしろ少年の目には、その獣がこっちに向かって歩いている様さえ見えた。それが幻視であろうとも、今の少年にとってそれは真実だった。大きな身体を一歩、一歩、どん、どんという太鼓のような音すら少年の耳に届き、暗闇の中で、それがとうとう見えた。
己を殺す死神の姿。
知らぬ間に口がぶつぶつと呟いていた。簡易的な遺書だとは自分でも考えないまま、少年は呟き続けた。おとうさんごめんなさい、おかあさんごめんなさい、おばあちゃんごめんなさい。僕はもうだめです、僕はもう死にます。僕はもう駄目で
悲鳴のように甲高い声を立てて、近くにいたらしい鳥がばさばさと羽ばたくと、そのまま上に飛んでいって星空の中に消える。いきなり飛び上がったせいか、木に擦れて何枚かの羽が落ちる。もしかすれば逃げていったのかもしれない、と少年は後で回想した。すぐ近くには自分を殺そうとしないまでも大きな獣がいたのだし、何よりそれはお腹を減らしていたのだから。
鳥が立てた音は少年の脳みそを大きな手で揺り動かし、心臓にきつい衝撃を与えた。それによって全身へと瞬時に血液が行き渡り、殆ど止まっていた呼吸が再開し、死にかけていた理性と本能が少しだけ稼動し、一つの単語を導き出した。
逃げろ。
少年は大きく息を吸い込むと、声も無く背後に向かって駆け出した。いきなり猛烈な運動をしたせいで足が痛みを訴えて少年を止めようとしたが、彼の脳みそはあらゆる情報をシャットダウンし、逃げることだけに特化させていた。後方で苛立ちを覚えたような吠え声が聞こえ、獣が追いかけてくる音が耳に入る。
誰か、何か、誰か、何か、誰か、何か、助けて助けて助けて助けて助けて!!
全身のバネを使って全速力で森を突っ走りながら、少年は心の中で助けを求めた。倒木を乗り越え木の根を乗り越え足の動きを止めようとする茂みを乗り越えながら。どうして自分が森の中でこんなに走れるのか一瞬疑問に思ったが、すぐに消失した。考えてもどうにもならないことだ、そんなの。
一瞬だけ見えた獣の姿は以前に図鑑で見た動物に似ていた――イノシシ。真っ直ぐ獲物に突っ込んで、押し潰して、大きな歯で肉を食いちぎって内臓を食べてしまう、熊と同じくらい恐ろしい動物。『一年に何人もの大人がおそわれています、みなさんもイノシシにであっても、おどろいたりこうふんするようなことはしないようにしましょう』と書いてあった。それは何ヶ月ぐらい前の出来事だったのに、今では何千年も前の出来事みたいに思えた。
少年は反射的にジグザグに進路を切り替えることで、獣に思い切り走らせないようにしていた。右に左にあっちこっち、真っ直ぐしか走れないなら振り回してやればいい。
イノシシは自分を食い散らかそうと必死に追いかけてくるが、その意に反してなかなか距離は縮まらない。少年は自分の持てる限りの力を振り絞っていたし、彼自身、無意識のうちに今が人生で最も力を振り絞らなければならない時だと気付いていたからだった。
枝や棘が生えた茂みによってついた傷や痣なんて全く気にならなかった。そんなものをとっくに越えて、彼の意識は森の向こう、そのまた向こうへと向きつつあった。背後から迫り来る死神から助かる方法を、誰か自分を助けてくれる人を求めて。
「獣」は苛立っていた。それも、酷く大きく。
つい先ほど彼は美味そうなエサを見つけた。臭いを嗅いだ限りそいつは怯えていることが分かった(恐怖とはすっぱい柑橘類の匂いをさせるものだ)し、大抵の怯えた生き物というのは単数でいるからだ。こいつは狩れる、という直感が到来し、獲物の臭いや大きさ、肉としての価値を考えると身震いがした。念の為に様子を伺いつつ進んだが、夜でも見える「獣」の目には、やはり一匹で佇む獲物だけしか見えなかった。大きさは手ごろであったし、あれぐらいなら今夜中に骨までしゃぶりつくせるだろう。最後には骨を噛み砕いて何もかも食いきってやろう。
呼吸の音を隠さず、舌を舐めつつそれは獲物へと近づいていった。足音をなるべく立てないようにしながら、体勢を低くしながら、少年の常識で言えばイノシシのような身体を前に前に。それはイノシシという生き物を見たことが無かったが、もしも実際に見たとすれば、その生き物は自分と比べて醜いと思ったことだろう。「獣」には他の馬鹿な動物と違い、物を考える力が、判断する力があった。人間のような哺乳類と比べれば明らかに劣るが、だがそれには思考能力があった。いつからそんなものが備わっていたのか定かではないが、気がついた時には「獣」は物を考える生き物として生きていた。
そして後少し――気合を入れて跳躍すれば一瞬で捕まえられる地点までやってきた時、獲物の近くにいた鳥が大きな大きな音を立てて飛び去った。目の前にいる久しぶりの獲物に最大限集中するあまり、近くに居たどうでもいい生き物に対しては全く気付かなかったのだ。不覚もいいところだった。楽な狩りだったというに、果たして獲物は逃げ出してしまった!
すぐに追跡を開始したものの、獲物は足が速かった。こちらを振り返りもせず、直線に走ろうとせず何度も方角を変えて向きを変えてこちらの速度を殺そうとする様に、大きく苛立ちを覚えた。
また、獲物の姿は奴らにそっくりだった。小さな黒いものを発射できる筒を持った奴ら、一度群でやってきた奴らを食い散らかそうとしたら、奴らはそれで反撃し、なんと「獣」を殺そうとまでしたのだ。足に高速で鉄がかすり、「獣」は逃げ出した。その日の夜は、奴らが寝床を見つけて狩り出すのではないかと戦々恐々しながら眠らなければならなかった。もしかすればこれは奴らの罠ではないのか、それとも獲物は本当にただ逃げているだけなのか? そう思考していくにつれ逡巡が「獣」の中で大きくなっていき、足の動きが段々と緩み始めた。
このまま進路を変えて獲物を逃がすか、それとも狩りを継続するか。「獣」の頭の中で高速の鉄を撃ち出す筒が蘇ってきて、バン、という恐ろしい音を思い出させる。最後までそれらは目の中にちらついていたものの、「獣」は継続を選択した。どっちにしろ徐々に距離は詰まっているのだ、このまま走り続ければ捕まえられる。そうすれば一気に止めを刺して、奴らの目が届かない森の奥へと引きずっていけばいい。ねぐらに戻ってから、勝利の余韻を味わいつつ咀嚼してやればよいのだ。
走る――走る――走る――走る――走る――。
今では獲物の背中がすぐ近くにあった。獲物が発する独特の匂いを嗅ぎながら、きっとこいつは恐慌状態に陥ったに違いない、と思った。後は思い切り鼻で突いてやり、吹っ飛んだその身体を歯で食いちぎってやるだけなのだ。
あと少し――もう少し――あとちょっと――今だ――!!!
いざ飛び掛ろうとした時、「獣」の鼻が恐ろしいものを捉えた。絶大な恐怖感を感じながら足を止め、勢い余って二、三回転げながら態勢を立て直すと急いで後ろに下がる。恐ろしいアレを感知した鼻がひくひくと動き、「獣」は大きく威嚇の唸り声をあげる。
アレは奴らよりもずっと恐ろしかった。体の中に「獣」よりも凶暴で強大な獣性を隠し持った生き物、筒を持った奴らと似たような外見をしているのに、その中味は全く違う。奴は羊の皮を被った狼だ、リンゴの中に潜む猛毒だ。「獣」はアレを敵と認識し、それ以上に大きな脅威として感じていた。
立ち止まって周りが見えるようになると、そこはもう森の出口であり、獲物はそこから抜け出してしまっていた。なんてことだ、と「獣」は恐怖に身体を竦ませた。森の外、奴等がたくさんいる場所はまさしくアレの領域なのだ。アレが「獣」などが入らないようにマーキングしている箇所、迂闊に侵入すれば光の速さで飛んできたアレにたちどころに狩られてしまうだろう。他の生物と同じように、「獣」にとってもそれは例外ではない。
おそるおそる、境界から踏み出さないように顔を出してみると、木々の向こうで獲物が倒れていた。ゆっくりと身体が動いていることから死んでいないに違いない。そして、獲物のすぐ脇にはアレがしゃがみこんでいた。アレはゆっくりと獲物が出てきた地点を辿っていき、迂闊にも――あまりにも迂闊なことに――まだ顔を出していた「獣」に視線を合わせた。
アレの目が奴らではなく、猛獣のそれに変わった。
「獣」は一瞬にして方向転換すると、まるでさっきの獲物と同じように逃げ出した。全速力で、アレに追いつかれないことをショックを受けた脳みそで願いながら。体中を波打たせながら、毛を逆立てながら突っ走るその姿は怯えた生き物。
くそ! 「獣」は悪態をつき、さっきの獲物と自分の姿を重ね、猛烈な憤慨と憎悪と悲嘆を覚えた。くそ! くそ! くそ!! なんと自分が馬鹿なことか、愚かなことであるか!! この屈辱が、屈辱的なことが!!
獲物は嘆き、怒り、憎み、そして大きく叫び、その声は森中に届いた。多くの生き物はそれを聞いて身の危険を感じただろうが、それを聞いてアレが自分の居場所を突き止めるのではないかと思うと、とてつもない恐怖と悲嘆が再び「獣」の身体に入り込んだ。それでも咆哮を止めることはできない。
咆哮を繰り返しながら、「獣」は夜の闇へと、冥界のような森の奥へと消えた。
刑務所の中にいる人間にこの中で最も喧しい場所はどこかと聞けば、大抵の人間が作業場だと答えるだろう。
犯罪を犯した人間やそれを管理する人間がひしめく作業場の中では、機械がごんごんと仰々しく唸りをたてる音、何十人もの作業着を着た男達によって黙々と営まれる作業、これらによって生み出される音は悪趣味な交響曲となり、演奏者にとっても好かれることのない曲目として扱われる。大部分の受刑者は交響曲を作り出すために汗水垂らして働く羽目になり、この作業を免れるのは禁固刑や死刑を宣告された者(特に死刑囚は数が少ない)であり、おおよその法律の網に絡めとられた人間は、牢獄に入ったらこれと向き合いながら生きていかねばならない。
大抵の受刑者はそれに慣れきってしまい、半ば惰性に近い感覚で日々を過ごし、更生への日々――世間一般による意見と刑務所の実態との最大の溝だ――を歩んでいた。だがほんの一握りの受刑者はそれを快く思わず、繰り返す日々に鬱積か不満、その他悪感情を溜め込むばかりだった。彼らは刑務所の中では最も馬鹿にされ、軽蔑され、仕事の邪魔になるからと嫌われる人間――神経がナイーブな芸術家肌の人間であり、霧島遼一もそのうちの一人だった。
霧島は毎日の作業が終わって共同部屋に入ると、大抵の場合購買で買った(ここに入るまでは思いも寄らなかったが、なんと作業によって給金が出てきた)シャープペンシルでメモ帳の中へと書き物をしていた。このメモ帳も最初のものは枚数を使いきってしまい、かれこれ三冊目か四冊目ぐらいになる。また、以前は鉛筆を使っていたが、長く使っているせいでちびてしまい、書けなくなってしまった。同囚は何らかのコミュニケートもとらずに一人メモ帳に没頭している霧島を見て、胡散臭そうな目をし、あいつはエイズでも貰っているんだろう、と大体においては卑猥な噂をしていた。最初は霧島も随分とそれに悩まされたが、次第に慣れてきてしまった。また房内の犯罪行為を防止するために度々刑務官が見回るので、リンチや暴力行為にまでそれらは発展しなかった。
小説の内容は一週間ほどで書き終わるため、週ごとに入れ替わった。恋愛、ファンタジー、サスペンス、ホラー、詩などなど。それらしいネタが無い時は詩を中心に書き散らしていたが、気が向けばコメディタッチの代物やホラーにも目を向けた。枚数は多くても二十か三十枚、少ないと十ページぐらいの超短編で、それも文章の技量としては下手もいいところだったのだが。これについてはあまり刑務所内で文庫本が手に入らないため、頭の中に文字が浸透しないからだろうかと霧島は考えていた。
その日もまた、受刑者から向けられる呆れと蔑みの視線を無視して自分の世界に没頭していた――主役は袴姿の若い神主で、今は相棒であり恋人でもある巫女とともに、西洋から流入してきた魔物に対して霊能力を持った札を投げつけているシーンを書いていた――が、ノックもなしにいきなり刑務官が三人、どやどやと部屋に入ってきたことで中断された。何か問題が発生したのかと直感し霧島と同じく全員が正座して刑務官のほうを見たが、部屋に入ってきた刑務官は無言で互いの目を見交わすと、座敷に上がり、他の誰にも目をくれないで霧島の腕を掴むと立ち上がらせる。
え? と霧島は目を白黒させ、同室の人間も訳が分からないというように刑務官に疑問の目を向けたが、抗議の声は出てこなかった。こんなことは霧島を含めてどの受刑者も体験したことがなかったし、他の人間からもこんなことを聞いたことが無かった。完全なイレギュラー、意味不明の異常事態としか言い様が無かった。
「ちょ、ちょっと待ってくださいよ、俺何もしてませんよ」
混乱しながらそれだけを言うことができたが、当の刑務官の返事は沈黙だった。二人で霧島の両腕を掴み、警棒を持った一人が残りの囚人を見張り、奇妙な沈黙のまま霧島は連れ出された。刑務官と霧島の全員が出て戸が閉まると、一気に部屋の中から話し声が湧き上がった。おいおいなんだこれ、あいつどこに連れてかれるんだ? わかんねえよ、お前何か知ってるか?
刑務官はそれを咎めもせずに、ずるずると霧島を廊下の向こうに連れて行く。途中で房の人間が入り口のガラスから霧島たちをじろじろと見ていたが、刑務官が睨むとすぐに姿を消した。
「これからお前は、刑務所長室に行くことになる」
廊下の途中で一人が口を開いた。霧島と顔なじみで、彼にメモ帳と鉛筆をくれた人間だった。名前は一ノ瀬だったか、それとも一ノ宮だったか。自分でもこれの意味を知らされていないようで、顔を顰めながら話を続ける。
「そこでお前は形式的な書類を貰って、ここの外に出ることになる。ただこれは釈放じゃなくて、……その、俺たちが関与できないところに連れて行かれる。私物とかは荷物で送るから、そういった心配はしなくていい」
彼は重々しい口調で告げ、さながら部下を死地に追いやらざるをえない上官のような顔をしていた。
何を心配するなっていうんだ? 人を無理矢理連れ出しておいて? どこに連れて行くって?
一条の奇跡というか、これの詳しい説明をしてくれないか他の人間の目を見たが、誰もが首を振った。誰も知らないのだ。改めて両腕を掴まれると、同じようにずるずると歩かされる。
俺はこれからどうなるんだ、ここじゃなくてどこに連れて行かれるんだ、刑務官が関与できない場所って一体何なんだ。そう思ってから、ある可能性に気がついた。あまりに突飛すぎて推測ではなく妄想の域にまで達していると理性は諌めたが、既に心の中が不安と混乱の坩堝だった彼にとって、それはとても当たり前のことに思えたし、そうなる可能性は十分にあるとも思えた。どんなに馬鹿げた可能性であっても、リアリティを持って伝わってくるようだった。
つまりそれは――死刑。
例えば漫画みたいに、新聞やニュースでは絶対に報道されないような法律がいつのまにか国会で発表されて、どういうわけかそれが通って、それで、俺みたいな犯罪者を
(黒魔術みたいに仕立て上げた死体 電子レンジの中に突っ込んだ指 布団でくるみこんで灯油をかけて、裏庭で燃やした死体)
唐突にモノクロの映像がフラッシュバックして、頭の中が変になったように目の前がぐらついた。喉の辺りがむずむずすると同時にぬるぬるとした気持ちの悪さを感じ、思わず吐きそうになる。舌を思いっきり強く噛んで、その光景を振り払うと気分の悪さを押し戻し、懸命に思考を続けようとする。
それとも俺みたいな犯罪者をどこかの精神病院によく似た場所へ連れて行って、何かの実験にでも使うのかもしれない。脳の一部を取り除くことによって第三の目を開けるとか、マッドサイエンティストが思いつくような理由で。そうでなかったら死刑にするための条件が緩和されたとか、そんな感じでとにかく俺が死ぬことに決まって、絞首刑とか電気椅子とかギロチンとか、何でもいいからやるのかもしれない。ああ、アラブとかの中東じゃ人の体を切り刻む刑罰があるのだから、それに俺が丁度あてはまったのかも―――
「おい、着いたぞ」
軽く肩を押されて、ようやく思考の世界から回帰する。上を見ると、刑務所長室とプレートに筆書きで書いてある。前に出た刑務官がノックした後で、失礼します、とドアが開けられた。部屋の中には中央にある所長用の机に太った中年男性が座っており、壁のすぐそばには何人も刑務官が待機している。しかも警棒という武装までしているから、霧島は自分が何をされるのか気が気でなかった。話をするんじゃなくて、俺はリンチをされるためにここへ来たのか? 目の前の禿親父はその様を鑑賞するのか?
そうはならなかった。霧島があちこちに視線を走らせ怯えている中で、でっぷりとした体の刑務所長は霧島を見もせずに話を始めた。まるで相手がいてもいなくてもどうでもよいという話し方だったが、今の霧島にはそんなこともわからなかった。気分の悪さと吐き気と恐怖が交じり合ったせいで話が死刑宣告のようなものに聞こえたが、変に改まったような説教と、日本政府がどうたらこうたらという話は聞くことができた(超法規的措置、と言う単語を聞いて、ああ本当にそんなものがあるのだなあ、とぼんやり霧島は思った)。立て板に水を流したような早口で話が終わると、自分が何を聞いたのか頭を整理する前に部屋を連れ出されて、服装と持ち物のチェックをされ、何枚かの書類に強制的にサインさせられた後で、何人も刑務官が張り付いた厳重な警戒の下でバスに乗せられた。ちらっとバスの窓から見ると、外に面した部屋の窓からは、そのスペースを目一杯使って囚人たちが恥ずかしげもなくバスをじろじろと見ていた。別刑務所への護送でもここまで大掛かりではないから、物珍しくてたまらないのだろう。俺はまるで奴らのスターだな、となんとなく思った。理由は不明だが刑務所から出られるというのに、全く嬉しい気分がしない。むしろ腹の底がぐずぐずに腐ったような気分で、もしここで腹にパンチを一発もらったら吐いてしまいそうだった。
バスの中では一番後ろにある最も左の席に霧島は座り、逃げ出すのを防ぐためか、すぐ横に刑務官が一人座った。話し掛けてみようかと一瞬思ったが、あまりに相手の雰囲気がぴりぴりしていたのとプラスして知らない人間だったため、やめた。せめてメモ帳をくれたあの刑務官だったらな、と思い溜息をつく。
仕方ないので視線を動かしていると、二つ前の席に黒髪が見えた。隣には刑務官を示す帽子があることから、そいつも連れてこられたのか、と霧島は考えて少しは安心した。何だ、ここにいるのは俺だけじゃないんだ。流石に後ろ頭だけでは判別のしようがなかったが、もしかして一緒に作業をしたことがあるかもしれないと推測した。そう考えてから、共に作業をした人間について殆ど記憶にないことに気づいて僅かにショックを受けた。
彼らを乗せるとすぐにバスが発進し、刑務所前に設置されている逃亡を防ぐための長い長い塀を横目に見つつ、霧島は自分がどこに連れて行かれるのだろうと考えてみた。頭を椅子にもたせかけて、視線を僅かに揺れる天井に向ける。小さい虫みたいなものが飛び回っているが、誰も気にしない。
死刑という可能性は横に置いておいても、本当にどこへ連れて行かれるのかさっぱり分からなかった。
別刑務所への護送――こっちに事前に知らせることなく? 何だ超法規的措置って? どう見ても警護の人数が半端じゃなかったぞ?
新しく発明された薬品の実験体――これの方がまだ可能性がある。
何か特別な事情による外国への移送――そもそも自分がそれに相応しい人間だとは思えない。自慢じゃないが、一般人と比べても特別視されるようなスキルもない。爆発物処理も銃の資格もないし、社交術はおそらく人並み以下だろう。
その他海外のスパイ組織への転向、ゲリラ組織への強制介入、お偉いさんのサド趣味のための殺し合いの道具、と愚にもつかないものにまで及んだが、結局はお手上げだった。何が何やら分からないので、諦めて外の景色を眺めるのに専念することにした。地理的な面からどこに向かうのか分かるかもしれない。
最初に町が見えて、銀行、郵便局、スーパーを通り過ぎる。スーツ姿のサラリーマン、老人車を押している腰の曲がった爺さん、休みの日なのか子供が公園の中で走り回っているし、何十台もの車を見かけた。刑務所に入って三年だが、懐かしいとかあの中に入り込めたら、とは全く考えられなかった。酒や女には興味が湧かないし、飯だって刑務所の中にあるので事足りている。ゲーセンやカラオケなんて自分にとって最も興味が無い物の一つだ。情報はあそこでも手に入るし、霧島に必要なのはメモ帳とシャープペンシルぐらいだった。それだけで十分。あとは余分。むしろ飛び交う車やどう見ても多すぎる人間同士とも関わらなければいけないため、外の世界の方が霧島にとっては苦痛とも言えた。
ぼうっとしたまま景色を眺めていると、通りにぽつぽつと生えている木の枝葉の色が赤く変色しているのがちらほら見えた。それの光景を見て、ああもう秋なのか、と思うことはできたのだが、感慨らしきものは、ほんの微かな感動でさえも頭の中に浮かばなかった。刑務所なんかに入っていると暑い夏か寒い冬か、あとは正月ぐらいしか季節の移り変わりを見て取ることができなかったから、春や秋なんてものはあってもなくても似たようなものだ。大同小異。どれほど自分が人間として必要なものが欠けているか分かってしまうが、だからどうだと言えるのか? 無期懲役と宣告されたのに(そういや何十年入らなきゃいけないんだっけ? 四十年? 五十年?)、人間らしさなんて必要なのか?
今の霧島は人形も同然だった。のっぺりとした同じような灰色の日々を淡々と過ごすだけの人形、余計なものは感じないし、いらないものはどんどん切り捨てていく。多分強制的に連れ出されることがなければ、死ぬまであの日々を繰り返していただろうなあと彼は考えてみたが、それでさえも何かを感じない。死んだら死んだで、土に埋もれるだけだろう。
街中を抜けると、次に田舎道に入る。青っぽく色が変わっている山が見えて、頂上の方は雪が残っているためか白く見える。遠くで指みたいな大きさの農家やトラクターが見えた。そのへんの田んぼではカラスとハトが喧嘩しており、鳥の群が山へと飛んでいく。何も感じないままその光景も終わりを告げ、やがて色とりどりの木が生えた山道に入り、急勾配な坂道を上がったり下がったりして、その度にバスがごとごと揺れた。途中でちらっと前に目をやったが、前で座っている奴は一言も口を利かなかった。それを言えば霧島や他の刑務官も無言だったため、バスの中はエアコンが温度を調整するための音しか響いていなかった。多分刑務官は問題を起こさないことぐらいしか考えていないと思うから、下手に騒ぐよりもこれでいいのだろう。
そのうちに通行止めの立て札がぞんざいに生えているのが見えたが、スピードも落とさずにバスは通り過ぎた。霧島は首を傾げたが、誰もそれについて疑問を発しようとしないので黙っていた。ずんずんとバスは進んでいって、暫くするとなんとバリケードらしきものが見えて、その前には野戦服を着た男が立っていた。霧島は目を剥いて、思わず腰が浮きかけた。テレビや映画でしか見ない代物…彼らは自動小銃を持っていた。バリケードの両側に一人ずつ立っていることから、門番としての役割をしているのは明らかだ。このバス、本当にどこへ向かっているんだ?
バリケードの前でバスが止まり、野戦服が一人近づき、バスの運転手となにやら話をはじめた。運転手が手帳のようなものを見せると、男はバスの中に目をやり――何かされるのではないかと怖くなって、反射的に身体を縮めた――運転手に身振りで、通っていいぞ、と示した。
バスの前でバリケードが退けられている間、霧島の頭の中は本気で混乱しはじめていた。自動小銃? 何だあいつは? 兵隊? 自衛隊? そんなのが何でここに? そもそもここはどこで何があるんだ? 何でそんなところに俺が連れてこられるんだ? ここは何をするところなんだ?
射撃訓練の的として自分やもうひとりの受刑者が蜂の巣になる様を思い浮かべて、霧島は頭を振った。頭の中で九九を連呼して、彼は努めて考えないようにした。どっちみち目的地に着けば全てが明らかになるのだから。
そこを抜けて結構な時間が経つと、不思議としか言いようの無いものが見えた。バスのガラスは曇っていないため、遠くのほうまでよく見えた。
少し遠方の方にある迷彩色のテントの中では、さっきと同じ野戦服姿の男達がせっせと動いている。変な機械のようなものを設置しているようだが、ここからではよく見えない。そのテントの脇では私服姿の人間が何人かグループを作って座り込んでいるし、小銃を彼らも手にしている。テント自体は幾つもあり、入り口の幕を引き下げたものと上げたままのものがあり、上げたテントの中では中にいる男達の姿が見える。たまに女らしき人間が混じっているのが見えた。一番目を引いたのはガスマスクをつけた奴がいることだった。戦車やヘリコプターの姿は見えないものの、バスの近くではガスマスクをつけた奴らが何人かで話し込んでいるし、その近くには見たことも無いような車――消防車のホースがついているし、変に角ばっているのでごてごてして見える――があった。なんとなく霧島は、それらの光景を見て何年か前の、あの宗教団体が毒ガスを撒いた現場を思い出していた。テレビではガスマスクをつけた男が一般人を連れ出し、救急車に乗せられていた。あの事件で何人死んだっけ?
半ば放心状態でテントに見入っていた霧島は、がくん、とバスが停止した際に前のめりになった。座席に頭をぶつけてしまったが、隣の刑務官は顔を向けようともしなかった。
頭がおかしい子供よろしく腕を捕まれてバスから降ろされると、付き添いの刑務官は何も言わずにバスの中へ戻り、バスはもうひとりの受刑者と霧島を置いて、その場を去っていった。ぽつんとその場に、二人残される。
男は霧島と同様この事態に混乱しているようで、おどおどしながらあちこち首をめぐらしている。薄く顔を見てみたが、残念ながら知り合いではなかった。どうしようかと少し迷ったが、決心すると霧島は男に話しかけた。
「なあ、あんた名前、なんていうんだ?」
他の人間に呼ばれることは予期していても、霧島に話しかけられるとは思わなかったのか、ぎょっとしたように男が振り向いて霧島を見た。もう一人の姿を認めると、口ごもりながら言葉を返す。
「あー、あ、ああ、美村だ、美村隆志。美しい村って書いて美村だ。あ、あんたは?」
「俺は霧島だ。霧の中の島で霧島。なあ、ここってどこだと思う?」
美村はぐるりともう一周見渡す。首を振った。
「全然わかんねえ。でもさ、絶対ここ、ヤバイと思うんだ。ほんとに」
そう言うとへへへへへ、と変な声をあげた。無理矢理笑おうとして失敗したような感じに霧島には感じられた。
「俺もそう思う。あいつらとか、何してると思う?」
霧島は未だに話し込んでいるガスマスクの連中を指差したが、美村はあちこち見ていたにも関わらずたった今それを発見したように、それを見て目を丸くしただけだった。やっぱりな、とは思いつつも霧島は深くため息をついた。俺が分からないのに、同じ刑務所から連れてこられたこいつが知ってるわけない。しかもたぶん、こいつは俺よりもとろそうに違いない。悪口とか罵倒の積もりではなく、ただ霧島はそう考えた。
とりあえずここで立っていても始まらないので、二人は近くにあった大型テントへと向かうことにした。誰かに聞けばどこへ行けばいいのか分かるだろう。なんであの刑務官たちは、バスから降りるときに何もアドバイスしてくれなかったんだ?
歩き始めたその時、目的の大型テントからひょっこりと男が顔を出す。それから霧島と美村の姿を目にして、あ、と声を上げた。
「おーい、遅れてきたのか?」
取り出したタバコを一吸いしてから男は二人に近づいてくる。身長が百九十近くあるのか、霧島は見上げるようにして男の顔を見た。別にどこにでもいそうな、人懐こそうな感じがする普通の男だった。GパンにTシャツと格好も野戦服の奴らとは違う。男の言っている意味が分からなかったため、詳しい話を聞こうとした途端に大声――というか怒号に近い――が聞こえた。
「おい!! 遅刻だお前ら! 早く入れ!!」
幕の間から四十過ぎと思しき男が顔を出し、二人に向かって怒鳴りつけていた。長年の刑務所生活の習慣が根付いていたせいで、怒号が聞こえた途端にぴんと背筋を正して、二人はテントに入る。背の高い男は何も聞こえなかったかのように虚空に向かってタバコの煙を吐き出していたが、四十すぎの男はそれを見ても顔を顰めただけで何も言わなかった。
テントの中は外から見た時よりも広く、中にはたくさんの人たちがいた。四十過ぎの男は奥にある教壇にさっさと向かい――この男のことは、教官と呼ぶことにした――その奥にはプロジェクターが吊り下げられている。教壇にはそれに映像か写真を写すためのような機械が設置してあった。教壇の手前には何脚か椅子が用意されており、前列に五、後列に六というように並んでいた。後列が一つ、前列が二つ空いている以外は満杯だった。おそらく空いた後列は背の高い男が座ってるんだろう、と霧島は推測した。
椅子に座っている男達はほとんどが囚人服――細かくデザインが分かれていたが、大体が似ているので分かった。前列には背の高い男のように、気楽な服装をした男が一人座っている。この男はあの背の高い男の仲間だろうか、と霧島は考えた。そうなると、この男たちは何なのだろう? 自分たちみたいな受刑者に混ざっている意味は?
まだ突っ立ったままの彼らを見て、次第に教官の目線が酷薄になっていき、また美村が早く行こうぜとせっつくので、二人は前列の空いている席に座った。丁度教官のまん前に位置しているため、視線をどこに逸らしたものか困った。美村はその横で真剣な面持ちのまま教官を見つめており、教官と言えば入り口の方に目を向けている。背の高い男を待っているのだろうか、と考えたものの、何か言われるのも癪なので姿勢は崩さないでいた。
誰も話をしなかった。見るところがないので首をめぐらすと、壁際には何人もの私服姿――さっきの野戦服とは違うのだろうかと思ったが、とりあえず兵士と呼ぶことにした――が刑務所長室と同じように待機しており、野戦服と同じく自動小銃を肩からぶらさげている。もう片方を見ても同じだった。椅子に座っている人間は誰も喋らなかった。微かに呼吸をする音しか聞こえない。皆緊張しているのだろう。もしくは怯えているか。
そのうちに背の高い男が戻ってきた。教官の鋭い目線をはにかんだような笑みでやりすごすと、そそくさと椅子に着席した。
全員が席に着いたことを確認して、ようやく教官が口を開いた。重々しく、人に教えるよりも人を罵倒する方がよっぽどそれらしいような声だった。ハリウッド映画で軍隊の教官がひたすら兵士たちを馬鹿にしているものがあるが、霧島が聞いた感じはそれに近かった。
「今日ここにお前らを連れて来たのは他でもない、あることをしてもらうためだ。まずは、それについて説明する。おい」
教官が手振りをすると、後ろに控えていた兵士がテントの幕を閉めた。明かりが完全に遮られて、中は真っ暗になる。教官が教壇の上にある機械を操作すると、プロジェクターにある映像が映し出される。どこから取り出したのか、プロジェクターに対してレーザーポインターが向けられている。
それは、森の中だった―――どこにでもありそうな、極々平凡な木々の群。ブナの木が不定期にたくさん生えており、野生の生物がおおよそ数え切れないほど生活している、テレビのチャンネルを適当に動かせば必ず出てきそうなくらい、それはどこにでもありそうな風景だった。
風景の中で特に強調されて映し出されていたのは、木々の間にある物だった。物というか、それは小説を書くために常に想像力を働かせていた霧島にも検討がつかないような、不可思議そのものだった。何かに例えろと言われたら物としか言えないような、それくらい不思議な。素人が撮った映像のせいか手振れのせいで始終動きっぱなしで、男の声から老人の声まで入り込んでうるさいし、何より場面は夜だった。暗視機能はついているが、それでもぼんやりとした風にしか、それに変色したようにしか見えない。だが脇にある木や草むら、遠くにある倒木が見難くて仕方が無いのに対して、それは自己の存在をアピールさせるかのように大きく鮮明に映っている。
見たところ、穴のようだった。
ぽっかりと空中に開いた大きな穴。子供の背丈より幾分大きいかそこら。体の大きな人間ならば入るためにはしゃがみこまなければいけないだろう。その穴の中でも森が続き、茂みや木の葉は動き、風のせいで物が飛んでいるのが見えた。だが………あまりに異質だった。あまりの異常性に、霧島は一瞬自分が置かれている状況を忘れたぐらいだった。
穴の周りというか、縁の部分は地面に敷いた油のような、そんな感じの色をしていた。空気中の構成物質とか、時たま吹き付ける風とか、そういったものに影響されずにゆらゆらと動いている。まるで独自の生き物みたいなそれを見て、霧島は一瞬気分が悪くなりかけた。どの映画にも、漫画にも、小説にも、そんな代物は見当たらない。
ビデオの中ではこれを目の前にした人々が聞こえづらい声で色々と話し合っていた――あの穴に入るか否か、ぐらいのものだろうと霧島は推測した。やがて元気そうに猟銃を担いだ老人と男が一人ビデオカメラの前に出てくると、威勢が良さそうに親指を立てて、苦笑いのようなものを浮かべた。んじゃーま軽く見てくんでな、と言って二人がゆっくりと穴の中に入り込むと、霧に包まれたかのようにすぐ見えなくなった。
それから十五分間、ビデオは流れ続けた。どこかで虫の鳴き声がして、風の中で木々がざわめき、フクロウの声も聞こえた。誰かが欠伸をする声も聞こえて、ビデオカメラはブレ続けた。関節を鳴らす、ぼき、という音もした。一人が穴の前を横切り、休憩のためかビデオカメラが他の人間に手渡される。大きな欠伸が聞こえ、食べ物があるのか咀嚼音も耳に入る。何人かが家に戻るのか、足音が聞こえ、それが段々と遠くなっていく。
穴に入った人間は帰ってこなかった。
穴の向こうから声も、姿かたちも何一つこっちに持ってこなかった。
唐突にビデオの映像が途切れて、霧島は我に返った。脇で椅子に座っていた教官が立ち上がると、教壇の前にやってきて、こう男達に告げた。その目はどこかテントの中ではない別の場所を見ているようで、霧島はあの刑務所長室を再び思い出した。その人間がいてもいなくてもどうでもいい。話すことが重要なのだ。
「お前たちにはこの中に潜ってもらい、”向こう”を調査してきてもらう」
後ろの方で「質問が――」という声が聞こえたが、「質問を受け付けるのは最後だ」と教官が言ったため、再び静かになる。
「この穴が見つかったのは、今年の夏ごろだ。最初に見つけたのは地元の人間、あのビデオみたいに近隣の村人たちが数人入っていったが、帰ってきたという人間はひとりだけ、子供だ。話を聞いた所、肝試しの途中で道に迷い込んで穴に入り込んだ。大人たちが穴を見つけたのは、子供たちが騒ぎ立てて捜索した結果だ。穴の前で子供は突っ立っていて、そこを救出された。
その子供から詳しく話を聞いた所、向こうはこっち…まあ、日本だ。日本と殆ど変わりが無く、村の中に泊めてもらったとそいつは話した。誰に泊めてもらったのかは子供自体が覚えていないために不明だ。気づいたら穴の前で突っ立っていた、というわけになる。その前に猛獣の類に襲われたと言っているが、これはイノシシのようなもの、ということらしい。十分注意しておくように。
村の中で子供がこういうものを拾ったらしいが、これも科学的に見れば異常きわまりない」
教官が脇にいた兵士に身振り(あれ持ってこい)をすると、彼は部屋の隅から箱を持ってきた。教壇の上で中身を開ける。
「勾玉だ。ちょっと専門的なところで調べてもらったが、最終的には現代日本のテクノロジーで作り出せるものではないという結論に到った。また、少年はある鳥の羽を所持していた。どうも村に入るまでの間に服の中に入り込んでいたらしい。
問題は、その羽はどう鑑定しても朱鷺の羽でしかありえないということだ。知っての通り、現在朱鷺って奴は新潟県の佐渡島でしか生息していない。ほぼ絶滅危惧種と言ってもいい。勿論佐渡島を政府の人間が詳しく調査したが、それらしい住居も穴も見つけられなかった。つまりそこには、既に絶滅した生物が潜んでいることが証明されている」
あるかもないかも分からないもののために背広を着た人間たちが必死に森の中を探る様を想像し、霧島は噴出しそうになった。寸前に気付いた美村が隣の霧島を諌める。辛うじて教官には気付かれていないらしく、どこともしれない場所を見ながら話を続けた。
「上層部はこの証拠を元に長い時間、様々な争議をした結果、この場所の調査をすることに決定した。但し他の国々に話を一切持ち込まず、世間にこの情報を漏らさず、全てを我々だけで隠密に調査をすること、だが。またさっきのビデオのように行方不明者――我々は死亡したと考えている――がいるため、自衛隊の隊員たちは入り込むことができない。何が存在しているかも分からないため、非公式の部隊の介入も不可能だ。あの子供が気付いていなかっただけで核放射性物質、新種のウイルス、その他人体に有害な生物がいるとも限らないからな。我々はできるだけ被害を出したくない。
その為にお前たちが選ばれた。既に刑が確定しており、現在身寄りが無い犯罪者、そして傭兵。お前たちがここに来るまでの経験が如何なるものだとしても、全員がこの仮設施設で訓練を行い、教導され、あの穴の中を探索することになる。拒否権はここに来た時点で残念ながら消滅している。
勿論報酬はある。ここに来る前に聞いたと思うが、傭兵の諸君は基本的には無給、だが調査終了の暁には五千万が口座に振り込まれる。ここで行なった事は一切が部外秘であり、保険などの類は一切つかない。仮に情報を漏らしたとしても、我々は世界各国に網の目を張り巡らせているからすぐにそれを突き止めて、君たちを拉致できる。その後はまあ………ご想像の通り」
言わなくてもわかるだろ? と言いたげに教官は首を竦めた。ジェスチャーだとすれば、悪趣味この上ない。
霧島の頭には、迂闊にも適当な人間に穴のことを話してしまったために拉致監禁され、椅子に縛り付けられ猿轡を噛まされた挙げ句に指の一本一本を切り取られている姿が思い浮かんだ。隣の美村はぶるり、と身体を震わせていた。同じことを考えていたのだろうか。それとももっと酷いことか。
そこはまあ、自分の良心とよくよく相談してほしい、と言って教官はその話題を打ち切った。誰も何も言わない。霧島は脇の下に汗がたまり、じわじわと服に染み込んでいくのを感じ取っていた。畜生、気分が悪い。頭の中がふわふわしていてまるで現実感が無い。
坦々と、まるで紙に書いた内容を読んでいるかのように教官は話し続けた。
「受刑者の場合は、それ以降の刑期は全てチャラになり、架空の名前を貰い架空の口座を作ってもらい、そこに一千万円が振り込まれる。偽の個人情報もまた用意するから、仕事につくこともできるだろう。アパートの一部屋を用意するから、そこに移動した後は何をしても自由だ。事業をはじめるなり、どこかで勤めるなり、また犯罪行為に走って刑務所に戻ってもいいし、自殺しても構わない。こっちとしては漏らさないでいてくれた方がありがたいからな。
話す内容としては以上だ。何か質問は?」
質問は、と言いかけたあたりで既に立ち上がった人間がいた。あの背の高い男だった。全く物怖じせずに教官の目を真っ直ぐに見つめ、彼は口を開いた。
「調査といわれても、具体的に我々は向こうへ行って何をすればいいのですか? ただ向こうをぶらぶらとうろついて、それを報告するだけということでも無いでしょう?」
教官はすっと目を細くして――こいつは油断ならないやつだ、と思ったのではないか――ふんと鼻息を鳴らしてから話し始める。さっきほどではなかったが、それでもすらすらとした話しぶりだった。事前に何回も練習していたんだろうかと疑問に思ったが、スピーチすることに単に慣れているだけかもしれないことに気がついた。
「まずは空気中の構成物質調査、それから土、草、木の一部、破片、目に付くものを何でもいいから集めてくれ。もしも人間、もしくは知的生命体を発見した場合、そいつから詳しく話を聞きだすこと。一応第一目標は少年が泊めてもらった村、まずはそこに行ってもらう。また地理・その場所が今置かれている社会的状況、生態系、何があって何が無くてどんなものが流行りどんなものが廃れているのか、なんでも全てだ。生体組織のサンプルも欲しいから、虫や動物を捕まえたら連れてきてもらいたい。これは別に殺しても構わん。そのための道具は支給する」
分かりました、と言って背の高い男が座り、続いて美村が、はじめて会話をした時よりも遥かにおどおどと、半ば怯えながら立ち上がる。教官の鋭い視線に促されるようにどもりながら話し始めた。
「あの………危ないから自衛隊が入ることはできない、ってことらしいですけど、その、それだと……」
言葉を切って、喉にたまった唾を飲み込んだ。教官がイライラしたような顔つきをしはじめたので、慌てて続きを言った。
「えと、俺たちなら別に死んでもいいってことですか?」
「そうだ」
即答だった。
「そのために君たちはここにいる」
重い沈黙が一瞬流れた。まさか本当にそんな答えが返ってくるとは思わなかったのか、美村は顔を青くしながら、何か発することができる言葉は無いかと口をぱくぱくさせていた。霧島も含め、誰も喋らなかった。他に質問が無いのか、と教官が逆に尋ね返して、美村は小刻みに頷くと椅子の上に腰を落とす。
ふと霧島の頭の中に、銃を構えた大人達の前をのそのそと歩いている子供の姿が目に浮かんだ。彼らはアフリカとかの貧乏な国で、特に戦争があった所とか現在進行形で起きている所で集められている、とテレビで聞いたことがある。子供達の役目は地雷原を歩くことによって、本来大人が踏むべき地雷を先に踏んでやることによって兵士の負担を軽減するものだった。勿論子供には地雷があるなんて言わず、口八丁で丸め込んで歩かせる。そして……歩いていくうちにいずれは……ドカン。戦力が殺がれてはたまらないが、ガキならどうせ余るほどいるのだ。使用するに越したことはないとその国の司令部は考えたのだろう。昔じゃ人がバタバタ死んでいくからその分子供をたくさん産んだものだ。多死多産、だっけ?
俺達はそれなのだ。大人に言われて地雷原を歩かされるガキども。危険な目に遭いたくない大人達に命令され、何があるのかも分からずにとぼとぼ歩くガキと同じだ。
「冗談じゃねえぞ」
がたん、と前列の左端に座っていた男が立ち上がった。でっぷりとした体格をした、集団を作るとしたらすぐさまリーダー格になりたがるような人間のように霧島には見えた。男からはつんときつい汗の臭いがして、どう見ても狼狽しているのは明らかだった。
「これまでずっと我慢してやっていたが、こんな馬鹿で、常識ハズレで、訳が分からん話は聞いたことが無い。日本政府? 穴? 向こうの世界? お前ら何言ってるんだ?! この日本でそんなものがあるわけないだろうが!! 頭狂ったかこのチンカスどもがッ!!」
太った男はテントの中にいる全員を睨みつけた後、大股の足取りでそこから出ようとした。足はすぐに止まった。
男の顔に銃口がつきつけられていた。入り口付近にいた兵士三人が、油断の無い目つきで男に小銃をつきつけている。霧島や美村などは半ば椅子から立ち上がりかけていたが、背の高い男やもうひとりの私服は至って平然としていた。もしかしたらこの二人が傭兵なのか、と霧島は熱に浮かされたような頭で思った。だからこんなくそみたいな状況でも冷静なのか。畜生。人が死ぬかもしれないってのに!
「ああ、またまた言い忘れていた。いやあ、年はとりたくないもんだ」
何事も無かったかのように頬を掻きながら教官は、ゆっくりとした足取りで太った男に近づいた。
「現在この付近は治外法権扱いになっている。穴が世間に知られることを憂慮した日本政府は化学兵器テロをでっちあげたため、近隣の住民は強制的に避難させている。念の為に自衛隊の東部方面隊が出動してここを封鎖しているが、直に彼らは撤退する予定だ。その時は、君に銃をつきつけている私の部下たちがこの地域の治安を担当することになっている。そして彼らには、必要とあればまあ…殺人の許可も与えられている。マスコミに対して緘口令まで敷いているんだ、今更計画を潰すわけにはいかない。麓に到る道の殆どは警察と自衛隊が警備にも当たっているから、逃げ出そうとしてもすぐに刑務所に逆戻りだな。いや………その前に死ぬかもしれないな、そう事故で」
事故で、という点を強調して言った。こいつは本気で俺達を殺す気だ、と思った。必要があれば俺達全員を殺すことも厭わないんだ、この冷血漢は。
兵士三人が一斉にすり足で近づき、男の顔の皮膚に銃口を突き当てる。太った男はもうテントから出ようとはせず、両手を上げながら後ろに一歩下がり、二歩下がり、三歩目で教官の肩にぶつかった。触れた所から伝染病がうつるんじゃないかと考えたように、わっと声を上げて慌てて飛び退る。男の顔は美村と同じく青ざめ始めていた。それを言えば、青ざめていないのは傭兵らしき二人ぐらいだった。ただ不思議そうな表情で、兵士のように油断の無い目つきをしているだけだ。
「冗談じゃねえぞ」
太った男はさっきと同じ言葉を、今度は切れ切れの調子で呟いた。
「ここは日本だろ」
「ここは日本だとも」
教官は返した。
「貴様らの大部分は日本国民としての権利を享受することができるほど真っ当なことをしておらんがね。憲法上ではそうでもないらしいが、私から言わせれば犯罪者どもは人間社会の膿だよ」
教壇に戻ると机の中からファイルを取り出して、全員を舐めるように睨み付けてからゆっくりと、馬鹿にも十分理解することができるような調子で読み上げはじめた。
「斉藤茂、連続強盗及び銀行の行員二人を殺傷した罪で無期懲役」
太った男――斉藤と言うらしい――がぐっと喉につまらせたような声をあげて、歯をぎちぎちを鳴らしながら睨みつけた。それを物ともせず、教官は囚人たちの閻魔帳を坦々と読み上げ続けた。傭兵と見られる二人は互いに顔を見合わせ、首を竦めて黙った。
「篠田孝之、連続で八軒もの空き巣、懲役四年六ヶ月。松井一馬、殺人、懲役十五年。美村隆志、連続幼女暴行、懲役十年八ヶ月」
霧島がぎょっとした顔でたった今読み上げられた人間へ目を向けた。あんな気が弱そうでおどおどした美村がそんなことをできるというのか、と瞬間的に思った。どちらかと言えば彼は犯罪の加害者ではなく、被害者のように見えたからだ。
美村は罪状を言い終わる頃には俯き、親指の爪をがりがりと噛みはじめていた。猫のように目を細くし、何も聞こえなかったように地面をじっと見つめている。霧島はその美村の様子をぼうっとしたように見ていたが、次の言葉で我に返った。というよりは返らざるをえなかった。
「霧島遼一、自分の一家皆殺し、無期懲役」
ごぷ、といきなり吐き気はこみあげてきた。えずきを無理矢理おさえるために喉を手で押さえて、口を塞いで、眩暈をおさえるために目を閉じた。舌を噛むことなんて唐突に脳内を占拠した吐き気が思いつくことを許さなかった。腹の中で今の言葉が飛び跳ね回り、胃を切り刻んでぐちゃぐちゃにしようとしているみたいだった。耳の中ではどこからかやってきた誰かが怒鳴り始め、ドラムの音も一緒に鳴り響き始める。
急速に異常に包まれ始めた頭の状態をなんとか元に戻そうと努力したが、無駄だった。手の中に吐瀉物を戻して、霧島はその場で倒れた。椅子ががたがたと音を立てて、それを見た美村がさっきまでの行動をやめて抱き起こそうとした。霧島はテントの天井が急速に遠くなるのが見えた。どんどん速く離れていく。違う、俺が落ちているんだ。
視界の中が段々と薄暗くなり、およそテントの中にいる全員がこっちを見ている中で、霧島の目には彼らは別のものに見えた。美村は父親の顔に、わずかにこちらへと視線を向けた教官の顔は母親に、早足で霧島の方へとやってくる背の高い傭兵は、あの弟の顔に見えた。霧島の人生を最もめちゃくちゃにした、血を分けた悪魔。
父親、弟、母親、それらの顔はぐるぐると目の中で回り始め、いよいよ視界全てを覆い尽くそうとするその時に、ようやく霧島は意識を失うことができた。
八雲紫は眠っていた。特に今は誰にも邪魔されたくなかったので、自分が作り出した隙間の中に身を投じて、その中でひたすらに眠り続けていた。
隙間の中は紫が快適に過ごすために最大限の努力が払われている。そのため一度隙間に引き篭もってしまえばそう簡単に引っ張り出すのは容易ではなくなり、力が未熟なものは隙間に触れようとしても発狂してしまうほどの精神的打撃を受けてしまう。紫の式神である藍がそのまた式神である橙を紫が篭った際の隙間に近づけさせないのは、そういった理由があった。前に一度、不用意に触れてしまい自身の神経に大きな異常――具体的には、あまりに神経が過敏になりすぎて物体に触れることすらできないという状態――に陥ってから、橙も好んで近づこうとはしない。無理やり引っ張りだせるとすれば、それは神社に住む巫女ぐらいのものだった。
夏は涼しく冬は暖かく、至極快適な暗闇の中で横になりながら、紫は安眠を享受していた――その時までは。
眠っている間も半径何百キロに張り巡らされている紫の力が、何かを捉えた。小波の中で突然変異的に発生する大波のようなそれを大妖怪は鋭く嗅ぎつけた。それまでは何者でも邪魔できないほど寝入っていた紫の意識が、ふと目覚めた。
微かに目蓋を開けて、しかし体は動かさずに隙間の中で力を行使しつつ、異常なものを改めて捉えようとする。だが目覚めた際に一瞬だけ紫の力がブレてしまい、そのせいで異常なものは他の様々な要素の間に逃げ込んでしまった。もう一度感知してみようとしたが、今度は幾ら範囲内を洗っても見つけ出せなかった。自分の力が及ばないほどの遠くまで移動してしまったのかもしれない。
少しの間どうしようかと考えていたが、やがて襲い来る猛烈な眠気が思考をかく乱させ、強烈な倦怠感に紫は覆い尽くされる。どうせあれほど異常なものなのだから、そのうちまた見つけられるだろう。そうでなかったら誰かが見つけてくれるに違いない。きっとそうだ。あの巫女とか、魔法使いとか、メイドとか………
考えている間に目蓋はずり落ち、浮かびかけていた意識は粘性のある暗闇に囚われ、ずぶずぶと睡眠欲の中に沈んでいった。
紫は再び、隙間の中で眠りについた。
少年は、これまで見たこともないような場所に居た。空の中では半端に欠けた月が悠然と浮かんであり、ぽつぽつと点みたいな星が散りばめられている。それはどこにでもありそうな森の風景なのに、けれども少年は今まで一度もそんな所へやってきことは無かった。夢の中でさえも、空想の中でも。
今まで眠っていたのか気絶していたのか分からないが、とにかく意識は無かった。頭の中がこんがらがった糸みたいになっていて、あらゆる事象が乱れ飛んでいるせいで、まともに考えることができない。ここがどういった場所でどうしてやってきてしまったのか、身体を起こして痛む首を動かし周りを見回すが、自分のすぐ近く以外は暗くて見えない。薄ぼんやりと、幽霊みたいな木の群が見えるだけ。地面には草花が生えているが、今の少年にとってそれらはとても危険な代物に思えた。溶解性の液体を発するとか、そこから悪魔が湧いて出てくるとか。
けれども、どうしてこんなところに?
精一杯何があったのか思い起こそうとして、記憶をじりじりと探り始める。八月の夏休みに入って、いつもやっているみたいに家で夕飯を食べて、風呂に入ってからアニメを見て、それから―――
―――肝試し。少年はそのことにようやく思いが行った。
少年の住んでいる地域では毎年、子供だけでの度胸試しがある。その肝試しを大人に話してしまえば、「危険だから」というそれこそ何にでも応用できそうな理由で止められるのが分かっていたため、子供達がそれについて口外することはなかった(というよりは、一部の人間から殆どの子供たちに、それを話すのは口止めされていたと言うべきか)。いつからそんな非公式行事ができたのか少年には分からなかったが、とにかくそんなものがあるのは事実だった。開催場所は山々に面しているため、昼のうちに山の奥地に置いてきた目印を深夜遅く―――勿論家族が寝静まってから―――に取りにいってくること、ルールはそれだけ。そんなのやめたほうがいいよ、怪我したらどうすんの、と直前になって少年は抗議したが、「できなきゃお前男じゃないぞ、女の腐った奴だ」とガキ大将に言われ、しぶしぶ行かざるを得なくなった。どこの世界でも子供同士の派閥というのは存在しており、それから睨まれてしまうとまともに学校生活を過ごせなくなるのはよく分かっていたからだ。
既に少年の前を何人かが先行していたため、肝試しにそれほど大きな恐怖は感じなかった……だがもやもやとした不安感は胸の中を離れようとはしなかった。もしも茂みから突き出た木の枝で足を引っ掛けたら? 道に迷ってもっと奥の方に入っていってしまったら? 挙げ句の果てに崖から落ちてしまったら一体どうすればいいのか? 不安の種は尽きることが無かった。
もう一度ガキ大将に目を向けると、苛立った様子で彼は手に持った木の枝で地面を叩いた。他の付き添い何人かもはやし立てるように声をあげた。できなきゃお前は女の腐った奴だ、女の腐った奴だ。さっきの言葉が蘇ってくる。行かないわけにはいかなかった。
少年は仕方なく出発した。
出発する前、先に行った子供から目印の場所が書き込んである地図を渡された。目的地には何度か行ったこともあったため、そこまでの時間の目安は計ることができた。片道で十五分、往復すれば大体三十分ぐらいになるかな、と少年は辺りをつけておき、暗闇の中で感覚を無くしてしまわないように祈った。
異変に気付いたのは、いつまで経っても目的地に辿り着けないことに気がついた時だった。家から持ってきた暗闇でも光る腕時計を見れば、出発した時は十二時十分だったのに、もう三十分になっていた。心の中に小波が立ち始めるのを感じながら地図を確認する。月明かりの中で自分の居場所を確認しようとしたが、怯えと恐怖が入り込み始めた心では、一体どこにいるのか分からなかった。出発する前に確認した地図とは山の配置や目的地の場所が違って見え、もしや違う地図を持ってきてしまったのか、と思ったぐらいだった。
迷った、と自分の中で自分じゃない声が言った。この暗い森の中で一人きり。迷った。奥の方に入ったかもしれない、大人が入らないほど奥に入ったのかもしれない。迷った。周りには何がある? 木、茂み、草、あとは? 自分が安心できるものは一体何がある?
何も無かった。
自分が這い上がることのできない沼に漬かり始めていることを、少年はひしひしと感じ取った。それも足首や膝ではなく、腰までどっぷりと漬かってしまっているのだ。沼の底にはおぞましい悪魔が手招きしていて、そこに行ってしまえば頭からボリボリと食われてしまうだろう。
心を落ち着かせようと考えたが、耳の中では母親のような父親のような、誰かが喚き叫んで怒鳴りつけており、ちっとも考え事ができない。そうして少年は歩き出す。自分がどこにいるのかとか、どこに向かえばいいのか、そういうのは全く考えないで唐突に。とにかく前へ前へ向かって歩きまくった。
口を開けていると叫んでしまいそうだったから、両手で口を閉じながら少年は歩き続けた。そのうち早足になって、走り出した。恐怖は心に大きな傷を作り出し、少年は泣き出しはじめた。鼻から出てこようとする鼻水を拭おうと思ったが、ここには誰もいないんだ、ということに気付くと拭う気にもならなかった。森の空気が毒素と化して心の中に入り込み、自分を内側から殺そうとしているみたいだった。呼吸すらできない。
誰か助けて! 心の中で叫んだ。実際に叫ぶことは近所迷惑という理由で(というか、は目立つようなことは何でも、だ)親から禁止されていたし、もしもそうしてしまったら、本当に取り返しがつかないことになりそうだった。それに誰かに聞かれでもしたら、小学校に在籍している間少年は臆病者の弱虫扱いをされるだろう。少年のいる学校でそのあだ名をつけられることは、蛆虫か蝿と同じ地位に貶められることを意味する。
その時、何かが少年の脳裏をかすめた。何なのかは一瞬のことだから分からず、しかしその感覚は異質だった。自分の中にある何かが変化してしまったようなものを思い浮かべたが、すぐに違うことを悟る。そうではなく、これは―――
自分以外の全てが丸ごと変わってしまったような、そういった感覚。
少年は走りながらその感覚に気を散らされたため、すぐ足元にあった木の根に気付けなかった。やっと木の根の存在を発見できた時には、既に足の衝撃とともに身体が宙に浮いていた。
ぶつかる! と気を失う直前に彼は思った。思ったと同時に身体は地面に叩きつけられ、………多分、気絶したのだろう。そうとしか思えなかった。
自分が置かれた状況は分かったものの、こうして起き上がってからはどうすればいいのかまるで分からなかった。
肌の表面がぬめったもので撫でられたようにぞわぞわして、見ると鳥肌が立っている。森の中を通り抜ける空気が異様に生暖かいせいかもしれないが、それ以上にさっき感じた感覚が続いていた。とても大きな生き物の中に丸々飲み込まれたような錯覚すら覚えて、寒気が背中を走った。鯨の中に飲まれてしまったピノキオは、こんな気持ちだったんだろうか?
元来た道を戻ればなんとかなるかもしれない、そう思って後ろを振り返ろうとした途端に体中を痛みの無い電撃が走り抜けて、瞬時に少年の足が竦んだ。先生に怒鳴られた時でもこんなものを感じなかった。
少年の右手奥、亡霊みたいに聳え立つ木々の向こう側から音が聞こえた。草木が風に揺れる音でもなければ、夜行性の虫が飛び回る音でもなかったし、少年が今まで聞いたことのある音の中では、今のそれは最も恐ろしい所に位置していた。前にテレビで聞いたことがあって、思わずその時は父親の服にしがみついてしまった、あの音。
獣の唸り声。
前に近所の犬がガキ大将に向かって唸っていたのを見たことがある、それと辛うじて種類を同じくしているもの。それは犬の吠え声よりもっと凶暴で、もっと敵意をむき出しにして、そして………空腹を訴えている。腹が減った、俺は腹が減ったぞ、と。少なくとも、少年の耳に唸りはそう聞こえた。
目が飛び出さんばかりに見開かれて、足のみならず全身が動くのを頑なに拒否している。こういう時こそ活発に動かなくてはならない筈の脳みそはとっくに役目を放り出して、今そこで命令を発するのは本能、生存本能だった。このまま動かない方がいいこのまま動かない方がいいこのまま動かない方がいいこのまま動かない方がいい―――
森の奥にいる獣はもう唸っていなかった。代わりに足音がした―――獣と言えば臭いを嗅いで相手を追跡するんだから、僕がここにいることなんて丸分かりだ、少年はそう考えた。むしろ少年の目には、その獣がこっちに向かって歩いている様さえ見えた。それが幻視であろうとも、今の少年にとってそれは真実だった。大きな身体を一歩、一歩、どん、どんという太鼓のような音すら少年の耳に届き、暗闇の中で、それがとうとう見えた。
己を殺す死神の姿。
知らぬ間に口がぶつぶつと呟いていた。簡易的な遺書だとは自分でも考えないまま、少年は呟き続けた。おとうさんごめんなさい、おかあさんごめんなさい、おばあちゃんごめんなさい。僕はもうだめです、僕はもう死にます。僕はもう駄目で
悲鳴のように甲高い声を立てて、近くにいたらしい鳥がばさばさと羽ばたくと、そのまま上に飛んでいって星空の中に消える。いきなり飛び上がったせいか、木に擦れて何枚かの羽が落ちる。もしかすれば逃げていったのかもしれない、と少年は後で回想した。すぐ近くには自分を殺そうとしないまでも大きな獣がいたのだし、何よりそれはお腹を減らしていたのだから。
鳥が立てた音は少年の脳みそを大きな手で揺り動かし、心臓にきつい衝撃を与えた。それによって全身へと瞬時に血液が行き渡り、殆ど止まっていた呼吸が再開し、死にかけていた理性と本能が少しだけ稼動し、一つの単語を導き出した。
逃げろ。
少年は大きく息を吸い込むと、声も無く背後に向かって駆け出した。いきなり猛烈な運動をしたせいで足が痛みを訴えて少年を止めようとしたが、彼の脳みそはあらゆる情報をシャットダウンし、逃げることだけに特化させていた。後方で苛立ちを覚えたような吠え声が聞こえ、獣が追いかけてくる音が耳に入る。
誰か、何か、誰か、何か、誰か、何か、助けて助けて助けて助けて助けて!!
全身のバネを使って全速力で森を突っ走りながら、少年は心の中で助けを求めた。倒木を乗り越え木の根を乗り越え足の動きを止めようとする茂みを乗り越えながら。どうして自分が森の中でこんなに走れるのか一瞬疑問に思ったが、すぐに消失した。考えてもどうにもならないことだ、そんなの。
一瞬だけ見えた獣の姿は以前に図鑑で見た動物に似ていた――イノシシ。真っ直ぐ獲物に突っ込んで、押し潰して、大きな歯で肉を食いちぎって内臓を食べてしまう、熊と同じくらい恐ろしい動物。『一年に何人もの大人がおそわれています、みなさんもイノシシにであっても、おどろいたりこうふんするようなことはしないようにしましょう』と書いてあった。それは何ヶ月ぐらい前の出来事だったのに、今では何千年も前の出来事みたいに思えた。
少年は反射的にジグザグに進路を切り替えることで、獣に思い切り走らせないようにしていた。右に左にあっちこっち、真っ直ぐしか走れないなら振り回してやればいい。
イノシシは自分を食い散らかそうと必死に追いかけてくるが、その意に反してなかなか距離は縮まらない。少年は自分の持てる限りの力を振り絞っていたし、彼自身、無意識のうちに今が人生で最も力を振り絞らなければならない時だと気付いていたからだった。
枝や棘が生えた茂みによってついた傷や痣なんて全く気にならなかった。そんなものをとっくに越えて、彼の意識は森の向こう、そのまた向こうへと向きつつあった。背後から迫り来る死神から助かる方法を、誰か自分を助けてくれる人を求めて。
「獣」は苛立っていた。それも、酷く大きく。
つい先ほど彼は美味そうなエサを見つけた。臭いを嗅いだ限りそいつは怯えていることが分かった(恐怖とはすっぱい柑橘類の匂いをさせるものだ)し、大抵の怯えた生き物というのは単数でいるからだ。こいつは狩れる、という直感が到来し、獲物の臭いや大きさ、肉としての価値を考えると身震いがした。念の為に様子を伺いつつ進んだが、夜でも見える「獣」の目には、やはり一匹で佇む獲物だけしか見えなかった。大きさは手ごろであったし、あれぐらいなら今夜中に骨までしゃぶりつくせるだろう。最後には骨を噛み砕いて何もかも食いきってやろう。
呼吸の音を隠さず、舌を舐めつつそれは獲物へと近づいていった。足音をなるべく立てないようにしながら、体勢を低くしながら、少年の常識で言えばイノシシのような身体を前に前に。それはイノシシという生き物を見たことが無かったが、もしも実際に見たとすれば、その生き物は自分と比べて醜いと思ったことだろう。「獣」には他の馬鹿な動物と違い、物を考える力が、判断する力があった。人間のような哺乳類と比べれば明らかに劣るが、だがそれには思考能力があった。いつからそんなものが備わっていたのか定かではないが、気がついた時には「獣」は物を考える生き物として生きていた。
そして後少し――気合を入れて跳躍すれば一瞬で捕まえられる地点までやってきた時、獲物の近くにいた鳥が大きな大きな音を立てて飛び去った。目の前にいる久しぶりの獲物に最大限集中するあまり、近くに居たどうでもいい生き物に対しては全く気付かなかったのだ。不覚もいいところだった。楽な狩りだったというに、果たして獲物は逃げ出してしまった!
すぐに追跡を開始したものの、獲物は足が速かった。こちらを振り返りもせず、直線に走ろうとせず何度も方角を変えて向きを変えてこちらの速度を殺そうとする様に、大きく苛立ちを覚えた。
また、獲物の姿は奴らにそっくりだった。小さな黒いものを発射できる筒を持った奴ら、一度群でやってきた奴らを食い散らかそうとしたら、奴らはそれで反撃し、なんと「獣」を殺そうとまでしたのだ。足に高速で鉄がかすり、「獣」は逃げ出した。その日の夜は、奴らが寝床を見つけて狩り出すのではないかと戦々恐々しながら眠らなければならなかった。もしかすればこれは奴らの罠ではないのか、それとも獲物は本当にただ逃げているだけなのか? そう思考していくにつれ逡巡が「獣」の中で大きくなっていき、足の動きが段々と緩み始めた。
このまま進路を変えて獲物を逃がすか、それとも狩りを継続するか。「獣」の頭の中で高速の鉄を撃ち出す筒が蘇ってきて、バン、という恐ろしい音を思い出させる。最後までそれらは目の中にちらついていたものの、「獣」は継続を選択した。どっちにしろ徐々に距離は詰まっているのだ、このまま走り続ければ捕まえられる。そうすれば一気に止めを刺して、奴らの目が届かない森の奥へと引きずっていけばいい。ねぐらに戻ってから、勝利の余韻を味わいつつ咀嚼してやればよいのだ。
走る――走る――走る――走る――走る――。
今では獲物の背中がすぐ近くにあった。獲物が発する独特の匂いを嗅ぎながら、きっとこいつは恐慌状態に陥ったに違いない、と思った。後は思い切り鼻で突いてやり、吹っ飛んだその身体を歯で食いちぎってやるだけなのだ。
あと少し――もう少し――あとちょっと――今だ――!!!
いざ飛び掛ろうとした時、「獣」の鼻が恐ろしいものを捉えた。絶大な恐怖感を感じながら足を止め、勢い余って二、三回転げながら態勢を立て直すと急いで後ろに下がる。恐ろしいアレを感知した鼻がひくひくと動き、「獣」は大きく威嚇の唸り声をあげる。
アレは奴らよりもずっと恐ろしかった。体の中に「獣」よりも凶暴で強大な獣性を隠し持った生き物、筒を持った奴らと似たような外見をしているのに、その中味は全く違う。奴は羊の皮を被った狼だ、リンゴの中に潜む猛毒だ。「獣」はアレを敵と認識し、それ以上に大きな脅威として感じていた。
立ち止まって周りが見えるようになると、そこはもう森の出口であり、獲物はそこから抜け出してしまっていた。なんてことだ、と「獣」は恐怖に身体を竦ませた。森の外、奴等がたくさんいる場所はまさしくアレの領域なのだ。アレが「獣」などが入らないようにマーキングしている箇所、迂闊に侵入すれば光の速さで飛んできたアレにたちどころに狩られてしまうだろう。他の生物と同じように、「獣」にとってもそれは例外ではない。
おそるおそる、境界から踏み出さないように顔を出してみると、木々の向こうで獲物が倒れていた。ゆっくりと身体が動いていることから死んでいないに違いない。そして、獲物のすぐ脇にはアレがしゃがみこんでいた。アレはゆっくりと獲物が出てきた地点を辿っていき、迂闊にも――あまりにも迂闊なことに――まだ顔を出していた「獣」に視線を合わせた。
アレの目が奴らではなく、猛獣のそれに変わった。
「獣」は一瞬にして方向転換すると、まるでさっきの獲物と同じように逃げ出した。全速力で、アレに追いつかれないことをショックを受けた脳みそで願いながら。体中を波打たせながら、毛を逆立てながら突っ走るその姿は怯えた生き物。
くそ! 「獣」は悪態をつき、さっきの獲物と自分の姿を重ね、猛烈な憤慨と憎悪と悲嘆を覚えた。くそ! くそ! くそ!! なんと自分が馬鹿なことか、愚かなことであるか!! この屈辱が、屈辱的なことが!!
獲物は嘆き、怒り、憎み、そして大きく叫び、その声は森中に届いた。多くの生き物はそれを聞いて身の危険を感じただろうが、それを聞いてアレが自分の居場所を突き止めるのではないかと思うと、とてつもない恐怖と悲嘆が再び「獣」の身体に入り込んだ。それでも咆哮を止めることはできない。
咆哮を繰り返しながら、「獣」は夜の闇へと、冥界のような森の奥へと消えた。
刑務所の中にいる人間にこの中で最も喧しい場所はどこかと聞けば、大抵の人間が作業場だと答えるだろう。
犯罪を犯した人間やそれを管理する人間がひしめく作業場の中では、機械がごんごんと仰々しく唸りをたてる音、何十人もの作業着を着た男達によって黙々と営まれる作業、これらによって生み出される音は悪趣味な交響曲となり、演奏者にとっても好かれることのない曲目として扱われる。大部分の受刑者は交響曲を作り出すために汗水垂らして働く羽目になり、この作業を免れるのは禁固刑や死刑を宣告された者(特に死刑囚は数が少ない)であり、おおよその法律の網に絡めとられた人間は、牢獄に入ったらこれと向き合いながら生きていかねばならない。
大抵の受刑者はそれに慣れきってしまい、半ば惰性に近い感覚で日々を過ごし、更生への日々――世間一般による意見と刑務所の実態との最大の溝だ――を歩んでいた。だがほんの一握りの受刑者はそれを快く思わず、繰り返す日々に鬱積か不満、その他悪感情を溜め込むばかりだった。彼らは刑務所の中では最も馬鹿にされ、軽蔑され、仕事の邪魔になるからと嫌われる人間――神経がナイーブな芸術家肌の人間であり、霧島遼一もそのうちの一人だった。
霧島は毎日の作業が終わって共同部屋に入ると、大抵の場合購買で買った(ここに入るまでは思いも寄らなかったが、なんと作業によって給金が出てきた)シャープペンシルでメモ帳の中へと書き物をしていた。このメモ帳も最初のものは枚数を使いきってしまい、かれこれ三冊目か四冊目ぐらいになる。また、以前は鉛筆を使っていたが、長く使っているせいでちびてしまい、書けなくなってしまった。同囚は何らかのコミュニケートもとらずに一人メモ帳に没頭している霧島を見て、胡散臭そうな目をし、あいつはエイズでも貰っているんだろう、と大体においては卑猥な噂をしていた。最初は霧島も随分とそれに悩まされたが、次第に慣れてきてしまった。また房内の犯罪行為を防止するために度々刑務官が見回るので、リンチや暴力行為にまでそれらは発展しなかった。
小説の内容は一週間ほどで書き終わるため、週ごとに入れ替わった。恋愛、ファンタジー、サスペンス、ホラー、詩などなど。それらしいネタが無い時は詩を中心に書き散らしていたが、気が向けばコメディタッチの代物やホラーにも目を向けた。枚数は多くても二十か三十枚、少ないと十ページぐらいの超短編で、それも文章の技量としては下手もいいところだったのだが。これについてはあまり刑務所内で文庫本が手に入らないため、頭の中に文字が浸透しないからだろうかと霧島は考えていた。
その日もまた、受刑者から向けられる呆れと蔑みの視線を無視して自分の世界に没頭していた――主役は袴姿の若い神主で、今は相棒であり恋人でもある巫女とともに、西洋から流入してきた魔物に対して霊能力を持った札を投げつけているシーンを書いていた――が、ノックもなしにいきなり刑務官が三人、どやどやと部屋に入ってきたことで中断された。何か問題が発生したのかと直感し霧島と同じく全員が正座して刑務官のほうを見たが、部屋に入ってきた刑務官は無言で互いの目を見交わすと、座敷に上がり、他の誰にも目をくれないで霧島の腕を掴むと立ち上がらせる。
え? と霧島は目を白黒させ、同室の人間も訳が分からないというように刑務官に疑問の目を向けたが、抗議の声は出てこなかった。こんなことは霧島を含めてどの受刑者も体験したことがなかったし、他の人間からもこんなことを聞いたことが無かった。完全なイレギュラー、意味不明の異常事態としか言い様が無かった。
「ちょ、ちょっと待ってくださいよ、俺何もしてませんよ」
混乱しながらそれだけを言うことができたが、当の刑務官の返事は沈黙だった。二人で霧島の両腕を掴み、警棒を持った一人が残りの囚人を見張り、奇妙な沈黙のまま霧島は連れ出された。刑務官と霧島の全員が出て戸が閉まると、一気に部屋の中から話し声が湧き上がった。おいおいなんだこれ、あいつどこに連れてかれるんだ? わかんねえよ、お前何か知ってるか?
刑務官はそれを咎めもせずに、ずるずると霧島を廊下の向こうに連れて行く。途中で房の人間が入り口のガラスから霧島たちをじろじろと見ていたが、刑務官が睨むとすぐに姿を消した。
「これからお前は、刑務所長室に行くことになる」
廊下の途中で一人が口を開いた。霧島と顔なじみで、彼にメモ帳と鉛筆をくれた人間だった。名前は一ノ瀬だったか、それとも一ノ宮だったか。自分でもこれの意味を知らされていないようで、顔を顰めながら話を続ける。
「そこでお前は形式的な書類を貰って、ここの外に出ることになる。ただこれは釈放じゃなくて、……その、俺たちが関与できないところに連れて行かれる。私物とかは荷物で送るから、そういった心配はしなくていい」
彼は重々しい口調で告げ、さながら部下を死地に追いやらざるをえない上官のような顔をしていた。
何を心配するなっていうんだ? 人を無理矢理連れ出しておいて? どこに連れて行くって?
一条の奇跡というか、これの詳しい説明をしてくれないか他の人間の目を見たが、誰もが首を振った。誰も知らないのだ。改めて両腕を掴まれると、同じようにずるずると歩かされる。
俺はこれからどうなるんだ、ここじゃなくてどこに連れて行かれるんだ、刑務官が関与できない場所って一体何なんだ。そう思ってから、ある可能性に気がついた。あまりに突飛すぎて推測ではなく妄想の域にまで達していると理性は諌めたが、既に心の中が不安と混乱の坩堝だった彼にとって、それはとても当たり前のことに思えたし、そうなる可能性は十分にあるとも思えた。どんなに馬鹿げた可能性であっても、リアリティを持って伝わってくるようだった。
つまりそれは――死刑。
例えば漫画みたいに、新聞やニュースでは絶対に報道されないような法律がいつのまにか国会で発表されて、どういうわけかそれが通って、それで、俺みたいな犯罪者を
(黒魔術みたいに仕立て上げた死体 電子レンジの中に突っ込んだ指 布団でくるみこんで灯油をかけて、裏庭で燃やした死体)
唐突にモノクロの映像がフラッシュバックして、頭の中が変になったように目の前がぐらついた。喉の辺りがむずむずすると同時にぬるぬるとした気持ちの悪さを感じ、思わず吐きそうになる。舌を思いっきり強く噛んで、その光景を振り払うと気分の悪さを押し戻し、懸命に思考を続けようとする。
それとも俺みたいな犯罪者をどこかの精神病院によく似た場所へ連れて行って、何かの実験にでも使うのかもしれない。脳の一部を取り除くことによって第三の目を開けるとか、マッドサイエンティストが思いつくような理由で。そうでなかったら死刑にするための条件が緩和されたとか、そんな感じでとにかく俺が死ぬことに決まって、絞首刑とか電気椅子とかギロチンとか、何でもいいからやるのかもしれない。ああ、アラブとかの中東じゃ人の体を切り刻む刑罰があるのだから、それに俺が丁度あてはまったのかも―――
「おい、着いたぞ」
軽く肩を押されて、ようやく思考の世界から回帰する。上を見ると、刑務所長室とプレートに筆書きで書いてある。前に出た刑務官がノックした後で、失礼します、とドアが開けられた。部屋の中には中央にある所長用の机に太った中年男性が座っており、壁のすぐそばには何人も刑務官が待機している。しかも警棒という武装までしているから、霧島は自分が何をされるのか気が気でなかった。話をするんじゃなくて、俺はリンチをされるためにここへ来たのか? 目の前の禿親父はその様を鑑賞するのか?
そうはならなかった。霧島があちこちに視線を走らせ怯えている中で、でっぷりとした体の刑務所長は霧島を見もせずに話を始めた。まるで相手がいてもいなくてもどうでもよいという話し方だったが、今の霧島にはそんなこともわからなかった。気分の悪さと吐き気と恐怖が交じり合ったせいで話が死刑宣告のようなものに聞こえたが、変に改まったような説教と、日本政府がどうたらこうたらという話は聞くことができた(超法規的措置、と言う単語を聞いて、ああ本当にそんなものがあるのだなあ、とぼんやり霧島は思った)。立て板に水を流したような早口で話が終わると、自分が何を聞いたのか頭を整理する前に部屋を連れ出されて、服装と持ち物のチェックをされ、何枚かの書類に強制的にサインさせられた後で、何人も刑務官が張り付いた厳重な警戒の下でバスに乗せられた。ちらっとバスの窓から見ると、外に面した部屋の窓からは、そのスペースを目一杯使って囚人たちが恥ずかしげもなくバスをじろじろと見ていた。別刑務所への護送でもここまで大掛かりではないから、物珍しくてたまらないのだろう。俺はまるで奴らのスターだな、となんとなく思った。理由は不明だが刑務所から出られるというのに、全く嬉しい気分がしない。むしろ腹の底がぐずぐずに腐ったような気分で、もしここで腹にパンチを一発もらったら吐いてしまいそうだった。
バスの中では一番後ろにある最も左の席に霧島は座り、逃げ出すのを防ぐためか、すぐ横に刑務官が一人座った。話し掛けてみようかと一瞬思ったが、あまりに相手の雰囲気がぴりぴりしていたのとプラスして知らない人間だったため、やめた。せめてメモ帳をくれたあの刑務官だったらな、と思い溜息をつく。
仕方ないので視線を動かしていると、二つ前の席に黒髪が見えた。隣には刑務官を示す帽子があることから、そいつも連れてこられたのか、と霧島は考えて少しは安心した。何だ、ここにいるのは俺だけじゃないんだ。流石に後ろ頭だけでは判別のしようがなかったが、もしかして一緒に作業をしたことがあるかもしれないと推測した。そう考えてから、共に作業をした人間について殆ど記憶にないことに気づいて僅かにショックを受けた。
彼らを乗せるとすぐにバスが発進し、刑務所前に設置されている逃亡を防ぐための長い長い塀を横目に見つつ、霧島は自分がどこに連れて行かれるのだろうと考えてみた。頭を椅子にもたせかけて、視線を僅かに揺れる天井に向ける。小さい虫みたいなものが飛び回っているが、誰も気にしない。
死刑という可能性は横に置いておいても、本当にどこへ連れて行かれるのかさっぱり分からなかった。
別刑務所への護送――こっちに事前に知らせることなく? 何だ超法規的措置って? どう見ても警護の人数が半端じゃなかったぞ?
新しく発明された薬品の実験体――これの方がまだ可能性がある。
何か特別な事情による外国への移送――そもそも自分がそれに相応しい人間だとは思えない。自慢じゃないが、一般人と比べても特別視されるようなスキルもない。爆発物処理も銃の資格もないし、社交術はおそらく人並み以下だろう。
その他海外のスパイ組織への転向、ゲリラ組織への強制介入、お偉いさんのサド趣味のための殺し合いの道具、と愚にもつかないものにまで及んだが、結局はお手上げだった。何が何やら分からないので、諦めて外の景色を眺めるのに専念することにした。地理的な面からどこに向かうのか分かるかもしれない。
最初に町が見えて、銀行、郵便局、スーパーを通り過ぎる。スーツ姿のサラリーマン、老人車を押している腰の曲がった爺さん、休みの日なのか子供が公園の中で走り回っているし、何十台もの車を見かけた。刑務所に入って三年だが、懐かしいとかあの中に入り込めたら、とは全く考えられなかった。酒や女には興味が湧かないし、飯だって刑務所の中にあるので事足りている。ゲーセンやカラオケなんて自分にとって最も興味が無い物の一つだ。情報はあそこでも手に入るし、霧島に必要なのはメモ帳とシャープペンシルぐらいだった。それだけで十分。あとは余分。むしろ飛び交う車やどう見ても多すぎる人間同士とも関わらなければいけないため、外の世界の方が霧島にとっては苦痛とも言えた。
ぼうっとしたまま景色を眺めていると、通りにぽつぽつと生えている木の枝葉の色が赤く変色しているのがちらほら見えた。それの光景を見て、ああもう秋なのか、と思うことはできたのだが、感慨らしきものは、ほんの微かな感動でさえも頭の中に浮かばなかった。刑務所なんかに入っていると暑い夏か寒い冬か、あとは正月ぐらいしか季節の移り変わりを見て取ることができなかったから、春や秋なんてものはあってもなくても似たようなものだ。大同小異。どれほど自分が人間として必要なものが欠けているか分かってしまうが、だからどうだと言えるのか? 無期懲役と宣告されたのに(そういや何十年入らなきゃいけないんだっけ? 四十年? 五十年?)、人間らしさなんて必要なのか?
今の霧島は人形も同然だった。のっぺりとした同じような灰色の日々を淡々と過ごすだけの人形、余計なものは感じないし、いらないものはどんどん切り捨てていく。多分強制的に連れ出されることがなければ、死ぬまであの日々を繰り返していただろうなあと彼は考えてみたが、それでさえも何かを感じない。死んだら死んだで、土に埋もれるだけだろう。
街中を抜けると、次に田舎道に入る。青っぽく色が変わっている山が見えて、頂上の方は雪が残っているためか白く見える。遠くで指みたいな大きさの農家やトラクターが見えた。そのへんの田んぼではカラスとハトが喧嘩しており、鳥の群が山へと飛んでいく。何も感じないままその光景も終わりを告げ、やがて色とりどりの木が生えた山道に入り、急勾配な坂道を上がったり下がったりして、その度にバスがごとごと揺れた。途中でちらっと前に目をやったが、前で座っている奴は一言も口を利かなかった。それを言えば霧島や他の刑務官も無言だったため、バスの中はエアコンが温度を調整するための音しか響いていなかった。多分刑務官は問題を起こさないことぐらいしか考えていないと思うから、下手に騒ぐよりもこれでいいのだろう。
そのうちに通行止めの立て札がぞんざいに生えているのが見えたが、スピードも落とさずにバスは通り過ぎた。霧島は首を傾げたが、誰もそれについて疑問を発しようとしないので黙っていた。ずんずんとバスは進んでいって、暫くするとなんとバリケードらしきものが見えて、その前には野戦服を着た男が立っていた。霧島は目を剥いて、思わず腰が浮きかけた。テレビや映画でしか見ない代物…彼らは自動小銃を持っていた。バリケードの両側に一人ずつ立っていることから、門番としての役割をしているのは明らかだ。このバス、本当にどこへ向かっているんだ?
バリケードの前でバスが止まり、野戦服が一人近づき、バスの運転手となにやら話をはじめた。運転手が手帳のようなものを見せると、男はバスの中に目をやり――何かされるのではないかと怖くなって、反射的に身体を縮めた――運転手に身振りで、通っていいぞ、と示した。
バスの前でバリケードが退けられている間、霧島の頭の中は本気で混乱しはじめていた。自動小銃? 何だあいつは? 兵隊? 自衛隊? そんなのが何でここに? そもそもここはどこで何があるんだ? 何でそんなところに俺が連れてこられるんだ? ここは何をするところなんだ?
射撃訓練の的として自分やもうひとりの受刑者が蜂の巣になる様を思い浮かべて、霧島は頭を振った。頭の中で九九を連呼して、彼は努めて考えないようにした。どっちみち目的地に着けば全てが明らかになるのだから。
そこを抜けて結構な時間が経つと、不思議としか言いようの無いものが見えた。バスのガラスは曇っていないため、遠くのほうまでよく見えた。
少し遠方の方にある迷彩色のテントの中では、さっきと同じ野戦服姿の男達がせっせと動いている。変な機械のようなものを設置しているようだが、ここからではよく見えない。そのテントの脇では私服姿の人間が何人かグループを作って座り込んでいるし、小銃を彼らも手にしている。テント自体は幾つもあり、入り口の幕を引き下げたものと上げたままのものがあり、上げたテントの中では中にいる男達の姿が見える。たまに女らしき人間が混じっているのが見えた。一番目を引いたのはガスマスクをつけた奴がいることだった。戦車やヘリコプターの姿は見えないものの、バスの近くではガスマスクをつけた奴らが何人かで話し込んでいるし、その近くには見たことも無いような車――消防車のホースがついているし、変に角ばっているのでごてごてして見える――があった。なんとなく霧島は、それらの光景を見て何年か前の、あの宗教団体が毒ガスを撒いた現場を思い出していた。テレビではガスマスクをつけた男が一般人を連れ出し、救急車に乗せられていた。あの事件で何人死んだっけ?
半ば放心状態でテントに見入っていた霧島は、がくん、とバスが停止した際に前のめりになった。座席に頭をぶつけてしまったが、隣の刑務官は顔を向けようともしなかった。
頭がおかしい子供よろしく腕を捕まれてバスから降ろされると、付き添いの刑務官は何も言わずにバスの中へ戻り、バスはもうひとりの受刑者と霧島を置いて、その場を去っていった。ぽつんとその場に、二人残される。
男は霧島と同様この事態に混乱しているようで、おどおどしながらあちこち首をめぐらしている。薄く顔を見てみたが、残念ながら知り合いではなかった。どうしようかと少し迷ったが、決心すると霧島は男に話しかけた。
「なあ、あんた名前、なんていうんだ?」
他の人間に呼ばれることは予期していても、霧島に話しかけられるとは思わなかったのか、ぎょっとしたように男が振り向いて霧島を見た。もう一人の姿を認めると、口ごもりながら言葉を返す。
「あー、あ、ああ、美村だ、美村隆志。美しい村って書いて美村だ。あ、あんたは?」
「俺は霧島だ。霧の中の島で霧島。なあ、ここってどこだと思う?」
美村はぐるりともう一周見渡す。首を振った。
「全然わかんねえ。でもさ、絶対ここ、ヤバイと思うんだ。ほんとに」
そう言うとへへへへへ、と変な声をあげた。無理矢理笑おうとして失敗したような感じに霧島には感じられた。
「俺もそう思う。あいつらとか、何してると思う?」
霧島は未だに話し込んでいるガスマスクの連中を指差したが、美村はあちこち見ていたにも関わらずたった今それを発見したように、それを見て目を丸くしただけだった。やっぱりな、とは思いつつも霧島は深くため息をついた。俺が分からないのに、同じ刑務所から連れてこられたこいつが知ってるわけない。しかもたぶん、こいつは俺よりもとろそうに違いない。悪口とか罵倒の積もりではなく、ただ霧島はそう考えた。
とりあえずここで立っていても始まらないので、二人は近くにあった大型テントへと向かうことにした。誰かに聞けばどこへ行けばいいのか分かるだろう。なんであの刑務官たちは、バスから降りるときに何もアドバイスしてくれなかったんだ?
歩き始めたその時、目的の大型テントからひょっこりと男が顔を出す。それから霧島と美村の姿を目にして、あ、と声を上げた。
「おーい、遅れてきたのか?」
取り出したタバコを一吸いしてから男は二人に近づいてくる。身長が百九十近くあるのか、霧島は見上げるようにして男の顔を見た。別にどこにでもいそうな、人懐こそうな感じがする普通の男だった。GパンにTシャツと格好も野戦服の奴らとは違う。男の言っている意味が分からなかったため、詳しい話を聞こうとした途端に大声――というか怒号に近い――が聞こえた。
「おい!! 遅刻だお前ら! 早く入れ!!」
幕の間から四十過ぎと思しき男が顔を出し、二人に向かって怒鳴りつけていた。長年の刑務所生活の習慣が根付いていたせいで、怒号が聞こえた途端にぴんと背筋を正して、二人はテントに入る。背の高い男は何も聞こえなかったかのように虚空に向かってタバコの煙を吐き出していたが、四十すぎの男はそれを見ても顔を顰めただけで何も言わなかった。
テントの中は外から見た時よりも広く、中にはたくさんの人たちがいた。四十過ぎの男は奥にある教壇にさっさと向かい――この男のことは、教官と呼ぶことにした――その奥にはプロジェクターが吊り下げられている。教壇にはそれに映像か写真を写すためのような機械が設置してあった。教壇の手前には何脚か椅子が用意されており、前列に五、後列に六というように並んでいた。後列が一つ、前列が二つ空いている以外は満杯だった。おそらく空いた後列は背の高い男が座ってるんだろう、と霧島は推測した。
椅子に座っている男達はほとんどが囚人服――細かくデザインが分かれていたが、大体が似ているので分かった。前列には背の高い男のように、気楽な服装をした男が一人座っている。この男はあの背の高い男の仲間だろうか、と霧島は考えた。そうなると、この男たちは何なのだろう? 自分たちみたいな受刑者に混ざっている意味は?
まだ突っ立ったままの彼らを見て、次第に教官の目線が酷薄になっていき、また美村が早く行こうぜとせっつくので、二人は前列の空いている席に座った。丁度教官のまん前に位置しているため、視線をどこに逸らしたものか困った。美村はその横で真剣な面持ちのまま教官を見つめており、教官と言えば入り口の方に目を向けている。背の高い男を待っているのだろうか、と考えたものの、何か言われるのも癪なので姿勢は崩さないでいた。
誰も話をしなかった。見るところがないので首をめぐらすと、壁際には何人もの私服姿――さっきの野戦服とは違うのだろうかと思ったが、とりあえず兵士と呼ぶことにした――が刑務所長室と同じように待機しており、野戦服と同じく自動小銃を肩からぶらさげている。もう片方を見ても同じだった。椅子に座っている人間は誰も喋らなかった。微かに呼吸をする音しか聞こえない。皆緊張しているのだろう。もしくは怯えているか。
そのうちに背の高い男が戻ってきた。教官の鋭い目線をはにかんだような笑みでやりすごすと、そそくさと椅子に着席した。
全員が席に着いたことを確認して、ようやく教官が口を開いた。重々しく、人に教えるよりも人を罵倒する方がよっぽどそれらしいような声だった。ハリウッド映画で軍隊の教官がひたすら兵士たちを馬鹿にしているものがあるが、霧島が聞いた感じはそれに近かった。
「今日ここにお前らを連れて来たのは他でもない、あることをしてもらうためだ。まずは、それについて説明する。おい」
教官が手振りをすると、後ろに控えていた兵士がテントの幕を閉めた。明かりが完全に遮られて、中は真っ暗になる。教官が教壇の上にある機械を操作すると、プロジェクターにある映像が映し出される。どこから取り出したのか、プロジェクターに対してレーザーポインターが向けられている。
それは、森の中だった―――どこにでもありそうな、極々平凡な木々の群。ブナの木が不定期にたくさん生えており、野生の生物がおおよそ数え切れないほど生活している、テレビのチャンネルを適当に動かせば必ず出てきそうなくらい、それはどこにでもありそうな風景だった。
風景の中で特に強調されて映し出されていたのは、木々の間にある物だった。物というか、それは小説を書くために常に想像力を働かせていた霧島にも検討がつかないような、不可思議そのものだった。何かに例えろと言われたら物としか言えないような、それくらい不思議な。素人が撮った映像のせいか手振れのせいで始終動きっぱなしで、男の声から老人の声まで入り込んでうるさいし、何より場面は夜だった。暗視機能はついているが、それでもぼんやりとした風にしか、それに変色したようにしか見えない。だが脇にある木や草むら、遠くにある倒木が見難くて仕方が無いのに対して、それは自己の存在をアピールさせるかのように大きく鮮明に映っている。
見たところ、穴のようだった。
ぽっかりと空中に開いた大きな穴。子供の背丈より幾分大きいかそこら。体の大きな人間ならば入るためにはしゃがみこまなければいけないだろう。その穴の中でも森が続き、茂みや木の葉は動き、風のせいで物が飛んでいるのが見えた。だが………あまりに異質だった。あまりの異常性に、霧島は一瞬自分が置かれている状況を忘れたぐらいだった。
穴の周りというか、縁の部分は地面に敷いた油のような、そんな感じの色をしていた。空気中の構成物質とか、時たま吹き付ける風とか、そういったものに影響されずにゆらゆらと動いている。まるで独自の生き物みたいなそれを見て、霧島は一瞬気分が悪くなりかけた。どの映画にも、漫画にも、小説にも、そんな代物は見当たらない。
ビデオの中ではこれを目の前にした人々が聞こえづらい声で色々と話し合っていた――あの穴に入るか否か、ぐらいのものだろうと霧島は推測した。やがて元気そうに猟銃を担いだ老人と男が一人ビデオカメラの前に出てくると、威勢が良さそうに親指を立てて、苦笑いのようなものを浮かべた。んじゃーま軽く見てくんでな、と言って二人がゆっくりと穴の中に入り込むと、霧に包まれたかのようにすぐ見えなくなった。
それから十五分間、ビデオは流れ続けた。どこかで虫の鳴き声がして、風の中で木々がざわめき、フクロウの声も聞こえた。誰かが欠伸をする声も聞こえて、ビデオカメラはブレ続けた。関節を鳴らす、ぼき、という音もした。一人が穴の前を横切り、休憩のためかビデオカメラが他の人間に手渡される。大きな欠伸が聞こえ、食べ物があるのか咀嚼音も耳に入る。何人かが家に戻るのか、足音が聞こえ、それが段々と遠くなっていく。
穴に入った人間は帰ってこなかった。
穴の向こうから声も、姿かたちも何一つこっちに持ってこなかった。
唐突にビデオの映像が途切れて、霧島は我に返った。脇で椅子に座っていた教官が立ち上がると、教壇の前にやってきて、こう男達に告げた。その目はどこかテントの中ではない別の場所を見ているようで、霧島はあの刑務所長室を再び思い出した。その人間がいてもいなくてもどうでもいい。話すことが重要なのだ。
「お前たちにはこの中に潜ってもらい、”向こう”を調査してきてもらう」
後ろの方で「質問が――」という声が聞こえたが、「質問を受け付けるのは最後だ」と教官が言ったため、再び静かになる。
「この穴が見つかったのは、今年の夏ごろだ。最初に見つけたのは地元の人間、あのビデオみたいに近隣の村人たちが数人入っていったが、帰ってきたという人間はひとりだけ、子供だ。話を聞いた所、肝試しの途中で道に迷い込んで穴に入り込んだ。大人たちが穴を見つけたのは、子供たちが騒ぎ立てて捜索した結果だ。穴の前で子供は突っ立っていて、そこを救出された。
その子供から詳しく話を聞いた所、向こうはこっち…まあ、日本だ。日本と殆ど変わりが無く、村の中に泊めてもらったとそいつは話した。誰に泊めてもらったのかは子供自体が覚えていないために不明だ。気づいたら穴の前で突っ立っていた、というわけになる。その前に猛獣の類に襲われたと言っているが、これはイノシシのようなもの、ということらしい。十分注意しておくように。
村の中で子供がこういうものを拾ったらしいが、これも科学的に見れば異常きわまりない」
教官が脇にいた兵士に身振り(あれ持ってこい)をすると、彼は部屋の隅から箱を持ってきた。教壇の上で中身を開ける。
「勾玉だ。ちょっと専門的なところで調べてもらったが、最終的には現代日本のテクノロジーで作り出せるものではないという結論に到った。また、少年はある鳥の羽を所持していた。どうも村に入るまでの間に服の中に入り込んでいたらしい。
問題は、その羽はどう鑑定しても朱鷺の羽でしかありえないということだ。知っての通り、現在朱鷺って奴は新潟県の佐渡島でしか生息していない。ほぼ絶滅危惧種と言ってもいい。勿論佐渡島を政府の人間が詳しく調査したが、それらしい住居も穴も見つけられなかった。つまりそこには、既に絶滅した生物が潜んでいることが証明されている」
あるかもないかも分からないもののために背広を着た人間たちが必死に森の中を探る様を想像し、霧島は噴出しそうになった。寸前に気付いた美村が隣の霧島を諌める。辛うじて教官には気付かれていないらしく、どこともしれない場所を見ながら話を続けた。
「上層部はこの証拠を元に長い時間、様々な争議をした結果、この場所の調査をすることに決定した。但し他の国々に話を一切持ち込まず、世間にこの情報を漏らさず、全てを我々だけで隠密に調査をすること、だが。またさっきのビデオのように行方不明者――我々は死亡したと考えている――がいるため、自衛隊の隊員たちは入り込むことができない。何が存在しているかも分からないため、非公式の部隊の介入も不可能だ。あの子供が気付いていなかっただけで核放射性物質、新種のウイルス、その他人体に有害な生物がいるとも限らないからな。我々はできるだけ被害を出したくない。
その為にお前たちが選ばれた。既に刑が確定しており、現在身寄りが無い犯罪者、そして傭兵。お前たちがここに来るまでの経験が如何なるものだとしても、全員がこの仮設施設で訓練を行い、教導され、あの穴の中を探索することになる。拒否権はここに来た時点で残念ながら消滅している。
勿論報酬はある。ここに来る前に聞いたと思うが、傭兵の諸君は基本的には無給、だが調査終了の暁には五千万が口座に振り込まれる。ここで行なった事は一切が部外秘であり、保険などの類は一切つかない。仮に情報を漏らしたとしても、我々は世界各国に網の目を張り巡らせているからすぐにそれを突き止めて、君たちを拉致できる。その後はまあ………ご想像の通り」
言わなくてもわかるだろ? と言いたげに教官は首を竦めた。ジェスチャーだとすれば、悪趣味この上ない。
霧島の頭には、迂闊にも適当な人間に穴のことを話してしまったために拉致監禁され、椅子に縛り付けられ猿轡を噛まされた挙げ句に指の一本一本を切り取られている姿が思い浮かんだ。隣の美村はぶるり、と身体を震わせていた。同じことを考えていたのだろうか。それとももっと酷いことか。
そこはまあ、自分の良心とよくよく相談してほしい、と言って教官はその話題を打ち切った。誰も何も言わない。霧島は脇の下に汗がたまり、じわじわと服に染み込んでいくのを感じ取っていた。畜生、気分が悪い。頭の中がふわふわしていてまるで現実感が無い。
坦々と、まるで紙に書いた内容を読んでいるかのように教官は話し続けた。
「受刑者の場合は、それ以降の刑期は全てチャラになり、架空の名前を貰い架空の口座を作ってもらい、そこに一千万円が振り込まれる。偽の個人情報もまた用意するから、仕事につくこともできるだろう。アパートの一部屋を用意するから、そこに移動した後は何をしても自由だ。事業をはじめるなり、どこかで勤めるなり、また犯罪行為に走って刑務所に戻ってもいいし、自殺しても構わない。こっちとしては漏らさないでいてくれた方がありがたいからな。
話す内容としては以上だ。何か質問は?」
質問は、と言いかけたあたりで既に立ち上がった人間がいた。あの背の高い男だった。全く物怖じせずに教官の目を真っ直ぐに見つめ、彼は口を開いた。
「調査といわれても、具体的に我々は向こうへ行って何をすればいいのですか? ただ向こうをぶらぶらとうろついて、それを報告するだけということでも無いでしょう?」
教官はすっと目を細くして――こいつは油断ならないやつだ、と思ったのではないか――ふんと鼻息を鳴らしてから話し始める。さっきほどではなかったが、それでもすらすらとした話しぶりだった。事前に何回も練習していたんだろうかと疑問に思ったが、スピーチすることに単に慣れているだけかもしれないことに気がついた。
「まずは空気中の構成物質調査、それから土、草、木の一部、破片、目に付くものを何でもいいから集めてくれ。もしも人間、もしくは知的生命体を発見した場合、そいつから詳しく話を聞きだすこと。一応第一目標は少年が泊めてもらった村、まずはそこに行ってもらう。また地理・その場所が今置かれている社会的状況、生態系、何があって何が無くてどんなものが流行りどんなものが廃れているのか、なんでも全てだ。生体組織のサンプルも欲しいから、虫や動物を捕まえたら連れてきてもらいたい。これは別に殺しても構わん。そのための道具は支給する」
分かりました、と言って背の高い男が座り、続いて美村が、はじめて会話をした時よりも遥かにおどおどと、半ば怯えながら立ち上がる。教官の鋭い視線に促されるようにどもりながら話し始めた。
「あの………危ないから自衛隊が入ることはできない、ってことらしいですけど、その、それだと……」
言葉を切って、喉にたまった唾を飲み込んだ。教官がイライラしたような顔つきをしはじめたので、慌てて続きを言った。
「えと、俺たちなら別に死んでもいいってことですか?」
「そうだ」
即答だった。
「そのために君たちはここにいる」
重い沈黙が一瞬流れた。まさか本当にそんな答えが返ってくるとは思わなかったのか、美村は顔を青くしながら、何か発することができる言葉は無いかと口をぱくぱくさせていた。霧島も含め、誰も喋らなかった。他に質問が無いのか、と教官が逆に尋ね返して、美村は小刻みに頷くと椅子の上に腰を落とす。
ふと霧島の頭の中に、銃を構えた大人達の前をのそのそと歩いている子供の姿が目に浮かんだ。彼らはアフリカとかの貧乏な国で、特に戦争があった所とか現在進行形で起きている所で集められている、とテレビで聞いたことがある。子供達の役目は地雷原を歩くことによって、本来大人が踏むべき地雷を先に踏んでやることによって兵士の負担を軽減するものだった。勿論子供には地雷があるなんて言わず、口八丁で丸め込んで歩かせる。そして……歩いていくうちにいずれは……ドカン。戦力が殺がれてはたまらないが、ガキならどうせ余るほどいるのだ。使用するに越したことはないとその国の司令部は考えたのだろう。昔じゃ人がバタバタ死んでいくからその分子供をたくさん産んだものだ。多死多産、だっけ?
俺達はそれなのだ。大人に言われて地雷原を歩かされるガキども。危険な目に遭いたくない大人達に命令され、何があるのかも分からずにとぼとぼ歩くガキと同じだ。
「冗談じゃねえぞ」
がたん、と前列の左端に座っていた男が立ち上がった。でっぷりとした体格をした、集団を作るとしたらすぐさまリーダー格になりたがるような人間のように霧島には見えた。男からはつんときつい汗の臭いがして、どう見ても狼狽しているのは明らかだった。
「これまでずっと我慢してやっていたが、こんな馬鹿で、常識ハズレで、訳が分からん話は聞いたことが無い。日本政府? 穴? 向こうの世界? お前ら何言ってるんだ?! この日本でそんなものがあるわけないだろうが!! 頭狂ったかこのチンカスどもがッ!!」
太った男はテントの中にいる全員を睨みつけた後、大股の足取りでそこから出ようとした。足はすぐに止まった。
男の顔に銃口がつきつけられていた。入り口付近にいた兵士三人が、油断の無い目つきで男に小銃をつきつけている。霧島や美村などは半ば椅子から立ち上がりかけていたが、背の高い男やもうひとりの私服は至って平然としていた。もしかしたらこの二人が傭兵なのか、と霧島は熱に浮かされたような頭で思った。だからこんなくそみたいな状況でも冷静なのか。畜生。人が死ぬかもしれないってのに!
「ああ、またまた言い忘れていた。いやあ、年はとりたくないもんだ」
何事も無かったかのように頬を掻きながら教官は、ゆっくりとした足取りで太った男に近づいた。
「現在この付近は治外法権扱いになっている。穴が世間に知られることを憂慮した日本政府は化学兵器テロをでっちあげたため、近隣の住民は強制的に避難させている。念の為に自衛隊の東部方面隊が出動してここを封鎖しているが、直に彼らは撤退する予定だ。その時は、君に銃をつきつけている私の部下たちがこの地域の治安を担当することになっている。そして彼らには、必要とあればまあ…殺人の許可も与えられている。マスコミに対して緘口令まで敷いているんだ、今更計画を潰すわけにはいかない。麓に到る道の殆どは警察と自衛隊が警備にも当たっているから、逃げ出そうとしてもすぐに刑務所に逆戻りだな。いや………その前に死ぬかもしれないな、そう事故で」
事故で、という点を強調して言った。こいつは本気で俺達を殺す気だ、と思った。必要があれば俺達全員を殺すことも厭わないんだ、この冷血漢は。
兵士三人が一斉にすり足で近づき、男の顔の皮膚に銃口を突き当てる。太った男はもうテントから出ようとはせず、両手を上げながら後ろに一歩下がり、二歩下がり、三歩目で教官の肩にぶつかった。触れた所から伝染病がうつるんじゃないかと考えたように、わっと声を上げて慌てて飛び退る。男の顔は美村と同じく青ざめ始めていた。それを言えば、青ざめていないのは傭兵らしき二人ぐらいだった。ただ不思議そうな表情で、兵士のように油断の無い目つきをしているだけだ。
「冗談じゃねえぞ」
太った男はさっきと同じ言葉を、今度は切れ切れの調子で呟いた。
「ここは日本だろ」
「ここは日本だとも」
教官は返した。
「貴様らの大部分は日本国民としての権利を享受することができるほど真っ当なことをしておらんがね。憲法上ではそうでもないらしいが、私から言わせれば犯罪者どもは人間社会の膿だよ」
教壇に戻ると机の中からファイルを取り出して、全員を舐めるように睨み付けてからゆっくりと、馬鹿にも十分理解することができるような調子で読み上げはじめた。
「斉藤茂、連続強盗及び銀行の行員二人を殺傷した罪で無期懲役」
太った男――斉藤と言うらしい――がぐっと喉につまらせたような声をあげて、歯をぎちぎちを鳴らしながら睨みつけた。それを物ともせず、教官は囚人たちの閻魔帳を坦々と読み上げ続けた。傭兵と見られる二人は互いに顔を見合わせ、首を竦めて黙った。
「篠田孝之、連続で八軒もの空き巣、懲役四年六ヶ月。松井一馬、殺人、懲役十五年。美村隆志、連続幼女暴行、懲役十年八ヶ月」
霧島がぎょっとした顔でたった今読み上げられた人間へ目を向けた。あんな気が弱そうでおどおどした美村がそんなことをできるというのか、と瞬間的に思った。どちらかと言えば彼は犯罪の加害者ではなく、被害者のように見えたからだ。
美村は罪状を言い終わる頃には俯き、親指の爪をがりがりと噛みはじめていた。猫のように目を細くし、何も聞こえなかったように地面をじっと見つめている。霧島はその美村の様子をぼうっとしたように見ていたが、次の言葉で我に返った。というよりは返らざるをえなかった。
「霧島遼一、自分の一家皆殺し、無期懲役」
ごぷ、といきなり吐き気はこみあげてきた。えずきを無理矢理おさえるために喉を手で押さえて、口を塞いで、眩暈をおさえるために目を閉じた。舌を噛むことなんて唐突に脳内を占拠した吐き気が思いつくことを許さなかった。腹の中で今の言葉が飛び跳ね回り、胃を切り刻んでぐちゃぐちゃにしようとしているみたいだった。耳の中ではどこからかやってきた誰かが怒鳴り始め、ドラムの音も一緒に鳴り響き始める。
急速に異常に包まれ始めた頭の状態をなんとか元に戻そうと努力したが、無駄だった。手の中に吐瀉物を戻して、霧島はその場で倒れた。椅子ががたがたと音を立てて、それを見た美村がさっきまでの行動をやめて抱き起こそうとした。霧島はテントの天井が急速に遠くなるのが見えた。どんどん速く離れていく。違う、俺が落ちているんだ。
視界の中が段々と薄暗くなり、およそテントの中にいる全員がこっちを見ている中で、霧島の目には彼らは別のものに見えた。美村は父親の顔に、わずかにこちらへと視線を向けた教官の顔は母親に、早足で霧島の方へとやってくる背の高い傭兵は、あの弟の顔に見えた。霧島の人生を最もめちゃくちゃにした、血を分けた悪魔。
父親、弟、母親、それらの顔はぐるぐると目の中で回り始め、いよいよ視界全てを覆い尽くそうとするその時に、ようやく霧島は意識を失うことができた。
八雲紫は眠っていた。特に今は誰にも邪魔されたくなかったので、自分が作り出した隙間の中に身を投じて、その中でひたすらに眠り続けていた。
隙間の中は紫が快適に過ごすために最大限の努力が払われている。そのため一度隙間に引き篭もってしまえばそう簡単に引っ張り出すのは容易ではなくなり、力が未熟なものは隙間に触れようとしても発狂してしまうほどの精神的打撃を受けてしまう。紫の式神である藍がそのまた式神である橙を紫が篭った際の隙間に近づけさせないのは、そういった理由があった。前に一度、不用意に触れてしまい自身の神経に大きな異常――具体的には、あまりに神経が過敏になりすぎて物体に触れることすらできないという状態――に陥ってから、橙も好んで近づこうとはしない。無理やり引っ張りだせるとすれば、それは神社に住む巫女ぐらいのものだった。
夏は涼しく冬は暖かく、至極快適な暗闇の中で横になりながら、紫は安眠を享受していた――その時までは。
眠っている間も半径何百キロに張り巡らされている紫の力が、何かを捉えた。小波の中で突然変異的に発生する大波のようなそれを大妖怪は鋭く嗅ぎつけた。それまでは何者でも邪魔できないほど寝入っていた紫の意識が、ふと目覚めた。
微かに目蓋を開けて、しかし体は動かさずに隙間の中で力を行使しつつ、異常なものを改めて捉えようとする。だが目覚めた際に一瞬だけ紫の力がブレてしまい、そのせいで異常なものは他の様々な要素の間に逃げ込んでしまった。もう一度感知してみようとしたが、今度は幾ら範囲内を洗っても見つけ出せなかった。自分の力が及ばないほどの遠くまで移動してしまったのかもしれない。
少しの間どうしようかと考えていたが、やがて襲い来る猛烈な眠気が思考をかく乱させ、強烈な倦怠感に紫は覆い尽くされる。どうせあれほど異常なものなのだから、そのうちまた見つけられるだろう。そうでなかったら誰かが見つけてくれるに違いない。きっとそうだ。あの巫女とか、魔法使いとか、メイドとか………
考えている間に目蓋はずり落ち、浮かびかけていた意識は粘性のある暗闇に囚われ、ずぶずぶと睡眠欲の中に沈んでいった。
紫は再び、隙間の中で眠りについた。
こんな『知らない世界』がこんな形で現実に突っ込んできたら
そりゃ政府もこんな手段に出る、いや出ざるを得ない。
てか内外ともに関係ある状態ならむしろ外も固めてもらわないと。
あと”こいつらが劇症反応を起こした場合”まで考えて
政府は行動するべきだと私は思うんだ。
穴を山ごと消す準備くらいはしとけよ政府。
まあ、復路鵜今のところグッジョブ
あと最後のいつもねむけでやるきなすなゆあって何で穴に突っ込(穴の中
でも東方っぽくないかな・・・
これで完結かと思ってました・・・
ありがとうございます。
とりあえず現実に意味不明の穴がぽっかり空いたことを想像してみましたが、流石にアメリカでも山を消すような真似はしないような気が。まあ第一に調査だろうなあ。エイリアンとかそういう映画みたいに。
>ZORKさん
Σ(ノ>ヮ<)ノ
これから大分続く予定ですよ。お楽しみに!(何