ここらへんでいいだろう。
月も無い新月の夜だった。辺りの草むらをさわさわと緩やかな風が流れ、気温は暑くも寒くも無い適温。暗くて目の前を確認することさえ困難なことを除けば、十分に過ごしやすい夜だと言えた。
遥か遠くの、竹林にある屋敷から駆けて来た妖怪兎二匹は立ち止まって、自分がやってきた場所の様子を改めて確かめる。暗く深い森の中、これくらい静かならば森の生き物さえ眠り込んでいるだろう。
まさしく何かを隠すにはぴったりの夜だ。
一応雑魚妖怪や地元の動物が寄り集まってくるとも限らないため、一匹が見張りに立ち、もう一匹が穴掘りに専念することにした。その際に永遠亭から持ってきた荷物を脇に降ろす。人間の数倍ほどの膂力を持つ彼らでも、荷物の運搬にはひどく苦労した。道中で不思議なほど息切れがして、普段ならばそうでもないのだが、何回か休憩しなければいけなかったほどだ。
出発する前にこの風呂敷包みの中身を、自分たちにこれを放棄することを命じた兎に聞いてみた。何でこんなのを捨てるんですか? 何かすごく重いですし、ごつごつしてるし、一体何が入ってるんですか?
「さぁねえ」と彼らのリーダー格である黒髪の兎は答えて、自分でも意味がわからないことをアピールするかのように、片手をひらひらと振った。
「あたしも姫様に言われたからだから、中身は何も聞いてないのよ。ま、大方仕舞う場所も無くなって来たがらくたって所じゃない? 近頃は新入りも増えて、余分に使える部屋の数が少なくなってきたし」
それだけで納得するまでには至らなかったが、その程度の理由で命令を突っぱねるほど彼らは愚かでもなかったし、不忠義者でもなかった。やたらと運びにくい荷物を背負うとおとなしく出発して、事前に見繕っておいたのか、捨てる場所が記されていた地図を頼りに兎たちは野を駆け、草原を突っ走り、湖の傍を通り抜けた。夜が更けた頃に出発し、到着した今は明け方前ではないだろうか、と彼らは推測した。
前足を器用に使って兎は掘っていたが、やがて自分ひとりだけ頑張ったとしても、この作業は朝になっても終わらないに違いないことを悟った。このペースでは、良くても昼前、下手したら一日穴掘りに専念する羽目になってしまうだろう。暇そうにしていた見張りの一匹を呼んで、二匹で地面をざくざく掘り進めることにした。そうすれば多少はスピードが早くなるだろう。
疲弊なのか体力が落ちているせいなのか何度も休憩を重ね、やがて太陽が地平線の向こうから僅かに顔を出し始めた時、ようやく荷物の全てがなんとか入りそうな穴が出来上がった。風呂敷包みも解かずに彼らは荷物を持ち上げると、勢い良く穴に放り込む。これから捨てるものだし、手荒に扱ってはいけないとは言われていない。穴に落ちた際にがちゃん、と何かが割れる音がしたが、彼らは大して気にしなかった。それどころか、自分たちをここまでひいひい言わせてきた代物なのだ、一発蹴りを入れてやっても良かったぐらいだった。
穴を埋める作業は逆の工程に比べ、ずいぶんと楽に行うことができた。足りない土は別な場所から取ってきた。数分でそれを終わらせると、流石に体力が限界に達し、兎たちは一息ついて地べたに座り込む。朝露の匂いと太陽の光が、不思議と心地いい。このまま横になれば、ぐっすりと昼まで眠れそうだった。
しかしここで寝てもおそらくリーダーである黒髪兎に怒られるだろうし、変な動物や妖怪に襲われても困る。兎たちは起き上がると自分たちの屋敷がある方角めがけ、一挙に駆け出した。その時に入れた休憩の数は、行きの半分以下で済んだ。
彼らが去った少し後、森に住んでいる一匹のイタチが興味半分でがらくたが埋められた場所に近づいてきた。そこから奇妙な――つんとして、興味をそそられるもの――香りがしていたからだ。土の色が変色している場所に近づくと、イタチは不意に体の変調を覚え、生存本能に従って全速力で逃げ出した。何か透明なものが頭の中に入り込んで、尻尾の先にまでずるずると染み入ってくるような感覚だった。今までイタチはそんな感覚を味わったことが無いため、正確に表現することは無理だった。
イタチは後ろも見ずに全力で、敵(少なくともイタチはそう思った)から逃げようと走り続けた。やがて、目の前に一本の大きな木が障害物として立ちふさがったが、既に目が見えなくなっていたイタチは真正面から木に激突し、強い脳震盪を起こして気絶した。その間に脳はじわじわと侵されていき、失神している間にイタチは息絶えた。全身から血が噴出しかけていた。
兎たちは永遠亭に帰ってから数日後、廊下を談笑しながら歩いている最中に両方がいっぺんに血を吐き、八意永琳が治療する前に死んだ。最後までがらくたのことや、がらくたの中に秘められている筈のものには頭が回らなかった。
アリスは柄にも無く、緊張した手つきで魔道書を取り出す。手にじっとりと汗を握らせ、喉の辺りはからからに乾いている。すうはあと深呼吸をした所で自分がプレッシャーと戦っているという事実に気がつき、こんなことに本気になっている自分を思わず叱咤する――何をしているというの。このアリス・マーガトロイドという存在に緊張なんて不必要、常に余裕を持つのよ、余裕を。
だが今ではその余裕がなくなっていることを、心の底で苦々しい思いとともにアリスは感じ取っていた。それは紛れも無い事実だったからだ。
彼女の目の前には、アリスと同じく(もちろん心の表面はそれについて否定した様子だった)緊張した様子の霧雨魔理沙がそこにいる。いつもは被っている帽子を外し、それは距離的に遠くにある岩の上へ、箒と一緒に置いてある。どうしてかというと、下手したらこのあたり一帯が消し飛ぶ可能性が存在したからだ。彼女もまた魔道書を手に持っていて、魔理沙の目はアリスにこう訴えかけている。準備は万全か、アリス。
アリスはアイコンタクトで返事をした。当たり前じゃないの、私を誰だと思ってる? 自分が余裕綽綽だということを魔理沙に強調しておきたかったが、果たして成功したかどうか自信は無かった。しかし魔理沙が気付くことはなかった。
今度こそ成功させるぞ。
ええ。
合図をすると二人が同時に互いに向かって手をかざし、アラビア語ともドルイド語ともつかない言語を呟く。瞬時に二人の間の空気が凝縮され、真空地帯がそこに出来上がる。第一段階完了。次は第二段階。
今や完全に意思疎通を取れている魔理沙とアリスは、目配せのみで相互確認をして、魔理沙がフランス語訛りの英語で――アリスがドイツ語で、同時に呪文を詠唱する。アリスの目の前には金色の光が幾つも発生し、不安定そうにゆらゆらと動き始める。一瞬でも気を抜けば光は消えてしまうだろうし、もしかしたら暴走する可能性だってある。自分たちが今から行おうとしているのは、偶然魔道書の中で見つけた禁呪の一つだった。互いに性質が異なる二つの光を混ぜあい、町や小さな島が一つぐらい簡単に消し飛ぶぐらいの力を一時的に得る。どうしてそんな危険で必要のないものに手を出すか? 至極簡単、それが本の中に載っており、そして自分が知らないものであるからだ。魔法使いとはそういう生き物だ。
魔理沙の手からは銀色の光が放たれ、それはアリスの光よりも大きく、また強固な意志を持っているように一箇所へ留まっている。目を閉じて完全に自分の世界に入りきった魔理沙を見て、アリスの対抗心が燃え上がり始める。負けてたまるか、負けてたまるか、負けてたまるか。彼女よりもうまくこの魔法を操ってやる。
金色の光、銀色の光はともに両者の手からじわじわと進んでいき、やがて光同士が接触しあう。その途端にアリスの手から脳にかけて物凄い強さのノイズが流れ込み、両手で耳を塞ぎたくなった。そんな意思を理性と負けん気で懸命に押さえ込んで、奥歯を噛み締めながら術の保持に尽力する。目を閉じているため魔理沙の姿は見えないが、おそらく自分と似たり寄ったりだろう、とアリスは思った。
爆発も消滅もせずに光は絡まりあい、段々と上へと上昇していく。それにつれて檻であり籠でもある真空地帯そのものも動き始める。ゆっくり…一センチ、二センチ、五センチ……まだ、まだ気を抜けない。
光は互いが出会った時よりも高速で真空地帯の中を動き回り、その数を増大させはじめていた。最初は巨大な光が二つ絡まりあっていたのが、今では五つ、六つとなっている。ひゅんひゅんと風切音を立てながら気の狂った鳥みたいに光が飛び回り、速度は異常なまでに早い。コントロールを振り切って拡散しようとしはじめる生意気な光を、アリスは懸命に抑える。何回か実験を繰り返しているが、大体がこの段階で失敗してしまっている。質が変化することによって保持するための力の分量を間違えやすくなるからだ。
時間はのろのろと経ち、既に二人にとっては外宇宙も同然の森の中では鳥たちが囀りあい、生き物は巣の中でくつろいでいる。それらと樹木の群に囲まれながら二人の魔法使いは、森の中でぽっかりと空いている広場の中で神経をすり減らしている。既にアリスと魔理沙は集中の極みに達しているため、周りの音は文字通り何も聞こえない。自分の存在と獰猛な動物みたいに動き回る光の、その二つだけが心の中に存在している。
そうしているうちに光は二人の身長よりも高く上昇し、時折電撃のようなものを森の中に放ちながらも、おおむね一箇所でじっとさせることに成功していた。あと少し、とアリスは思った。完全なコントロールが利いて、とてつもない破壊力を持った存在が自分のものとなるまで、あと少し。そうすれば成功だ。
そんな考えを抱いてしまったせいで気が抜けたのか気の位置がズレたのかは後になっても分からなかったが、唐突に光同士のバランスが急速に崩れた。全神経を徹底的に集中させている二人はそれが起こった一瞬後に事態を把握し、両者ともコントロールを取り戻そうと光の中に介入する。だが一瞬にして光はニトロ並みに危険な代物となり、半ば自分自身の意思で動こうと暴れ始めていた。このままでは自分の理性が食われることを察知してアリスは光との神経接続を断ち切る。もう頭の中は被害をどう抑えるかということだけに切り替わっていたが、魔理沙はそうではなかった。
魔理沙は尚も光の意思に介入しようとして、しかも驚くべきことにそれは成功しかけていた。驚愕のあまりアリスは目を見開いて魔理沙を見たが、彼女はだらだらと汗を流しながらもこの事態を対処しようとしていた。なんて無茶な、一歩間違えれば廃人になってしまうというのに。
光はついに大気中で振動を始め、高速を超えて音速で動き回り、列車が急ブレーキを行なおうとする時の音を立て始めていた。爆発寸前だ、アリスは直感的に悟った。このままだと、森ひとつが消し飛ぶほどの大爆発が起きる。森林火災は何ヶ月も続き、森は完全に焼け落ちるだろう。それに留まらず、幻想郷で発生した稀有な大災害のひとつになるかもしれない。どっちにしろプラスのことは何一つ起こらない。
既に接続を切ってしまったアリスは見ていることしかできなかった――もう一度接続しようとすれば、嵐に巻き込まれるようにすぐさま光に食われて、精神は何もかも消え去ってしまうだろう――未だに光の中に残っている魔理沙だけが頼りだった。
魔理沙は脂汗をだらだら垂らしながら全身を痙攣させ、鼻血が一本垂れ始めている。彼女の精神が侵されかけていることに気がつき、アリスは最悪の場合、無理やりにでも魔理沙の接続を切るように準備を始める。その後で最低限の面積でかつ全力でシールドを張れば、生き残れる可能性はあった。まあ、二%か三%ぐらいあれば運が良い方だろう。
恐ろしく凶暴に光は魔理沙の精神を食らおうとしていたが、尚も彼女は諦めていなかった。それどころかむしろ、じゃじゃ馬を乗りこなそうとするベテランの乗馬師の如く、笑みを浮かべていることにアリスは気がついた。魔理沙と光は互いに全力で喧嘩しあい、殺しあっている。
そして勝ったのは魔理沙だった。一時的な勝利にせよ、それは確かな勝利だった。
光の結合が一時的に解け、物凄い音を立てて金色と銀色の光に分離した。両者は引き裂かれた者が反射的にそうするように元に戻ろうとしたが、その前にタイムリミットがやってきた。
爆発。
瞬時に爆風が二人の頭上から降りかかろうとする。あまりに高速すぎて音は一切聞こえることなく、今から無音の殺戮が始まるところだった。
アリスは全力で――全力なんて、ずいぶん久しぶりだ――シールドを展開すると、光との争いに夢中になっていた魔理沙めがけて突っ込み、押し倒して体の下に敷く。光が起こすとてつもない強さの爆発に耐えている間、彼女は自分が持っている力を限界ギリギリまで振り絞って、シールドを張り巡らせていた。途中で何度も破れかけたが、その度に超高速で修復し続けた。おそらくその様子を他の魔術師や魔法使いがもしも目撃していたとしたら、あまりの手際の良さに舌を巻いただろう。
アリス・マーガトロイドにとってほぼ無限に近い時間が流れて、絶え間ない苦痛と苦しみと忍耐の後で、ようやく爆発は収まった。アリスはまだ生きていた。多分魔理沙も生きているだろう。
体が疲弊しきっているのを実感しながらゆっくりとシールドを解いて、よろよろと立ち上がる。辺りの木はなぎ倒され、地面に大きなクレーターが発生し、近くに棲んでいたのだろう、生物の骨らしきものが転がっている。風が吹きぬける音は聞こえたが、鳥の鳴き声や獣の悲鳴は全く聞こえなかった。
「あー……、アリ、ス?」
かすれて声にならないような声を発しながら、魔理沙が起き上がる。
「また、失敗したみたいだな」
「そうね」
魔理沙の方に向き直り、黒土を踏みしめながら近づく。足ががくがくで立っていられるかどうかも怪しかったが、魔理沙の前で弱みをあまり見せたくは無かった。
「それも、今までで最大級。ほんと危ない所だったわ」
「おいおい、そりゃお前が失敗したからだろ? 私はちゃんと自分の分はやってたぜ。となると、ここにはお前しかいない」
お尻のあたりに付いた土を落としながら、魔理沙が反撃する。
「あら、それを言うなら有事に備えてシールドを展開するのも忘れていたのはどこの魔法使いさんかしらね? 私が庇わなかったらきっと今頃黒こげもいいところよ」
おそらく自分と同じくらい動作が億劫になってしまっているだろう魔理沙を立ち上がらせて、肩を貸す。箒を置いてある場所を遠くにしておいて良かったが、今はそこまで動かなければならないという事実がただ恨めしい。
二人は暫く相手のミスをあげつらっていたが、やがて体力よりも疲労感の方が遥かに有利になったため、申し合わせたように両方とも黙り込む。そのうちに魔理沙がため息をついて、呟いた。
「また、失敗か」
心底落胆したような声だった。
「この分だと成功するのはいつぐらいになるかな」
「あら珍しい。魔理沙が落ち込むなんて」
「私だって落ち込む時ぐらいあるぜ? 特に霊夢みたいな天才相手じゃ至極たくさんだ」
「巫女は別格だから仕方が無いでしょ。………ま、私はいつでも手伝えるし、時間なんて腐るほどあるんだからいいじゃないの。失敗は成功の父、って言うでしょ」
魔理沙が目を剥いて、隣のアリスに目を向けた。
「明日は雪が降るぞ、アリスが人を慰めるなんて。しかも失敗は成功の母だ」
「ああそうだっけ? ま、どっちでもいいでしょ。そういえば、あそこ焼け野原だけど、何もしなくていいの?」
アリスが後ろを振り返って、魔理沙に尋ねる。今日この場所にやってきたのは、「いい場所がある」と魔理沙が連れてきたからだ。アリス自身は始めてだった。
「構わん。何かあそこだけ土地の質が違うのか、どんなに暴れても一週間すれば戻っているんだ。新しいスペルカードとかの練習に役立つし、ヤバそうで香霖の所にも置け無そうながらくたは、大抵あそこに捨ててる。ただ変な毒素みたいなのが漂っているのか、あんまり長居しないほうがいいと思うぜ」
「あんたって、ほんと環境に優しくないのね」
「ほっとけ」
軽口を叩きあいながら二人は森の中を歩いていき、箒の場所にたどり着くとそこからは飛行だった。ただ魔理沙は大分グロッキーだったらしく、飛んでいる間も体をふらふらと揺れさせていた。アリスは彼女が落下しないように、身体を押さえて置いてやらないといけなかった。
途中で魔理沙と別れて家まで帰り着いた後で、上海人形と蓬莱人形に一声かけてから、アリスはシャワーもご飯も着替えも無しにベッドへと飛び込んだ。今はとにかく眠って体力を回復させたかったし、二日は楽に眠れそうだったからだ。
もそもそとベッドに潜り込みながら、アリスは魔理沙が不法投棄に使っている場所に何を捨てようかと、無意識に思い描いている自分に気がついた。家の中はもう使わないような道具や本で一杯だったし、下手にどこかに捨ててもおかしなことになりかねないので、裏にある倉庫の中に押し込めておくしかなかった。魔理沙の言う事が本当だとすれば、かなりそこは良い場所に違いない。
しかし……自動修復が可能な森だなんて、今までどうして見つけることができなかったのだろう? それくらいの土地ならば他に異質なものを引き寄せていてもおかしくはないし、力を放っていてもおかしくはないはずだ。今度調査してみる必要があるかもしれない。
そしておそらく、自分や魔理沙が考えるのだから他の人間もあそこに何かを捨てているに違いない、と考えながら、アリスは既に眠り込んでいた。
それは長い時間をかけて、ゆっくりと、酷くゆっくりと作られていった。誰の目にも、どんな生き物の目にも止まらぬようにじっくりと力を蓄え、幻想郷の中で自らを作り上げていった。
最初は他よりも特殊な土地の中に染み付いた、微細な、本当に微細な粒子もいいところだった。不意に出現したそれは、地面に埋まったがらくたに引き寄せられるように集まっていき、やがて成長をはじめた。
幾つかの季節を越え、異変の最中でもあらゆる物を意に介さずそれは外堀を埋めていった。途中でそれの存在に気がついたのが何人かいたのだが、あまりに微弱であり実質的な被害はなかったため、最終的にはどの妖怪も、どの人間も忘れた。
それに自律的な意思、もしくは何らかの本能は存在していなかった。ただひとつの本能――より大きく、より強く。それだけのために力を集めた。その土地に留まりながら、時折その場所を訪れる生物が落としていくがらくたの中に溢れる、異常な力を吸い取っていきながら。本来ならばとっくの昔に飛散しても良かったそれは、それらの力のおかげでバラバラになることもなく、より強固なものになっていった。
一体誰がそれを誕生させる最後の一押しを行なったかは不明だったが、まずそれに考えるなどという余分な機能は取り付けられていなかったし、もしもそんな機能がついていたとしても、それにとってはどうでも良かっただろう。それは既に出来上がった事象であり、概念であり、存在だった。そんなものに気をとられている暇があったら、一秒でも先に大きくなる方が先決だった。
死にかけた虫が這うような速度でそれは成長を続け、不必要なまでに拡散する力を段々と一定のものに保ち、己が成るべき形を研磨させていった。もしもアリス・マーガトロイドか霧雨魔理沙が進化途中のそれを発見することがあったのならば、何を放り出しても観察し、データをとろうとしただろう。博麗霊夢がそれを発見したならば、幻想郷に異常をもたらすものとして即刻封印措置を取っただろう。幸運なことに、誰にもそれは見つからなかった。
それが自然発生するのは何万年かに一度のことであり、形を整えることができたというのは、奇跡としか言い様が無かった。
春、夏、秋、冬、春、夏、秋、冬、春……………………
それは季節を越え続けた。
じわり、じわりと少しずつ領域を広げ続け、移動しつつ、やがて幻想郷と外の境目を分けている結界の中で、一際薄くなっている場所を発見した。そのままにしておけばどこぞの式神もしくは巫女が修復していただろうが、その前にそれは境目を覆い隠してしまった。
結果的にそれが形を残すことができたのは、梅雨の半ば頃、もうじき太陽の光が苦痛として認識される季節の前だった。形を残した後でそれは動きを止め、ただこのままでいることにした。そこで本能は消えうせ、建物や地形のようにそれはその場にいるだけの存在となった。それと同時に力の流出が始まり、深く暗い森の中に位置しているそれは、森への影響を与え始めた。
ただ動かない置物のようになりながらそれは、無機質に自分の元へとやってくる生物がいないかどうか、待っていた。鳥はそれを怖がり、通りがかった獣は憎悪し、おびえて逃げた。その場所を縄張りにしている動物は、そもそもそれに気づかなかった。上空を飛ぶ夜雀や魔法使いの存在を感じながら、それの目の前にやってくる生き物がくることを、ただただ待った。
だが幻想郷の人間はそれを発見しなかった。
最初にそれを発見したのは、外の人間だった。
月も無い新月の夜だった。辺りの草むらをさわさわと緩やかな風が流れ、気温は暑くも寒くも無い適温。暗くて目の前を確認することさえ困難なことを除けば、十分に過ごしやすい夜だと言えた。
遥か遠くの、竹林にある屋敷から駆けて来た妖怪兎二匹は立ち止まって、自分がやってきた場所の様子を改めて確かめる。暗く深い森の中、これくらい静かならば森の生き物さえ眠り込んでいるだろう。
まさしく何かを隠すにはぴったりの夜だ。
一応雑魚妖怪や地元の動物が寄り集まってくるとも限らないため、一匹が見張りに立ち、もう一匹が穴掘りに専念することにした。その際に永遠亭から持ってきた荷物を脇に降ろす。人間の数倍ほどの膂力を持つ彼らでも、荷物の運搬にはひどく苦労した。道中で不思議なほど息切れがして、普段ならばそうでもないのだが、何回か休憩しなければいけなかったほどだ。
出発する前にこの風呂敷包みの中身を、自分たちにこれを放棄することを命じた兎に聞いてみた。何でこんなのを捨てるんですか? 何かすごく重いですし、ごつごつしてるし、一体何が入ってるんですか?
「さぁねえ」と彼らのリーダー格である黒髪の兎は答えて、自分でも意味がわからないことをアピールするかのように、片手をひらひらと振った。
「あたしも姫様に言われたからだから、中身は何も聞いてないのよ。ま、大方仕舞う場所も無くなって来たがらくたって所じゃない? 近頃は新入りも増えて、余分に使える部屋の数が少なくなってきたし」
それだけで納得するまでには至らなかったが、その程度の理由で命令を突っぱねるほど彼らは愚かでもなかったし、不忠義者でもなかった。やたらと運びにくい荷物を背負うとおとなしく出発して、事前に見繕っておいたのか、捨てる場所が記されていた地図を頼りに兎たちは野を駆け、草原を突っ走り、湖の傍を通り抜けた。夜が更けた頃に出発し、到着した今は明け方前ではないだろうか、と彼らは推測した。
前足を器用に使って兎は掘っていたが、やがて自分ひとりだけ頑張ったとしても、この作業は朝になっても終わらないに違いないことを悟った。このペースでは、良くても昼前、下手したら一日穴掘りに専念する羽目になってしまうだろう。暇そうにしていた見張りの一匹を呼んで、二匹で地面をざくざく掘り進めることにした。そうすれば多少はスピードが早くなるだろう。
疲弊なのか体力が落ちているせいなのか何度も休憩を重ね、やがて太陽が地平線の向こうから僅かに顔を出し始めた時、ようやく荷物の全てがなんとか入りそうな穴が出来上がった。風呂敷包みも解かずに彼らは荷物を持ち上げると、勢い良く穴に放り込む。これから捨てるものだし、手荒に扱ってはいけないとは言われていない。穴に落ちた際にがちゃん、と何かが割れる音がしたが、彼らは大して気にしなかった。それどころか、自分たちをここまでひいひい言わせてきた代物なのだ、一発蹴りを入れてやっても良かったぐらいだった。
穴を埋める作業は逆の工程に比べ、ずいぶんと楽に行うことができた。足りない土は別な場所から取ってきた。数分でそれを終わらせると、流石に体力が限界に達し、兎たちは一息ついて地べたに座り込む。朝露の匂いと太陽の光が、不思議と心地いい。このまま横になれば、ぐっすりと昼まで眠れそうだった。
しかしここで寝てもおそらくリーダーである黒髪兎に怒られるだろうし、変な動物や妖怪に襲われても困る。兎たちは起き上がると自分たちの屋敷がある方角めがけ、一挙に駆け出した。その時に入れた休憩の数は、行きの半分以下で済んだ。
彼らが去った少し後、森に住んでいる一匹のイタチが興味半分でがらくたが埋められた場所に近づいてきた。そこから奇妙な――つんとして、興味をそそられるもの――香りがしていたからだ。土の色が変色している場所に近づくと、イタチは不意に体の変調を覚え、生存本能に従って全速力で逃げ出した。何か透明なものが頭の中に入り込んで、尻尾の先にまでずるずると染み入ってくるような感覚だった。今までイタチはそんな感覚を味わったことが無いため、正確に表現することは無理だった。
イタチは後ろも見ずに全力で、敵(少なくともイタチはそう思った)から逃げようと走り続けた。やがて、目の前に一本の大きな木が障害物として立ちふさがったが、既に目が見えなくなっていたイタチは真正面から木に激突し、強い脳震盪を起こして気絶した。その間に脳はじわじわと侵されていき、失神している間にイタチは息絶えた。全身から血が噴出しかけていた。
兎たちは永遠亭に帰ってから数日後、廊下を談笑しながら歩いている最中に両方がいっぺんに血を吐き、八意永琳が治療する前に死んだ。最後までがらくたのことや、がらくたの中に秘められている筈のものには頭が回らなかった。
アリスは柄にも無く、緊張した手つきで魔道書を取り出す。手にじっとりと汗を握らせ、喉の辺りはからからに乾いている。すうはあと深呼吸をした所で自分がプレッシャーと戦っているという事実に気がつき、こんなことに本気になっている自分を思わず叱咤する――何をしているというの。このアリス・マーガトロイドという存在に緊張なんて不必要、常に余裕を持つのよ、余裕を。
だが今ではその余裕がなくなっていることを、心の底で苦々しい思いとともにアリスは感じ取っていた。それは紛れも無い事実だったからだ。
彼女の目の前には、アリスと同じく(もちろん心の表面はそれについて否定した様子だった)緊張した様子の霧雨魔理沙がそこにいる。いつもは被っている帽子を外し、それは距離的に遠くにある岩の上へ、箒と一緒に置いてある。どうしてかというと、下手したらこのあたり一帯が消し飛ぶ可能性が存在したからだ。彼女もまた魔道書を手に持っていて、魔理沙の目はアリスにこう訴えかけている。準備は万全か、アリス。
アリスはアイコンタクトで返事をした。当たり前じゃないの、私を誰だと思ってる? 自分が余裕綽綽だということを魔理沙に強調しておきたかったが、果たして成功したかどうか自信は無かった。しかし魔理沙が気付くことはなかった。
今度こそ成功させるぞ。
ええ。
合図をすると二人が同時に互いに向かって手をかざし、アラビア語ともドルイド語ともつかない言語を呟く。瞬時に二人の間の空気が凝縮され、真空地帯がそこに出来上がる。第一段階完了。次は第二段階。
今や完全に意思疎通を取れている魔理沙とアリスは、目配せのみで相互確認をして、魔理沙がフランス語訛りの英語で――アリスがドイツ語で、同時に呪文を詠唱する。アリスの目の前には金色の光が幾つも発生し、不安定そうにゆらゆらと動き始める。一瞬でも気を抜けば光は消えてしまうだろうし、もしかしたら暴走する可能性だってある。自分たちが今から行おうとしているのは、偶然魔道書の中で見つけた禁呪の一つだった。互いに性質が異なる二つの光を混ぜあい、町や小さな島が一つぐらい簡単に消し飛ぶぐらいの力を一時的に得る。どうしてそんな危険で必要のないものに手を出すか? 至極簡単、それが本の中に載っており、そして自分が知らないものであるからだ。魔法使いとはそういう生き物だ。
魔理沙の手からは銀色の光が放たれ、それはアリスの光よりも大きく、また強固な意志を持っているように一箇所へ留まっている。目を閉じて完全に自分の世界に入りきった魔理沙を見て、アリスの対抗心が燃え上がり始める。負けてたまるか、負けてたまるか、負けてたまるか。彼女よりもうまくこの魔法を操ってやる。
金色の光、銀色の光はともに両者の手からじわじわと進んでいき、やがて光同士が接触しあう。その途端にアリスの手から脳にかけて物凄い強さのノイズが流れ込み、両手で耳を塞ぎたくなった。そんな意思を理性と負けん気で懸命に押さえ込んで、奥歯を噛み締めながら術の保持に尽力する。目を閉じているため魔理沙の姿は見えないが、おそらく自分と似たり寄ったりだろう、とアリスは思った。
爆発も消滅もせずに光は絡まりあい、段々と上へと上昇していく。それにつれて檻であり籠でもある真空地帯そのものも動き始める。ゆっくり…一センチ、二センチ、五センチ……まだ、まだ気を抜けない。
光は互いが出会った時よりも高速で真空地帯の中を動き回り、その数を増大させはじめていた。最初は巨大な光が二つ絡まりあっていたのが、今では五つ、六つとなっている。ひゅんひゅんと風切音を立てながら気の狂った鳥みたいに光が飛び回り、速度は異常なまでに早い。コントロールを振り切って拡散しようとしはじめる生意気な光を、アリスは懸命に抑える。何回か実験を繰り返しているが、大体がこの段階で失敗してしまっている。質が変化することによって保持するための力の分量を間違えやすくなるからだ。
時間はのろのろと経ち、既に二人にとっては外宇宙も同然の森の中では鳥たちが囀りあい、生き物は巣の中でくつろいでいる。それらと樹木の群に囲まれながら二人の魔法使いは、森の中でぽっかりと空いている広場の中で神経をすり減らしている。既にアリスと魔理沙は集中の極みに達しているため、周りの音は文字通り何も聞こえない。自分の存在と獰猛な動物みたいに動き回る光の、その二つだけが心の中に存在している。
そうしているうちに光は二人の身長よりも高く上昇し、時折電撃のようなものを森の中に放ちながらも、おおむね一箇所でじっとさせることに成功していた。あと少し、とアリスは思った。完全なコントロールが利いて、とてつもない破壊力を持った存在が自分のものとなるまで、あと少し。そうすれば成功だ。
そんな考えを抱いてしまったせいで気が抜けたのか気の位置がズレたのかは後になっても分からなかったが、唐突に光同士のバランスが急速に崩れた。全神経を徹底的に集中させている二人はそれが起こった一瞬後に事態を把握し、両者ともコントロールを取り戻そうと光の中に介入する。だが一瞬にして光はニトロ並みに危険な代物となり、半ば自分自身の意思で動こうと暴れ始めていた。このままでは自分の理性が食われることを察知してアリスは光との神経接続を断ち切る。もう頭の中は被害をどう抑えるかということだけに切り替わっていたが、魔理沙はそうではなかった。
魔理沙は尚も光の意思に介入しようとして、しかも驚くべきことにそれは成功しかけていた。驚愕のあまりアリスは目を見開いて魔理沙を見たが、彼女はだらだらと汗を流しながらもこの事態を対処しようとしていた。なんて無茶な、一歩間違えれば廃人になってしまうというのに。
光はついに大気中で振動を始め、高速を超えて音速で動き回り、列車が急ブレーキを行なおうとする時の音を立て始めていた。爆発寸前だ、アリスは直感的に悟った。このままだと、森ひとつが消し飛ぶほどの大爆発が起きる。森林火災は何ヶ月も続き、森は完全に焼け落ちるだろう。それに留まらず、幻想郷で発生した稀有な大災害のひとつになるかもしれない。どっちにしろプラスのことは何一つ起こらない。
既に接続を切ってしまったアリスは見ていることしかできなかった――もう一度接続しようとすれば、嵐に巻き込まれるようにすぐさま光に食われて、精神は何もかも消え去ってしまうだろう――未だに光の中に残っている魔理沙だけが頼りだった。
魔理沙は脂汗をだらだら垂らしながら全身を痙攣させ、鼻血が一本垂れ始めている。彼女の精神が侵されかけていることに気がつき、アリスは最悪の場合、無理やりにでも魔理沙の接続を切るように準備を始める。その後で最低限の面積でかつ全力でシールドを張れば、生き残れる可能性はあった。まあ、二%か三%ぐらいあれば運が良い方だろう。
恐ろしく凶暴に光は魔理沙の精神を食らおうとしていたが、尚も彼女は諦めていなかった。それどころかむしろ、じゃじゃ馬を乗りこなそうとするベテランの乗馬師の如く、笑みを浮かべていることにアリスは気がついた。魔理沙と光は互いに全力で喧嘩しあい、殺しあっている。
そして勝ったのは魔理沙だった。一時的な勝利にせよ、それは確かな勝利だった。
光の結合が一時的に解け、物凄い音を立てて金色と銀色の光に分離した。両者は引き裂かれた者が反射的にそうするように元に戻ろうとしたが、その前にタイムリミットがやってきた。
爆発。
瞬時に爆風が二人の頭上から降りかかろうとする。あまりに高速すぎて音は一切聞こえることなく、今から無音の殺戮が始まるところだった。
アリスは全力で――全力なんて、ずいぶん久しぶりだ――シールドを展開すると、光との争いに夢中になっていた魔理沙めがけて突っ込み、押し倒して体の下に敷く。光が起こすとてつもない強さの爆発に耐えている間、彼女は自分が持っている力を限界ギリギリまで振り絞って、シールドを張り巡らせていた。途中で何度も破れかけたが、その度に超高速で修復し続けた。おそらくその様子を他の魔術師や魔法使いがもしも目撃していたとしたら、あまりの手際の良さに舌を巻いただろう。
アリス・マーガトロイドにとってほぼ無限に近い時間が流れて、絶え間ない苦痛と苦しみと忍耐の後で、ようやく爆発は収まった。アリスはまだ生きていた。多分魔理沙も生きているだろう。
体が疲弊しきっているのを実感しながらゆっくりとシールドを解いて、よろよろと立ち上がる。辺りの木はなぎ倒され、地面に大きなクレーターが発生し、近くに棲んでいたのだろう、生物の骨らしきものが転がっている。風が吹きぬける音は聞こえたが、鳥の鳴き声や獣の悲鳴は全く聞こえなかった。
「あー……、アリ、ス?」
かすれて声にならないような声を発しながら、魔理沙が起き上がる。
「また、失敗したみたいだな」
「そうね」
魔理沙の方に向き直り、黒土を踏みしめながら近づく。足ががくがくで立っていられるかどうかも怪しかったが、魔理沙の前で弱みをあまり見せたくは無かった。
「それも、今までで最大級。ほんと危ない所だったわ」
「おいおい、そりゃお前が失敗したからだろ? 私はちゃんと自分の分はやってたぜ。となると、ここにはお前しかいない」
お尻のあたりに付いた土を落としながら、魔理沙が反撃する。
「あら、それを言うなら有事に備えてシールドを展開するのも忘れていたのはどこの魔法使いさんかしらね? 私が庇わなかったらきっと今頃黒こげもいいところよ」
おそらく自分と同じくらい動作が億劫になってしまっているだろう魔理沙を立ち上がらせて、肩を貸す。箒を置いてある場所を遠くにしておいて良かったが、今はそこまで動かなければならないという事実がただ恨めしい。
二人は暫く相手のミスをあげつらっていたが、やがて体力よりも疲労感の方が遥かに有利になったため、申し合わせたように両方とも黙り込む。そのうちに魔理沙がため息をついて、呟いた。
「また、失敗か」
心底落胆したような声だった。
「この分だと成功するのはいつぐらいになるかな」
「あら珍しい。魔理沙が落ち込むなんて」
「私だって落ち込む時ぐらいあるぜ? 特に霊夢みたいな天才相手じゃ至極たくさんだ」
「巫女は別格だから仕方が無いでしょ。………ま、私はいつでも手伝えるし、時間なんて腐るほどあるんだからいいじゃないの。失敗は成功の父、って言うでしょ」
魔理沙が目を剥いて、隣のアリスに目を向けた。
「明日は雪が降るぞ、アリスが人を慰めるなんて。しかも失敗は成功の母だ」
「ああそうだっけ? ま、どっちでもいいでしょ。そういえば、あそこ焼け野原だけど、何もしなくていいの?」
アリスが後ろを振り返って、魔理沙に尋ねる。今日この場所にやってきたのは、「いい場所がある」と魔理沙が連れてきたからだ。アリス自身は始めてだった。
「構わん。何かあそこだけ土地の質が違うのか、どんなに暴れても一週間すれば戻っているんだ。新しいスペルカードとかの練習に役立つし、ヤバそうで香霖の所にも置け無そうながらくたは、大抵あそこに捨ててる。ただ変な毒素みたいなのが漂っているのか、あんまり長居しないほうがいいと思うぜ」
「あんたって、ほんと環境に優しくないのね」
「ほっとけ」
軽口を叩きあいながら二人は森の中を歩いていき、箒の場所にたどり着くとそこからは飛行だった。ただ魔理沙は大分グロッキーだったらしく、飛んでいる間も体をふらふらと揺れさせていた。アリスは彼女が落下しないように、身体を押さえて置いてやらないといけなかった。
途中で魔理沙と別れて家まで帰り着いた後で、上海人形と蓬莱人形に一声かけてから、アリスはシャワーもご飯も着替えも無しにベッドへと飛び込んだ。今はとにかく眠って体力を回復させたかったし、二日は楽に眠れそうだったからだ。
もそもそとベッドに潜り込みながら、アリスは魔理沙が不法投棄に使っている場所に何を捨てようかと、無意識に思い描いている自分に気がついた。家の中はもう使わないような道具や本で一杯だったし、下手にどこかに捨ててもおかしなことになりかねないので、裏にある倉庫の中に押し込めておくしかなかった。魔理沙の言う事が本当だとすれば、かなりそこは良い場所に違いない。
しかし……自動修復が可能な森だなんて、今までどうして見つけることができなかったのだろう? それくらいの土地ならば他に異質なものを引き寄せていてもおかしくはないし、力を放っていてもおかしくはないはずだ。今度調査してみる必要があるかもしれない。
そしておそらく、自分や魔理沙が考えるのだから他の人間もあそこに何かを捨てているに違いない、と考えながら、アリスは既に眠り込んでいた。
それは長い時間をかけて、ゆっくりと、酷くゆっくりと作られていった。誰の目にも、どんな生き物の目にも止まらぬようにじっくりと力を蓄え、幻想郷の中で自らを作り上げていった。
最初は他よりも特殊な土地の中に染み付いた、微細な、本当に微細な粒子もいいところだった。不意に出現したそれは、地面に埋まったがらくたに引き寄せられるように集まっていき、やがて成長をはじめた。
幾つかの季節を越え、異変の最中でもあらゆる物を意に介さずそれは外堀を埋めていった。途中でそれの存在に気がついたのが何人かいたのだが、あまりに微弱であり実質的な被害はなかったため、最終的にはどの妖怪も、どの人間も忘れた。
それに自律的な意思、もしくは何らかの本能は存在していなかった。ただひとつの本能――より大きく、より強く。それだけのために力を集めた。その土地に留まりながら、時折その場所を訪れる生物が落としていくがらくたの中に溢れる、異常な力を吸い取っていきながら。本来ならばとっくの昔に飛散しても良かったそれは、それらの力のおかげでバラバラになることもなく、より強固なものになっていった。
一体誰がそれを誕生させる最後の一押しを行なったかは不明だったが、まずそれに考えるなどという余分な機能は取り付けられていなかったし、もしもそんな機能がついていたとしても、それにとってはどうでも良かっただろう。それは既に出来上がった事象であり、概念であり、存在だった。そんなものに気をとられている暇があったら、一秒でも先に大きくなる方が先決だった。
死にかけた虫が這うような速度でそれは成長を続け、不必要なまでに拡散する力を段々と一定のものに保ち、己が成るべき形を研磨させていった。もしもアリス・マーガトロイドか霧雨魔理沙が進化途中のそれを発見することがあったのならば、何を放り出しても観察し、データをとろうとしただろう。博麗霊夢がそれを発見したならば、幻想郷に異常をもたらすものとして即刻封印措置を取っただろう。幸運なことに、誰にもそれは見つからなかった。
それが自然発生するのは何万年かに一度のことであり、形を整えることができたというのは、奇跡としか言い様が無かった。
春、夏、秋、冬、春、夏、秋、冬、春……………………
それは季節を越え続けた。
じわり、じわりと少しずつ領域を広げ続け、移動しつつ、やがて幻想郷と外の境目を分けている結界の中で、一際薄くなっている場所を発見した。そのままにしておけばどこぞの式神もしくは巫女が修復していただろうが、その前にそれは境目を覆い隠してしまった。
結果的にそれが形を残すことができたのは、梅雨の半ば頃、もうじき太陽の光が苦痛として認識される季節の前だった。形を残した後でそれは動きを止め、ただこのままでいることにした。そこで本能は消えうせ、建物や地形のようにそれはその場にいるだけの存在となった。それと同時に力の流出が始まり、深く暗い森の中に位置しているそれは、森への影響を与え始めた。
ただ動かない置物のようになりながらそれは、無機質に自分の元へとやってくる生物がいないかどうか、待っていた。鳥はそれを怖がり、通りがかった獣は憎悪し、おびえて逃げた。その場所を縄張りにしている動物は、そもそもそれに気づかなかった。上空を飛ぶ夜雀や魔法使いの存在を感じながら、それの目の前にやってくる生き物がくることを、ただただ待った。
だが幻想郷の人間はそれを発見しなかった。
最初にそれを発見したのは、外の人間だった。
先のお話はゆっくりとお待ち致しております。
完結するのは結構先のことになるかもしれませんが、それでもお付き合い頂けると幸いです。