【どうすればよかったのですか?】
どうしてこんなことになってしまったのか。『少女』はそれだけをもう何日も考えていた。
空には欠けた月があって、あたりはもう『少女』しか残されていなかった。
あれから三日経っていた。
そう、満月の晩から三日。
ここから逃げたい。
『少女』は『それ』にそう言った。『それ』はよくわからないという顔をする。『それ』にとって、世界とはこの館だけだ。
「逃げたいの、何もかもから。私を苦しめる全てから」
『それ』は訊いた。
「あなたは、苦しいのですか?」
『少女』は答えた。
「ええ、とても」
それは満月の晩だった。『少女』に残された、最後の晩。明日には自分は式を挙げなければならない。見たこともない誰かと。この館の為に。
『それ』は訊いた。
「あなたは、辛いのですか?」
『少女』は答えた。
「ええ、とてもね」
そうして、我慢できないというように、声を殺して泣き出した。『それ』はじっと『少女』を見た。考えていた。
その時、ドアを叩く音がした。
来たのだ、と『少女』は悟った。
「ここにいて」
すぐに戻るから。
その言葉に、『それ』は頷く。どこまでも従順な態度に、思わず胸が詰まりそうになった。ふと思い立ち、『少女』は部屋の奥に行くと、何か丸い物を持って戻ってきた。『それ』ははっとしたように、『少女』の手の中の物に釘付けになる。けれど、『少女』はそのことに気づかず、
「これはね、お守り。先生が残していった物なの」
心細さを押し殺そうと、『少女』はそれをポケットに入れた。
「行ってきます」
『少女』が部屋を出て行った後も、『それ』はずっと扉を眺めていた。
すぐに戻ると言った『少女』の、「すぐ」とはどれくらいだろうと考えながら。
【吸血鬼の隠し事】
今のところ、どうやらうまい具合に誤魔化せているらしい。
ナイフとフォークを動かす親友と、本日の客アリス・マーガトロイドを横目に、レミリア・スカーレットはそう結論づけた。いくら美鈴と咲夜の為だったとはいえ、アリスの命を削る呪術を知っていながら看過したのだ。このことをパチュリーに知られるのは、いかに唯一無二の親友という間柄でも避けたい事態だった。もっともレミリアは、もしパチュリーが自力で真実に至り、そうしてレミリアに問い詰めることがあるなら、その時は素直に己の非を認める覚悟はあった。ただ、アリスの方にもパチュリーに、というよりなるべく誰にも知られたくないようなので、レミリアから言うこともしなかったのだ。
そうしてレミリア自身も、実のところ当時起きていた事態をほとんどわかっていない。わかっているのは美鈴の存在が揺らいでいたことと、その揺らぎを止めるには、自分はアリスに協力しなければならなかったということ、そのこととは別に、咲夜の精神状態が悪かったこと、たったそれだけだ。その為にしなければならなかったこともそう多くはない。パチュリーをその件から手を引かせ、レミリアが主体となって解決したかのように振る舞うこと、その為に小悪魔とカーサに指示を出し、そうしてあの扉を潜り、手を叩いた。それだけだ。実際誰よりも動いていたのはアリスだろう。
あの痛々しいほど己を削り、扉を開いた彼女を覚えている。どうしてあんなにも直向きに、接点がそれほどない美鈴のために必死になってくれたのか、その理由は今でもわからない。訊かないと約束した。気にならなかったと言えば嘘になるが、それだけのことを守るだけで彼女は美鈴を助けると言ったのだ。ならどうでもよかった。
パチュリーに後ろ暗いことを持つ事だけは辛かったが、当時はもっと辛い何かをみんな抱えていたように思う。その中で自分だけ我を通し、きっと誰よりも辛かっただろうアリスの心を裏切るのもいい気はしなかった。
その選択は間違いではなかったと思っている。少なくとも、美鈴もアリスも此処にいて、ずっと調子の悪そうだった咲夜には笑顔が戻った。時々パチュリーと話すと感じる、喉に刺さった魚の骨のような居心地の悪さは、そのうち消えるだろう。消えなかったとしても、それに負けて楽になるつもりもない。もっと苦いものは、きっと違う誰かが飲んだのだから。
とりあえず今は、日に日に表情が増えていくこの親友を見守りたいと思う。彼女が望むとおり、彼女の近くで。手を握らなくても、ちゃんと見える位置に。
【ミルクティー。ハニー・アップル・シナモン・シュガー。一垂らしのブランデー】
「なに…これ?」
「え、嫌いだった?」
「そうじゃなくて」
そうじゃなくて。
「おいしいけれど、とてもおいしいけれど、これ、紅茶なの?」
「まさか英国式以外は紅茶とは認めない、とか言わないわよね」
これが一番このパイに合うのだと、七色の人形遣いは言う。
「今まで飲んだ紅茶の中で、一番複雑な味がするわ…」
もはやこれは、紅茶をベースにした別の飲み物なのではないかとパチュリーは考えた。しかし、パイはおいしいし、確かに合っているので、どうでもいい気もする。うん、どうでもいい。もう気にならない気にならない。
「で、今夜あなたの眠るところだけど」
「眠らないわ」
「は?」
「本の復元がてら、夜通し読書することにする」
「身体に悪いわね」
紅茶を一口、言う。
「ちょうど眠れない気分なの。ああ、私にはおかまいなく、あなたは寝てねパチュリー」
パチュリーは考える。こんなとき、あの黒い魔法使いなら、じゃあ私もそうするか、と気軽に言うだろう。そうして、アリスは彼女ならまぁいいかと気にしないだろう。では自分は?もちろん駄目に決まっている。弱い身体が恨めしい。
けれど、薫る紅茶にハニー・アップル・シナモン・シュガー。一垂らしのブランデー。
そうして一口アップルパイ。
雪の降る寒い夜に、甘く暖かいこの茶菓子。眠くならない訳がない。
彼女が淹れた紅茶。
彼女が作ったお菓子。
少し惜しい夜だけれど、知識の魔女は焦らない。
そういう訳で二人の夜は、お茶会と共に終了した。
カップとポットを片付けながら、眠る主を思いながら、本を手にするアリスを横目に。小悪魔は、それはそれは深い溜め息をついたとか。
[暗転]
同じ頃。
アリスの淹れた紅茶ほどじゃないけれど、やはり英国式から外れた紅茶を、咲夜と美鈴は飲んでいた。葉を冒涜しきった飲み方とはとある紅茶通の弁だが、アリスがいればそんなものはナンセンスだと擁護してくれるに違いない。嗜好品は、美味しいことが正義である。
もっとも。
「さすがに、この年になると甘すぎるわね」
咲夜の容赦のない言葉に、美鈴はうっと気まずそうな顔をした。
「すいません。でも」
「冗談よ。甘いけど、懐かしいわ」
いつまでもあの頃のように扱うから、拗ねてみたくなったのだ、ご期待通りに。こんなことが多くなってきている。美鈴は変わらずに、咲夜だけが成長する。わかっている。もう逆転しているのだ。もう自分より大人の態度を、目の前のこの人に求めてはいけないのだ。そのこともひっくるめて楽しめるようにと、あの秋に約束したのではないか。
「それじゃ」
たとえ同じように生きていけなくても。
「洗いざらいはいてもらいましょうか」
せめてお互いを、お互いの日常に組み込もうと。
「そんな言い方しなくても話しますよぅ」
ふにゃっとどこか情けのない笑みを浮かべて、美鈴は言葉を探すように。
「始まりは多分、その、咲夜さんが泣いたあの夜の前ぐらいからなんですが…」
冬の夜は、こんな話をするのがちょうどよい。
美鈴は、二人は、この後あの時自分たちが知らない間に、いったい何が起きていたのかを朧気ながら知ることになる。けれどそれは、きっとまた別の話。
【目を閉じて、そうして全て消えればいいのに】
どうしてこんなことになってしまったのか。『少女』はそれだけをもう何日も考えていた。
空には欠けた月があって、あたりはもう『少女』しか残されていなかった。
あれから三日経っていた。
そう、満月の晩から三日。
父親に、つまり館主に呼ばれて、『少女』は客間に行った。そうして、見知らぬ男と会った。見知らぬ男と、その家族と会った。
「式は明日ですが、やはり一度顔を合わせた方がよろしいかと思いまして」
そう、館主は言った。
そんな話は聞いていない。どういうことかと父親を見て、『少女』は息をのんだ。館主は笑顔を浮かべていたが、その眼は全く笑っていなかった。
ああつまり。
彼は、読んでいたのだ、娘の考えを。今夜にも逃げ出そうとしている、『少女』の心を。
「それでは、私たちはあちらの方で」
私たち。親同士は、という意味だ。
その提案には、『少女』以外は賛成のようだった。
「やあ、話に聞いていたより、ずっとお綺麗な方ですね」
初対面だというのに、男は親しげに距離を縮めてきた。『少女』は社交の場にはあまり出たことがない。近いと思うのは『少女』だけで、この距離は普通なのだろうか。わからないから、一歩引くことも出来ない。
「それにしても、今日は調子が良いのですね?」
「え?」
あまり騒がしいのに慣れていない。疲れやすいところもあり、本人は此度の縁談に対し、少しナーバスになっている。ついては、どうぞ式をもう少し待って頂きたい。館主は、婿とその家族に対しそう言っていたらしい。
「でももうすっかり良くなったとか」
男は、もう少し距離を縮めた。
「外へ、散歩をしに行きませんか?案内して欲しいのです」
断る言葉を、『少女』は思いつかなかった。
【赤々紅いと】
その絨毯は、こんな模様だったろうか。
記憶にない染みのようなものが点々と、あるいは大量に零れたように。
何かに呼ばれたように『それ』は廊下を歩いていた。
さっきから周りがうるさい。
自分はそんなものにかまっている暇はないのだ。
不意に、刀を持った男が、『それ』の前に立ちはだかった。ぎらぎらと血走った目が、『それ』の顔をひたと見据えている。
「なんだ、おまえは?」
『それ』の格好はここら辺では見かけないものだから、男には目の前の少女が、ひどく不自然に映った。情報ではこんな奴はいないはずだか。ちっ舌打ちをする。どのみち仕事の邪魔だ。
「客人か?おい、何とか言っ」
男が言い終わるより早く、『それ』の手が動いていた。その光景は遠目に見れば、どちらかといえば緩やかな動きだったけれど。
小さな幼子か何かのように、大の男が、遠方へと吹っ飛んだ。
ぐしゃりと、男の頭と壁がぶつかったその場所から、嫌な音がした。
【彼女はきっと黙っている】
アリスは黙々と作業を進めていた。
連日やって来ては修復をするのだが、今のところまだ七冊くらいしか終わっていない。改めて、随分と価値のある本だったのだと感心してしまう。それを自分は惜しげもなく、ざっと二百冊ほどただの魔導書にしてしまったのだ、無断で。彼女の愛している大切な本を。
「いまさらだけど、修復以外にも、何かした方がいいのかしら」
一応、ほぼ毎回持ってくるお菓子はお詫びのつもりなのだが、いつ彼女がお菓子には飽きたと言いかねないかわからない。今日の彼女の「作ってみたい」という要望も、そういう理由もあって引き受けたのだが、結局無駄になってしまった。
パチュリーの表情はどうも読みづらい。レミリア・スカーレットいわくそうでもないらしいのだが、アリスにはたいてい不機嫌そうに見える。確かに本を駄目にしてしまったのは悪かったとは思っているのだが、毎回毎回ああも晴れない顔で迎えられると、まわれ右して帰りたくなってしまう。あの半眼睨みはどうにかならないものだろうか(ちなみに魔理沙はそれを聞いて、私の時はたいてい無反応だと面白くなさそうに言った)。あの秋の一件より前から、歓迎されているとは言い難かったが、立場が悪い今は、前のように素知らぬ顔で居座るというわけにはいかない。そもそも今では、最初から正面のドアから入ることになってしまった。
居づらいけれど、本を修復せよとはそのパチュリーの言である。
「ちょっと、休憩しようかな」
基本的に魔力を削って行う作業な為、疲労感が半端じゃない。まして魔界人という存在のくせして、アリスは魔力に余裕があるタイプではなかった。こういうのはそれこそ、パチュリーの方が向いているのではないかと考え、彼女には読書以外の集中力が望めないことを思い出した。根気のいる作業とは相性悪いのだ。あの魔理沙ですら実験の時はそれは粘り強いものなのだが。まあ、もともと妖怪はあまりそういった要素が必要ないのだ。失敗すれば、またいつか気が向いた時にでもやればいい。その余裕がないタイプは、そもそもやろうと思うこともない。
いつだったか、妖怪とは二種類に分けられるとパチュリーは言っていた。とにかくただ生きている者と、その一生が全て気紛れ、あるいは暇つぶしのような者とだと。前者には妖精の類が当てはまり、後者には力もあり寿命も長いような妖怪が当てはまる。例えば宴会に集まるのはこの手の類が多いだろう。そうして彼女は、人間は余裕がない割に気が多いと付け足したのだった。そうだった。この時は魔理沙もいて、それに対しては悩む時間も惜しいから、思い立ったら即実行に移すのだと返したのだった。
それからパチュリーは、アリスはそんな人間に似ていると言ってかすかに笑ったのだった。
いつか似たようなことを言った者達が浮かべた笑みとは異なり、彼女のそれは嫌な笑いではなかった。むしろあれは――――――――
「アリスさん。今、休憩ですか?」
「………小悪魔」
「はい?あ、もしかしてまだ作業中でした?」
「いいえ。少し疲れたから中断しているところ」
「あまり無理なさらないでくださいね。アリスさんが倒れるようなことは、パチュリー様も望んでいませんから」
小悪魔の言葉に、アリスは曖昧に笑った。そうだろうか、どうだろうか。そうかもしれないし、違うかもしれない。あれだけパチュリーといる小悪魔がそう言うなら、なるほど全くその通りと思えるけれど。けれど、小悪魔は悪魔で、悪魔は嘘つきだと相場が決まっているし、人の良さそうな(悪魔だけれど)この小悪魔も、処世術には長けてそうだ。なんにせよ、アリスが倒れたらアリス自身も困るが、周りにも迷惑がかかることは確かだ。
「そうね、ほどほどにしておくわ」
アリスの返事に、小悪魔は満足そうに笑った。良い笑顔だなと、柄にもなく思った。これがお愛想のものなら、世にある気遣いは全て計算の上にあらねばならない気がした。
「ねえ」
「はい?」
「あなた、パチュリーの事が大切なのね」
「当たり前じゃないですか」
マスターですから。
「そうね」
そんなふうに笑って己を肯定してくれる従者がいるのは、何だかとても素敵だなと思いながら、アリスはそんな主思いの小悪魔の忠告を、さっそく無駄にしてしまうことを少しだけ残念に思った。
「アリスさん?」
「ん。ごめん、ちょっと薄手の毛布か何かを、貸してくれない?」
「冷えますか?」
「ちょっとね。ああ、それと紅茶を一杯お願い出来る?」
「いいですよ。少しお待ちください」
「御免なさいね。それが済んだら、寝ちゃっていいから」
音もなく飛んでいく小悪魔を見送って、アリスは目を閉じた。これから取りかかる本にはそれが必要だから。今アリスが手にしているのは、陣の中核に用いた一つ、強力なものだ。万が一にパチュリーに気がつかれた時の為に、これを使って瞬時に発動出来るように細工した一品。実際、役にたった。それに干渉する。
ぞわりと、背筋嫌な感触が走る。
「…あ…っ」
何度やっても、この感覚は慣れない。それでも、これだけは今日中に済ませてしまいたかった。何しろこの本は、思い出深いものだから。こんな雪の夜だから、泣き出さないとも、限らないから。
ああ意識を持って行かれる。それでも小悪魔が戻ってくる頃には、きっと話もつくだろう。
宥める為には、ほん少し、その思い出に付き合えばいいのだから。
闇が意識に潜入する。
【だから】
さっくりと、すててしまいたくおもうのです。
あなたとすごしたすべてを、あなたがはじめてうたってくれた、あのやさしいうたも。
みんなみんな、ここにおきざりにしてしまって、たったひとりのこされていくあなたが、せめてこれいじょうはさみしくならないように。
おやすみ おやすみ おやすみなさい
【月のキレイな晩でした】
その晩は、満月だったものですから。
こんな時でも、夜の庭は美しかったのです。
『少女』は、自分は決して不幸と思わないように心がけました。きっとそんな悪い人生ではないのだから、ちゃんと笑顔でいようと、そう思いました。
彼の右手が、肩を掴むまでは。
「…式は、明日ですわ」
「そんな。ボクがどれほど今夜を待ち望んだとお思いですか?」
右手の力は強くなり、左の手は『少女』の服の上を滑りました。かっと、頬が熱くなるのがわかります。怒りで声が震えそうになるのを、必死に押しとどめ、『少女』は言いました。
「声をあげますよ?」
「どうぞ。ですが、みんな承知の上ですよ」
恥を掻くのはあなたの方だと、彼の目は言いました。
「これが、紳士と呼ばれる方のすることだとおっしゃるの?」
彼は笑いました。くつくつと、喉の奥が引き攣ったような嫌な笑い声で。
「大丈夫」
なにが大丈夫なのか、男は言いました。
「すぐにきっと…」
耳に息がかかるほど近くに。どんなに振り払おうと藻掻いても、力の差がそれを許しませんでした。『少女』は今度こそ怒りを我慢できずにいました。惨めな気持ちいっぱいだったのです。何故なら、男が「みんな」と言ったからです。みんな。それはつまり、『少女』の父親もということです。それは、ひどい裏切りでした。
藻掻くうちに、『少女』の掴まれていない方の手が、彼女のポケットに触れました。そこには、あの石がありました。少女はそれを無我夢中に握りしめました。無駄とわかりつつも叫ぼうとした口を開きましたが、凄むような彼の笑いが目に入ると、それも出来なくなってしまいました。石を持つ手が震え出します。
それが聞こえたのは、ちょうどその時でした。
館の方から、叫び声がいくつも聞こえるのです。
一人二人のものではありません。何人もの使用人達が、せっぱ詰まった声をあげているらしいのです。火事でも起きたのかと、さすがの男も動きを止めて振り返りました。けれど、煙らしいものは見えず、何かが焼けるような臭いもしません。
叫び声は、だんだん近くなってきます。けれど何故だか、少女にはその声がこっちに向かっているという気がしませんでした。確かに声は近くなってはいるのです。ただし、叫び声はまるで、
まるで、全て、全部が、違う人のものに、聞こえたのです。
もちろん同じような声も聞こえましたが、それは二三回聞こえた後は、次の声にバトンタッチするように、もう聞こえなくなるのです。こんなたとえ方が許されるのだとしたら、それはまるで合唱のようでした。すごく短い曲を、何人もでやるものだから、追っかけてはすぐにどんどん終了してしまい、あっという間にそっくり違うメンバーが合唱するようになってしまうかのように。
そうして、いよいよ叫び声が、館の外に近くなったとき、それは静かになりました。そうして、どかっという、扉が蹴破られたような音の後、『少女』は何かが引きずられるような音を聞きました。その音は、とても重そうでしたが、引きずる誰かは大して苦にしていないかのように、どんどんこっちにやって来ます。
そうして。
『少女』には、引きずられていた物と、それを引きずっていた誰かがよく見えました。
なにしろその晩は、満月だったものですから。
あたりはとても、明るかったのです。
【赤々紅いと+α】
その絨毯は、こんな模様だったろうか。
記憶にない染みのようなものが点々と、あるいは大量に零れたように。
何かに呼ばれたように『それ』は廊下を歩いていた。
さっきから周りがうるさい。
自分はそんなものにかまっている暇はないのだ。
不意に、刀を持った男が、『それ』の前に立ちはだかった。ぎらぎらと血走った目が、『それ』の顔をひたと見据えている。
「なんだ、おまえは?」
『それ』の格好はここら辺では見かけないものだから、男には目の前の少女が、ひどく不自然に映った。情報ではこんな奴はいないはずだか。ちっ舌打ちをする。どのみち仕事の邪魔だ。
「客人か?おい、何とか言っ」
男が言い終わるより早く、『それ』の手が動いていた。それは遠目に見れば、どちらかといば緩やかな動きだったけれど。
小さな幼子か何かのように、大の男が、遠方へと吹っ飛んだ。
ぐしゃりと、男の頭と壁がぶつかったその場所から、嫌な音がした。
動かなくなった男を、『それ』は不思議そうに見下ろした。考えるより前に身体が動いていたのだ。
「ああ…」
やがて納得がいったらしく、『それ』は小さく頷いた。
「あなた、死んじゃったんだ」
応えがないことが答えだった。そうして思った。こんな奴が、どうやら館にはまだまだいるようだ。『それ』にはわかった。賊がいるんだ。いや、この場合は内通者がいたようだ。だってほら、この廊下の向こうで、何やら不穏な会話が聞こえる。
「…から、魔女……もう駄」
「わかっ…館の主はもう…けれどまだ、お嬢…」
「それは婿殿が…大丈夫、みんな祭りの準……これに乗じて…」
断片的に聞こえる会話を繋ぎ合わせながら、『それ』は声の方へと、ゆっくり歩いていく。よくわからないが、使用人の一人が館主をよく思っていないらしい。会話の流れからすると、『少女』の命は保証されているようだった。婿殿とは誰のことだろう。これに当たる人物は知らない。先ほど殺した人間だとしたら、ちょっと面倒なことになるだろうか。なんにせよ、自分は『少女』の元に行かなければならないのだ。
とくんとくん、とっとくとく、とくん、と。
鼓動がかすかに乱れて狂う。
とても大切なことを忘れている気がするのだ。
だからその奇妙な焦りのままに、『それ』は目の前の二人を見つめた。
『それ』に気づいた二人は、さっと顔色を変えた後に、使用人が男に目配せをし、男が『それ』へと斬りかかる。誰か予測するだろう。使用人も男も、予期していたには『それ』の終わり。この瞬間が末期だと、そう信じて疑わなかった。
『それ』はただ思っただけだった。
ああ、邪魔だなと。自分は、『少女』に会いに行かなければならないのに。
だから聞こえた悲鳴は、二人分のもので。
『それ』が会う者全てを、こうしようと決めた瞬間だった。
【無邪気なキミは血の味を知る】
見つけた、と。
『それ』はとても嬉しそうに声をあげました。まるで隠れん坊の鬼が、友達を見つけた時のように。
けれどそんな無邪気な幻想とは不釣り合いに、いいえ、確かに『それ』は無邪気だったのです。けれどその手には、そんないっそ眩しいほど晴れやかな笑顔を裏切るように、動かなくなった物が掴まれていました。
見つけた。
『それ』はもう一度そう言いました。そうして、少し責めるような口調で、『少女』に言いました。
遅いですよ、ちょっとって言ったのに。
そうして、いつものように、『少女』が『それ』を見たらいつもそうしたように、笑いかけてくれるのを待ちました。
男は悲鳴をあげました。
それを聞いて、『少女』は、ああいけないと思いました。だって悲鳴をあげた者は、みんな静かになってしまったのですから。
『それ』は男を、今初めて気がついたというように、不思議そうに見つめました。相変わらず男の手は『少女』を掴んでいたのですが、『それ』は目の前の状況を、己の持っている知識を駆使して結論づけました。
今こそ『それ』は思い出したのです。
何故この手があるのか、足が、眼があるのかを。
わかったなら、あとはもう一瞬でした。少なくとも、男にとっては一瞬だったと思います。引きずっていたものから手を離して、それがどさりと重たそうに土に横たわったのと、『それ』が男の目の前に現れたのは、ほとんど同時でした。
眼は×を素早く捕らえ、足は瞬間×に詰め寄るために、手は刹那に×を■す為に。
まるで風が吹いたように、思わず閉じた目を開けた、そのあとにはほら、残ったものは二つだけ。
ぴちゃっと、生暖かいそれが、頬にかかったところまでは覚えている。
[暗転]
かつて少女だった彼女は眼を開けた。
昔の夢の所為か、年甲斐もなく汗なんてかいている。
嫌な夢をみた。
「あ、起きましたか?」
そんな彼女に、声がかけられる。若い女の声だった。昨晩にも顔を見た、宿の働き人だ。清潔そうな成りをして、彼女のことを心配そうに見ている。
「大丈夫ですか?だいぶうなされていましたよ?」
「大丈夫ですよ」
彼女は答えた。
大丈夫に、決まっている。
【魔術師の置きみやげ】
「久しぶりだね。それとも、初めましてと言うべきかな」
その言葉が、『そらがき』が最初に『それ』に言ったことでした。
「ふうん。なかなか美人さんになったもんだ。あの子はキミの、何が気に食わなかったのやら――――――――ああ。なるほどね」
眼が大分悪くなっていた『そらがき』は、匂いでやっとわかったというように。
紅いのは、キミの髪の所為だけじゃないんだね。
「要らないと、言われました。きっとあの人は血が嫌いなんです」
「うん。そうかもしれないね」
にっこりと『そらがき』は笑いました。
「でも大丈夫だよ、ここではもう、キミはどこにも行かなくてもいいんだから」
そうして、ちょっと寂しげに魔術師は言ったのでした。
「ようこそ幻想郷へ。ずっとキミを待っていたよ。でも同じくらい、出来れば来ることがないようにとも願っていたよ」
悟った声は、いっそ哀れむように優しく、紅いそれに笑いかけました。
「あの子は、キミの手をとらなかったんだね?」
「――――――――よくは、覚えていません。ただ、あの人は、とても怖い顔をしていました」
「キミは悪くないよ。いつだって、キミは一度だって悪くなかったんだ」
首を傾げた『紅いそれ』に、苦笑を漏らしながら。
「その事に、あの子も気づかなければならないんだよ」
【昔語りの、そんな夜に】
『少女』は一つだけ真実を手に入れました。
全ては自分が間違いだったということです。
息も絶え絶えに、最後に館主の側近が言ったことによれば、式を先延ばした自分が、いつまでも館に対し、何の責任を取らなかった自分が悪いのです。あまりに哀しいことだから、なるたけ簡単な言葉で言いますと、事の顛末はこんな感じでした。
陰謀は二つありました。
一つは館主のもの。
己の娘を欺き、婿と結婚させ、一族の繁栄をさせこと。『少女』にしてみれば酷いことですが、当時では珍しくないことです。
二つめは婿の一族と一部の使用人の企てたもの。
今は見かけなくなった魔女。その才覚が『少女』にあるらしいことを、裏切った使用人は知っていました。婿の一族はそのことに興味を抱き、ぜひその失われつつある力を手にしたいと思っていました。しかし魔女は追われる世でしたから、館主は娘に魔術的な行為を認めないでしょう。また、使用人の多くは館主に心から尽くしています。どうしても婿入りしなければならない一族としては、よくない流れでした。ならいっそ、賊に襲わしてしまえばいい。そう彼らは考えました。
断っておきますが、婿自身はあまり多くを知らされていませんでした。あまり頭のきれるタイプではなかったので、計画を話すのは良くないと一族のトップが判断したからです。
しかしそのことよりも、『少女』を打ちのめしたことは、そのどちらの陰謀も潰れて、今はただ自分は独りぼっちだということでした。
あの子は消えてしまったのです。
仕掛けを施したのは、おそらく『そらがき』でしょう。
けれど自分が一人なのは、よくわからないままに、あの子の手を自分が振り払った所為だとわかっていました。
ここにはもう、館すら残っていないのです。
けれど、残った物もありました。
多少の衣服、絵の具、本が二冊、怪しげな小物、そうして綺麗な石が一つ。
不自然にそれだけが、館のあった場所に。
生きていた者は連れて行けなかったのでしょうか。館が消えても、引きずられていた瀕死の側近は庭に転がっていて、そうして懺悔のようにそんな哀しい話を『少女』に漏らしました。
「貴女様が、もっと早く、別の誰かの縁談を受けていたら…」
全ては幻想だと、少女は思いました。
父も館も使用人達も、そうしてあの子も。
美鈴はなあ。いい娘なんよ。いい娘なんよ。
みんなが幸せでありますようにってきっと素直に言えるのよ。