私が紅魔館に帰ってきたのは、もう日も落ちようかとする頃だった。
時間的に考えてまだ寝ているだろうと思っていたが、お嬢様は私が帰ってきたことに気付くと労うようにして部屋の中に招き入れてくれた。もしかしたら眠っていないのかもしれない。
「お疲れ様、咲夜。首尾はどうだった?」
私が部屋に入ると、お嬢様は開口一番に問いかけてきた。待ちきれないといった様子である。
「先に結論から言うと、湖の先に対岸は見つかりました」
「へえ?」
わずかにお嬢様の顔が綻ぶ。その顔を見て、一瞬だけ私は言葉につまりそうになった。
「でも、それはけして“望ましい形”でとは言えません」
「……どういうこと?」
「お嬢様、お手数ですが窓の外をご覧下さい」
「窓?」
怪訝そうな顔で首を傾げはしたものの、お嬢様はすぐに立ち上がると壁際に向かっていった。そうして、窓を覗き込むなり、お嬢様は「あっ」と言葉を漏らした。
「対岸が……見える」
私は無言で頷いた。
……それは、あり得ない光景だったのだ。紅魔館からはどうあっても対岸が見えない。この事実は、既に昨日の内に証明されていた。私一人なら見間違えということもあるかもしれないが、あれはお嬢様も確認しているのである。お嬢様は私よりも早くその異変に気付き、認知の遅い私に苛立っていたほどだ。そんなお嬢様だからこそ、この変化にもすぐに気付くことが出来たのかもしれない。
「どういうことなの、咲夜?」
お嬢様の顔には明らかな動揺の色が見えていた。
「私にも分かりかねます。なにぶん、こんなケースは初めてですから……。それに……」
「まだ何かあるの?」
「はい。……おかしいのはそこだけじゃなかったんです」
そこまで言って、私は一旦言葉を切った。これから述べようとすることをどのように整理すべきか迷っていたからだ。
「対岸の先に……その……一応、森や山なども確認できました」
「……そうなの? それで、それがあなたの言う“おかしな”ことなの?」
要領の掴めない会話に、お嬢様は焦れったさを感じているようだった。だから、私は出来るだけ性急に事の顛末を述べることにした。
「出鱈目なんです。その森もその山も」
「出鱈目?」
「はい。森は、等間隔に木が立錐しているだけですし、山に至っては地面が隆起して傾斜がついてるだけなんです」
言いながら、自分でもいろいろと収集が付かなくなってきていることに気付いた。何より見てきた私自身が信じられないのだから、それも仕方がないかもしれなかった。……でも、
「……」
一笑に伏すかと思っていたお嬢様は、何かを考え込むような真剣な表現で俯いていた。
「……それは、本当なの?」
「はい。にわかには信じてもらえないかもしれませんが」
対岸が見えるようになった以上、私の言った森や山もここから視認することは出来る。しかしながら、遠目で見てもその奇怪さを感得することは出来ないだろう。こればかりは、実地に赴いて実際にその目で確認する以外ないのだ。だから、私は最初、この言は世迷い言だと鼻で笑われると思っていた。
「……なんかもう、色々と無茶苦茶ね」
「はい。頭が変になってしまいそうです」
そこでお嬢様は苦笑のようなものを浮かべたが、それも弱々しいものであった。気丈を振る舞ってはいるものの、さすがにこの変化は堪えるのだろう。
「それで、人とかはいたの?」
私は静かに首を横に振った。それを見て、お嬢様の顔が一段と曇る。
「明日はもう少し遠くに行ってみようかと思います。そうすれば、一人ぐらいは見つかるかもしれません」
「そうね。あなたが言うなら、そうかもしれないわね」
お嬢様のその笑みは、本当に痛々しかった。だから、私は話題を転換する意味も込めて、努めて明るい声でお嬢様に提案を行った。
「とりあえず、お食事になさいましょう。前回から半日以上経っていますから、随分とお腹がおすきではないでしょうか?」
「ああ、もうそんな時間かしらね。そうね、お願いするわ」
「ええ、何かリクエストはおありでしょうか?」
「具体的には無いけど……そうね、出来れば前よりもサッパリしたものがいいわ」
「かしこまりました。では、三十分ほどお時間を頂きます」
深々と頭を下げ、私はその場から引き下がった。その間、お嬢様はじっと窓の外だけを見ていた。
案の定調理場の片付けは完璧に行き届いており、私が作ろうとした料理の材料も漏れることなく揃っていた。
私は特別神経質というわけではないが、料理を作る者として、材料がきちんと揃っているのは非常に嬉しい。
大抵の場合料理とは客の注文と厨房の材料の兼ね合いを考慮しながら作るものだ。出来るだけ客の意見を尊重するものの、そもそもの材料がなければ本末転倒なのである。紅魔館ほどのお屋敷ならばある程度の材料は揃っているが、やはりそれでも限界はあるようだ。非常にマニアックな調味料など、五年に一度使うかどうかわからないような物などは、さすがに揃えられていない。
……それでも、“ここ”の調理場にはそんな物すらも揃っているというのだから出鱈目だ。
戸棚を開けてズラッと並んだ調味料の蓋を追っていくと、まったく違和感なく他の調味料と混ざって置いてあるのだ。あまりに自然すぎて、下手をすれば見落としてしまいそうでもあった。
「……本当に、パーフェクトね」
漏らしながらそれを手にする。
五年に一度しか使わないような材料でも、使いたいと思う時は必ずあるのだ。
「そしたら、これは後五年お蔵入りかしらね?」
私は苦笑しながら、料理の仕上げにそれを振りかけた。
「……おいしい」
料理を口にしたお嬢様は、目を輝かせながらそう漏らした。
「これは何を使ったのかしら、シェフ?」
「特別な物は使っていませんよ。ただ、隠し味に調味料を一振りしただけです」
お嬢様はうんうんと頷きながらもう一度料理を口にした。そして、咀嚼をしながら、ほぅと息を漏らす。
「どうやらその調味料が決め手らしいわね。一体何なの?」
「『気狂いの塩』というものです。あまりに万能過ぎて、シェフ達の間ではずっと敬遠されてきたものです」
「……ああ、そういうプライドは高いものね、彼ら。でもそれならよく見つかったわね。上手に隠しておかないと捨てられてしまいそうだけど?」
「ええ。私もまさか見つかるとは思っていませんでした」
その言葉を聞くと、お嬢様の顔が少し険しくなった。
「無い“はず”のものがあった……ということね?」
「左様です」
そもそも、この調味料は香霖堂にまで赴かないと手に入らないのである。外界から流れてくる物らしいので、仕入れの時期もまちまちで本当に運が良くなければ手に入れることはできない。
また、例え香霖堂で入手したとしても、厨房に持ち込めばすぐにシェフ達によって処理されてしまうのだ。そういった意味では、これら二重の障害を乗り越えてこの調味料が調理場に存在する確率は非常に低い。
……しかも、これを入手するためには、「仕入れたい」と思う私の意志とそれを具現化する実際のアクションが必要なのだ。意志は確かに前々からあった。でも、実際のアクションはというと……少なくとも覚えてる範囲では記憶に無い。
つまり、私の記憶がよほど曖昧でも無い限り、この調味料が調理場に存在するということは“あり得ない”のである。
「……ねえ、咲夜」
お嬢様が静かに問いかけてくる。その声は、どこと無く消沈しているようにも思えた。
「咲夜はこの事件をどう見る?」
「……何者かの恣意だと思っています。何らかの能力……おそらくは私と同じような空間系の能力でしょうが、それを使って私とお嬢様を“疑似”の紅魔館に隔離した、と」
「“疑似”の?」
「ええ、“疑似”です。ここは私の知っている紅魔館ではありません。もっと何か……歪なものです」
「……ふぅん」
お嬢様のその反応をどう形容すればいいのか私にはわからなかった。ただ、それは何かの品定めをしているようにも感じた。
「……でも、おかしな事が一つだけあるのです」
「おかしな事?」
「はい。私達に対する敵意を……あまり感じないのです」
「それは、“相手”の敵意という意味かしら?」
「そうです。何かしらの恣意があって私とお嬢様をこの空間に閉じこめた。そこまではわかります。でも、それ以上のアクションは今のところありません」
この変な空間への幽閉を敵の初撃とするならば、相手の次撃は未だ行われていないということになる。むしろ、この空間での変な心遣い――調理場が綺麗だったり、廊下が片づいていたり、無いはずのものがあったり等々。それらは攻撃というよりもむしろ補給に近いものであるようだった。
「外の変化についてはどう思うかしら?」
「それも確かに気になります。初めはただ広い湖しか見えなかったのに、一夜明けてみると対岸が見えるようになっていました」
私は単純にそれを『対岸が見えるようになった』と述べたが、もしかしたら新たに対岸が浮上したのかもしれない。どちらにしても出鱈目な話であることには違いないが。
「それに、先ほど見てきた森や山。あれらの出鱈目さは群を抜いています。あれでは、まるで子供の粘土遊びですよ」
「粘土遊び、ねえ」
お嬢様はこちらを見ながらクスクスと笑っていた。“粘土遊び”という単語が面白かったのであろうか。
「それで、結局咲夜はどう思うのかしら?」
「と、いいますと?」
「この世界は嫌?」
それは核心に近い質問だった。私の心には既にそれに対する答えが用意されている。しかし、それを口にするということは……私自信に嫌疑をかけることに等しいのだ。
先日のお嬢様とのやり取りを、どうしても思い出してしまう。
「咲夜は駄目ね。すぐ顔に出るわ」
「……申し訳ございません」
「謝らなくてもいいわ。別にもう疑ったりしないわよ。面倒くさいしね。でも、一応、あなたの口から答を聞いておきたいわ」
お嬢様のその言葉に軽く胸を撫で下ろす。些細な事でも二人の間に溝を作ることは嫌だったからだ。
「……わかりました」
だから、私はそんな気持ちを払拭するように、自分の正直な気持ちを吐き出した。
「私は、この世界を嫌だとは思いません。いや、思うことができない、といった方が適当でしょうか。この世界には、言葉に出来ないような安堵を感じます」
……その時だった。心の奥底で、何かがカチリと綺麗に嵌った気がした。
食事を片付けると、私はその足でお嬢様の部屋に向かった。昨日と同じようにお嬢様に声をかけられたのだ。『部屋にきて』と。
灯りの消えた廊下をまっすぐに進む。私の靴の音だけがその空間に反響していた。
「……」
いつしか私は拳を強く握っており、手のひらはじっとりと汗で湿っていた。夜の昂りもあるのか、全身の血流までも具に感じ取ることが出来るようだった。思考は完全にクリアだ。余計な“ノイズ”は、無い。
……答は既に出ていた。この世界のカラクリも、それを解くための方法も。後は、ただそれをなぞるだけである。寸分の狂いも無く、正確に。
私は一度大きく深呼吸をすると、昨日と同じようにお嬢様の部屋の扉を叩いた。
お嬢様は組んだ足をこちらに見せながら小さく微笑んでいた。脇のテーブルには、昨日の再現のようにチェス盤と駒が用意されていた。
私は頭を下げると、無言でそのテーブルに付いた。
「さあ、昨日の続きをしましょうか、咲夜?」
嬉しそうにお嬢様が駒を並べる。昨日の譜を暗記しているのかと思ったが……どうやら、適当に並べているらしかった。どちらかといえば、むしろお嬢様に形勢が傾いているようにも見える。私は、敢えて口を挟まなかった。
「さあ、仕切り直しよ」
本当に仕切り直しているのだから笑えない。それでも、当人はあくまで“昨日の再現”で通すつもりなのだ。
「素晴らしい譜ですね」
いろいろと苦慮した箇所が見て取れる。
「ふふ、そうでしょ? 実は昨日の時点であなたは既に詰んでいたのよ、咲夜」
「感服いたしました」
駒を動かす。
「…………あれ」
途端、お嬢様の顔色が変化した。明らかに狼狽している。
「………………待った」
「ごゆるりと」
後は昨日の焼き増しだった。見た目一進一退で、時間だけがただ流れていく。
・
・
・
・
・
・
「……ねえ、咲夜」
「『待った』ですか? よろしいですよ」
「ち、違うわよ。ちょっとした雑談をしようと思っただけよ、気晴らしに」
昨日とまったく同じやり取りに私は苦笑せざるを得なかった。でも、昨日とは違って、お嬢様は椅子にはもたれかからず、険しい表情を顔に浮かべながら身を乗り出してきた。
「……咲夜」
重々しい口調で、私に問いかける。
「わかったんでしょう、この事件のカラクリが?」
……お嬢様からその件について切り出してくるのは少しだけ以外だった。
「……はい」
でも、私がやることは何も変わらないのだ。だから、私は当然のように、その言葉を述べた。
「この世界は、私の世界なのです」
お嬢様は、特に驚いたような様子は見せなかった。
「この世界は私に対して牙を剥いてはいない。むしろ、私の都合のいいように、食事も、掃除も、果ては地形までも“整えて”くれる」
「だから、あなたの世界というわけなの?」
私が頷くと、お嬢様は少しだけ嘲るように鼻を鳴らした。
「必要なのは、“意思”なんです。この世界を変えようと思う意思、この世界を変えたいと思う意思」
「……へぇ」
お嬢様の口元が、僅かに綻んだように見えた。
「少しだけ興味深いわね。それじゃあ、あなたが“変えたい”という意思さえ持てば、この世界は自由に変えることが出来るというわけ?」
「はい。今日発見した対岸や出鱈目な作りの森や山、あれらもおそらく私が作ったものでしょう」
「あら、どうしてそう思うの?」
「既視感、ですよ」
「既視感? デシャヴってやつかしら」
湖を挟む対岸はともかくとして、その先にある森や山についての子細を私が知る由は無い。普段よく目にする景色ではあるが、それはあくまで風景として見ているのであって、それが実際どうなっているかなど考えたことも無かった。にもかかわらず、あの出鱈目な森や山には、どこか見覚えのようなものがあった。それはつまり、私は心のどこかで、そのような風景を“視て”いたということなのであろう。
明確でないにしてもそれは紛れも無く私の“意思”であるのだ。少し学問的な言葉を借りれば、深層心理というやつに近いのかもしれない。
「……このことは先ほどの報告で言おうかどうか迷ったのですが、やはり私の直感に依るものでしたので……」
「まあ、そうね。状況が状況だから、そういった曖昧な情報は聞き流していたかもしれないわね。……でも」
お嬢様の目がスッと細められた。その顔に、わずかだが嬌笑が浮かぶ。
「“あなたの”世界なら、そんな情報でも有用かもしれないものね?」
お嬢様のその笑みから、私は、お嬢様はもしかしたら私以上のことを知っているのではないかと思った。しかしながら、この時点ではそれも単なる邪推に過ぎない。
「ええ、私もそれを段々と感じてくるようになりました。この世界では、全ての事象の裏に明確な“意思”がある」
「ふふ、そうね。じゃあ、咲夜、そろそろ本題に入らない? あなたは、つまり何がいいたいの?」
「簡単な話です。ならば、“意思”を持てばいいのですよ。この世界を終わらせるための“意思”を」
「終わらせるための……“意思”ねぇ」
それは、明らかに嘲笑の笑みであった。
「正直な感想を言わせてもらうとね、一体いつの話をしているのか、という感じだわ。だってそうでしょう? この世界の終わりなんて……ここに着いた瞬間から願っていたんじゃないの?」
お嬢様の言葉に間違いは無い。私達は何も好きこのんでこの世界に連れてこられたわけでは無いのだ。だからこそ、一刻でも早くここを抜け出したいと思っているのは当然である。にもかかわらず、それを為し得ないということは……
「申し訳ございません」
私は立ち上がると、お嬢様に向かって深く頭を下げた。その様子を、お嬢様は狐に撮まれたような表情で見上げていた。
「私の“意思”が……至らなかったからです」
結局のところ、結論は、そこに落着する。
この世界はいわば意思の増幅機みたいなものだ。どんなにささいな願いでも、それを増幅して具現化してくれる。たとえそれが心の奥底にあるような抽象的なものであったとしても、だ。
そしてさらに、そのことはもう一つの事実も意味している。
「……どうしても、“ノイズ”が混入してしまうのです」
増幅機は全ての意思を漏れることなく増幅する。たとえ、それが直接的な利益とは一致しなくても。
「この世界に対して、私は少なからず好意的な感情を抱いています」
私ははっきりとその意思を伝えた。……もっとも、隠す必要も無かったのかもしれないが。
「それが“ノイズ”。この世界を終わらせようとする意思に対する……反証です」
この世界は従順であり、そして同時に純粋なのである。意思……悪く言ってしまえば欲望に忠実なのであるが、前提条件として、それらには余計な感情が含まれていてはいけない。純然とした意思でなければいけないのだ。
だから、もしこの世界の終わりを願うのならば、それに“ノイズ”が含まれていることは許されない。心の深層より発する、混じり気の無い願いでなければ聞き届けられることはないのだ。
「……」
お嬢様は声を失ったかのように口を噤んでいた。それは、私の言葉に憤りを覚えているのかとも思った。言ってしまえば、私は背信者みたいなものなのだから。
「……それじゃあ」
お嬢様は、重々しく言葉を漏らした。
「……どうしようも、無いわね」
そうして、自嘲するような笑みを浮かべた。それは、私自身が責められるよりも辛かった。
「申し訳ございません、お嬢様。でも……」
話はここで終わらない。私は、単に意味の無い行き詰まりを提示したわけではないのだ。
「方法は……あります」
その言葉に、お嬢様は俯きかかっていた顔を持ち上げた。
「…………えっ?」
そして目の前の光景に対して、信じられないといったような表情を浮かべた。
「……咲夜、どういうこと?」
部屋に灯る薄明かりを反射して、その鏡面が怪しく輝いた。
歪なものを完全に鏖殺するための銀のナイフ。その刃先を、私は自分の心臓にあてがっていた。
「反証に対する反証ですよ」
私は道化のように笑って見せた。
「……っ! ふざけないで!」
椅子の倒れる音がしたかと思うと、お嬢様がナイフを持つ私の手を掴んでいた。
「つまらない冗談なら止して。そんなことに何の意味があるっていうのよ?」
お嬢様の手に力がこもる。お嬢様のそんな感情的な様子を見るのは初めてだった。
「落ち着いて下さい、お嬢様」
私は、少しばかり取り乱したお嬢様を制するように静かな声でそう言った。
「反証のコツを覚えていらっしゃいますか?」
「えっ?」
「相手に“もっともらしい”と思わせることですよ」
この世界を終わらせる。その意思を、私は完全に持つことができない。ならば、どうするか? ……答えは一つしか無かった。“何か”によって、その意思を強く示すのである。世界を自分から離すことができないのならば、自分が世界から離れればいい。それは、何よりも強い“決別”の意思となるであろうから。
「それに、私に死ぬつもりなんて毛頭ありませんよ」
この行為は、私の死と同義では無い。何故なら、私の本願は、『自身を滅する』という意思のずっと先にある、『この世界を打ち破る』という意思であるからだ。一見すると、前者を経由しなければ後者に至れないような気はするが、生憎なことにここは“普通の”世界とは違っている。単なる理詰めの与太話なんてものは、この世界ではまったく意味をなさないのだ。この世界は愚直なまでに純粋である。それが純然たるものであれば、どんなに矛盾していても問題なく受け入れてくれるだろう。
だからこそ、これは単なる“手段”に過ぎない。正攻法で交渉が上手くいかないから、少しだけ手法を変えてアプローチを行うだけの話なのだ。
「……お嬢様、盤上をご覧下さい」
急に何を言い出すのかと、お嬢様は非難するような目で私を睨みつけた。それでも、私の表情に何かを感じ取ったのか渋々と目線を下におろした。
「失礼を承知で述べさせていただくと、お嬢様は後十五手でチェックメイトになります」
「……だから、何よ」
「遅かれ早かれ“詰んで”しまうのです。今の私達は、ちょうどその盤上と同じ状況にあるのですよ。……確かに、今はこの世界に対して違和感を持っています。でも、時間が立てばその意識は払拭されてしまうかもしれません」
世界は私の意思に忠実なのだ。『無いとおかしい』と思ったものが、次の日にはもう出来ているのである。だからたとえこの世界に対して違和感を抱いたとしても、世界はそれを学習し均すようにして世界を構築し直すだろう。おそらく、この世界でもしばらくすれば人が現われてくるに違いない。地形もだんだんと私が知っているものに近づいていき、紅魔館にも嘗ての賑わいが戻ってくるだろう。完璧なまでに、私の知っている“世界”が再現されてしまうのだ。
「“詰み”とは、つまりこの世界に違和を感じなくなることです。この世界を、当たり前のように受け入れてしまうことなのです」
それは、ある意味では恐ろしいことである。耐えるとか耐えないとかそういう次元では無いのだ。それを当然と思い込むように、脳が働いてしまうのだ。
「私の“ノイズ”がいい証拠です。このまま黙って指を咥えていれば、近いうちに世界に飼い慣らされてしまう。そうなる前に……」
「……決着を付けようというわけ?」
私は力強く頷いた。
「……まいったわね」
それを見ると、お嬢様は呆れたように溜息をつき、私から手を離した。
「本当に……変な子」
「褒め言葉と受け取っておきますよ」
私はそう言うと、残った方の手も添えて、両手で包み込むようにナイフの柄を握りこんだ。
「勝算は?」
「勿論ありますよ。だって、私の命を賭けるのですから。これで駄目なら素直に諦めます。まあ、その時には死んでますけど」
「それはそれは」
苦笑いを浮かべながら、お嬢様はお手上げとばかりに両手を上げた。
「どちらにしろ、最後になるかもしれないから一応聞いておくわ。……この世界じゃ、駄目なの?」
「悪くはないですけど……早く、本物の“お嬢様”にも会いたいですし」
「あら、ばれてたんだ」
目の前の“お嬢様”には特に悪びれた様子も無かった。
「いや、中々とお上手でしたよ? ただ、お嬢様なら、私が自刃をしようとしても止めないかなと」
「随分とひどいお嬢様なのね」
「お嬢様は、まず“意味”をお考えになりますから」
私が不敵に笑うと、その“お嬢様”はひどく不機嫌そうな顔をした。
「仕方ないじゃない。私にとっては死活問題みたいなもんなんだから」
その様子が、少し微笑ましかった。
「では、おさらばです。お疲れ様でした」
そうして、私は抱え込むようにして、ナイフの刀身を心臓に押し込んだ。
「バイバイ、不能者さん」
徐々に暗転する景色の中で、“お嬢様”はこちらに向かって小さく手を振っていた。
思わず、口の端が、緩む。
――そうして、私は世界の渦の中に飲み込まれていった。
まるで引き裂かれるかのように、全身を痛みが駆け巡った。
気を抜けば、そのまま意識が飛んでしまいそうだった。
私は、もはやあるかどうかわからない奥歯を強く噛み締めながら、全ての労力を私の“意識”にだけ集中させた。
身を裂けば痛みが走る。臓を穿てば血が溢れる。果てに達せば命は止まる。
そんなものは単なる既成概念に過ぎない。
“死”に及ぶ理由としては、あまりにも脆弱だ。
負のイメージを壊すのだ。
どんなに瑣末であれ、それは必ず“ノイズ”となり得る。
だから、それらを全て払拭するのだ。
私が見るのは、“死”のずっとずっと先だ。
それは“線”の移動ではなく“点”の移動なのだ。
“死”を飛び越えるのだ。その先に手を伸ばすのだ。
漠然としたイメージが徐々に形を持ってくる。
全ての意識を、ただ、それだけに向ける。
強く、強く、強く、強く、強く、強く、強く、強く……!
この世界は、私の意思を“完全”に再現してくれる。
それが、どんなに些細であっても、それが、どんなに抽象的であっても。
必要なのは、目的に対する純然たる意思。ともすれば、欲望とも呼べるような強い感情。
――だから、この結末は必然なのである。
――パーフェクトワールドは、既に私の手中にあるのだ。
「あら、目が覚めたみたいね」
一番初めに耳に入ってきたのは、よく聞き慣れた声だった。
「おはよう、咲夜」
読みかけの分厚い本を閉じると、パチュリー様はいつもと変わらぬ眠たげな目で、射抜くように私を見つめた。
「二日と十一時間三十二分四十秒の寝坊よ。図書館にも大分埃が積もってるわ」
「それは……申し訳ございません」
皮肉だか冗談だかわからないようなその言葉に苦笑しながら、私はベッドに横たわっていた体を起こし上げた。……眠り過ぎていたのか、体の節々が痛い。あまりよろしい気分とは言えないようだ。
「一応、お疲れ様」
そう言ってパチュリー様が差し出した紅茶は既に冷めきっていた。おそらく、誰かが持ってきたものを飲まずにほっぽり出していたのであろう。仕方が無いので、私はその微妙な心遣いにも甘えることにした。
「ええっと、間違っていたら怒って下さい」
「何?」
「犯人はパチュリー様ですか?」
「……違うわ」
「……怒らないのですね」
「怒ってるわよ。それに、犯人は夢魔よ」
「夢魔、ですか?」
あまり聞き慣れない単語だった。
「相手の脳に寄生する悪魔よ。対象者に都合のいい夢を見せながら、じわじわとその精力を奪っていくの。夢というのはそれ自体出鱈目なものよ。どんなに無茶苦茶な論理でも無理矢理押し通す事が出来るの。だからこそ、当人の欲望を、忠実にそして完璧に再現することができるのね」
完璧、という言葉に少し苦笑いをした。
「幸せなら、それもいいと思いますがね」
「私もそうは思うんだけどね。でも、結局迷惑するのは、その当人以外だから」
「それを言われると痛いですね」
「そう思うなら、早く起きて図書館を掃除して欲しいわ。喘息にも悪いし」
「あの埃っぽさは、掃除でどうにかなるレベルでは無いと思いますが」
「プラシーボよ。時には思い込みも大事よ」
「思い込み……ですか」
今になってやっと実感が沸いてくる。私は、何とかあの死線を潜り抜けることが出来たのだ。正直な話、自刃をしてからの記憶はほとんど無いが、それ以前の――あの奇妙な紅魔館での出来事は、具に覚えている。
あの紅魔館では、お嬢様――いや、あの夢魔は、しきりに私に何かを促していたように思えた。実際、世界の変化を私自身に確認させにいったし、あの世界の持つ“意味”を、私に理解させるような言葉も与えてくれた。裏を返せば、それはまるで、夢魔自身、想定外の出来事にうろたえているようでもあった。おそらく、あの世界は、彼女でも“視た”ことが無かったのであろう。彼女の内心がどのようなものであったかを想像すると、自然と笑みが零れてきた。
「それにしても……」
ふと、パチュリー様が呟くように口を開いた。
「よく生きていたわね」
抑揚は全く変わっていなかった。とても平然とした声だった。
「普通の人間なら、大体半日ぐらいで悶死するのにね」
「はあ、半日ですか」
「そうよ。人が一生に享受できる幸せの量は決まっているの。それを夢の中でまとめて精算するから、一気に使い果たしてそのまま死んじゃうのね」
「さっきは“じわじわ”と精力を奪う、とか言っていませんでしたか?」
「それは、夢魔“が”でしょう? 私が言いたいのは、人間“が”勝手に悦に浸ってそのまま速攻で昇天する、ということよ」
「……夢魔も大変ですね」
「そういえば確か、『嫌でも舌が肥えてくる』とか言ってたわね」
パチュリー様は、ニヤリと嫌らしく笑った。
「……夢、か」
それならば、私が見た夢はどうだったのであろうか?
あの世界は、確かに私にとっては理想的なものであったかもしれない。しかしながら、それを“派手”と形容としていいかどうかは疑問が残る。あの内容で悶死していては、堪ったものじゃない。
「……省エネなのね、あなたは」
そんな私の心の中を読んだのか、パチュリー様は呆れるようにそう言った。
「質素というべきかしらね。それこそ、あなたのむ」
「清貧、という言葉が古くからありますわ。慎み深い方が美徳とされているかもしれませんよ?」
「……まあ、いいわ」
パチュリー様は話を無理矢理そこで打ち切ると、読みかけの本を開いて再びそれを読み始めた。話すことは全部話したということだろう。私もそれ以上は何も口にしなかった。
私はパチュリー様から少しだけ視線を逸らすと、窓の先の風景を見た。外には、大きな湖は勿論、その先には対岸も見えた。
湖の水面には光が反射しており、そこで戯れる氷精達を綺麗に彩っていた。その幻想的な風景に思わず息を漏らすと同時に、やっと帰ってきたのだという実感もわいてきた。
「捻じ込みましたー!!」
そんな雰囲気をブチ壊すようにして、叫声ともに部屋の扉が勢いよく開け放たれた。そうして、姿を現したのはパチュリー様お付きの小悪魔だった。ここまで走ってきたのか、中に入ってくるときには肩で息をしていた。
「見てください、パチュリー様! ちゃんとこの通り……あれ?」
そこで、はたと私と目が合う。
「…………あぁ!!」
次の瞬間には、小悪魔は声を上げて私のベッドに飛びついてきていた。
「目が覚めたんですね、メイド長!」
「ええ、おかげ様でね。御免なさい、随分と迷惑をかけたみたいで」
そのセリフには、ほんの少しだけパチュリー様に対する皮肉が交じっていた。
「迷惑なんてそんなことありませんよ。……どちらかというと、それはこっちのセリフですし」
「……へえ?」
とても気になる発言だったが、私は敢えて平然を装っていた。このまま泳がしておいた方がいろいろとおもしろそうだったからだ。ふとパチュリー様の方に目を向けると、パチュリー様が本の隙間からちらちらとこちらを窺う様子が見えた。『気になるけど、面倒くさい』、おそらくそんな心情だろう。
「そういえば、さっき何か叫んでいなかったかしら? 捻じ込んだー、とか」
「あっ、そうです、思い出しました! パチュリー様、見てください!」
言いながら、彼女は手に持っていた物を高く掲げてみせた。それはちょうどジャムを入れるような大きさの瓶で、胴に貼られたラベルには物々しい字で『怨』と印字してあった。
「……」
自分が呼ばれたにもかかわらず、肝心のパチュリー様はこちらに振り向きもしなかった。本の隙間から様子を窺うのもやめているようだった。……もう、あきらめたのだろうか。
「あー、シカトですか……」
それもいつものことなのか、小悪魔は軽く溜息を吐くと、静々と掲げていた瓶を下ろした。
「もしかして、その中に夢魔がいるの?」
「あっ、はい。先ほど閉じ込めたばかりです」
言われて、瓶の中を覗き込んでみた。中にはこれといって何かがいるようには見えなかったが、目をこらせば紫色の薄靄が見えないでもなかった。おそらくこれが夢魔なのであろう。
「ふーん。まあ、何はともあれ、お疲れ様。随分と大変だったみたいね?」
「お心遣いありがとうございます。思い出しただけでもヘコんできそうですよ」
「へえ。もしかして、みんなあなたに任せっきりだったとか?」
「そう! そうなんですよ、メイド長! ちょっと聞いて下さいよ!」
おそらくその言葉がスイッチだったのか、小悪魔は急に調子を変えて話し始めてくれた。実に扱いやすい。
「そもそもはですね、パチュリー様の管理が杜撰だったからいけないんですよ」
「パチュリー様の?」
「そうです。研究が終わった後、『また使うから』って瓶の蓋をしっかりと閉めなくて……それで忘れたままほったらかしておいたら、夜中の内に夢魔が蓋を持ち上げて逃げ出しちゃったんです」
まるでカブトムシか何かみたいだった。この薄靄にそこまでのバイタリティがあるとはとても思えない。
「……メイド長は本当に運がいいんです」
そこで、小悪魔の声のトーンが少し変わった。その端々から事の重大さが窺える。
「基本的に、夢魔に寄生された人間は死ぬまでそのままなんです。だから、メイド長の場合もみんなあきらめていて……」
「……そうだったの」
あまり耳に入れたくない事実だった。自分がそんな瀬戸際にいたという事を聞いて、嬉しいはずが無い。
「お嬢様にはどのように伝えていたの?」
「いえ、お嬢様には伏せていました。誤魔化し切れていたかはわかりませんが……」
「……ふぅん、それでどうして私は助かったの?」
「ええ、メイド長の場合は、何の偶然か一瞬だけ寄生状態が解かれたんです。その隙をついて、パチュリー様が施術を行って摘出したんです」
「パチュリー様が?」
少しだけ意外だった。確かにこのような施術を出来るのはパチュリー様だけなのだが、小悪魔の話を聞く限りじゃあまり表立って動いていないみたいだったが。
「おいしいところだけを持っていきました。渉外関係とかは私に任せっきりだったのに……」
段々と思い出してきたのか、小悪魔はぶつぶつと不満をこぼし始めた。
「あなたも大変だったのね」
「……いえ。あっ、でも、一応付き切りだったのは……………って、あれ? メイド長?」
「ええ、何かしら?」
「お話、聞いてないんですか?」
私は言葉を返さず、ただニコニコと微笑んでいた。
「あー、あー…………そういうことですか」
そう言いながら、小悪魔はパチュリー様の方を見た。その時には、既にパチュリー様は本を閉じ、こちらに向かって歩いてきていた。
「あなたには、エアーリーディングの能力が決定的に欠如しているみたいね」
それを聞いて小悪魔はがっくりと肩を落とした。本来は責任者がするはずの事後説明の役も押し付けられてしまったのだ。不憫といえば不憫である。
「……犯人はパチュリー様ですか?」
「不幸な事故だったのよ」
パチュリー様は、すっかり落ち込んでしまった小悪魔の後襟をむんずと掴むと、最後にこちらを一度だけ振り返った。
「レミィを呼んでくるわ。一番心配してたみたいだから」
「ええ、ありがとうございます」
謝辞を述べながら、私はふと一つの事を思い出した。お嬢様と聞いて、何と無く思い出したのかもしれない。
「そういえばパチュリー様」
「なに?」
「その瓶の中の夢魔とは意思疎通ができますか?」
「……どういうこと?」
「時々でいいからチェスを打ってあげて下さい。たぶん、喜ぶと思います
パチュリー様は、顔にいくつもの疑問符を浮かべながら部屋を後にしていった。
私は静かに息を吐き出しながら、再びベッドに沈み込んだ。その感触から、布団やシーツが毎日変えられていたことにも気付く。私も、随分と果報者だ。
あれだけ質素な“理想郷”でも、それなりの負担はあったのだろう。二日も眠っていたにもかかわらず、自然と微睡がやってきた。でも、しばらくすればお嬢様がこの部屋を訪れるのだ。その時に私が寝たままでは本当に私が目を覚ましたかどうかわからなくなってしまうかもしれない。だから、私は少しでもその眠気に対抗しようと、何かを考えることにした。
さっきまで私が見ていた夢――私が作り出したあの世界は、きっと私の深層にある意識を具現化したものだったのだろう。紅魔館があり、お嬢様がおり、そして私が居る。それだけで、私の世界は事足りてしまうらしかった。
おそらく、あの夢魔は、そんな世界に飽き飽きしていたのだ。必要なものは最小限で、人もいなければ娯楽も無い。人間の夢を啜って“舌の肥えた”夢魔にとっては、それはそれは退屈な世界であったのだろう。
……そう思うと、何だか自分がとても寂しい人間に思えてきた。そういえば、以前閻魔様にも似たような事を言われた気がする。これは少し、問題なのかもしれない。
「……華でも始めようかしら」
前途は、色々と多難であった。
end
お見事です。
正直もっと荒唐無稽なオチだと思っていただけに、このスッキリとした終わり方には肩透かしを感じてしまいましたが、ある意味それこそが咲夜さんに相応しい気もします。
とてもとても綺麗な世界、ありがとうございましたw
呼んでる最中何度も
「理想の主従や~理想の従者や~」と呟いてましたw
それと、お帰りなさい!
次の作品も楽しみにしてます
つまり、とても面白かったです。
はっ、そういえば本物のお嬢様は一度も出てきてない!
あと、素っ気無いように見えて実は……なパチェがグッドでした。
正直、もっと事態の規模が大きいものと思ってましたが、これくらいが幻想郷の物語として最適なのかも知れませんね。