東方盛夏譚~香霖堂~・後編2(終)
「あら、随分と賑やかね? いつも閑散としてるこの店にしては随分と珍しいわ。」
その長身の影は霖之助たちを見ると、開口一番、辛辣にそう言ってきた。
その意外な人物の突然の来訪に、霊夢も霖之助も驚きの声を上げた。
「おやおや、今日は本当に千客万来だな。」
「ご無沙汰ですね、ご主人。それから霊夢も。」
「そういうアンタこそ、こんな時間に出歩くなんて珍しいじゃない? 咲夜。」
その長身の影の正体は、吸血鬼レミリア・スカーレットが統べる館・紅魔館に仕える完璧で瀟洒な従者、十六夜 咲夜であった。
彼女もまた頻度こそ少ないものの、紅魔館の調度品や、アンティークなどを買い求めにやって来る、香霖堂の常連の一人である。
「折角来てもらって悪いんだが、見てのとおり今日は店じまいでね。すまないが明日出直してくれないかい?」
未だ来客に気づかずに、庭でぎゃあぎゃあと枝豆争奪の追いかけっこを続ける魔理沙たちをちらりと一瞥してから、霖之助は申し訳なさそうに咲夜に頭を下げる。
「残念ながら、今日は生憎と買い物でここに来たわけじゃありませんわ。」
だが、彼女はかぶりを振って彼の言葉を否定した。
「へぇ? 急ぎの買い物以外でアンタがわざわざ外出するってことは、レミリア関係のこと? アイツに何かあったわけ?」
霖之助の言葉を引き継いで、霊夢が尋ねる。
……レミリアのことを言及した時に、どこか「そうなってほしい」という雰囲気を全く隠さずに。
「いえ、そうじゃないわよ。期待に添えなくて残念ね。」
すると咲夜は霖之助の時とはがらりと口調を変えて、霊夢の言葉を皮肉で返した。
普段従者という立場であるためか、たまにしか会わない霖之助には少し他人行儀になる。
そしてどこか疲れた様子で軽くため息をつき、頭を押さえる。
「実はね……昼間に中国に買い物を頼んだんだけど、いつまでたっても帰って来ないのよ。」
咲夜の言う中国とは、紅魔館の門番長を勤める、紅 美鈴のことだ。
いつも着ている服装のせいで、いつもあだ名で呼ばれて本名で呼んでもらえなかったり、咲夜やレミリアの鬱憤のはけ口にさせられたり、紅魔館の書物を掻っ攫いに来る魔理沙に魔砲で吹っ飛ばされたりと、色々と不憫な人物である。
「それで今日の仕事は粗方片付いたし、私が探しに来たんだけど……」
そう言ってから、咲夜はさらに深いため息をついた。
するとそんな彼女の後ろから、ひょっこりと小さな少女が姿を現した。
咲夜の主人にして紅魔館の主、レミリア・スカーレットであった。
これまた咲夜以上に珍しい来客だ。
「こんばんは霊夢、いい夜ね。」
「……お嬢様が面白がって付いてきちゃって、無理矢理ここに引っ張ってこられたのよ。」
「あはははは……そりゃ災難ね。」
「あら、私はただこっちの方に散歩がしたいと思っただけよ。主人の意を第一に考えるのが従者の役目というものじゃない?」
「それはそうなのですが……」
レミリアはそう言うものの、霊夢を目当てにここに来たことは明らかだ。
昨年の紅霧異変で霊夢に合って以来、レミリアは彼女に夢中で、何かとちょっかいをかけている。
おそらく彼女が持つ運命を操る能力で、今日霊夢がここに来ていることを察知したのだろう。
そして従者である咲夜は、威厳ある紅魔館の主が、天敵とも言えるこの博麗の巫女に現を抜かすことを苦々しく思っているのだ。
「それに咲夜、貴方中国を探しに行くと言っていたわよね?」
「ええ、まぁ……そうですが?」
「さっきここへ来る途中に爆撃跡みたいになった場所があったでしょう?あの娘ならあの辺に埋まっているわ。」
「え?……本当なのですか? ご主人。」
咲夜は霖之助に向き直って尋ねる。
霖之助は、昼間の怒り狂った魔理沙の弾幕を思い出すと、その恐ろしさに改めて冷や汗を流した。
彼としては、あの時はチルノをかばって逃げ回るのに必死で、周りのことなど気にしている余裕など無かったのだが……
それでも何とかして記憶を掘り返してみる。
しばらくしてようやく何かを思い出したのか、ぽん、と手を打って顔を上げた。
「あー……言われてみれば、弾幕に巻き込まれる人影を一瞬見たような気がするな……」
「え? 何かあった訳? 霖之助さん。」
「いや、まぁ……チルノが遊びに来ている時に、魔理沙とちょっとね……」
その霖之助の言葉を聞いて、霊夢は一瞬魔理沙たちに目を向けた。
まだ彼女たちの枝豆争奪戦は終わっていないようだ。
「さあ、捕まえました!! 今です魔理沙さん!!」
「おう!! 観念しやがれチルノ!!」
「やだやだやだ――――!!! はーなーせ――!!!」
「いててててて!! 無駄な抵抗は止めやがれ!!」
だが、どうやら決着は時間の問題のようである。
そして、そんな彼女たちの様子を見てため息をついた。
「相変わらず苦労してるわねー、霖之助さん。」
「ははは……いい加減慣れてきたよ。」
「……? まぁ、ともかくこの近くにいたことは確かなんですねご主人?」
「ああ、おそらくは間違いない。」
「……つくづく運が無いわね、あの娘も……」
どこか哀れそうに、咲夜は独りごちた。
そんな咲夜の肩をレミリアがぽん、と叩いた。
「これでわかったでしょう? この近くにいるのが分かったんだから、咲夜はあの娘を探してらっしゃいな。」
「……そう簡単には仰いますが、あの辺り、地盤が丸ごとひっくり返されたようになっていたような気がするのですが……?」
「そこはそれ、瀟洒に根性でなんとかしなさい。」
「……せめてお嬢様の能力で、大体の場所ぐらいは教えていただきたいのですが……」
「あら咲夜? 貴方、自分の部下の不始末を主人に尻拭いさせるつもり?」
「……分かりました、自力で何とかします。」
「それでいいのよ。」
「あ、ついでに何かつまみになるような物も持ってきて頂戴。」
「かしこまりました。」
とうとう観念したのか、咲夜は問答を打ち切ると、ポケットから懐中時計を取り出した。
「それでは行って参ります。」
そう言って彼女が懐中時計を操作した瞬間、一瞬にしてその姿は掻き消えた。
おそらくは彼女の能力で時間を止め、その間に移動したのだろう。
(これで当分の間時間が稼げるわね。)
咲夜がいなくなると、レミリアはしてやったりといった表情を浮かべ、上機嫌な様子で霊夢の傍らの霖之助に声をかけた。
「お初にお目にかかるわね、ご主人。早速なんだけれど、ちょっと霊夢を借りてもいいかしら?」
「え……まあ、構わないが……」
「ちょ……ちょっとレミリア、折角の酒盛りを邪魔しないでよ!!」
「まぁまぁ霊夢。ここの主人の了承も得たことなんだし、向こうで『二人で』飲みましょう?ね?」
『二人で』というフレーズをことさら強調し、有無を言わせずに霖之助にそう言うと、レミリアはこれまた有無を言わせず、霊夢を手近な部屋に連れ込もうとする。
霊夢も抵抗しようとするが、力は圧倒的に吸血鬼であるレミリアのほうが強いため、ずるずると引き摺られていく。
弾幕勝負では最強を誇る霊夢も、(食べ物が関わらない限り)身体能力は普通の人間と変わらないため成す術が無い。
「こ……こら!! 離しなさいよ!! 折角の秘蔵の大吟醸がぬるくなっちゃうじゃない!!」
「大丈夫よ霊夢。ちゃんと手土産はもって来てあるわ。」
そういうとレミリアは、いつの間にどこから取り出したのか、古めかしいワインボトルを手にしていた。
「年代ものの、紅魔館の中に今ある物の中でも極上の一品よ。」
「う……」
「私と一晩付き合うって約束してくれれば、これを開けてあげてもいいわ……」
誘うように、妖しく呟くレミリア。
基本的に酒に目が無い霊夢にとっては、霖之助の秘蔵の大吟醸に勝るとも劣らない代物だ。
霖之助の傍にある徳利と、レミリアが持つワインボトルを見比べてはうんうんと唸っている。
(あと一押しね……)
レミリアはそう心の中で呟くと、霊夢を落とすためさらなら駒を出そうとする。
がしかし、その前にレミリアの前にもう一つの障害が立ち塞がった。
「ようレミリア。来てたんだったら一言ぐらい声かけてくれたっていいじゃないか。」
「これはこれはレミリアさん、お久しぶりですー。」
(ちっ!! ……いい所で邪魔を……っ!!)
憎々しげに心の中で舌打ちする。
言うまでも無く、魔理沙と文の二人だ。
ようやくチルノから枝豆を取り返したのか、二人してそれを口にしながら声をかけてくる。
流石にこの二人相手では、軽くあしらうという訳にはいかない。
どちらも話術など関係なく、ごり押しで自分の主張を貫いてくるタイプな上に、威圧や弾幕勝負で黙らせようにも、彼女たちの実力は、認めたくは無いがレミリアとほとんど同じか、下手をすると上。
まあ、勝負になったとしても勝算はないことは無いが、長引く上にこの辺り一帯の地形が確実に変わる。
しかも自分の姿を写真で撮られ、それをばら撒かれる恐れもある。
一対一ならともかく、二人を同時に相手にしたとしたらそれを阻止できる自信は、流石のレミリアにも無かった。
普段ならここで引き下がるレミリアであったが、今日の彼女は一味違う。
運命を操る能力で二人がここに来ていることも、既に把握済みなのである。
(故に、対抗策を練ることは至極容易っ!!)
心の中で勝ち誇りながらも、冷静に周囲を窺う。
「うーん……のどごしは大吟醸のほうがいいんだけど……ワインの風味も捨て難いし……」
霊夢は未だに大吟醸とワインの二つの間で葛藤を繰り広げている。
(しばらくは時間が稼げるわね……)
そう判断するやいなや、レミリアは心とは裏腹に、すぐに笑顔を浮かべて魔理沙たちに挨拶を返した。
「ええ、久しぶりね黒白。そっちの烏も御機嫌よう。」
「そういや、咲夜のやつはどうしたんだ?」
「あの娘には宴会用の料理を運んできてもらってるわ。そろそろこっちに来るはずよ。」
無論、これも彼女たちを引き離す口実である。
「おおー、随分と気前がよろしいですねー。何かおめでたいことでもあったんですか?」
「これからあるのよ……これからね……」
レミリアはニヤリと笑うと、二人を追い払う秘策・その一を実行に移した。
二人の背後に向かって指を指す。
「それはそうと、氷精があっちでやけ酒飲んでるけど、あれって貴方達の分なんじゃないの?」
そこには半べそを掻きながら徳利ごと酒を飲むチルノの姿があった。
「ひっく……いいもんいいもん……枝豆くれないんらったら、こ……これじぇんぶ飲んでやるー!!」
「「あ゛――――――――――――!!!!!!!」」
そんなチルノを見て、絶叫を上げる二人。
すっかり出来上がってしまっているところを見ると、かなりの量を飲まれてしまったようだ。
「な……何てことするんですかチルノさ――ん!! そんないいお酒をがぶがぶと飲むなんて!!」
「うるしゃ――い!! 枝豆くれないんらったら、これじぇんぶあたいのら――!!」
文がチルノに向かって猛然とダッシュし、押さえつけてこれ以上の酒の消費を抑えようと試みる。
(これでまず一人目……)
再びぎゃあぎゃあと格闘を始めるチルノと文を見ながら、レミリアはほくそ笑んだ。
本来誰かの行動の運命操作というのは、かなり労力を要する上に、その対象の霊力などが強いと失敗したり、それ以前に運命を視ることが出来なかったりする。
だが、少し興味を向けさせて後押しすることぐらいは簡単に出来る。
そこから誘惑に負けるか、踏みとどまるかは本人次第。
……本来子供っぽい妖精の中でも飛び抜けて単純なチルノが、それに抗える訳が無かった。
そして、それを止めるには最低でも一人は人員を割かなければならず、かと言って弾幕勝負でケリをつけるわけにもいかないため、押さえつけるのには時間がかかる。
その間に当のレミリアは、霊夢を説得もしくはもう一人の排除に集中できるという訳だ。
(完璧……我ながら完璧な作戦展開だわ!!)
……まぁ、その気になれば世界を意のままに動かせるほど強力な力を、一人の人間を口説くのに使うというのもどうかと思うのだが。
だが、そんなことをいちいち気に病むことがないほどに、レミリアの面の皮は厚かった。
……やはり年のこ(不夜城レッド
だがここで油断するわけにはいかない。
もう一つの障害こそ、大本命なのだ。
そう、最強の吸血鬼である自分に土をつけた人間の一人、霧雨 魔理沙である。
「なるほど……チルノを使って私たちを排除しようなんて、考えたなレミリア。」
どうやら先ほどの一連の流れを見て、ぴんと来たらしい。
そう言うと、魔理沙はレミリアと霊夢の間に割って入った。
「だが、この私の目が黒いうちはお前の好き勝手にはさせないぜ!!」
そして大げさな動きで大見得を切ってみせる。
「へぇ? やる気なのかしら?」
レミリアも臨戦態勢をとる。
だが、次に魔理沙が放った言葉を聞いてずっこけた。
「霊夢の柔肌は私のもんだ!!」
そう言ってから、ひっく、としゃっくりをする。
顔こそ赤くないものの、少し酔っているのかもしれない。
レミリアは彼女が下戸であることを、今になって思い出した。
だが、酔っていようと、先ほどの魔理沙の発言は看過できない。
「な……何ですって――……!!」
そこで激昂しそうになるが、
(落ち着きなさい、落ち着くのよレミリア……素数を数えるのよ……焦っては駄目!!)
何とか押さえ込み、対魔理沙用にとっておいた第二の秘策を発動させた。
「まぁ何にせよ、貴方の相手は私じゃないわ……」
そこで、先ほど自分たちが来た方に向かって大きく叫んだ。
「出番よ!!!」
「は――――い、お姉さま――!!」
すると待ちきれないとばかりに、かわいらしい少女が物陰から飛び出した。
それはレミリアの妹、フランドールだった。
「やっほ――魔理沙!! 遊びに来たよ――!!」
「げ……フラン!! 何でここに!?」
「お姉さまが遊びに行くって言うから付いてきたの――!!」
フランドールは興奮のあまり顔を上気させながら、魔理沙に詰め寄った。
驚きのあまり、魔理沙の酔いはすっかり覚めてしまったようだ。
「ねぇねぇ魔理沙!? 今日は何して遊ぶ!? 解剖ごっこ!? それともやっぱり弾幕ごっこがいいかしら!!」
「ちょ……ちょっと待て!! 今日私は疲れてるんだ!! 別のにしようぜ!?」
「むー……それじゃあチャンバラごっこね!! 禁忌『レーヴァ……」
「だ――――!! 止めろ!! 殺す気か!! しりとり!! しりとりなんかどうだ!?」
「え――――……それはもう飽きちゃったー。」
「そ……そうかー……あ!! それじゃあ……」
そのまま堂々巡りの問答を繰り返す魔理沙とフランドールを見て、レミリアは今度こそ心の中でガッツポーズをとった。
これこそが、第二の秘策。
フランドールは魔理沙と知り合って以来、彼女にとても懐いている。
……まぁその理由は、フランドールに言わせれば「いくら遊んでも壊れないから。」という物騒な理由ではあるのだが。
そして魔理沙も、どんな理由であれフランドールが自分に懐いてくることに悪い気はしていないため、日ごろ彼女に付き合っていた。
ただ、フランドールが魔理沙と「遊ぶ」場合、魔理沙はフランドールにかかりきりになる。
その遊びの全てが魔理沙にとって命がけであり、自分への被害を最小限に食い止めるための説得にも注意を払わなければならないからだ。
何せフランドールにかんしゃくを爆発させられたら、自分と周囲に途轍もない被害が及ぶのである。魔理沙も必死になろうというものだ。
そしてこの作戦は、ここ最近魔理沙が紅魔館に来なかったため、機嫌が悪かったフランドールのガス抜きにもなるので、レミリアとしてはまさしく一石二鳥と言えた。
ともかく、これで霊夢とレミリアを遮る障害は無くなったわけだ。
(ふっ……これで私の勝ちね!!)
改めて勝ち誇ると、レミリアは霊夢のほうに向き直った。
「高級感といったらワインだけど……今ここにあるつまみとじゃ合わないし……うーん……」
霊夢は未だにワインと大吟醸の狭間に揺れていた。頭を抱え込んでうずくまってしまっている。
私より酒のほうが大事なんかい、と少し殺意も覚えるが、これはこれで好都合。
その間に部屋に引っ張り込んでしまえばよいのだ。
そうすればもうこっちのもの。酒をたらふく飲ませて人事不肖に陥らせてから、あーんなことや、こーんなことを……ハァハァ……
ブパッ!!!
「あらいけない鼻血が……もったいないもったいない……」
妄想が過ぎたのか、凄まじい勢いで鼻血が噴出した。
そしてそれがレミリアの衣装に、花のような文様を作り出していく。
その姿はまさしく劣情のスカーレットデビル。
レミリアは鼻から流れ出る血を全く気にも留めることなく、そのまま霊夢を引き摺って部屋と廊下を隔てる障子の前に立った。
そして、厳かにそれに手を掛ける。
「さぁ行きましょう霊夢……二人だけの秘密の花園へ……」
霊夢の耳元で甘く囁くと、レミリアは勢い良く障子を開けた。
「お待ちしておりましたお嬢様。」
「……ぅどわぁ!!!!!」
そこには、先ほど追い払ったはずの咲夜が立っていた。
あまりの予想外の事態に思わず悲鳴を上げるレミリア。
「……お嬢様、そのような下品な悲鳴を上げるのはお止め下さい。」
「そ……そそそ……そうじゃなくて咲夜!! あ……貴方いつの間にここへ!?」
「つい先ほどです。中国のサルベージに思いのほか時間がかかってしまった上に、衣服も大分汚れてしまいましたので、紅魔館に戻って身だしなみを整えてから参りました。そのせいでこれほど遅れてしまい、申し訳ございません。」
「いや……別に怒ってはいないんだけど……」
むしろ当分の間戻ってきてほしくはなかった。
レミリアは、声を絞り出すことで精一杯である。
「ちなみに、おつまみもいくつか料理係に見繕ってもらいました。」
「そ……そう……ありがとう咲夜。」
「お褒めに預かり光栄です。」
(迂闊だったわ……っ!!)
レミリアは自分の浅はかさを呪った。
咲夜はその気になれば、その能力で天道を止めることすら出来るのだ。
……ただし消費する魔力も半端ではないので、彼女はそれを滅多に使うことはない。
だが、「従者は常に主人の傍らに侍るものだ。」と常日頃言っている咲夜にとって、主人の命令とはいえ今回のようにレミリアの側から離れることは、彼女にとって非常事態とも言っていいことであった。
無論、非常事態に力をセーブする必要はない。
咲夜は文字通り全力で時間を止め、与えられた仕事を完遂してここへ来たのだろう。
レミリアは他の障害を気にするあまり、いつも傍らにいる、完璧で瀟洒な鉄壁のメイドの存在を忘れてしまっていたのである。
「……それはそうとお嬢様、霊夢を部屋に連れ込んでいったい何をなさろうと?」
そう言って、咲夜は目をすうっと目を細めた。
その迫力に、レミリアは思わずたじろいでしまう。
普段は主人としてイニシアチブを持つレミリアだが、こうなってしまっては最早蛇に睨まれた蛙である。
「い……いや、そのね……人も結構揃ったし、折角だから宴会をしようということになったの。」
「それは良いですね……で?」
「そ……それで皆で準備をしていたんだけど、霊夢がちょっと日頃の疲れで体調を崩しちゃって……」
「それで介抱してあげよう……と?」
「そ……そう!! そうなのよ!!」
「……そしてその隙に霊夢を押し倒してにゃんにゃんしよう……と?」
「そ……そう!! そうなのよ!!………………はっ!!」
動揺していたせいか、思いっきり誘導尋問に引っかかって自爆するレミリア。
咲夜の目が見る見るうちにきりきりと吊り上っていく。
「お嬢様、ですからいつも言っているように、霊夢に現を抜かすのをいい加減お止め下さいと……」
「あ――――!!……そうだわ!! そういえばここのご主人が『台所が狭いから大したものが出来ない。』って言っていたから、咲夜! 急いで料理をもってきて頂戴!! なるべく手間暇かけてね!!」
誤魔化すように叫んでから、必死に言い訳をするレミリア。
冷や汗を滝のように流しながらなので、説得力ないことこの上ない。
しかし彼女の必死の努力も、次の瞬間見事に打ち砕かれることとなった。
「ご安心ください。お嬢様ならそう仰ると思いまして、こちらにご用意させていただきました。」
咲夜が示した先には、五段重ねの重箱が用意されていた。
本当にどこまでも完璧な従者だ。ありがたくて涙が出てくる。
だが、このぐらいの量であればこの場にいる者たちならばすぐに食べることが可能だ。
ならばおかわりを持ってきてもらっているうちに……という手も……
「ちなみにこれでは足りないかと思いますので、今中国と小悪魔に頼んでおかわりを運ばせております。」
「ウボァ――――!!!!」
レミリアは今度こそ喀血した。
咲夜はどこまでも完璧な従者であった。
すると、ようやく頭を抱え続けていた霊夢がかっ!! と目を開けた。
「決まった!! 両方飲んじゃえば無問題よ!! 霖之助さん!! 魔理沙!! カラス!! 皆こっちで飲みましょ!!」
そう縁側に向かって叫ぶと、霊夢はレミリアからワインボトルを掻っ攫うと勝手に詮を開け始めた。
「よーし!! そうと決まれば早速飲むわよ――!!……何ボーっとしてるのよレミリア? アンタも付き合いなさい。」
「ええ……ええ……一晩中付き合ってあげるわよチクショー!!!!」
レミリアは泣きながらそう叫ぶと、咲夜から受け取ったワイングラスを霊夢に向かって突きつけた。
「あのー、どうでもいいがそこは僕の部屋なんだが……」
霊夢に呼ばれた霖之助が、遠慮がちに主を無視する客人に突っ込みを入れた。
「まぁいいじゃないか香霖。宴会やるのに縁側じゃ限度があるだろ?」
ようやく少しおとなしくなり、腰に抱きつくフランドールを引き摺りながら魔理沙が続いて入ってくる。
同じく文が、未だに抵抗してもがくチルノを押さえつけて引き摺りながらそれに続いた。
「そうですねー。いい加減暗くなってきたので目が見えなくなってきましたよ。」
「つーか鳥目だったのねアンタ……」
まぁ烏天狗だから似たようなものだろう。
そんな客人たちを見回して、霖之助は最早数えるのも馬鹿らしいほどの、今日何度目かのため息をついた。
「まぁ……いいか。じゃあ早速始めてしまおう。」
そう言って全員にコップを回す。
各々が好みの酒を注ぐと、それを高々と掲げて互いに打ち合わせた。
「「「「「「「「乾杯!!!!」」」」」」」」
………………
しばらくして、香霖堂はささやかな宴会場と化していた。
「みなさーん!! おかわりですよ――!!」
「おお、ようやく来ましたね。」
「遅いわよ門番―!! とっとと酒持ってきなさい!!」
「ちょ、ちょっと待ってて下さーい。」
咲夜の命により美鈴と小悪魔が紅魔館から呼ばれ、様々な料理と食材、そして酒樽を持ち出し、給仕係として奔走していた。
「あ……あのー……美鈴さん……何で私たちがこんなことしてるんでしょう……」
「仕方ないわよ……お嬢様と妹様、それに咲夜さんまでいるんだから……」
「パチュリー様から本の整理頼まれてるのに~……」
「まだいいわよ……私なんかさっきまで生き埋めにされてたのよ……」
「……大変ですね~……」
「……大変よねぇ……」
「「……はぁ~あ……」」
そんな風に台所で料理を作っている小悪魔と美鈴がぼやいている間にも、宴会は続いていた。次々とつまみや料理の皿が空けられ、空の一升瓶とワインボトル、酒樽がどんどんと増えていく。
もう既に何人かはすっかり出来上がり、酒に強い者もほろ酔い気分になっていた。
「だからねフラン――――、あたいは馬鹿なんかじゃないのら――――!!」
「あははははははは!! そうだよねー、ちるのは馬鹿なんかじゃないよね――、まるきゅうだもんね――――!!」
「そうら、そうら――!! バカなんかじゃないろ――――!!」
「きゃははははは!!!!」
これも酒の魔力というものだろうか?
今日知り合ったばかりのチルノとフランドールであるが、精神年齢がほとんど同じなせいか酔っ払ってからというもの、いやに気が合っていた。
しかも、フランドールがいつもの危険な遊びをしようとする様子は全く見られない。
それどころかチルノにちょっかいを出されて叩かれようが、何をされようともただただ笑っている。
酔いが良いほうに作用している例といえる。
「レミリア……今日のアンタは綺麗ね……」
「あ……そんな……いけないわ霊夢……」
「ふふふ……今日もたっぷりとかわいがってあげるわ……」
「れ……レミリア様……私も混ぜていただけますか……?」
これは悪い例。
「私の――!! 私の目標は!! 『文々。新聞』を天狗界――いや、幻想郷一の新聞となるまで広めることであります!!」
「おおー、いいぞいいぞ烏――――!!!」
「さらに!! 今回の宴会の記事を機に、この泥沼のようなスランプから脱してみせます――――!!!」
「うおおおおおおお!!! 応援してるぞ烏――――!!!」
文と魔理沙は何だか訳の分からないテンションになって、演説と合いの手を繰り返している。
今現在、ここは幻想郷の中でも指折りのカオススポットと化していた。
酒とはかくも恐ろしいものである。
そんな彼女たちを霖之助は一人、それを微笑んで眺めていた。
いつも彼は思う。
本当に彼女たちは、見ていて飽きることがない。
石のように停滞を続けていたかと思うと、次の瞬間には鼠花火のように激しく動き回り、笑い、泣き、怒り、そのうち周りの者も巻き込んでしまう。
彼女たちと一緒にいれば、誰もが笑顔を取り戻せる。誰もが涙を取り戻せる。誰もが怒りを思い出せる。
自分も、その一人だった。
大切なものを失い、その穴を少しでも埋めようと、満たそうとして魔術を学んだあの日。
この世界の愛すべき隣人をすべて敵だと思い、滅ぼそうともがき、この肉体を手に入れたあの日。
自分という存在を劇的に変えた事象だけは思い出せる。
だが、それは色あせた写真のようにぼやけていた。
日々の記憶は、まるで出来の悪い抽象画のよう。
全てが漠然とし、頭の中を全て洗い流したとしても、決して思い出せないような無機質な日々。
自分がどんな風に笑っていたのか、どんな風に泣いていたのか、どんな風に怒っていたのかも、思い出せない。
そして、それ以前に自分がちゃんと動いていたのかも分からない。
あの頃の自分は、人形であった。
誰かにぜんまいを巻いてもらわねば何も出来ない、からくり人形。
自分は動いていた、と言える日々も確かにあった。
それも、ただ単に記憶が新しいから覚えているというだけ。
それは灰色で、緩慢で、霞がかかっていた。
しかし、ある日を境に記憶は色を取り戻す。
特に目的もなく、ある老人に師事を受けていたある日、彼が一人の幼子を連れてきた。
老人の孫娘だというその幼子は、自分を見るなりこう言った。
『これからオマエはわたしのこぶんだ!!』
そして幼子は老人に叱られ、叩かれ、べそをかいた。
この世の終わりの如く泣き叫ぶその幼子を見て、騒がしい子だと思った。
面倒はごめんだとばかりに自分はその子から離れたが、老人は幼子を自分にまかせると言ってそのまま立ち去った。
いつまでも泣き続ける幼子と家に二人きりにされ、どうしたものかと戸惑った。
こういう時はどうするのかも、自分は忘れてしまっていた。
だがしばらく幼子を見ていると、無意識に、自分の手が彼女の頭を撫でていた。
遠い昔、かつて自分が※※※※にしたように。
すると幼子は少しきょとん……とした後、花が咲いたかのような笑顔を浮かべた。
先ほどまで泣いていたのが嘘のように、明るく、楽しそうに笑った。
それを見ていたら、いつの間にか自分の口元が引きつっているのに気付いた。
思わず顔を手にやると、自分の口が弧を描いていた。
これは……何といったっけ?
そう……これはエガオ……
これは……笑顔だ。
それを思い出すと、次第に自然と声が漏れていた。
そうだ……これは笑い声だ。
気付くと自分は、幼子と供に笑い合っていた。
そのうち笑いすぎて苦しくなってくると、目から水が滲み出た。
そうだ……これは涙だ。
そして、しばらくして二人の笑いが治まると、自分は幼子の名前を訊ねた。
その幼子は元気に、大きな声でひとつの名前を口にした。
霧雨 魔理沙。
それが、愛しい妹弟子との出会いだった。
あのおかげで、霖之助は思い出したのだ。
笑顔を、そして涙を。
そして……自分の大切な人の顔を。
彼女のおかげで、灰色の世界から抜け出すことが出来た。
……失いたくない。
この少女を、この少女がいる世界を、失いたくない。
自分の長すぎる生を、これほど恨んだ事も無かった。
とんとん
不意に肩を叩かれ、霖之助は回想から引き戻された。
後ろを振り向いても、そこには壁しかない。
(……こんな回りくどい呼び方をするのは、彼女しかいないだろうな。)
霖之助はそっ……と立ち上がって部屋を出ると、縁側から外へ出ようとした。
それに気付いた魔理沙が、赤くなった顔を部屋の中から突き出し、声をかけた。
「おーい、何処行くんだ香霖?」
「ああ、ちょっと酔ってしまってね。少しそこら辺を歩いて酔い覚ましをしてくるよ。」
「ふーん……気をつけてな。」
そう言って魔理沙は顔を部屋に引っ込めた。
それを見届けてから、霖之助は静かに森の暗闇の中へと入っていった。
虫の鳴き声が辺りに響き渡り、時折吹くそよ風に木々がざわめく。
今夜は朧月夜。
月が隠れている間、木々の闇は全てを遮り、自分がどちらを向いているか分からなくなるほどだ。
しかし、この森は霖之助にとって庭のようなもの。
たとえ全く明かりが無くとも、自由に歩き回ることが出来た。
霖之助は何処へ向かうわけでもなく、見え隠れする月を見据えながら歩み続ける。
不意に、あれほど騒がしかった虫の鳴き声が、ぴたりと止んだ。
木々も、ざわめくのを止める。
耳が痛いほどの静寂が、辺りを支配する。
そして同時に、体を押しつぶすような重圧が、霖之助を包んだ。
それは威圧感、あるいは恐怖。
生命に溢れるこの森が、息を殺してひれ伏すほどの力。
ぎちり
ガラスをこすりつけるような、耳障りな音が響く。
霖之助はそちらに振り向くが、誰もいない。
月を隠していた雲が晴れ、淡い月光がさあっと降り注ぐ。
次の瞬間には霖之助の目の前には、空間のスキマに腰掛ける、豪奢な衣装に身を包んだ女がいた。
彼女は手にした扇子を優雅に口に当てると、くすくすと笑みをこぼした。
「おひさしぶりね、香霖堂のご主人。……とは言っても会ったのはつい最近だったかしら?」
「ああ、その節はどうも。おかげで店の中を空にせずに済んだよ。」
「あら? 気にしなくてもよろしくてよ? どうせ私がスキマに捨てたガラクタですもの。」
「随分と高価なガラクタもあったものだ。あの価値を知らないとは、無知は罪というものだよ八雲 紫。」
「そうかしら? それがいくら貴重なものであっても、使う者が興味を失ったら最後、それはガラクタに成り果てるのよ。」
「だがそれを拾うものもいる。世の中というものは良く出来ているよ。」
「ええ、全くね。」
月光の下、女――八雲 紫と霖之助はそんな挨拶を交わした。
霖之助は手近な木に身を預け、紫に用件を訊ねる。
「で……一体何の用だい八雲 紫? 今、宴会を開いているから、なるべく手短にお願いしたいんだが……」
「あら? 主催者が碌に会話に参加しないで物思いに耽っているなんて、珍しいことね。」
「……覗きとは随分と悪趣味だな。」
「何を今更……私が悪趣味だということは遥か、昔に、ご存知でしょう?」
紫は優雅に微笑みながら、遥か昔に、という部分をことさらに強調した。
……それは霖之助にとって痛烈な皮肉であった。
「……生憎と、よく覚えていないものでね。……で、改めて聞こう。用件は何だい?」
「古い知人と昔話をしに来た……じゃ駄目かしら?」
「脈絡がないな……とは言っても君の行動が唐突なのはいつものことか。」
「あら酷い。これでも私は計算高い女だって巷で評判なのよ?」
「……それは随分と好意的な意見だな。良い友人をもっているようだね。」
「ええ、お褒めに預かり光栄ですわ。」
「……君とこういう不毛な論戦をするつもりは無いんだけどね。」
霖之助は少しイライラした様子で不毛な言い争いを打ち切った。
それはいつもなら魔理沙たちには決して見せない表情だ。
「でも昔話をしに来たというのは本当よ? 儚すぎる短き生を生きる者、もしくは未だ別れを知らない長きを生きる者を見て、憧れを覚え、嫉妬する……そんな感情を共有できる数少ない友人と……ね?」
そんな霖之助の表情を楽しむかのように、紫は扇子の下で笑みを深める。
それに対して、霖之助は嘲笑を浮かべた。
それは彼のものとは思えないほど、冷たく、そして無機質だった。
「さっきも言ったとおり、僕は昔のことはほとんど忘れてしまっている。だからそんな感情を浮かべたことも忘れたし、どんな者たちと出会ったかも忘れた。物思いに耽るなら、一人でやっていてくれ。はっきり言って迷惑だ。」
すると紫は笑みを浮かべるのを止め、冷たい目で霖之助を見つめた。
「たった十数年で変わっていくあの娘を見て、変わらない自分を呪っているのに?」
「……なに……?」
紫の言葉に、霖之助の顔が怒りと驚愕に歪む。
「楽しげに騒ぐあの娘たちを見て、この幸せが崩れてしまうことを恐れているというのに?」
「……なんの……ことだ……?」
紫はかっ!! と目を見開くと、静かに、しかし燃え上がるように激しく言葉をぶつけた。
「過去から目を背けるのは止しなさい。」
「……!!」
「過去のあの頃が、灰色であったということを嫌というほど覚えているからこそ、貴方はあの娘たちに憧れを覚えるのでしょう? 自分の生に空しさを覚えるのでしょう? あの娘たちがいない世界を恐れるのでしょう?」
「……何故……?」
「なぜ分かったのかって? 私が何者なのかをお忘れ? 私はスキマ妖怪……心のスキマを覗き、精神という名の結界を破ることなど造作も無いことよ。」
「……く……っ……!!」
紫は容赦なく霖之助を言の葉で追い詰めていく。
動揺する彼を見て、再び紫の顔に笑みがこぼれる。
ただし、今のそれは嘲笑を形作っていた。
「本当の私の用件を言ってあげましょうか? 過去から逃げ、目の前の幸せに逃げ、そして目の前の幸せが無くなる事を恐れることしか出来ない哀れな蓬莱人を……あざ笑いにきたのよ。」
「黙れっ!!!!」
霖之助が怒声を上げた。
それだけで周りの草木が揺らぎ、激しい風が紫を襲った。
しかし紫はそれに全く動じず、ただくすくすと笑みを浮かべるだけだ。
ただし、その笑みから嘲笑は消えていた。
「……それでいいのよ。貴方も男の子なんだから、たまには感情的になったほうがいいわよ? それに、周りが楽しんでいるのに一人だけウジウジしているなんて、宴会に対して失礼よ?」
「あ……」
紫のその一言に、霖之助は今まで自分がからかわれていたことにようやく気付いた。
迫真の演技でそれを実行に移す紫に、そしてそれに引っかかった自分に呆れる余り苦笑することしか出来ない。
おそらくこれが、紫なりの人の励まし方なのだろう。
「全く……君という奴は、いつまでたっても悪戯癖と、底意地の悪い性格が抜けないな。」
「そういう貴方も、自分の殻に閉じこもって何でも自己完結しようとする癖が全く変わらないわ。」
いつしか先ほどのような張り詰めた空気は無くなり、そこにはただ昔を懐かしむ旧友同士がいた。
紫はスキマから降り、霖之助の傍らに腰掛ける。霖之助もそれに倣った。
そして二人並んで、月夜を見上げる。
「私たちが知り合ったのは……どのくらい前だったかしらね?」
「忘れたよ……残念ながら、本当に忘れてしまった。」
「ええ、私も……ただ、貴方が見るも無残な状態だったことは覚えているわ。心も、体もね。」
「……ああ、それだけは覚えている。」
――遠い、数えることすら馬鹿らしくなるほど、遠い昔の話。
まだ幻想郷が生まれる、遥か昔のことだ。
都から離れた小さな村で、親を亡くしながらも精一杯仲良く暮らす、兄妹がいた。
兄は生まれつき眼が悪かったものの、とても賢く、幼いながらも村一番の知恵者として知られていた。
妹はそんな兄を助け、体の弱い兄を引っ張って野山で遊ぶ男勝りで、美しい娘だった。
彼らは親切な村人に支えられ、幸せに暮らしていた。
――――暮らしていく、筈だった。
ある日、村を妖怪が襲った。
その人食いの妖怪は無数の子分を引き連れ、途轍もない力で家を壊し、人々を襲い、喰らった。
兄妹も例外ではなかった。
山の中を必死に走り、なんとかして妖怪たちから逃れようとした。
だが、所詮は子供の足。逃げ切れるわけが無い。
いよいよ追い詰められた時、妹は兄を庇い、木の洞に彼を押し込み、蓋をして隠した。
その結果妹は身代わりに喰われ、死んだ。
兄はその間、洞の中で震えていた。
妹を助けようなどという気持ちはこれっぽっちも湧かなかった。
ただ自分が助かりたい一心で、嗚咽を押し殺し、息を潜め続けた。
イヤナオトが聞こえてきても、必死に耳を塞いで頭から追い出した。
全てが終わり、兄が洞から出ると、そこには妹はいなかった。
あるのは只、血の跡と骨の欠片、そして長くて美しい、黒い髪だけだった。
それをかき抱き、最早兄ではなくなった少年は呪った。
妖怪を、この世界を、何より無力な自分自身を。
必死に生き延びた少年は、その日からがむしゃらに力を求めた。
幼少の頃、霖之助がはっきりと思い出せるのはそこまでだ。
あとはただ血を吐きながら、あらゆる冥府魔道の力を求め続ける、地獄のような日々の繰り返し。
そんな日々が数え切れないほど繰り返されたある日のこと、霖之助は一人の妖怪と対峙する。
それこそ、当時最強と恐れられた妖怪、八雲 紫であった。
場所は、昼なお暗い竹林。
勝負は、最初から付いていたようなものだった。
霖之助の打ち込む弾幕は、スキマに飲まれて紫の体に全く届くことは無く、
紫が戯れに打つ弾幕は、霖之助の結界を全て打ち砕く。
数刻とかからず、霖之助は血まみれになって倒れ付していた。
「それにしても不思議だね……君のように化け物みたいな妖怪を、どうして倒そうなんて思ったのか。」
「あら失礼ね? こんなか弱い乙女を捕まえて化け物だなんて。私から言わせてもらえば、あの頃の私と戦って生きていた人間のほうが、よっぽど化け物だと思うけど?」
「買いかぶりは止してくれ。あれはただ単に君の温情だろう?」
だが、紫は結局最後まで、霖之助を殺すことは無かった。
紫は、彼が動けなくなるまで痛めつけると、その場を立ち去ったのである。
「それが温情だろうと何だろうと、当時の私が見逃すということは、貴方が並みの人間じゃなかったということよ。」
「それじゃあ聞くけれど、あの時の僕のどんな所が、並じゃなかったんだい?」
「さてさて何だったかしら?」
相変わらずからかうような口調ではぐらかす紫。
だが、それは彼女の本心であった。
あの頃の「血気盛ん」だった自分が、生意気にも噛み付いてきた人間を殺さないなど、はっきり言ってありえなかった。
「……まぁ強いて言えば、あの時の、貴方の目かしらね。」
「……目?」
「そう、自分の身など省みずに目の前の私を滅ぼそうとする、ひたむきさと狂気、そして悲しみが混ざり合った目……あんなものを見たのは、生まれて初めてだったわ。」
紫は、その目に何か得体の知れない何かを感じた。
今思えば、それは恐怖であったのかもしれない。
――この人間はたとえ首だけになろうとも、最後には窮鼠が猫を噛むかのように自分に一矢を報い、自分は死なないまでも無事には済まないだろう。
そう思い、紫は霖之助が動けなくなると、すぐに立ち去った。
そのような考えを、人間に対して一瞬でも考えてしまった自分を恥じるように。
「……その後のことは知らないから、貴方が私を責めるのはお門違いよ?」
少し上目遣いに、すねたように言う紫に、霖之助は苦笑で答える。
「確かに君に打ち負かされたことがきっかけだったのは確かだけれど、決めたのは僕だ。……誰も責めることは出来ないし、責める気も無いよ。」
「そう……じゃあ、その時貴方がどんな風に、どんな考えで不死を得たのか、良ければ聞かせて頂戴?」
「ああ、構わないよ。」
一方、紫がそのようなことを考えているとは全く知らない霖之助は、ただ自分が妖怪の戯れで命を救われたと思った。
自分の仇である妖怪に、である。
悔しかった。
血まみれの体を引き摺りながら、霖之助はむせび泣いた。
この咽を掻っ切って、死んでしまおうかと思った。
だが、死ぬわけにはいかない。
自分は何としても、大切な人々を奪った妖怪を、打ち滅ぼさなければならないのだ。
そう自分自身を鼓舞して立ち上がると、重い体を引き摺って歩いた。
傷を癒さなければ。
こんな状態で妖怪にでも出会おうものなら、一瞬で喰われかねない。
しばらく歩き、荒れ果てた屋敷を見つけ、傷が癒えるまでしばらくその場所で休むことにした。
屋敷に何か食料が残っていないか調べていると、奥の主人の部屋らしき場所で隠し扉を見つけた。
巧妙に隠されたその中には、一つの小ぶりの壷があった。
傍らには、短い文が書かれた一枚の木簡。
その文面に、霖之助は驚愕した。
そこには、こう記されていた。
『我が愛娘の残せし不死の秘薬、その片割れをここに封ず』
それがここに置かれた経緯は分からなかったが、それはその時の彼にはどうでもいいことだった。
神話の世界の物品が、目の前にある。
――蓬莱の薬。
震える手でその壷に触れると、霖之助の能力は、確かにそれが本物であることを告げた。
「蓬莱山 輝夜が地上に残した不死の薬……時の帝が焼いたもの、藤原 妹紅が奪ったものの他に、まさかもう一つあったなんてね……」
「……悩んだよ、それを見たときは。それを飲むか、飲まざるべきか……」
「何故? 貴方ほどの人間が永遠の生を手に入れたならば、本当に私たち……妖怪を根絶やしにすることは十分に可能……その時の貴方にとっては、すぐに飛びついてもおかしくないほどの代物だったのでしょう?」
どこか試すような口調で、紫が問いかける。
「……同じだと、思ったからだよ。」
少し躊躇いながら、霖之助は呟いた。
「同じ?」
「ああ、決して死なず、永遠に生きる体……そんなものを手に入れた自分は、最早人間では無く、自分が目の敵にする、妖怪たちと同類なんじゃないか……ってね。」
その自問に近い霖之助の言葉に、紫は答えず、逆に彼に問うた。
「……でも結局貴方はそれを飲んだ……何故?」
「今思うと、単純で幼稚な理由さ……妹を殺した仇を、まだ倒していなかったんだ。」
その妖怪は紫ほどではないにせよ、途轍もない力を持ち、山や海すら越えて悪事を働いていたのである。
あの日から十数年、その時の霖之助は妖怪の、手がかりすら掴めていなかった。
「……愚かだ。愚かだったよ、あの時の僕は。」
あの時の自分は、奴を倒した後のことを、全く考えていなかった。
妹の仇を討つという目的を遂げた後のことを、全く考えていなかったのだ。
……それからまた、数えるのも馬鹿らしくなるほどの年月がたった頃、彼は仇に出会った。
無論、その妖怪は霖之助の村のことなど、当の昔に忘れていた。
蓬莱人となった霖之助は、そいつに自分の不死をありありと見せつけ、絶望をたっぷりと植えつけた後に、嬲り殺しにした。
自分の妹の無念を晴らすかのように。
今までそいつに喰われた人々の無念を晴らすかのように。
仇の肉片を踏みつけ、霖之助は快哉を叫んだ。
……その後に霖之助に残ったのは、空しさを通り越した、虚無感だけだった。
――自分は数百年間、唯一つの目的のために生きてきた。
それが遂げられた今、自分は何をすればいいのか?
自分は何のために生きていけばいいのか?
人々の輪に戻ろうとも思った。
だが、人々は霖之助一人を置いて、皆逝ってしまう。
それら全ての事実が、霖之助を責め、苛んだ。
そして、何よりも――――
妹の顔を、思い出せなくなっていた。
あれほど愛していたのに。
あれほど愛されていたのに。
長すぎる時の流れは、霖之助から最愛の者の面影すら奪っていたのだ。
その事実に、霖之助は最早絶望すら抱くことが出来なかった。
その事実を知った瞬間、霖之助の心は砕け散っていたから。
……霖之助は、その日から生きることを止めた。
「それから先は……全く覚えていない。自分が、どうなったかもね。」
「そう……そんなことがあったのね……あの時の貴方の惨状も納得がいくわ。」
どのような因果か、紫が霖之助に再会したのは、幻想郷が出来て間もない頃。
人一人いない山の洞窟に、霖之助はいた。
生きながらに、苔むしていた。
動くことを忘れ、言葉を忘れ、感情を忘れ、そして生きることすら忘れていた。
そんな彼を紫は助け、迷い家で介抱した。
「あの時は大変だったわね……何とか日常生活が出来るようになるのに、百年近くかかったわ。」
「そんなにかかったのか……まるで気がつかなかったよ。」
霖之助にとって、当時の記憶は曖昧だ。
数百年間心が死んでいた彼にとって、それは仕方の無いことだった。
「人の気も知らないで呑気なものね……藍の世話と貴方の世話で、毎日目が回る程だったのよ?」
「後のほうでは、君が式に世話をしてもらっていたように見えたけどね。」
「そういうどうでもいいことだけは覚えているなんて、意地悪ね。」
紫はそう言って頬を膨らませるが、目は笑っている。
「まぁ、あの時の生活は暇つぶしにはなったから、そのことに関しては不問にするわ。」
「はははは……ありがとう。」
当時の霖之助は何の感慨も浮かべることが出来なかったが、今思うと、それは何か心の隙間が埋まっていくかのような、温かい日々であった。
暫くそうして笑い合っていたが、不意に霖之助が口を開いた。
先ほどまでのにこやかな表情は消えてしまっていた。
「……何故、覚えていたんだい?」
「……え?」
「……ずっと気になっていたんだ。何故君は、再び僕に会った時、アレが僕だと分かったんだい?」
思えば当然のことだ。
霖之助にとっては、紫は自分が蓬莱人になったきっかけを作った、決して忘れることの出来ない存在である。
しかし紫にとっては、彼は自分と相対して生き残った者の一人という存在でしかない。
あの長すぎる時の中で、記憶の片隅に追いやられていて当然だ。
「けれど君は覚えていた……何故だい?」
「……そんなの当たり前でしょう?」
真剣に問いかける霖之助とは対照的に、紫はどこかおどけた様子でそれに答えた。
「誰だって、初恋の人のことはいつまでたっても忘れないものよ?」
「なっ………!!!」
そして妖しげな視線を霖之助に向けた。
彼女の予想外の言葉と行動に、霖之助は激しく動揺する。
それを見て、紫は耐え切れないとばかりに吹き出した。
「うふふふふ……冗談よ冗談。長く生きている割にジョークが通じないなんて、貴方頭が固いにも程があるわよ?」
「……そんな性質の悪い冗談があるか!」
紫の冗談に引っかかったことと、あの妖艶な笑みの余韻で顔を赤くしながら、霖之助が叫んだ。
それに追い討ちをかけるかのように、紫が霖之助に詰め寄る。
「初恋といえば……あの妖精のおちびさん、貴方をこの頃意識しているみたいよ?」
「……チルノが? ははは……いや、まさか……」
「あら、子供っぽいって言っても、あのおちびさんも立派な女よ? 色恋の一つや二つ、普通のことだわ。」
そして紫はからかうかのように、扇でひらひらと霖之助の顔を扇ぐ。
霖之助はもう動揺から立ち直ったのか、それに対して冷静に答えた。
「いや、あのお転婆な子に限って、僕みたいな野暮ったい人間に惹かれる何てことはありえないよ。」
紫はわざとらしく深いため息をついた。
「本当に鈍いわねぇ……これじゃあの子も報われないわ。」
「……あの子? 誰のことだい?」
「……本当にもう……わざとやってるんじゃないの貴方? 魔理沙のことよ。」
「そ……それは……」
魔理沙の名前を聞いて、明らかに霖之助が顔を赤らめた。
それを見逃す紫ではない。
「あらあら、随分と可愛らしい反応ね?……で、どうなのあの子とは? お姉さんに教えてくれない?」
少しばかり図々しい事を言って迫る紫。
霖之助はしどろもどろになりながらも答えた。
「べ……別に何でもないさ。ただのかわいい妹弟子だよ。」
「あら、そうなの?」
「……ああ、別に、特別な関係ではないよ。」
「ふーん……本気でそう思っているとしたら、貴方って酷い人ね。」
「……どうしてだい?」
紫は扇で口元を隠すと、意地の悪い笑みを浮かべた。
「あの子の頭の中、四六時中貴方のことで一杯なのに。」
「!!」
「それはここ最近の事じゃないわ。小さい頃から、あの子は貴方を見続けていたわ。寝ても、覚めてもね。」
「……何でそんなことが……」
「言ったでしょう? 私にとって、人の心の中を覗くことは容易いって。」
「…………」
「そろそろ観念したらどう?……本当はあの子が貴方をどう思っているか、気づいているんでしょう?」
紫は静かに立ち上がり、夜空を見上げた。
雲は晴れ、そこには美しい下弦を描く月がある。
「あの子は……魔理沙は、おそらく幻想郷の中で誰よりも……森近 霖之助という人間を愛しているわ。そして貴方もまた、霧雨 魔理沙という人間を誰よりも愛している……なのに、彼女の思いに答えてあげないのは……何故?」
振り向いた紫の顔からは、最早からかいを含んだ表情は消え、只そこには幻想郷を見続けてきた大妖怪の威厳を持った厳しい表情だけがある。
その射抜くような眼光に耐えることが出来ず、霖之助は目を逸らし、俯きながら答えた。
「…………僕は、彼女と同じ時間は歩めない。」
俯いた彼の表情は、陰になって伺うことは出来ない。
「彼女の時間はこれからも動き続ける……死ぬまでそれは止まることは無い……だけど、僕の時間はこれからもずっと止まったままだ。」
紫は黙って霖之助の独白を聞いている。
虫の音と、風の音が辺りをざわめかせた。
「……怖いんだ。そんな僕を、魔理沙が拒まないかどうか考えると、僕が彼女をいつか記憶の片隅に追いやってしまうかもしれないと考えると、堪らなく……怖いんだ。」
魔理沙と共に人生を歩んで行きたい。魔理沙と共に年老いて行きたい。
それが霖之助にとっての望み。
――――だがそれは決して適わない望み。
「失いたくない……だけど……失うことが分かっているから、悔しいんだ。」
紫は俯く霖之助の傍らに座ると、彼の頭をそっ……と抱き寄せ、優しく囁いた。
「馬鹿ね。そんなにも彼女を思うことが出来るのなら、貴方は決して忘れることなんか無いわ……永遠にね。」
霖之助は泣いていた。
只静かに、嗚咽を漏らす事無く、夜露が流れるように、泣いていた。
「そして魔理沙は、『貴方』が好きなのよ。『貴方』という存在そのものが好きなの……拒むことなんて、絶対にありっこないわ。」
「……すまない紫……すまない……僕は…………」
「気にすることは無いわ……泣きなさい……今は只、泣いていいのよ。」
そう言って紫は、少し力を込めて霖之助を抱きしめた。
全てを受け入れるかのように、強く、そして優しく。
霖之助は声を上げて泣いた。
ただ、ただ童のように。
全ての理性を捨てて、溢れ出る感情のままに、むせび泣いた。
紫は微笑みながら、そんな彼の背を、あやすように撫で続けた。
霖之助が泣きに泣いて落ち着くと、紫は身を離して立ち上がり、霖之助を覗き込んだ。
「……少しは落ち着いたかしら?」
「……ああ、ありがとう。少しみっともない所を見せてしまったな。」
「この私が胸を貸してあげたのよ? 感謝しなさいな。」
紫はそう言って笑うと、月光を浴びるかのように伸びをした。
そして霖之助に背を向けながら呟いた。
「だけどいい物を見せてもらったから、おあいこでいいわ。」
「え?」
霖之助は何のことだか分からずに、首をかしげた。
紫は答えずに、背を向けたまま言葉を続ける。
「貴方と出会った時、貴方と暮らしていた間、見られなかった顔が見られたわ……ずっとずっと見たかったものが、やっとね。」
初めて戦慄を覚えた人間と出会い、別れた後、彼があの狂気の他にどんな表情を浮かべるのか気になった。
暇なときは、それを考えて生きてきた。
だから、ずっと彼を覚えていた。
「本当に見たかったのよ? 貴方の表情を。だけど出来なくて、しかもあんな小さい子に先に見られてしまって……ちょっと妬けちゃって、殺してやろうと思ったこともあったわ。」
紫の言葉に、霖之助は何も返すことが出来ない。
彼女の背中が、何故だかとても弱々しく見えたから。
「私が百年間ずっと見たくても見られなかった物を、あの子は……魔理沙はいとも簡単に手に入れた。…………だけど、そんなあの子がまだ見ていないものを、私は今見ることが出来たわ。」
「……紫……君は…………」
「だから私は……満足よ?」
紫はくるりと振り向いて微笑んだ。
霖之助には、それがとても寂しげなものに見えた。
「紫……すまない…………僕は…………」
霖之助は、それに続く言葉を中々口にすることが出来なかった。
それは目の前の女性を、傷つけることになるから。
だがその前に、そっと伸ばされた紫の指が、霖之助の唇を押さえていた。
「もう……貴方はもうあの子を愛しているんでしょう? だったら振った女に情けなんかかけちゃ駄目よ? ちゃんと後腐れなくすっぱり別れなくちゃ。」
めっ、と霖之助の額を指で弾くと、呆然とする霖之助の顔を見て、くすくすと笑った。
「それに今のは独り言。まだ乳臭いお子様なんかに大人気なく嫉妬した、情けない女の独り言よ? 律儀に反応なんかするものじゃないわ。」
「……ありがとう。」
「独り言に対して礼を言うなんて、変わった人ね。」
「ははは……、君ほどじゃないと思うけどね。」
そして、最後にはいつもどおりの、皮肉の応酬な彼らの会話になった。
そして紫は扇を何も無い空間にかざし、上から下に線を引くかのように動かす。
すると、ガラスが擦り合わさるような耳障りな音と共に、空間にスキマが生じた。
紫はそれに手を掛け、霖之助のほうを振り向いて別れを告げる。
「それじゃあそろそろ眠たくなってきたことだし、そろそろ帰らせて頂くわ? 今度来た時は、お茶でもご馳走して頂戴。」
「ああ、冷やかしじゃなければ、いつでも大歓迎だよ。」
「そろそろ向こうの宴会も終わっている頃でしょう。……しっかりね。」
その言葉を最後に、紫の姿はスキマの中に消えて行った。
霖之助は彼女の気配が無くなったのを確認すると、静かに香霖堂へと足を向けた。
霖之助が戻ると、香霖堂の中の騒ぎは大分収まっていた。
部屋を覗き込むと、フランドールとチルノが抱き合って眠り、美鈴と小悪魔が二人で愚痴りながら、余った酒をちゃんぽんにして飲んでいた。
「ひくしょ―……やってられませんよぅ―……」
「全くあの洗濯板ったら、給仕が遅れればナイフ、料理が切れればナイフ、ナイフナイフナイフ……いい加減にしてほしいわよー……ヒック…………」
何だか静かに盛り上がっているのでそっとしておくことにした。
奥の方からは、霊夢とレミリアの声が聞こえてくる。
「くっ!! やるわねレミリア!! もう一回勝負よ!!」
「ふふふふふ…………私のテクニックに勝てるのかしら?……ほら咲夜しっかりしなさい。まだ七回戦よ!!」
「も……もう無理ですお嬢様…………ガクッ」
「さ……咲夜っ!! おのれ霊夢!! 咲夜の仇、必ずや取って見せるわ!!」
「望むところよ!!」
……フランドールとチルノが寝ていて本当に良かった。
絶対に奥へは入らないことを硬く誓いながら、縁側に座り込む。
しばらく霖之助が虫の音に聞き入っていると、台所から顔を真っ赤にした魔理沙が出てきた。
相当酔っているようで、足元がおぼつかないし、目も虚ろだ。
「だ……大丈夫かい魔理沙?」
「あー、こうりんだ――。ろこ行ってたんら――――? 心配したんらぉ――?」
呂律の回らない声でそう言うと、魔理沙は霖之助の膝を枕にごろんと寝転がった。
「お、おい魔理沙、大丈夫かい?」
「ちょ……ちょっろ飲みすぎた――――。ここで休ませてくれ――――。」
そう言うと、魔理沙はすぐに寝息を立て始めた。
相変わらずとても寝つきがいい。
昔もよく魔理沙はこうやって眠くなると、すぐに布団には入らずに、自分の所に来て子守唄や、昔話を読むことをせがみ、眠りについた。
寝床まで彼女を運ぶのは彼の役目だ。
その体は羽根のように軽く、とても温かかったことを覚えている。
「なぁ――、こうりーん。」
そんなことを思い出して笑っていると、いつの間にか目覚めていたのか、魔理沙が声を掛けてきた。
目を瞑ったまま話しているのを見ると、どうやらほとんど寝言のようだ。
だが霖之助は律儀に声を返してあげた。
「なんだい、魔理沙?」
「こうりんってさぁ――――昔からちっとも変わってないよな――――」
「!!」
その思いがけない魔理沙の言葉に、思わず動揺して魔理沙の頭をずり落としそうになってしまう。
慌ててそれを押さえて、何とか動揺を隠そうとする。
だがそんな霖之助の心に構わず、魔理沙の寝言は続く。
「えへへへへへ…………結婚したら、自慢できるな――――『私の旦那はいつまでも若いんだぞ』ってな――――」
「…………」
「こうりんはそれ気にしてるみたいだけど――――わたしは――――気にしないぜ――――」
「魔理沙…………」
「だって…………わたしは…………こうりんの…………全部が……好…………」
そこまで言うと、魔理沙はぐー、と鼾をかき始めた。
霖之助はその魔理沙の言葉が、心の中に染み入ったような気がした。
『そして魔理沙は、『貴方』が好きなのよ。『貴方』という存在そのものが好きなの……拒むことなんて、絶対にありっこないわ。』
紫の言葉は真実なのだと、強く、強く実感出来た。
「魔理沙…………ありがとう。」
魔理沙の耳元にそう囁くと、霖之助は続いてもう一言、囁いた。
「……そして、愛しているよ」
二人の影が、重なった。
「ん…………」
魔理沙はその瞬間少し寝返りをうった。
だが、その顔にはいつの間にか笑顔が浮かび、酔いとは別の赤みがさしていた。
幻想郷の夏の夜、そんな二人を、空に浮かぶ月と森、そして虫たちと烏だけが見ていた。
「あら、随分と賑やかね? いつも閑散としてるこの店にしては随分と珍しいわ。」
その長身の影は霖之助たちを見ると、開口一番、辛辣にそう言ってきた。
その意外な人物の突然の来訪に、霊夢も霖之助も驚きの声を上げた。
「おやおや、今日は本当に千客万来だな。」
「ご無沙汰ですね、ご主人。それから霊夢も。」
「そういうアンタこそ、こんな時間に出歩くなんて珍しいじゃない? 咲夜。」
その長身の影の正体は、吸血鬼レミリア・スカーレットが統べる館・紅魔館に仕える完璧で瀟洒な従者、十六夜 咲夜であった。
彼女もまた頻度こそ少ないものの、紅魔館の調度品や、アンティークなどを買い求めにやって来る、香霖堂の常連の一人である。
「折角来てもらって悪いんだが、見てのとおり今日は店じまいでね。すまないが明日出直してくれないかい?」
未だ来客に気づかずに、庭でぎゃあぎゃあと枝豆争奪の追いかけっこを続ける魔理沙たちをちらりと一瞥してから、霖之助は申し訳なさそうに咲夜に頭を下げる。
「残念ながら、今日は生憎と買い物でここに来たわけじゃありませんわ。」
だが、彼女はかぶりを振って彼の言葉を否定した。
「へぇ? 急ぎの買い物以外でアンタがわざわざ外出するってことは、レミリア関係のこと? アイツに何かあったわけ?」
霖之助の言葉を引き継いで、霊夢が尋ねる。
……レミリアのことを言及した時に、どこか「そうなってほしい」という雰囲気を全く隠さずに。
「いえ、そうじゃないわよ。期待に添えなくて残念ね。」
すると咲夜は霖之助の時とはがらりと口調を変えて、霊夢の言葉を皮肉で返した。
普段従者という立場であるためか、たまにしか会わない霖之助には少し他人行儀になる。
そしてどこか疲れた様子で軽くため息をつき、頭を押さえる。
「実はね……昼間に中国に買い物を頼んだんだけど、いつまでたっても帰って来ないのよ。」
咲夜の言う中国とは、紅魔館の門番長を勤める、紅 美鈴のことだ。
いつも着ている服装のせいで、いつもあだ名で呼ばれて本名で呼んでもらえなかったり、咲夜やレミリアの鬱憤のはけ口にさせられたり、紅魔館の書物を掻っ攫いに来る魔理沙に魔砲で吹っ飛ばされたりと、色々と不憫な人物である。
「それで今日の仕事は粗方片付いたし、私が探しに来たんだけど……」
そう言ってから、咲夜はさらに深いため息をついた。
するとそんな彼女の後ろから、ひょっこりと小さな少女が姿を現した。
咲夜の主人にして紅魔館の主、レミリア・スカーレットであった。
これまた咲夜以上に珍しい来客だ。
「こんばんは霊夢、いい夜ね。」
「……お嬢様が面白がって付いてきちゃって、無理矢理ここに引っ張ってこられたのよ。」
「あはははは……そりゃ災難ね。」
「あら、私はただこっちの方に散歩がしたいと思っただけよ。主人の意を第一に考えるのが従者の役目というものじゃない?」
「それはそうなのですが……」
レミリアはそう言うものの、霊夢を目当てにここに来たことは明らかだ。
昨年の紅霧異変で霊夢に合って以来、レミリアは彼女に夢中で、何かとちょっかいをかけている。
おそらく彼女が持つ運命を操る能力で、今日霊夢がここに来ていることを察知したのだろう。
そして従者である咲夜は、威厳ある紅魔館の主が、天敵とも言えるこの博麗の巫女に現を抜かすことを苦々しく思っているのだ。
「それに咲夜、貴方中国を探しに行くと言っていたわよね?」
「ええ、まぁ……そうですが?」
「さっきここへ来る途中に爆撃跡みたいになった場所があったでしょう?あの娘ならあの辺に埋まっているわ。」
「え?……本当なのですか? ご主人。」
咲夜は霖之助に向き直って尋ねる。
霖之助は、昼間の怒り狂った魔理沙の弾幕を思い出すと、その恐ろしさに改めて冷や汗を流した。
彼としては、あの時はチルノをかばって逃げ回るのに必死で、周りのことなど気にしている余裕など無かったのだが……
それでも何とかして記憶を掘り返してみる。
しばらくしてようやく何かを思い出したのか、ぽん、と手を打って顔を上げた。
「あー……言われてみれば、弾幕に巻き込まれる人影を一瞬見たような気がするな……」
「え? 何かあった訳? 霖之助さん。」
「いや、まぁ……チルノが遊びに来ている時に、魔理沙とちょっとね……」
その霖之助の言葉を聞いて、霊夢は一瞬魔理沙たちに目を向けた。
まだ彼女たちの枝豆争奪戦は終わっていないようだ。
「さあ、捕まえました!! 今です魔理沙さん!!」
「おう!! 観念しやがれチルノ!!」
「やだやだやだ――――!!! はーなーせ――!!!」
「いててててて!! 無駄な抵抗は止めやがれ!!」
だが、どうやら決着は時間の問題のようである。
そして、そんな彼女たちの様子を見てため息をついた。
「相変わらず苦労してるわねー、霖之助さん。」
「ははは……いい加減慣れてきたよ。」
「……? まぁ、ともかくこの近くにいたことは確かなんですねご主人?」
「ああ、おそらくは間違いない。」
「……つくづく運が無いわね、あの娘も……」
どこか哀れそうに、咲夜は独りごちた。
そんな咲夜の肩をレミリアがぽん、と叩いた。
「これでわかったでしょう? この近くにいるのが分かったんだから、咲夜はあの娘を探してらっしゃいな。」
「……そう簡単には仰いますが、あの辺り、地盤が丸ごとひっくり返されたようになっていたような気がするのですが……?」
「そこはそれ、瀟洒に根性でなんとかしなさい。」
「……せめてお嬢様の能力で、大体の場所ぐらいは教えていただきたいのですが……」
「あら咲夜? 貴方、自分の部下の不始末を主人に尻拭いさせるつもり?」
「……分かりました、自力で何とかします。」
「それでいいのよ。」
「あ、ついでに何かつまみになるような物も持ってきて頂戴。」
「かしこまりました。」
とうとう観念したのか、咲夜は問答を打ち切ると、ポケットから懐中時計を取り出した。
「それでは行って参ります。」
そう言って彼女が懐中時計を操作した瞬間、一瞬にしてその姿は掻き消えた。
おそらくは彼女の能力で時間を止め、その間に移動したのだろう。
(これで当分の間時間が稼げるわね。)
咲夜がいなくなると、レミリアはしてやったりといった表情を浮かべ、上機嫌な様子で霊夢の傍らの霖之助に声をかけた。
「お初にお目にかかるわね、ご主人。早速なんだけれど、ちょっと霊夢を借りてもいいかしら?」
「え……まあ、構わないが……」
「ちょ……ちょっとレミリア、折角の酒盛りを邪魔しないでよ!!」
「まぁまぁ霊夢。ここの主人の了承も得たことなんだし、向こうで『二人で』飲みましょう?ね?」
『二人で』というフレーズをことさら強調し、有無を言わせずに霖之助にそう言うと、レミリアはこれまた有無を言わせず、霊夢を手近な部屋に連れ込もうとする。
霊夢も抵抗しようとするが、力は圧倒的に吸血鬼であるレミリアのほうが強いため、ずるずると引き摺られていく。
弾幕勝負では最強を誇る霊夢も、(食べ物が関わらない限り)身体能力は普通の人間と変わらないため成す術が無い。
「こ……こら!! 離しなさいよ!! 折角の秘蔵の大吟醸がぬるくなっちゃうじゃない!!」
「大丈夫よ霊夢。ちゃんと手土産はもって来てあるわ。」
そういうとレミリアは、いつの間にどこから取り出したのか、古めかしいワインボトルを手にしていた。
「年代ものの、紅魔館の中に今ある物の中でも極上の一品よ。」
「う……」
「私と一晩付き合うって約束してくれれば、これを開けてあげてもいいわ……」
誘うように、妖しく呟くレミリア。
基本的に酒に目が無い霊夢にとっては、霖之助の秘蔵の大吟醸に勝るとも劣らない代物だ。
霖之助の傍にある徳利と、レミリアが持つワインボトルを見比べてはうんうんと唸っている。
(あと一押しね……)
レミリアはそう心の中で呟くと、霊夢を落とすためさらなら駒を出そうとする。
がしかし、その前にレミリアの前にもう一つの障害が立ち塞がった。
「ようレミリア。来てたんだったら一言ぐらい声かけてくれたっていいじゃないか。」
「これはこれはレミリアさん、お久しぶりですー。」
(ちっ!! ……いい所で邪魔を……っ!!)
憎々しげに心の中で舌打ちする。
言うまでも無く、魔理沙と文の二人だ。
ようやくチルノから枝豆を取り返したのか、二人してそれを口にしながら声をかけてくる。
流石にこの二人相手では、軽くあしらうという訳にはいかない。
どちらも話術など関係なく、ごり押しで自分の主張を貫いてくるタイプな上に、威圧や弾幕勝負で黙らせようにも、彼女たちの実力は、認めたくは無いがレミリアとほとんど同じか、下手をすると上。
まあ、勝負になったとしても勝算はないことは無いが、長引く上にこの辺り一帯の地形が確実に変わる。
しかも自分の姿を写真で撮られ、それをばら撒かれる恐れもある。
一対一ならともかく、二人を同時に相手にしたとしたらそれを阻止できる自信は、流石のレミリアにも無かった。
普段ならここで引き下がるレミリアであったが、今日の彼女は一味違う。
運命を操る能力で二人がここに来ていることも、既に把握済みなのである。
(故に、対抗策を練ることは至極容易っ!!)
心の中で勝ち誇りながらも、冷静に周囲を窺う。
「うーん……のどごしは大吟醸のほうがいいんだけど……ワインの風味も捨て難いし……」
霊夢は未だに大吟醸とワインの二つの間で葛藤を繰り広げている。
(しばらくは時間が稼げるわね……)
そう判断するやいなや、レミリアは心とは裏腹に、すぐに笑顔を浮かべて魔理沙たちに挨拶を返した。
「ええ、久しぶりね黒白。そっちの烏も御機嫌よう。」
「そういや、咲夜のやつはどうしたんだ?」
「あの娘には宴会用の料理を運んできてもらってるわ。そろそろこっちに来るはずよ。」
無論、これも彼女たちを引き離す口実である。
「おおー、随分と気前がよろしいですねー。何かおめでたいことでもあったんですか?」
「これからあるのよ……これからね……」
レミリアはニヤリと笑うと、二人を追い払う秘策・その一を実行に移した。
二人の背後に向かって指を指す。
「それはそうと、氷精があっちでやけ酒飲んでるけど、あれって貴方達の分なんじゃないの?」
そこには半べそを掻きながら徳利ごと酒を飲むチルノの姿があった。
「ひっく……いいもんいいもん……枝豆くれないんらったら、こ……これじぇんぶ飲んでやるー!!」
「「あ゛――――――――――――!!!!!!!」」
そんなチルノを見て、絶叫を上げる二人。
すっかり出来上がってしまっているところを見ると、かなりの量を飲まれてしまったようだ。
「な……何てことするんですかチルノさ――ん!! そんないいお酒をがぶがぶと飲むなんて!!」
「うるしゃ――い!! 枝豆くれないんらったら、これじぇんぶあたいのら――!!」
文がチルノに向かって猛然とダッシュし、押さえつけてこれ以上の酒の消費を抑えようと試みる。
(これでまず一人目……)
再びぎゃあぎゃあと格闘を始めるチルノと文を見ながら、レミリアはほくそ笑んだ。
本来誰かの行動の運命操作というのは、かなり労力を要する上に、その対象の霊力などが強いと失敗したり、それ以前に運命を視ることが出来なかったりする。
だが、少し興味を向けさせて後押しすることぐらいは簡単に出来る。
そこから誘惑に負けるか、踏みとどまるかは本人次第。
……本来子供っぽい妖精の中でも飛び抜けて単純なチルノが、それに抗える訳が無かった。
そして、それを止めるには最低でも一人は人員を割かなければならず、かと言って弾幕勝負でケリをつけるわけにもいかないため、押さえつけるのには時間がかかる。
その間に当のレミリアは、霊夢を説得もしくはもう一人の排除に集中できるという訳だ。
(完璧……我ながら完璧な作戦展開だわ!!)
……まぁ、その気になれば世界を意のままに動かせるほど強力な力を、一人の人間を口説くのに使うというのもどうかと思うのだが。
だが、そんなことをいちいち気に病むことがないほどに、レミリアの面の皮は厚かった。
……やはり年のこ(不夜城レッド
だがここで油断するわけにはいかない。
もう一つの障害こそ、大本命なのだ。
そう、最強の吸血鬼である自分に土をつけた人間の一人、霧雨 魔理沙である。
「なるほど……チルノを使って私たちを排除しようなんて、考えたなレミリア。」
どうやら先ほどの一連の流れを見て、ぴんと来たらしい。
そう言うと、魔理沙はレミリアと霊夢の間に割って入った。
「だが、この私の目が黒いうちはお前の好き勝手にはさせないぜ!!」
そして大げさな動きで大見得を切ってみせる。
「へぇ? やる気なのかしら?」
レミリアも臨戦態勢をとる。
だが、次に魔理沙が放った言葉を聞いてずっこけた。
「霊夢の柔肌は私のもんだ!!」
そう言ってから、ひっく、としゃっくりをする。
顔こそ赤くないものの、少し酔っているのかもしれない。
レミリアは彼女が下戸であることを、今になって思い出した。
だが、酔っていようと、先ほどの魔理沙の発言は看過できない。
「な……何ですって――……!!」
そこで激昂しそうになるが、
(落ち着きなさい、落ち着くのよレミリア……素数を数えるのよ……焦っては駄目!!)
何とか押さえ込み、対魔理沙用にとっておいた第二の秘策を発動させた。
「まぁ何にせよ、貴方の相手は私じゃないわ……」
そこで、先ほど自分たちが来た方に向かって大きく叫んだ。
「出番よ!!!」
「は――――い、お姉さま――!!」
すると待ちきれないとばかりに、かわいらしい少女が物陰から飛び出した。
それはレミリアの妹、フランドールだった。
「やっほ――魔理沙!! 遊びに来たよ――!!」
「げ……フラン!! 何でここに!?」
「お姉さまが遊びに行くって言うから付いてきたの――!!」
フランドールは興奮のあまり顔を上気させながら、魔理沙に詰め寄った。
驚きのあまり、魔理沙の酔いはすっかり覚めてしまったようだ。
「ねぇねぇ魔理沙!? 今日は何して遊ぶ!? 解剖ごっこ!? それともやっぱり弾幕ごっこがいいかしら!!」
「ちょ……ちょっと待て!! 今日私は疲れてるんだ!! 別のにしようぜ!?」
「むー……それじゃあチャンバラごっこね!! 禁忌『レーヴァ……」
「だ――――!! 止めろ!! 殺す気か!! しりとり!! しりとりなんかどうだ!?」
「え――――……それはもう飽きちゃったー。」
「そ……そうかー……あ!! それじゃあ……」
そのまま堂々巡りの問答を繰り返す魔理沙とフランドールを見て、レミリアは今度こそ心の中でガッツポーズをとった。
これこそが、第二の秘策。
フランドールは魔理沙と知り合って以来、彼女にとても懐いている。
……まぁその理由は、フランドールに言わせれば「いくら遊んでも壊れないから。」という物騒な理由ではあるのだが。
そして魔理沙も、どんな理由であれフランドールが自分に懐いてくることに悪い気はしていないため、日ごろ彼女に付き合っていた。
ただ、フランドールが魔理沙と「遊ぶ」場合、魔理沙はフランドールにかかりきりになる。
その遊びの全てが魔理沙にとって命がけであり、自分への被害を最小限に食い止めるための説得にも注意を払わなければならないからだ。
何せフランドールにかんしゃくを爆発させられたら、自分と周囲に途轍もない被害が及ぶのである。魔理沙も必死になろうというものだ。
そしてこの作戦は、ここ最近魔理沙が紅魔館に来なかったため、機嫌が悪かったフランドールのガス抜きにもなるので、レミリアとしてはまさしく一石二鳥と言えた。
ともかく、これで霊夢とレミリアを遮る障害は無くなったわけだ。
(ふっ……これで私の勝ちね!!)
改めて勝ち誇ると、レミリアは霊夢のほうに向き直った。
「高級感といったらワインだけど……今ここにあるつまみとじゃ合わないし……うーん……」
霊夢は未だにワインと大吟醸の狭間に揺れていた。頭を抱え込んでうずくまってしまっている。
私より酒のほうが大事なんかい、と少し殺意も覚えるが、これはこれで好都合。
その間に部屋に引っ張り込んでしまえばよいのだ。
そうすればもうこっちのもの。酒をたらふく飲ませて人事不肖に陥らせてから、あーんなことや、こーんなことを……ハァハァ……
ブパッ!!!
「あらいけない鼻血が……もったいないもったいない……」
妄想が過ぎたのか、凄まじい勢いで鼻血が噴出した。
そしてそれがレミリアの衣装に、花のような文様を作り出していく。
その姿はまさしく劣情のスカーレットデビル。
レミリアは鼻から流れ出る血を全く気にも留めることなく、そのまま霊夢を引き摺って部屋と廊下を隔てる障子の前に立った。
そして、厳かにそれに手を掛ける。
「さぁ行きましょう霊夢……二人だけの秘密の花園へ……」
霊夢の耳元で甘く囁くと、レミリアは勢い良く障子を開けた。
「お待ちしておりましたお嬢様。」
「……ぅどわぁ!!!!!」
そこには、先ほど追い払ったはずの咲夜が立っていた。
あまりの予想外の事態に思わず悲鳴を上げるレミリア。
「……お嬢様、そのような下品な悲鳴を上げるのはお止め下さい。」
「そ……そそそ……そうじゃなくて咲夜!! あ……貴方いつの間にここへ!?」
「つい先ほどです。中国のサルベージに思いのほか時間がかかってしまった上に、衣服も大分汚れてしまいましたので、紅魔館に戻って身だしなみを整えてから参りました。そのせいでこれほど遅れてしまい、申し訳ございません。」
「いや……別に怒ってはいないんだけど……」
むしろ当分の間戻ってきてほしくはなかった。
レミリアは、声を絞り出すことで精一杯である。
「ちなみに、おつまみもいくつか料理係に見繕ってもらいました。」
「そ……そう……ありがとう咲夜。」
「お褒めに預かり光栄です。」
(迂闊だったわ……っ!!)
レミリアは自分の浅はかさを呪った。
咲夜はその気になれば、その能力で天道を止めることすら出来るのだ。
……ただし消費する魔力も半端ではないので、彼女はそれを滅多に使うことはない。
だが、「従者は常に主人の傍らに侍るものだ。」と常日頃言っている咲夜にとって、主人の命令とはいえ今回のようにレミリアの側から離れることは、彼女にとって非常事態とも言っていいことであった。
無論、非常事態に力をセーブする必要はない。
咲夜は文字通り全力で時間を止め、与えられた仕事を完遂してここへ来たのだろう。
レミリアは他の障害を気にするあまり、いつも傍らにいる、完璧で瀟洒な鉄壁のメイドの存在を忘れてしまっていたのである。
「……それはそうとお嬢様、霊夢を部屋に連れ込んでいったい何をなさろうと?」
そう言って、咲夜は目をすうっと目を細めた。
その迫力に、レミリアは思わずたじろいでしまう。
普段は主人としてイニシアチブを持つレミリアだが、こうなってしまっては最早蛇に睨まれた蛙である。
「い……いや、そのね……人も結構揃ったし、折角だから宴会をしようということになったの。」
「それは良いですね……で?」
「そ……それで皆で準備をしていたんだけど、霊夢がちょっと日頃の疲れで体調を崩しちゃって……」
「それで介抱してあげよう……と?」
「そ……そう!! そうなのよ!!」
「……そしてその隙に霊夢を押し倒してにゃんにゃんしよう……と?」
「そ……そう!! そうなのよ!!………………はっ!!」
動揺していたせいか、思いっきり誘導尋問に引っかかって自爆するレミリア。
咲夜の目が見る見るうちにきりきりと吊り上っていく。
「お嬢様、ですからいつも言っているように、霊夢に現を抜かすのをいい加減お止め下さいと……」
「あ――――!!……そうだわ!! そういえばここのご主人が『台所が狭いから大したものが出来ない。』って言っていたから、咲夜! 急いで料理をもってきて頂戴!! なるべく手間暇かけてね!!」
誤魔化すように叫んでから、必死に言い訳をするレミリア。
冷や汗を滝のように流しながらなので、説得力ないことこの上ない。
しかし彼女の必死の努力も、次の瞬間見事に打ち砕かれることとなった。
「ご安心ください。お嬢様ならそう仰ると思いまして、こちらにご用意させていただきました。」
咲夜が示した先には、五段重ねの重箱が用意されていた。
本当にどこまでも完璧な従者だ。ありがたくて涙が出てくる。
だが、このぐらいの量であればこの場にいる者たちならばすぐに食べることが可能だ。
ならばおかわりを持ってきてもらっているうちに……という手も……
「ちなみにこれでは足りないかと思いますので、今中国と小悪魔に頼んでおかわりを運ばせております。」
「ウボァ――――!!!!」
レミリアは今度こそ喀血した。
咲夜はどこまでも完璧な従者であった。
すると、ようやく頭を抱え続けていた霊夢がかっ!! と目を開けた。
「決まった!! 両方飲んじゃえば無問題よ!! 霖之助さん!! 魔理沙!! カラス!! 皆こっちで飲みましょ!!」
そう縁側に向かって叫ぶと、霊夢はレミリアからワインボトルを掻っ攫うと勝手に詮を開け始めた。
「よーし!! そうと決まれば早速飲むわよ――!!……何ボーっとしてるのよレミリア? アンタも付き合いなさい。」
「ええ……ええ……一晩中付き合ってあげるわよチクショー!!!!」
レミリアは泣きながらそう叫ぶと、咲夜から受け取ったワイングラスを霊夢に向かって突きつけた。
「あのー、どうでもいいがそこは僕の部屋なんだが……」
霊夢に呼ばれた霖之助が、遠慮がちに主を無視する客人に突っ込みを入れた。
「まぁいいじゃないか香霖。宴会やるのに縁側じゃ限度があるだろ?」
ようやく少しおとなしくなり、腰に抱きつくフランドールを引き摺りながら魔理沙が続いて入ってくる。
同じく文が、未だに抵抗してもがくチルノを押さえつけて引き摺りながらそれに続いた。
「そうですねー。いい加減暗くなってきたので目が見えなくなってきましたよ。」
「つーか鳥目だったのねアンタ……」
まぁ烏天狗だから似たようなものだろう。
そんな客人たちを見回して、霖之助は最早数えるのも馬鹿らしいほどの、今日何度目かのため息をついた。
「まぁ……いいか。じゃあ早速始めてしまおう。」
そう言って全員にコップを回す。
各々が好みの酒を注ぐと、それを高々と掲げて互いに打ち合わせた。
「「「「「「「「乾杯!!!!」」」」」」」」
………………
しばらくして、香霖堂はささやかな宴会場と化していた。
「みなさーん!! おかわりですよ――!!」
「おお、ようやく来ましたね。」
「遅いわよ門番―!! とっとと酒持ってきなさい!!」
「ちょ、ちょっと待ってて下さーい。」
咲夜の命により美鈴と小悪魔が紅魔館から呼ばれ、様々な料理と食材、そして酒樽を持ち出し、給仕係として奔走していた。
「あ……あのー……美鈴さん……何で私たちがこんなことしてるんでしょう……」
「仕方ないわよ……お嬢様と妹様、それに咲夜さんまでいるんだから……」
「パチュリー様から本の整理頼まれてるのに~……」
「まだいいわよ……私なんかさっきまで生き埋めにされてたのよ……」
「……大変ですね~……」
「……大変よねぇ……」
「「……はぁ~あ……」」
そんな風に台所で料理を作っている小悪魔と美鈴がぼやいている間にも、宴会は続いていた。次々とつまみや料理の皿が空けられ、空の一升瓶とワインボトル、酒樽がどんどんと増えていく。
もう既に何人かはすっかり出来上がり、酒に強い者もほろ酔い気分になっていた。
「だからねフラン――――、あたいは馬鹿なんかじゃないのら――――!!」
「あははははははは!! そうだよねー、ちるのは馬鹿なんかじゃないよね――、まるきゅうだもんね――――!!」
「そうら、そうら――!! バカなんかじゃないろ――――!!」
「きゃははははは!!!!」
これも酒の魔力というものだろうか?
今日知り合ったばかりのチルノとフランドールであるが、精神年齢がほとんど同じなせいか酔っ払ってからというもの、いやに気が合っていた。
しかも、フランドールがいつもの危険な遊びをしようとする様子は全く見られない。
それどころかチルノにちょっかいを出されて叩かれようが、何をされようともただただ笑っている。
酔いが良いほうに作用している例といえる。
「レミリア……今日のアンタは綺麗ね……」
「あ……そんな……いけないわ霊夢……」
「ふふふ……今日もたっぷりとかわいがってあげるわ……」
「れ……レミリア様……私も混ぜていただけますか……?」
これは悪い例。
「私の――!! 私の目標は!! 『文々。新聞』を天狗界――いや、幻想郷一の新聞となるまで広めることであります!!」
「おおー、いいぞいいぞ烏――――!!!」
「さらに!! 今回の宴会の記事を機に、この泥沼のようなスランプから脱してみせます――――!!!」
「うおおおおおおお!!! 応援してるぞ烏――――!!!」
文と魔理沙は何だか訳の分からないテンションになって、演説と合いの手を繰り返している。
今現在、ここは幻想郷の中でも指折りのカオススポットと化していた。
酒とはかくも恐ろしいものである。
そんな彼女たちを霖之助は一人、それを微笑んで眺めていた。
いつも彼は思う。
本当に彼女たちは、見ていて飽きることがない。
石のように停滞を続けていたかと思うと、次の瞬間には鼠花火のように激しく動き回り、笑い、泣き、怒り、そのうち周りの者も巻き込んでしまう。
彼女たちと一緒にいれば、誰もが笑顔を取り戻せる。誰もが涙を取り戻せる。誰もが怒りを思い出せる。
自分も、その一人だった。
大切なものを失い、その穴を少しでも埋めようと、満たそうとして魔術を学んだあの日。
この世界の愛すべき隣人をすべて敵だと思い、滅ぼそうともがき、この肉体を手に入れたあの日。
自分という存在を劇的に変えた事象だけは思い出せる。
だが、それは色あせた写真のようにぼやけていた。
日々の記憶は、まるで出来の悪い抽象画のよう。
全てが漠然とし、頭の中を全て洗い流したとしても、決して思い出せないような無機質な日々。
自分がどんな風に笑っていたのか、どんな風に泣いていたのか、どんな風に怒っていたのかも、思い出せない。
そして、それ以前に自分がちゃんと動いていたのかも分からない。
あの頃の自分は、人形であった。
誰かにぜんまいを巻いてもらわねば何も出来ない、からくり人形。
自分は動いていた、と言える日々も確かにあった。
それも、ただ単に記憶が新しいから覚えているというだけ。
それは灰色で、緩慢で、霞がかかっていた。
しかし、ある日を境に記憶は色を取り戻す。
特に目的もなく、ある老人に師事を受けていたある日、彼が一人の幼子を連れてきた。
老人の孫娘だというその幼子は、自分を見るなりこう言った。
『これからオマエはわたしのこぶんだ!!』
そして幼子は老人に叱られ、叩かれ、べそをかいた。
この世の終わりの如く泣き叫ぶその幼子を見て、騒がしい子だと思った。
面倒はごめんだとばかりに自分はその子から離れたが、老人は幼子を自分にまかせると言ってそのまま立ち去った。
いつまでも泣き続ける幼子と家に二人きりにされ、どうしたものかと戸惑った。
こういう時はどうするのかも、自分は忘れてしまっていた。
だがしばらく幼子を見ていると、無意識に、自分の手が彼女の頭を撫でていた。
遠い昔、かつて自分が※※※※にしたように。
すると幼子は少しきょとん……とした後、花が咲いたかのような笑顔を浮かべた。
先ほどまで泣いていたのが嘘のように、明るく、楽しそうに笑った。
それを見ていたら、いつの間にか自分の口元が引きつっているのに気付いた。
思わず顔を手にやると、自分の口が弧を描いていた。
これは……何といったっけ?
そう……これはエガオ……
これは……笑顔だ。
それを思い出すと、次第に自然と声が漏れていた。
そうだ……これは笑い声だ。
気付くと自分は、幼子と供に笑い合っていた。
そのうち笑いすぎて苦しくなってくると、目から水が滲み出た。
そうだ……これは涙だ。
そして、しばらくして二人の笑いが治まると、自分は幼子の名前を訊ねた。
その幼子は元気に、大きな声でひとつの名前を口にした。
霧雨 魔理沙。
それが、愛しい妹弟子との出会いだった。
あのおかげで、霖之助は思い出したのだ。
笑顔を、そして涙を。
そして……自分の大切な人の顔を。
彼女のおかげで、灰色の世界から抜け出すことが出来た。
……失いたくない。
この少女を、この少女がいる世界を、失いたくない。
自分の長すぎる生を、これほど恨んだ事も無かった。
とんとん
不意に肩を叩かれ、霖之助は回想から引き戻された。
後ろを振り向いても、そこには壁しかない。
(……こんな回りくどい呼び方をするのは、彼女しかいないだろうな。)
霖之助はそっ……と立ち上がって部屋を出ると、縁側から外へ出ようとした。
それに気付いた魔理沙が、赤くなった顔を部屋の中から突き出し、声をかけた。
「おーい、何処行くんだ香霖?」
「ああ、ちょっと酔ってしまってね。少しそこら辺を歩いて酔い覚ましをしてくるよ。」
「ふーん……気をつけてな。」
そう言って魔理沙は顔を部屋に引っ込めた。
それを見届けてから、霖之助は静かに森の暗闇の中へと入っていった。
虫の鳴き声が辺りに響き渡り、時折吹くそよ風に木々がざわめく。
今夜は朧月夜。
月が隠れている間、木々の闇は全てを遮り、自分がどちらを向いているか分からなくなるほどだ。
しかし、この森は霖之助にとって庭のようなもの。
たとえ全く明かりが無くとも、自由に歩き回ることが出来た。
霖之助は何処へ向かうわけでもなく、見え隠れする月を見据えながら歩み続ける。
不意に、あれほど騒がしかった虫の鳴き声が、ぴたりと止んだ。
木々も、ざわめくのを止める。
耳が痛いほどの静寂が、辺りを支配する。
そして同時に、体を押しつぶすような重圧が、霖之助を包んだ。
それは威圧感、あるいは恐怖。
生命に溢れるこの森が、息を殺してひれ伏すほどの力。
ぎちり
ガラスをこすりつけるような、耳障りな音が響く。
霖之助はそちらに振り向くが、誰もいない。
月を隠していた雲が晴れ、淡い月光がさあっと降り注ぐ。
次の瞬間には霖之助の目の前には、空間のスキマに腰掛ける、豪奢な衣装に身を包んだ女がいた。
彼女は手にした扇子を優雅に口に当てると、くすくすと笑みをこぼした。
「おひさしぶりね、香霖堂のご主人。……とは言っても会ったのはつい最近だったかしら?」
「ああ、その節はどうも。おかげで店の中を空にせずに済んだよ。」
「あら? 気にしなくてもよろしくてよ? どうせ私がスキマに捨てたガラクタですもの。」
「随分と高価なガラクタもあったものだ。あの価値を知らないとは、無知は罪というものだよ八雲 紫。」
「そうかしら? それがいくら貴重なものであっても、使う者が興味を失ったら最後、それはガラクタに成り果てるのよ。」
「だがそれを拾うものもいる。世の中というものは良く出来ているよ。」
「ええ、全くね。」
月光の下、女――八雲 紫と霖之助はそんな挨拶を交わした。
霖之助は手近な木に身を預け、紫に用件を訊ねる。
「で……一体何の用だい八雲 紫? 今、宴会を開いているから、なるべく手短にお願いしたいんだが……」
「あら? 主催者が碌に会話に参加しないで物思いに耽っているなんて、珍しいことね。」
「……覗きとは随分と悪趣味だな。」
「何を今更……私が悪趣味だということは遥か、昔に、ご存知でしょう?」
紫は優雅に微笑みながら、遥か昔に、という部分をことさらに強調した。
……それは霖之助にとって痛烈な皮肉であった。
「……生憎と、よく覚えていないものでね。……で、改めて聞こう。用件は何だい?」
「古い知人と昔話をしに来た……じゃ駄目かしら?」
「脈絡がないな……とは言っても君の行動が唐突なのはいつものことか。」
「あら酷い。これでも私は計算高い女だって巷で評判なのよ?」
「……それは随分と好意的な意見だな。良い友人をもっているようだね。」
「ええ、お褒めに預かり光栄ですわ。」
「……君とこういう不毛な論戦をするつもりは無いんだけどね。」
霖之助は少しイライラした様子で不毛な言い争いを打ち切った。
それはいつもなら魔理沙たちには決して見せない表情だ。
「でも昔話をしに来たというのは本当よ? 儚すぎる短き生を生きる者、もしくは未だ別れを知らない長きを生きる者を見て、憧れを覚え、嫉妬する……そんな感情を共有できる数少ない友人と……ね?」
そんな霖之助の表情を楽しむかのように、紫は扇子の下で笑みを深める。
それに対して、霖之助は嘲笑を浮かべた。
それは彼のものとは思えないほど、冷たく、そして無機質だった。
「さっきも言ったとおり、僕は昔のことはほとんど忘れてしまっている。だからそんな感情を浮かべたことも忘れたし、どんな者たちと出会ったかも忘れた。物思いに耽るなら、一人でやっていてくれ。はっきり言って迷惑だ。」
すると紫は笑みを浮かべるのを止め、冷たい目で霖之助を見つめた。
「たった十数年で変わっていくあの娘を見て、変わらない自分を呪っているのに?」
「……なに……?」
紫の言葉に、霖之助の顔が怒りと驚愕に歪む。
「楽しげに騒ぐあの娘たちを見て、この幸せが崩れてしまうことを恐れているというのに?」
「……なんの……ことだ……?」
紫はかっ!! と目を見開くと、静かに、しかし燃え上がるように激しく言葉をぶつけた。
「過去から目を背けるのは止しなさい。」
「……!!」
「過去のあの頃が、灰色であったということを嫌というほど覚えているからこそ、貴方はあの娘たちに憧れを覚えるのでしょう? 自分の生に空しさを覚えるのでしょう? あの娘たちがいない世界を恐れるのでしょう?」
「……何故……?」
「なぜ分かったのかって? 私が何者なのかをお忘れ? 私はスキマ妖怪……心のスキマを覗き、精神という名の結界を破ることなど造作も無いことよ。」
「……く……っ……!!」
紫は容赦なく霖之助を言の葉で追い詰めていく。
動揺する彼を見て、再び紫の顔に笑みがこぼれる。
ただし、今のそれは嘲笑を形作っていた。
「本当の私の用件を言ってあげましょうか? 過去から逃げ、目の前の幸せに逃げ、そして目の前の幸せが無くなる事を恐れることしか出来ない哀れな蓬莱人を……あざ笑いにきたのよ。」
「黙れっ!!!!」
霖之助が怒声を上げた。
それだけで周りの草木が揺らぎ、激しい風が紫を襲った。
しかし紫はそれに全く動じず、ただくすくすと笑みを浮かべるだけだ。
ただし、その笑みから嘲笑は消えていた。
「……それでいいのよ。貴方も男の子なんだから、たまには感情的になったほうがいいわよ? それに、周りが楽しんでいるのに一人だけウジウジしているなんて、宴会に対して失礼よ?」
「あ……」
紫のその一言に、霖之助は今まで自分がからかわれていたことにようやく気付いた。
迫真の演技でそれを実行に移す紫に、そしてそれに引っかかった自分に呆れる余り苦笑することしか出来ない。
おそらくこれが、紫なりの人の励まし方なのだろう。
「全く……君という奴は、いつまでたっても悪戯癖と、底意地の悪い性格が抜けないな。」
「そういう貴方も、自分の殻に閉じこもって何でも自己完結しようとする癖が全く変わらないわ。」
いつしか先ほどのような張り詰めた空気は無くなり、そこにはただ昔を懐かしむ旧友同士がいた。
紫はスキマから降り、霖之助の傍らに腰掛ける。霖之助もそれに倣った。
そして二人並んで、月夜を見上げる。
「私たちが知り合ったのは……どのくらい前だったかしらね?」
「忘れたよ……残念ながら、本当に忘れてしまった。」
「ええ、私も……ただ、貴方が見るも無残な状態だったことは覚えているわ。心も、体もね。」
「……ああ、それだけは覚えている。」
――遠い、数えることすら馬鹿らしくなるほど、遠い昔の話。
まだ幻想郷が生まれる、遥か昔のことだ。
都から離れた小さな村で、親を亡くしながらも精一杯仲良く暮らす、兄妹がいた。
兄は生まれつき眼が悪かったものの、とても賢く、幼いながらも村一番の知恵者として知られていた。
妹はそんな兄を助け、体の弱い兄を引っ張って野山で遊ぶ男勝りで、美しい娘だった。
彼らは親切な村人に支えられ、幸せに暮らしていた。
――――暮らしていく、筈だった。
ある日、村を妖怪が襲った。
その人食いの妖怪は無数の子分を引き連れ、途轍もない力で家を壊し、人々を襲い、喰らった。
兄妹も例外ではなかった。
山の中を必死に走り、なんとかして妖怪たちから逃れようとした。
だが、所詮は子供の足。逃げ切れるわけが無い。
いよいよ追い詰められた時、妹は兄を庇い、木の洞に彼を押し込み、蓋をして隠した。
その結果妹は身代わりに喰われ、死んだ。
兄はその間、洞の中で震えていた。
妹を助けようなどという気持ちはこれっぽっちも湧かなかった。
ただ自分が助かりたい一心で、嗚咽を押し殺し、息を潜め続けた。
イヤナオトが聞こえてきても、必死に耳を塞いで頭から追い出した。
全てが終わり、兄が洞から出ると、そこには妹はいなかった。
あるのは只、血の跡と骨の欠片、そして長くて美しい、黒い髪だけだった。
それをかき抱き、最早兄ではなくなった少年は呪った。
妖怪を、この世界を、何より無力な自分自身を。
必死に生き延びた少年は、その日からがむしゃらに力を求めた。
幼少の頃、霖之助がはっきりと思い出せるのはそこまでだ。
あとはただ血を吐きながら、あらゆる冥府魔道の力を求め続ける、地獄のような日々の繰り返し。
そんな日々が数え切れないほど繰り返されたある日のこと、霖之助は一人の妖怪と対峙する。
それこそ、当時最強と恐れられた妖怪、八雲 紫であった。
場所は、昼なお暗い竹林。
勝負は、最初から付いていたようなものだった。
霖之助の打ち込む弾幕は、スキマに飲まれて紫の体に全く届くことは無く、
紫が戯れに打つ弾幕は、霖之助の結界を全て打ち砕く。
数刻とかからず、霖之助は血まみれになって倒れ付していた。
「それにしても不思議だね……君のように化け物みたいな妖怪を、どうして倒そうなんて思ったのか。」
「あら失礼ね? こんなか弱い乙女を捕まえて化け物だなんて。私から言わせてもらえば、あの頃の私と戦って生きていた人間のほうが、よっぽど化け物だと思うけど?」
「買いかぶりは止してくれ。あれはただ単に君の温情だろう?」
だが、紫は結局最後まで、霖之助を殺すことは無かった。
紫は、彼が動けなくなるまで痛めつけると、その場を立ち去ったのである。
「それが温情だろうと何だろうと、当時の私が見逃すということは、貴方が並みの人間じゃなかったということよ。」
「それじゃあ聞くけれど、あの時の僕のどんな所が、並じゃなかったんだい?」
「さてさて何だったかしら?」
相変わらずからかうような口調ではぐらかす紫。
だが、それは彼女の本心であった。
あの頃の「血気盛ん」だった自分が、生意気にも噛み付いてきた人間を殺さないなど、はっきり言ってありえなかった。
「……まぁ強いて言えば、あの時の、貴方の目かしらね。」
「……目?」
「そう、自分の身など省みずに目の前の私を滅ぼそうとする、ひたむきさと狂気、そして悲しみが混ざり合った目……あんなものを見たのは、生まれて初めてだったわ。」
紫は、その目に何か得体の知れない何かを感じた。
今思えば、それは恐怖であったのかもしれない。
――この人間はたとえ首だけになろうとも、最後には窮鼠が猫を噛むかのように自分に一矢を報い、自分は死なないまでも無事には済まないだろう。
そう思い、紫は霖之助が動けなくなると、すぐに立ち去った。
そのような考えを、人間に対して一瞬でも考えてしまった自分を恥じるように。
「……その後のことは知らないから、貴方が私を責めるのはお門違いよ?」
少し上目遣いに、すねたように言う紫に、霖之助は苦笑で答える。
「確かに君に打ち負かされたことがきっかけだったのは確かだけれど、決めたのは僕だ。……誰も責めることは出来ないし、責める気も無いよ。」
「そう……じゃあ、その時貴方がどんな風に、どんな考えで不死を得たのか、良ければ聞かせて頂戴?」
「ああ、構わないよ。」
一方、紫がそのようなことを考えているとは全く知らない霖之助は、ただ自分が妖怪の戯れで命を救われたと思った。
自分の仇である妖怪に、である。
悔しかった。
血まみれの体を引き摺りながら、霖之助はむせび泣いた。
この咽を掻っ切って、死んでしまおうかと思った。
だが、死ぬわけにはいかない。
自分は何としても、大切な人々を奪った妖怪を、打ち滅ぼさなければならないのだ。
そう自分自身を鼓舞して立ち上がると、重い体を引き摺って歩いた。
傷を癒さなければ。
こんな状態で妖怪にでも出会おうものなら、一瞬で喰われかねない。
しばらく歩き、荒れ果てた屋敷を見つけ、傷が癒えるまでしばらくその場所で休むことにした。
屋敷に何か食料が残っていないか調べていると、奥の主人の部屋らしき場所で隠し扉を見つけた。
巧妙に隠されたその中には、一つの小ぶりの壷があった。
傍らには、短い文が書かれた一枚の木簡。
その文面に、霖之助は驚愕した。
そこには、こう記されていた。
『我が愛娘の残せし不死の秘薬、その片割れをここに封ず』
それがここに置かれた経緯は分からなかったが、それはその時の彼にはどうでもいいことだった。
神話の世界の物品が、目の前にある。
――蓬莱の薬。
震える手でその壷に触れると、霖之助の能力は、確かにそれが本物であることを告げた。
「蓬莱山 輝夜が地上に残した不死の薬……時の帝が焼いたもの、藤原 妹紅が奪ったものの他に、まさかもう一つあったなんてね……」
「……悩んだよ、それを見たときは。それを飲むか、飲まざるべきか……」
「何故? 貴方ほどの人間が永遠の生を手に入れたならば、本当に私たち……妖怪を根絶やしにすることは十分に可能……その時の貴方にとっては、すぐに飛びついてもおかしくないほどの代物だったのでしょう?」
どこか試すような口調で、紫が問いかける。
「……同じだと、思ったからだよ。」
少し躊躇いながら、霖之助は呟いた。
「同じ?」
「ああ、決して死なず、永遠に生きる体……そんなものを手に入れた自分は、最早人間では無く、自分が目の敵にする、妖怪たちと同類なんじゃないか……ってね。」
その自問に近い霖之助の言葉に、紫は答えず、逆に彼に問うた。
「……でも結局貴方はそれを飲んだ……何故?」
「今思うと、単純で幼稚な理由さ……妹を殺した仇を、まだ倒していなかったんだ。」
その妖怪は紫ほどではないにせよ、途轍もない力を持ち、山や海すら越えて悪事を働いていたのである。
あの日から十数年、その時の霖之助は妖怪の、手がかりすら掴めていなかった。
「……愚かだ。愚かだったよ、あの時の僕は。」
あの時の自分は、奴を倒した後のことを、全く考えていなかった。
妹の仇を討つという目的を遂げた後のことを、全く考えていなかったのだ。
……それからまた、数えるのも馬鹿らしくなるほどの年月がたった頃、彼は仇に出会った。
無論、その妖怪は霖之助の村のことなど、当の昔に忘れていた。
蓬莱人となった霖之助は、そいつに自分の不死をありありと見せつけ、絶望をたっぷりと植えつけた後に、嬲り殺しにした。
自分の妹の無念を晴らすかのように。
今までそいつに喰われた人々の無念を晴らすかのように。
仇の肉片を踏みつけ、霖之助は快哉を叫んだ。
……その後に霖之助に残ったのは、空しさを通り越した、虚無感だけだった。
――自分は数百年間、唯一つの目的のために生きてきた。
それが遂げられた今、自分は何をすればいいのか?
自分は何のために生きていけばいいのか?
人々の輪に戻ろうとも思った。
だが、人々は霖之助一人を置いて、皆逝ってしまう。
それら全ての事実が、霖之助を責め、苛んだ。
そして、何よりも――――
妹の顔を、思い出せなくなっていた。
あれほど愛していたのに。
あれほど愛されていたのに。
長すぎる時の流れは、霖之助から最愛の者の面影すら奪っていたのだ。
その事実に、霖之助は最早絶望すら抱くことが出来なかった。
その事実を知った瞬間、霖之助の心は砕け散っていたから。
……霖之助は、その日から生きることを止めた。
「それから先は……全く覚えていない。自分が、どうなったかもね。」
「そう……そんなことがあったのね……あの時の貴方の惨状も納得がいくわ。」
どのような因果か、紫が霖之助に再会したのは、幻想郷が出来て間もない頃。
人一人いない山の洞窟に、霖之助はいた。
生きながらに、苔むしていた。
動くことを忘れ、言葉を忘れ、感情を忘れ、そして生きることすら忘れていた。
そんな彼を紫は助け、迷い家で介抱した。
「あの時は大変だったわね……何とか日常生活が出来るようになるのに、百年近くかかったわ。」
「そんなにかかったのか……まるで気がつかなかったよ。」
霖之助にとって、当時の記憶は曖昧だ。
数百年間心が死んでいた彼にとって、それは仕方の無いことだった。
「人の気も知らないで呑気なものね……藍の世話と貴方の世話で、毎日目が回る程だったのよ?」
「後のほうでは、君が式に世話をしてもらっていたように見えたけどね。」
「そういうどうでもいいことだけは覚えているなんて、意地悪ね。」
紫はそう言って頬を膨らませるが、目は笑っている。
「まぁ、あの時の生活は暇つぶしにはなったから、そのことに関しては不問にするわ。」
「はははは……ありがとう。」
当時の霖之助は何の感慨も浮かべることが出来なかったが、今思うと、それは何か心の隙間が埋まっていくかのような、温かい日々であった。
暫くそうして笑い合っていたが、不意に霖之助が口を開いた。
先ほどまでのにこやかな表情は消えてしまっていた。
「……何故、覚えていたんだい?」
「……え?」
「……ずっと気になっていたんだ。何故君は、再び僕に会った時、アレが僕だと分かったんだい?」
思えば当然のことだ。
霖之助にとっては、紫は自分が蓬莱人になったきっかけを作った、決して忘れることの出来ない存在である。
しかし紫にとっては、彼は自分と相対して生き残った者の一人という存在でしかない。
あの長すぎる時の中で、記憶の片隅に追いやられていて当然だ。
「けれど君は覚えていた……何故だい?」
「……そんなの当たり前でしょう?」
真剣に問いかける霖之助とは対照的に、紫はどこかおどけた様子でそれに答えた。
「誰だって、初恋の人のことはいつまでたっても忘れないものよ?」
「なっ………!!!」
そして妖しげな視線を霖之助に向けた。
彼女の予想外の言葉と行動に、霖之助は激しく動揺する。
それを見て、紫は耐え切れないとばかりに吹き出した。
「うふふふふ……冗談よ冗談。長く生きている割にジョークが通じないなんて、貴方頭が固いにも程があるわよ?」
「……そんな性質の悪い冗談があるか!」
紫の冗談に引っかかったことと、あの妖艶な笑みの余韻で顔を赤くしながら、霖之助が叫んだ。
それに追い討ちをかけるかのように、紫が霖之助に詰め寄る。
「初恋といえば……あの妖精のおちびさん、貴方をこの頃意識しているみたいよ?」
「……チルノが? ははは……いや、まさか……」
「あら、子供っぽいって言っても、あのおちびさんも立派な女よ? 色恋の一つや二つ、普通のことだわ。」
そして紫はからかうかのように、扇でひらひらと霖之助の顔を扇ぐ。
霖之助はもう動揺から立ち直ったのか、それに対して冷静に答えた。
「いや、あのお転婆な子に限って、僕みたいな野暮ったい人間に惹かれる何てことはありえないよ。」
紫はわざとらしく深いため息をついた。
「本当に鈍いわねぇ……これじゃあの子も報われないわ。」
「……あの子? 誰のことだい?」
「……本当にもう……わざとやってるんじゃないの貴方? 魔理沙のことよ。」
「そ……それは……」
魔理沙の名前を聞いて、明らかに霖之助が顔を赤らめた。
それを見逃す紫ではない。
「あらあら、随分と可愛らしい反応ね?……で、どうなのあの子とは? お姉さんに教えてくれない?」
少しばかり図々しい事を言って迫る紫。
霖之助はしどろもどろになりながらも答えた。
「べ……別に何でもないさ。ただのかわいい妹弟子だよ。」
「あら、そうなの?」
「……ああ、別に、特別な関係ではないよ。」
「ふーん……本気でそう思っているとしたら、貴方って酷い人ね。」
「……どうしてだい?」
紫は扇で口元を隠すと、意地の悪い笑みを浮かべた。
「あの子の頭の中、四六時中貴方のことで一杯なのに。」
「!!」
「それはここ最近の事じゃないわ。小さい頃から、あの子は貴方を見続けていたわ。寝ても、覚めてもね。」
「……何でそんなことが……」
「言ったでしょう? 私にとって、人の心の中を覗くことは容易いって。」
「…………」
「そろそろ観念したらどう?……本当はあの子が貴方をどう思っているか、気づいているんでしょう?」
紫は静かに立ち上がり、夜空を見上げた。
雲は晴れ、そこには美しい下弦を描く月がある。
「あの子は……魔理沙は、おそらく幻想郷の中で誰よりも……森近 霖之助という人間を愛しているわ。そして貴方もまた、霧雨 魔理沙という人間を誰よりも愛している……なのに、彼女の思いに答えてあげないのは……何故?」
振り向いた紫の顔からは、最早からかいを含んだ表情は消え、只そこには幻想郷を見続けてきた大妖怪の威厳を持った厳しい表情だけがある。
その射抜くような眼光に耐えることが出来ず、霖之助は目を逸らし、俯きながら答えた。
「…………僕は、彼女と同じ時間は歩めない。」
俯いた彼の表情は、陰になって伺うことは出来ない。
「彼女の時間はこれからも動き続ける……死ぬまでそれは止まることは無い……だけど、僕の時間はこれからもずっと止まったままだ。」
紫は黙って霖之助の独白を聞いている。
虫の音と、風の音が辺りをざわめかせた。
「……怖いんだ。そんな僕を、魔理沙が拒まないかどうか考えると、僕が彼女をいつか記憶の片隅に追いやってしまうかもしれないと考えると、堪らなく……怖いんだ。」
魔理沙と共に人生を歩んで行きたい。魔理沙と共に年老いて行きたい。
それが霖之助にとっての望み。
――――だがそれは決して適わない望み。
「失いたくない……だけど……失うことが分かっているから、悔しいんだ。」
紫は俯く霖之助の傍らに座ると、彼の頭をそっ……と抱き寄せ、優しく囁いた。
「馬鹿ね。そんなにも彼女を思うことが出来るのなら、貴方は決して忘れることなんか無いわ……永遠にね。」
霖之助は泣いていた。
只静かに、嗚咽を漏らす事無く、夜露が流れるように、泣いていた。
「そして魔理沙は、『貴方』が好きなのよ。『貴方』という存在そのものが好きなの……拒むことなんて、絶対にありっこないわ。」
「……すまない紫……すまない……僕は…………」
「気にすることは無いわ……泣きなさい……今は只、泣いていいのよ。」
そう言って紫は、少し力を込めて霖之助を抱きしめた。
全てを受け入れるかのように、強く、そして優しく。
霖之助は声を上げて泣いた。
ただ、ただ童のように。
全ての理性を捨てて、溢れ出る感情のままに、むせび泣いた。
紫は微笑みながら、そんな彼の背を、あやすように撫で続けた。
霖之助が泣きに泣いて落ち着くと、紫は身を離して立ち上がり、霖之助を覗き込んだ。
「……少しは落ち着いたかしら?」
「……ああ、ありがとう。少しみっともない所を見せてしまったな。」
「この私が胸を貸してあげたのよ? 感謝しなさいな。」
紫はそう言って笑うと、月光を浴びるかのように伸びをした。
そして霖之助に背を向けながら呟いた。
「だけどいい物を見せてもらったから、おあいこでいいわ。」
「え?」
霖之助は何のことだか分からずに、首をかしげた。
紫は答えずに、背を向けたまま言葉を続ける。
「貴方と出会った時、貴方と暮らしていた間、見られなかった顔が見られたわ……ずっとずっと見たかったものが、やっとね。」
初めて戦慄を覚えた人間と出会い、別れた後、彼があの狂気の他にどんな表情を浮かべるのか気になった。
暇なときは、それを考えて生きてきた。
だから、ずっと彼を覚えていた。
「本当に見たかったのよ? 貴方の表情を。だけど出来なくて、しかもあんな小さい子に先に見られてしまって……ちょっと妬けちゃって、殺してやろうと思ったこともあったわ。」
紫の言葉に、霖之助は何も返すことが出来ない。
彼女の背中が、何故だかとても弱々しく見えたから。
「私が百年間ずっと見たくても見られなかった物を、あの子は……魔理沙はいとも簡単に手に入れた。…………だけど、そんなあの子がまだ見ていないものを、私は今見ることが出来たわ。」
「……紫……君は…………」
「だから私は……満足よ?」
紫はくるりと振り向いて微笑んだ。
霖之助には、それがとても寂しげなものに見えた。
「紫……すまない…………僕は…………」
霖之助は、それに続く言葉を中々口にすることが出来なかった。
それは目の前の女性を、傷つけることになるから。
だがその前に、そっと伸ばされた紫の指が、霖之助の唇を押さえていた。
「もう……貴方はもうあの子を愛しているんでしょう? だったら振った女に情けなんかかけちゃ駄目よ? ちゃんと後腐れなくすっぱり別れなくちゃ。」
めっ、と霖之助の額を指で弾くと、呆然とする霖之助の顔を見て、くすくすと笑った。
「それに今のは独り言。まだ乳臭いお子様なんかに大人気なく嫉妬した、情けない女の独り言よ? 律儀に反応なんかするものじゃないわ。」
「……ありがとう。」
「独り言に対して礼を言うなんて、変わった人ね。」
「ははは……、君ほどじゃないと思うけどね。」
そして、最後にはいつもどおりの、皮肉の応酬な彼らの会話になった。
そして紫は扇を何も無い空間にかざし、上から下に線を引くかのように動かす。
すると、ガラスが擦り合わさるような耳障りな音と共に、空間にスキマが生じた。
紫はそれに手を掛け、霖之助のほうを振り向いて別れを告げる。
「それじゃあそろそろ眠たくなってきたことだし、そろそろ帰らせて頂くわ? 今度来た時は、お茶でもご馳走して頂戴。」
「ああ、冷やかしじゃなければ、いつでも大歓迎だよ。」
「そろそろ向こうの宴会も終わっている頃でしょう。……しっかりね。」
その言葉を最後に、紫の姿はスキマの中に消えて行った。
霖之助は彼女の気配が無くなったのを確認すると、静かに香霖堂へと足を向けた。
霖之助が戻ると、香霖堂の中の騒ぎは大分収まっていた。
部屋を覗き込むと、フランドールとチルノが抱き合って眠り、美鈴と小悪魔が二人で愚痴りながら、余った酒をちゃんぽんにして飲んでいた。
「ひくしょ―……やってられませんよぅ―……」
「全くあの洗濯板ったら、給仕が遅れればナイフ、料理が切れればナイフ、ナイフナイフナイフ……いい加減にしてほしいわよー……ヒック…………」
何だか静かに盛り上がっているのでそっとしておくことにした。
奥の方からは、霊夢とレミリアの声が聞こえてくる。
「くっ!! やるわねレミリア!! もう一回勝負よ!!」
「ふふふふふ…………私のテクニックに勝てるのかしら?……ほら咲夜しっかりしなさい。まだ七回戦よ!!」
「も……もう無理ですお嬢様…………ガクッ」
「さ……咲夜っ!! おのれ霊夢!! 咲夜の仇、必ずや取って見せるわ!!」
「望むところよ!!」
……フランドールとチルノが寝ていて本当に良かった。
絶対に奥へは入らないことを硬く誓いながら、縁側に座り込む。
しばらく霖之助が虫の音に聞き入っていると、台所から顔を真っ赤にした魔理沙が出てきた。
相当酔っているようで、足元がおぼつかないし、目も虚ろだ。
「だ……大丈夫かい魔理沙?」
「あー、こうりんだ――。ろこ行ってたんら――――? 心配したんらぉ――?」
呂律の回らない声でそう言うと、魔理沙は霖之助の膝を枕にごろんと寝転がった。
「お、おい魔理沙、大丈夫かい?」
「ちょ……ちょっろ飲みすぎた――――。ここで休ませてくれ――――。」
そう言うと、魔理沙はすぐに寝息を立て始めた。
相変わらずとても寝つきがいい。
昔もよく魔理沙はこうやって眠くなると、すぐに布団には入らずに、自分の所に来て子守唄や、昔話を読むことをせがみ、眠りについた。
寝床まで彼女を運ぶのは彼の役目だ。
その体は羽根のように軽く、とても温かかったことを覚えている。
「なぁ――、こうりーん。」
そんなことを思い出して笑っていると、いつの間にか目覚めていたのか、魔理沙が声を掛けてきた。
目を瞑ったまま話しているのを見ると、どうやらほとんど寝言のようだ。
だが霖之助は律儀に声を返してあげた。
「なんだい、魔理沙?」
「こうりんってさぁ――――昔からちっとも変わってないよな――――」
「!!」
その思いがけない魔理沙の言葉に、思わず動揺して魔理沙の頭をずり落としそうになってしまう。
慌ててそれを押さえて、何とか動揺を隠そうとする。
だがそんな霖之助の心に構わず、魔理沙の寝言は続く。
「えへへへへへ…………結婚したら、自慢できるな――――『私の旦那はいつまでも若いんだぞ』ってな――――」
「…………」
「こうりんはそれ気にしてるみたいだけど――――わたしは――――気にしないぜ――――」
「魔理沙…………」
「だって…………わたしは…………こうりんの…………全部が……好…………」
そこまで言うと、魔理沙はぐー、と鼾をかき始めた。
霖之助はその魔理沙の言葉が、心の中に染み入ったような気がした。
『そして魔理沙は、『貴方』が好きなのよ。『貴方』という存在そのものが好きなの……拒むことなんて、絶対にありっこないわ。』
紫の言葉は真実なのだと、強く、強く実感出来た。
「魔理沙…………ありがとう。」
魔理沙の耳元にそう囁くと、霖之助は続いてもう一言、囁いた。
「……そして、愛しているよ」
二人の影が、重なった。
「ん…………」
魔理沙はその瞬間少し寝返りをうった。
だが、その顔にはいつの間にか笑顔が浮かび、酔いとは別の赤みがさしていた。
幻想郷の夏の夜、そんな二人を、空に浮かぶ月と森、そして虫たちと烏だけが見ていた。
香×魔推奨の自分としては満喫させて貰いました
他は、朴念仁かと思っていた香霖が実は蓬莱人…というドク氏の独自設定も良かったんですが、そうなるんであれば、この最終話は電撃萌王10月号(香霖堂第19話収録)が発売される前に出して欲しかったなという残念な気持ちがありますね…。
そうすれば100点あげれました。
それとミスを発見。
>紫が霖之助に再開したのは
再開×→再会○
>『私の旦那はいつまでも若いだぞ』
若いだぞ×→若いんだぞ○
色々失礼な事言ってすいませんでした。デビュー連載作品、お疲れ様でした。
>>思想の狼さん
ミスの指摘ありがとうございます。
香霖堂は実は一回も読んだことがありません……。
萌王は何故か自分の活動範囲内の本屋に無いんですよねー(汗
かと言って定期購読する財力も無くw
単行本とかって出るんですかね?
最後は奥が深い話になるとは・・・・
・・・・・・・・・・・
しかし美鈴の存在を綺麗さっぱりと忘れてました(笑
100点!