「――よし、決めた!」
とある日。起きるなりレミリアはそんなことを言った。
ベッドから飛び下りると珍しく自分で着替えて外に出る。目指すはパチュリーのいる魔法図書館。お辞儀をするメイドたちには目もくれずひたすら進んでいく。途中で歩くのが面倒臭くなって走って飛んで。そして魔法図書館到着。
「入るわよ、パチェ」
レミリアはノックもせず返事も待たずにドアを開ける。まあ、呼べばそこにいるメイド長や勝手に入ってきて本だけさらっていく黒白の魔法使いがいるのだから、ここでそんなものには期待しない方がいいのかもしれない。
「……どうしたのレミィ。まだ朝よ?」
出迎えたパチュリーは怪訝そうな顔をしていた。
それはそうだろう。本来夜行性の吸血鬼が朝も早くに押し掛けてきたのだ。何かあると思われても仕方がない。
「朝だからこそよ。いいこと思いついたの」
「……先に断っておくけど、面倒事はごめんよ。私、疲れてるの」
そう言って床に何かを投げ捨てる。ぼろ切れの塊に見えた。
「なにこれ。ゴミ?」
「違うわよ。ゴミじゃなくてネズミ。――小悪魔。これ、外に棄てて来てちょうだい」
「うぅ……油断した、ぜ」
どこからか現れた小悪魔に引きずられていくぼろ切れの正体は魔理沙だった。
いつもと違うところと言えば黒白二色ではなく黒一色なところか。
「あら、今日は捕まえられたのね」
「“今日は”ってどういう意味かしら? あれの侵入を許すのは咲夜と美鈴のせいよ。その教育係の台詞とは思えないわね」
「鍛えてるんじゃなかったの?」と睨まれて、レミリアは力なく笑いながら目をそらした。
「まぁ、今日は禁呪の棚に忍び込もうとしてたから問答無用で撃ち落としたんだけどね。……まったく、これだから身の程をわきまえない輩は困るのよ。――それからレミィ。ここに入るときはノックぐらいしなさいって何度言ったらわかるのかしら?」
「はいはいわかったわよ。今度からはそうするわ」
レミリアは面倒臭そうに言ったのだが、この広大な魔法図書館において、ノックという行為がどれほどの意味を持っているのか甚だ疑問ではある。
「貴方の“今度から”は信用できないのだけど……まぁいいわ。それで、いいことって何?」
「そうそう、あのね……」
◇
「咲夜。貴方、今日一日は休んでいいわ」
「……は?」
正午になろうかという時間に主に呼び出された咲夜はなんとも間抜けな返事をした。
が、それも一瞬のこと。すぐさま時を止めて思考を巡らせる。
内容は主に『最近の自分の失敗について』。
(私、何か気に障ることでもしたかしら……? でも、昨日はお嬢様の機嫌は良かったし、この所パチュリー様の調子も良いみたいだし……まぁアレの侵入に関しては今に始まったことじゃないわね。むしろそっちの責任は私じゃなくて美鈴にあるはずだから……わからないわ。お嬢様はどうしてこんなことを言い出したのかしら?)
思考終了。止まった時は動き出す。
「で、何か思いついた?」
そこに待っていたのはにやにや笑うレミリアお嬢様。
(……あぁ、なるほど)
咲夜はようやく納得がいった。
この人は深い考えがあって休暇を出したのではない。きっと何か思いついたのだろう。単なる暇潰しの、ろくでもない何かを。
理解してしまえばあとは早い。どんなに理不尽な命令だろうと、彼女は従う他ないのだから。
「わかりました。では今日一日、休暇を取らせていただきますわ」
優雅に一礼して去ろうとするが、
「待ちなさい。まだ話は終わってないわ」
と呼び止められる。
「あの……まだ何か?」
「そうね、」
レミリアは無邪気な笑みを浮かべて言った。
――とりあえず全部脱ぎなさい、と。
◇
一時間後。湖のほとり。
「あ~~~~~~~~~~~……びっくりした」
腹の底に溜った黒いものを吐き出すように咲夜は言った。
その黒いものを人はストレスと呼ぶ。そしてその八割以上は未だ咲夜の腹の中に残っていたりする。
荒んだ心を癒してくれるはずの明るい日差しが、そよぐ風が、今日に限ってこのうえなく鬱陶しかった。今の彼女には何でも同じだと思うが。
「それにしても全部脱ぎなさいなんて……絶対わざとだわ」
にやにや笑う主が思い出される。ちらちらと辺りを見回す咲夜は心なしか顔色が悪いように見えた。
空から、水の中から、はたまた茂みから、誰かが自分を見ているのではないか?
そんな考えが頭の中をぐるぐる回る。咲夜は一刻も早くここを立ち去ろうと歩き出した。
といっても咲夜は別に裸でいるわけではない。下着姿でもない。
白いワイシャツに黒のレザーパンツとブーツ(パチュリー支給)という格好である。
レミリアの命令は大きく分けて二つあった。
一つは『今日一日休暇を取ること』。
もう一つは『休暇中は仕事を完全に忘れること』。
二つ目の命令に則って渡されたのがこの服。パチュリー曰く「何事もまずは形から」ということらしい。
別に似合っていないわけではない。そもそも元が良いのだから堂々としていれば人目を引くこと間違いなし……なのだが。年中無休でメイド服に身を包んでいたためか、咲夜はそれ以外の服に慣れていなかった。
そのせいで辺りをきょろきょろと見回し、人目を避けるようにこそこそ動き回る、別の意味で人目を引く存在になっていたのだ。
(あぁ……落ち着かない……落ち着かないわ)
端的に言ってしまえば、咲夜にはこの格好が自分に似合っているという自信がなかった。
だから休暇を楽しむどころの話ではない。誰とも顔を合わせないように、極力人目を避けて行動する。
その足は自然と、ある場所へ向かっていた……。
◆
「っっ…………ぷ……あははははははははは!!」
魔法図書館に少女の笑い声が響き渡る。
それからバンバン机を叩く音、ごほごほと咳き込む別の声。
「ちょ……レミィ……埃、埃がッ!?」
「あはははははは! 見て見てパチェ! あの咲夜の情けない顔! くぁ~~~~~堪んないわー」
ただでさえ青い顔をより青く――むしろ土気色に変えてのた打ち回るパチュリーなんてお構いなしにレミリアは笑っている。外見に似合わぬ怪力で叩かれ続けた机はパチュリーの強化魔法の甲斐もなく壊れてしまった。埃どころか木屑までがばらばらと辺りに舞う。
それでもなおケタケタ笑い続けるレミリアの側頭部を分厚い魔道書が直撃した。咲夜に気を取られ過ぎていたためか、レミリアは予想以上のダメージを受けて昏倒しかける。
しかし、そこは痩せても枯れても夜の王。途切れかける意識を根性で繋ぎ止め、大地にしっかと足を着いて踏みとどまった。
その先に待っていたのは同じくらいの厚さの魔道書を両手に持ったパチュリーによる滅多打ちだったわけだが。
しばらくお待ちください……
「ねえレミィ。私たちは親友よね?」
「……ふぁひ(はい)」
「でもね、その親友の間にも礼儀は必要だと思うの。わかる?」
「(コクコク)」
「じゃあこれからは喘息持ちの傍で暴れないこと。いくら娯楽に飢えているとはいえやりすぎると殺すわよ?」
「(ガクガクガク)」
「分かってくれたなら嬉しいわ」
そう言ってにっこり笑うパチュリー。埃対策に被ったガスマスクのせいで逆に不気味だと、殴られすぎて頭が膨らんでしまったレミリアは思った。口に出したらやばいので黙っていたが。
「じゃあ、続きを見ましょうか」
一応は機嫌を直したらしいパチュリーは呪文を唱える。
二つの魔方陣が重なり合って一つの魔方陣を作り、そこに咲夜の姿が映し出される。
風と光の精霊の力を借りて遠く離れたものの姿を見る合成魔法。何者かに見られているという咲夜の勘は正しかったのだ。
その咲夜は相も変わらずおどおどしながら木の陰に隠れるようにして歩いていた。レミリアがにやにや笑い始める。
「それにしてもパチェ、貴方の薬も大したものね。いつ飲ませたのよ?」
「……飲ませたわけじゃないわ。ちょっとした仕掛けをね。これもその一つ」
パチュリーは取り出した小さな香水の瓶を手の上に乗せた。咲夜に服と一緒に渡すよう命じた物だそうだ。
曰く、この香水をつけると薬の効果で感情がちょっとだけ不安定になるらしい。
「『その一つ』ってことは他にもあるのよね?」
「ええ。でも教えないわよ。教えると次が――じゃなくて……面白くないでしょう?」
日中にあっても鋭い吸血鬼の聴覚はパチュリーの言葉を一言一句正確に聞き取っていたが、レミリアはそれを忘れることにした。
ただ、これからはパチュリーの贈り物には気をつけようと思った。
「ところで……大丈夫なの、それ?」
気を取り直してレミリアは尋ねる。
それはパチュリーの“ちょっとした”が当てにならないことを身をもって知っている顔だった。
「大丈夫よ。普段より少しだけ、物事を大袈裟に捉えるだけだから。例えばいつもと違う格好をして、誰からの反応もないだけで物凄く不安になる、とかね」
「なるほど……それでさっき、誰も何も言わなかったのね」
思い返してみれば咲夜の着替えに立ち会ったメイドたちは一様に無言だった気がする。
何を企んでいるのかと不安にもなったが、自分の話に乗ってくれた結果らしい。
「なにその顔は。咲夜相手に危ない薬なんか使うわけないでしょう? 彼女に何かあって困るのは私たちなのよ?」
感心するレミリアに少しばかりの非難の視線を向けるパチュリー。
言われてみれば確かに咲夜に何かあって困るのは自分達だ。
中でも魔法図書館は、膨大な数の魔道書を保管するために空間を広げてもらっている。つまり、咲夜の能力が無くなったが最後、パチュリーは良くて本に潰されて圧死、悪ければ魔道書同士の干渉に巻き込まれて辺り一帯もろともに消滅する運命にある。どちらにせよ生きてはいられない。
「納得してもらえたかしら?」
「ええ。じゃあ今度こそ、続きを見ましょうか」
「そうね。せっかくの見世物なんだから楽しまないと」
かくしてガスマスクを装備した魔女と吸血鬼は再び、食い入るように映像を見つめるのだった。
◆
「あれ……道に迷ったのかしら? まいったわね、この近くにはどっちかが住んでいたはずなのに……」
咲夜は森の中を歩いていた。
まだ日は高いというのに鬱蒼と茂る木のせいで光が差し込まず、薄暗い。
ここは魔法の森。滅多なことでは人間の立ち入らない所だ。
彼女の場合は人のいない方へ、人のいない方へと進んでいたから当然の成り行きとも言えるが。
「まったく……とんだ休暇だわ」
木に寄りかかって一息つく。
どう考えても今の自分はおかしい。
なぜ人目を気にしてこそこそ動かなければならないのか。不愉快だ……が、体が言うことを聞いてくれない。その結果こんな所にまで来てしまっている。
思い当たることと言えば、この服と一緒に手渡された香水だ。あれをつけてからどうにも落ち着かない。
咲夜にそれを渡したのはメイドたちだが、何の特技も持たない彼女らがこんな手の込んだ物を作れるはずもなく。となれば犯人は一人しかいない。
――覚えていろパチュリー。
咲夜は心の中で復讐を誓う。
私に一服盛ってただで済むと思うなよ、と。
閑話休題。
とにかく咲夜は困っていた。
本当なら今すぐにでも館に戻ってパチュリーに真相を問い正し、解毒剤を作らせるなりナイフを見舞うなりしてやりたい。
しかしレミリアは『休暇中は仕事を完全に忘れること』と言って咲夜を外に行かせたのだ。
どうして戻ることができようか。
主の命令と自分のプライドの両天秤。咲夜はその両方が上手い具合に釣り合って動けなくなっていた。
このままの状態で一日を過ごすことは苦痛でしかない。とは言え紅魔館に戻ればまず間違いなくレミリアの機嫌を損ねるだろう。
完全で瀟洒なメイドの二つ名を持つ咲夜にとってそれは何より耐えがたい。例えその原因が主の仕組んだことにあってもだ。
……まぁその主が親友と二人して、目を輝かせて今の自分を見ていると知ったならどうかはわからないけれど。
ともあれ現状を打開する有効な手段は封じられているに等しい。
寄りかかっていた木の根元に腰を下ろしながら咲夜は考える。
下手に動けば二人のどちらかに遭遇する確率は高い。誰かと顔を合わせるのが嫌なら、いっそのことここでじっとしているのが一番かもしれない。
――うん、そうだ。そうしよう。今の私は森林浴の真っ最中。そういうことにしておこう。
自分を納得させるように頷いて咲夜は空を仰いだ。
けれども。繰り返して言うがここは魔法の森。立ち並ぶ木に覆われて空の欠片も見えはしない。視線を下ろせばぐねぐね曲がって育っている気味の悪い植物やら毒々しい色したキノコやら。目の保養どころか毒にしかならない有様だ。
仕方ないのでまだ被害の少ないであろう木々を眺めて時間を潰すことにする。
それにも飽きて何の気なしに上を見ると、何かが光るのが見えた。
(空から歯が降ってくるなんて珍しいわね……歯?)
ぱっくりと大きく開いた、鋸のような歯がずらりと並んだ口がこちら目掛けて降ってくる。
妖怪……たぶん妖怪だろう。咲夜は呆気にとられてそれを見ていた。
体が動いたのはもう目の前、歯の数を数えられるくらいに近づいた時。
しかし、時間と空間を操る彼女にとってそんなことは大した問題ではない。慌てず騒がず服の中のナイフを――無い。
(しまった……ナイフも取り上げられたんだった――!)
背筋が凍る。焦って集中を乱したせいで時止めももう間に合わない。せめて少しでも逃げようと体を横に投げ出す。
地面に転がった咲夜のすぐ近くで、石か何か……固いものに噛みついた音がする。
完全に体勢を崩してしまった、武器を持たない彼女に逃げる術は残されていない。
咲夜の心に諦めが這い上がってきたその時。
――『魔符・アーティフルサクリファイス』
爆風に吹き飛ばされて咲夜は気を失った。
◆
「……レミィ。咲夜からナイフまで取り上げるなんて何を考えてるの?」
あれが無ければ実質戦闘力なんて皆無でしょうに。呆れ顔でパチュリーは言った。逃げようとしてレミリアにスカートを踏まれてこけたことは秘密だ。
それはさておき本質的には『ただの人間』である咲夜が紅魔館のメイド長でいられるのも、ひとえに時間と空間を操る能力とナイフを用いた戦闘術にある。彼女の仕事は日々の雑務や侵入者の始末。どちらかが欠けても成り立たない。
「……まぁ、それはほら、逃げる分には問題無いかなと」
「身を守るための必要最低限の力はあった方がいいとは思わなかったのかしら? ここは幻想郷で、咲夜は人間なのよ?」
「わかってるわよ。そのために護衛を雇ってあるんだから。ほら」
レミリアに促されてパチュリーは視線を戻した。
そこには倒れた咲夜に駆け寄る金髪の少女の姿がある。
「……アリス?」
彼女――アリスは咲夜の様子を調べて息のあることを確認すると、ほっと胸を撫で下ろしたようだった。
それからきょろきょろと辺りを見回して、二人が覗いている方を向いた。
――見えてるわね? 彼女はこっちで預かっておくわ。何をしているのかは知らないけど、なるべく早くに使いを寄越してよ。
アリスは人形たちに咲夜を担がせると、足早に立ち去って行った。
「何あれ」
「『何あれ』ってずいぶんな言い方ね。護衛だって言ったでしょ」
相変わらず分からないことに対してはそっけないんだから。今度はレミリアがため息をついた。
アリスには朝の内に使い魔を飛ばして咲夜の護衛を依頼しておいた。「依頼を引き受けなさい」こんな手紙一つで言うことを聞いてくれるなんて、アリスはとてもいい奴だ。
「どうせ貴方のことだから脅迫でもしたんでしょう? ……まぁいいわ。どちらにしろ、これで時間は稼げたわけね。道具は勝手に使って構わないわ。せいぜい面白くしてちょうだい」
「ええ、任せてもらおうかしら」
二人は顔を見合わせてにやりと笑った。
◆
柔らかい。まるでベッドの上に寝ているみたいだ。
咲夜はまずそう思った。
しかし、すぐにまたこうも思う。
私は地面の上に転がって、それから何かに吹き飛ばされて……そこから先の記憶がない。つまり、気を失ったのではなかったかと。
疲れた体に柔らかい地面はこの上なく魅力的だが、まずは現状の確認が先だ。
辺りを警戒しながら目を開けた咲夜は、自分がベッドの上に寝かされていることを知った。
少しして、咲夜はむっくりと起き上がった。頭を二、三度振って眠気を追い払う。
まずいくつか認識を改める必要がある。
ここは外ではなく、どこぞの家の一室であること。
自分は誰かに連れられてこの部屋に入り、ベッドに寝かされていたこと。
体を調べても特に何かをされた跡がなかったことから、相手に敵意はないらしいということ。
(まぁ、この格好はどうかと思うけど)
服は全て脱がされていて下着しかつけていなかった。手足にいくつか包帯が巻かれているところを見ると、怪我の手当てに邪魔だったのか、それとも汚れていたからかもしれない。
地面に体を投げ出したから服は当然汚れていただろうし、破れていた可能性もある。大いに有り得る話だが、それも全ては好意的に解釈すればの話だ。
(……って言っても今のところ危害は加えられていないわけだし、悪い方に考える必要はないかもしれないわね)
とりあえず立ち上がってから思いきり伸びをする。ポキポキと関節が音を立てた。どれくらい寝ていたかわからないけれど体はずいぶん固まっていたらしい。
「私の服は……無さそうね」
部屋中を探してもそれらしい物は見当たらなかった。とは言えいつまでもこの格好でいるわけにもいかない。ここに無ければ外にあるはず。
この格好を人に見られるのは嫌だけど、それも仕方がないとドアノブに手をかけたその時、何故かドアが勝手に開いた。
そして胸の辺りに軽い衝撃。
「よぉ咲夜、起き……た……か?」
声に釣られて目線を下ろすと胸の谷間から咲夜を見上げる魔理沙がいた。
とっさのことで、二人とも固まったまま動けない。
事態が飲み込めずにじっと魔理沙を見下ろす下着姿の咲夜と、その胸の谷間に半ば顔を埋めながら咲夜を見ている魔理沙。端から見ればなんと妖しい構図か。
「……」
「……あ~、その、な」
どうにか説得を試みようとする魔理沙とは逆に咲夜の顔は火がついたように赤くなっていく。
「…………き」
「……『き』?」
魔理沙が聞き返したその時。
――きゃあああああああぁぁぁー!!
咲夜の叫び声が家中に響き渡った。
胸を隠してへたり込む咲夜。
「……きゅう」
ほとんど同時に変な声を出して魔理沙が倒れる。ショックで気絶したのか、目を回したまま動かない。
それから遅れること数秒、慌ただしく走る音が聞こえて、部屋にアリスが飛び込んで来た。
「――ちょっと魔理沙! 貴方いったい何を……」
言葉が途切れる。
部屋の中を見たアリスは、それでだいたいの事情を察したようだった。
「……とりあえず貴方の服を持ってくるから、少しの間待っててもらえるかしら?」
涙目になって頷く咲夜を見て、額に手を当てて何事か呟きながらアリスは部屋を出ていった。
◇
「だーかーらー、私は何もやってないって言ってるだろー」
「はいはいわかってるわよ」
「それなら早くここから降ろせー。人が気絶してる間に吊しやがってー。人権侵害だー、私は断固こう……もがっ!?」
「ご苦労様、上海。とにかく、横から口を挟まれると話が進まなくなるから、貴方は少し黙ってなさい」
魔理沙の口をテープで塞いだ上海の頭を撫でながらアリスは言った。
それでもまだ何か叫んでいる魔理沙を一瞥すると椅子に腰を下ろす。
「さて、大体の事情は把握しているつもりだけど……重症ね、これは」
テーブルを挟んだ向側。出された紅茶とクッキーには手もつけず、咲夜は落ち着かなそうに床に壁に天井にと視線をさ迷わせていた。中でも特に魔理沙が気になるらしく時折ちらりちらりと様子を窺っている。その度に魔理沙に威嚇されて小さくなるのだ。
(……やっぱり別の服を渡したほうが良かったかしら?)
咲夜は「お嬢様の言いつけだから」といつもと違う格好をしているが、それがかえって状況を悪化させていることに気付いていない。
なぜなら彼女の様子が明らかにおかしい理由こそが、その「お嬢様の言いつけ」で着ている服にあるからだ。
これは身に付けると呪われるアクセサリーと同じ、着ると特定の魔法にかかってしまう洋服――咲夜の場合はかなりの耐性があるのでこの程度で済んでいるが、人によっては些細なきっかけで自殺しかねない危険な代物である。
(その力を見越した上で着せたのだろうけど。相変わらず危ない遊びが好きみたいね、あそこのお嬢様は……)
事情を知っているアリスとしては咲夜が不憫でならないが、脅迫されている以上やはり自分の安全は確保しておきたい。下手にネタばらしをしてレミリアが乗り込んできたら間違いなく人生終わってしまう。そして誰かの食卓に並べられたりするのだ、きっと。それは嫌だ。
心の中でごめんなさいと謝ってアリスは話を続けることにした。
「いくつか聞いておきたいことがあるんだけど、いい?」
「な、何かしら……?」
――もがー!(こらー!)
「貴方、服を渡された時に何か聞かされてない?」
「な、何かって、何?」
――もがもがもがもががーー!(私を無視するなーー!)
「……。例えば目的地を指定されたとか」
「……いえ、そういうことは別に」
――もがもがもがー! もがもががー!(人の話聞けー! 引きこもりー!)
「……ッ。他には、」
――もーがもーがもーが!(バーカバーカバーカ!)
ぶつん。
咲夜はそんな音を聞いた気がした。
「――だから、」
ゆっくりとアリスは振り返る。人形にロープを切られて床に落ちる魔理沙。
何事か叫ぼうとしたその顔が青ざめてがくがく震えだす。
「少し黙ってろって言ったでしょう?」
足がゆっくりと持ち上がっていく。
ぶんぶんと首を振って必死に自身の無実をアピールする魔理沙。
アリスの顔は見えないがきっと笑っているに違いない。部屋の隅で震えながら咲夜は思った。
「何言ってるのか聞こえないわね。人間なんだからきちんと喋らないと――」
あ。
魔理沙の目が点になった瞬間、アリスの足が落ちた。
吹き荒れるストンピングの嵐。咲夜は目を閉じ耳を塞ぎずっと震えていた。
それから約一分。
魔理沙の悲鳴が止んだ頃、アリスは笑顔で振り返った。
腹に溜まった黒いものを全て吐き出したかのような、とてもいい笑顔だった。
「さ、話の続きをしましょうか」
霧雨魔理沙――本日二連敗。
◇
「いてて……まったく酷い目にあったぜ」
「自業自得よ。私のせいじゃないわ」
「嘘つけ。誰が蹴ったんだよ――痛っ……もうちょっと優しくしろって。擦り剥けてるんだよ、そこ」
「あっそ。気づかなかったわ」
「気づいてたくせに。お前がどこ見てるかなんてお見通しなんだよ」
「…………ばか」
(何なんだろう、これは?)
咲夜は一人ぽつんと座ってその光景を眺めていた。
一通り事情を聞き終わったかと思うとアリスは救急箱を引っ張り出して魔理沙の手当てを始めた。
魔理沙は魔理沙でそれを待っていた、というか当然の事のように受けている。
しかも文句を言い合いながらも顔はとても嬉しそうだ。
もう一度思う。何なんだろう、これは?
連中がおかしいのか、それとも私がおかしいのか。
民主主義的に考えれば私の方がおかしいのだろう。登場人物の比率から考えても私の方がおかしいに違いない。
それでも私は思わずにはいられない。奴らの方が絶対におかしいのだと。
空間を操る彼女でさえこの不思議空間には無力だった。結果、まるで二人の世界から隔離されたかの如く、こうして一人膝を抱えている。
はっきり言って非常に居心地が悪い。
何せ密室で、人の目の前で、こいつらは際限なくいちゃついてくれるのだ。放っておいたら行き着くとこまで行ってしまいそうなほどに。
「私たちはお楽しみだからさっさと出て行け」まるでこんな意思表示のようにも思えてくる。
「ねえ、魔理沙。あの女、まだ私たちのことを見てるわよ?」
「構わないさ。見たい奴は好きなだけ見てればいいんだよ」
「そうね。寂しい人には目一杯サービスしてあげましょうか」
「……まぁ、あいつにはレミリアがいるし、寂しいってこともないだろうけど」
「でもねぇ……「お嬢様お嬢様」って、相手にもされてないんでしょ?」
「おいおい、本当のこと言ったら可哀想だろ?」
「「――あはははははははははははははははははははははははは………………」」
――とまあ、ここまでは咲夜の視点でのお話。実際はこうだ。
「いてて……まったく酷い目にあったぜ」
「自業自得よ。私のせいじゃないわ」
「嘘つけ。誰が蹴ったんだよ――痛っ……もうちょっと優しくしろって。擦り剥けてるんだよ、そこ」
「あっそ。気づかなかったわ」
「気づいてたくせに。お前が何考えてるかなんてお見通しなんだよ。根が単純だからな」
「…………へぇ? じゃあ私が今、何を考えてるかもわかるのよね?」
「お? いや、ちょっと待て、なんだその思い切り劇薬っぽいラベルの薬瓶は!」
「知らない」
「知らないわけないだろ! お前が薬箱から取り出したんじゃない――っておわっ!?」
瓶の口から落ちたとろみのある一滴が魔理沙の足元に着弾する。わりと嫌な臭いと音がして絨毯に穴が開いた。
「避けないでよ。この傷薬、結構高いのよ?」
「これのどこが傷薬だー!!」
「傷薬よ。一滴垂らせばどんな傷もたちどころに消えてなくなるの」
「嘘つくなー! そんなの垂らされたら傷口どころか周りまでごっそり抉れるぉわっ!?」
「ほほほほほ。それなら試してみたらいかがかしら?」
絨毯に、時には魔理沙のスカートに穴を開けながらアリスの追撃は続く。
やたらと楽しそうなアリスとほとんど半泣きになりながら転がって逃げる魔理沙。見ようによっては……仲良くじゃれあっているように見えるかもしれない。
「かもしれない」というのはつまり、「見える可能性もある」ということで。物事を枉げて捉える人から見れば二人は立派な仲良しさん。
広い世界を探してみれば、案外そんな人も見つかるのではなかろうか。
そして『そんな人』は何とここにもいたのだ。この狭い幻想郷の中の、そこから見ればさらにちっぽけなこのアリスの家の中に。
――十六夜咲夜、その人である。
膝を抱えて目は虚ろ。ぶつぶつと何かを呟いている。空間は歪み、空気は澱み、近寄り難い雰囲気を撒き散らしていた。
その異様な光景にさすがの二人も足を止めずにはいられなかった。互いに顔を見合わせて頷き合い、咲夜の様子を窺いながら近寄っていく。
「……なあ、大丈夫か?」
しかし咲夜はちらりと魔理沙を見た後、ポツリと一言もらした。
「――そう。私はお呼びじゃないってことね」
「は? 何言ってるんだ、お前」
「そうよ。むしろ貴方がいてくれないと困るっていうか……」
どうも咲夜の頭の中では話がおかしな方向に流れているらしい。そう気づいたアリスも一緒に弁解するがむしろ逆効果。咲夜は立ち上がり、きっ、と二人を睨みつけて叫んだ。
「言い訳なんて聞きたくない! どうせ私に友達がいないからってそうやって見せつけてるんでしょう! わかってるんだから!! みんなで、みんなで私のことを除け者にして……っ!」
顔を真っ赤にして唇を噛んで体を震わせる咲夜は泣くのを堪えているように見えた。その変な迫力に気圧されて二人は後ろに下がる。
「……おい、アリス。お前あの服にいったい何をしたんだ? あんな効果はなかったはずだぞ?」
「いやまぁ、その……」
「やったんだな!? 何をしでかした! 吐け!」
「だ、だって! あのパチュリーが持ってるマジックアイテムよ? どんなんだか興味沸くでしょ、普通!」
「くっ……答えになってないが言われてみればその通りだぜ。一人で羨ましいことしやがってー!!」
魔理沙がアリスに飛び掛かる。
ドタンバタンどたんばたん。
上になったり下になったりしながら当初の目的から著しく外れたところで争う二人。もちろん咲夜の目に涙が滲んでいることなんて気づくはずも無い。ビンタ、引っ掻き、頭突きなど、時には少女らしからぬ攻撃を織り交ぜながら相手を制圧しようと必死に戦っている。
しかし、そんな死闘も今の咲夜の目には子犬同士がじゃれあうようにしか映らない。
滲む程度だった涙はすぐに珠となって流れ落ち、抑えていた感情が一気にあふれ出した。
「――うぅ……ぅ……うわあああぁぁぁーん! ばかー、死んでやるー!」
何故か幼児退行を伴って。
それはともかく咲夜はドアを蹴破って部屋を飛び出した。心は子供、体は大人。実に都合のいい話である。
状況の変化にいち早く反応した魔理沙はアリスに一時休戦を申し出るも、その隙を突かれて目潰しをくらい悶絶。素早く跳ね起きたアリスは手近に落ちていた物を拾い、こちらは窓を蹴破って外に出た。
アリスの目の前には今まさに飛び立とうとする咲夜の姿がある。
(やるしかないようね……!)
狙うは一点、後頭部。アリスは大きく振りかぶり、手にしたそれを咲夜目掛けて投げつけた――。
ガラスの割れる音を聞いて魔理沙はよろよろと起き上がった。
直撃はぎりぎりで避けたものの、まだ目は痛む。目蓋でも切ったのか、赤みがかった視界で音のした方に顔を向けると、手に何かを持って大きく振りかぶるアリスが映った。アリスはそのまま手にしたそれを勢いよく投げる。
ゴンと鈍い音がして、さらに重たいものが地面に落ちる音も聞こえた。アリスの投げた何かは、どうやらここからでは見えない何かに当たったらしい。
当のアリスは黙って立っていた。
(……何やってんだ?)
割れたガラスを避けながら窓枠によじ登り、ジャンプ。着地してからアリスの視線を追うと、しゅうしゅうと煙が上がっていた。
何かが焦げる臭いがする。嫌な想像に駆られながらも近寄っていくと、見覚えのある顔があった――咲夜だ。
そのすぐ傍には……、
どこかで
――劇薬のようなラベル
見た
――蓋はどこにもなく
ビンが
――視界は赤く染まる
「う、うわあああああああああああああああ――!!」
魔理沙は声の限りに叫んでいた。咲夜の体からは今も煙が上がり、『 』の焦げる嫌な臭いが鼻をつく。
胃の奥から迫り上がってくる苦いものを必死に堪えながら
魔理沙は振り返った。振り返って睨みつけた。人形のように無表情のまま立っているアリスを。
「何で、こんなことをしたんだ……アリス!」
「仕方のないことだわ。こうするしか他に方法がなかったのよ」
アリスは淡々と言葉をつむぐ。
その冷たさが人間と妖怪の温度差を見せつけるような気がして、魔理沙はつばと一緒に出かかった言葉を飲み込んだ。そして言葉を発する代わりに走って、爪が食い込むほど強く握った拳をアリスの顔に叩き込んでいた。
それがよほど意外なことだったのか、アリスは抵抗することもなく、二三歩よろけてからぺたんと尻餅をついた。何か言おうとしているが言葉にならず、口をぱくぱくさせている。
魔理沙はその胸倉を掴んで無理矢理引き起こした。
「正直に言え。理由如何によってはいくらお前でも許さないぞ」
「…………ちょ、ちょっと待って! 貴方――」
最後まで言い終わらないまま、アリスは地面に転がっていた。
「……アンタねぇ、人の話は最後まで聞きなさいよ」
赤くなった頬を押さえながらゆっくり起き上がる。アリスもさすがに有無を言わさず二度も殴られて黙っているほど人間が出来てはいない。
自業自得という部分を除いてもその怒りは相当なものだ――が、魔理沙を睨みつけたアリスの顔からそれがすとんと抜け落ちる。
「……魔理沙、貴方泣いてるの?」
「う、うるさいうるさい!」
怒鳴りながら涙を拭う魔理沙を見て何を思ったのか、アリスは明後日の方へ視線を逸らし溜息をついた。そしてぽつりと言った。
「良かったわね、貴方のために泣いてくれる人がいて」
――そうね。いつもの態度はアレだけど、ここは素直に嬉しいと言っておくわ。
「は?」
笑いを含んだ声は後ろから聞こえてきた。アリスは「そう」と言いながら笑っている。一人事態が飲み込めていない魔理沙は間抜けな顔をしながら立っていた。
「とりあえず顔を洗ってきなさい。誤解を解くのも謝ってもらうのもその後にしましょう。――あ、服は私のクローゼットから適当に見繕っておいて」
アリスに促されるまま、魔理沙は首をかしげながら家の中に戻っていく。
倒れていたはずの咲夜の姿はどこにもなかった。
◇
「え……と、その、今日はお世話になりました」
日が落ちた頃、レミリアからの使いが来たことを知らされた咲夜はアリスと魔理沙にそう告げて、使いのコウモリに連れられて紅魔館に帰っていった。
見送る二人の心境は複雑である。
(なぁ、アリス。本当にこれで良かったのかな?)
(ひょっとして不安なの?)
(いや……そういうわけじゃないんだけどさ。大丈夫かなって)
(きっと大丈夫でしょ。全ては彼女次第だけどね……)
◇
「止まれ!――って、えーと……咲夜さん、ですよね?」
「え、ええ……」
曖昧な笑いを浮かべる美鈴を見て――正直な話、咲夜は驚いていた。
日が落ちて暗くなった今の時間帯における門番の存在意義はないに等しい。紅魔館に居る者全てが、主を守る者から主の庇護を受ける者へと役割を変えるためだ。第一、夜の吸血鬼に喧嘩を売ろうという物好きは一部の例外を除いて存在しない。そしてその例外に対して有効な迎撃手段を持つ者は極々少数。彼女らの中にはいない。
だから日が昇るまでの時間を彼女らは思い思いに過ごしているはずだった。
現に他の門番隊の姿は見えない。それではなぜ、美鈴がここにいるのか。咲夜にはわからなかった。
そんな咲夜の考えを見抜いたのか、美鈴は優しく言った。
「――だって、ほら。門番は侵入者から館を守るだけじゃなくて、外に出る人を見送ったり、帰ってくる人を出迎えるっていう役目もあるんですよ」
「……」
「それにしても、誰かと思ってびっくりしましたよ。でも、咲夜さんってそういう格好も似合いますね」
「……そう、かしら?」
胸の中がじんわりと暖かくなる、不思議な感覚。ようやく口から出た言葉はいかにも自信のなさそうな彼女らしからぬ声だった。
しかし美鈴は気にした様子もなく先を続ける。
「もちろん。たまにはそうやって違う格好をしてみるのも良い気分転換になるかもしれませんね。――そうだ、今度私の服を貸してあげますね。背の高さも同じくらいだからきっと似合いますよ」
「そ、それはちょっと……」
この中華風の服を着るのだろうか? それはちょっと恥ずかしい。
そんな咲夜の反応は予想済みだったのだろう。美鈴は笑っている。
「やだなぁ咲夜さん、貸すのはこの服じゃないですよ。私だって女なんですからね、これ以外にも服は持ってます。ただ門番という役職上、戦闘には不向きだから着ないだけです」
それはそうだ。美鈴はどちらかといえば近接戦闘を好むタイプ。ひらひらした服など着ていたら動きの邪魔になる上にすぐぼろぼろになってしまうだろう。
「わかってもらえたみたいですね。じゃあ、行きましょうか……あ、その前にこれを言うのを忘れてました」
――お帰りなさい、咲夜さん。
◆
「……あら?」
パチュリーはページを捲ろうとした手を止めた。指がページの上を滑ってしまったからだ。
試しに指と指を擦り合わせてみる。何のことはない、いつもの感覚。では、ともう一度ページに指を強めに押しつけて動かす。
しかし。
「――あら?」
やはり指はページの上を滑ってしまった。
調べてみるとここから十ページ分、まるでページ全体が接着剤で張り合わされたかのようにぴったりくっついて離れない。
パチュリーは軽く舌打ちをする。誰の嫌がらせだ、まったく。
犯人として真っ先に思い当たるのが魔理沙だろう。なぜならこれはつい先日、外の世界から流れ込んだという触れ込みで香霖堂の店主が売りに出していたのを魔理沙と競り合い、勝ち取った物だからだ。
金に物を言わせて横から奪い取ったようなものだったけど、本一冊に家が建つほどの金を注ぎ込んだけど、友人殿に大きな借りを作ったけれど後悔はない。
(だって私の足に縋りついて泣く魔理沙を見ることができたもの)
その光景を思い出し一人くすくす笑うパチュリー。本の持ち出しに関してはある程度黙認はしているものの、最近は特に増徴する傾向にあったからいい気味だ。
話が横道に逸れたが、この本は架空の人物が同じく架空の世界を舞台に活躍するというもの。希少品であることを除いても、確かに彼女が好みそうな本ではある。喜んで持って行きこそすれ、こんな手のかかる悪戯をするとは思えない。
他に可能性があるとすれば小悪魔だろうか。ここについてはある意味パチュリーより詳しい小悪魔なら――動機に心当たりがないものの――十分に可能な犯行ではある。まぁ、動機がない時点で容疑者からは自動的に除外されるのだが。
「他には……レミィはこんな回りくどいやり方はしないから……美鈴、咲夜あたりかしら?――まさかね」
パチュリーは笑ってしまった。いくら消去法で残ったとはいえ、普段から職務に忠実な美鈴や咲夜がそんなことをするはずがない。特に咲夜は“休暇中”だ。可能性は万に一つもない。
であるならば、やはり魔理沙あたりが妥当なところか。
そこではたと思いつく。
(この本……今日読み始めるまで本棚にしまっていたのよね)
本棚にしまっていたものを、あの魔理沙が持っていかなかった……?
それは絶対におかしい。
魔理沙は蒐集家だ。自分の欲しいと思ったものは手に入れなければ気がすまない性質のはず。
ならば、宝が目の前にあるのにそれをみすみす見逃して、さらに悪戯までしていくだろうか?――答えは否だ。
美鈴はいつも通り門番の仕事に就いている。小悪魔は書物に傷をつけるようなことはしない。レミリアは……入ってくればわかる。
では犯人はメイドたちだとでもいうのだろうか。日頃からの――身に覚えはないが――恨み辛みを晴らす機会を窺っていたとか。
確かに組織的な犯行ならば可能だが……パチュリーは首を傾げた。
どこか腑に落ちない。もう一度本を調べようとして、何者かの視線を感じたパチュリーは入り口へと目を向けた。
「……誰?」
「あ、あの……咲夜です。ただいま戻りました」
おどおどした言葉遣いで姿を現したのは咲夜だった。相変わらず例の細工が施されている服を着ている。試しに不機嫌な顔で睨んでやると怯えたように縮こまった。どうやらまだ効果は続いているらしい。
「そう。じゃあもう行っていいわ」
それだけわかればもう用はない。後はレミリアのお手並み拝見といったところだ。
パチュリーは原因を探すべく再び本に目を落とした。
「では、失礼しますわ。……くすくす、せっかくヒントまであげたのに」
「……? ヒントって――」
振り返った先に咲夜はいなかった。ドアは閉じられていて、気配から誰もいないことが見て取れた。
「何が言いたかったのかしら……?」
たまに大真面目で意味の無いことを言い出す咲夜のことだから、どうということはないのかもしれないが……とりあえずパチュリーは目先の問題に戻ることにした。
積み重ねてある魔道書の中から日頃愛用している一冊を取り出す。
「ええと、心当たりの無い犯人を探す……方法、は――?」
本が開かない。
パチュリーは自分の目を疑った。そしてわかった。
本が開かないのは当たり前。だって、指が本に届いていないのだから。
――せっかくヒントまであげたのに。
咲夜の言葉が脳裏に蘇る。
「……やられた!!」
パチュリーは立ち上がり魔道書を床に叩きつけていた。
なんという地味で、効果的な嫌がらせ。この魔道書は――先ほどの本のページもそうだが、周囲の時間を止められていたのだ。
こんな器用な真似が出来るのは彼女の知る限り一人しかいない。
「咲夜の仕業ね……でも、どうして?」
あの服を着ている限りはそう簡単に強気な行動には出られないはず。魔法が続く限りは人の言動一つ一つに精神状態が大きく揺さぶられて、まともに考える時間など無かったはずだ。現にさっきだって私に睨まれただけで萎縮していたし……いや、やめよう。
パチュリーは力なく椅子に腰を下ろした。
考えても仕方がない。どういうわけか咲夜はあの服の魔法から抜け出し、油断しきっていた私はその隙を突かれて逆に罠に嵌められたのだ。敵ながら天晴れとでも言っておこうか。
己の迂闊さに自嘲的な笑みを浮かべながら、パチュリーは別の本を手に取って。
「あ、れ?」
動揺するあまりその本を取り落とした。
そしてすぐに別の本を手に取って落として、何度か同じことを繰り返した後、机に置かれている紙切れに気がついた。
震える手で広げると、そこには……。
~親愛なるパチュリー様~
素敵な休日をありがとう。
お礼に私からも素敵な時間をプレゼントして差し上げますわ。
辛くなったらいつでも呼んでくださいね。助けに行きませんけど。
十六夜咲夜
裏側には『メイド長の心得その一 ・ やるなら徹底的に』と書かれていた。
部屋から逃げ出そうとしたパチュリーは、ドアが開かなくなっていることを知って卒倒した。
………………
…………………………
……………………………………
顔を洗ってさっぱりした魔理沙が客間に入ると、中ではアリスと、アリスの服を着た咲夜が待っていた。
「私、帰る」
「――待ちなさい」
回れ右して戻ろうとした魔理沙の肩を咲夜が掴む。
瞬きする間に魔理沙は椅子に座らされていた。隣に咲夜が座っているから逃げようがない。
仕方がないので大人しく座っていることにした。
「さて、まずは貴方に状況を正しく把握してもらおうかしら」
頷いた魔理沙を見て、その向かいに座ったアリスは例のビンをテーブルに置く。
見れば見るほど劇薬にしか見えないラベルが貼られているため、ぱっと見どころかどう見ても劇薬にしか見えない。
「これは特殊な液体で、布だけを分解するように出来ているの」
アリスは手に乗せたハンカチにビンの中身を一滴垂らして見せた。
物が焦げる嫌な臭いが鼻をつく。目を背けようとした魔理沙を制してハンカチをどけると、そこには傷一つないアリスの手があった。
「ほらね? まぁ、説明しなかったこっちも悪いんだけど。あのマジックアイテム、ちょっといじくりすぎて変な感じになってたから念の為に用意しておいたの」
「……そうだったのか。その、なんだ……ごめん」
「わかってくれたならいいわ。今回はお相子ってことで」
「うん。そうしてもらえると助かる……かな」
二人で照れくさそうに笑いあってから、アリスは真面目な顔つきで咲夜を見た。
「……ここからが本題になるけど、いいかしら?」
咲夜は黙ったまま頷く。
「貴方にかけられていた魔法は一つ――いえ、「かけられていた」という表現は正しくないわね。あの魔法は、貴方が着ていた洋服そのものにかかっていたの。一種の呪われたマジックアイテムを身につけていたというわけ」
咲夜は何も言わない。だが、特に反応しないところを見ると予想していたことだったのだろう。
「で、私がその魔法の媒体となっていた洋服を……」
「――前置きはいいわ。つまり、貴方はお嬢様やパチュリー様からの報復が怖いわけね?」
「察しが良くて助かるわ。……情けないけどそういうこと。故意にではないにせよ、娯楽とマジックアイテムを一つずつ台無しにしたわけだし、何をされても不思議じゃないわ。だから……あの二人を何とか説得してもらえないかしら?」
(説得か……難しいわね)
レミリアはあの通りの性格だし、パチュリーは滅多なことでは自分の意見を譲らない。“説得”は困難を極めるだろう。しかも成功したところで見返りは無く、アリスの心配も杞憂に終わる可能性だってある。普段の咲夜なら撥ねつける所だが、さすがに今回は思うところもあって複雑な気分だ。
どうするべきか悩む咲夜の袖を小さな手が引っ張った。
「……私からも、頼む」
捨てられた子犬のような、と言えばいいのか。断ったら泣きそうな顔をしている魔理沙に見つめられて、結局、咲夜は折れることにした。
苦笑混じりに溜息をついて魔理沙の頭をくしゃくしゃと撫でてやる。
「はいはいわかりました。今回は何とかしてあげるわよ」
「今回“は”ってところが貴方らしいわね。ありがとう」
「お礼はいいわ。お嬢様は貴方にも迷惑をかけていたみたいだし……?」
「やーめーろー。直すの大変なんだよー!」
未だ頭をくしゃくしゃにされ続けて真っ赤になって怒っている魔理沙を見て、二人は笑い合った。
「ま、今回の最大の功労者はこの娘かしら?」
「そうね。本人は気づいていないでしょうけど」
「???」
……………………………………
…………………………
……………
使い魔が咲夜を連れ帰ってからというものレミリアはそわそわしていた。
椅子に登って座り、かと思うと飛び降りて部屋の中をうろうろと歩き回っている。
とは言えもちろんただ歩き回っているだけではない。吸血鬼の鋭い聴覚を使って咲夜の居場所を随一チェックしていたりもする。
「……ん、今はパチェのところか……おやおや、主の私よりも先にそっちに行くなんて……これは躾け直す必要があるみたいね……ふ、うふふ――」
娯楽を欠いた生活とは恐ろしいものだと、一ヶ月くらい後にレミリアは語っている。賢者に慢心を与え、王者からは威厳と気品を奪うものだと。
その賢者と王者が誰だかスキマ妖怪に暴露されて権威を著しく失うことになるのだが、それはまた別の話。
とにかく枕を抱きかかえて床を転がりながらうふうふ笑っている姿からは威厳も気品も全く感じられなかったことだけは確かだ。
(来た……!!)
この一角に咲夜が踏み込んだ音を拾って、レミリアの耳がピクリと動く。
素早く起き上がると、服の埃を払いながら何事もなかったかのように椅子に座り、できる限り精悍な顔つきで空に浮かぶ月を眺める。これでどこからどう見てもいつもの――頭の中は大変なことになっているが――レミリア ・ スカーレット。あとは咲夜が入ってくるのを待つのみ。
(さあ、早く入ってきなさい咲夜。でも、そのドアを開けた瞬間に……ふふ、ふふふ)
気を抜けば緩みそうな顔を必死で整えて、レミリアは待つ。
しかし、咲夜の足音を拾ってからいくら待ってもドアが開くことはなかった。
初めは何とか堪えていたレミリアも、ついには待ちきれなくなって椅子から飛び降りた。咲夜を呼べば済むのだが、そこまで頭を回す余裕さえない。
大股でドアの前まで進み、ドアノブを掴んで回す。
「……あれ?」
レミリアはパチュリーと同じリアクションをした。
まあ、つまり、ドアノブが回らず、ドアが開かなかったのである。
錆付きでもしたのか?
そんな疑問が頭をよぎるが、それはまずありえない。この紅魔館には有能なメイドが数多くいるし、中でもこの部屋は咲夜に任せてある。咲夜ならどんな些細な異常も見逃すことはない。遵って、この様な事態に陥るはずもないのだ。今日一日休暇を与えはしたが、その程度でどうなるものでもないだろう。
というわけでもう一度、今度は力を込めてドアノブを回してみる。
回らない。
ドアノブを回す。
回らない。
ドアノブを引き抜く。
抜けない。
「……え?」
レミリアはようやく気づいた。吸血鬼の力に耐えられるようなドアノブなんてあるわけがないことに。
一般的な金属で作られたものなら力を込めて回せば捻じ切れるだろうし、引っ張れば引き千切れる。それ以前に握っただけで潰れてしまうはずだ。
ではこれは何だ?
いつの間にか未知の金属で出来たドアノブに交換されたのか?
否。答えは否である。
ここまでくればさすがに何が起きているかぐらい誰でも把握できる。
この部屋は咲夜に何かしらの細工をされた可能性が高い。ドアが開かないのもその為だろう。だとすれば、半端な力業で突破することは出来ない。
「――咲夜、貴方の仕業ね?」
レミリアは姿を見せない従者に問いかけた。答えはない。
こうなった以上、咲夜は間違いなく正気に戻っている。そして小賢しいことに、このレミリア ・ スカーレットに刃向かっているのだ。
(……なるほど。それでまずパチェを潰したのか)
咲夜の取った、彼女らしからぬ行動。その結論に至ったレミリアの口元に、先ほどとは性質の異なる笑いが浮かぶ。
その意味するものは愉悦。強敵と認めた相手を地べたに這い蹲らせ、自らの強大さを誇示することによって得られる快楽。
「ああ、嬉しいわ咲夜。ようやくその気になってくれたのね――いつかつまらない人間に戻ってしまうんじゃないかと心配だったけど……これならまだまだ安心していられそ、う……ね――ぇ?」
鼻を突く異臭。
足元に転がったソレを見たレミリアの顔色が一気に悪くなった。殺る気も萎えた。
にんにく、ニンニク、大蒜、葫……。
要するに吸血鬼が大嫌いなアレである。
それがコロン、コロン……と何もない空間から染み出すように転がり落ちてくるのだ。
しかもここは密閉空間。臭いなんてすぐに充満する。
「ちょっ、咲夜、聞こえてるんでしょ!? 早く何とかしなさいよ!!」
『いえいえ。いかに力を持っているとはいえ私はか弱い人間。お嬢様と対等に渡り合うためにはこれくらいしなくては』
明らかにわざとだった。レミリアは激昂しかけるが、今もニンニクは増え続けていた。
「人の話を聞け…………き、聞いてください。お願いします……ぅぅぅ」
どうやらニンニクにプライドをへし折られたらしい。膝を折り、地面に両手をついて懇願するレミリアの姿を見て、咲夜は涙を流した。レミリアも泣いていた。
が、道を誤った主を正すのもまた臣下の役目。
『嫌です』
咲夜はきっぱり言って、残りのニンニクを全て部屋の中に投げ込んだ。
――ぎ、ぎゃああああああああああああああああああああああああぁぁぁぁぁぁーーーー!!
レミリアの部屋はしばらくニンニクの臭いが取れなくなったそうな。
◆
後日、紅魔館入り口にて。
「おーい!」
「……ん?」
地面に降り立った魔理沙は手を大きく振りながらやって来る美鈴を見つけた。
「今日はやけに機嫌がいいな。どうしたんだ?」
「えへへ……実はですね、今日は久しぶりにお休みをいただいちゃったんです!」
「……そ、そうか」
嬉しそうに笑う美鈴に、何故か哀れむような視線を送る魔理沙。
「休暇なんてもう百年近く貰ってませんでしたからね。逆に何をしようか迷っちゃうくらいですよー」
とか言いつつチャイナドレスを着て手にはバスケットを持っていて、どこかに出掛ける気なのは一目瞭然だった。
「……ところでそれは?」
魔理沙が指差したのはもちろん美鈴の持っているバスケット。
中身はお弁当とかそんなところだろうけど、誰が作ったのかが気になった。
「これですか? お弁当です。……しかも、何と咲夜さんの手作りなんです!「持っていきなさい」って、私にくれたんですよ~♪」
「……そ、そうか――」
可哀想に。それはきっと紅魔館を去るお前さんへの咲夜からの餞別だよ。
幸せいっぱいな顔で飛んでいく美鈴を見送りながら、魔理沙は帽子を深く被りそっと目元を拭った。
さらば美鈴。もう会うこともないだろう。
「ちょっと。貴方の都合で勝手に門番を解雇しないでもらえる?」
「いや、冗談だぜ」
魔理沙は両手を挙げて降参のポーズ。その後ろには呆れ顔の咲夜が立っていた。
それ以上言及することもなく、咲夜は踵を返すと館へと戻っていく。魔理沙はその後に続いた。
「どうして美鈴に休暇と聞くとみんな同じ反応をするのかしら……うちってそんなに人手が余っているように見えるの?」
「……どうだろ。ただ、美鈴はあんまり役に立ってないイメージがあるからなぁ」
「そうでもないわよ。貴方やアリスみたいなのは通しても他の妖怪を通すことはまずないし。門番としての役割は十分に果たしているんじゃないかしら」
「ふぅん……で、今日はお前さんが代わりに門番でもやるのか?」
「ええ。館内の仕事はあらかた終わらせてあるしね」
「でも、どうして?」
「……なんとなく、そんな気分だからよ」
何かあったんだな。魔理沙はそう思ったが追求することはなかった。ここは言わぬが華というものだ。
「――と、着いたわ」
咲夜が立ち止まったのはヴワル魔法図書館の前。いつもは固く閉ざされている扉も、今日は誰を拒むことなく開け放たれている。中を覗き込んでも警備のメイド一人見当たらない。
「……なぁ、本当にいいのか?」
「ええ。二週間の貸し出し期限は設けさせてもらうけどね」
「そっか。じゃ、遠慮なく――」
箒に股がり魔理沙は飛んでいく。パチュリーがいないため迎撃用の本が出撃(?)することもなく静かなものだ。
余談ではあるが、これ以降、魔法図書館では持ち去られた本が定期的に返却されるようになったとか。
――主の居ないの紅魔館は今日も平和である。
でも可愛いからやっぱいいか。
誤字っぽいものをば。
>「休暇もうなんて百年近く貰ってませんでしたからね。
『休暇なんてもう百年近く』ではないかなー、と。
魔理沙苛めに白ワイ黒ズボン咲夜さん……GJ!!
本無しパチェ+にんにく攻め……GREAT!!!
>下着姿の咲夜と、その胸の谷間に~
…………異議あり!裁判長!検察側の証言には虚偽が含まれていま(トンネルエフェクト
ご指摘ありがとうございます。
FF3かよ
それにしても、このくらいへろへろな咲夜さんも新鮮でいいものだ。