私の世界を構成するものは、実は少ない。
赤いお屋敷、我儘な当主、そして私自身。
これだけあれば、即席で私の世界は出来てしまう。
…………らしい。
紅魔館の無駄に長い廊下には、相も変わらず誰の気配も無い。
メイド達の中には忍者みたいに気配を消すことができる者もいるが、それをわざわざお屋敷の中で行うような必然性は無い。そもそも気配を消そうが消すまいが本人は必ずどこかにいるはずであり、目さえ凝らせば必ず見つかるである。
その昔、『鬼ごっこ。負ければ減棒』として、メイド達の軍事訓練を行ったが、ちょうどその時のような張り詰めた空気がまわり漂っている。本当に、その気配すらも感じない、完全な“無人”。一朝一夕でたどり着けるような境地ではないはずだ。
……余談ではあるが、そのゲームの勝者は門番だった。なし崩し的にゲームに巻き込まれたのだが、その罰ゲームの内容を知るや、獅子奮迅の活躍を見せ勝利をもぎ取った。そこには、気配を消すなどといった小細工は無く、ひたすら愚直に戦いを続ける戦士の姿があった。そういった意味では、この紅魔館に彼女がいないのは明らかだ。
……随分まわりくどくなってしまった。要するに今の紅魔館の状況を説明するのならば、「誰一人としてその姿を見かけない」というわけだ。冗談にしては非常に性質が悪い。
ただ、全員がいないといっても、勿論、こうして語りを続ける私はいるわけだし、
「ダメみたいね。こっちも誰もいないわ、咲夜」
我が当主、レミリア・スカーレット様も顕在している。
「もう、皆どうしたのかしら」
お嬢様はやれやれというジェスチャーで肩を竦めた。そこから緊張感といったようなものは感じられそうもない。
「お嬢様が皆にお暇でもだしたのでは?」
「でもパチェやあの門番もいないのよ? 道理に合わないわ」
そう言われると妙に納得できる。パチュリー様にとってはこの紅魔館の図書館だけが世界のすべてだし、あの門番にとっては紅魔館の門を守ることのみが彼女のアイデンティティを維持するものだ。例え暇を出されたとしても、それぞれの持ち場を離れる理由にはならない。他のメイド達にしてもそうだ。ほとんどのメイド達にとって紅魔館は里みたいなものなのだから、暇を出されたとしても全員が全員ここを離れるとは考えにくい。
「それに、そんな大がかりことをしたらさすがの私も覚えてるわよ」
「…………それもそうですね」
「随分とムカつく間を開けるのね、咲夜」
「いえ、滅相もありません」
不機嫌になりかけたご当主様を軽く宥めながら、私は今の状況を一度考え直してみた。
事に気付いたのは、今朝目が覚めた時だ。
いつものように支度をして朝会のために下に降りたのだが、集まっているはずのメイド達の姿がそこにはなかった。皆揃って寝坊という線は考えにくいので、おそらくは口裏を合わせサボタージュでも起こすつもりなのだろうと踏んでみた。ともなれば当然私もそれに参加する義務があるわけで、10秒ほど悩み抜いた末、お嬢様が目を覚ますまで自室でお茶でも洒落込もうと決めた。
そうして廊下に出たとき……そこで始めて、明らかな異変に気付いた。それは違和感にも近いものだった。
通りなれたはずの廊下がいつもと違う。確かにその外観こそは見慣れたものであるが、何というか染み込んだ生活臭を感じないのである。それこそ、まるで引っ越し直後の建物のようであった。直感に近い感覚ではあるが、無碍にするほど漠然としたものではなかった。
迷わず私は近くの扉に手を掛け勢いよく開け放った。私の記憶が確かならばここはメイドの部屋であるはずのだが……部屋の中は空っぽだった。誰もいないだけではない。カーテンや机やタンスも、何ひとつ無いのだ。部屋の間取りをそのまま残し、がらんどうとした空間がポッカリと空いていた。
そうして私は思いつく限りのメイド達の部屋をあたったが、そのどれもがここと同じであった。物も人も、その気配さえも、何も無かった。念のため門番の姿やパチュリー様の姿も 確認しにいったが、結局それらも徒労に終わった。
予想だにしない状況に戸惑いながらも、一縷の希望を持って最後の場所、つまりお嬢様の部屋を訪れた。
扉を開けた瞬間、慣れ親しんだ感覚を全身に覚えた。そこは他の部屋とは違い、“いつもと同じ”お嬢様の部屋が広がっていた。紅魔館でも特別広いその部屋。赤を基調とした装飾で整えられており、その真ん中にはレースのついた大きな天蓋付きのベッドがある。
そのベッドの上で、何かの塊がもそっと動いた。
「んっ、眩しい……」
その聞き慣れた声に、私は思わず安堵の息を漏らした。
「そういえば妹様はどうでした?」
「いないわ。目が覚めて真っ先に気付いたわ」
お嬢様の状況把握が早かったのは妹様の件も関係している。お嬢様は言うなれば妹様を監視する立場にいるわけで、妹様の一挙一動を逐一把握しておかなければならない。原理こそわからないが、それは千里眼に近い。妹様がどこで何をしているか、お嬢様は手に取るようにわかるのだ。そして現在、その監視対象が消えているというのだからお嬢様の動揺も並大抵ではない。
「まったく冗談じゃないわ」
お嬢様が憎々しげに不平を漏らす。妹様のことを思い出しているのであろう。
「アレを野放しにするほど面倒なことはないのに」
……おそらく、お嬢様にとっては紅魔館の者が一人残らず消えたことなど、妹様一人に比べればとるに足らないことなのであろう。現にお嬢様は、普段では考えられないほど苛ついた様相を見せている。
触らぬ神に祟りなしというが、今の私にそんな余裕はない。なぜなら、私自身も非常に苛ついているからだ。
「失礼ですがお嬢様、一つ進言させて頂きます」
「なに?」
鬱陶しそうに言葉を返す。逆鱗にだけは触れぬようにせねば。
「外の状況を確認してはいかがでしょうか? もちろん出るのは私ですが。要するに外出の許可を、というわけです」
これだけ大規模な異変なのだ。おそらく影響はここだけではないだろう。一息で言いたいことを言うと、私はお嬢様の返事を待った。
お嬢様は顔だけをこちらに向けると、わざとらしく「はあ」と大きく息を吐いた。そうしてその細い指先で、チョンチョンと私の後ろを指さす。振り返ると、そこには窓があった。覗く景色はいつもと変わらない。紅魔館の敷地とそれを囲む大きな湖が広がるだけだ。
「……何か?」
「その先。具体的には湖の先」
私はもう一度振り返り、言われた通り湖の先を視線で追った。
……何もない。ただ、果てのない湖が広がるだけだ。
質問の意図がわからず、お嬢様の方に向き直そうとした時……私はその違和にやっと気付くことができた。
「なっ……!」
思わず窓側に振り返り、齧り付くようにしてその景色を眺めた。
「…………無い」
視力に限界があるとは常人の話で、この幻想郷に跋扈する輩(不本意ながら自分も含める)には、どこまでも見通すことのできる“鷹の目”が備わっている。
それは勿論、この無闇やたらと広い紅魔館の湖でも例外ではなく、どんなに幅があろうともその先――つまりは対岸であるのだが、それを見ることは可能である。
にもかかわらず、だ。無いのである。その、肝心の対岸が。
私は何度も目を擦り確認したが、やはりあるはずの“それ”は見つからなかった。いや、それだけではない。本来なら、遠くながら見えるはずの山の稜線や、その麓に群生する森の緑すらも見えないのである。ただひたすらに、湖だけが広がっていた。
「飛んでも無駄よ。何も見えないわ」
けだるそうにお嬢様がそう漏らす。
私達がいる場所は紅魔館でも一番高い階だ。飛んだとしても景色が劇的に変わるとは考えられない。それに、そもそもここで問題となっているのは、本来ならば見える“はず”のものが見えないということなのだ。
私は、思った。
私達は……一体どこにいるのだろう、と。
「はあ」
一際大きなため息に私は思わず身を竦めた。
振り返ると、腰に手を当てたお嬢様が冷めた目でこちらを見つめていた。……いや、それは睨んでいたのかもしれない。
「状況を把握してくれて嬉しいわ、咲夜」
「……いえ」
「で、本題に入るわね」
ニッコリと、お嬢様が笑う。背筋が凍り付くような気がした。
「……これはどういうこと?」
「それはどうい……」
それはどういう意味でしょうか? 言い終わる前に、その言葉は遮られた。
気がつくと、お嬢様は私の眼下におり、その細長く白い手を私に向けて伸ばしていた。
「私はね、まどろっこしいことが大っきらいなの。事件の検証なんて必要ないのよ。だから、私が知りたいのはね、咲夜?」
つっと、喉元を何かがなぞる感触がした。それは生暖かく、あまりの気持ちの良いものではなかった。遅れてチクリした痛みがやってくる。
「犯人、なの」
お嬢様は、無邪気な笑みを浮かべながら、その長く伸びた赤い爪を私の喉に立てていた。
……最悪の事態だった。私が、疑われているのだ。
「随分とまあ、手の込んだ事をするのね、咲夜」
「お嬢……」
「残念ながら、まだ発言は認められていないわ」
ずぶりと、爪が一層深く食い込んだ。喉を伝う血の筋がひとまわり太くなる。
「そんな顔をしないで、咲夜。だってしょうがないじゃない。この紅魔館で“空間”をいじれるのはあなただけなんだから。そりゃあ、私やパチェにも似たような事が出来るかもしれないけど、本職はあなたよね?」
その論理に間違いは無い。この異変はもはや個々人のレベルだけではなく、それらを包括する空間レベルにまで及んでいる。そして、私にはそれを操る能力がある。それは紛れもない事実であり、だからこそ彼女の帰結は至極当然だ。
……しかしながら、である。当の本人の身に覚えが無いのである。こんなことをした記憶は無いし、そもそもこのような趣味の悪いことはしようとも思わない。
では、私の第二の人格が?
……冗談はさておき、この状況は非常にマズい。お嬢様は妹様の件があり非常に気が立っている。もし機嫌を損ねれば、私の頭は胴体と泣き別れることになってしまうであろう。
回避自体に問題は無い。時間を止めればいいだけなのだ。少なくとも初撃は防ぐことができるであろう。しかしながら、それはお嬢様に明確な敵意を表すことに等しい。普段の状況ならば時間をかけて取り繕うこともできようが、今は少しばかり話が違う。このように閉塞した状況なのだ。下手をすれば私とお嬢様のみのこの状況で、取り繕いを、つまりは失った信用を取り戻すことは不可能に近い。そして何より……それが虚であれ実であれ、お嬢様に刃を向けるという行為は、私自身が許せないのだ。
「あなたが発言していいことは三つだけ。何をしたのか、何故したのか、どのようにしたのか。……ああ、特例で弁護の余地も与えてあげるわ。勿論、私を満足させるのが前提だけどね」
提示された条件は厳しい。橋を渡り間違えれば即座に私の首は飛ぶだろう。かといって従順では身に覚えのない容疑を認めてしまうだけだ。まさに綱渡りといったものだろう。私は慎重に言葉を選び、静かに口を開いた。
「空間を弄くりました」
「……へえ、何で?」
「お嬢様と一緒にいたかったからです。二人っきりで」
「……」
当然のように、お嬢様は閉口していた。それでも首が飛ばないということは、一応私の話に興味を持ってくれているということだろう。
「でも……」
ここまで持ってくれば、後は容易い。
「私ならこんな“まどろっこしい”ことはしません」
「……どういうこと?」
「はい。私なら……そうですね、例えばお嬢様の部屋だけを密閉しますね。蜜月の日々は、できるだけこぢんまりとした場所で送りたいものですから」
言い終えるころには、お嬢様は残った方の手で頭を抱えていた。顔には苦悶に近い表情が浮かんでいる。
「…………バカじゃないの?」
お嬢様は、今までで一番疲れた溜め息を吐くと、私の喉元から手を離した。
「30点ってとこかしら。それじゃあただの色魔よ」
「お言葉ですが、お嬢様。反証は、相手に“もっともらしい”と思わせることが重要ではないでしょうか?」
「限度ってものがあるわ。紙一重よ、咲夜。ほんの気まぐれで首は飛んでたかもしれないわよ?」
「みたいですね。今になって震えがきましたわ」
「嬉しそうな顔で言ってんじゃないわよ。あーあ、でも、これで……」
振り出しに戻ったわけだ。事態は何一つ好転していない。
紅魔館には私達以外誰もいない。メイド達の部屋はがらんどうだし、図書館にあるはずの姿も、門にいるはずの姿も、今は無くなっている。そして外の景色。一見すると見慣れたような景色だが、そこにはかなりのスケールでの齟齬がある。
……今なら断言できるかもしれない。私達は閉じ込められてしまったのだ。この、変な世界に。
「……慣れないことは疲れるわね」
そう言ってお嬢様は、その日は早々と床についた。
無理もない。そもそもお嬢様の主な活動時間は夜なのだから、こんな朝っぱらに動くのは非常にしんどいのだろう。
……その生活時間帯に合わせようとするならば必然的に私も夜行性になるのだが、そこがメイド業の因果なところだ。日が昇っているうちにしかできない業務は山ほどある。それゆえに、紅魔館のメイド達にとって睡眠とはひどく機械的なものだ。何時から何時までとは決まっておらず、ただ単純に“何時間”と決まっているだけである。
今日の予定を画策するために、昨日までで残っている業務を思い出してみたが、はたと気付き、すぐに止めた。ここは自分が知っている紅魔館とは違うのだ。基本的には私が知り得るものと似通っているが、いろんな部分でそれは違っている。居るはずの者が居ないだけではなく、場所によってはあるはずのものが無いのである。
ならば積もりに積もった私の責務も無いはずだろう。希望的観測に過ぎないが、私を浮き足立たせるには十分効力があった。どうやら当初の予定――『自室で優雅にティータイム』は揺るぎそうもない。ささいな事だが、幸せな気分に変わりはない。
……それでも、結局仕事を確認しにいくあたりが私の悲しい習性だ。身に染み込んだそれを呪わしく思う。
「……というわけなんです」
「ふぅん。それで、それをわざわざ私に言う意味は?」
もそもそと小さく切った肉を器用に口に運びながら、お嬢様が私に問い返した。
時刻はちょうど日を跨いだ頃、いつもより遅い時間の“昼食”だった。お嬢様からすれば“朝食”みたいなものだが、それも些末に過ぎない。
お嬢様はいつものように食事を取り、私もいつものようにその後ろに佇んでいた。変わらない光景である。
「仕事が無かったのですよ」
「へえ。“にーと”ってやつかしら?」
お嬢様はティーカップに手を掛けるとそれを静かに口に付けた。その青白い喉が蠕動する。
「いえ、そういった意味ではなく」
「わかってるわよ」
ティーカップをテーブルに置くと、お嬢様はクロスで口を拭きながらこちらに振り返った。
「ある“はず”の仕事が無かった。そういうことでしょ?」
「左様でございます」
返事をしながらお嬢様の食器を片づける。
相変わらずお嬢様は小食だ。食器の上の食事は半分以上残っていた。それでも、きちんと紅茶を飲み干すあたりがお嬢様らしい。
「美味しかったわ、咲夜。今日はあなたの手作りよね?」
「はい。大変恐縮です」
他の者がいないから当然と言えば当然である。それでも、お嬢様に誉められるということに悪い気はしない。
「欲を言えばもっとさっぱりした方が好みだったけど……クスクス、随分張り切ったのね」
「ええ。欲しいと思った材料がそこにはあったので」
「……へえ」
お嬢様の目がすっと細くなり、妖艶ともいえるような笑みがその顔に浮かんだ。
「それも、『仕事が無い』ってことと関係してるみたいね?」
さすがに察するのが早い。私は首肯しながら言葉を継いだ。
「材料もありました。食器も片づいていました。調理場の掃除も行き届いていました」
「他のところは?」
「庭の剪定も問題が無かったですし、廊下にもホコリ一つ落ちていませんでした。図書館も外も似たような感じです。」
「全部?」
「はい、パーフェクトです」
その通り、完璧だった。
紅魔館の状態はまさにパーフェクト。私が望んだ様相を示していた。それは単に掃除が行き届いているというだけではなく、無いはずのもの――例えば、度重なる襲撃で欠けてしまった門の石柱とか、どこをさがしても見つからなかったフォークセットや、割れたはずのお嬢様のお気に入りのティーカップもここにはあったのだ(現にお嬢様はそのティーカップを使っている。気付いてはいないみたいだが)。
「パーフェクト……か」
お嬢様は何やら複雑そうな表情で私の言葉を繰り返していた。何か思うところでもあったのだろうか。
「咲夜」
「はい、何でしょうか?」
「日が昇ってからでいいわ、ちょっと外を見てきてくれないかしら?」
「外を……ですか?」
つまり、湖の先を見てこいということだろう。ちょうどいいタイミングだったと思う。私もお嬢様の食事が終わり次第外出の許可をもらうつもりだったのだ。
言ってしまえば、今はジリ貧の状態に近い。紅魔館で調べることは一通り調べたし、その結果があまり受け入れやすいものではないということにも気付いた。となれば、次は場所を変えるしかないのだ。いくら、あたりにとんでもない大きさの湖が広がっていたとしても、時間をかけて飛べば何か見えるだろう。……見えて欲しい。
「わかりました。それでは明朝確認してまいります」
そう言って頭を垂れ、私はその場を離れようとした。
「ねえ、咲夜」
その背中にお嬢様の声がかかる。両手は食器類で塞がっていたので、顔だけをそちらに向けた。
「何でしょうか、お嬢様?」
「日が昇るまでは暇でしょう? 私の部屋にいらっしゃいな」
「お嬢様の部屋にですか? はあ、いいですけど」
本当は出発までに仮眠を取るつもりだったけど、お嬢様直々の頼みとあれば無碍にもできまい。とりあえずの約束を取り交わし、私はお嬢様の部屋を後にした。
こんな世界でも昼夜はあるようで、窓の外には漆黒の闇が広がっている。その閑寂とした様子が私の思考をわずかながらクリアにした。廊下を歩きながら考えを巡らす。私達は一体どこに迷いこんだのだろうか? 先ほどの問いの繰り返しになるが、その胸中はわずかばかり違っている。最初の時は単純に気味が悪いだけで、今もその気味の悪さだけは続いている。でも、私は今、少なからずこの世界に興味を持ち始めている。勿論それは好意的な意味ではないのだが、完全な悪意というわけでも無い。言ってしまえば探求心のようなものだろうか。早く抜け出したいという気持ちよりも、この世界のタネを暴きたいという気持ちの方が勝ってしまっている。……何しろ、私の望む“紅魔館”がここにはあるのだ。
それはある意味で完璧な――現実では到底達成不可能なほど完璧なものであった。人の恣意が全く感じられない、それこそ純潔とも形容できるような状態。この血の通わない機械的な感じが……少し心地良かった。
片づけは思ったよりもあっさりと済み、私はさきほど言われた通りお嬢様の部屋に向かった。ドアを二回ノックすると、中から「入っていいわよ」という声が聞こえたので私は静かに扉を開けた。
「失礼します」
「いらっしゃい、咲夜」
天蓋付きの大きなベッドがまず目に入ったが、お嬢様が居たのはその隣の小さな丸テーブルだった。
テーブルを囲むイスの一つにもたれながら、お嬢様はゆったりとした動作でこちらに体を向けた。
「何か御用でしょうか?」
「大した用事じゃないわ、ちょっとこれに付き合ってもらおうかと思ってね」
そう言ってお嬢様が指を指したその先にあったものは……古ぼけたチェス盤だった。盤の上にはすでに駒が並べられており、いつでもゲームを始めることが出来る状態だった。
「チェスですか? 珍しいですね」
お嬢様はチェスが出来ないというわけではないが、だからといって嗜むという程でもない。こちらから提案してそれに乗じるということはあるが、このように自分から話を持ちかけてくるというのは非常に稀である。
……いずれにしても、お嬢様のご所望には違いない。私は軽く頭を下げるとお嬢様と対面する形で席についた。
「随分と年季の入ったチェス盤ですね。駒も大分色褪せてるみたいですし」
「まあね。暇つぶしはいつもこれだったから」
「へえ。それは初耳です」
何だかんだで、お嬢様もチェスを嗜んでいたのだと知る。おそらくいつもはパチェリー様とでも囲っていたのだろう。このような状況になったのだから、仕方なく私を呼んだ、というところだろう。
「パチェリー様の代役は難しいと思いますが、尽力致しますわ。よろしくお願いします」
私が頭を下げると、続けてたどたどしくお嬢様が頭を下げた。上がった顔にはニッコリとした笑顔があった。
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……真剣勝負には違いないが、私とお嬢様は従者とその主なのだ。勝つにせよ負けるにせよ、最終的に従者は主を立てる必要がある。だが、お嬢様はパチェリー様と対局をこなす程の腕前だ。こちらは手心を加えるというよりも、加えてもらう側であるのだろう。そう思って最初から全力で打ったのだが……その予想は大きく外れていた。
「……待った」
本日13回目の『待った』だ。
「ごゆるりと」
私はそのように答えるしかなかった。
……お嬢様の腕前は、想像を超えてひく……いや、あまり高くはなかった。
それに気付いたのは5回目の「待った」がかかったころで、その時には、すでに盤上の展開は悲惨を極めていた。名うてのプレイヤーでも匙を投げ出すような、ある意味での“詰み”の状態である。
こうなった一因は勿論私にもある。力量を測り間違ったのだ。初めからお嬢様の腕を理解していれば、少なくともここまで悲惨な状況にはならなかったであろう。そして現在、お嬢様は死中に活を見いだそうと必死になっており、私は絶妙な塩梅での“痛み分け”を模索している。利害はもしかしたら一致しているのかもしれない。
「んっ」
お嬢様がスッと駒を動かす。私がそれに合わせて自分の駒を動かすと、お嬢様は再び頭を抱え始めた。……チェスとは本当に奥が深いものである。
「……ねえ、咲夜」
「『待った』ですか? よろしいですよ」
「ち、違うわよ。ちょっとした雑談をしようと思っただけよ、気晴らしに」
恐らくは『待った』みたいなものであろうが、さすがに回数を重ねすぎて当人もバツが悪くなったのであろう。私は笑顔でそれに応じた。
「ええ、よろしいですよ。何かお話が?」
「ええ」
お嬢様は「ふう」と息を吐くと、その体重を背もたれにぐっと預けた。随分と気が張っていたのだろう。
そうして、まるで私の間隙をつくように、お嬢様は問いかけてきた。
「……だいぶ落ち着いたみたいじゃない、咲夜?」
おそらくは、この世界に来て、という意味であろう。少しだけ意外な質問だと思った。
「私が、ですか? そんなに慌てふためいてましたか?」
「何を言ってるのよ。私に殺されかかるほど慌てたじゃない」
「それはこちらの落ち度じゃない気もしますが……そうですね、確かに少し慌てていた気もします。それに比べれば、今は大分落ち着いているかもしれませんね」
「でしょ?」
お嬢様は嬉しそうに微笑んだ。
「でも、一つ心外なことがあるわ。咲夜、あなた私が本気で殺すと思ったでしょう?」
「思いました」
即答。嘘偽りは無しだ。本気の本気でそう思ったのだから。
「妹様の件が絡んでいましたからね。最悪そうなっても仕方が無い、と」
「……紅魔館全員の所在よりも、フラン一人の所在が重要とでも?」
私は言葉に詰まった。実際にそう思っていた節があるからだ。それすらも見抜いているのか、お嬢様は私の僅かな動揺を見ながらクスクスと微笑んでいた。
「それこそ心外ね、咲夜。フランが大事なのは勿論よ。でも、それは他の連中が無価値ということではないわ」
そう言ってお嬢様はスッと私の頬に手を伸ばしてきた。血の通ってないような、冷たい手であった。
「勿論、あなたもよ、咲夜。大事にしてるわ」
「感謝の極みです。…………でも、」
目線を下におろす。そこでは、お嬢様のもう一本の手がチェス盤の上の駒に伸びていた。
「こっそり私の駒を動かす行為はいただけませんね」
「あーあ、バレちゃったわ、つまんないの」
両の手を引っ込めると、お嬢様は頬を膨らませながら再び背もたれにもたれかかった。
いつものお嬢様と変わらないその様子を微笑ましく思いながら、私はゆっくりと立ち上がった。
「あら、勝負はまだ終わってないわよ?」
「今度は私の『待った』ですよ。お嬢様はゆっくりお考えください」
ターンはお嬢様だが、このさいどうでもいいだろう。いっそ仕切り直してもらった方がいい。
「外をまわってきます。報告は追って」
「あら、もうそんな時間かしら?」
お嬢様が少し驚いた様子で窓の方を見た。わずかながら光が射し込んでいる。いつの間にか夜は明けていた。
「んっ、わかったわ。吉報を待ってるわ、咲夜」
「それでは、失礼致します」
恭しく頭を下げ、私はお嬢様の部屋を後にした。ドアを閉める時に奥の方でガチャガチャと音がしたが、聞かないフリをしておいた。そのくらいが都合良いのだ。私にとっては。
外に出ると、真っ先に朝日のお出迎えを受けた。あまりの眩しさに思わず目を細める。
「……?」
だから、最初はただの見間違いと思った。
古典的な仕草で目を擦り、もう一度“それ”を視認した時、
……私は心の底から自分の目を疑った。
to be continued……
ずっと戻られるのを待ってましたぜw
そして本編ですが……すんげぇ続きが気になる。
わくてかしながら、続きを待ってますねw
点数はその時改めてー
相変わらずも洗練された世界。
一ファンとして、続編を心待ちにします。