Anywhere but here(魔法使いには魔術書を)
【迷探偵現る】
[Side:Patchouli]
「家鳴りが消えた?」
「はい。ここ数日間はまるで静かだそうです」
噂が調整しやすかったのはその所為なんですよね、と小悪魔。
「いつから?」
「恐らくですが、パチュリー様とアリスさんが秘密部屋を見つけた夜からです」
「ということは、あれはサインだったということかしら」
「そう考えるのが妥当かと」
ふむと、私は紙にまた事項を付け足した。
『紅美鈴について関わっている(事態把握)者』
・紅美鈴(本人は自覚がない)
・カッサンドラ・グノーシス(美鈴の行動制限)
・アリス・マーガトロイド(美鈴と館の関連情報保持)
・パチュリー・ノーレッジ(館の仕掛け関連解読)
・小悪魔(情報攪乱)
・霧雨魔理沙(隠し部屋の扉に関連情報保持)
・レミリア・スカーレット(事態把握?)
『アリス・マーガトロイドについて関わっている者』
・アリス・マーガトロイド(自覚がある?)
・パチュリー・ノーレッジ(事態把握)
・小悪魔(事態把握)
・霧雨魔理沙(異変発見)
「で、これは改善前の」
『 一つ。美鈴が消えるという噂は本当である。
一つ。館が夜に家鳴りするという噂も本当である。
一つ。上記の二つは関係がある。
一つ。美鈴は存在が揺らいでいる。
一つ。美鈴は本来無生物のものが妖怪化した可能性が高い。
一つ。それは人為的なものである可能性が高い。
一つ。美鈴はこの館そのものに関係がある。 』
『以上のことを考えると、美鈴の存在には、魔術的な技法を持つ魔法使いの関与が必要不可欠である。魔法使いの仕業だとしたら、彼女の誕生には何か目的があったと思われる。飛躍的というより連想ゲーム的思考だが、彼女の「館を護ること」への執着の高さから、レミィの命令に依らず、もともと館の守護的な存在なのではないだろうか。』
『 一つ。館には隠し部屋がある。
一つ。それは魔術的な技法が用いられている。
一つ。それは美鈴に関係がある可能性が高い。
一つ。ただし、この仕掛けを作った者と、美鈴を誕生させた者が同一人物かは不明。
一つ。隠された部屋には扉があり、それを開く必要性がある可能性が高い。
一つ。アリス・マーガトロイドは、この扉に触れ、何かを知った模様。
一つ。その情報は、館の主が知るべきものである。
一つ。それ以外の存在は、むしろ知るべきではない。
一つ。この情報は、いつでも引き出せるものではない。 )注Ⅰ
一つ。アリス・マーガトロイドは、扉そのものを何か知っている模様。
注Ⅰ。私、パチュリー・ノーレッジが同様のことをしても、何も起こらなかった。
人を選ぶのか、一度しか発動しないのかは不明。 』
そこに、今聞いた話が書き加わる。
「で、次に」
『アリスマーガトロイドについて』
・魔力が枯渇しかかっている。←ほぼ確定
・霊夢を避けている模様。
・美鈴について及び扉について何か知っている。←レミィに伝達未遂
・感情に欠落の兆しあり(表情だけかもしれない)
・言動に違和感(魔理沙による)
・無理をして図書館に来ている。
『扉について』
・館のものと洞窟のものは、同じ文様が描かれているようだ。
・扉に配置された宝玉は、洞窟のものは欠落が見受けられる。
・館のものは欠落はないようだ。
・文様は石塔の位置を表してるらしい。
これらがどう美鈴に関わっているかは全く不明。
「何が問題かと言えば、隠し部屋に行けなくなったことなのよ」
どういうわけだか、あの後調べようと行った時には、もう開くことが出来なくなっていた。封印を直したのは他ならぬ私だというのに。
「それで、アリスさんが使ったという液体を作ろうとしているんですか?」
「ええ。原因があるとしたら、これ以外思いつかないもの」
つまり、あれはただ陣を見やすくしたわけではないのだ。文字通り妙薬だったということなのだろうけど。
「でも、同じものって作れるものなんですか?」
「遣うところを目の前で見たしね。それに、彼女はその薬を作るとき、ヒントをここの蔵書から見つけたと思うのよ」
「で、ここ最近にアリスさんを発見した場所を探ってるわけですか」
「そういうこと。ある程度は内容で絞れるから、そう難しいことではない。ただ…」
「時間がない、ですよね?」
そうなのだ。おまけに昨日新たな問題も浮上してしまった。
「メイド長にトラウマですか。あまりピンときませんけど」
「あれだけの能力だもの。ここに来る前に何かあっても不思議ではないわ」
「そう言えば私、以前のメイド長って苦手だったんですよ」
「そうね。あの頃の咲夜は、今以上に敵も多かったから」
その頃の彼女は感情に乏しかった。おまけに人間という立場が、彼女になかなか安息を与えなかった。だいたい、館が今みたいにきちんと目が行き届くようになったのは最近のことで、つまり咲夜がメイド長になる前は、メイド達の仕事は結構ずさんなところも多かった。ふざけ半分に咲夜をとって喰おうとした者も少なくなく、そういう輩は手酷い反撃を受けたものだ。とはいえ、最初のうちは咲夜も後れをとることも多かった為に、美鈴は相当神経を使っていたようだ。くわしい話は知らないが、いきすぎたのを数匹、館から永久追放したとか。偶に興に乗ったときは、レミィが直々に処罰したこともあったが。とにかくそんな環境だった為に、咲夜はメイドの仕事の前に、戦闘訓練に明け暮れる毎日……というのはやや誇張が入っているが(どうみても遊んでるようにしか見えないことも一生懸命やっていたから)、傍から見れば相当に奇妙な居候だった。
だから彼女にとって、レミィと美鈴は……
「でも、敵の数は多かったかもしれませんが、それでも悪意は大したことなかったんですよ。むしろその点に関しては、今の方が危ういかもしれませんね」
「大丈夫よ。確かにメイド長就任当時はいろいろあったみたいだけれど、咲夜に何かあれば、まずレミィが黙っていないわ。そもそも黙ってやられる娘じゃないし、今は味方もいるぐらいだってあなたも前に言ったじゃない」
それこそ美鈴だっているのだと、私は手と目を動かしながら軽く返した。けれど。
「それなんですが、レミリア様がメイド長に安静するように言ったのが、どうもよくなかったみたいで」
「…どういうこと?」
「紅魔館のメイド達は、純粋に忠誠心のみで働いているわけではありませんから」
小悪魔は言った。人間である咲夜がメイド長たり得た最たる理由は、誰よりも多く、誰よりも速く、誰よりも完璧に仕事をこなすからだと。
「不満の声を幾つか聞きました。確かに見た目はちょっと元気が無い程度ですから、あの待遇が納得いかないのだと思います」
「そうね。妖怪はあまり悩まない者も多いから、人間の精神がどれほど複雑で繊細かを理解できないんでしょうね」
もっとも私だって、まさかあんなに面倒な要素を多く孕んでるとは思いもしなかったのだが。
「反抗期の時も、大変だったものね」
「ああ。懐かしいですね、それ」
妖怪や獣と違い、人間は何故か時に本能に逆らおうとするところがある。あるいは悩むことこそがその本質なのかもしれない。妖怪ではおよそ考えられないほど他者の存在を必要とするかと思えば、その集団の中で生まれたルールに、他殺自害に追い込まれることもある。また、多くが宗教を持ちたがるのも不思議な習性と言えた。
「反抗期、か」
そう言えば、結局あれが収まったのはいつだったろうか。美鈴に頼み倒されて本を探したのまでは良かったのだが、本によっては書かれていたことが違ったりと、情報が信用に置けない点が多く、あれから何も助言をしていなかった。口約束といえど、契約を受けたのだ。これを反故にするのは魔女の理から外れる行為ではないだろうか。
――――――――反抗期というもの自体、思春期と呼ばれる年代に起きる、ある一つの精神状態にすぎない
これは確か、その頃読んでいた本にあった一文だ。信憑性の高い方だった情報の欠片。私は思春期という言葉を、脳内検索してみる。同時に咲夜の精神が安定したのが、いつ頃なのかを。そうしてその年代と、合うかどうかを。ちかちかと、何かが頭の隅で光っているような、そんな妙な感覚がした。これはあれだ、新しい魔法を思いつくときとよく似ている。膨大な情報の中に、ざらざらと落ち着かない、ノイズのようなものが混じっている。自慢にも何にもならないが、百年ほど本を読み続けた私の知識は混沌に近い。その宇宙とも呼べる情報の海。光は、複数有るように思えた。何かがわかりそうで、何かを見落としているようで、何かを思い出しそうな、そんな感覚が。
ちかちか、ちかちかと。それらは光るのを止めない。
「…………」
「……………………」
「………………………………」
「パチュリー様?どうかしましたか」
急に立ち上がった私に、小悪魔は驚いたように声をかける。けれど。今の私の気持ちを、どう言葉にすればいいのだろう。脳裏に過ぎるのは、あの日の――――――――
「スペルカードだわ」
「はい?」
どうして気がつかなかったのだろう。一昨日に掘り起こしたばかりの記憶だというのに。
「小悪魔」
「は、はい」
私は彼女の肩を、思わず掴んで言う。そうせずにはいられない気がした。
「率直に、あなたが思ったことや、この館で飛び交った噂でもいいわ。その全てを総合し、私の問いに答えなさい」
「十六夜咲夜は、紅美鈴を――――――――」
本当は、答えなんて訊くより前からわかっている気がした。
何故なら彼女の眼に、私は自分に通じるものを感じたから。
あの日の彼女にではなく。
普段の咲夜の目に。
長い沈黙の後、小悪魔は頷いた。
それは、約束を果たす時が訪れたのだと、私に告げられたも同然だった。
【多重連携同盟Ⅱ】
[Side:Patchouli]
「いきなり襲撃とは、ちょっと見ない間に随分と…」
「あら?私たちの出会いも、こんなものだった気がするけど?」
もっともその時は、立場はまるで逆だったが。引き攣ったレミィという珍しいものを眺めつつ、私はとりあえず友好の意を表すべく笑ってみた。何故か引きつり具合が増したけど。
「私を避けるレミィがいけないのよ。そんなにやましいことがあるの?」
「だからパチェに全部任すって…」
「危機に陥っているのは三人」
「三人?」
「正しくは妖怪が二匹と人間が一人。詳しくは紅美鈴とアリス・マーガトロイドと、十六夜咲夜」
「えっ咲夜に何かあったの?」
可愛いあの子に何があったのかと、人間から見れば年齢一桁の吸血鬼は慌てている。ようやっと話を聞く気になったらしい親友の目の前に、私は本を数冊出現させた。
「げ」
レミィはあまり本が好きではない。この一点だけは、長くレミィと口論の火種になり続けているが、今はそのことは気にしない。
「本ならフランに。私はいいわ」
「でも聞きなさい」
「咲夜に関係あること?」
「咲夜にしか関係ないことよ」
私は紙を用意し、要点をまとめる。話は数年前のことから、咲夜のトラウマについて触れながら現在まで至る。ときおり本から得た知識も交え、カーサの証言、小悪魔から見た咲夜の話、最後に私の考えを述べて一息ついた。
「何か質問は?」
「特にはないわ。これで運命の示す何割かが納得がいったし」
「レミィの力?」
「意識して使った訳じゃないのよ」
何故だかそこを強く言い切られる。ずっと不調の咲夜が心配だっただけだろうに、そのことがそんなに恥ずかしいことなのだろうか。レミィはしばらく、あーとか、うーとか呟いていた。いったいどうしたと言うのだろう。レミィはちょっと考えさせてと言うと、そのまま夜の世界へと飛んでいってしまった。いつになく唐突な態度だったが、まぁ吸血鬼は気紛れだ。危機意識を持って貰えただけましだろうか。
と、思っていたのが二日前。
「質問を変えるわ。レミィ、あなたは何を『視』たの?」
レミィは考え込むように会話を切った。珍しいことだった。いつでも自信に満ちているのが彼女なのに。慎重に言葉を選ぶように、レミィは言った。
「『視』たのは全てじゃない。だから何も断言できない。ただ一つ確かなことは、美鈴の方は、何とかなるということ」
「そうなの?」
意外な言葉だった。私はこれといった成果をあげていなかったのだ。
「どうして。いや、どうやって?」
「美鈴の運命はこの館と共にある」
レミィの力で、ということだろうか。私の問うような視線に、レミィは首を振った。
「そうだけど、そうじゃないわ。とにかくパチェ、あなたの小悪魔を貸してくれればこっちは片付ける」
「小悪魔?どうして?」
「昼の間動けるのが欲しいから。だからパチェは、パチェの好きにすればいい」
それはつまり、アリス・マーガトロイドのことを言っているのだろう。私の沈黙をどうとったのか、レミィはどこか夢見るように遠くを見た。それはつい先日も、だれかが見せた仕草に似ていて、私はひやりとした。
「予感がしたの、あの夜も」
「あの夜?」
「あの子を見たときに。ちょうど、パチュリー。あなたに初めて会ったときのように」
それは、吐露だったのかもしれない。レミィの声では久々にされた呼び方に、とくんと動悸が一回反応した。
「そうして、この館を見つけたときも。あの頃の館には誰も住んでいなくて、今の門も朽ち果てていた。そうして、館の扉は固く閉ざされていた。人も獣も妖怪の気配もまるでしなかった。なのに、庭だけは手の入った花が咲き乱れていた」
レミリア・スカーレットは、目を閉じて、その時を目蓋の裏にみているのだろう。
「花に埋もれるようにそれは居たの。近づいてわかったのは、それが眠っているらしいということ。髪が長く、紅いということ。人なのか妖怪なのかまったくわからないそれは、唐突に目を覚ました。そうして私をみて笑ったの」
――――――――『 』
――――――――それは、言葉というよりは。
「だから悟ったのよ。ああきっと、これから楽しい暮らしになるって。私が『視』たのは、それが全て。……長く話しすぎたわ。もうすぐ夜が明ける。もう眠ることにするよ。おやすみ、パチェ」
レミィはそう言って席を立った。私はその背に問いかける。
「レミィ」
言うべきかを、かすかに迷いながら。
「放って、おくの?」
咲夜を。もちろんそんなこと、あるわけないと思いながら。
レミィは柔らかく笑った。彼女らしくない、とても優しい笑い方だと思った。
「最近、少しだけ思うの。信じることでしか、選べない未来があるんじゃないかって」
「おやすみ」
二度目は、引き留められなかった。
「その最近は、あの人間と会ってから?」
誰もいなくなったその場所で、私は独白した。
そうして一つ荷が下りたことを、どう喜ぶべきかわからずに苦笑した。
【黄昏時の彼女】
どうしても、届かない強さがあることには気づいている。だから、強がることでその隣にいようと足掻いている。
[Side:Marisa]
どこをどうやって飛んだのか。いつの間にか、気がつけば自分のベットの上だった。
どれくらいこうしていたのか、魔理沙にはわからない。あれから丸一日以上経っていることぐらいはわかっている。
夜明けが近づいている。外は生憎の雨だった。森はいつも以上に薄暗い。いや、生憎というほどではないかもしれなかった。こんな日はキノコが良く育つだろう。魔理沙にとってはむしろいい天気なのかもしれない。
「雨に、あたるのも…」
悪くないな。
なんだか無性に、そうしたい気分だったから。
―――――――― 一日前 ――――――――
パチュリーに言われるまでもなく、魔理沙はアリスの家を訪れるつもりだった。
魔理沙は気づいている。空を飛ぶ、その速度が普段とは比べものにならないくらい、ゆっくりとしたものであることを。わかっていても、今はこれ以上速く飛べない。飛びたくない。
この気持ちはなんだろうか。魔理沙は考える。後悔だろうか。不安だろうか。あるいは苛立ちなのかもしれない。
「どうしろって言うんだよ」
――――――――別に、アリスがどうしようとアリスの勝手でしょ?
霊夢の声が甦る。その通りだと魔理沙は思った。
――――――馬鹿に見えるわ
――――――――答えなんてとっくに出してるくせに、私に訊きに来ないでってこと
「私が、答えを出しているって?」
自分はなんの答えを出しているのだろうか。魔理沙にはわからない。わからないから、こうして未だ迷っているのではないか。今鏡を覗き込んだら、そうとう情けない顔を拝めるに違いないんだ。
アリスの家まではもう少しだった。遠く小さく三本杉が見える。どんなにゆっくり飛んでも、あと5分もすればあの家にたどり着いてしまう。魔理沙はアリスが留守かもしれない可能性を考えた。問われた頭はいい気なもので、その可能性は低いと簡単に、一秒もかからずに出してくれた。それはそうだ。今の彼女は、むやみに出歩ける身体ではないのだ。
そうなんだ。心が置いてけぼりなんだ。
――――――――急ぎすぎたインディアンは、立ち止まって心が追いつくのを待つのよ
アリスの言葉。いつか話してくれた教訓めいた話だ。こうして思い返してみると、アリスほどとやかく言う奴も珍しい。あとは閻魔くらいだろうか。異変があると魔理沙に教えにきて、解決しろと五月蠅い。宴会では人見知りならぬ妖怪見知りをし、隅の方で酒をなめるような飲み方をして、決して酔っぱらわない。正直、実は楽しくないんじゃないかと何度か思ったこともある。だから一度、退屈じゃないのかと訊いた。答えは「別に」とただ一言だったのが、今さらながら気になった。
煩いと思った言葉が、次々と自動再生されていく。思えば会う度にそういった一言を言われていた気がしてならない。その時だけ少し口調が変わるから、その言葉は過去にアリスも言われたのだと、いつしか魔理沙はわかるようになっていた。
三本杉は、もう大分近い。
こんなにも、ゆっくり飛んでいるのに。
その事実が、奇妙な痛みを心臓に連れてくる。痛みは毒のようだった。血管を介し、全身に広がっていくようで。
それでも。
「わかってるさ」
全て錯覚なのだから、苦しいのなんて気のせいなのだから。あの寂しがり屋が困っているなら、いつものように茶化せばいいだけなのだから。
「結局」
たとえ自分自身、ぎりぎりでも、笑わなければ始まらない。そうやって全力で、霧雨魔理沙は来たのだから。スリルも事件も厄介事も、楽しんだ方が勝ち。立ち止まるなんてあり得ない。幻想郷最速。そう言ったのは誰だった?余裕がないからって、そこで狼狽えるなんて『らしく』ないと。
「一人じゃ何も出来ない奴なんだ」
そんなわけないと返してくれる声は、もちろんあるはずなかったけれど。
声をかけずに乱暴に扉を開けた。予想通り、人形の襲撃はない。それどころかアリスの姿も無かった。部屋の中はシンとして、とても静かだった。いつもならばアリスは応接間の椅子に座って、魔理沙の来訪に眉をよせているはずだったけど。
そこで。
そこでそうやって座って、人形の手入れをするアリスを眺めるのが好きだった。そうやっているときの彼女は、とても優しい笑い方をするから。挨拶代わりにからかうと眉を寄せて、それからフイと顔を背けてしまうところも嫌いじゃなかった。不機嫌そうに出してくれるお茶は、けれどとびっきり丁寧に淹れられたもので、出されるお菓子はいつだって彼女の自信作だったのに。
箒を片手に、魔理沙は奥へと進んでいく。真っ先に目指したのは寝室だったが、そこにも彼女はいなかった。そこで次に研究に使っている部屋へと向かった。休みたくなったら休めるように、そこにも仮眠用のベットがあることを知っていたからだ。けれど、アリスはそこにもいない。
もしやと思い、以前に一度だけ見させてもらった地下の階段を降りる。そこには確か、アリスが集めたり創ったりした人形達の部屋があるはずだった。
そうして。
「勝手に入ってこないでって、前に言わなかった?」
「それに了承した覚えはないぜ」
アリスがいた。
おびただしい数の人形達に囲まれて、彼女はくつろぐように椅子に座っていた。その膝には、彼女がとりわけ愛情を注いでいた一体が。
「…上海」
その人形は魔理沙の記憶の中では常に動いていた。けれど今の上海は、まるでただの良く出来ただけの人形で、そんな事が出来たとはとうてい思えない。よく見れば、傍らの机には蓬莱もいて、そうしてこちらも、動く気配はない。
「眠らしてあるの。一夏中かけたんだもの、それなりに保つと思うわ。たぶん、魔理沙よりも」
その言葉は、魔理沙が何の用事で来たのかを知っていると言ったも同然だった。
「アリス、話がしたい」
「愛の告白かしら?」
「ばか」
軽く聞こえればいい。頼むから、震えないで欲しい。いつものように響けばいいと。とびっきりに無責任に軽く。
笑うべきかどうかも、本当はわからない。それでも普段の霧雨魔理沙なら、きっと七色の人形遣いのことで、みっともなく慌てたりなどしないのだと。
「お茶くらい出したらどうだ?」
「生憎、葉をきらしているのよ」
そう、魔理沙は信じたから。
「代わりと言ってはなんだけれど、梨、食べる?」
「もらうぜ」
「…自分で剥いてね」
「じゃあ遠慮する」
アリスは笑おうとしたのかもしれなかった。けれど結局その唇から笑いが零れることはなく、彼女は疲れたようにソファーに腰掛けた。
「それで、話って?」
「お前が隠していること、全部」
「抽象的すぎるわよ。魔理沙は私が何を隠していると思っているの?」
落ち着けと、強く言い聞かす。右手は左腕の辺りを触れている。
「遺跡のこととか。共同研究だったろ?」
「ああそうね。それはその通りだわ」
約束は守らなきゃねと、アリス・マーガトロイドは笑った。たぶん、笑ったんだと、魔理沙は思った。
「私も魔法使いとして、約束は守りたい気持ちもあるのよ。でもね、ちょっと厄介なものを拾っちゃって、全部は言えないの」
「厄介なもの?」
「もうすぐ、私は遠くに行くわ」
ことりと、耳の中でその言葉は転がった。
息が、苦しい。
「…魔界に、帰るのか?」
絞り出すような魔理沙の言葉に、アリスは懐かしむような目をする。
「そうね。そうしようかしら」
「それなら『行く』だなんて言わないだろ」
それに質問に答えてないぞ。
「ねえ魔理沙。あの時、楽しかったわね」
「あの時?」
「永い夜の」
とくっと。心臓の音が一度強く。
「魔理沙と組むのは大変だったわ。あなた、強い奴が好きでしょう?人間だろうと妖怪だろうと」
「面白い奴が好きなだけだ」
アリスは、アリス・マーガトロイドは、まるで何でもない、いつもの彼女のように。まるで彼女らしくない、自嘲めいた言葉を口にする。
「今だけ弱音を吐いてあげる。私は、自分が決して至れない域があることを受け入れられる性格なの。最強になりたいなんて思えない。一番なんて憧れない。目指す気もないわ」
「でもアリス」
どうしてそんなにも。
「お前はいつだって、自分なりに強くあろうとしたじゃないか。強くはなれないから強がるだけでも、決して現状には甘えないところ、私は嫌いじゃなかったんだぜ?」
本当は、辛い癖に。背筋を綺麗に伸ばして、服はいつものように乱れがなくて。なのに、表情だけが抜け落ちている。それが痛々しくて、苦々しくて、見ていてたまらなくなる。
「アリス」
魔理沙の伸びた手が、アリスの腕を掴んだ。思ったよりも力が入ったらしく、アリスは身をよじって逃れようとする。けれどそんなことよりも。
「アリス、お前、これ…?」
「痛いわよ魔理沙」
「そうじゃなくて、何でこんな冷たいんだよ!」
生きてないみたく。まるで、人形のように。
「これぐらい何ともないわ。人間と一緒にしないで」
「ばっか」
「失礼ね」
何でもないはず無い。それに身体はこんなに冷たいのに、汗をかいている。これが平気なはずが無いじゃないか。
「今すぐ寝ろ。なんなら負ぶってでも…」
「魔理沙」
肩を貸したせいで、声はすぐ耳元だった。
茉莉花が香る。
「これが最後になるから」
「なにがだよ」
「わかっているでしょ?」
「いいから、ちょっと黙れ」
「魔理沙。だから最後なのよ、ちょっとくらい私の話を」
「うるさい」
「魔理沙」
そんな声で呼ぶな。
「…あの夜。大変だったけど、楽しかったの」
「だから黙れって」
「でも魔理沙、霊夢に対してだけ弱腰なのね」
「お前な、人の話きけよ」
「魔理沙こそ、私の話を聞きなさいよ」
これが多分、最後だからと。明日はもう、会えそうにないからと。
「なんだよそれ」
「今日が終わったら、家に来ても開けないってこと。もう封印の準備も終わったの。あと数時間で、自動的に発動するわ」
ベットに腰掛けさせても、アリスはなかなか横にならなかった。仕方なく、タオルケットだけを羽織らせる。
「ありがとう…」
「素直なアリスは気持ち悪いな」
「親切な魔理沙ほどじゃないわ」
うっかり同意してしまいそうだった。確かに、らしくないことをしている自覚ぐらいある。
「こんなんじゃ、パチュリーの方がまだ健康そうだ」
「そんなに?」
「アリス」
「なに?」
それを言うべきか少しだけ悩んで、けれど魔理沙はもう認めることにした。
「笑おうとしなくていい。ずっと出来てないぜ?」
「――――――――そう。もう、そこまでなんだ」
そこでようやっと諦めたのか、アリスは力を抜いて倒れ込んだ。ぽすっという、いやに軽い音がした。
「魔理沙といると、楽しかった。宴会もね、見ているだけで楽しかったのよ?本当よ?」
「ああ」
「でも」
天井を、あるいはもっと遠くを見つめて、アリスはようやっと。
「あの連日の宴会の時、あの鬼に言われたの。私は孤独なんだそうよ?」
「初めて聞いたな」
そんなの全然気づかなかった。普通に見えた。
「言えるわけないじゃない」
「そう、かもな」
ならどうして今は言うんだ。そんなの決まってるだろ。心の中で答えは返る。これが、最後だからだ。最後?最後ってなんだよ。今度の問いはすぐには返らない。それでいいと魔理沙は思った。一生返らなくていい。
「不幸だなんて思ったことは一度もないわ。けっこう満たされてるもの。でも」
「でも?」
「ちょうど魔理沙が勧めた図書館に、彼女がいることを思い出してね。そう言えば、また来るって言ったのを思い出して。うん、本は好きだもの。通ってみたの」
「それで?」
「悪くなかった。あんまり話は出来なかったけど、たまにはこういうのも悪くないかなって思った」
「そうか」
そりゃ良かったなと。それだけを何とか返す。
目を閉じてしまった彼女は、いったい何を考えているのか。
「ずっと遠くを目指しているのよ。いつも夢見るのは、ここでないどこかなの」
アリスの見ているものは、魔理沙には見えない。同じものを見ていても、きっと違うことを考える。あの黄昏に、空を見上げた時のように。
「隣を歩ける気がしてた。ちょっと試してみたくて、私なりに頑張ったのよ、これでも」
でももう。限界なのだと。何が?わからないけど、わかることもある。アリスは今、何かとても大切なことを、永遠に諦めようとしているんだ。
「そのがんばりは、もう終わりなのか?」
吐きだした魔理沙の声は、何か縋るものを探しているように覇気がないものだった。だからなのか、久しぶりにアリスは笑ってくれた。
「私はどちらにも届かないみたい」
「だから笑おうと無理するなって。力も、こんなんになる前に言えば…」
「魔理沙」
知っている。
「もう通り越したのよ、魔理沙」
多分魔理沙は知っている。
「ここ最近の戦いを避けたのは、力が無いからっていうのもあるけど、本当は違うの」
彼女が何を言っているのかを、霧雨魔理沙は知っている。
「魔理沙、弾幕ってる間は相手を見てるけど見てないでしょ?それに勝ったらすぐ帰っちゃうんだもの。それじゃ気づいて貰えないって思ったの。話す時間の方を、長くしようと思ったのよ」
だから無理を押してでも共同研究を増やして、家に呼んだ。言葉にしようとする度に、『 』の意志が邪魔をしてしまうから。だからチャンスを増やして、ヒントを出して。
それはつまり、アリスは。
「―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――あ」
この土壇場で、魔理沙は手を伸ばしたつもりだった。でも、アリスはもうずっと前から魔理沙に手を伸ばして、そうしてそれは振り払われていたということで。気づいてと、何度も何度も、魔理沙が何も考えていなかった頃も、怖くて逃げ出したあの時も、彼女は。
なのに。
「ごめんね魔理沙」
なにが?謝るのは――――――。
「せっかく、来て…でも、もうそろそろ限界みたい」
掴んだ手は冷たい。このままもっと冷たくなってしまうというのだろうか。
このままずっと冷たいままだというのだろうか。
魔理沙の視線に気づいたアリスは、首を振った。言い聞かせるように。
「大丈夫。魔理沙が考えていることとは、少し違うから」
「違うって?」
「魔理沙。もしかして、死んじゃうと思ってるでしょ?馬鹿ね、死なないわよ。死なないで、私は魔理沙の何倍も生きるわ。でも、こうやってお話しできるのは、これが最後」
どうしてだ?
それは音にならなかったけれど、アリスには聞こえたみたいだった。
「今日が終われば、私はあまりに穴だらけで、魔理沙の言葉を受けきることが出来なくなる」
どこまでもどこまでも透き通る眼が、魔理沙の視線と、一瞬絡んで――――――――
「さよなら」
永遠に、外された。
手を握る。折れてしまいそうなほど強く握っても、アリスは何も言わなかった。
さよなら。
音にせず、舌の上で転がして、飲み込む。
「なんだよ」
からっと。いつものお別れのように。
「また明日って、言ってくれないのか?」
何でもない、いつものお別れのように。
けれど。
「………………連れて行けないわよ、ばか…」
ようやく絞り出した震えるそれが、アリスのお別れの言葉だった。
いつもとは違う、永いお別れの言葉だった。
[夜明け前]
どこをどうやって飛んだのか。いつの間にか、気がつけば自分のベットの上だった。
どれくらいこうしていたのか、魔理沙にはわからない。あれから丸一日以上経っていることぐらいはわかっている。
そうして今は、夜明けが近い。外は生憎の雨だった。森はいつも以上に薄暗い。いや、生憎というほどではないかもしれなかった。こんな日はキノコが良く育つだろう。魔理沙にとってはむしろいい天気なのかもしれない。それに。
「雨に、あたるのも…」
悪くないな。
なんだか無性に、そうしたい気分だった。
酷い乾きを感じていた。喉を潤そうと水差しに手を伸ばし、そこで思い出した。
――――――――生憎、葉をきらしているのよ
――――――――梨、食べる?
…ああつまり。
もう料理すら、ままならなかったのだ。
全力が好きだ。努力しているところを見られるのは好きではないし、努力しているなんて思われたくもない。それでも魔理沙は全力が好きだ。だけどこの場合、どうすればいいのだろう。
意識せずとも、脳は考えるべきことを知っているようだった。
数時間後、魔理沙は無理矢理朝食を詰め込むと、外へと飛び出した。
知識の魔女に、会いに行くために。
雨の中を、ただ直向きに。
【未完成の奇跡】
人形は、決して自分からは遊んで欲しいと言わないものさ。
[Side:Wizardly Girls]
ずぶ濡れでやって来た魔理沙を見たとき、パチュリーはちょうど己の迂闊さを呪っていた。アリス・マーガトロイドの使っていた薬の復元が、成功した日の翌日だった。
「アリスが、遠くへ行くらしい」
それが魔理沙の第一声だった。
「…魔理沙、あなた寝ていないわね?」
「お互い様だろ?」
どさりと倒れ込むように腰掛け、魔理沙は溜め息をついた。
「とりあえずタオルを持ってくるわ。生憎、小悪魔はいないの」
あれ以来小悪魔はレミリアの指揮下にいて、今日は竹林の薬師の方まで遠征していた。普段ならパチュリーもメイドを呼ぶのだが、今は無関係な存在を近づけたくはなかったのだ。
「話を聞かせてくれるかしら?」
「ああ」
心底疲れ切ったというように。
「あいつは、どうも自分の意志だけで動いている訳じゃないみたいなんだ」
「そう」
結局魔理沙に淹れてもらった紅茶を啜りながら、一人と一匹は話し頷きを交互に繰り返す。
「もう遅いって言うんだ。それから、これが最後の会話だって」
「最後?」
「あいつは、あいつだけど、あいつじゃなくなるらしい。よくわからないが、嘘じゃないと思う」
「ふうん」
素っ気ない返事に、魔理沙は違和感を覚えた。そういえば、どうしてパチュリーは、こんなにも落ち着いていられるのだろう。魔理沙から見てもパチュリーは、決してアリスをどうでもいいとは見ていなかったはずなのに。
「一つだけ朗報があるわ」
「なんだよ」
「美鈴の方は片がつきそうよ」
引っかかりを覚える。ということは、
「結局、アリスとは関係なかったのか?」
「そうなるのかしら。そこら辺は何とも言えないけれど」
「じゃあ、アリスは何で」
「そのことなんだけど」
強い口調で、パチュリーは魔理沙の言葉を遮った。驚いて魔理沙はパチュリーを見て、そうして息をのんだ。初めて会ったときのような冷たい目が、こちらをひたと見据えていたから。
「魔理沙」
彼女は言った。
「探して欲しいものがあるの」
[歪な彼女]
この図書館のどこかにアリスの人形があるはずだと、知識の魔女は言った。半信半疑だったが、ありえないことではない。それが今なんの役にたつかもわからないし、どうしてパチュリーがそう考えたのかもわからないが、魔理沙は文句を言わずに探すのを手伝った。一人でいると、次々といろんな事を思い出して、深みにはまってしまいそうだったからだ。
「あ、ここ」
魔理沙が立ち止まったのは、古い本ばかりが集まる棚の前だった。
「ここはがどうかしたの?」
人形を見つけたのとは違うようだけれど。
「いや、この前ここで、小悪魔と話を」
そこは、つい半月前に小悪魔と会話をした場所だった。
――――――――その辺の本は出来れば遠慮してくれませんか
背表紙に触れた瞬間に、小悪魔がそう言ってきたんだっけ。
――――――――そこからここまでの古代書。どうもアリスさんのお気に入りみたいなんですよ
――――――――何度かここで見つけたことありますし
――――――――ここらの本から魔力を感じませんか?例えば先ほど魔理沙さんが触れた本、開けた途端呪いがかかります
物騒な話だと思った。アリスもそんな危険なものに手を出すなよと思ったんだっけ。
――――――――絶対に持って帰らないし、ここの本だけは一冊ずつしか読まないぐらい徹底してます
「そんなことを小悪魔と話しているとき、お前の喘息が―――って、パチュリー?どうしたんだ、そんなに怖い顔をして?」
「小悪魔がそう言ったの?」
「は?」
「ここでよく見つけたって」
「ああ。言ったぜ?それが何か」
パチュリーは近くの本を抜き取り、その背表紙を撫でる。そして本を戻し、その隣の一冊を抜き取り、同じように撫で、また戻す。
そうして。
「そう…そういうことだったのね」
くっ…あははと。
パチュリーは、知識と日陰の魔女は、可笑しくて堪らないというように笑い出した。普通の魔法使いはこの少女が声をたてて笑うのなんて初めて見る。というか、笑う事すら滅多にしないのだが。
あまりに予想外のことに、魔理沙はしばらく何も言えなかった。突然笑い出した彼女を、信じられないものを見たというように。
「…はは、はぁっ……わ、わらいすぎたっ、かも」
「パ、パチュリー?」
いったいどうしてしまったのか。知識の魔女は答えない。アリスに続いてパチュリーまでおかしくなってしまったのか。不安になり始めた魔理沙の眼に、いまだ笑いをこらえながら、パチュリーはあるものを取り出した。
「なんだ、これ」
「妙薬。アリス・マーガトロイドが造ったものの改良版よ」
「薬?」
「正しくは液体の形をとった――――――――まぁ、れっきとした魔術よ。さて」
徹夜明けだし、詳しい話は面倒だというように。
「答え合わせといきましょうか、霧雨魔理沙。私たちの知る、アリス・マーガトロイドの全てについて」
そう言うと、パチュリー・ノーレッジは小瓶の蓋を開けた。
[暗転]
『アリスマーガトロイドについて』
・魔力が枯渇しかかっている。←ほぼ確定
・霊夢を避けている模様。
・美鈴について及び扉について何か知っている。←レミィに伝達未遂
・感情に欠落の兆しあり(表情だけかもしれない)
・言動に違和感(魔理沙による)
・無理をして図書館に来ている。※
※見たところ本を読みに来ている。にも関わらず、決して本を持ち帰らない。
[暗転]
それは、なんと形容すべきか。
「魔理沙。あなたは言ったわよね?あの人形遣いは、妖怪の割にパワー不足だと。その言葉がずっと引っ掛かっていた。だから、一度疑った可能性を、消さずにはいられなかった」
蓋を開けた途端、液体は意志があるように飛び出て、四方へと散った。
無数に並ぶ、本達へと。危険来まわり無い、呪いの書物へと。
「でもこれでその疑問は解消よ。灯台もと暗しとはまさにこのこと。まさかこんなことをされるとは、さすがに予想していなかったわ」
妙薬なるそれらが本に触れた途端、魔理沙はぐにゃりと、世界が歪んだ気がした。
「アリス・マーガトロイドは、本を持ち帰らなかったんじゃないわ。本を持ち帰れなかったのよ。なぜなら」
「そんなことをすれば、せっかく編んだ陣が崩れてしまうもの」
それは力の満ちる気配。
かちりと何かが噛み合う音がして。
一つ、また一つと、本が光り始める。
あおく、あかく、みどりに、むらさき、だいだい、ももいろ、こがねに、あるいはぎんいろに。
その全てが、力そのものだ。
おそらくそれは、アリス・マーガトロイドの中でも、指折りに大がかりな仕掛け。
普段にパチュリー・ノーレッジのいる位置からは距離があり、並び立つ棚も手伝って、死角になったその場所は。
気づかぬ間に、人形師の――――――――
「やられたわね。まさか自分のじゃ足らないからって、ここの本の魔力を使って、こんなものを作り上げるなんて。しかも、私と小悪魔の目を盗んでよ?器用にもほどがあるわ。本当――――――――」
その声は、どこか愛おしげにあったように思う。
「呆れた」
本から出る光は、立ち並ぶ棚のその中央へと集められていく。
色とりどりの糸を、巻き取るように。
くるりくるり、絹のような小さな竜巻が五つ。
糸の色を受け、それらは一秒ごとに色を変えた。
あおく、あかく、みどりに、むらさき、だいだい、ももいろ、こがねに、あるいはぎんいろに。
やがて巻き終わると、それらは今度は逆回転。
もちろん糸を戻す為ではない。
調和は乱れ、それらは解ける。
光る糸が床に広がる。
編み目のように、何か見えない線を辿って。
とけ込むように広がっていく。
「現すわよ」
パチュリーのその言葉に応えるように、棚の並ぶ中央、つまり床の中央に。
アリス・マーガトロイドの最高傑作が、徐々に浮かび上がってくる。
絹は白く、あるいは銀色に。
絹は光る。あるいは黄金に。
それらはまるで意志あるように。
光る線は、まるで生き物のよう。
それは、どこか蛇に似た――――――――
「からくさ?」
「そう。はじまりとおわりよ」
あの扉に描かれたそれに似た、けれどそれより遙かに緻密な図。
光り輝くそれは、凝縮された魔力で綴られたもので。
こうして見る間にも、その複雑さは増していく。
まるで、ツタが生長していくのを、早送りで見ているみたいに。
「なんて」
言わずにはいられなかったというように、魔理沙は。
――――――――なんて美しい陣なんだろう。まるで、なにかを祈っているようだ
ぱちんと。
その言葉を待っていたように、奇跡はそこで終わってしまった。
【両手の意味】
まだ魔理沙は夢魅心地だった。隣のパチュリーもそうだろう。
陣に魅了されるなんて初めてだ。そんなことが可能なんて思いもしなかった。
なのに。
「『アリス・マーガトロイドについて』その七くらいかしら?」
「性格は極めて慎重、か」
陣が発動しようというその瞬間に、キーにあたるだろう何かが欠けていた所為だろう、不発に終わってしまったのだ。
「本が一冊抜き取られているわ。最後に小悪魔が確認してからだから。えっと…」
記憶を辿ったパチュリーは、ぎょっという顔をした。
「どうした?」
「…そう。彼女、さっきまでここにいたのね」
「え?」
そんな馬鹿な。
「いいえ。いつも気づかなかったんだもの。今回だって気づかなくてもおかしくない。それにしても、つくづくタイミングが悪いって魔理沙?何処へ行くの?」
「決まっているだろ。追いかけるんだ」
こうしている間にも、距離は開いてしまう。いや、もう家に着いてしまっただろうか。
「やめなさい。いま会ったとしても、話す事なんてないわ」
それはどこか冷たい声だった。
「けど」
「他ならぬ彼女がそう言ったんでしょう?一昨日が最後だと」
「それは、そうだが」
だからといって…
「それよりも今はこっちの陣が重要だわ。これがここにあるということは、近いうちに彼女はここに来るということだもの」
「え?」
「魔理沙。彼女が『行く』のは、この陣の向こうよ」
言っている意味がわからない。
「ここにも、隠し部屋があるってことか?」
「部屋なんていう、そんなかわいい規模じゃないわ。おそらくもっと大がかりな、たぶん箱庭があるんだと思うわ」
「箱庭?」
よくわからないけれどそれはつまり。手詰まりではないということで。
「そう。なんの用事があるか知らないけれど、彼女はそこに行かなければならない」
「じゃあ、そこに私も行ければ」
手遅れじゃないのかと、意気込んだ魔理沙に。
「無理よ」
けれど魔女は、短く切り捨てた。
「なんっ……なんでだ、よ」
「あなたが人間だから」
その言葉は呪いのようだった。
「これは魔力に強くその存在を依存している者にだけできるの秘術なの。人間のあなたには無理よ、魔理沙」
一瞬。世界から音が無くなった。パチュリーの言葉がこだまして、何もかもがぐじゃぐじゃになる。耐えるようにぎっと奥歯を強く噛んだ。口いっぱいに苦いものが広がっていく。ここ一ヶ月の、苦い思いを全て凝縮されたように。
――――――――もう通り越したのよ、魔理沙
アリスの声が甦る。
「何が」
耐えられるわけ、ない。
「何が足りなかった?努力か?力か?時間なのか?それとも『想い』ってやつなのかよ!」
耐えられるはずなかった。この一夏じゅう、ずっと抱えていたのだから。これ以上、軋むすべてに耐えられない。なのにパチュリーは、魔理沙の熱に追いつけない。当然だ。
だってこいつは『行け』るんだ!
「魔理沙、落ち着きなさい」
「ああ、お前はいいだろうよ。でも私は」
「いいから落ち着いて話を聞い」
「けど!」
左腕が疼く。消えてしまった熱を探すように。
「私は間に合わなかったんだ。そういうことなんだろう?くそっ」
何が足らなかったんだ。もっと早く気づけば?もっとあいつの話を聞けばよかった?足りなかったのは力か?時間か?あいつから逃げない為の、覚悟なのか?
けれど魔女は首を振った。
「魔理沙。あなたは何も足りなくなんてなかったわ。霧雨魔理沙という存在を構築する全て、いつでもあなたの手に有った。あなたはそれを守ったの。何一つ零れさせることなく、霧雨魔理沙であり続けた」
ただその結果に過ぎないのだと、パチュリー・ノーレッジは言う。
そもそもアリス・マーガトロイドは、今回のことを自分の中だけで終わらせようとしたのだ。けれど迷う心もあって、一番近くにいた魔理沙に、サインを送った。ならば彼女はきっと、そう多くは期待していなかっただろう。
「だってあなた達は、仲が悪い魔法使い同士。気が合うけれど反発する。そういうことになっていたんでしょう?」
魔理沙が気に病む必要はない。けど、それなら。
「じゃあ…何が、悪かったんだ」
「哀しいことに、きっと誰も悪くなんてなかった」
それは本当に哀しいことだった。だってそれは誰かを責めることもできなければ、自分を責めることも出来ず、ただ哀しむことしか出来ないということなのだから。
「お前の言っていることはよくわからない。結局、お前は行けて、私は行けないんだ」
「……とりとめのない話をひとつ、しましょうか」
外は雨が降っている。けれどその音はここまで届かない。
パチュリー・ノーレッジは自分の言葉もそんなものだろうと思った。それでも届けばいいなと、魔理沙の眼をみる。相手の目を見て話すようになったのはいつからなのかと、それこそとりとめのないことを考えながら。
「アリス・マーガトロイドの、彼女が創ろうとしている人形は、もし完成すればとても人間に似ていると思うの」
「そりゃ、人形だからな」
「魔理沙、今日はわからないふりはなしよ」
ぐっと、普通の魔法使いは帽子を眼深にかぶる。思い当たることがあるのだろう。それが正解だとパチュリーは思った。そのことが魔理沙に、アリスの助けになれなかったことを悔やませている一番の理由なんだろうと。あの日の予感はこれだった。魔理沙が思っている以上に、魔理沙はアリスを、ちゃんと気にかけているのに。アリスが魔理沙や霊夢に近づき過ぎたのと同じくらい、魔理沙もアリスに近づき過ぎていたといることが気になっていた。だから意識して、きつめの言葉を選んだ。
「人間に惹かれてしまうのね、可哀相な子」
かっと、一瞬で頬が染まった。
「そんな言い方よせよ、それはさすがに、あいつに失礼だ」
「あら?優しいのね」
一発くらい叩かれるのではと覚悟したのだが。思ったよりも、いや期待通りに、魔理沙は強いのかもしれない。これ以上意地悪をする必要はない気がした。
「妖怪は妖怪らしく、己の性質に依って自己完結してればいいのよ―――――――――――と。前までは思ってたわ。私だけではなく、きっとレミィや他のみんなもね」
それに、異常事態に陥っているのは、なにもこの二人だけではない。もちろん中には割り切るのが得意な者と、そうでない者とがいる。あのスキマ妖怪なんて、いかにも得意そうだとパチュリーは思った。
「狂わせたのは、黒白と紅白。あなたたちよ」
「私と…霊夢?」
「ええ。それと咲夜も入るのかしら」
こちらは主にレミィや美鈴と絞られてしまうのだが。
「気づいている?あなた達があんまり先へ先へと行くものだから、私たちは狂いっぱなしなのよ。そもそも妖怪同士、こんなに交流を持っていること自体が特例よ。連日宴会騒ぎ?鬼の力だと言っても、そもそも関わりのない者同士ではそんなの不可能というもの。人間の何倍生きると思っているの、数年会わなくても問題ないわ」
それでもその狂いも含めて、楽しめるのが幻想郷。けれどたった一人、それにうまくのれない者がいた。今回のことは、結局の処それだけに過ぎない。
「最大の不幸だったのは、アリス・マーガトロイドが、妖怪との付き合い方すらよくわからなかったこと。彼女には、長く自分の家族しかいなかったから。だから人間に対して、ああも無防備に近づいたのよ」
その点に関しては、フランドールにも懸念があるのだが。
「無防備?」
「構えがないって事。魔理沙、人間は妖怪よりも相手に合わせる傾向があるわね?コミュニケーション手段として、相手と同じ目線で見ようとする。妖怪にそんなものはないわ。分かり合えないからって、そう悲観にくれたりもしない」
魔理沙の話を考えるに、アリス・マーガトロイドにとっての家族は、それこそ人間の家族とよく似ているのだろう。妖怪には親すらいないことも珍しくないし、家族というものに強い執着を持たない者も多い。基本的に好き勝手、思うとおりに生きるのだから。
「なまじ人間に酷似していた彼女は、本当に人間のようにあなた達と過ごしてしまった。これがどれほど残酷なことなのかは、私には推し量ることすら出来ないわ」
「彼女はもう気づいているんでしょう。そうして、一人きりで生きると決めたのよ」
お誂え向きに、人間には不向きなトラブル。それに多分、アリス・マーガトロイドは、霧雨魔理沙に遠慮しているのだ。自分が、妖怪であることをわかっているから。どちらも踏み込みが甘いのだろうか。
「さて。そろそろ結論が見えてきてもいいと思うのだけれど」
「だから、お前が『行く』んだろ?」
未だ不機嫌そうに、魔理沙は言った。パチュリーは苦笑する。そんなにも悔しそうに言うなら、とっておきの話をしなくてはいけなくなる。
「Über den Bergen, weit zu wandern,
sagen die Leute, wohnt das Glück. 」
「え?」
「魔理沙にはこういった方がわかりやすいかしら。
『 山のあなたの空遠く
「幸」住むと人のいふ 』
彼女が口ずさんでいた詩よ。幸せは遠くにあるっていう詩」
「それがどうかしたのか?」
「一見哀しいだけのこの詩だけれど、それでも救いが二つ残されているわ。一つ、この人は一人で幸福を追っているのではないということ」
そう、これは本当にとっておきなのだ。
「二つめ。彼には、ちゃんと帰る場所があったのよ」
うまく笑えているだろうか。これぐらい軽く言えないようでは、パチュリーはこの先、アリスを連れて帰るなんて出来ないのだから。
「あなた、何か勘違いしてるでしょう」
「なにがだ」
「私もけっこう今の生活が嫌いじゃないのよ。それを守りたいからこんなに『らしくない』ことをしているの。でも彼女みたく、同じものを見たいとは思わないだけ。そんなことをしなくてもね、ほら」
本を手放し、私は両手を開いて見せた。
「近くにいるかどうか知りたければ、手を伸ばせばいいのよ。私の手は二つあるの。あなたの手もそうで、あの子の手も二つ」
つまりねと魔女は言う。
「同時二人と繋ぐことも可能なわけよ、三人とも」
ストレートなのか変化球なのか。パチュリー・ノーレッジが手を差し出してくる。
「何が何でも『私たちが知っている』アリス・マーガトロイドを連れて帰るから、あなたは全力で待っていて欲しい」
彼女の帰る場所でいてあげて欲しい。
それは私には出来ないことだと、パチュリー・ノーレッジは言った。
その言葉に嘘はないと知識の魔女が言うから、普通の魔法使いはその右手を左手で握り返した。
魔を術とし、魔を法る者は、その契約を尊ぶ。
故に、この誓いは違えることは許されないものということで。
あとは開いた片方に、彼女が来れば、それは完全なものとなる。
「それにね」
「ん?」
霧雨魔理沙の手を握り、パチュリー・ノーレッジは厳かに宣った。
「三人とも手を繋いでいるということは、自分以外の二人がお互い手を繋ごうとしても、邪魔できるということでしょう?」
厳かに、先ほどの話にオチをつけてくれた。
信じられないことをするものだ。
ちょっと裏切られた気分だった。
「パチュリー、そこでオチをつけるか、普通」
「普通よ?あなたがいつもやっていることだもの」
「は?」
それはそれは晴れやかに
「それで」
まるでどこかの誰かのように。
「少しは元気出たの?」
もう一つ、素敵な裏切りをして(オチをつけて)くれた。
【ほしのたびびと】
どこへゆこうという
あてもありませんでしたし
どこでなにをしようという
つもりもなく
ただ
どこかへゆけば
なにかがあるだろう とおもって
ぼくはいつも
たびをつづけてきたのです
「泣くかと思ったけど、泣かないものなのね」
「この時間に起きているなんて珍しいわね、レミィ」
「寝てたわよ。今日の魔理沙が随分と派手に来訪してくれたもんだから起きたの。なのに図書館に来てみたら、二人とも面白い話をしているし」
「だからといって覗きはよくな…レミィ、あなたひょっとして機嫌悪い?」
「別に。パチェの両手は、魔法使いたちと繋ぐためにあるって?」
「なにかと思えば、そんなつまらないこと気にしていたの」
「つまらないですって?」
「あらだって、レミィは手なんか繋がなくても、ちゃんと傍にいてくれるでしょう?」
「……付き合いが良くなったのは結構だけれど」
無駄に口がうまくなっていく親友に、レミリア・スカーレットは溜め息をついたのだった。
【小望月の夜に】
誰の為、だなんて。馬鹿馬鹿しい事を訊くものだ。
決まっている。
そんなの、もちろん私の為だ。
[Side:Guardian of dragon]
小望月だった。
レミリア・スカーレットは音もなく飛行する。
目指す先には絶壁。けれど、飛べる者には関係ない。
かくて月と星明かりの下で、吸血鬼は人形遣いと落ち合った。
「生きてるようで何よりね」
相変わらず本調子とはほど遠いアリスに、レミリアは挨拶代わりに嘯いた。
「志半ばというのは好みでないわ」
どんなに弱っていようが彼女も幻想郷の住人。こういう手合いには慣れている。
「さて。それじゃあ、綻びを縫いましょうか」
秋となった今、夜の洞窟は少し肌寒かった。
レミリアは浮いているため、足音はアリス一人分しかない。立ち止まり、それも消える。
「これが、館(うち)の地下にもあるっていう扉?」
「そうよ。お願いだから壊さないでね」
「失礼ね。そんなことしないわ」
ちょっと力を入れれば開くんじゃないかとかけた手を、心外そうにレミリアは離す。案外役者だ。
「今さらだけれど、美鈴の方は大丈夫なの?」
「カーサが薬で酔わせているそうよ。細かい采配は小悪魔が。私の役目は二つだけでしょ?」
パチュリーをこの件から手を引かせ、終わらせる。
「よかった。私ではあの館になんの力にもならないから、少し不安だったのだけれど」
「問題ないわ。私は紅魔館の主。これくらい、霊夢の相手に比べれば大したことないね」
もっとも、そのかわりにパチュリーは、アリスについて心おきなく調べられるという、アリスにとっては不本意な流れになっているのだが、それを口に出すレミリアではない。
「館には霊夢のところに行ったことになっているから、早く済ませちゃはないとね」
「そうね。私もあまり時間がないし」
アリス・マーガトロイドであるはずの少女は、扉に触れようと手を伸ばした。
そこに。
「あまり、あの子の名前を使って欲しくないのだけれどね」
空気の歪むような音がした。
「今晩は、人形遣いの魔法使い。面白そうなことをしているわね」
「月の夜に悪い出会いね。禍々しいスキマ妖怪。ここが洞窟だとは言え、春には反対の季節だというのに」
アリスに向けられた言葉に、けれど応えたのはレミリアだった。
「あら?吸血鬼さんもいたの?」
「お前が反応したのは、そもそも私の言葉だろうに」
「そうだったかしら?まあどうでもいいことだわ」
くすりと笑う。
「人間好きなあなたが一月も神社に行かないのは、寂しかったんじゃないかしら?慎重なのは構わないけれど、私は何も、あそこにしかいないわけじゃないの」
「…なんのこと?」
「なんのことだ?」
「前者は誤魔化し、後者は無知ね。あなたが避けていたのは、霊夢じゃなくて私でしょう?」
あるいは、くすりと嗤う。
ぴちゃんと、遠くで雫のおちる音。
「そんな顔しなくても、別に邪魔なんてしないわ」
「何の話よ、スキマ妖怪」
「あなたに用がある訳じゃないの、小さな小さな吸血鬼さん」
「ふん。生憎、そこの小娘だって暇じゃないね」
そんなレミリアの言葉を聞かなかったように、紫はアリスに笑いかける。アリスは空卵を胸に抱き、一歩下がった。
「そんなに怖がらなくてもいいのよ、人形遣いのお嬢さん。別に数百年前のことを、今とやかく言うつもりはないわ」
「…本当に?」
「ええ」
「何の話よ?」
レミリアには展開が読めない。数百年前?記憶が正しければ、アリス・マーガトロイドが幻想郷に来たのは、ここ最近のはずだが。
「あなたが知る必要はないわ」
笑顔のまま、紫は言う。
「へえ?」
「――――――――と、やる気満々なところだろうけれどね、最初に言ったように私はその子に用があるのよ」
「そもそも挑発したのはあなたのような…」
レミリアも苦手だが、アリスはこのスキマ妖怪も苦手だ。というより、今はレミリアのほうはそれほど苦手ではない。あくまで今だけだが。この件に限って、互いの意見はまとまっている。あとは幽々子とか永琳とか。ロクでもない奴ほど強力だから手に負えない。それでもちょっかいかけなければ安全なのはまだましだろう。紫はどこにいても不思議じゃないから困る。
「それで、邪魔でもなければ縄をかけに来たわけでもないあなたは、何の為にここにるのかしら?」
「何だか随分頑張ってるみたいだから、助けに来てあげた、というのはどう?」
「それはないわ」
「そんなわけあるか」
レミリアとアリスは同時に答えた。ここまで二人の思いが重なった事なんて、後にも先にもこの時だけだった。
「あらあら。今宵は随分仲がいいのね、あなた達。珍しいわ。とくに人形遣い、あなたは妖怪嫌いなのに」
「……面白いことを言うわね。私だって妖怪なのよ?」
「妖怪?あなたは人形(ヒトガタ)でしょ?」
アリスが何か言い返すより速く、レミリアがキレた。無視をされるのは好きではない。
「ああもう。忙しいって言ってるのに。そこの人形遣いは、咲夜と違って時間が無限じゃないの。言いたいことがあるなら、十三文字で終わらせろ」
月もすっかり昇りきっている。引かなきゃ刻むと言うように、レミリアの爪が伸びていく。弾幕を始めないところを見ると、ここが洞窟だということを一応考慮してくれているのだろうけれど。
「気位高いのは結構だけれど、今夜のあなたの連れ、だいぶ辛そうよ?今なら襲うはずの人間にも負けそうだもの。血の気の無いのは、あなたも嫌いなんじゃないかしら?」
その言葉にレミリアが振り返ると、アリスは洞窟の壁に手をついて、立っているのもやっとというように、荒い呼吸を繰り返していた。それが発作を起こす親友の姿に重なって、思わず駆け寄りそうになる。しかし今のアリスには、背をさすったからといって何の助けにもならないだろう。
「……」
さすがに気まずくなって、レミリアは構えを解いた。そんな夜の王に、紫は満足そうに笑った。
「とにかく、私はただ伝言を預かっただけよ」
「…伝、言…?」
アリスの掠れた声が、洞窟の大気を乱す。
「独り言だけれどね」
笑うスキマ妖怪は、これまでアリスが見た彼女の中でも、一番優しい目をしていた。
ようやっと呼吸が落ち着いたらしいアリスは、扉の前に立った。中央に配置された緑玉は、宝石の中でも一際大きく、闇の中にも不思議な存在感があった。
「本当にもう大丈夫なの?」
「あは。あなたに心配されるなんて、確かに珍しい夜だわ」
アリスは軽く笑ったが、冗談じゃないとレミリアは思った。この事がばれたら、パチュリーだって一月くらい口をきいてくれないのではないだろうか。あるいはわざと実験に失敗し、得体の知れない生命体が館中を、主にレミリアの部屋を破壊してまわるような未来も否定できない。それくらい、目の前のアリスの姿は痛々しかった。
今この瞬間にも、アリスの力はどんどん衰えているのだ。
「でも、あんなこと言われたら失敗するわけにはいかないわ」
「そう?別に、成功するならなんだっていいんだけれどね」
――――――――博麗の巫女の独り言よ。『アリスが来ないと、ふとれない』ですって
思い出して、アリスは声を弾ませた。
「秋だものね」
「そうね」
レミリアはアリスの後ろにいたから、その表情は見えなかったけれど。
「多分、出る時はあっちになると思うけれど?」
「パチェには、なんとか誤魔化しておくわ」
明日の我が身の為にも。
「見つからないのが一番なのだけれど、まぁ無理でしょうね」
このさみしい人形遣いの為にも。
そのどちらも、音になることはなかったけれど。ただアリスはその答えに満足したようで。
「準備はいいかしら?」
もうレミリアを、見ることもなかった。
「それはこっちの台詞よ」
それはつまり、引き返すつもりは全くないということ。こういうところは、あの門番に似ているかもしれないと、レミリアは可笑しくなった。つまりどちらも、進んで損をしている馬鹿ってことだけど。
「結局のところ、美鈴は何の妖怪なの?」
「音みたいなものね」
「音?」
「この扉の向こうにその答えがあるわ。私は行くことが出来ないけれど」
それが許されるのは、紅魔館の主だけ。アリス・マーガトロイドはただの鍵に過ぎないのだから。
緑玉。美鈴の瞳を彷彿されるそれは、名を孔雀石という。アリスはそれに左手を差し出す。今やあの刺青のようなものは、指先にまで広がっていた。掌の中で、それは目のような渦を描いてる。否。紛れもなくそれは目だった。そうして腕に広がる蛇のような蔦の模様は、広げてみれば目の前の扉に描かれた文様と重なることを、アリスは知っていたのだ。
「…そう。この扉を開けるだけなら、この腕一つで済んだのに」
「……」
レミリアはその言葉が気にかかったが、深入りしないという約束もあり、黙っていることにした。どうしても気になるならこの後にでも聞けばいい。今はそれよりも、本当にこの扉が開くかどうかだ。その問いに、人形遣いは当然という態度で返す。
ああ来るな。
レミリア・スカーレットは予感した。
「扉の向こうは白い闇が広がっているはず。それは永遠に続くような気さえするけれど、そんなことは決してない。道を違えない為にはただ信じることが求められる。紅魔館の現館主、レミリア・スカーレット。あなたが本当に館の当主に相応しいのなら、勝負はもうついている」
多分そうなんだろうなと思ったけれど、やはりその声は透明だった。
参ったな。この声は、どうも苦手だ。
試すような言葉は嫌いだが、こう空っぽでは怒るのも馬鹿馬鹿しい。
「その闇の向こうには何があるの?」
だから、今はただ会話をすることにした。
「部屋が。壁と床と天井以外は、何もない部屋があるわ」
アリス・マーガトロイドであるはずの少女は言った。
「その天井には、龍の絵が描かれている。目を失った龍がね」
「目を失った?」
「そう。だからその龍は目を閉じているわ。永遠に夢をみていられるように。深い眠りから、決して覚めることのないように」
アリス・マーガトロイドであるはずの少女が石に掌を置く。あおいような光が、そこを中心に唐草の蔓を辿り、次々と力が流れていくのがレミリアの目にもわかった。それが、人形遣いの生命そのものだということも。それが何を意味しているのかなんて、考えなくてもわかっている。けれど、レミリアに許される言葉は、そう多くはなかったから。
扉が開ききるまであと数十秒。レミリアは声を張り上げる。そうしなければ、広がる何かに呑まれてしまいそうだった。
「その眠りを覚ませってこと?」
「いいえ。むしろ龍は起きかけてしまっているの。眠りの中でね」
――――――――本来ならば、眠りの中でも眠る龍に
不意に、聞いたこともない声が響く。
何処から?此処から?
「拍子を一回。それでいいはずよ」
――――――――心(ちから)を込めた子守歌を
がこりと。鈍いような音がして。
扉が開いていく。
「…っ!」
気がつけば、レミリアの身体はまるで糸か絹のように解け、その先は、扉の向こうへと。何も見えない、白い闇が広がる、その向こうへと。
風に抱かれるように、『レミリア・スカーレット』という存在が引き込まれる。恐怖はない。それはいっそ懐かしい匂いがする場所だった。
「手を叩けばいいのね?」
「ええ。でもその前に、あの子に会ってあげて欲しい」
それは果たして、本当に人形遣いの声なのか。耳がもはや無くなってしまったから、レミリアにはよくわからなかった。
――――――――眠る龍は、眠りの中で何をしているの?
そして口もないから、これが自分の声なのかもわからない。
けれど。
――――――――深い深い眠りの中で、眠りの龍はもう一度、何度も繰り返し夢を魅る
それが、レミリアが聞いた、『彼女』の最後の言葉だった。
では、フィナーレを見せてください。
ここでも気づいた誤字報告
来まわり→極まり
いくつか前にも連体ってあったけど連携の間違いかも。