幸せか?
見上げるつもりも無かった空を見上げる。
月は美しかった。
腹が立つほどに。
真円が、かすかに煙る。
彼女の眉がいぶかしげにひそめられるが、すぐにその原因を悟った。
焼けた竹から未だ燻る白い煙が、月を霞ませる。
久方ぶりの、敗北だった。いや、そもそも最後にこんなことをやりあったのはいつだったか……。
時の経過などという、この身には最も意味の無いことを思い返そうとして、彼女は考えるのをやめた。
そう。どうでもいいことだ。こんなにも楽しかった、夜の前では。
痛々しいほどに純粋に微笑んで、藤原妹紅はゆっくりと身を起こした。
白々と、夜とも思えぬほどに地を照らす月明かりを浴びながら、妹紅は竹林を歩く。
ずたぼろになった衣服とは裏腹に、彼女の身には傷ひとつない。
そもそも傷など、厭うようなものでもなかった。
痛いのは楽しい。辛いのは可笑しい。苦しいのは望ましくすらある。
だから今宵は、本当に楽しかった。
楽しかった。
機嫌もよろしく口笛など吹きながら歩を進める妹紅の前に、奇妙な背中が見える。
首をかしげる。
こんな満月の夜に、あいつら以外にこの竹林に立ち入るような命知らずの人間がいたのだろうか?
彼女の疑問は、しかし瞬時に氷解した。
緑の服。緑の髪。
そして、白い尾。白い角。
明らかに、人間の容姿ではない。化生の類か。それならば納得もいくというものだ。
背後の気配に、それも気づいたようだ。左腕をかばうようにして立ち上がると、その影はやや緩慢にこちらを振り返る。
「今晩は」
「……今晩は」
思いのほか普通の挨拶をしてくるその妖怪に、妹紅は毒気を抜かれたようにそう返した。
よく見れば、彼女は手傷を負っているようだ。妹紅ほどではないが、服はあちこち裂け、左の腕は頼りなげに揺れている。
「こんな夜更けにこんなところで何をしている? 危険だぞ」
それでもそれは重大な負傷ではないようだ。揺ぎ無い口調で、そう問うてくる。
「こんなところとは御挨拶ね。私はここに住んでるの。この竹林は私の庭ね。だから、心配されるようなことじゃないわ」
存外素直に言葉を返した自分にかすかに驚きつつも、妹紅は軽く肩をすくめてそう応えた。
「そのなりでそんな答えを返されても説得力は無いな」
「そりゃお互い様でしょ」
「……違いない」
言って彼女は愉快そうに笑う。
ややあって、深緑の彼女は表情を幾分まじめなものに改めた。
「月見か?」
「まあね」
「風流だな」
「……危険なんじゃなかったの?」
先ほどとはうってかわった意見の翻りに、妹紅は呆れたように言う。
「危険があろうと無かろうと、風流なものは風流さ。それにここは、あなたの庭なのだろう? 危険なのか?」
しかし目の前の彼女は、こともなげにそう言った。
「あんたは危険かもしれないじゃない」
「なぜ?」
「私が危険な輩かもしれないでしょ」
「そうなのか?」
「違うけどさ」
「なら、いいじゃないか」
妙に楽しそうに、否、嬉しそうに言う緑の少女に、妹紅は逆に疑念を抱いた。
こいつも輝夜の刺客なのだろうか?
だとしたら……
「……千客万来ね」
「ん?」
かすかな呟きを、しかし目の前のそれは聞き逃さなかったようだ。首をかしげる。尾も揺れる。
対して妹紅は首を振り、
「そういうあんたこそ、なにやってるのよ」
「巡回だ」
「巡回?」
ああ、と負けず劣らず長い緑銀の髪を靡かせ、彼女はあっさりと頷いた。
「満月の夜に徘徊する輩は、おおむね危険だからな。人里にその手の劇物が寄り付かぬように見回りをしているんだ」
空飛んで札を投げる巫女とか、箒に乗って魔法を乱発する魔法使いとか、時を止めるナイフ使いのメイドとか。
「半分幽霊の辻斬りとかな」
最後にそう付け足し、顔をしかめる。
たぶん自分もそんな顔をしているんだろうな、と思いつつ、しかし妹紅は肩をすくめた。
「なんであんた、そんなことしてんの?」
「うん?」
要領を得ないその問いかけに、彼女は小首をかしげる。
「だから、何で人間を守るようなことをしてんの?」
「何でそんなことを訊く」
「だって……」
純粋に疑問そうに聞き返してくる彼女にややためらい。しかしそれも刹那。
「あんた妖怪でしょ?」
「失礼な」
むっと口をへの字に曲げ、二本の角も堂々と彼女は両の腕を組む。
「私は人間だ」
「……」
言葉を失う。
ここまで臆面も無く嘘を吐かれると、いっそ清々しい。
「不満そうだな」
「……そりゃあ」
「なら、証拠を見せてやろう」
言うや否や、彼女は妹紅の首根っこをつかむと、そのまま軽々と宙に舞った。
「うわっ?! ちょっと、なにすんのよ!」
「里に戻る。そうすれば否応無しにわかるだろう」
「そりゃそうだろうけど、別に私は行くなんて一言も言ってない!」
「うるさい、問答無用だ」
聞く耳も持たず、右腕一本で妹紅を吊り上げ少女は飛ぶ。
そもそも細腕にどう見てもそぐわぬ怪力を振るっているあたり、彼女の人間という主張も輪をかけて怪しくなっているのだが。
……いいや、もう。
そうでなくても疲れているのだ。考えるのも面倒くさかった。
抵抗する気も失せ、妹紅はされるがままに脱力した。
まあ、人間であれ妖怪であれ、悪いやつではなさそうだが。
「……変なやつに捕まっちゃったなぁ」
やれやれと瞑目して、ため息をつく。
だから気づかなかった。
白い尾をはためかせ夜空を飛ぶ少女が、楽しげに、嬉しげに、笑みを溜めていることに。
地上で燃える、火が見える。
篝火まであとわずか、というところで彼女たちは着陸した。
妹紅をここまで引っ張ってきた当の少女は、前方に軽くあごをやり、物も言わずに先導する。
成り行きとはいえここまで来た以上、ついて行くべきなのかも知れないが、人里という場所にはやはり気後れする。
……実は目の前の少女は凶悪な妖怪で、自分無理やり味方に仕立て上げて人里を襲うつもりなのだ、というのはどうだろう。
実は、などと付け足している時点で、自分でも信じていないのは明らかだった。
少なくとも彼女は、自分に害意を抱いてはいない。それくらいは、わかる。
だからといって異容の彼女を、人の里が受け入れるとは思えないのだが……
「お疲れ様です」
門前の夜警は何の不自然さもなく彼女に頭を下げる。
「ああ、お前もな」
至極平然と、彼女も番兵の少女を労った。
そして振り返る。
「どうした?」
口を半開きにして前方を凝視している白い影に、彼女は面白そうに声をかけた。
「お知り合いですか?」
くりっとした大きな瞳を瞬かせ、門番の少女が目ざとく声をかけてくる。
「ああ、紹介が遅れたな。彼女は藤原妹紅。私の古い友人だ」
含みのある視線とともに、緑の少女は言った。黒い髪の門番は一瞬目を細め、ややあって得心したように頷く。
そんな彼女の説明に、妹紅もようやく我に返った。
「何で私の名前を知ってるのよ。そもそもいつ、私があんたの友人になったのよ」
目つきを剣呑なものにしつつ、彼女は不機嫌そうに言う。
「満月の夜に、私にわからないことはない」
さも当然、とばかりに半獣の少女は言い、それに、と妹紅に身を寄せ、ちらりと棍を手にした門前の少女を見る。
「……色々と、面倒がなくていいだろう?」
「そうかもしんないけどね。……ああもう!」
内緒話のように声を潜めて言ってくる彼女から一歩身を引きつつ、妹紅は頭を振った。わけのわからない事態に辟易して声を荒らげようとするが、当の彼女は不思議そうにこちらを見てくるのだから気も殺がれる。
「……名前を知られてる相手の名前を知らないのって、落ち着かないもんなんだけどね?」
がっくりと肩を落とし、せめてもの抗いか、そんなことを言った。
その言葉に喜色満面に、双角の少女は名を告げる。
「上白沢慧音」
「複雑な人間関係なんですね」
二人の動静を見守っていた門番の少女が感慨深く言う。
「……あんた、こいつを人間って言うのね」
尾と角に視線をやり、妹紅は問うた。
同じく夜警の少女は尾と角に視線をやり、頷く。
「色物ですが」
「……お前なぁ」
さらりとひどいことを口走った少女に、慧音は頭痛をこらえるような顔で呻いた。
「冗談ですよ。それよりもお二人とも酷いお姿。お怪我はありませんか? 傷を診ましょう。今夜はこれであがりですので」
「そうしてもらうか。……ああ、心配するな。彼女は若いが医術の心得がある。腕は確かだぞ」
「医者は嫌い。ってそうじゃなくて、私はあんたに無理やり連れてこられただけで、別に長居するつもりは」
「まあまあいいじゃありませんか。慧音様のご友人は里の恩人。おいでませハクタクの里へ」
こいつら人の話を聞いているんだろうか、と妹紅が懐疑の発作にとらわれたが、そんなことを思い悩んでいる間に彼女の腕が妹紅の首に絡められた。そのままずるずると引きずられていく。
場に流されるのは、我ながらよくない癖だとは思う。
が。
今回ばかりはどうすればこうならなかったのか、妹紅には皆目見当がつかなかった。
「なんともありませんね」
三角巾で黒髪をまとめた少女が、不思議そうに言う。
結局引きずってこられた彼女の家で、ほとんど流れ作業的に妹紅は診察を受けていた。
あちこちに裂傷のある彼女の服とは裏腹に、病的なまでに白い肌には傷一つない。
「私もイロモノだからね」
あっさり言って再び服を着ようとした妹紅の肩に、先んじてまっさらな着物がかけられた。
「というと?」
不満そうに自分を見上げる彼女の視線は器用に無視して、慧音は問いかける。
なおも妹紅は唇を尖らせていたが、諦めたのか肩のそれに袖を通した。
「私は死なないから」
「運がいいってことですか?」
それとなく着付けを手伝いながら、医者の少女が聞いてくる。
確かに服だけ斬られて体は無事だったのならば、そうも言えるかもしれないが。
「運がいい?」
は、と嘲笑うように息を吐いて彼女は言った。
自分ほど運の無い輩も、そうはいないだろう。
「言葉通りよ。私は死なない、死にやしない」
内なる言葉は胸で止め、特段の感慨もなく言った。
「……死なない人間なんて、そう珍しいものじゃない」
ぼそりと。
明るいような、暗いような。懐かしいような、重苦しいような。
ただ、感慨は深く。
そんな呟きに、妹紅は彼女を振り向いた。
「……まあ私のほかに、あと二人はいるけど」
別に自分が悪いわけでもないのに、彼女は取り繕うように言う。
「そうじゃない」
呟きの主、慧音は首を振る。
ここに、と彼女は自分の胸を指で指した。
「いるんだよ。今でも。彼女がね」
かすかに目を細め、慧音はこの家の主たる少女を見る。そして未だ自分を凝視している彼女へと視線を転じた。
「妹紅にもいるんじゃないか? そこに」
胸に。
心に。
生きている人が。
幸せか?
いつもの声が聞こえてくる。
幸せか?
もちろん、幸せに決まっている。
こんなにも楽しい夜を迎えられて、幸せでないはずがない。
大霊弾を耐え切り炎弾。
大斬撃を凌げず再誕。
死に死に死んで、生き生き生きて。
こんなに楽しいことはない。命の取り合いほどに生を感じることはない。
……こんなに楽しいことはない。
だけど何故だか『彼』はいる。幸せかと訊く『彼』がいる。
もう叶っているというのに、過保護なことだ。
「なら別に、ここに居たっていいのだろう?」
「は?」
飛躍した慧音の発言に、妹紅は間の抜けた声を上げた。
「いや、あの竹林に妹紅の幸せがあるわけではないのだろう? 幸せがそこにあるのなら。なら、ここに居たっていいじゃないか」
あまりにも一方的で身勝手な暴論に、妹紅は呆れるのを通り越して笑い出す。
「だからって」
笑いすぎたのか、目元を拭って彼女は言った。
「そんなの私がここに居る理由には、ならないんだけどね?」
「私が居てほしいと思っている」
間髪いれずに、真剣に。
「これでは理由にならないか?」
今度は、笑えなかった。
こんなことを言われたのは初めてだった。
命ではなく、自らを求められたのは初めてだった。
しかも、会って一日と経っていない相手に。
「それはですね」
なにやら発言しかけた家主の少女を、慧音は視線で黙らせる。
あわてて口をつむぐ彼女に、妹紅は不審げに眉をひそめるが、当の少女はぶんぶんと首を振るだけ。
「……ま、いいけどね」
「え?」
彼女の言葉に、慧音が声を上げる。
「自分で言っておいて、何よその意外そうな顔は」
楽しげに、苦笑。
悲しげに、微笑。
気分は、やはりよかった。
何故か、よかった。
だから、久しぶりに思い知るのもいいだろう。
「いまさら出てけとは、言わないわよね?」
「では妹紅さんは、この畑を担当していただきます」
さんさんと照りつける太陽の下で、妹紅は頬をひくつかせた。
「どうされました?」
「……畑?」
こめかみを指で揉み、彼女はうめく。
「畑ですとも、休墾中だったからちょっと草ぼうぼうなだけで」
黒髪の少女は、悪びれもせずにうなずいた。
改めて、妹紅は眼前の光景を見やる。
彼女の語彙では、これはもはやちょっとと言う段階ではない。休墾地というよりは荒野だ。
これを開拓しろというのか。
嫌がらせか?
……まあこれが、妥当な扱いなのかもしれない。
人里、集落というものは排他的だ。余所者を嫌う。
これも遠まわしな拒絶の意思表示なのだろう。
所詮一人の権限では、外のものを受け入れさせることなどできないというわけだ。
しかし妹紅は逆に、あのおせっかいな半獣に少しだけ好感を持った。これならば、彼女が自ら称した人間という言葉も、少しは認める気にもなる。
「ちなみにここが妹紅さんの担当になったのは、慧音様の指示ですが」
「サド女ね」
「何をおっしゃいます」
ふるふると、肩口までの黒髪をはためかせ、少女は首を振った。
「慧音様は厳しい方ですが、決してできないことをおっしゃる方ではありません」
「……」
沈黙。
眼前の休墾地、というか荒野を睥睨する。
試されているのだろうか?
誰に?
荒野で?
ならば彼女は悪魔で、そして自分は御子か?
馬鹿な思いつきに、噴出す。
どう控えめに見ても、配役は逆のほうがしっくりくる。
まあ、いい。
思いつきでここに留まる気になったのだ。
思いつきで離れることになったとて、何にかまうことでもない。
ふ、と息を吐き、妹紅は傍らの少女に手を振り、下がらせる。
わけもわからずに少女は一歩後退し。
そして白の少女は、腕をなぎ払った。
紅。
吹き荒れる炎が地を舐めて。
瞬転。
真っ白な灰が、まっさらな茶に舞い降りる。
畑の一切焦がすことなく、雑多な草木は根こそぎ燃え尽きていた。
自嘲の笑みとともに、妹紅は少女を振り向く。ままごとは終わりだ。
「なるほど、焼畑ですか。効率的ですね」
ぽんと手を打ち、額に手ぬぐいを巻いた少女は感心したようにうなずいていた。
「……」
あまりの暢気さに、あきれ返る。
あまりのおおらかさに、ため息をつく。
なんなんだろう、こいつは。
腕の一振りで自分を屠れる手合いを前に、どうしてこんなにも無防備なのだろう。
「だって、慧音様がいるんですよ?」
その言葉に、妹紅は再び沈黙する。
確かに、慧音を、あの異形の少女が受け入れられるのだ、高々火を噴く程度のヒト形が、排斥されるいわれはない。
だが、だからといって……
会って一日と経っていない相手を、どうしてそこまで信頼できるのか。
黒い髪の少女は、もの言いたげにかすかに口を開閉させるが、やはり首を振り、ややあって別の言葉を口にした。
「私は、私たちは、慧音様を信じています。だから慧音様が信じた妹紅さんを、私は、私たちは。信じます」
幾度目かの、沈黙。
信頼。
これほどに空っぽな、空虚な言葉はない。
世界は悪意だというのに。訪れるものは敵しかいないのに。
彼女は、上白沢慧音は。
どれほどの時を重ねて、それを積み上げてきたのだろう。
自分がわずかでも牙を剥けば、それは瞬時に瓦解するというのに。
逢ってたかだか一晩の人の形に、どうしてこうもあっさりと、それを曝け出すのか。
そんなにも、信じているというのだろうか。
こんな自分を。
きっと壊れてしまうのに。
すぐに壊れて、しまうのに。
胸を押さえる。
罅割れたそこに、じんわりと徹る。
きっと壊れてしまうけど、壊す気にはならなかった。
なれなかった。
ならば壊れるその日まで。
砕けて散り去る、その日まで。
ここに留まる、気になった。
文句をぶつぶつ森拓き。
不満こぼして土嚢を運び。
不平をたらたら薪を割り。
異議を唱えて炭を焼く。
そして彼女に陰りはなくて。
笑って、笑って、笑ってて。
そこには笑顔しかなくて。
そして終わりがひたひたと。
「……調子に乗りすぎたかな」
浅く早い呼吸を繰り返しながら、彼女は言う。
常の生気は消えうせて、妹紅は床に横たわる。
白い肌には赤班が散り、右の瞳に光なく。
白子。
忌み子。
奥に隠されただ一人。
光は身を焼く毒でしかない。暗い闇こそ彼女の世界。
闇に守られ光を呪う。
それが彼女。
彼女には、『彼』しかいなかった。
ただ彼女の幸せを願う、ただ彼女の幸せを祈る『彼』しか。
だから幸せになりたかった。
けれど。
気丈にひた隠した彼女を恨むべきか、それとも迂闊な自分を悔やむべきか。
いずれにせよ、手の施しようがない、どうしようもない。
気づいたときには、手遅れだった。
医を学んだはずの少女に、もはや手はなかった。
泣きそうな顔で、少女は慧音を振り返る。
渋い顔で、彼女は首を振った。
干渉を、彼女は許さない。
だからせめて、慧音は妹紅の手をとった。
握る手を、弱々しく握り返す。
同じく儚げな笑みを浮かべて、彼女は囁いた。
……じゃあね。
灰のように、砂のように。
冗談のように、幻のように。
今の今まで臥せてた彼女は、彼女の体は蕩けて消えた。衣を残して。
驚愕に見開かれる、二対の瞳。
そこにはもはや、色もなく。
そして。
寂を破りて焔立つ。
靡く白髪。
真紅の瞳。
一糸纏わぬ、幽鬼の白肌。
藤原妹紅。
平然と、泰然と。青白い笑みを浮かべて俯いて。
彼女はそこに立っていた。
色めくは、二対の瞳。
その色は。
安堵。
「なんなのよ、あんたたちは!」
激昂したように、妹紅は叫んだ。
「驚きなさいよ! 慄きなさいよ!」
激しく、身悶えするように首を振る。白い髪が、同じ色の裸身に踊る。
「恐れなさいよ!」
そうでなければ。
今までの自分は何だったというのだ。
床に臥せていた先ほどまでの儚さは微塵もない。烈火の如き、生気の発露。
しばし、彼女の吐息の音だけ響く。
「……死なない人間なんて、そんなに珍しいものじゃない」
そう言ったろう?
静かに微かに笑みを溜め、慧音は言う。
「今までのお前の過ごした時がどんなものだったのか、私は」
そこで一瞬、言葉をためらい、
「……知らないが。取り戻すのは今からでも、遅くはあるまい?」
「そうそう。死なないなら、時間はいくらでもあるんでしょう? 付き合いますよ」
楽しげに、黒い髪の少女は言った。
「……」
呆れ返る。
あまりの暢気さに、声も出ない。
あまりの大らかさに、涙も出ない。
無表情に、妹紅はすとんと腰を落とした。
そんな彼女の肩に、慧音は上着をかけてやる。
ぬくもり。
ああ。
私は、幸せを知った。
「……慧音様は」
「ん」
ぽつりとつぶやく少女に、妹紅は相槌をうつ。
部屋には二人。自宅に戻った慧音はいない。
「妹紅さんのこと、昔から知ってたんですよ」
「まあ、満月の夜にわからないことは何もないとか言ってたしねぇ」
そりゃ知ってるでしょうよ、と気もそぞろに生返事じみた答えを返す。
「ずっと昔から知っていたんです」
彼女の言葉を聞いてか聞かずか、少女は言葉を続けた。
「私の母の、その母の、そのまた母の。ずっとずっと昔から」
独白に近い少女の語りに、妹紅は視線を流す。
「満月の夜は決まって、慧音様は里を隠して朝まで戻ってこられませんでした」
窓から夜空を見上げる。今宵は微かに欠けた月。
「毎回毎回、傷だらけで戻ってこられました。理由を尋ねても、笑って答えてくれませんでした」
半人半幽、亡霊姫。
いったいどれほどぶりの命の取り合いだっただろうか。
手負いの彼女。
そういうこと、なのだろうか。
だとしたら。
突然の笑声に黒い髪をさらりと揺らして、少女はそちらを省みた。
くつくつと笑いながら、妹紅は感慨深げに言う。
「ほんとに好きなのね、あいつってば。……人間のことが」
「慧音様、喜んでましたよ。妹紅さんと話せるようになって」
柔らかに微笑んで、少女は問うた。
「あなたはどうですか? 妹紅さん」
「明日になればわかるでしょ。私の気持ちなんて、あいつには」
何だってお見通しだ、彼女は。
だから野暮なことは、言いっこなし。
立てた人差し指を顔の前にやり、彼女は言う。
そんな妹紅のおどけた様子に、少女は心底嬉しそうに破顔した。
人間って、いいな。
だから望もう。
幸せを。
至極、あっさりと。
存外、あっけなく。
五芒の光条は敵手の体を刺し貫いた。
蓬莱山輝夜はゆらりと竹林の闇より滲み出る。
「何をしているの、貴方は」
内心の疑念は露ほども見せず、彼女は呆れたように言った。
「痛いでしょうに」
「ああ」
涙を零しながら、答える。
「辛いでしょうに」
「ああ」
血を流しながら、答える。
「苦しいでしょうに」
「ああ」
炎に焼きながら、答える。
痛さを、辛さを、苦しさを、耐えて忍んで妹紅は答える。
「なら」
……そんな必要は、無いのに。
「とっとと死んで、生き返りなさいな」
事も無げに、彼女は言った。
今宵はまだまだ長いのだ。自分の、自分たちの行く末のように。
こんなじゃ全然、足りはしない。
しかし眼前の少女は、血と炎に紅彩られた白の少女は、頑なに再誕しようとはしなかった。倒れようとも。
痛いのは楽しい。辛いのは可笑しい。苦しいのは望ましい。
……大嘘だ。
痛いのは嫌だ。辛いのは嫌いだ。苦しいのは厭わしい。
痛くて辛くて苦しくて、生きていることを感じられる?
……そんな生など、くそ食らえ。
がくがくと笑う両膝。竹に背を預け、輝夜を睨む。
否。睨むというには、あまりにも力が足りない。憎しみも、足りない。
引き攣ったように、彼女は笑った。
「知ってるか、輝夜?」
膝どころか腕にすらその痙攣を伝播させながらも、妹紅は言う。
「死んだら、終わりなんだよ」
「人間はね」
私たちには関係の無いことよ、と実につまらなさそうに、輝夜は言い捨てる。
「幸せになりたかった」
痛いのがいやだった。辛いのがいやだった。苦しいのがいやだった。
だから幸せになりたかった。
違う。
幸せになりたかった。
自分の幸せを願う人がいた。
自分が幸せになることを、望んでくれる人がいた。
遥か彼方の彼の人と。
極々間近の彼の人が。
幸あれと。
願ってくれた。
幸いあれと。
望んでくれた。
だから私は、幸せになる。
「ははっ」
嘲弄も無く、侮蔑も無く。
妹紅は必死に、微笑みかけた。
終わりは近い。
「人の穢れを、甘く見るなよ」
囀るように、彼女は言った。
「清廉無垢なる月の妙薬、汚れた私に効くものか!」
綺麗なものなど、穢れに呑まれて消えるが必定。
だから彼女は幸せを望めた。
千の時を生きた人間の願う、幸せは。
吹き零れる炎にその身を焦がしつつ、彼女は宣告する。
「私はもう! 紅く染まらない! だから誰も! 紅くは染めない!」
だから『妹紅』はもういない。
「聴け!」
それは、輝夜への言葉ではない。誰へ向けての言葉でもない。
「私の、名は……!」
だから、最後の言葉は聞こえなかった。
衣も髪も灰の一欠けも、一筋の煙さえも残さずに。
藤原妹紅は消えうせた。
白玉楼にも三途の川にも彼女はない。
迷いを断つ剣も閻魔の沙汰も、彼女には必要ないのだから。
千年の時を生きた。
人間が。
悟らぬはずはないのだから。
「自棄酒?」
からかいまじりの笑声が、背後から響く。
しかし自室で杯を傾ける慧音は、その怪異に小揺るぎもしなかった。
「……今宵は、お前たちに付き合うつもりはないぞ」
中身を干した杯を置き、彼女はゆるりと振り向く。
中空の裂け目、すきまに腰掛け、八雲紫は笑っていた。
「何をしに来た」
「……不思議なものね」
声音ほどには不思議そうでもなく、彼女は言う。
「私や博麗の巫女を退けてまで守った『人間』の手を、これほどあっさりと離すなんて」
「私は彼女の幸せを願っただけだよ」
至極あっさりと言って、慧音は杯に酒を注いだ。
幾百年、竹林への化生を滅し、ついに果たした彼女との邂逅。
そして知った、彼女の歴史。無残なまでに引き裂かれ。
それでもその心はあくまでも純粋で。そしてそこには『彼』がいて。
『彼』がいたから未だ純粋だったのか、純粋だったから未だ『彼』がいたのか。
いずれにせよ、彼女の心で生き続けていた『彼』の願いはひとつだけ。
彼女の願いと同じくひとつ。
慧音と出会って、里に巡って、幸せ知って。
彼女は幸せを望んだ。
千の時を経た彼女は、幸せを望んだ。
終わりという名の幸せを。
「幸いなる罪」
ぽつりと彼女は呟いた。
「彼女は終わりを望み、私は彼女の終わりを望んだ。それは罪。でも、だから。罪を犯したが故に、彼女は幸せになった」
淡々と言って目を伏せて、慧音は杯を傾ける。
「なら」
気味の悪いほど神妙に、彼女は口を開いた。
「あなたの幸せは、どこ?」
その言葉に。彼女はほんの少しだけ止まる。本当に、少しだけ。
「できることしかできない。やれることしかやれない。万能ならざる私にできるのは、これくらいだ。そしてそんな程度の私の力で、彼女が幸せになったというなら」
杯をぐいと持ち上げ一気に干して。
「……こんなにも幸せなことはないよ」
くぐもった声で言う。
「そう」
朱塗りの杯で、その顔は見えなかった。
「お邪魔したわね」
そうとだけ言って闖入者は消え、後には杯を戻した慧音が残る。
ぱたり、ぱたりと。
干されたはずの杯に、また注がれる。
幸せか?
……うん。
幸せ?
……
綺麗で心に残るお話なんだけど、妹紅があっさりと『死』を受け入れた事がどうにも納得できない。誰も紅に染めぬ、故に独りで想いだけを抱えて逝くってのはとても綺麗なんですが……。
死をどれほど望んでも得られない。それが蓬莱人の苦しみであり、それでもなお笑う事が出来る強さにこそ、彼女たちの輝きがあると思っています。
これはあくまで私の中の妄想に過ぎず、正解なんてありません。
だからこそそれを覆すほどの説得力が欲しかったなぁと思いました。
慧音や少女との過ごした日々がもっともっと重ければ、すとんと納得できたかもしれないのですが。
そんな訳でフリーレスです。
勝手な意見で申し訳ありませんでした。
さしずめ、何度死んでも生き返る蓬莱人は、生の妄執(というより呪いか)
に取り付かれた「生霊」といったところでしょうか。
遠い日の約束、白沢の想い、彼女の笑顔、そしてなにより千年の歳月が
あったからこそ、彼女を悟らせ、「成仏」へと至らせたのではないでしょうか。
とりとめのない感想ですいません。良作ありがとうございました。
それが本当に幸せかは僕には分かりませんが、彼女の強い心にはとても惹かれました。
読んでいて楽しかったです。
黒髪少女がいい味出してますね。