「……う……」
鈴仙・優曇華院・イナバは、極めて悪い目覚めを迎えていた。
鈍く、じんじんと頭が痛む。
堪える内に、次第に和らいできたような印象はあったものの、
その代わりとでも言いたげに、今度は虚脱感が全身を支配し始めていた。
もしくは、初めから感じていたものが、頭痛によって後回しにされていただけかもしれない。
「(……ここは……)」
鈴仙は無意識の内に、今自分がどうしているのかを認識しようと試みていた。
普通ならば、ここは永遠亭の自室であり、何か病気にでもかかったせいで調子が悪い。と考えるのが自然であろう。
だが考える事を否定させるかのように、思考が一向に定まらない。
むしろ、考えようとすれば考えるほど、あやふやになっていく印象だった。
それなら、まずは視認によって状況を見極めるべし。
考えてではなく、本能的に、鈴仙はそうする事を選んでいた。
が、その行動はまったくの無駄となった。
「(……暗い……)」
暗視、遠見、そして幻視といった、視覚に関わるものならば他に類を見ない技量を持つ鈴仙にも、
一切の情報を与える隙のない、完全なる闇による出迎えがあったのだ。
この時点で、自分がまっとうな状況にいない。という事は、おぼろげながらに理解出来ている。
だが、具体的にどうなっているのかまでは、さっぱり分かっていない。
否、分かるような精神状態に無かった。
『……す』
「(……?)」
その時、役に立たない視覚の代わりに、これまた自慢の一つである聴覚が、何か言葉のようなものを捉えた。
鈴仙は他の全ての感覚を後回しにし、今の自分が持つ全ての力を、萎れた両耳へと注ぎ込む。
その甲斐あってか、次の言葉は、思いのほかはっきりと聞き取る事が出来た。
『さあ皆様。お待たせいたしました。ついに本日の目玉商品の登場です』
「(……商品?)」
だが、それにより、更に鈴仙の思考は混乱した。
聞こえたのは、誰とも知れない男の声であったし、その内容もまた理解不能である。
空気の読めない押し売りでも現れたのか、それとも幻想郷でもテレビショッピングが始まったのか。
そうした断片的な妄想が、いくつか頭の中を過ぎる。
だが、その混乱は、現実という解答の前に、良くも悪くも消える事となる。
『何と、あの月に住むとまことしやかに囁かれた兎の現物が、今ここに!』
何者かの言葉が切られると同時に、一面の闇で閉ざされていた筈の世界が、まばゆい光で溢れたのだ。
それが、己の周囲を覆っていた幕が外されたこと。
更に、強い照明を浴びせられたことによるものだと気付くより先に、鈴仙の関心は別のものへと逸らされていた。
「……!」
その驚きに、一瞬だけ、鈴仙の思考がクリアになる。
光に目を慣らしつつ、ゆっくりと視線を動かしてみると、ここが舞台のような形状をした場所だと分かる。
そして、客席に位置する場所には、いかにも値が張りそうな衣装に身を包んだ紳士淑女の数々が鎮座しており、
それらが皆、様々な思惑を伴った視線で、自分を眺めていたのだ。
ある者はやる気なさげに、ある者は興味深々で、ある者は血走ったような目で。
「(……!?)」
本能的に、服装を確かめてみると、幸いにも普段通りのミニスカブレザーだった。
が、普段通りだったのは、それだけ。
妙に重さを感じる体を動かそうと試みるが、じゃらり、と耳に付く金属音と共に襲う喉部への圧迫感により遮られ、
息苦しさからか、反射的に自分の首へと手を動かそうとするも、それもまた不自然な拘束力で押し止められた。
「(……首輪……それと、手枷……?)」
冗談だろうと思い込むには余りにも重く、そして冷たい感触だった。
『さあさあ皆様、存分にご鑑賞下さい。
一見作り物のように見えるこの兎の耳、されども皆様の審査眼をもってすれば、
それこそが本物の確固たる証拠であると容易に感じられている事でありましょう』
「(……ここは、オークション会場。そして、商品は私……)」
客観的事実のみを心の中で呟きつつ、再び意識が曖昧なものへと戻って行くのが感じられる。
そもそもこれは現実なのか、夢なのか。
すべてが曖昧となっていて、何一つとして確定事項が導きだせなかった。
状況的に、このままでは拙い、何とかして逃げなくては。といった考えも浮かびそうなものである。
だが、今の鈴仙には、そういった気力すら、まったく沸きあがってはいなかった。
嵌められた手枷、及び閉じ込められた檻が、一見して独力では破れないと分かる強固な代物だったというのもあるが、
それ以前に、鈴仙自身の思考が、そうした方向へと導かれて行かなかったのだ。
事実、目覚めて以来、鈴仙は一度として声を発していない。
否、発することが出来なかった。
「(……薬……かな……何だっけ、これ……)」
僅かながらに残る記憶から、そうした症状を引き出す薬物を検索する。
今の状況で、まともな検索結果が生まれる筈もなく、生まれたところで解決方法も存在しないのだが、
薬師の弟子として過ごしてきた鈴仙であるが故の、本能的な行動だったのだ。
『それでは、開始価格は1000万から行きたいと思います。
え? 高い? それは誤解というものです。
この機会を逃しては、二度と手に入らない。
いや、お目にかかることすら無いであろう稀少な代物。
私とて、仕事でなかったら、質に入れてでも参加していたでしょう。ああ、残念無念また来年。
ですが、皆様にはその機会が与えられているのです。
その幸運を噛み締めて頂きつつ、1000万からありませんか!』
が、そんな鈴仙の僅かな思考も遮るかのように、胡散臭い口上を垂れ流す競売人。
そして同時に、滞りかけていた会場の空気が、にわかに動き出した。
「1050万!」
「1130万!」
「1150万!」
「1200万!」
「1250万!」
堰を切ったように、次々と挙がる手。
それに伴い、価格も瞬く間に上昇の一途を辿ってゆく。
月兎の現物という触れ込みが購買意欲を刺激したのか、それとも別の目的なのかは定かではなかったが、
ともあれ会場内は、目玉商品と称されただけのある盛り上がりを見せていた。
「(やっぱり、こういうのに来る人ってお金持ちなんだな……)」
そんな光景を、何処か他人事のような心境で鈴仙は見つめていた。
今、目の前を飛び交っている数字が、自分自身が売買される価格であるのに、だ。
薬が効いたままだから、という理由もあるが、それを除いても無理のない話ではある。
つい先日まで、何事も無いごく平穏な日常を過ごしていた者が、
目が覚めたら競売に掛けられてました。と言われても納得できるはずも無いのだ。
が、そうしたぼんやりとした思考に、僅かながら現実を思い出させる声が、鈴仙の耳へと届く。
「2500万!」
価格を一気に二倍にまで引き上げたのは、判別するまでもなく女性のものとわかる高い声。
無論、この会場には多くの女性が存在していたし、それ自体は珍しいものでもない。
問題は、その女性が誰であるかという点である。
会場内の一角に陣取っていた、二人の少女。
一方は、お馴染みの扇子で口元を隠しつつ手を上げており、
もう一方は、その少女にしがみつくようにして食って掛かっていた。
「ゆ、ゆ、ゆ、ゆ、ゆ」
「ゆ、は二つでいいのよ」
「幽々子様っ、掘り出し物ってこういう意味だったんですか!?」
妖夢は困惑の極みにあった。
幽々子のお供として、久し振りに顕界に下りてきたまでは良い。
だが、『時々掘り出し物があるのよ~』等という言葉に惑わされて立ち寄ったオークション会場で、
あろう事か友人が商品として売り出されていたのだ。
そんな情景、想像出来るほうがおかしいだろう。
「いやいや妖夢。私だって驚いているのよ?」
「それならば、どうして意気揚々と参加されてるんですかっ!」
「だってねぇ。事情は知らないけど、このまま放っておいたらあの子ドナドナされちゃうわよ?
妖夢はそれで良いの?」
「それは……勿論、嫌ですけど」
「でしょう。私だって、こんな所でうどみょんの火を消したりしたくないもの」
「なんですかそれ……」
「ともかく私は買うわよ。細かい事は後で考えなさい」
「……」
妖夢は既に、壇上の檻に入れられているそれが、本物であると確信している。
ならば異論がある筈もない。
幽々子の言う通り、ここで手を上げねば、本当に鈴仙は見知らぬ誰かに買われてしまうのだ。
何故にこんな事になっているのかは分からない。
だが、見過ごす訳にはいかない。という気持ちは、会場内の他の誰よりも強いという自覚はあった。
「……少々混乱していたようです。申し訳有りませんでした、幽々子様。
改めて申し上げます。どうか落札して下さるようお願い致します。
でないと私は、鈴仙に顔向けが出来ません」
「任せなさい……と言いたい所なんだけど、どうも簡単には行かないみたいねぇ」
「え?」
思わせぶりな発言に、怪訝なものを覚えた妖夢は、幽々子の視線を追う。
「3000万!」
直後、どこか聞き覚えのある声が上がる。
その発生源は、これまた予想だにしていなかった人物であった。
「……お嬢様。本気なのですか?」
「エルヴィスの物真似なんてした記憶は無いけど」
「生憎ですが、ホンキートンクマンの話は振っておりません」
「分かる貴方も大したものね。
……じゃなくて、アレが出張ってきた以上、私も黙っている訳には行かないのよ」
「何も、こんな形で借りを清算する必要は無い気がするのですが」
「あー、もう、うるさいわね。一々口を出すんじゃないの」
「……」
さて、こちらの主従二人組……レミリアと咲夜も、この場に居合わせたのは単なる偶然だった。
故に、鈴仙が商品として登場して来たという出来事は、確かに驚きではあったが、
それ以上に、幽々子たちまでもがこの場におり、更に競売に参加し始めた事のほうが衝撃的だったのだ。
これまで、レミリアと幽々子の間で行われた幾多の勝負……。
主に麻雀によって生み出された金銭的顛末は、極めて紅魔館側がマイナスに傾いていた。
借りとはそれを指しての言葉であったが、レミリア本人が否定しないのでは話にならない。
しかも、あくまでもこの勝負は、第三者も多数参加しているオークション。
即ち、勝ったほうが多額の損害を被ってしまうのだ。
無論、咲夜自身としては、状況的に鈴仙を買う事には異議は無いのだが、
それ以上に乗り気な知り合いがいる時点で、無闇に価格を競り上げたりする必要はないというのが結論だった。
もっとも、戦闘思考に入ったレミリアが、そんな事を考えている筈も無く、
また、咲夜はそれに対して異論を述べる権利を持っていなかったのである。
「3500万!」
瞬時に幽々子の側から、更に上乗せされた額が提示された。
それは、宣戦布告を受けたとの合図でもある。
「……ふん、やはりアレも引かないつもりね」
「当然でしょう。幽々子はともかく、妖夢は何としてでも落札したい筈ですから」
「ふぅん? ……ま、そんな個人的感情に興味は無いわ」
「それは結構なのですが、商品そのものにも興味が無いのは如何なものでしょう」
「あるわよ、少し。……3800万!」
「(……対抗意識のほうがずっと大きいんでしょうね)」
「ん、何か言った?」
「いえ、何も」
この時点で、咲夜は傍観に徹する事を心に決めた。
二人の参戦により、競売の状況は一変した。
元々、手を上げた殆どの参加者の意向は、『珍しいモノらしいから、とりあえず乗ってみよう』という曖昧なものであった。
月兎と言われても、外見的にはただのウサミミ少女でしか無いのだから、
余程特殊な嗜好の持ち主でも無い限り、深入りする気は生まれないというのが普通の見かただろう。
事実、幻想郷における一般的な身請けの相場から見れば、1000万ですら相当に高額な部類なのだ。
が、新たに参加した少女達からは、何としてでも落とす。という明らかな気迫が宿っていた。
故に、実質的な一騎打ちという状況が、自然と発生していたのである。
「5000万!」
「5200万!」
「5500万!」
「5800万!」
「(……何で、そんなにお金を出してまで、私なんか買おうとしてるんだろ……)」
しかしながら、当の本人である鈴仙には、自覚が薄かった。
競り合っているのが幽々子とレミリアであるというのは、視覚情報として認識はしている。
だが、そうなるに至った理由を考えるほどの思考能力が戻っていなかったのだ。
言うなれば、今だ夢の中を彷徨っているような感覚だろうか。
「6300万」
「6400万」
「……6450万」
「…………6470万」
そんな中、次第に額の上げ幅がみみっちくなる。
金銭的な限界。という訳ではないのは、二人の様子を見ればよく分かる。
というのもお互いに、闘志むき出しというよりは、段々と困惑したような表情になって来ていたからだ。
「……本当に、こんなに出してまで買うようなものなのかしら」
「ゆ、幽々子様! ここで弱気にならないで下さいよ!」
「これって良く考えたら、負けといたほうが向こうの損害になるんじゃない?」
「今頃気付かれたのですか……」
お互いに気付いた時にはもう遅い。
現在の落札権は、6470万でレミリアにある。
このまま幽々子が声を上げなければ、それで勝負は決まるのだ。
「お願いです! 私の給金とかはどうでも良いですから、どうかもう一声!」
「そんなもの、元々無いじゃないの」
「そ、それなら、おやつもいりませんから!」
「でもねぇ……やっぱり、私の所有物にするよりは、
第三者の手にあったほうがドラマ的に盛り上がる気がするのよね」
「物語性なら私の手で作って見せます! 何せ時代はうどみょんです! 多分!」
「うーん……」
十二分に浮き足立ち、不必要な言質まで与えてしまっている妖夢を余所に、幽々子は思考に浸る。
レミリアもやる気を失っていると思われる現状、もう一声上げたならば、ほぼ確実に落札権は手中に収められるだろう。
だが、今となれば、あえて自分が所有権を握らずとも、鈴仙は知り合いの手に渡るのである。
幽々子が危惧していたものは、まったく未知の人物に落札されてしまい、
鈴仙が事実上この世界から消えてしまうことであり、それはもう既に回避されているのだ。
もっとも、気が付けばウサ耳が猫耳になっていただの、背中から羽が生えていただのという末路も浮かぶだけに、
やはり自分で所有しておくべきではないか。という思いも残っていた。
別段、幽々子自身に鈴仙への思い入れは無かったが、仮にそうなれば妖夢が黙ってはいまい。
『さあ、6470万ありませんか!』
「んー……ろくせんごひゃく……」
散々悩んだ末に、渋々といった感じで幽々子が口を開かんとしたその時。
「一億っ!!」
凛とした声が、会場内に響き渡った。
「……あ……」
にわかに周囲がざわつき始める。
決意の表れ等と簡単には称せない、まさに信念とでも呼ぶべき重さを持った声。
その声を上げた人物は、会場の入り口付近で、息を切らせつつ膝に手を置いていた。
何処かへと落としたのか、帽子は既に無く、トレードマークの三つ編みも、今は解れて見る影も無い。
だが、それでも、鈴仙がその人物を見紛う事は有り得なかった。
「ししょう……」
この日、鈴仙は初めて、言葉を口にした。
「は、ふぅ、はぁ、ふぅ……ま、間に合ったわね」
永琳は切れる息もそのままに、身近な空席へと倒れるように座り込む。
そこに普段の颯爽とした姿は微塵も見られなかった。
さて。永琳にとっても、鈴仙が売られてしまったのは、まったく寝耳に水の出来事だった。
計らずも貫徹となってしまった仕事を終え、疲れた体を押して帰宅してみたら、いつも出迎える筈の弟子の姿が無く、
また、てゐを含めた兎達に事情を聞いてもまるで要領を得ない為、止む無く輝夜に尋ねてみた所、
『売ったわ』
という、シンプル過ぎて脳の血管が切れそうな回答を頂戴したという訳である。
当然、その時の永琳には、輝夜を小一時間問い詰めるという選択肢もあったのだが、
彼女の頭脳は、それを優先事項とは判断しなかった。
……いや、むしろ本能だったと言って良いかもしれない。
それこそ取るものも取り合えず、集められるだけの資金を掻き集めると、
文字通り吹っ飛ぶような勢いで会場に向かったのだ。
そして、こうして間に合ったという事実が、永琳の判断が正しかったことを証明していると言えよう。
「……ふぅ……ふぅ……はぁ」
息が整いつつあるのを確認すると、改めて壇上へと視線を送る。
そこには、檻へと入れられた、紛れも無き愛弟子の姿。
向こうも気付いたのか、正に縋りつくような目で、永琳を見つめ返してた。
「(……あれは、盛られてるわね……あの子に効くような強い薬なんて……)」
燻り出した憤りを、持ち前の鉄の精神で押し止める。
本音を言ってしまえば、この場で関係者全員をブチ殺してやりたい所であったろうが、
このオークションが幻想郷の裏世界において極めて名高いものであるという点。
そして名高いと称されるだけはあり、売買の流れに関しては、
絶対的な権限を持っているという点などを、知識として持っていたのだ。
無論、それだけで収まるのなら苦労は無い。
永琳が競売に参加するという形で救出を選んだ、最大の理由。
それは、売りに出したのが他ならぬご主人様本人だからである。
「(姫……何だって、こんな馬鹿な事を……)」
「……やれやれ、とんだ茶番に付き合わされたものね」
「よいではありませんか。偶には喜劇のエキストラとなるのも一興ですわ」
予期せぬ形で幕を引くことになった勝負に、レミリアは呆れたように溜息を吐く。
もっともこれは、咲夜にとっては大変に有り難い事であった。
麗しき師弟愛の引き立て役にされたことは面白くはないが、結果的に無駄な出費は抑えられたし、
仮に落札してしまった場合は、もっと大変な事になっていただろうと思ったからだ。
戦争、良くない。
「あー良かった……これで一安心ですね」
一方の妖夢もまた、安堵の溜息を吐いていた。
内心、少し飼ってみたかった。なる邪な想いもあったのだが、無論口にはしない。
ともあれ、無事に元の鞘に納まったことは、良くはあれ悪い事では無い。
「そうかしら、ね」
だが、何故か幽々子の表情からは、怪訝なものが見え隠れしていた。
「……幽々子様?」
「どうやら私達は脇役に過ぎないようだけど……この競売、まだまだ終わらないわ」
「それはどういう意味で……」
「1億5000万」
問いかけるよりも早く、第三者の口から解答が飛び出していた。
幽々子の言葉は、果たして真実を突いていたのだ。
「(!? 何だってあいつまで……)」
驚きに顔を上げた永琳は、その人物を確認すると更に驚愕する。
一見、豪奢なドレスに身を包んだ、優雅な貴婦人。
だが、その手に持つ扇の向こうにある顔を、そして奥に潜む本性を彼女は嫌という程良く知っていた。
『はい、1億5000万ありませんか?』
「……っ! 1億7000万!」
長々と思考を巡らせる猶予は無い。
肝心要の落札権を握らせては、元も子も無いからだ。
だが、その婦人は、永琳に一切の時間を与えなかった。
「2億」
「くっ……!」
「……紫様、何故、このような真似を?」
「んー? ただの暇潰しよ」
「暇潰しで大金を浪費されたのでは困ります。我々とて、資金源は無限ではないのですよ?」
「分かってるってば。適当な所で切り上げるから」
「……頼みますよ、本当に」
扇子の内側に開かれていた僅かなスキマが、溜息のようなものを残して閉じた。
「2億1000万!」
「2億5000万」
視線の先から飛んだ声に、婦人……紫は、落ち着いた声で、かつ素早く対応する。
何故彼女がここにいるのか。
その問いは、こと八雲紫という妖怪に対しては、まったく無意味である。
「(何なのよ一体……そんなに私が憎いの!?)」
内心の動揺、そして怒りを押し殺すように、永琳は唇を噛み締める。
ようやく事態を収拾できたと思った所に、まさに悪夢とでも言うべき嫌がらせ。
暇潰しであろうと何だろうと、落札さえしてしまえば、本当に鈴仙はその人物のモノとなってしまうのだ。
「……2億6000万!」
「随分とせせこましい上げ幅ねぇ。気が抜けてしまうじゃないの」
「!?」
ごく近距離から掛けられた声に、永琳は息を飲んだ。
見れば隣の席には、遠く向こうにいたはずの紫が、微笑みを浮かべて座っていた。
「もっと、どーんって上げなさいな。こういうオークションは弱気を見せたら負けよ」
「こ、この……」
「あー、実力行使は止めておいた方が良いんじゃないかしら。参加資格剥奪されちゃうわよ?」
「……く……」
正に伸びそうになっていた手を、寸での所で押さえ込む。
紫の言葉は決してただの言い逃れではない。
ここで憤りに身を任せては、これまで必死に手繰ってきた行程が、全て水泡に帰すだけである。
「3億ーっ」
そして、再び紫が手を上げた。
「……」
「……湿気た顔ねぇ」
「貴方、ウドンゲを買ってどうするつもりなのよ」
「さあね。落としてから考えるわ」
「……3億1000万!」
「3億5000万ーっ」
間髪入れずに吊り上げられる値。
その様子から、このまま同じ事を続けていても堂々巡りになるだけ。と永琳は確信した。
「(……冷静になるのよ。今、私がここにいるのは何の為なのか……)」
瞑目して押し黙る永琳。
それを、意図の読めない表情を浮かべつつ、横目にちらちらと眺める紫。
元々、競売で争う者同士が仲良く会話しているというのも変な話なのだが、
かといってこのような微妙な空気を作られても困るというのが、周囲の客の本音だった。
「何が……」
「ん?」
間もなく制限時間か、という間際。
ようやく永琳が、その口を開く。
「何が望み……」
「そうねぇ、強いて言うなら」
来た。とばかりに嬉々として答えにかかる紫。
彼女はまさに、このタイミングを待っていたのだ。
「……なのかは聞かないわ。聞いたところで、どうせはぐらかされるだけでしょうし」
「へ?」
が、予期せぬ切り替えしに、紫は間抜けな声を漏らす。
既に、永琳の表情からは、先程までの焦った様子は消えており、視線はもう紫を向いていない。
その先にあるのは、ただ一つ。
「だから、私は私に出来る事をするだけよ」
いまだ檻の中で震える、一人の少女の姿のみ。
『さあ3億5000万ありませんか? ありませんね? ……では、3億5000万にて』
「7億8400万!」
まさに、ハンマーが振り下ろされんとした瞬間。
会場内に響き渡っていたのは、永琳の声だった。
「これが今の私に出来る全てよ。もう、逆さに振られたって、何も落ちはしないわ」
その言葉に、偽りは無い。
この半端な金額は、所持している現金のみならず、永遠亭に貯蓄してある装飾品や備品、
果ては薬剤の数々まで、永琳の所有する全ての財産から算出された額であった。
「……そう、確かに見せてもらったわ」
紫は、僅かな微笑みを持って答える。
そこに、某烏天狗に気味の悪いと称されたような怪しさは、微塵も見られない。
事実永琳は、こいつにもそんな笑顔が出来たのか、と驚いていたくらいである。
「……?」
「意地悪して御免なさいね。少し、貴方が必死になる所を見てみたかったのよ」
「……そ、それだけ?」
「それだけ。……まぁ、本当に暴れられても困るし、ここが潮時かしら」
紫は、おもむろに立ち上がると、変わらずの微笑を浮かべたまま、永琳へと向き直る。
「せいぜい大事になさいな。無くしてしまってからでは遅いのよ」
「……貴方にそんな忠告を受ける筋合いは無いわ」
「それもそうね……では、ごきげんよう」
そして紫はスキマの向こうへと消えた。
文字通り、一切の気配も残さない、完全なる消失である。
普通ならパニックになりそうな光景であるが、そこはこんな怪しいオークションに参加するような強者であるからか、
殆どと言ってよいほど、疑問の声が出る事はなかった。
余り関わるべきではないと思ったというのが、本音かもしれないが。
「10億ーっ」
「!?」
数秒後。
永琳から見て完全な対角線の位置から響き渡った暢気な声に、落ち着きかけていた心は、再び沸騰した。
「ちょ、紫様! つーかスキマ! 何寝惚けてるですかあんた!
せっかく感動的に収まる所だったのに、自ら台無しにしてどないすんねんな!」
「落ち着きなさいな、藍。言動が乱れてるわよ」
「乱れてるのは、紫様の思考回路でしょう! 何だってこんな馬鹿な真似を!?」
「だって……競ってる内に、本当に欲しくなっちゃったんだもの」
「ハハッ! これだから変態動物は困るなチクショウ! 掻き集めるのは私の仕事なのにっ!」
「さりげなく酷い事言ってる?」
「堂々と言ってるんです!」
『ええと、10億、で宜しいんでしょうかね? いい? はい、ならそういう事で。
10億! ついに大台出ました! さあ10億ありませんか!?』
「……何やってんのかしら、あいつら」
動揺の見られる競売人の声をBGMに、レミリアが呆れたように呟く。
既に傍観に回っていた身としては、波乱があったほうが面白くはあるのだが、
収拾着かずになってしまうのは勘弁願いたいところだった。
「しかし、兎一匹に10億ねぇ……咲夜はどう思う?」
「……」
「……咲夜?」
「お嬢様、最前列の右から4番目と5番目をご覧下さい」
「?」
すぐに返答をせず、その事に対する謝罪も無しに、逆に指示を送って来る始末。
気の短いレミリアが、いかにも爆発しそうな出来事ではあるが、
咲夜がそうした非礼を働くという事は、そうせざるを得ない状況であると同意義だった。
故に、レミリアは激昂することもなく、言われるがままに、示された席の人物へと視線を送った。
「……ぐ……」
そして、後悔した。
「ねぇ、パパぁ。僕もアレ欲しいなぁ」
「何だ。また新しい玩具かい」
「うん。そろそろアレも古くなったしねぇ」
「仕方ない奴だなぁ。でも、あんな華奢なモノでは、またすぐに壊れちゃうんじゃないか?」
「大丈夫だよぉ。今度は大事に使うからさぁ」
ビジュアル、というのは重要なものである。
仮にこの会話が、玩具売り場でサラリーマン風の男と幼い子供の間に交わされたものならば、
いくらか微笑ましい光景には映ったろう。
だが、ここは幻想郷でも指折りの闇オークション。
更に売買されている商品は、生きた月兎である。
そして、会話を交わす親子も、おおよそこの場に相応しい外見の持ち主であった。
お前ら、二人で椅子幾つ使っとるんじゃという、横に広がりきった巨体。
涼しいと言えるくらいの会場なのに、タライ一杯に溜まりそうな程に流れ出る汗。
故に、拭き取り用に使われるものも、青いハンドタオルなどではなく、関取用のバスタオル。
吐き出される息は、目に見えるほどに黄色く、スーさん以上の毒性を持っている事は想像に難くない。
そんな共通点を持ってるだけでも十分困りものなのに、息子……と思わしき人物は、
どう見ても中年に近い年頃にも関わらず、サスペンダー付きの半ズボン姿であり、
団扇のように巨大なペロペロキャンディを、二桁ほども同時に嘗め回しているという、大変に見苦しい姿だった。
というか、描写してる私も心苦しい。
久し振りにオリキャラを出したと思ったらこんなのかよ。と後悔しているくらいである。
……おほん。
そして、父親らしき人物も、それに輪をかけて危険な空気を醸しだしている。
禿げ上がった登頂部からは、仮面の男を一瞬で葬りされるほどのオーラが溢れていたし、
禁煙にも関わらず口に咥えられた葉巻は、金属バットと称するほうが近い大きさであった。
瞬間、強烈な毒ガスを下腹部の辺りから噴出され、後方でしかめ面をしていたご婦人が、一人昏倒する。
まさに悲劇だ。
「な、何よあの明らかに放送禁止な物体は。五秒と眺めていられないわ」
レミリアは、息も絶え絶えに、咲夜へと詰め寄る。
己の美意識が、瞬間的に呼吸を止める事を決断させていたのだ。
「幻想郷の財界において知らない者は無いとまで称される大富豪、油藻火血会長と、その息子の露曼ですわ。
とりあえず、名前で呼ぶのが面倒なので、ここからは『それ』と称しましょう」
「……何でそんな事知ってるの? というか『それ』って人間なの?」
「一応は。まあ、ある意味妖怪よりも妖怪染みてますが。外見も……性質も」
「……」
阿吽の呼吸というものだろうか。
レミリアはその口振りから、咲夜の言いたかったであろう事を、全て理解していた。
このオークション、最大の難題は、幽々子でもなければ紫でもない。
『それ』なのだと。
「ねぇ、パパぁ」
「んー、仕方無いなぁ。15億」
のんびりとした口調と、合わせて放出される黄色い息。
だが、その真の脅威は、発された言葉の内容そのものにあった。
見れば、掴み合いを始めようとしていた紫と永琳も、驚きの余りにフリーズしている。
何せ、15億。
博麗神社がカンブリア紀から存続していたとしても、賽銭の総額はその値に及ばないこと遠かろう。
そんな現実的とも言い難いような大金が、さも牛丼並盛りを注文するかのごとく、あっさりと口にされたのだ。
「……う……あ……」
そして、『それ』に見初められた鈴仙の絶望たるや、想像するだに恐ろしい。
もしも薬が効いていなければ、その場で自殺か殺害かの何れかを選択していたに違いないだろう。
「やれやれ……仕方ないか」
「して、如何なさいますか?」
「全部、貴方の裁量に任せるわ。直ぐに始めなさい」
「そう仰られると思っておりましたわ」
「ったく、ただの冷やかしのつもりが、厄介な事になったわね」
「ごもっとも」
『さあ、15億。15億いらっしゃいませんか?』
白けた空気の漂い出した会場に、競売人の声が空しく響き渡る。
ついには、あるわけねーだろヴォケ。というような野次すら飛び始めていた。
そんな中、忙しなく書類と睨めっこしていた咲夜が、すっ、と顔を上げる。
「お待たせ致しました。こちらです」
「ん」
レミリアは、咲夜から渡された紙片に一瞬だけ目を通すと、すぐさま手を上げる。
「26億6000万!!」
再び会場内が、どっ、と沸きかえった。
何せ、もう無いだろう。と思われていた所に、更に倍近い上積みである。
当初は1000万台で動いていた価格が、今や20億を突破しているというのも驚きの原因だ。
月兎とやらはそれほどまでに価値がある代物だったのか、と悔やむ者もいたとかいなかったとか。
ともあれ、ここまで価格が吊り上がってしまえば、介入できる者は存在しない。
もはや買い手となり得たであろう殆どの人物は、ただの観客に過ぎないのだ。
「ふん……高い買い物になったわね」
「いえ、ご英断ですわ」
レミリアの提示した金額。
それは、永琳の8億弱と紫の10億を足し、更にレミリアが現時点で用意できる限界額……およそ9億を加えたものだった。
先程までの咲夜の黙考は、この計算作業を行っていた為である。
別段、相談された訳でも無いのに、何故このような決断が下されたのか。
そうするまでもなく心を一つへとさせるだけのものが、今の状況にはあったのだ。
即ち、絶対に鈴仙を『それ』にだけは落札させてはならない、と。
「でも、恐らくはこの額だろうと、『それ』には露払いにしかならないでしょうね」
「……はい」
こうした場で、端数までも掲示して入札することは、余り賢い手段ではない。
それが此方の限界である。と万人に示しているようなものだからだ。
だが、譲る気は無い。との意思表示をするという意味では、効果的になる面もある。
特にこのような、協力者が存在するという前提がある場合なら尚更だ。
「ああ、不愉快。何だって、あいつに後を任せないといけないのかしら」
「んー……30億」
レミリアの予想通り、『それ』は僅かな推考のみをもって、あっさりと大台を提示した。
相変わらず黄色い息に混ざりあった、火山の噴煙の如き葉巻の煙を吐き出しており、
息子のほうも新たに一ダースのキャンディを口からぶらぶらとさせている。
そんな見るに耐えない連中であったが、それでも誰もが認めざるを得なかった。
金は強い、と。
「……妖夢、まだなの?」
「もう少しです! 今しばらくお待ちを!」
「急ぎなさい。多少の誤差は無視して良いわ」
手を上げるタイミングを計る幽々子と、神速の勢いで算盤を弾く妖夢。
彼女らもまた、鈴仙を救うべく、白玉楼が捻り出せる限界の額を算出していた。
取り扱われる品が品だけに、このオークションの取り決めは絶対である。
亡霊姫であろうが吸血鬼だろうが、金を用意できなければ、その落札は無効となってしまう。
故に、状況に焦りつつも、こうして現実的な額を導き出さねばならなかったのだ。
「出ました! こちらです!」
「あらあら、随分と頑張ったのね。本当に大丈夫なの?」
「はい。幽々子様さえ我慢して頂ければ」
「……」
その言葉に、幽々子は何とも言い難いやるせなさを覚えていた。
「……幽々子様?」
「いえ、ね。自分の趣味が幻想郷経済の活性化に一役買っているのかと思うと、嬉しいような悲しいような……」
「せいぜいが地域振興券程度の効力でしょうけど。……って、それよりも早く!」
「んもう、分かってるわよ……37億1000万!」
そして、算出された数値……10億5000万を加えられた額が、幽々子の口から告げられると、
まるで自棄になったような歓声が、会場内を包み込む。
どこぞの金持ちのお嬢様が、逸る気に任せて散財している。
そんな皮肉めいた言葉も封殺されるほどに、彼女らの確固たる意気込みは伝わっていたのだ。
「むーん……」
「パパぁ。どうしたの?」
「いやぁ、なぁ。流石にちょいと高いんじゃないかな、これは」
「えー? そんなことないよぉ。よく見たら、結構頑丈そうだしぃ、僕も大事に使うよぉ」
「むーん……仕方ないなぁ。40億」
「くそっ、化け物が……頑丈だから何だって言うんだっ!」
「落ち着きなさい、妖夢。まだ終わってはいないのよ」
そして、幽々子の浴びせた二の太刀もまた、『それ』の力の前に、儚く折れた。
だが、彼女らにはまだ希望が残っている。
少なくとも、今まで『それ』が見せた事の無い、悩む素振りという物を引き出せたのだから。
「ですが……」
「私達に出来る事は全てやったわ。後は……」
幽々子は会場の一角へと視線を向ける。
そこには、じっと瞑目して動かない、紫の姿があった。
「……藍、どう?」
「今、目処が付くものが、これ。更に納入時刻までの猶予を含めでも……これが限度です」
「分かったわ」
紫の返答と同時に、また藍の気配が消える。
答えを残す時間も惜しい。という事なのだろう。
「(まったく……この私が、金策に走り回らないといけないなんてね)」
実際に走り回っているのは藍なのだが、それはご愛嬌。
先程まで、襟首を掴んで食ってかかっていた筈の永琳が、今や逆に紫に支えられて立っているような状態なのだ。
確かに、必死になる姿が見てみたいとは言った。
だが、こうまで絶望の縁へと落ち込んでしまう姿を望んでいた訳ではないのだ。
もっとも、何故そんな事を思っていたのかは、紫自身にも良くわかっていないのだが。
「……」
「しっかりなさい……と、言える立場でも無かったわね。
私が横槍を入れなければ、ほんの1億程度で片が付いていたんだもの……」
「……」
「……だからという訳ではないけど、私も出来るだけの事はさせてもらうわ」
「……」
紫は、ゆっくりと息を付くと、その瞳を大きく見開く。
「48億5000万!」
そして彼女もまた、今の自分に出来る限界を、金額として指し示した。
もはや会場内は、熱狂の時すら通り越し、再び、しんと静まり返ってしまっていた。
何故なら、客たちは皆、理解してしまったのだ。
これはもうオークションではなく、金という名の武器を手に取った戦争なのだと。
だが、そんな中でも、まったく空気を読まない異型の者が二人。
「むー、流石にこれはなぁ……」
「パパぁ。お願いだよぉ。ぼく、どうしても欲しいんだ」
「だがなぁ、これ以上頑張ると、パパがママに怒られちゃうんだ。それは嫌だなぁ」
「でもぉ……」
「やれやれ……そんなに気に入ったのかい」
「うんっ、欲しいっ」
「そうか……なら、一つ、パパのお小言を聞いてくれるか?」
「聞く、聞くよぉ」
「もうペロペロキャンディは卒業しなさい。糖分の取りすぎは体に悪いからな。
それを守るなら、パパも頑張っちゃおう」
「……」
「どうだい?」
「……うん、ぼく、キャンディ止める。辛いけど、頑張って止めるよ!」
「そうかそうか、嬉しいぞ。それならパパも頑張らないとな」
突っ込みどころのみで形成されたような会話が、静まり返った会場に響く。
そして、審判の時は来た。
「よし、50億でどうだ!」
「「「「(私達は……ペロペロキャンディに負けたのね……)」」」」
野太い声が発された瞬間、永琳が膝を着き、レミリアが拳を握り締め、幽々子が首を振り、紫が天を仰いだ。
絶望。
まさに、そう呼ぶに相応しい深き暗雲が、彼女達の心を支配していた。
もはや打つ手は皆無。
幻想郷のヒエラルキーの頂点に近い位置に立つ面々も、
金という絶対的な力の前には、どうすることも出来なかったのだ。
『……あー、はい。50億ですね。
上、あります? 無いですよね。そりゃそうだ。
でもまぁ、これも仕事ですし、一応待ちます。はい、50億ありませんか?』
職務放棄に近い印象さえ受ける競売人の口上が、全てを物語っている。
彼女等の欝が伝染したのか、オークション会場はまるで通夜の如き雰囲気に包まれていた。
もちろん、約一名だけは空気を読まずにはしゃいでいたのだが、
大多数の者は、檻の中で呆けている月兎を同情的に見られるだけの真っ当な精神を持っていたのだ。
そんな状況だったからだろうか。
誰も、その光景に気付く者はいなかった。
件の月兎の視線が、虚空ではなく、客席のある一点へと注がれていたことを。
空席だった筈のそこに、いつの間にか新たな客……一人の少女が姿を現していたことを。
そして、その少女が、ゆっくりとその手を上げたことを。
「100億」
長く美しい黒髪が、風も無いのにふわり、とそよぐ。
決して大きいとも言えないその声は、サイレント映画の如き情景に、とても良く響き渡った。
戦いは、終わったのだ。
「本当に、本当に申し訳有りませんでした、深く謝罪致します」
既に人も疎らとなった、会場外のロビーの一角。
ただひたすらに頭を下げていたのは、永琳、及び晴れて自由の身となった鈴仙。
無論その対象は、この喜劇の登場人物となった、紅魔館、白玉楼、そしてマヨヒガの面々である。
「……何と言うか、馬鹿馬鹿しすぎて怒る気にもなれないわ」
「まったくですわ。時間の無駄とはまさにこの事かと」
「貴方がそれを言う……いえ、何でもありません」
癖で咲夜へ突っ込みかけた鈴仙を、永琳が視線のみで嗜める。
実際問題、壮大なる自作自演となってしまったこの出来事に関して、
彼女らが出来る申し開きなど、存在する筈も無い。
永琳も、それが分かっているからこそ、普段下げる事のない頭を存分に披露しているのだ。
「いえ、無駄などではありません。
貴方がたが時間を稼いで下さったお陰で、私たちの今があるのです。
このご恩は、いつかきっと返させて頂きます」
「……ま、好きになさい。私達はもう帰るわ。……行くわよ、咲夜」
「はい」
ひらひらと手を振りつつ会場を後にするレミリアと、それに続く咲夜。
永琳と鈴仙は、その姿が見えなくなるまで、頭を下げ続けていた。
「れいせーーーんっ!」
「わっ!?」
直後、低い体勢からの片脚タックルが鈴仙を襲っていた。
まだ薬が抜け切っていなかったせいか、あっけなく鈴仙は床へと転がされ、小柄な襲撃者に捕獲される。
誰であるかは言うまでもないし、その後どうされていたかはご想像にお任せしたい。
「……さて、と。一つ聞きたいのだけど」
そんな光景を横目で見つつ、幽々子は永琳に向かって問いかける。
「何でしょうか。私に答えられるものなら」
「いくら貴方達が資産家だからって、100億なんてお金、容易に準備出来ないわよね?」
「はい……現に私個人では10億にすら届きませんでしたから」
「なら、あのアホ……じゃないわ。輝夜は、どうやって用意したのかしらね」
「アホって言わないでよ。私だって苦労したんだから」
そこで、二人の間に割って入るように登場あそばした黒髪美人。
全ての元凶であり、そして全てを強引に解決した、言わばこの喜劇の監督兼主演女優の輝夜である。
「あらま、本人のご登場ね。では直接聞かせて貰おうかしら」
「んー……企業秘密では駄目?」
「駄目よ。私達には聞く権利があるわ」
「むぅ、仕方ないわね……実は、蓬莱の玉の枝を売ったのよ。
まあ、それに手間取ったせいで時間ぎりぎりになってしまったんだけど」
「「「「!?」」」」
その場にいた、輝夜を除く全員が、驚愕に声を詰まらせた。
蓬莱の玉の枝。
竹取物語として残る伝説にも登場する、五種の難題のうちの一つにして、唯一の本物と称されており、
輝夜が所有する宝物の中でも、比類すべきものを持たない秘宝中の秘宝である。
また、宝としての希少価値のみならず、武装……いわゆるスペルカードとしても極め付けに強力な代物であり、
これを幽々子に例えるならば、西行妖を売った。と呼ぶに等しい出来事であろう。
しかし、逆に言うならば、100億とはそれほどの物を手放さないと得る事の出来ない金額だったのだ。
「ひ、姫様っ」
最初に動いたのは鈴仙だった。
今だまとわり付いている妖夢を引き摺りつつ、今にも泣き出しそうな表情で輝夜の前へと出る。
「……色々とごめんなさいね、鈴仙。
あ、さっき支払いの時に名前覚えたのよ。貴方、他に名前あったのね」
「い、今まで知らなかったんですか。……じゃなくて、何でそんな事しちゃったんですか!」
「だから謝ってるじゃない」
「違います! 私なんかの為に、アレを売ってしまった事です!」
「私なんか。とか言うんじゃないの。それじゃ、100億も払った私が馬鹿みたいよ。
私は、そうするべきだと思ったから実行したまで。それを貴方が悔やむ必要なんて何処にも無いわ」
「……自分で売りに出しといて良く言うわねぇ」
そこに、幽々子のもっともな突っ込みが入った。
もしもこの場にレミリアが残っていたのならば、二人がハモるという貴重な現場が見られた事だろう。
惜しい。まことに惜しい。
「分かってるわ。全ては、場の勢いで本当に売りに出してしまった私に責任があるの。
貴方達には色々と迷惑を掛けてしまったわ……ごめんなさい」
「……」
「そして、この子の為に必死になってくれて、本当にありがとう」
「……べ、別に良いわ。終わり良ければ全て良しと言うものよ」
幽々子の返答には、やや動揺が見え隠れしていた。
普段通りに捻くれたやり取りならば、いくらでも返しようがあったのだが、
こうも素直に謝罪と感謝の意を述べられるというのは、予想の範疇外だったのだ。
「姫様……私こそ、色々酷い事を言ってしまって申し訳ありませんでした。
……ようやく思い出しました。昨日、何があったのかを」
「良いのよ。もう忘れなさい」
「で、でも、エンディングで存在を無視された癖に偉そうにすんな。とか、
竹取墜落のほうが相応しいんじゃないか。だとか、そろそろ師匠に権限渡したほうが上手く回るっしょ?
とか、酒の席とは言え、本当に酷い事ばかり……」
「だから気にするなと何度言わせるの。幽々子も言っているじゃない、終わり良ければ全て良し。と」
「ひ、姫ぇ……」
ついに涙腺が決壊し、輝夜の胸へと飛び込む鈴仙。
その際、流石に引っ付いたままでは拙いと思ったのか、置き去りにされた形となった妖夢が、ぼそりと口にする。
「あの、幽々子様」
「何?」
「もし仮に、ですよ。宴席で私が同じような暴言を吐いたとしたら……どうなさいますか」
「やーね、何を心配しているのかしら。私が妖夢を売り飛ばしたりするとでも思ってるの?」
「そ、そうですよね。まさかそんな事……」
「売ったりしたら、果てしなく堕ちて行く様が、この目で見届けられないじゃないの」
「(……うん。酒は控えよう……)」
妖夢はさりげなく決意を固めていた。
「……」
そんな光景を、苦虫を噛み潰すような表情で遠目に眺めていた貴婦人が一人。
紫である。
視線に気付いたのか、そこに永琳がやや気まずげに歩み寄る。
「……ええと、何と言ったら良いのかしら」
「何も言わなくていいわ。貴方が口を開くべき相手は、私ではないでしょう」
「そう、ね」
「……ま、これはこれで楽しかった。という事にしておくわ」
そう言うと、後ろ手にスキマを展開し始めた。
縁からは、これまた恨めしげな表情の狐様が、ちょこんと顔を覗かせていたりする。
「じゃあね。今度は延長戦は無いから、安心なさい」
「あ、待って。……これ」
スキマを潜ろうとしたところを、永琳が呼び止める。
その手には、小振りな紙袋があった。
振り返った紫は、その意図が分からず、表情に怪訝なものを浮かべる。
「……請求書か何か?」
「違うわよ。一応、礼というか、謝罪の印というか……多分貴方が一番喜ぶものよ」
「まさか……!?」
何か思いあたるものがあったのか、紫は引ったくるように紙袋を奪うと、
まるで袋とじを覗き見る子供のような仕草で、中身を確認する。
途端、曇っていた筈の表情が一転して晴れやかなものに変わり、
更には永琳の両手を取って上下に振るという、大変に分かりやすい感謝の意を示し出した。
豹変、とは正にこのことであろう。
「前々から、貴方とは友達になれる気がしてたのよ!
これからはゆかりんって呼んでね! 私はえーちゃんって呼ぶから!」
「いえ……それは勘弁して」
「紫様。そろそろお時間が……」
「あー、はいはい、分かったわよ。じゃ、またね。えーちゃん」
「だから勝手に渾名を付けないでって……」
懇願も空しく、紫と藍はスキマの向こうに消えた。
永琳は、一つ溜息を吐くと、くるりと後ろを振り返る。
そこには今だ抱擁中の輝夜と鈴仙。
そして、それを微笑ましげに……とは言い難い微妙な視線で見つめる、冥界主従の姿があった。
「……」
ふと、幽々子と視線が合う。
言葉は無い。
だが、その視線が意味するところは、誰よりも良く理解出来ている。
故に永琳もまた、何も言うことなく、大きく頷く事で回答を示していた。
「(……分かってるわ。これは、私の使命よ)」
永遠亭ご一行は、帰路へと就いていた。
既に頭上には、偽りの形を捨てた真の満月が、その美しさと力を誇示していた。
三人の故郷であり、そして二度と戻る事の許されぬ場所。
といっても、彼女らにそうした感慨があるのかどうかは、大変に怪しい。
何故なら、鈴仙は会場を出た直後に気を失い、今は永琳の背中で眠っていたし、
輝夜はというと、訳の分からない鼻歌などを歌いつつ、ご機嫌にステップを踏んでいる。
そして永琳は、その輝夜の後ろ姿を、まことに訝しげな視線で見つめていた。
要するに、誰も月など見ていなかったのだ。
「……ところで姫。いくつか質問があるのですが、お答え願えますか」
「んもぅ無粋ね。こんな素敵な夜に、そんな厳しい面をするものではないわよ」
「いいから聞けや、コラ」
「……はい」
瞬時に輝夜のステップが止まった。
相変わらず、力関係の微妙な主従ではある。
「過ぎた事です。事情や理由に関しては問いません。無駄ですから」
「さっすがー、合理主義者の鏡ね」
「でも、確認事項は大切です。……その右手にお持ちになられている物体は何でしょうか?」
永琳の視線の先にあったのは、歪な形をした、カラフルな棒状の代物。
それを輝夜は、玩具のようにぶんぶんと振り回していたのだ。
「ん? 忘れちゃったの? もう千年は見てる筈だけれど」
「姫自身の口から、伺いたいのです」
「ならば答えましょう。これぞ蓬莱の玉の枝よ」
「……本物ですか?」
「当たり前じゃないの。私が持つ、唯一の本物の秘宝ですもの」
赤ランプ確定。
要するに、蓬莱山輝夜は、総額100億という前人未到の詐欺を侵したのだ。
発覚することはまず無いと思われるので、事件とはならないのがポイントだ。
さすがは輝夜様だ。賽銭詐欺とは十くらい桁が違うが何ともないぜ。
「なるほど。では、もう一つ。
確か、ウドンゲをオークションへと出品なされたのは姫ご自身でしたね?」
「あら、過ぎたことじゃなかったの?」
「確認です。お答え下さい」
「んー、その通りだけど、私は謝ったし、鈴仙も許してくれたし、結局は無事に収まったでしょう」
「だから確認だと申し上げております。
すると、先程の落札金額も、手数料を除けば、直ぐに手元へ帰って来るという事ですか?」
「当然よ。でなければ、兎一匹に100億なんて出すものですか」
「ふむ……」
永琳は考えた。
ここで、結論を出してしまっても良いものか、と。
が、そこは天才のこと。
思考に浸ったというよりは、間を作ったと呼ぶほうが相応しい時間で答えは出ていた。
後一つだけ、問うべきだと。
『えーりん! えーりん!』
『えーりん! えーりん!』
『えーりん! えーりん!』
見える。
レミリアが投げやりに手を振る姿が。
幽々子が儚げな表情で口にする姿が。
紫が心底楽しそうに連呼する姿が。
そして、この騒動に関わった全ての者が、一心に声援を送る様子が。
永琳はその声をしっかりと心に刻み込み、おもむろに口を開く。
「……では、最後に一つ。
この事件によって姫が手にしたものは、余剰金の他に何がありますか?」
「抽象的ねぇ。ま、せっかくだから答えてあげましょう。
『100億の価値があるペットを所有している姫君』という称号よ。中々良いと思わない?」
「……そうですね。モハメド殿下もびっくりですわ」
そして、満面の笑みをもって答えとした。
「永遠に逝っとけ!!!」
「ハウルッ!!!」
こうして永琳は、昔は敬愛していた気がする主人の前で、八意流格闘術秘奥義のお披露目を無事果たした。
その名も『月まで届け、不死の姫君』というらしい。
対流圏、及び成層圏を超え、ついには肉眼から消えてゆく輝夜を見るに、実に相応しいネーミングであろう。
そして何事も無かったかのように、永琳は夜道を歩み出す。
背中に感じる、確かな温もりを噛み締めて。
「ウドンゲ……強く生きるのよ……」
「……くー……」
今宵も美しく輝いている筈の月は、何故か滲んでいて、良く見えなかった。
そして全てを台無しにするテルヨさんマジ外道。
喜べばいいのか、嘆けばいいのか・・・。
上手くまとまりかけたところに威風堂々たるオリキャラの登場に腹抱えっぱなしですw
エスカレートが止まらない、乱れ飛ぶ札束模様が素敵過ぎますw
従者の方々の苦労が身に沁みた
しかしばかげた額の連発はロマサガ3のトレードも真っ青ですね。
是非赤貧巫女のコメント辺りが聞きたいものですw
これはまた懐かしい。
あぁ……素晴らしい幻想だったよアレは……。
あれか、チェルシー(サッカークラブ)を買ったあの人なのか…ッ!?
しかしギョーカイ広しといえどこれほどまでに酷いオリキャラは見たことが無い…^^;
落札価格以上の金を持ってても理不尽に持っていくあの親子なんだな!?
画面の前で笑い転げました!
こんなオリキャラをだすなんて…
しっかしキモイ親子ですな……。
歴代のラスボスクラスが一致団結するところに見所あり。
だけど親子がキモイのでその分-120点とします。
(あれ?)
しかし、本当にオリキャラキモスw
そして輝夜は、まさに外道!!w
嫌過ぎるオリキャラとか必死になる師匠とか面白い点はあったのですけど、申し訳ない(謝
ところでこのオークションを霊夢はどう思ってるのかな?
最強の敵に立ち向かう東方ラスボス陣の激闘をしかと見届けましたぞ。
文化帖ではなく文花帖だとか輝夜非道とかゆかりんが貰ったのはブテナロッ(スキマ)とかより何よりも
オリキャラテラキモスwwww
最 後 で 台 無 し だ
輝夜のミスはたった1つ、輝夜は永琳と私を怒らせた
まぁ実際にはオチにも腹抱えて爆笑したわけですが。
思い返したときに輝夜に抱く怒りも含めてこの作品の良さだと思います。
あと動揺ともキレたともつかぬ不審な言動の藍に盛大に吹いたw
舞台上で絶望してる鈴仙の姿を幻視して萌えた私は穢れてますね
そして最後に一言。
ちょwwwオリキャラハイメガキモスwwwww
輝夜の外道っぷりに埋もれてはいるものの、鈴仙の暴言もひでえwwwww
必死に鈴仙を助けようとする皆の姿に心を打たれました。
レミリア様も、幽々子嬢も、紫も、なんだかんだ皆優しい。
それが幻想クオリティ?
白玉楼に買われた話とか、読んでみたかったw
そこまで輝夜外道じゃなくね?と思った私は頭が湧いてるんですか、そうですか。