Anywhere but here(魔法使いには魔術書を)
【黄昏アダージョ】
[Side:Marisa]
「あかあかと日はつれなくも秋の風」
「秋来ぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞおどろかれぬる」
「物言えば唇寒し秋の風」
「夕されは門田のいなは音つれて芦のまろやにあき風そふく」
秋は風からやってくる。
日の入り
黄昏。
夕焼け空。
「やっぱり、だんだん日が暮れるのも早くなってくるな」
「蜩と一緒に鈴虫の声もするしね」
一時中断と言いつつ扉が気になる魔理沙は、散歩飛行がてらに洞窟に行き、同じく気になってしかたなかったアリスに会った。
「素直じゃないな、アリスは」
「そういう魔理沙は何でここにいるのよ」
「私の場合は抜け駆け…嘘だ、だからその手に持ったやつを下ろせ」
「いやよ、大事な物なんだから。手を下ろす分にはかまわないけど」
言葉を弄びながら、結局のところ笑いあった。
「黄昏時って、逢魔が時とも言うよな」
「昼間でも元気なのも多いけどね、ここは」
確かに今さらだ。
「そういや、黄昏って本来は“誰そ彼は”って書くんだよな。暗くなって相手がよく見えないからだとか。夜の方がずっと暗いのにな」
昔の人の考えることはよくわからん。
「ああそれはね。夕方に人間の持つ視力認識能力が、著しく急低下するからよ。それでさっきまで見えていたはずの物が見えなくなって、不安になるんでしょうね」
「へえ。よく知ってるな、そんなこと」
「この前、人体について詳しく書かれた本を読んだのよ。結構面白いし、魔理沙も読んでみたら?」
「遠慮しとく」
「そうね。言ってみただけ」
来たはいいが、この時間帯では作業は出来ない。結局二人は洞窟の入り口から、日が沈んでいくのを何となく眺めていた。洞窟は絶壁の途中にあるから、ここからは魔法の森を一望できる。山の向こうへと夕日がおちる。眼下に広がる世界が燃える。西の空が焼けている。それは見事な夕焼けで、いっそ怖いほど綺麗だった。
目を閉じても、目蓋の血を透かしてあかい。
逃れられないあかだと、唐突に魔理沙は悟った。
「ねえほら、あっちでは夜が始まってるわ」
くいくいと袖を引っ張られる。以前はこういうアクションは魔理沙しかしないことだった。最初の内は、魔理沙が服を引っ張ったり肩を叩いたりする度に、彼女は嫌そうに眉を顰めたものだった。
「え…ああ、本当だ」
彼女の指につられて仰ぐ。言葉通り、東の空はすでに夜空だった。暗紫色をした空が、西に近づくほど朱くなっていく。毎日起きているはずのことだけれど、こうして改めて見るとやっぱり凄いなと思う。とうてい真似が出来ない、そんな気がする。
「世界でもっとも大きなグラデーションね。夜の帳が降りてくるわ」
「なんだか、今が夕方なのか夜なのかわからなくなるな、こういうのって」
「そうね。星があるところからが夜ってのはどう?」
「いやいや。雲が朱いところからが夕方だろ」
ヨルノトバリ
「曖昧ね」
「曖昧だな」
くすくすと、ちょっとだけ笑った後、魔理沙だけが吹いてきた風に、ふと我に返ってしまった。視線を空から外し、俯く。その状態でちらっと一度横を見ると、アリスはまだ宵色をした夢の中で、ただ空を、魔理沙にはもう届かないものを、未だ見ているようだった。
そんなに上ばっか見続けて、首が痛くなっても知らないぜ。
一人置いてかれたような、何だか損した気分になる。
最近、こういうのが増えたなと思う。前よりパチュリーやアリスと一回に過ごす時間が長くなって、常にハイテンションで向かい合うことが無理になってきている。霊夢と一緒にいるように、ただぼうっと一日を過ごしても、それはそれでありなんじゃないかなと感じ始めている。悪くはない。ただ…
「曖昧って言えば」
気がつけばアリスの声が思ったよりも遠く聞こえて、魔理沙はきょろきょろと辺りを見回した。いつの間にか洞窟の外に出ていた七色の人形遣いは、岬のように伸びた陸地の先端に立っていた。もし空を飛べない人間がその様子を見たら、ちょっと心臓に悪いくらいぎりぎりのその場所で、夕陽を浴びたアリス・マーガトロイドは、ただの黒い影として魔理沙の目に映った。魔理沙に背を向け、空を仰いだ彼女はいう。
「空って、どっからが空なのかしらね」
「さあな」
「空がどこにあるのか誰にもわからないのに、誰が見てもそこは空なのね」
「本当だ。ちょっと面白いな」
魔理沙は感心したように頷く。それから、身体をぶるっと小さく震わせた。まだ少し肌寒い程度だが、風が冷たくなってきた。今年の秋は早いなと思った。飛行して風をきればもっと冷たいだろうから、そろそろ帰った方がいい。箒を手に立ち上がる。
そこに。
「魔理沙は?」
「え?」
不意打ち気味に、彼女は振り返った。
夕陽を背に、影絵のように。
「魔理沙はどっからが自分なのかとか、考えたこと、ある?」
問いかける声は妙に色が抜け落ちた、虚ろなほど透明なものだった。
【もう少しだけ、足掻いてみたい】
山のあなたの空遠く
「幸」住むと人のいふ。
噫、われひとゝ尋めゆきて
涙さしぐみ、かへりきぬ。
山のあなたになほ遠く
「幸」住むと人のいふ。
[Side:Marisa]
「やっぱり、ここしばらく来てないのか」
「そうね。前々回の宴会が最後だから、一月くらい会ってないかしら」
「なんのつもりなんだよ。あいつ」
「どうしたの?別に、アリスがどうしようとアリスの勝手でしょ?」
不思議そうに首を傾げた霊夢に、魔理沙はなんと言ってよいかわからない。霊夢の言葉は正しすぎて、だからといって肯定する気にもなれなかった。
「なあ、霊夢。霊夢にはアリスがどう見える?お前の持ち前の勘でわからないか?あいつに、何が起きているのか」
「どうって、その宴会の時には普通に見えたけど」
「違うんだ絶対。うまく言えないけど、あれは私が知ってるアリスじゃない」
「なにそれ?アリスの偽物ってこと?」
それは何でもない一言なんだろうけど、内蔵を撫でられたように気分の悪い言葉だった。
「そういうのとも、違う、と思う」
根拠がなくてもそう感じている。
「はっきりしないわねぇ。気のせいじゃないの?」
霊夢はまるで相手にしなかった。魔理沙は語る言葉を持たないことに苛ついた。全て弾幕で話をつけられたいいのに。やがて絞り出すように、ぽつりと声を漏らした。
「……足らないんだ」
「え?」
「多分、やっぱりそうなんだと思う。ああそうだ。たぶんそれが正解だ。足らないんだ、抜け落ちているんだよ、いろんなもんが」
「私には、今のあんたの方がおかしく見えるけどね」
霊夢の言葉に、魔理沙はふっと渇いた笑いを浮かべた。ここ最近で、随分と疲れてしまった気がする。
「じゃ、霊夢には、私が偽物に見えるか?」
「――――――馬鹿に見えるわ」
「なんだよ、それ」
「答えなんてとっくに出してるくせに、私に訊きに来ないでってこと。ほら、気分転換は済んだでしょ?次の処に行きなさい」
「次の処?」
「そうね。愚痴りたいなら霖之助さんの処。真実を追うなら当事者の」
「アリスは駄目だ。今は会いたくない」
あの虚ろの目が怖い。いつも一瞬で元に戻るけれど、その度に次は戻らなくなるのではと怖くなる。
「なら、あんたの力になってくれそうな人の処ね」
お茶を一口啜って、霊夢はそこで話を終わりにした。魔理沙は口に苦い物を感じる。それでも。
「邪魔したな」
「別に。来たいなら来ればいいわ」
「そうだな」
多分、霊夢は今日の話を適当に忘れて、訊かれるまで思い出さないだろう。何となく、そんな気がした。ぬるい風が吹く。立ち上がると、遠くなだらかな山の峰が連なるのが見えた。魔理沙は自分と霊夢を包むその世界を、ただじっと見つめた。この前来たときの記憶との、間違い探しをするように。そうして、一番最初に気づいたことは目に見えるものではなく、蝉の声の違いだった。あの時は、もっと鳴き声が煩くて種類もあった。それが今は二種類のみ。これから夕方になれば、そこに蜩が鳴き始めるだろう。その蜩の声が消えて、鈴虫たちの音が消えて、金木犀の香りが漂い、それを一掃する風が肌に痛くなり始めた頃、あの山にある木々達は、染まったかと思うといっせいに葉を落とす。そうして丸裸になった木々がつくる稜線は、葉のある頃よりもずっと綺麗な線のように、柔らかさの消えたものになる。そうして、その頃には。
「どうしたの?」
立ち上がったきり遠くを見て動こうとしない魔理沙を、霊夢が訝しげに見上げる。
「ちょっとな、前にアリスが口ずさんだ詩を思い出した」
「ふうん?」
霊夢は首を一回傾げて、もう興味を無くしたように立ち上がった。
「どうするの?もう一杯飲んでいく?」
「いや、今日はもう帰る」
「そう。じゃあね」
やっぱり、深入りしないなと可笑しくなる。温度差が、肌を柔らかく撫でた。
わかってるさ。お前は、博麗の巫女なんだろ?
全てから浮く、茶飲み友達。もしもこれが終わったら。
「それにしても」
そうして、その頃には。葉の落ちきったその頃には。
「こう残暑が厳しいと、雪が恋しくなるわね」
「ああ全くだ」
その頃には、何もかもが白で埋め尽くされるだろう。
【鬼灯】
[Side:Patchouli]
[曖昧な彼女]
Über den Bergen, weit zu wandern,
sagen die Leute, wohnt das Glück.
Ach, und ich ging im Schwarme der andern,
kam mit verweinten Augen zurück.
Über den Bergen, weit weit drüben,
sagen die Leute, wohnt das Glück.
遠く小さく彼女の呟く声が聞こえる。
ドイツ語の詩だ。前に人間の書き記した詩集に――――そんなものをいくつも創りたがるのは人間だけだけど――――彼女が今口にしている一文を見たことがある。割と新しい本だった気がする。詩集なんて大した興味は無かったけれど、綺麗な装丁が施された一品で、思わず手にとって開いてしまった。あの本は、今頃はどこにあるのだろうか。
ぼうっと頭に霞がかかっている。会議や計画立てで、昨夜は随分と遅くまでおきてしまった。現と夢の狭間に移ろう意識が、それでも彼女の存在を捕らえた途端、私に起きろ起きろと告げてくる。我ながら現金な物で、眠さが薄れてその気になってくる。もう起きてるのと変わらないというそんなとき、小悪魔の抑えた声が聞こえた。
「あ、アリスさん。パチュリー様は寝かせておいてあげてください。昨日っていうより今日ですが、いつもより五時間も就寝時間が遅れたんです」
私を気を使っての言葉。けれど、私の意識はもう大分覚めている。というより、ほとんど起きてる状態なのだが、こんなことを言われては起きづらい。動けなくなってしまった。
「あらそうなの?でもこのままでは風邪をひくわよ。なにか上にかける物を持ってきた方がいいわ」
「そうですね。もう秋ですし、ちょっと肩掛けとか持ってきますね」
「ええ」
小悪魔の声が遠ざかる。起きるなら今だろうか。そう思った矢先に、不意に彼女が近づく気配がした。全身が緊張するのを止められない。こんなことでは、起きてることが気づかれてしまうのに。吐息がかかるほど、彼女は近くにいた。同じようなことをした過去の自分が、今さらながら信じられない。あれがほんの一月程度前の自分だとは。
彼女はさらに近づき、ついに私の髪に触れた。起こしたいわけではない。そうっと撫でるように、本当に静かに梳いた。起きていなければ、触れられたことにも気づかないほど丁寧に。
「ごめんなさい」
不意に大気が乱れる。
「ごめんなさい。こんなに大事にするつもりは、無かったのよ?」
何故だろう。彼女の口からは、謝罪の言葉が漏れた。それも、酷く哀しそうだった。
「でももうすぐ。そうしたらきっと…」
ふわりと。彼女が何か言葉を発する度、乱された空気に甘い香りが漂った。外に出ない私は、お茶でしか知らない香り。漢字表記だと茉莉花。ジャスミンの香りだ。それが、緊張でおかしくなりそうな私の心を、そうっと風のように撫でていった。穏やかだかだけれどあたたかくはないそれは、夏の早朝を連想させて。それだけで、馬鹿みたいに落ち着いた。
――――――――そう。終わりは、きっとそんなに遠くない
「そう。終わりは、きっとそんなに遠くない」
何か返した方が良いのだろうか。そう思い始めた時、彼女の声に重なって、誰か別の、酷く疲れたような声を聞いた気がした。
誰だろう。私は今度こそ起きようと動きかけ、
「アリスさん、持ってきました」
そこに小悪魔が戻ってきた。
思考が、乱される。
「そう。じゃあかけてあげて。私はもう帰るから」
「いいんですか?用があって来たのでは?」
「用なら済んだわ。それ、ちゃんと彼女に渡してね」
「それはかまいませんが、どうして突然?」
「魔理沙の頼まれたのよ。それと、これもね」
「鬼灯、ですか」
鬼灯?彼女は鬼灯を届けに来たのだろうか。
「それが、自分でもよくわからないのだけれどね。きっと要りようになると思ったのよ」
「はぁ、鬼灯がですか」
「私の勘なんて全く当てにはならないけどね。季節の挨拶代わりだと思って」
「そうですか。ありがたくいただきます」
楽しそうに会話する小悪魔と人形遣い。やっぱり起きておけば良かった。なんてことは勿論考えていない。私は全く別の事に心を囚われていたのだ。
「それじゃあ、また」
彼女はいつものように去っていった。私は動けない、動かない。
「で。パチュリー様。起きていらっしゃいますね」
「…いつから気づいてたの?」
「おそらく最初からだと思いますけど。それで、どうでした?」
何がよ。
「アリスさんですよ。私、ゆっくり飛んだんですよ?」
いったい何がそんなに嬉しいのやら。
「別に。何も無かったわ。そもそも、起きようとしたらあなたが」
「わかりました。余計なことをしました。反省します。だからどうぞこれを受け取ってください」
はいはいと、あからさまに適当な相づちを打たれる。
「…良い度胸ね、小悪魔」
「さぁ何がなにやら。とりあえず、お顔を冷やしたいなら、濡れタオルを持ってきますが」
「いらないわ」
そうですかと小悪魔。手渡された包みには数種類のハーブ。それぞれ細かく効能と使用方法が書かれていた。
「特徴のないのが特徴みたいな、癖のない字ですね」
「そうね。手習いの見本みたい」
前に見た字とは少し違う気がした。前?私は彼女の字をいつ見たのだろう?
「それにしても、なんでまた鬼灯を持ってきたんでしょうね」
首を傾げる。
「随分とあかいのね。鬼灯って、そんなにあかい物だったかしら」
それは、本当に鬼火のようだった。なんだろう。見ていると、気圧される。
「それにとても大きいですよね」
私と違い、小悪魔は気にしたふうもなく同意した。鬼灯、か。記憶の奥に、ちらつく光がある。前に何かで読んだことがあるはずだ。あるいは聞いたのだろうか。鬼灯は確か…
「それで。お夕飯にしますか、パチュリー様?」
また小悪魔の声がした。今日もはどうもタイミングが悪い。私は気分を変えるように密やかに細く息をついた。
「そのハーブで、何か」
「畏まりました」
にぃーっと悪戯っぽく笑うから、やっぱり小悪魔なんだなと、今さらながら思った。
「それでは、しばしお待ちください」
私は楽しそうな小悪魔を眺めながら考えた。かすかに感じた、彼女以外の魔力について。
そして、昨晩の会話について。
[紅き当主の不在]
「いない?」
「はい。起きてすぐ出かけられました」
「行き先は?」
「霊夢のところです」
「…そう。で、あなたは」
「留守を命じられました」
「行き違い…まって、起きてすぐということは」
「アリスのことなら、私から不在だと伝えましたが」
「ひょっとして、神社の方に?」
「いえ。急ぎの用ならと、私もそう言ったのですが、今日はもう疲れたから帰ると」
「………」
「パチュリー様?」
「何でもないわ。ということは、今日はもうあなたは仕事がないの?」
「そうするのが仕事です」
「そうね。じゃあ職務を全うしなさい、咲夜」
「はい、それでは。あ、パチュリー様」
「なに?」
「お嬢様から伝言です『好きにしていい、暫くは』だそうです」
「…そう。ありがとう」
「はい」
「まったく、何かがおかしいわ」
【人形遣いの不在】
もう夕食も済んでゆったりとしたところに来られた彼女は、機嫌が悪いようだった。
「邪魔するぜ」
「懲りないわね。あなたも」
相変わらず本から顔をあげない魔女だが、これでも随分愛想の良くなった方だ。
「まあそう睨むな。今日は会話を楽しみに来たんだ」
「睨んでないわ」
「睨んでるじゃないか、字を」
魔女は溜め息をついた。魔理沙は笑って、パチュリーの近くにある椅子に腰掛ける。
「今日は私の相談にのってみないか、知識と日陰の魔女殿」
「悩み?そんなものがあなたにあったの?飽くなき知識への渇望を止める方法だったら、私は助けられないわよ」
「アリスについてだ」
パチュリーは、少し真面目な顔になった。それはごく僅かな変化だが。
「前に言ったよな。あいつは、人形をこよなく愛し、それはそれは大事にする奴だって」
「そうだったかしら」
「そうだったんだ」
魔理沙はここにはいない彼女の言葉を思い出す。細い身体で、日差しを飲み込むように立っていた彼女を。夕陽を背に、空を仰いだ彼女を。その時の声を、仕草を、目の色を。影絵のように、振り向いた彼女を。焼き付いてしまった、その全てを。
「確認したいんだ。ここ最近、あいつの人形を見たか?」
「何が言いたいの?」
「それだけじゃない。あいつがいつも持っていた本。あれを見たか?」
「?…見てないけれど」
突然何を言っているんだというように、パチュリーは魔理沙を軽く睨んだ。
「最初に違和感を感じたのは、あいつが全く勝負にのらなくなったことだった。週一ペースで弾幕るって、前に話したことあったよな?なのにもう一月以上も、あいつとはやってない」
「魔理沙?」
「うまく言えるかどうかわからないけど、聞いて欲しい。今のアリスはどこかおかしい。私が知っているアリスじゃないんだ。あのアリスが偽物っていう意味じゃない。あまりにも不自然な点が多いんだ。だけど、そのことに気づける奴は、多分私しかいないと思う。なぁ、私の言っていることおかしいか?」
パチュリーはすぐには答えなかった。視線を落とし、手の中のカップを見つめた。いつもの紅茶ではない。かいだことのある香りに、魔理沙はふっと冷静さを取り戻した。
「それ…」
視線に気づき、柔らかく頷く。
「ええ。さっき彼女が持ってきたの。あなたが頼んだんですって?」
「ん、ああ。でも、あれからけっこう経ってるな。そうか、あいつ、来てたのか」
先に神社に行って良かった。
「その、彼女のことだけど」
「ああ」
「私には、普通に見えた」
「…そう、だろうな。こう言ったらなんだが、パチュリーはまだあいつと知り合ってから日も浅いから、多分気づかないだろうと思ってた。だからこれだけを答えて欲しい」
膝の上で手を握る。
「私は、おかしいこと言ってるか?」
パチュリーは誤魔化すことなくすぐに断じてくれた。
「そうね。あなたがそう言うなら、きっとそうなんでしょう」
意外にも、肯定の意志を見せて。そうして続ける。どこか遠い声で。
「詳しく話を聞かせて。もしかしたら、事態はそうとうやっかいなことになってるかもしれない」
実を言うなら、それはいわば反撃だったのだ。
「いくつか仮定としてあげられることがあるわ。まず第一に、アリス・マーガトロイドは、現在ほとんど力を行使できない可能性がある」
「まず間違いないと思うぜ、それは」
魔理沙が頷くと、パチュリーは紙に書かれたその文に「ほぼ確定」と書き込む。
「でも飛ぶことは出来るのね」
「あ、それも辛いのかもしれません」
小悪魔が意見する。
「どうしてだ?」
「今日はアリスさん、ちゃんと扉を通って来たんですよ。それってなるだけ歩いて移動したかったんだと思います」
「というか、そんな状態でどうしてここまで来ているんだ、あいつは」
「力を戻すために本で調べてるとか?」
「なら、私に一言訊けばいいのよ」
「パチュリー様に頼りたくないのではないでしょうか」
「あいつらしいが、多分違うな」
「どうして?」
「貸しを作るのがいやなら、何か提供すればいい。実際、私ともそんな感じだ」
「なるほどね。ということは、別の用事があるわけね」
ペンを動かし、パチュリーは言葉を付け足していく。
「次に、魔理沙が見たて言う、その」
「ああ、正直あまり見たくないな、あれは。虚ろって言えばいいのか?とにかく、なあんもないってのを具現化したような目だった」
「あとは言動だったわね」
「つい先日だ。どっからが自分なのかとか、どうして肉体は消失するのに、魂だけは魂としてあり続けるのかとか、生まれ変わってしまうなら、『私』はどこにあるのかとか、ああいうのは私向きじゃない問いだってわかってるのに。勿論、こういう話をすることだってあることにはあるさ。でもそういう感じでもなかった。ただ純粋に、私がどう思ってるのかに興味があるっていうか、なんか変だった」
何よりも、その後にアリスは、スイッチが切り替わったように、また元の、いつも通りのアリスに戻った。あのギャップが、薄ら寒い。
「そう。じゃあ今度はこっちね。今から話すことは他言無用。もしも話せば、本気で敵だと思うから」
ああ、こいつの真剣な目って、こんなんなのかと魔理沙は思った。
「わかった」
魔理沙が頷くと、パチュリーは何やらびっしり文字で埋め尽くされた別紙を取り出した。そうして、ここ最近館で起きていること、隠された部屋、そのことと美鈴の関係があるらしいこと、美鈴に起こっていることを、わかっている範囲全て話した。
そうして。
「レミリアに話をしようとして、結局諦めた、か」
「あんなに必死だったのに。あれはおかしいと思うの」
「確かにそれは妙ですね。あ、もうそこまで飛ぶ力が無かったとか?」
「いや、多分それだけじゃない。あいつはどうも最近、霊夢を避けているみたいなんだ」
「会えばいつもと違うことに気づかれてしまうからかしら」
「たぶんだが」
とりあえず、それを有力候補として紙に書く。
おかしいって言えば、とパチュリー。
「レミィの言動もおかしいわ。少なくともあの人形遣いに言われるまでもなく、何か知ってるって感じだけれど」
「この際だから、関わってそうな人物も総浚いといこうぜ」
「そうですね。どうもそれぞれ、無関係とは言えないようですから」
「私が見つけたのと、似た扉の話も気になるしな」
「そのデザインだけど。魔理沙、書き起こせる?」
「アリスが書いた図面がある」
ここ最近の習慣として、あの洞窟の扉や石塔の資料は常に持ち歩いていた。それを机に広げると、パチュリーは息を呑んだ。
「間違いないわ。完全に同じかはわからないけれど。関係があるのは確かね」
「ということは、ますますアリスの言動が気になるな」
パチュリーはほとんど走り書きのように、わかっていることをまとめていく。
『紅美鈴について関わっている(事態把握)者』
・紅美鈴(本人は自覚がない)
・カッサンドラ・グノーシス(美鈴の行動制限)
・アリス・マーガトロイド(美鈴と館の関連情報保持)
・パチュリー・ノーレッジ(館の仕掛け関連解読)
・小悪魔(情報攪乱)
・霧雨魔理沙(隠し部屋の扉に関連情報保持)
・レミリア・スカーレット(事態把握?)
『アリス・マーガトロイドについて関わっている者』
・アリス・マーガトロイド(自覚がある?)
・パチュリー・ノーレッジ(事態把握)
・小悪魔(事態把握)
・霧雨魔理沙(異変発見)
「それから」
「ちょっとまて、レミリアはアリスに関わりが無いのか?」
「無いと思いますけれど。接点は美鈴さんについての話だけですし、それもニアミスで終わってます」
「でも、そもそもこの二つが関わりがあるかもしれないって言ったのはお前だろ、小悪魔」
「そうね。ただし、美鈴に関係があると思われる扉に関係があると思われる洞窟の扉と、アリス・マーガトロイドに起きていることが関係があるかどうかは、また別問題だわ。彼女の異変は、それより前から始まってたんでしょう?」
「あー?なんだかややこしくなってきたな」
がしがしと思わず頭をかいてしまってから、あらっぽかったかなと反省した。その時、魔理沙の頭に甦る言葉があった。
――――――――あのね魔理沙。あなた女の子でしょ。弾幕もいいけど、生傷ばっかつくってると、嫁入りの先がなくなるわよ
――――――――いい?身を美しくと書いて、躾と読む、ってこれは関係ないわね
「魔理沙?」
「魔理沙さん?」
二人の呼び声に、すぐに我に返る。それでも、魂の半分を、魔理沙は誰かに掴まれてしまった気がした。大したことは無かったけれど、二週間ほど左腕の肘あたりから消えてくれなかった傷。もう見えなくなったそれに、そうっと右手で触れる。治療を終えた後、確か彼女もそんな風に触れていたから。
――――――――早く良くなりますようにって。はい、魔理沙もやる
――――――――なによその顔。これは由緒正しき治療法なのよ。私もよくやられたもの、間違いないわ
そうして笑った。懐かしそうに。それがあんまりにも幸福そうだったから、魔理沙は真っ直ぐ見ていられなかった。ただ、愛されてるんだなと、ほんの少しだけ羨ましい気がした。すぐに忘れるような、そんな淡い羨望だったけれど。
「あいつな、お母さんっ子なんだよ」
「は?」
ぽつりと漏らす魔理沙を、訝しげに見る。どうしてこんなことを言い出したのか、自分でもわからないけれど。
「ちょっと思い出した。そうとう可愛がられてきたんだなって最初の頃はよく思ったな。温室育ちっていうかさ。だから妖怪っぽくないとか言われるんだって。でも時々…」
もういろいろわけがわからん、とか。助言を仰ぎに来たのに、もっと事態はややこしくなってるし、とか。そもそもなんでこんな面倒なことに一生懸命なのか、とか。
いろんな事が、ぐるぐる音を立てて廻ってたけど。廻ってるけど。
「お前たちから見るとさ、私の、人間の一生って随分と儚いんだろうな。でも、私は私で同じように毎日を生きてるんだぜ?こう見えてもさ」
ああ、酒が入ってるわけでもない無いのに、一体なにを言ってんだか。
「こう見えても、結構楽しいんだよ。なのにあいつは」
ようやっと、欠片を一つ手に入れた気がした。あの、空を仰ぎ続けていた彼女を、最初に見かけた夕暮れを。その前からも、本当は気づいてたのに。ずっとどこかおかしいことに、気づいていたのに。
「魔理沙?」
それでも、これは魔理沙だけの欠片だったから、やっぱり魔理沙はいつものように。
「あーやっぱなんでもない。ちょっとあいつに言ってやりたいことが出来ただけだ」
小悪魔は何か言おうと口を開きかけたが、主人が何も言わないからそれを飲み込んだ。パチュリーは魔理沙をじっと見て、いつかアリスのことを規則正しく生きている変な奴と呼んだことを思い出した。その時の、酷く薄く引き延ばされた苛つきを。
「魔理沙」
「何だ?」
これは予感だけど、と魔女は断る。
「多分ね、近いうちに私たち一悶着あるわよ」
その言葉は、わずか数日で実現した。
【龍の卵】
――――――――君の心は水面のようだね。そんなにも僕らを映して、君は何色のつもりなんだい?
「そのガラス玉が気に入ったのかい」
やわらかな声に合わせるかのように、アリスは緩慢な動きで振り返る。初夏の昼下がりは蒸し暑く、それでも久しぶりの晴れ間ということもあって、気が滅入るというほどではない。
「ああ。やっぱりこれはガラスなのね」
「宝石かと思ったかい?」
「龍の卵かと思ったわ」
「龍?」
それは予想しなかったなというように。適当にハタキをかけながら、店主はアリスの口からころんと飛び出た単語を、面白がるように舌の上で転がした。
「気にしないで、ただのイメージだから」
ちょっと子ども過ぎた言葉だったろうか。手を振り、先ほどの発言を取り消す。
「ガラスなんだろうなってことはなんとなく。でも、それだけじゃないわよね?」
「うん。でもよくはわからないな。それは昔の技術だから」
「ふうん。じゃあ、もう創れる人はいない代物なのね」
感心したように頷く。何となく気づいていたけど、どうもこの少女は綺麗なものに目がないみたいだ。あんまりに熱心に見つめているから、とっておきのことを教えてあげることにした。
「それね、太陽の下で見ると凄いんだ」
ちょいちょいと、日の差し込むところに立って手招きをしてやる。こういうことには素直な質なのか、不思議そうにやってくる。よく見れば細部まで凝ったことがわかる靴は、この界隈でも一二を争うほど手先が器用と誉れ高い彼女のお手製なのだろうか。彼女が歩いた、商品が置かれた棚から入り口付近のここまで、足音がほとんどしなかった。
「ほら」
「あ…」
彼女が最初感じた通り、それは卵のような形状をしていた。大きさは鶏のもののおよそ三十倍ほどで、片手で持てないこともないけど、安心して持ちたいなら両手で、という程度。そうとう磨きこんであるのか、その表面はつるつると触り心地がいい。濃いグレーとも黒とも似つかない地の色の中に、深いのに鮮烈な光がある。光は色だった。それも、初夏の日差しを受ける度に、その色は跡切れ跡切れに変化して見せる。
「…七色」
「うん。君の異名だったかな」
一瞬の輝きが、ぞくりとするほど美しい。
水のような涼しさと、火のような力強さが同居している。ヒンヤリとした触感なのに何故だろう。いまにも、脈打ちそうな鼓動を感じる。
「ラブラドールあるいはラブラドライトと呼ばれる石を模して創られたものなんだ」
店主の言葉が聞こえているのかいないのか、彼女はその美しさに心を奪われているようだった。
それは、きっと始まりの初夏。一人だけ、馬鹿に早くスタートを切ってしまった初夏だった。
それにしても気になるなぁ、オチ。
いや、特定のキャラとキャラの絡みとかじゃなくてね?
なんつーのかな、雰囲気っつーのかな……
とりあえずGJ
万全を期して続きを待ちます。
女郎蜘蛛の理。
そんな気がしてならないあなたの作品。
ふたたび誤字報告。
内臓が内蔵になってました。