――また、世界が蹂躙される。
いつだってそうだ。
毎日この時間になると、窓の外から西日が音も立てずに部屋へと流れ込んでくる。
テーブルの上に置かれたガラスの花瓶は、斜陽に輝きながら揺らめく光の波を創り出し、部屋の片隅で忘れ去られた指や足の形をした命の模造品は、為す術もなく夕暮れの炎に焼かれていた。
私は、ソファに腰を下ろして何かを見据えている彼女の手を、壊れてしまわないよう静かに掴む。
白くて冷たい手には深い罅が入り、ブロンドの巻き髪や透き通る碧眼の美しさも、時間という魔物に全てを奪われて今は見る影もない。
レースとフリルをあしらった彼女のドレスは黒く汚れて、脱げた靴の片方は行方すら分からなくなっていた。
――何を見ているのだろう。
ふとそう思い、彼女の視線を辿ってみると、花瓶の中で一輪の紅い薔薇が項垂れていた。
生まれる事さえ許されなかった命を哀れんで、失意の底で涙に溺れる母親のように。
茜色に染まる彼女を弔うかのように。
花瓶の中で一輪の紅い薔薇が項垂れていた。
光と水が織り成す夕暮れの幻想で、紅と白が対峙する。
感情を見せる事のない紅が、感情を持たない白に生きる事の意味を問う。
あなたは、誰の為に存在しているのか?
あなたは、何の為に存在しているのか?
私は万能の神でもなければ、人々を導くような者でもない。
身勝手なエゴイズムに従って行動しただけだ。
例え偽善者と呼ばれても構わない。ただ、私はゴミのように捨てられていた彼女を見過ごせなかった。
命を求めて泥濘の中を徘徊し、光に手を翳して世界の終焉を迎えるのなら。
生きる喜びも知らず屍を晒し、いつか訪れる目覚めの時を待ち続けるなら。
――私が、彼女の母親になればいいと思った。
§
「……なぁ、蓬莱と上海はどうした? 今日は姿を見てないんだが」
魔理沙がテーブルに肘をついて紅茶を飲みながら、手近にある本のページを退屈そうに捲っていた。
いつも彼女は奥の部屋から抱えきれないほど沢山の本を持ち出すと、自分の目の前に高く積み上げては流し読みを始める。
最後まで読了する気もないらしく、その姿には何の覇気も感じられない。
「作業中は二人とも眠らせてるのよ。あの子達、遊んでくれってうるさいから」
「いい暇潰しになると思ったんだがなぁ」
さすがに本を読む事に飽きてきたのだろうか。魔理沙は自分の指に髪を巻きつけて、小さな溜息をついた。
――当たり前の、何でもない光景。
夕方頃になると決まって魔理沙は家にやってくる。
誰に遠慮する訳でもなく、まるで自分の家であるかのように勝手に書庫から本を持ち出して読み漁ったり、お気に入りの紅茶を断りもなく持って帰ったりと、身勝手な事この上ない。
彼女が家に来るようになって間もない頃、私はその図々しさによく腹を立てていた。
その身で礼儀を知ってもらう為に、家の外で魔理沙に弾幕戦を仕掛けた事もある。それでも彼女の態度は一向に変わる事がなく、今は私自身が諦めた事もあって完全に野放しになっている。
だけど私は、この雰囲気が好きだ。
少なくとも賑やかなのは嫌いではない。それに、彼女が遊びに来るようになってからは、不思議と笑う事が多くなったような気がするからだ。
「暇だったら、そこの右足を取ってくれない? えぇと、それじゃなくて……そう、そこの小さいやつ」
補修の為に解体していた人形の右足を受け取ると、球体関節の空いた穴にゴムを通す。
今朝から続けている復元作業のおかげで、散歩の途中で偶然見つけたこの人形も昨日と比べれば、随分と見映えが良くなっていた。
にも関わらず、魔理沙はこの人形を見ると露骨に嫌な表情をする。何もそんな汚い物を見るような目で見なくてもいいのに。
「そんな薄気味悪い人形を拾ってくるとは、お前もいい趣味だな」
「かわいそうな事言わないの。あんたみたいなデリカシーのないのは、嫌われるわよ」
「こんな繊細な少女を捕まえて、いったい誰に嫌われるのか知りたいもんだぜ」
静かな部屋に、魔理沙の紅茶を啜る音だけが響いた。
「……あまり人の趣味に口を出すつもりはないが、そいつから溢れてるぜ。色々とな」
魔理沙が言いたかったのは、この人形が持つ残留思念の事だろうか。
私の知る限り、ほとんどの人形は持ち主の想いを体に宿している。言い換えれば、持ち主の記憶を残す為の媒体だとも言えなくはない。
子供と遊んでいた人形は、人形の世界と同化したいという子供の願いを持っているし、大人の横で微笑みを湛えていた人形は、架空の対人関係を構築したいという欲望を孕んでいる。
いずれにしても、人間は心に空く隙間を埋めようと人の形をした代用品に、持てる限りの愛を注ぎ込む。
人形もまた、それを受けて持ち主の愛情を自我というエネルギーに変換する事で、それに答えるのだ。
ある者は髪を長く伸ばし、またある者は表情を変えて、持ち主が望む姿へ変遷する。
しかし、人形へ注がれた物が呪詛の言葉であった場合――結果は想像するまでもない。
単純な話だ。人形は慈愛で喜びの歌を歌い、憎悪で呪いの言葉をを吐く。
それを、誰が罪だと言い切れるだろう。
愛情を知らないのなら、抱きしめてあげればいい。
優しさを知らなければ、頭を撫でて褒めてあげればいい。
ただ、それだけの事なのに――
「いいのよ、別に珍しい事でも何でもないわ」
手にしていた人形の肌を撫でると触れた場所が熱を帯びて、やがて本来の姿を取り戻す。
朝からずっと休んでいない為か、既に全身には疲労感が漂っていた。復元作業に魔力を使ってしまった代償が、今頃になって体中に襲い掛かってくる。
だけどあと少し、ほんの少しだけ頑張れば、私の努力は報われる。
「とりあえず……見てくれだけは、何とかなったわね」
ようやく作業の目処がついたので、私は作業用の眼鏡をテーブルに置くと、ティーポットから二杯目の紅茶を注いだ。
横を見ると、相変わらず魔理沙が暇そうに本を眺めている。
今更こんなことを思うのは自分勝手かもしれないが、作業に没頭するあまり彼女をぞんざいに扱ってしまった後ろめたさもあって、声を掛けるのに躊躇してしまう。魔理沙の気を何とか引こうと思った私は、立ち上がって戸棚に隠しておいた菓子入れを差し出した。
「食べる? 昨日作った奴だけど」
「タダで貰えるものは何でも貰うぜ。苦労と貧乏以外ならな」
そう言うと魔理沙は、菓子入れからビスケットを鷲掴みにして自分のエプロンの上に広げると、満足そうに口の中へと放り込んだ。
「……少しは遠慮しなさいよ」
そうは言ってみたものの、内心は少し嬉しかった。
人形達と上手く付き合えたとしても、人妖も同じとは限らない。複雑な感情や背後にある思惑は、必ずしも言動と一致しない事を私は知っている。
しかし、魔理沙は嘘もつかなければ、隠し事もしない。私にとって彼女こそが、心を許せる数少ない人間なのだ。
特に何をする訳でもない。こうして魔理沙と共に平穏な日々を過ごす事が、私にとっての幸せだった。
「ところで今、唐突に思い出したんだが」
読んでいた本のページを捲りながら、魔理沙が呟いた。
「本当に唐突ね」
「いや、大した事じゃないんだが」
本を読むフリをしながら、私の様子を伺っている。こんな時は大抵、ロクな事じゃない。
「明日の午後、紅魔館に所用があってな。遠回しに言えば本を借りる」
「全然遠くないじゃない」
「……とりあえず、人の話を最後まで聞けよ」
「片棒を担げと言いたい訳ね?」
「話が早いな」
本当は魔理沙と一緒に行きたかった。しかし、私達が行動を共にすれば、あの魔女が必ず現れるだろう。
あの全てを知ったような顔が気に入らない。
人を見下したような口調が憎たらしい。
おまけに私と魔理沙の会話に割り込んでは、いつも気持ちの悪い薄笑いを浮かべている。
そうだ、あいつが私から全てを奪ってしまう。
私の大切な時間も。
私の大切な思い出も。
――私の大切な魔理沙も、何もかも容赦なく徹底的に!!
また、心の底で誰かが叫んでいる。私の心が乱暴にこじ開けられて、私が私でなくなってしまう。
どうして私をそんな奴に会わせるの?
私と一緒にいるだけじゃ、満足できないの?
他には何も必要ないでしょう?
魔理沙、あなたは何も、本当に何も分かっていない。
やはり、自分の気持ちを理解してくれる者など誰もいない。そう思うと腹立たしく思えて、全てが否定的になってしまう。
魔理沙は私の物だ。他の奴には絶対に渡さない。近付く奴は全て排除してやろうとさえ思っている。
それなのに、彼女は私の事などお構いなしに自分勝手な言葉を続けている。
「あそこも最近は警備が厳しくてな。戦力は多い方が正面突破が――」
「悪いけど、私には私の都合があるから」
魔理沙の誘いを突き放すように呟くと、テーブルの上で肢体を折り曲げて横たわる人形を手に取った。
どことなく人形の表情が寂しそうに見えるのは何故だろう。
本当は一緒に行きたいのに。もっと二人で一緒に笑っていたいのに。
私の心が、私の口を使って、私に裏切りの言葉を紡がせる。
「……そうか。まぁ、気が向いたら声でも掛けてくれ」
魔理沙は私の言葉を聞いても怒らなかった。
少しだけ寂しそうに笑う彼女の姿を見て、ただ俯いて時の流れに身を任せる事しかできなかった。
それは僅かな時間だったのかもしれない。
しばらくの沈黙が続き、やがて古時計の重くて低い音が夜の訪れを告げる。窓の外を見ると、いつの間にか日が落ちて家の周りは薄暗くなっていた。
「もうこんな時間か、邪魔したな」
魔理沙が帽子を手にして、椅子から立ち上がる。
「………………」
何も言葉が出ない。彼女が私から離れてしまう事を考えると、胸を針で貫かれたような痛みが走る。
こんな苦しみを、いつまで受け続けなければいけないのだろう。
「明日は……どうするの?」
聞きたくない返事に怯えながら、私は恐る恐る口を開く。
「戦利品を並べて、ここで祝杯ってのはどうだ? もちろん、料理は誰かが用意する訳だが」
魔理沙の笑顔と言葉に全てが救われた気がした。まだ私は必要とされている。ひとりじゃない。
「……気が向いたら用意してあげるわ」
素直になれず、つい下を向いて無愛想に返事をする。それでも魔理沙は何も言わず、私の髪を優しく撫でてくれた。
彼女の柔らかい手が触れると、自分の殻が剥がれて全てを晒しているような感覚に襲われる。
どうして気付かなかったのだろう。
まだ私が小さかった頃、当然のようにあったはずの温もりは、今はこんなにも近くて――遠い所にあった。
やがて魔理沙の手が離れると、彼女はそのまま玄関へと向かい、小さく手を振って私の前から姿を消した。
後に残されたのは、彼女の残り香と憂鬱な孤独の時間。それ以外には何ひとつない。
私は、ティーカップを片付ける事もせずに、椅子に腰を下ろして祈るように目を閉じた。
純粋な黒。全てを排他し、全てを許容する黒。
目の前に広がる暗闇の中で、誰かが私に生きる事の意味を問う。
あなたは、誰の為に存在しているのか?
あなたは、何の為に存在しているのか?
何も分かっていないのは私だった。
前から薄々は感づいていた。魔理沙は私に外の世界を見せようとして、わざわざ私の家に通っている。
閉塞した自分の世界で生きる私に、他人と触れ合う機会を作ろうとしているのだ。
それなのに、私は彼女の行為を踏みにじり、自分にとって都合のいい事ばかりを受け入れていなかったか。
いつの間にか、抑える事のできない感情が堰を切って溢れ出していた。
それは次々と指の間をすり抜けて、テーブルの上に小さな水たまりを幾つも作り出す。
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい――」
呪文のように何度もその言葉を繰り返しながら、声にならない叫びを上げた。
そうすれば、全てが許されるような気がした。
いや、そうする事しかできなかったと言うべきなのか。
拒絶される事が怖かった。
自分の心を伝える術を知らない私は、人形という便利な代用品に感情を注ぎ込み、自分の心の中に誰にも犯される事のない幻想を創造したかった。
蓬莱も、上海も、私が創った人形達は全て私の世界で生きている。疎外する者など、誰ひとりいない。
私は、何が欲しかった?
私は、何を望んでいた?
答えが出せないでいる私の心に、闇に紛れて私が囁く。彼女の鋭く突き刺さるような言葉なんて、聞きたくもないのに。
――欲しかったのは、都合のいい世界でしょう? 人形は私を裏切らない。それが偽りの命でもね。
嘘だ、人形なんて欲しくない。欲しいのは本当の私。ひとりじゃない私。
――本当の私? 人形相手に満たされて幸せな毎日を送っているのは、偽物の私?
違う、幸せなんかじゃない。誰も私を見てくれない、誰も私を愛してくれない!!
――与える事もせずに、待っているだけで愛が享受できるとでも? 虫のいい話だわ。
「じゃあ、どうすればいいのよ!!」
矛盾と葛藤に満ちた感情が爆発して、テーブルの上に乗っていた物を薙ぎ払う。
ティーカップが派手な音を立てて床に落ちて砕け散り、積み上げていた本が部屋のあちこちへ飛んでいく。
「どいつもこいつも、私の事を馬鹿にしやがって!! 何も知らないクセに!!」
脈が早い。息が苦しい。涙が止まらない。何も考えられない。
涙も感情も制御できずに、ありったけの力で椅子を蹴り飛ばし、肩で息をしながらその場に立ち尽くす。
銀の燭台は床に倒れて、部屋を灯していた蝋燭の炎も消えてしまった。
もはや混沌と化した部屋の中は、無惨なその姿を青白い月光に晒しながら静謐を保っている。
ふと背中に視線を感じて振り向くと、あの人形が私を見つめていた。
「どうして……何も言ってくれないのよ……」
力いっぱいに人形を抱きしめると、冷たく固い肌の感触が伝わってきた。
「ずっといてくれるよね? どこにも行かないよね?」
体の力が抜けて、ソファの上に崩れ落ちた。今は傍にいてくれる人形だけが、私を救ってくれる。
「もう、ひとりは嫌なの……誰でもいいから一緒にいて欲しいの…………」
誰もいない部屋で、声を殺して私は泣き続けた。
生まれたばかりの赤ん坊のように、ただひとりで泣き続けた。
そのまま、意識が遠くなる
深く、深く、どこまでも、冷たい人形と夜の闇に沈んで――
やがて、世界は終わりを告げた。
§
気が付くと、深い霧が立ち込める平原の上に立っていた。
頭上の空は灰色に澱み、自分の足下を見ると輪郭が揺らいでいて、どうもハッキリとしない。
霞んで曖昧になった地平線は、どこか異様な雰囲気すら漂わせていた。
何とか出口を探そうと地平線に向かって、一歩、また一歩と進んでいく。
それでも景色は変わる事がなく、どこまでも私は音のない世界を歩き続ける。
それから、どれほどの時間が過ぎたのだろう。
耳を澄ますと、楽しそうな笑い声がどこかから聞こえてきた。
無邪気な子供の笑い声は、近くとも遠くとも分からない距離から、常に私の耳へと流れ込んでくる。
念の為に周囲を見渡してみたが、どこにも人の気配は感じる事ができない。
「誰?」
声の主に向かって尋ねてみたが、返事はない。
「あなたは、誰?」
もういちど尋ねてみると、笑い声が止む。
目の前に、少女がひとり立っていた。
彼女は紅と黒のドレスに身を纏い、黄金に染まった髪を風になびかせて、その碧い瞳で私を見つめている。
何故だろう。初めて会ったはずなのに、私は彼女を知っている。
「――辛かったのね」
そう言うと私の所までやってきて、いきなり手を繋いだ。
死人のように冷ややかな手は、生きている事すら感じさせない。少なくとも人間ではない事は確かだった。
「ひとりは、いや?」
笑顔で私に問い掛けた。どうやら敵意はなさそうだが、油断はできない。いつでも弾幕戦が行えるよう、冷静に手を振りほどいて対処する。
「やけに慣れ慣れしいわね。見た所、知り合いでもなさそうだけど?」
「私は、あなたが必要としている者、違うかしら?」
この少女は何故、私の一番触れられたくない所を知っているのだろうか。
「私はね、あなたが必要なの。あなたも私を必要としている。お互い、これ以上ない条件だとは思わない?」
「言ってる意味が分からないわ」
「嘘なんかついても駄目よ。私には、すぐ分かるもの」
そう言って、また手を繋いでくる。
「触らないでよ!!」
今度は、力いっぱいに彼女の手を振りほどいた。
「そうやって逃げてるばかりじゃ、何も解決しないわよ? でも、一緒にいれば辛い事や悲しい事だって全部乗り越えられるわ、きっとね」
笑顔で綺麗事を並べてはいるが、今ひとつ本心が掴めない。何の為に、私の前に現れたのだろうか。
「望みは、何なの?」
私の質問に、彼女の口が妖しく歪む。
「あなたが持っている命――それさえあれば、他には何もいらない」
一瞬にして周囲の空気が張り詰める。咄嗟に距離を置いて戦闘態勢を取ったが、彼女は動く気配がない。
「あぁ、勘違いしないでね。あなたを殺すって意味じゃなくて、ただ同居させて欲しいって事だから。それに、あなたとは仲良くしたいもの」
笑顔でそう言うと、今度はいきなり抱きついてきた。
この少女が、いったいどこまで本当の事を言っているのか、私には想像できなかった。
しかし、こうして慕ってくるのであれば、あるいは信用に足る相手なのかもしれない。
「あんた、私の命を手に入れてどうするつもり?」
「別に。何もしないわよ?」
彼女は意味不明な事を平然と言ってのける。何もしないのに、命が必要なのか。
私の頭の中は、益々混乱するばかりだった。
「だけど、私と一緒になってくれるなら、あなたの為にできる事は何だってしてあげる」
そう言うと彼女は、冷たい手で私の頬を優しく撫でた。
「あなたが寂しい時には、歌を歌ってあげる。悲しい時には慰めてあげる。嬉しい時には、一緒に笑ってあげてもいいわ」
甘い言葉が私を誘惑する。それを信じていい物かどうか。揺らいでいる心のどこかで、違和感を感じているのもまた事実だ。
それが何かは、自分でもハッキリと分からない。
しかし、彼女と一緒になる事で大切な何かを永遠に失ってしまうような気がして、素直に喜ぶ事ができないのだ。
「どうする?」
少女が私に問う。こんな時に魔理沙がいれば、何と言うだろうか。誘惑に負けてしまう私を叱責してくれるだろうか。
魔理沙に会いたい。今すぐ彼女の元へと走り去ってしまいたい。
「私は……」
少女は笑顔のままで、私の返事を待っている。
「私は、あなたを――」
その時、どこか遠くで魔理沙の声が聞こえた。
「魔理沙……どこにいるの? 魔理沙……お願いだから、返事してよ!!」
あの少女の姿は、もうどこにも見えなかった。平原の上に立っているのは、私ひとりだけだ。
必死になって魔理沙の姿を探す。間違う訳がない、確かに私を呼んでいたのだ。
「どこにいるの!! お願いだから、ここから出して!! 助けて、魔理沙魔理沙魔理沙あぁぁぁーー!!」
§
「おい……どうした!! しっかりしろって、おい!!」
視界に写ったのは見慣れた自分の部屋と、私の肩を揺らして心配そうに覗き込む魔理沙の顔だった。
彼女の声で我に返り、慌てて周囲を見渡してみると部屋の中はまだ明るく、窓から差し込んだ夕暮れの光が世界を茜色に染めていた。
「な……何でもないわ……少し、疲れているだけだから」
「そうか……ならいいが、あまり無理はするなよ」
そう言うと、魔理沙は安堵の息を大きく吐いて椅子に腰を下ろした。
ちょうどその時、開け放たれた窓から風が吹いて、彼女の読んでいた本のページをパラパラと捲りだす。
あれはいったい、何だったのだろうか。
夢にしては生々しすぎる。あの少女の冷たい肌の感触は、今だってハッキリと思い出せるし、彼女の服装も覚えて――――
そこまで考えて私は、自分の眼前に鎮座している人の形を模した物へと視線を向けた。
補修の為に幾つかの部品に解体していた人形は、レースとフリルで装飾された紅と黒を基調としたドレスを身に纏い、黄金の髪と紅いリボンを風になびかせて、その碧い瞳で私を見つめている。
――白昼夢、だったのだろうか。
あまりにも鮮明に記憶している出来事に、現実と虚構が交錯する。
もしこれが、人形が持つ残留思念ならば私は、いとも簡単に彼女の意識に取り込まれてしまった事になる。
迂闊だった。人形に心を開く前には、どんな想いを持っているかを事前に調べるべきだったのに。
人形には自我が存在するが、命は存在しない。自分で考える事はできても、動く事ができないのだ。
蓬莱や上海ですら、私の術式で偽りの命を与えているに過ぎない。
しかし命を手に入れれば、有限の時間と引き替えに、自我を行動に移す事が可能になる。もちろん誰の助けも借りずに、だ。
間違いない。この人形が執着しているのは――私の命だ。
このまま補修作業を続けるべきかを悩んでいると、横から魔理沙が声を掛けてきた。
「……なぁ、蓬莱と上海はどうした? 今日は姿を見てないんだが」
テーブルに肘をついて退屈そうに紅茶を飲む姿を、私は何度見てきたのだろうか。
「作業中は二人とも眠らせてるのよ。あの子達、遊んでくれってうるさいから」
「いい暇潰しになると思ったんだがなぁ」
自分の髪を指に巻きつけて溜息をつく姿を、私は何度見てきたのだろうか。
重ねられた鏡の内側のように、同じ光景がまた繰り返される。
きっと私自身が、そこに写された自分を否定し続ける限り、この無限回廊は終わる事がないのだろう。
それならば、命が腐ってしまう前に、ここから出よう。
例え私が脆弱な存在であったとしても、それは間違いなく私であって人形ではない。
――前に、進まなければ。
微睡む夕暮れの中で私は、言えなかった言葉を魔理沙に伝えた。
「少し……聞いて欲しいんだけど、いい?」
「ん?」
「さっき……変な夢を見たの」
魔理沙は何も言わずに、私の話に耳を傾けてくれている。
「上手く言えないんだけど……この人形が私に、ずっと一緒にいてあげるって手を繋いでくれたの。あなたは私を必要としているし、私はあなたが必要だ。だから一緒にいれば、二人とも幸せになれる……って。でも、嬉しくなかった。何となく、魔理沙と会えなくなるような気がしたから…………変な夢よね、本当に」
好きだと言うには、まだ抵抗があった。
それでも、時間を掛けて少しずつ言えるように自分を変えて行けばいい。その結果が例え辛い物であっても構わない。
魔理沙が笑ってくれるのなら。彼女の気持ちに答える事ができるのなら。
私の話を聞き終えると、魔理沙はティーカップを手にして紅茶を啜り、小さく溜息をついた。
「おまえは、どうしてそれが夢だと言い切れるんだ?」
「…………え?」
「私達が会話している今が、現実だという証拠がどこにある? 目で見た物、耳で聞いた物、肌で感じた事は本当に現実なのか? お前が見たという世界こそが現実で、今が夢だとは思わなかったか?」
そう言うと魔理沙は、ゆっくりと紅茶を飲み干して、ソーサーの上に置いた。
「質問を変えよう」
初めて見た彼女の瞳は、とても綺麗で――純粋だった。
――おまえは、誰だ?
その言葉と共に、世界は崩れ去った。
そうだ、あの日から私は、彼女が寂しくないように傍でずっと見守っていた。
彼女が大好きだった霧雨魔理沙という少女への想いを胸に抱いて、長い時間、とても長い時間、私はここで彼女の記憶と共に夢を見続けている。
それも、もう終わりなのかもしれない。
私の肌は人間のそれと何ら変わりがない。ほんの少しなら、自分で動かす事だってできる。
長い時間を経て、彼女の心に巣くっていた毒を貰う事で私は、自我を失う事もなく眠り続ける事ができた。
それでも完全に目が覚める為には、まだ少し時間が掛かりそうだ。
いつの日か自分で歩けるようになったら、その時は彼女と一緒に、私達が出会った鈴蘭畑へ行こう。
きっと、喜んでくれるに違いない。
私の名前は――メディスン・メランコリー。
もうすぐ、その時は訪れる。
――だから今は、もう少しだけ眠り続けよう。
おやすみなさい
お母さん
忘れ去られた森の果て これは昔の夢語り
止まる時間の片隅で 黒いドレスも色褪せて
いつか目覚めるその日まで 青い瞳の人形は
恋の魔法で夢を見る
朽ちた家屋の慣れの果て 今は動かぬ古時計
割れた花瓶の幻想で 枯れた薔薇は匂わねど
いつか目覚めるその日まで 青い瞳の人形は
母の記憶と夢を見る
――あなたも、人形にしてあげましょうか?
《END》
内容面では、文体・描かれている光景ともにとても綺麗で印象的だと思います。設定も斬新。ただ何故かキャラが平板な感じを若干受けました。よく見るとキャラの感情が切り替わる瞬間(魔理沙の口から「ヴワル図書館」という言葉が出た瞬間、魔理沙がアリスに露骨に言葉を遮られた瞬間、アリスが既視感を覚えた瞬間、etc...)が描写されていないので、そこら辺が鍵になってるのではないかなという気がします。
…なんかマジっぽい話だったので名無しの分際でマジなレスを書いてしまいましたが、後書きを見ると場違いな気が。
様々な環境で読まれる方の事を考えれば、確かにその通りかもしれません。
強制改行は半ば癖みたいになっていたので、御指摘を受けるまで全く意識していませんでした。orz
>平板な感じ~描写
自分でも改めて読み直しましたが……唐突感が全開になってますね。後ほど、加筆・訂正した物に更新しようと思います。
>後書きを見ると
後書きは、私が顔を出せる限られた場所なので、割と何も考えずに素で書いてたりします。それでもやはり、自分の目で見えない部分を教えて頂けるのはありがたい事で、今後は語彙や表現も含めて、その辺を意識しながら書いてみようと思いますです。本当にありがとうございました。
文章力向上の意欲があるのは大いに結構なことです。作品から感じられる、可能性と意欲をもってこの点数とさせていただきます。頑張ってください。
人形、夢、少女。そんなキーワードが織り成す甘美な甘さ。
そんな世界に耽ることが出来ました。