生温い空気だな、と霧雨魔理沙は声にならぬ声で小さく呻いた。
生温い空気とは比喩的な意味でのそれではなく、単純に気温の話である。こんな中途半端な暑さならば、いっそ今年の幻想郷最高気温を塗り変える程に暑くなればいいのだ。森羅万象問わずはっきりした事象を好む魔理沙にとっては、暑さ以上にこの中途半端さが気に食わなかった。
高速で飛行すれば、気温はどうあれ体感的にこの生温さを感じないで済む。今は低速で飛行せねばならぬので我慢するしかない。
魔理沙は大口を開け、生温い空気を肺一杯に吸い込んだ。そして、
「願い事がある奴はいないかー? 願い事がある奴は、博麗神社に植えておくこの笹に願いを書いた短冊を吊るしてくれ。もしかしたら、御利益があるかもしれないぜ」
肺の中の空気を夕陽にまで飛ばすかの如く、大きな声で宣伝をした。
手に持った小振りの笹を、夕陽からも見える位ぶんぶんと高く振り上げてやった。
七夕からは、一月と十日ばかり過ぎた夕刻であった。
「笹を置く位、あんたの家の庭でもいいじゃないの」
博麗神社の巫女こと、毎度お馴染み博麗霊夢が縁側でお茶をすすりながら問うてきた。
魔理沙は自分が神社の庭先に植えた笹を誇らしく見ながら、霊夢の隣に腰掛ける。
「この神社の方が、色々な奴が出入りしやすいだろう。それに、願掛けなら神社がうってつけじゃないか。願い事が叶いそうだろ、気分的に」
霊夢がお茶を置き、縁側に下ろしていた腰を持ち上げ、魔理沙の笹へと歩み寄って行く。
「神社なら願い事が叶うっていうのなら、私の毎日の願いは叶っていてもいいのに」
ため息をつきながら、霊夢は一枚の短冊を笹に吊るした。魔理沙がその短冊に近づいて覗いてみると、
『魔理沙が博麗神社にお賽銭を弾んでくれますように ―博麗 霊夢』
と書かれていた。
「それなら何もおかしくはないぜ。私はこの神社に来る度に
『博霊神社にお賽銭を奉納しませんように ―霧雨 魔理沙』
と願っているんだ。流石に神社とて相反する二つの願いを両立させるのは無理だからな。相殺されて何も起こっていないって訳だ」
先程よりも大きなため息が、霊夢の方から聞こえてきた。
「そもそも、どうしてこんな事をしようと思ったのかしら? 七夕から一月以上経っているのにこんなことをする意味が見出せないわ。それに、その笹はどうしたのよ」
霊夢の疑問はもっともであった。
「この笹は、あの焼け野原からほんの少し離れた地点に倒れていたんだ」
霊夢は再び縁側に腰を下ろし、お茶を手に取った。その表情は少しだけ、真剣みを帯びていた。一月前のあの七夕のことを思い返しているのだろう。
魔理沙とて、あの日のことは鮮明に覚えている。
まず残念だったのは、生憎ながらの曇天で天の川を見られなかったこと。
次に、笹が密集している地点にて小さな火事が起こったこと。魔理沙と霊夢を含む、神社で杯を交わしていた面々も消火に向かったので、風流を感じている暇など持てなかった。
一つ良い点を挙げるなら、チルノも使いようによっては使える存在なのだと認識できたこと位である。チルノと鋏は使いようとはよくぞ言ったものだ。
「唯一あの火事から生き残った笹なんだ。あんな所でひっそりと朽ちていくのは可哀相だろ。だから、賑やかなこの神社に連れてきてやったんだ。そうだ、霊夢。短冊を置いておく台と筆記用具、それらを雨から守る傘をくれ。短冊と筆記用具は笹の側に置いた方がいいだろ」
「まったく。笹を持ってきた理由はともかく、短冊云々はただの退屈しのぎじゃないの」
霊夢が三度目のため息をつきながら、やれやれと立ち上がった。
翌朝、魔理沙は朝の四時半に目が覚めた。電光石火の速度で身支度を済まし、博麗神社へと向かう。笹は一体どうなっているのだろう。多くの者に短冊を吊るされたことによって、見違える程着飾っていたら最高なのだが。
博麗神社に着いたが、あえて笹の方を見ないように気をつけて箒から降りる。そのまま賽銭箱の前に歩を進め、ちゃりんと小銭を納めてやった。どうだ霊夢、笹に吊るしたおまえの願い事は叶っただろう、魔理沙は口の端を満足の笑みで歪めた。
すうと一呼吸置いて、期待に胸を膨らませる。
速くも遅くもない速度で、笹に目をやる。
残念なことに、笹は昨日見た姿と変わりない緑色のままであった。
嘆息した。
つまらないな、と思いながら魔理沙は新しい短冊を手に取り、願い事を記すことにした。何も変化がないのは寂しいので、せめて自分で一枚短冊を増やしてやろう。
『この笹に短冊を吊るしてくれる人が増えますように ―霧雨 魔理沙』
魔理沙は短冊を吊るそうと笹に両手を伸ばした。
視界の隅に、ひっそりと吊るされた短冊が入ってきた。
目立たぬ位置の短冊には、これまた控えめな文字でこう書かれている。
『七夕をもう一度』
誰が記したのだろうか、短冊に名前は書かれていなかった。
その短冊を見た時、魔理沙の胸はとくんと脈打った。この短冊には何かがある。そんな予感がする。これをこそ、待っていたのかもしれない。
「これだ。私が待っていたのはこれなんだよ」
「笹相手に独り言だなんて、寝惚けているのかしら?」
心臓が大きく脈打った。咄嗟に振り返る。魔理沙の独り言に言葉を返したのは、案の定霊夢であった。霊夢は寝間着姿で、縁側から魔理沙に眠そうな眼を向けてくる。
「良い朝だな、霊夢。まさかお前がこの短冊を書いた訳ではないだろう?」
霊夢がいかにも眠そうな足取りで、笹に歩み寄ってくる。
「おかしいわね。昨日この笹に近づいた人はいたけど、短冊を吊るしていた覚えはないわ。私が寝る前に見た時も、こんな所に短冊なんてなかったと思う。可能性があるとしたら、誰かが深夜の間にこっそり吊るしたのかしらね」
霊夢の顔から、眠気が消えていた。わざわざ夜中に忍び込んで匿名の短冊を吊るされるのは、あまり気分が良いことではないのだろう。
「どこかの恥ずかしがり屋さんが、人目をはばかったのかもな」
魔理沙は白紙の短冊を手に取り、筆を握った。
『昨日短冊をこっそり吊るしたやつへ。どうして七夕を望むんだ? ―霧雨 魔理沙』
「笹を掲示板代わりに意思の疎通を図るなんて、魔理沙らしくて斬新ね」
魔理沙は笹の葉に短冊を吊るしているので霊夢の顔を見られないが、呆れられているようだ。
「そういえば、いいのか? 霊夢」
「何がよ」
「得体の知れない短冊の吊るされた笹なんてどっかに持って行きなさいよ、とでもいつものおまえなら言いそうだぜ」
魔理沙の背後から、すっと襖の開けられる音が聞こえた。霊夢が部屋の中に戻ろうとしているのだろう。
「御利益のある笹だもの。そんな邪険には扱えないわ。お賽銭ありがとう」
そっけない物言いの後に、すっと襖の閉じられる音が魔理沙の耳に届いた。
「最後のありがとうはお賽銭を入れた私にではなく、笹に向けて放ったものなんだろうな」
魔理沙は閉ざされた襖に向けて、微笑んだ。
翌朝、笹には新たな短冊が吊るされていた。魔理沙が昨日吊るした短冊の隣で、朝風に揺れている。
『特別な日だから』
そう記された短冊に、またしても名前は書かれていなかった。
「どう思う?」
魔理沙は背後を振り返ることなく、後ろにいるであろう霊夢に向けて口を開いた。
「七夕なのだから、誰にとっても特別な日じゃないの」
その言葉の後、欠伸が続いた。霊夢は昨日と変わらぬ眠そうな表情を浮かべているのだろう。魔理沙は新たな短冊を書くことに集中しているので振り返らないが。
『七夕が恋しいなら、明日の午後九時に必ずこの神社に来い ―霧雨 魔理沙』
「実際に言葉を交わしたこともないのに、あんたが願いを叶えるつもりなの? お人好しね」
魔理沙の顔のすぐ隣に、霊夢の顔が迫っていた。たった今書き上げたばかりの短冊を覗き込んでいる。
「馬鹿だな。言葉ならおまえの目の前で実際に交わしているじゃないか」
「どういうこと? まさか、私がこれらの短冊を書いた当事者だとでも言いたいのかしら。それだったら残念だけど、本当に私じゃないわよ」
魔理沙は短冊を笹の葉に吊るしながら、霊夢に答える。
「笹に吊るした短冊というのは、いわば言の葉だろう。私とこいつは十分に言葉を交わしているじゃないか。おまえの目の前でな」
魔理沙は笹に短冊を吊るし終えた。
霊夢が縁側に腰掛けて笹の葉を眺めている。その手に包まれている茶碗からは、湯気が流れている。いつの間に用意したのだろうか。
「言の葉さらさら、軒端に揺れているわね」
「後は、『あれ』さえ揃えば完璧だよな」
魔理沙はいつものように、歯を見せることを厭わない笑顔を浮かべた。
「さて、私のやるべきことはもう決まったから、騒音姉妹をたたき起こして頼みごとをしてくるぜ」
言うやいなや、魔理沙は空へと飛び込んだ。
生温い風が今日はやけに心地良かった。
翌日の夜、博麗神社の庭先には多くの人妖が集まっていた。いつぞやの宴会騒動の面々が、酒を酌み交わしている。
今夜の夜空は、七夕の日と同じ曇天で星一つ見ることもできない。それなのに、庭先にいる人妖達は揃って夜空を見上げている。
魔理沙は箒に跨り、夜空に浮かんでいる。あとほんの少しで午後九時がやってくる。あの短冊を記した者は、どこかからこっそり様子を伺ってくれているだろうか。
午後九時がやってきた。
魔理沙は腕を振り上げて、プリズムリバー三姉妹に合図した。
三姉妹が演奏を始め、魔理沙のいる夜空にまでメロディを届けてくる。
演奏している曲の名は、『たなばたさま』である。「笹の葉さらさら」から始まる、誰しもが一度は耳にしたことのある童謡だ。
演奏と同時に、神社の庭先にいる人妖達が歌詞を口ずさみ始めた。あまり上手くなく、協調性があるわけでもない。それでも、その歌が作り出す雰囲気はとても心落ち着くものだった。
『笹の葉さらさら 軒端にゆれる』
皆が歌のその部分を歌い終えた時に、魔理沙は胸から一枚のスペルカードを取り出した。
『お星さまきらきら 金銀砂子』
魔理沙は、スペルカードを発動した。
曇天の夜空に、魔理沙の手から星型の弾幕が生まれていく。
漆黒の珈琲に牛乳が流れ込むようにそれらは夜空を覆いつくし、川を形成していった。
魔理沙からはよく見えぬが、神社からはとても綺麗な『天の川(ミルキーウェイ)』に見えているはずだ。言わずもがな、魔理沙が発動したスペルカードは魔符「ミルキーウェイ」である。
神社の庭先に視線を下ろす。笹の側に来客が佇んでいた。
緑色の服を着た、線の細い女性の妖精である。
七夕の笹は、精霊が宿る依代が起源だと考えられている。魔理沙は庭先の妖精を一目見て、あの笹の妖精なのだと悟った。深夜に霊夢に見つからず短冊を吊るせた事も、七夕を特別な日と書いた事もそれならば全て納得できる。
笹の妖精は、その手に短冊を持っていた。何か書いてあるかもしれないが、夜空に浮かぶ魔理沙からはまるで見えない。
妖精が、その短冊をくしゃくしゃに握り締めた。どうしたのだろう、魔理沙は困惑した。
妖精は口を大きく開き、
「ありがとう」
魔理沙にも届くような大きな声で、そう言ってきた。澄んだ美声だった。大声の割にはか細かったが、彼女なりに頑張ってくれたのだろう。
きっと、妖精が握り潰した短冊には同じ言葉が書いてあったに違いない。言の葉を笹に吊るすのではなく、魔理沙に直接届けることを選んでくれたのだ。
魔理沙は妖精に応えることにした。
庭先から、霊夢達の笑い声が聞こえてくる。
魔理沙は星の弾幕で、妖精の言葉に答えたのだった。
夜空には、星型の弾幕によって作られたどでかい「どういたしまして」が瞬いていた。
笹の葉さらさら 軒端に揺れる
お星さまきらきら 金銀砂子
五色の短冊 わたしが書いた
お星さまきらきら 空から見てる
お星さまきらきら 空から見てる。
しかし、物語の起承転結のうち「承」が弱い気がします。
すぐに核心にいくのではなく、
七夕に来た参拝客とかの話も混ぜたら、より厚みがあり、
惹きつけれる文章が出来ると思います。
さしでがましい文章、失礼しました。
>物語の起承転結のうち「承」が弱い気がします。
>七夕に来た参拝客とかの話も混ぜたら、より厚みがあり、惹きつけれる文章が出来ると思います。
その点に留意しながら読み返すと、まさにご指摘通りだなと思いました。
次回作では、ご指摘頂いたことを活かします。