私は今漬物を漬けている。
私が勝手にやっていることなのに、里の者達は「お礼」と言ってよくいろんなものを持ってくる。
今日も家の戸を叩く者があった。
「上白沢様! 今年はおかげさまで豊作でしたよ! 多すぎるかもしれませんが召し上がってください!」
里の長に連れられた若い衆がリヤカーを引かされていた。
3台のリヤカーに乗った野菜の数々は、とても私1人ですぐ食べきれる量ではなかった。
「そ、そんなに食えんぞ……それに礼などいいといつも言っているじゃないか」
「そうおっしゃらずに!」
「あれは私が勝手にやっていることだよ、お前達は普通にしていればいい」
「ならば、私達がこうやって捧げ物をするのも勝手にやっていることですから」
特に決まった時期に持ってきているというわけではないらしい。
確かに作物の収穫期にはほぼ確実に来るが、それ以外にもいろんなものを持ってくる。
酒などの飲み物だったり、わざわざ遠出して珍しいものを買ってきたり。
「誰かが言い出すと、里の者がこぞって捧げ物をしたがるんですよ、これでも減らしたんですがねぇ」
「これでか……」
ハクタクをなんだと思っているんだろう。本当に牛のようにたくさん食べると思っているのか。
「わかった、ここまで苦労して運んだ物をつき返すわけにもいくまい。わざわざありがとう。
ただ……食べきれなくても恨まないでほしい」
「しっかり栄養付けてくださいよ!」
そう言うと、里の長はすきっ歯を見せてにっかりと笑った。
里の若い衆達も、全員が満面の笑みでこちらに手を振っている。
実際、私の家は里からそれほど近いわけではない。
私は飛べるからこそすぐに里に行けるが、人間が歩いて来ようと思ったら1時間はかかる。
それにあれだけの大荷物なら、もっと時間がかかっただろう。
置いていかれた野菜の山を見て、思わず呆然としてしまう。
「参ったな……どうしたものか」
トマトを1つ手に取って、スカートにこすりつけて綺麗にすると、まるで赤い宝石のように輝いていた。
さらに湧き水で洗ってからそれをかじると、思わず顔がほころんでしまう。
「良い野菜だ」
里の者たちがどれだけ気持ちを込めて作っているかわかる、そんな甘みがあった。
そんなわけで漬物を漬けている。
冬場は里からの捧げ物も少ないし、その頃に食べることになるだろう。
私は浅漬けが好きなんだがそうも言ってられない、彼らの気持ちのこもった野菜だ。
できることならば、その全てをちゃんと食べてやりたい。
しかし家の裏にある家庭菜園はどうしたものか。
ぶつくさと一人で呟いていると、また家の戸を叩く者があった。
里の者が1日に2回も捧げ物をするということは無い。多分あいつだろう。
「慧音ー! いるかー!?」
食料でもたかりに来たかな、丁度良い。
あいつは不老不死を良いことに不摂生ばかりしているから、ろくなものを食べてないはずだ。
「いるよ、ほら入れ」
戸を開けてやると、その不老不死のあいつ……藤原妹紅は玄関にある野菜の山に驚く。
「ちょっと何よこの野菜の山」
「里からの捧げ物だよ」
「こんなに食べるのあんた?」
「まさか、今いろいろと試行錯誤中だ」
妹紅の喉がごくりと鳴ったのがはっきり聞こえた。
タケノコやら山菜やら、竹林にいる動物などなら食べているだろうが、こういった野菜には縁が無いのだろう。
「美味しそうだな」
「ああ、良い野菜だよ。待ってろ、今調理してやる」
「べ、別にたかりに来たわけじゃないよ」
「良いよ、多すぎて食いきれないんだ、少しでも減らしていってくれた方が助かる」
妹紅の手にはまだ開封してない一升瓶が握られていた。
暇だけど1人で飲むのも嫌だったから、酒の相手になってほしかったんだろう。
しかしつまみが無い辺り、やはりそこは私に任せるつもりだったのが窺えた。
時刻ももう夕方だし、今日はこのまま晩酌だろう。
「少し待ってろ、先に漬物を漬けてしまうから」
「はいはい、んじゃ杯借りるよ」
自分で持ってきた一升瓶、わざわざ未開封の物だというのに先に飲むつもりか。
少し呆れてしまうが、妹紅らしい。
「いっつも思うんだけどさ」
「なんだ?」
台所で調理する私の後姿を眺め、ちびちびとやりながら妹紅が言う。
「板についてるよね、慧音が台所に立ってる姿。あんた実は何人か隠し子いるんじゃないの?」
「バカな」
「慧音おかーさーん、なんてさ」
「からかうな、手元が狂う」
母か、そういえば私の母は漬物を漬けるのが上手だった。
後ろではまだ妹紅がごちゃごちゃと喋っているが、不意に母のことを思い出す。
今でこそ、こうして人目に付かないところでひっそりと暮らしているが、
幼い頃、私は人間の里で人間の子として暮らしていた。
父は居ない、母と2人での生活だった。
同じ里ではないが、先ほど捧げ物を持ってきた者達の里によく似ている。
農業を中心とし、金銭の価値も薄い、物々交換と助け合いの里だった。
私の母も農業をしていたが、女手1つで簡単にできるほど農業も甘くはなく、
小さな田畑をいくつか、必死の思いで管理していた。
まだ幼かった私も手伝ってるつもりだったが、今思えばあんな年端も行かない子供が農業を手伝うなど、
心配させるだけで、逆に母の苦労を増やしていたのかもしれない。
しかし母はとても人柄が良かった。
それゆえか里の者達は困っている母を良く助けてくれていた。
里の男達のごつごつした手で何度も頭を撫でられた記憶がある。
豊かとは言い難い生活だったが、心の中はいつも満たされていた。
母に訊いた事がある。
「なんでお母さんは、こんなにいっぱい友達がいるの?」
「母さんは皆のことが好きだから、皆も母さんのこと、好きになってくれるのよ」
照りつける日差しの中、泥だらけの顔で母は微笑んだ。
私には友達がいなかった。元々小さな里なので子供がそれほど多くないというのもあったが、
毎日母の後について回ってばかりで、他の子供達との関わりが少なかったのが大きな理由だろう。
他の子供達を羨ましいとは思わなかったが、私が他の子と何か違うのではないかという不安はあった。
「お母さん、私は他の子と何か違う?」
「違うわよ、もちろん」
「え……」
「他の子達も愛らしくて好きだけれど、慧音、お前はその中でも一番愛らしいわよ」
優しい母だった、私を叱りつける事の無い母だった。
出来心でやったいたずらが思った以上に酷い結果を生んでしまっても、絶対に叱らなかった。
だからこそ、悪いことをしたと思ったとき、私は私自身を激しく非難した。
貧しいが不自由無い生活だった、のんびりと幸せを噛み締めて生きていた。
私は漬物を漬け終えて、さらに玄関から持ってきた野菜の調理を始める。
台所にあった漬物用のかめは、全ていっぱいになってしまった。
まだ随分野菜は残っている。またなんとかして、かめを調達しなくては。
「慧音ー! 聞いてるのか!?」
「ん? なんだ? すまん、聞いてなかった」
「人がせっかく話してるのに、随分酷いな」
「先に飲んだりするから無駄に饒舌になるんだ。こっちは忙しい、手伝ってみるか?」
「火ならおこすよ」
妹紅がポケットからカードを取り出してニヤニヤと笑った。
「やめろ、火事になる」
「冗談冗談、あはははは」
「まったく、困った酔っ払いだ」
すきっ腹にどんどん酒を入れるものだから、妹紅は既に結構酔っているようだ。
こってりしたものも食べたいだろうがそうもいかない、なにせあれだけの野菜の量だ。
今日は妹紅の健康も考えて野菜尽くしにしてやろう。
さっき見たとき妹紅の髪が随分痛んでいた、偏った食生活のせいだろう。
あれだけの長い髪、整っているときこそ、その美しさは他の追随を許さないが、
逆に、痛んでしまえばその様子が嫌なぐらいによくわかる。
台所からでは確認のしようが無いが、肌も荒れているのではなかろうか。
ふと自分の髪をすくうと、とても滑らかに輝いていた。
肌も実にすべすべしている。
「可哀想に、今日は身体に良いものをたらふく食べさせてやるからな」
「んぇ?」
不思議そうな顔をする妹紅をよそに私は野菜を刻んでいく。
瑞々しくて身の詰まった野菜達はざくざくと心地良い音を奏でた。
(母さんの髪も、いつも痛んでいたな……)
母の髪は真っ黒だった。
私の髪は銀色で、ところどころに青いメッシュが入っている。
黒髪の人間が多かったが、別に私の髪の色もそこまで珍しいというわけではなかった。
緑の髪の人間もいたし、真っ青な髪の人間もいた。
なので私は、きっと父が銀髪だったのだろうと勝手に納得していた。
母はいろんなことを教えてくれたが、父のことだけは話そうとしなかった。
「いつか話すから……今は訊かないで、お願い」
悲しそうな母の顔を見ると、それ以上問い詰める気にはなれなかった。
父が居ないことが悲しくないわけはない。
けど、母がその分まで私を愛そうとしてくれてるのはよくわかっていた。
とはいえ、何故母がそこまで父のことを隠そうとするのか……。
ある出来事で知ることになった。
それは年月が経って私の身体もある程度成長し、農業をまともに手伝うようになり始めた頃のことだ。
ある夜、いつものように満月を見に外へ出たら角と尻尾が生えた、全身が燃える様に熱くなった。
わけがわからなかった、変身の様子を何人かの里の者に見られた。
私は混乱したまま自宅へ逃げ込んだ。
泣きながら帰って来た私を、母は悲しそうな面持ちで見つめていた。
私は何が何だかわからずに泣き叫んだ。
「お願い教えて! 私は何者なの!?」
だが次の瞬間自然にわかった、とても不思議な感覚だった。
私は半獣人だ、歴史を食べ、知り、創る、ハクタクだ。
凄まじい量の知識が一気に頭の中に流れ込んできた、頭が割れるかと思った。
そのほとんどが私の生活に関係の無い知識だった、自分がハクタクだということ以外は。
成長に伴い、妖怪の性質が強く現れ始めていたのだ。
それがその満月の夜に覚醒した。まだ能力のコントロールは上手にできなかったが。
少しすると、騒ぎを聞いた里の長が数人の里の者を連れて私の家にやってきた。
角も尻尾も隠せずに、床にうずくまって震えることしかできなかった。
私は妖怪だ、人間に害なす妖怪だ、殺される、きっと殺される。
でも里の皆が大好きだ、殺したくない、殺したくないから、殺されるしかない。
「慧音は優しい子です!! 誰にも危害を加えるような真似はしません!!」
母の声が聞こえた。
小さな身体いっぱいに空気を吸い込んで、今まで聞いたことの無い大きな声で叫んでいた。
「そんなに恐ろしいなら、すぐにでもこの里を出ますから! どうか! どうかお許しを!!
慧音は人間として育ってきたんです!! 人間に危害は加えませんから!!」
私の前に立ち、大の字に身体を広げて、涙をぼろぼろこぼしながら母は必死に私をかばった。
そんな母を里の者達は優しくなだめた。そして母も私も冷静になってみると、
里の者達は別に何をしようというわけでもないらしい、武器になるような物も手にしていない。
皆、母と同じように、悲しそうな面持ちで私を見つめるばかりだった。
母はわかっていたのだ、私が妖怪であることが。そしてずっと覚悟していた。
いくら里の者達が優しく親切でも、私が妖怪であると知ったらどのような対処をするかはわからなかったから。
でも、里の者達がここまで私達に好意的だということは、私にとっても母にとっても誤算だった。
「心配しなくて良い、それを言いに来たんだよ」
里の長がそう言った時、私と母は抱き合って泣いた。
そして、そんな里の者達に対して身構えた自分達を恥じた。
今度は必死に謝った、皆優しく微笑んで私達を許してくれた。
幸せな生活は失われずに済んだ。
たくさんの人々の優しさのおかげで。
「慧音ー、まだー?」
「そうせっつくな、ほら、野菜炒めだ」
それは大皿にたっぷりと。
どごんと1つ音を立てて、ちゃぶ台の上に鎮座する。
「た、確かに良い匂いだけど……多すぎない?」
「野菜だから見た目より軽い、味付けも薄めにした。思う以上にたくさん食べられると思う」
妹紅の髪をすくって、見る。
妹紅の手を取って、さする。
「な、なにすんのよいきなり」
「痛んでる。足りてないんだ、いろいろ」
「別に大丈夫よ、死ぬわけじゃない」
「そういう問題じゃない。年頃の乙女だろうお前は。なのにそんなことでどうする」
自分では無意識だったが随分真剣な目をして話していたらしい。
妹紅は私の目を見たまま固まってしまっていた。
「でもさ……私成長しないし」
「ならば一生、年頃の乙女ということだ……大変だなお前は」
「もー、からかうなよ」
「さっきのお返しだ」
むっとしたように妹紅は私の手を取ると、同じようにさすって唸った。
「う、これは説得力あるな」
「自己管理は大切だ、不老不死だからと言っていい加減にしないようにな」
「はい……」
しょぼんと肩を落とす仕草が憎めない。
「さて、もう少し作ってくる、先に食べてて良いぞ」
「え、まだなんかあるの?」
「簡単なものを少しな、野菜炒めだけじゃ味気ないだろう」
再び台所へと歩き出す。
さて、大分使ったんだが野菜の山はそれほど減ったように見えない。
昔よく母と一緒に食べた味噌汁と、サラダも作ってみるか。
妖怪であることがバレてからも、私は人間として暮らしていた。
いつも満月を見るのが好きだったけど、あれ以来直接満月を見なくても角が生えるようになった。
だから満月の夜は外に出るのは避けたかったのだが、
「誰も気にしないわよ、外に出て満月を見ましょう、慧音」
母は私の手を引いて外に連れ出そうとする。
でも私はそれだけは断固として拒否した、やはり嫌だった。
怖がられるということよりも、なんだか気恥ずかしさがあって嫌だった。
そんな私を見て母は、
「こうすればほら……愛らしいじゃない」
と言って、私の角に真っ赤なリボンを結んでくれた。
鏡を見ると……たくましい二本角に不釣合いだった、愛らしいとは思えなかった。
でも、そのリボンをほどいてよく見てみると、上質な生地で作られているのがわかった。
「お母さん、これはどうしたの?」
「サチさんが、お前に……って作ってくれたのよ」
サチさんは母と同じぐらいの歳で、織物を作っては都へ出向いて金に換えたり、
里の者達と織物を物々交換したりして暮らしている里の一員だった。
「今までいつもお前が満月を眺めに外に出ていたのを知っていたのよ、サチさん。
あれ以来出てこなくなってしまったからって、心配してわざわざ作ってくれたの」
それを聞いて涙が止まらなかった。
やはり角には不釣合いで、見た目愛らしいとは思えなかったが、私はそのリボンをとても気に入った。
再び母に結びなおしてもらってから、私を待ち構えるように満月を眺めていたサチさんに何度もお礼をした。
「喜んでもらえたなら、お礼なんていいわよ」
サチさんは、優しく微笑んでそう言った。
私は、サチさんと満月がもっと大好きになった。
「おいしい! 野菜おいしい!」
できあがった味噌汁とサラダをお盆に乗せて運んでいくと、妹紅が野菜炒めをもりもり食べていた。
あれほど作った野菜炒めが、もう半分ぐらいになってしまっていた。
「慧音は料理上手だねー」
「そうか?」
「上手だよ絶対」
「それじゃこれも食ってくれ、さっぱりするぞ」
「いただきまーす」
いただきますのタイミングがおかしいと思って、ついニヤけてしまう。
しかし妹紅はそんなことお構い無しに、サラダを食べ、味噌汁を啜った。
「それだけ美味いと感じるなら、身体が野菜を欲してたってこともあるだろう」
「んー、かもねー」
食べるのに一生懸命であまり耳に入ってないようだ。
「でもな、きっと……」
「ん?」
「その野菜は里の者達の愛情をいっぱい受けているから、そんなに美味いんだぞ。感謝しろよ」
「感謝感謝、里の人に感謝、慧音にも感謝」
口いっぱいに食べ物を詰め込んだ妹紅が、屈託無く笑う。
そんな顔を見ていると、こっちまで嬉しくなってしまった。
「愛すれば、愛されるんだ……」
愛を持って育てられた野菜だからこそ、美味しくなってそれに応えてくれる。
たくさんの愛を受けて育った私は、立派になれたのだろうか?
私が妖怪であることが里中に発覚してから、3年ほど後。
私はすでに身体の成長が止まっていて、年々その妖力だけが膨らんでいた。
かといって何か変わるわけでもない、里の者達の対応は以前のままだった。
農業も大分手伝えるようになり、これから年々弱っていく母は、私を頼ってくれるようになっていた。
とはいえ母だってまだ働けない歳ではないので、いろいろと私に伝授しつつ、自らも働いていた。
素直に聞いてはいたものの、大抵それは既に私の知識にあることだった。
ほんの少しでも知りたいと思ったことは、満月の夜に全て頭の中に入ってきたからだ。
「ただ……頭で理解するのも大切だが、実際に体験して学ぶことはそれ以上に貴重だ」
そんな考えはしっかりと持っていた。だから母の言うことを素直に聞けたのだろう。
父のこともわかった、そして、この母が私の本当の母でなかったということも。
だからって何が変わるわけでもない、歴史は歴史、現実とは切り離して考えるべきだ。
血が繋がっていようといまいと、あの人は私をこの世で一番大切にしてくれる人だ。
そして、私がこの世で一番大切にすべき人だ。それは揺るぎなかった。
このまま人間として暮らしていこう。
ハクタクという妖怪が人間に比べて遥かに寿命の長い妖怪だとも知っていたが、
この里に居る限り、私は幸せにやっていけると思っていた。
そう考えていた矢先の満月の夜、妖怪が里を襲った。
それは悲劇が起きた日。
私が今の生き方を選んだ日。
妖怪の襲撃は、この程度の規模の里においてはそれほど珍しいことではない。
各地で似たようなことが起こり、里が滅んでいる。
数日前この里に迷い込んだ旅人が、道中尾けられていたらしい。
2~3匹だけなら、里の若い衆がなんとかできたかもしれない。
だが妖怪は10匹ほどで協力して里を襲ってきた。
私はそれを知っていた、この里を襲う計画を立てる妖怪の歴史を、直前に垣間見ていた。
だがそれだけだ、その当時は満月の夜にいくらかの歴史を知ることしかできなかった。
里の歴史を食って隠すなんて高等技術は、当時の私には不可能だった。
もちろん、その襲撃についてすぐに里の人間に知らせたが、
「今更この里を捨てられるものか、最後まで諦めずに戦ってみせるさ」
どんなに説得しても、そんな答えしか返ってこなかった。
私だけ逃げる気になんてとてもなれない、でも戦うのは恐ろしかった。
妖怪が暴れている最中、ずっと家の中で震えながら祈っていた。
頭に生えている角は一体何のためなのか、勇気の無い自分が恨めしかった。
率先して飛び出した村の若い男達は、1匹の妖怪も倒せずに全員殺された。
母は私に「戦え」なんて言わなかった。母だけじゃない、里の者誰一人としてそんなこと言わなかった。
母は自分より力を持っているはずの、この私が震えているのを見て、抱きしめていてくれた。
でも私は怖がることしかできなかった、戦い方なんて垣間見た歴史としての知識しかない。
その通りに身体が動くわけが無い、怖かった、動けなかった、祈ることしかできなかった。
「大丈夫、きっと、皆が妖怪を追い払ってくれるよ」
そう言って、私の震えを押さえ込むように、母はずっと抱きしめてくれた。
しかし。
表で戦っている里の者達が全滅したことで、妖怪達は家の中に隠れる人間を襲い始めた。
どこからか悲鳴が聞こえる、だんだん近づいてくる、隣の家から悲鳴が聞こえる。
そして我が家の戸が、こじ開けられる。
そのとき、母は最後にそっと私の頭を撫でると、包丁を握り締めて妖怪達に立ち向かった。
私より小さなお母さん。
私より非力なお母さん。
勝てるわけ無いのに。
なのに、なのに。
私より勇気のあるお母さん。
お母さんは、私を守るために命を投げうった。
翻弄されて、血まみれになりながら。歩けなくなっても這いつくばって、妖怪にしがみついた。
最後まで、最後まで、私を守ろうとして。
お母さんは、私の目の前で殺された。
頭の中が怒りでいっぱいになった。
秘められていた力が全て解放された。
何も怖くなくなった。襲い来る妖怪を片っ端からねじ伏せた。
そいつらに悲劇の歴史を刻んでやった。
外に居た数匹の妖怪も、あっという間に片付けた。
私以外……人間も、妖怪も、誰も生き残らなかった。
ただただ泣いた。
「ごめんなさい、ごめんなさい、勇気が無くてごめんなさい」
誰も守ることができなかった、守られてばかりだった自分。
この立派な角は何の為にあるんだ、忌々しくて仕方が無かった。
それ以上里に居るのが辛くて、1人で山に駆け込んだ。
何の役にも立たなかったこの角を、岩に打ち付けてへし折ってやろうと思った。
何の役にも立たなかったこの私を、岩に打ち付けて殺してやろうと思った。
何度も何度も角を岩に打ち付けた、ものすごく痛かった、角の生え際から血が出た。
あまりの激痛に一瞬意識が遠のき、地面に尻餅をついた。
そのとき、何かに手が触った。
血と泥にまみれた真っ赤なリボン。
角を岩に打ち付け続けている間に、抜け落ちてしまったらしい。
それはサチさんがくれたリボン、それは母が結んでくれたリボン。
私はそれを握り締めて、また泣いた。
『こうすればほら……愛らしいじゃない』
母も里の者も皆、私の全てを、この角まで含めた全てを愛してくれた。
この角を折ってはいけない、皆が大切にしてくれた私を、安易に傷つけてはいけない。
皆が守ってくれた私が、自暴自棄になってはいけない。
でも、どうして良いかわからなかった。
『母さんは皆のことが好きだから、皆も母さんのこと、好きになってくれるのよ』
私は皆が好きだった、皆も私のことが好きだった。
守ろう。
あんな悲劇を、二度と繰り返さないために。
皆が与えてくれた愛に、私は応えきれていないから。
血と泥にまみれたリボンを再びその角に結んで、私は暗い山道を歩き始めた。
生きるために、守るために。
それから、私は自分の力を試し続けた。
かなり強い力を持っていることが分かった。
どんどん磨き上げた。
そして今の私が完成した。
妖怪だって悪いやつだけとは思わない。
だが実際に大した理由もなく人間を襲う妖怪はたくさんいる。
私はそんな妖怪から人間を守り続けた。
もう人里に住むことはできない、この力は人間にとって確実に脅威になる。
しかし山にこもっての独り暮らしは、あまりにも寂しいものだった。
私が守っている人間達の里も、遠目に眺めることしかできない。
守った人間がたまにお礼に来る、それだけが私にできる触れ合いになった。
(いかんな……思い出さないようにしているんだが……)
頬を伝う涙をぬぐう。
考え事をしている間も、妹紅は私を気にせずに食べ続けていた。
そして満腹になったのと酔いから、妹紅は先ほどから横になって気持ち良さそうに寝息を立てていた。
あれだけあった野菜炒めは、もう少ししか残っていない。
サラダも味噌汁も、全て平らげてあった。
「愛すれば、愛される」
妹紅の痛んだ髪をすくって、撫でてやる。
「さらさらになると良いな」
声を掛けたって、寝てるからわかるはずもない。
そして私は妹紅が食べ残した野菜炒めを箸でつまんで口に入れた。
もう冷めてしまっていたが、甘みがあって美味かった。
「守れば、守られる」
それは栄養と愛の詰まった野菜。
「守ってくれてありがとう……里の皆」
ある日、同じような生活をしている者を見つけた。人間であるに関わらずだ。
竹林にこもって、1人で恨みを燃やして生き続ける少女。
そんな彼女が、とても悲しい存在だと思った。
その永遠の命を、復讐のためだけに使ってほしくなかった。
そして、どことなく私に似ていると思った。放っておけなかった。
私達は友人になった。
2人一緒にいる時間が増えた。そして寂しい時間が減った。
妹紅の頭をそっと撫でる。
「守ってくれてありがとう……妹紅」
戦うだけが守る方法じゃない。
側にいてくれるだけで感じる、確かな安心感。
そう、それはかけがえのない心の支え。
思い出さないようにしている私自身の歴史。何故なら泣いてしまうから。
でもそれは、私の大好きな歴史、大好きな人達と共に創った歴史。
これからも私は、そんな歴史を創っていく。
私が勝手にやっていることなのに、里の者達は「お礼」と言ってよくいろんなものを持ってくる。
今日も家の戸を叩く者があった。
「上白沢様! 今年はおかげさまで豊作でしたよ! 多すぎるかもしれませんが召し上がってください!」
里の長に連れられた若い衆がリヤカーを引かされていた。
3台のリヤカーに乗った野菜の数々は、とても私1人ですぐ食べきれる量ではなかった。
「そ、そんなに食えんぞ……それに礼などいいといつも言っているじゃないか」
「そうおっしゃらずに!」
「あれは私が勝手にやっていることだよ、お前達は普通にしていればいい」
「ならば、私達がこうやって捧げ物をするのも勝手にやっていることですから」
特に決まった時期に持ってきているというわけではないらしい。
確かに作物の収穫期にはほぼ確実に来るが、それ以外にもいろんなものを持ってくる。
酒などの飲み物だったり、わざわざ遠出して珍しいものを買ってきたり。
「誰かが言い出すと、里の者がこぞって捧げ物をしたがるんですよ、これでも減らしたんですがねぇ」
「これでか……」
ハクタクをなんだと思っているんだろう。本当に牛のようにたくさん食べると思っているのか。
「わかった、ここまで苦労して運んだ物をつき返すわけにもいくまい。わざわざありがとう。
ただ……食べきれなくても恨まないでほしい」
「しっかり栄養付けてくださいよ!」
そう言うと、里の長はすきっ歯を見せてにっかりと笑った。
里の若い衆達も、全員が満面の笑みでこちらに手を振っている。
実際、私の家は里からそれほど近いわけではない。
私は飛べるからこそすぐに里に行けるが、人間が歩いて来ようと思ったら1時間はかかる。
それにあれだけの大荷物なら、もっと時間がかかっただろう。
置いていかれた野菜の山を見て、思わず呆然としてしまう。
「参ったな……どうしたものか」
トマトを1つ手に取って、スカートにこすりつけて綺麗にすると、まるで赤い宝石のように輝いていた。
さらに湧き水で洗ってからそれをかじると、思わず顔がほころんでしまう。
「良い野菜だ」
里の者たちがどれだけ気持ちを込めて作っているかわかる、そんな甘みがあった。
そんなわけで漬物を漬けている。
冬場は里からの捧げ物も少ないし、その頃に食べることになるだろう。
私は浅漬けが好きなんだがそうも言ってられない、彼らの気持ちのこもった野菜だ。
できることならば、その全てをちゃんと食べてやりたい。
しかし家の裏にある家庭菜園はどうしたものか。
ぶつくさと一人で呟いていると、また家の戸を叩く者があった。
里の者が1日に2回も捧げ物をするということは無い。多分あいつだろう。
「慧音ー! いるかー!?」
食料でもたかりに来たかな、丁度良い。
あいつは不老不死を良いことに不摂生ばかりしているから、ろくなものを食べてないはずだ。
「いるよ、ほら入れ」
戸を開けてやると、その不老不死のあいつ……藤原妹紅は玄関にある野菜の山に驚く。
「ちょっと何よこの野菜の山」
「里からの捧げ物だよ」
「こんなに食べるのあんた?」
「まさか、今いろいろと試行錯誤中だ」
妹紅の喉がごくりと鳴ったのがはっきり聞こえた。
タケノコやら山菜やら、竹林にいる動物などなら食べているだろうが、こういった野菜には縁が無いのだろう。
「美味しそうだな」
「ああ、良い野菜だよ。待ってろ、今調理してやる」
「べ、別にたかりに来たわけじゃないよ」
「良いよ、多すぎて食いきれないんだ、少しでも減らしていってくれた方が助かる」
妹紅の手にはまだ開封してない一升瓶が握られていた。
暇だけど1人で飲むのも嫌だったから、酒の相手になってほしかったんだろう。
しかしつまみが無い辺り、やはりそこは私に任せるつもりだったのが窺えた。
時刻ももう夕方だし、今日はこのまま晩酌だろう。
「少し待ってろ、先に漬物を漬けてしまうから」
「はいはい、んじゃ杯借りるよ」
自分で持ってきた一升瓶、わざわざ未開封の物だというのに先に飲むつもりか。
少し呆れてしまうが、妹紅らしい。
「いっつも思うんだけどさ」
「なんだ?」
台所で調理する私の後姿を眺め、ちびちびとやりながら妹紅が言う。
「板についてるよね、慧音が台所に立ってる姿。あんた実は何人か隠し子いるんじゃないの?」
「バカな」
「慧音おかーさーん、なんてさ」
「からかうな、手元が狂う」
母か、そういえば私の母は漬物を漬けるのが上手だった。
後ろではまだ妹紅がごちゃごちゃと喋っているが、不意に母のことを思い出す。
今でこそ、こうして人目に付かないところでひっそりと暮らしているが、
幼い頃、私は人間の里で人間の子として暮らしていた。
父は居ない、母と2人での生活だった。
同じ里ではないが、先ほど捧げ物を持ってきた者達の里によく似ている。
農業を中心とし、金銭の価値も薄い、物々交換と助け合いの里だった。
私の母も農業をしていたが、女手1つで簡単にできるほど農業も甘くはなく、
小さな田畑をいくつか、必死の思いで管理していた。
まだ幼かった私も手伝ってるつもりだったが、今思えばあんな年端も行かない子供が農業を手伝うなど、
心配させるだけで、逆に母の苦労を増やしていたのかもしれない。
しかし母はとても人柄が良かった。
それゆえか里の者達は困っている母を良く助けてくれていた。
里の男達のごつごつした手で何度も頭を撫でられた記憶がある。
豊かとは言い難い生活だったが、心の中はいつも満たされていた。
母に訊いた事がある。
「なんでお母さんは、こんなにいっぱい友達がいるの?」
「母さんは皆のことが好きだから、皆も母さんのこと、好きになってくれるのよ」
照りつける日差しの中、泥だらけの顔で母は微笑んだ。
私には友達がいなかった。元々小さな里なので子供がそれほど多くないというのもあったが、
毎日母の後について回ってばかりで、他の子供達との関わりが少なかったのが大きな理由だろう。
他の子供達を羨ましいとは思わなかったが、私が他の子と何か違うのではないかという不安はあった。
「お母さん、私は他の子と何か違う?」
「違うわよ、もちろん」
「え……」
「他の子達も愛らしくて好きだけれど、慧音、お前はその中でも一番愛らしいわよ」
優しい母だった、私を叱りつける事の無い母だった。
出来心でやったいたずらが思った以上に酷い結果を生んでしまっても、絶対に叱らなかった。
だからこそ、悪いことをしたと思ったとき、私は私自身を激しく非難した。
貧しいが不自由無い生活だった、のんびりと幸せを噛み締めて生きていた。
私は漬物を漬け終えて、さらに玄関から持ってきた野菜の調理を始める。
台所にあった漬物用のかめは、全ていっぱいになってしまった。
まだ随分野菜は残っている。またなんとかして、かめを調達しなくては。
「慧音ー! 聞いてるのか!?」
「ん? なんだ? すまん、聞いてなかった」
「人がせっかく話してるのに、随分酷いな」
「先に飲んだりするから無駄に饒舌になるんだ。こっちは忙しい、手伝ってみるか?」
「火ならおこすよ」
妹紅がポケットからカードを取り出してニヤニヤと笑った。
「やめろ、火事になる」
「冗談冗談、あはははは」
「まったく、困った酔っ払いだ」
すきっ腹にどんどん酒を入れるものだから、妹紅は既に結構酔っているようだ。
こってりしたものも食べたいだろうがそうもいかない、なにせあれだけの野菜の量だ。
今日は妹紅の健康も考えて野菜尽くしにしてやろう。
さっき見たとき妹紅の髪が随分痛んでいた、偏った食生活のせいだろう。
あれだけの長い髪、整っているときこそ、その美しさは他の追随を許さないが、
逆に、痛んでしまえばその様子が嫌なぐらいによくわかる。
台所からでは確認のしようが無いが、肌も荒れているのではなかろうか。
ふと自分の髪をすくうと、とても滑らかに輝いていた。
肌も実にすべすべしている。
「可哀想に、今日は身体に良いものをたらふく食べさせてやるからな」
「んぇ?」
不思議そうな顔をする妹紅をよそに私は野菜を刻んでいく。
瑞々しくて身の詰まった野菜達はざくざくと心地良い音を奏でた。
(母さんの髪も、いつも痛んでいたな……)
母の髪は真っ黒だった。
私の髪は銀色で、ところどころに青いメッシュが入っている。
黒髪の人間が多かったが、別に私の髪の色もそこまで珍しいというわけではなかった。
緑の髪の人間もいたし、真っ青な髪の人間もいた。
なので私は、きっと父が銀髪だったのだろうと勝手に納得していた。
母はいろんなことを教えてくれたが、父のことだけは話そうとしなかった。
「いつか話すから……今は訊かないで、お願い」
悲しそうな母の顔を見ると、それ以上問い詰める気にはなれなかった。
父が居ないことが悲しくないわけはない。
けど、母がその分まで私を愛そうとしてくれてるのはよくわかっていた。
とはいえ、何故母がそこまで父のことを隠そうとするのか……。
ある出来事で知ることになった。
それは年月が経って私の身体もある程度成長し、農業をまともに手伝うようになり始めた頃のことだ。
ある夜、いつものように満月を見に外へ出たら角と尻尾が生えた、全身が燃える様に熱くなった。
わけがわからなかった、変身の様子を何人かの里の者に見られた。
私は混乱したまま自宅へ逃げ込んだ。
泣きながら帰って来た私を、母は悲しそうな面持ちで見つめていた。
私は何が何だかわからずに泣き叫んだ。
「お願い教えて! 私は何者なの!?」
だが次の瞬間自然にわかった、とても不思議な感覚だった。
私は半獣人だ、歴史を食べ、知り、創る、ハクタクだ。
凄まじい量の知識が一気に頭の中に流れ込んできた、頭が割れるかと思った。
そのほとんどが私の生活に関係の無い知識だった、自分がハクタクだということ以外は。
成長に伴い、妖怪の性質が強く現れ始めていたのだ。
それがその満月の夜に覚醒した。まだ能力のコントロールは上手にできなかったが。
少しすると、騒ぎを聞いた里の長が数人の里の者を連れて私の家にやってきた。
角も尻尾も隠せずに、床にうずくまって震えることしかできなかった。
私は妖怪だ、人間に害なす妖怪だ、殺される、きっと殺される。
でも里の皆が大好きだ、殺したくない、殺したくないから、殺されるしかない。
「慧音は優しい子です!! 誰にも危害を加えるような真似はしません!!」
母の声が聞こえた。
小さな身体いっぱいに空気を吸い込んで、今まで聞いたことの無い大きな声で叫んでいた。
「そんなに恐ろしいなら、すぐにでもこの里を出ますから! どうか! どうかお許しを!!
慧音は人間として育ってきたんです!! 人間に危害は加えませんから!!」
私の前に立ち、大の字に身体を広げて、涙をぼろぼろこぼしながら母は必死に私をかばった。
そんな母を里の者達は優しくなだめた。そして母も私も冷静になってみると、
里の者達は別に何をしようというわけでもないらしい、武器になるような物も手にしていない。
皆、母と同じように、悲しそうな面持ちで私を見つめるばかりだった。
母はわかっていたのだ、私が妖怪であることが。そしてずっと覚悟していた。
いくら里の者達が優しく親切でも、私が妖怪であると知ったらどのような対処をするかはわからなかったから。
でも、里の者達がここまで私達に好意的だということは、私にとっても母にとっても誤算だった。
「心配しなくて良い、それを言いに来たんだよ」
里の長がそう言った時、私と母は抱き合って泣いた。
そして、そんな里の者達に対して身構えた自分達を恥じた。
今度は必死に謝った、皆優しく微笑んで私達を許してくれた。
幸せな生活は失われずに済んだ。
たくさんの人々の優しさのおかげで。
「慧音ー、まだー?」
「そうせっつくな、ほら、野菜炒めだ」
それは大皿にたっぷりと。
どごんと1つ音を立てて、ちゃぶ台の上に鎮座する。
「た、確かに良い匂いだけど……多すぎない?」
「野菜だから見た目より軽い、味付けも薄めにした。思う以上にたくさん食べられると思う」
妹紅の髪をすくって、見る。
妹紅の手を取って、さする。
「な、なにすんのよいきなり」
「痛んでる。足りてないんだ、いろいろ」
「別に大丈夫よ、死ぬわけじゃない」
「そういう問題じゃない。年頃の乙女だろうお前は。なのにそんなことでどうする」
自分では無意識だったが随分真剣な目をして話していたらしい。
妹紅は私の目を見たまま固まってしまっていた。
「でもさ……私成長しないし」
「ならば一生、年頃の乙女ということだ……大変だなお前は」
「もー、からかうなよ」
「さっきのお返しだ」
むっとしたように妹紅は私の手を取ると、同じようにさすって唸った。
「う、これは説得力あるな」
「自己管理は大切だ、不老不死だからと言っていい加減にしないようにな」
「はい……」
しょぼんと肩を落とす仕草が憎めない。
「さて、もう少し作ってくる、先に食べてて良いぞ」
「え、まだなんかあるの?」
「簡単なものを少しな、野菜炒めだけじゃ味気ないだろう」
再び台所へと歩き出す。
さて、大分使ったんだが野菜の山はそれほど減ったように見えない。
昔よく母と一緒に食べた味噌汁と、サラダも作ってみるか。
妖怪であることがバレてからも、私は人間として暮らしていた。
いつも満月を見るのが好きだったけど、あれ以来直接満月を見なくても角が生えるようになった。
だから満月の夜は外に出るのは避けたかったのだが、
「誰も気にしないわよ、外に出て満月を見ましょう、慧音」
母は私の手を引いて外に連れ出そうとする。
でも私はそれだけは断固として拒否した、やはり嫌だった。
怖がられるということよりも、なんだか気恥ずかしさがあって嫌だった。
そんな私を見て母は、
「こうすればほら……愛らしいじゃない」
と言って、私の角に真っ赤なリボンを結んでくれた。
鏡を見ると……たくましい二本角に不釣合いだった、愛らしいとは思えなかった。
でも、そのリボンをほどいてよく見てみると、上質な生地で作られているのがわかった。
「お母さん、これはどうしたの?」
「サチさんが、お前に……って作ってくれたのよ」
サチさんは母と同じぐらいの歳で、織物を作っては都へ出向いて金に換えたり、
里の者達と織物を物々交換したりして暮らしている里の一員だった。
「今までいつもお前が満月を眺めに外に出ていたのを知っていたのよ、サチさん。
あれ以来出てこなくなってしまったからって、心配してわざわざ作ってくれたの」
それを聞いて涙が止まらなかった。
やはり角には不釣合いで、見た目愛らしいとは思えなかったが、私はそのリボンをとても気に入った。
再び母に結びなおしてもらってから、私を待ち構えるように満月を眺めていたサチさんに何度もお礼をした。
「喜んでもらえたなら、お礼なんていいわよ」
サチさんは、優しく微笑んでそう言った。
私は、サチさんと満月がもっと大好きになった。
「おいしい! 野菜おいしい!」
できあがった味噌汁とサラダをお盆に乗せて運んでいくと、妹紅が野菜炒めをもりもり食べていた。
あれほど作った野菜炒めが、もう半分ぐらいになってしまっていた。
「慧音は料理上手だねー」
「そうか?」
「上手だよ絶対」
「それじゃこれも食ってくれ、さっぱりするぞ」
「いただきまーす」
いただきますのタイミングがおかしいと思って、ついニヤけてしまう。
しかし妹紅はそんなことお構い無しに、サラダを食べ、味噌汁を啜った。
「それだけ美味いと感じるなら、身体が野菜を欲してたってこともあるだろう」
「んー、かもねー」
食べるのに一生懸命であまり耳に入ってないようだ。
「でもな、きっと……」
「ん?」
「その野菜は里の者達の愛情をいっぱい受けているから、そんなに美味いんだぞ。感謝しろよ」
「感謝感謝、里の人に感謝、慧音にも感謝」
口いっぱいに食べ物を詰め込んだ妹紅が、屈託無く笑う。
そんな顔を見ていると、こっちまで嬉しくなってしまった。
「愛すれば、愛されるんだ……」
愛を持って育てられた野菜だからこそ、美味しくなってそれに応えてくれる。
たくさんの愛を受けて育った私は、立派になれたのだろうか?
私が妖怪であることが里中に発覚してから、3年ほど後。
私はすでに身体の成長が止まっていて、年々その妖力だけが膨らんでいた。
かといって何か変わるわけでもない、里の者達の対応は以前のままだった。
農業も大分手伝えるようになり、これから年々弱っていく母は、私を頼ってくれるようになっていた。
とはいえ母だってまだ働けない歳ではないので、いろいろと私に伝授しつつ、自らも働いていた。
素直に聞いてはいたものの、大抵それは既に私の知識にあることだった。
ほんの少しでも知りたいと思ったことは、満月の夜に全て頭の中に入ってきたからだ。
「ただ……頭で理解するのも大切だが、実際に体験して学ぶことはそれ以上に貴重だ」
そんな考えはしっかりと持っていた。だから母の言うことを素直に聞けたのだろう。
父のこともわかった、そして、この母が私の本当の母でなかったということも。
だからって何が変わるわけでもない、歴史は歴史、現実とは切り離して考えるべきだ。
血が繋がっていようといまいと、あの人は私をこの世で一番大切にしてくれる人だ。
そして、私がこの世で一番大切にすべき人だ。それは揺るぎなかった。
このまま人間として暮らしていこう。
ハクタクという妖怪が人間に比べて遥かに寿命の長い妖怪だとも知っていたが、
この里に居る限り、私は幸せにやっていけると思っていた。
そう考えていた矢先の満月の夜、妖怪が里を襲った。
それは悲劇が起きた日。
私が今の生き方を選んだ日。
妖怪の襲撃は、この程度の規模の里においてはそれほど珍しいことではない。
各地で似たようなことが起こり、里が滅んでいる。
数日前この里に迷い込んだ旅人が、道中尾けられていたらしい。
2~3匹だけなら、里の若い衆がなんとかできたかもしれない。
だが妖怪は10匹ほどで協力して里を襲ってきた。
私はそれを知っていた、この里を襲う計画を立てる妖怪の歴史を、直前に垣間見ていた。
だがそれだけだ、その当時は満月の夜にいくらかの歴史を知ることしかできなかった。
里の歴史を食って隠すなんて高等技術は、当時の私には不可能だった。
もちろん、その襲撃についてすぐに里の人間に知らせたが、
「今更この里を捨てられるものか、最後まで諦めずに戦ってみせるさ」
どんなに説得しても、そんな答えしか返ってこなかった。
私だけ逃げる気になんてとてもなれない、でも戦うのは恐ろしかった。
妖怪が暴れている最中、ずっと家の中で震えながら祈っていた。
頭に生えている角は一体何のためなのか、勇気の無い自分が恨めしかった。
率先して飛び出した村の若い男達は、1匹の妖怪も倒せずに全員殺された。
母は私に「戦え」なんて言わなかった。母だけじゃない、里の者誰一人としてそんなこと言わなかった。
母は自分より力を持っているはずの、この私が震えているのを見て、抱きしめていてくれた。
でも私は怖がることしかできなかった、戦い方なんて垣間見た歴史としての知識しかない。
その通りに身体が動くわけが無い、怖かった、動けなかった、祈ることしかできなかった。
「大丈夫、きっと、皆が妖怪を追い払ってくれるよ」
そう言って、私の震えを押さえ込むように、母はずっと抱きしめてくれた。
しかし。
表で戦っている里の者達が全滅したことで、妖怪達は家の中に隠れる人間を襲い始めた。
どこからか悲鳴が聞こえる、だんだん近づいてくる、隣の家から悲鳴が聞こえる。
そして我が家の戸が、こじ開けられる。
そのとき、母は最後にそっと私の頭を撫でると、包丁を握り締めて妖怪達に立ち向かった。
私より小さなお母さん。
私より非力なお母さん。
勝てるわけ無いのに。
なのに、なのに。
私より勇気のあるお母さん。
お母さんは、私を守るために命を投げうった。
翻弄されて、血まみれになりながら。歩けなくなっても這いつくばって、妖怪にしがみついた。
最後まで、最後まで、私を守ろうとして。
お母さんは、私の目の前で殺された。
頭の中が怒りでいっぱいになった。
秘められていた力が全て解放された。
何も怖くなくなった。襲い来る妖怪を片っ端からねじ伏せた。
そいつらに悲劇の歴史を刻んでやった。
外に居た数匹の妖怪も、あっという間に片付けた。
私以外……人間も、妖怪も、誰も生き残らなかった。
ただただ泣いた。
「ごめんなさい、ごめんなさい、勇気が無くてごめんなさい」
誰も守ることができなかった、守られてばかりだった自分。
この立派な角は何の為にあるんだ、忌々しくて仕方が無かった。
それ以上里に居るのが辛くて、1人で山に駆け込んだ。
何の役にも立たなかったこの角を、岩に打ち付けてへし折ってやろうと思った。
何の役にも立たなかったこの私を、岩に打ち付けて殺してやろうと思った。
何度も何度も角を岩に打ち付けた、ものすごく痛かった、角の生え際から血が出た。
あまりの激痛に一瞬意識が遠のき、地面に尻餅をついた。
そのとき、何かに手が触った。
血と泥にまみれた真っ赤なリボン。
角を岩に打ち付け続けている間に、抜け落ちてしまったらしい。
それはサチさんがくれたリボン、それは母が結んでくれたリボン。
私はそれを握り締めて、また泣いた。
『こうすればほら……愛らしいじゃない』
母も里の者も皆、私の全てを、この角まで含めた全てを愛してくれた。
この角を折ってはいけない、皆が大切にしてくれた私を、安易に傷つけてはいけない。
皆が守ってくれた私が、自暴自棄になってはいけない。
でも、どうして良いかわからなかった。
『母さんは皆のことが好きだから、皆も母さんのこと、好きになってくれるのよ』
私は皆が好きだった、皆も私のことが好きだった。
守ろう。
あんな悲劇を、二度と繰り返さないために。
皆が与えてくれた愛に、私は応えきれていないから。
血と泥にまみれたリボンを再びその角に結んで、私は暗い山道を歩き始めた。
生きるために、守るために。
それから、私は自分の力を試し続けた。
かなり強い力を持っていることが分かった。
どんどん磨き上げた。
そして今の私が完成した。
妖怪だって悪いやつだけとは思わない。
だが実際に大した理由もなく人間を襲う妖怪はたくさんいる。
私はそんな妖怪から人間を守り続けた。
もう人里に住むことはできない、この力は人間にとって確実に脅威になる。
しかし山にこもっての独り暮らしは、あまりにも寂しいものだった。
私が守っている人間達の里も、遠目に眺めることしかできない。
守った人間がたまにお礼に来る、それだけが私にできる触れ合いになった。
(いかんな……思い出さないようにしているんだが……)
頬を伝う涙をぬぐう。
考え事をしている間も、妹紅は私を気にせずに食べ続けていた。
そして満腹になったのと酔いから、妹紅は先ほどから横になって気持ち良さそうに寝息を立てていた。
あれだけあった野菜炒めは、もう少ししか残っていない。
サラダも味噌汁も、全て平らげてあった。
「愛すれば、愛される」
妹紅の痛んだ髪をすくって、撫でてやる。
「さらさらになると良いな」
声を掛けたって、寝てるからわかるはずもない。
そして私は妹紅が食べ残した野菜炒めを箸でつまんで口に入れた。
もう冷めてしまっていたが、甘みがあって美味かった。
「守れば、守られる」
それは栄養と愛の詰まった野菜。
「守ってくれてありがとう……里の皆」
ある日、同じような生活をしている者を見つけた。人間であるに関わらずだ。
竹林にこもって、1人で恨みを燃やして生き続ける少女。
そんな彼女が、とても悲しい存在だと思った。
その永遠の命を、復讐のためだけに使ってほしくなかった。
そして、どことなく私に似ていると思った。放っておけなかった。
私達は友人になった。
2人一緒にいる時間が増えた。そして寂しい時間が減った。
妹紅の頭をそっと撫でる。
「守ってくれてありがとう……妹紅」
戦うだけが守る方法じゃない。
側にいてくれるだけで感じる、確かな安心感。
そう、それはかけがえのない心の支え。
思い出さないようにしている私自身の歴史。何故なら泣いてしまうから。
でもそれは、私の大好きな歴史、大好きな人達と共に創った歴史。
これからも私は、そんな歴史を創っていく。
そこに注目した解釈はおもしろかったです。
個人的には、氏のギャグ物より、この手の話の方が好きですね。
……故郷と家族に、感謝。
とても良いお話でした。
素晴らしかったです。。。