8
玄関口に鏡が置いてあったのは、翌朝のことだった。
何時の間に持ってきたのだろう。
街から帰り、夕食とお風呂を片付ける、玄関の鍵を確認して眠り、また起きる。その間に、一切の来客は無かった。郵便屋さんや宅配の人が来た様子もない。まさか香霖堂さんが直接届けに来たわけでもなかろう。つくづく、不思議な店であり人――或いは人以外の何者かである。
それにしても、だ。
「すっかり綺麗になったかな。でも……」
そう。
でも、なのだ。
件の黒い影はすっかり消えている。鏡面には一部の汚れもなく、ぴかぴかだ。だというのに、微妙な違和感が拭えない。
鏡面の下に、薄い薄い皮膜が張っているような印象。あの黒い影――扉のようなそれが、鏡面全体に広がったというような気がするのだ。
目には映っていない。私がそう感じているだけだ。だから直感的なものであり一切根拠はない。だが、幸か不幸か、私の直感は良く当たる。大体において、理性的な判断より瞬時の感覚の方が当てになる。論理的思考が苦手だと云えばそれまでなのだが、それについての議論は取りあえず横に置いておこう。
などと、当て所も無い思考を繰り広げている内に、ふと気付いたことがあった。
鏡の横。
其処に、何かが和紙にくるまって転がっていた。
手に取ると、ずしりとした感触があった。和紙を破かないように、ゆっくりと、丁寧に開く。
その中から出てきたのは――
「……え?」
一本の鍵だった。
間抜けな声と共にじっと見てしまう。極彩の光沢。月と陽と星のレリーフが刻まれた銀の鍵。見覚えのある――正確には、夢見覚えのある形。
間違いない。夢で見たのとまったく一緒のものだ。ひんやりとした手触りも、複雑精妙な形状も、紛うところがない。
和紙の内側には墨文字が記されていた。流麗な手跡 である。香霖堂さんのものだろう。
『お預かりしていた品をお返しします。
当方が見る所、この鏡は鏡ではありません。扉の一種です。鏡と台座の間に、何処かへと通ずる扉が薄く引き延ばされ、綴じこまれていると云えましょう。サンドイッチのようなものです。
かなり強固に施錠されていますが、幸いにして鋳型を同じくする鍵の在庫があったため、そちらを同封いたします。
もっとも、扉は鍵だけで開くとは限らないこと、ゆめゆめお忘れなきよう。
それでは、またのご利用をお待ちしております。
香霖堂店主 森近霖之助』
――ふむ。
どうやら本当に扉であったようだ。あの影は、台座と鏡面に挟み込まれていた扉が、いわば「染み出てきた」といったところなのだろう。
この間は荒唐無稽と一蹴してしまったが、私の直感も捨てた物ではないということか。確かに常識では考えられない話ではある。だが、香霖堂そのものが、店主本人が常識とは相容れぬ型の存在だった。ならば、其処より導き出された帰因が常識外れであっても何らおかしいことはあるまい。そもそも、夢で見たのと全く同じ形状の鍵が手元にある時点で、常識への依拠は意味を失っているだろう。
考えるべき点は幾つもある。
何処に繋がっているのか。
如何にして開くのか。
その先に何が待っているのか――
黄昏彼誰丑三つ時。永久に眠りし東の都
夜半に渡れば三途川
行ったは良いが帰れない
帰れない――
東方に伝わるという、そんな童歌が頭に浮かぶ。
行き先が何処であるにせよ、帰る方法が無い可能性は常にあろう。扉の通ずる先は気になるが、ちょっとそこまでと出かけるわけにもいかないようだ。
とりあえず、鏡をどうしたものかとしばらく頭を捻っていたが――
「取りあえず、朝ご飯の支度かな」
一人ごちた。玄関先であれこれ悩んでいても仕方がない。食事をしてから部屋でゆっくり思案に耽るとしよう。幸い、時間は幾らでもある。
そう思い、台所に向かおうとしたところで。
ぎいと、扉が開いた。
9
「居たわね、レイラ」
来客は叔母だった。
例によって例の如く、羽根突きの帽子に派手な赤系のドレス。手には大きな日傘。けばけばしい化粧もあいまって、センスが良いとはあまり云えない……というよりも、あまりにもあまりな見た目である。ルナサ姉さんの爪の垢でも煎じて飲んでおくべきではなかっただろうか。おまけに晩夏にその格好ではまだまだ暑いだろう。ご苦労なことだ。
それにしても入ってくるならチャイムくらい鳴らして欲しい。
私が不機嫌にそう思っていても、叔母がそれを察する様子はない。ぎろぎろと周辺を睥睨している。
叔母の目が玄関脇の姿見に止まった。怪訝そうな顔で問うてくる。
「あら、どうしたのかしら。鏡なんか出して。何かあったの?」
「いえ、別にちょっと模様替えをしようかと思いまして」
「模様替え? 何でまたこんな時期に」
しつこく問いかけてくるが聞こえなかったふり。
迂闊に答えては何を言い出されるか解ったものではない。この鏡は不可思議ながらも大切なものだ。あれこれ詮索されたくはない。早いところ話を変えてしまおう。
「それで叔母様、今日は何のご用でしょう。
「あら、そうだったわね」
あっさりと話に乗ってくる叔母。
どうせ大したことではあるまい。適当に聞き流しておけば良かろうと、高をくくっていた私は――続く言葉を耳にした途端、天を仰ぐ羽目になった。
「先日の結婚のお話よ。あちらが大変乗り気でね、是非とも一度お会いしたいと云ってくださったの」
――藪蛇だった。
そんな話か。
適当に話を引っ張って、頃合いを見て追い返してしまえば良かった。最もこの話が本題だったのだろうから無駄だったのかもしれない。
思わず沈黙してしまった私に勘違いしたのか、叔母は上機嫌で、かつ一方的に喋りだした。
「まあ、貴女の将来にも関わることですしね、今ここでどうするか決めろなんて無茶なことは云わないわ。とにかく、お互いに話してみないことには何とも云えないでしょうし。先方のお屋敷まではそう遠くないから、レイラさえ良ければ今からでも――」
「その件なら先日お断りしたはずです」
自分の言葉に酔っているのか、陶酔的な叔母の声を遮る。刺々しいな――と自分でも少しそう思うが、何、叔母に対してはこれくらいで丁度良い。
しかしまあ――本当に、しつこい。昔からその傾向はあったが、一度断られたことを臆面もなく持ち出すほどとは思わなかった。私の人間観察が甘かったのだろうか。大きく溜息をついて、反論を続ける。
「何故そこまで私の結婚にこだわるのですか。叔母様の家に限らず、親族の皆様は無事栄えているはずです。お願いですから、そっとしておいてくださいませんか」
「そうもいかないのよ。この家はまだプリズムリバー一族の主家なのよ。私たちとしては、主家の息女――いえ、今となっては一族の主である貴女が、滞りなく平穏無事に暮らせるよう世話をし、見届ける義務があるわ。貴女も子供じゃないんだから、それくらいは解るでしょう」
正論と云えば正論か。
だが、理解することと納得することは等価ではない。叔母にはそれが解っていないようだ。大体、私の今の生活は十分に平穏で無事である。人と関わらず波風を立てず、ずっと屋敷で暮らしている。どこに問題があるのだ。
こんなやり取りをしていても何もならない。単刀直入に聞いてしまおう。
「叔母様、はっきり仰ってくれませんか。何故そこまで執拗なのか、私には正直解りかねます」
ふう、と。大袈裟に溜息をつかれた。やれやれ解っていないなあ、と云わんばかりだ。無自覚にここまで神経を逆なでできるのは才能かもしれない。
「いい? 歴史と伝統ある一族の正当な跡継ぎが、世間から引きこもって一人で暮らし続けている。それも、未来あるうら若い女性がね。家に居なければならない理由があるならともかく、身も心も健康なのよ。同じ階級の方々からは奇妙な目で見られるし、街ではお化け屋敷扱い。そうなると私たちにしても何かと困るのよ……」
延延と自前の論理を展開してゆく叔母の言葉。それを聞いているにつれ、目つきが険しくなるのが自分でも感じられた。
そんなことだろうとは思っていた。要するに誇りやら家柄やら世間体やら、そんな、愚にもつかないもののためか。
それが一体何だというのだ。
貴女のためだと? 笑わせる。結局は自分たちのためではないか。最初から素直に「このままでは世間体が悪いからどうにかしてくれ」とでも云えば良い。下手に貴女のためだなどと取り繕えば繕うほど、私としては忌々しさがつのるだけだ。
まあ、何を云っても無駄なのだろう。他人と自分の論理が異なるということを理解してはくれまい。これ以上相手をするのも面倒だ。思い切って話を打ち切ってしまおう。
「善処します。では叔母様、私、これから出かけますので。失礼します」
「ちょ、ちょっとレイラ、何処に行くの?」
「お望み通り、屋敷の外へ散歩です。閉じこもっているより少しは健康的ではありませんか?」
出来る限り穏やかで静かな声でそう云って。叔母が引き留める間もなく、私はぷいと背を向けると扉の外に滑り出てしまう。勿論、口やかましいあの女性 は置き去りだ。
――嗚呼、まったく。
前言を撤回。こんなことなら、帰り道が無かろうと、屋敷ごと扉たる鏡の彼方に行ってしまいたいものだ。
そう思いながら、私は街の方へと足を向けていた。
10
「何処に通じているか、か。なかなか難しい質問だね……と、煎茶でいいかな」
「あ、有り難うございます」
私にお茶を渡しながら香霖堂さんはそう云った。
叔母を置いて外に出た後、私は何となく街を彷徨っていた。外に出るのは好きではない。だが、家に叔母の香水の匂いや粘着的な気配が残留してしまっているだろう。しばらく距離を置いたほうが良かろうと、半ば仕方なく街を歩く内に、此処に辿り着いていた。幸いにして店は開いており、香霖堂さんも来客を歓迎してくれたというわけだ。
今日も先日と似たような服装、青い上着――甚平と云うらしい――を来て、丸い眼鏡をしている。十年一日の如く同じ姿なのだろうか。だけれども、この店と人にはそれが良く似合っている。
「貴女は、どう思うね?」
「此処とは少し異なる場所に通じているのは間違いないとは思いますが。かといって、国境を越えた先や、海の彼方の国というのも面白みにかけます。もしかすると、行き先はある種の理想郷なのかもしれません」
私の答えに香霖堂さんは首を振る。それでも乱れない静謐な空間。
「理想郷などというものはありはしないよ。ユートピアはね、僕の国では無何有郷と書く。何処にもないからこそ、理想郷の名を関することが出来るのさ。この世の彼方、向こう側に繋がっているとしても、その先は精精が幻想郷だろうね」
まあそうだろう。理想郷があるなどと私も本気で信じているわけではない。
それにしても『幻想郷』とは面白い表現だ。一体如何なる場所だろうか。そう問う私に、どう答えたものかな――と、香霖堂さんはお茶を一口。
僅かな沈黙が降りる。穏やかなで心地良い時間。こういう空気は嫌いではない。
「幻想の世界とは、単に『あちら側』だよ。それは現実の対立項ではないし、理想郷ともまた異なるものだ。幻想が根幹である世界には、相応の理があり法則がある」
頷き耳を傾けながら、頭に浮かんだ問いを深く考えず口に出す。
「住み良い世界なのでしょうか、そこは」
「可能性としてはね。今云った通り、幻想郷とはこの世界とは異なる論理により成立しているものだ。万人にとってどうかは知らないけれど、貴女にとってより良い住処である可能性はあるだろうね」
軽い気持ちでの問いかけに、一瞬鼓動が速くなる。そのような世界もいいな――と、思ってしまったからだ。
もっとも、此方側に嫌気が差しているのも事実だが、積極的に何処かに消えてしまいたいとまでは思っていない。屋敷以外の世界に未練が無いのもまた確かではあるのだが。
「ただ、性質を異にする世界である以上、其処への道を簡単に見出すというわけにはいかない。散歩気分で迷い込むこともあるようだけれども。意識して幻想郷に辿り着くとすれば、矢張りそれ相応の代償が必要になると思うね」
「その代償とは何なのでしょう?」
「それは――」
ボーン、ボーン、ボーン……
香霖堂さんが言い淀んだところで。掛け時計が深夜の招来を告げた。
一人暮らしの身とはいえ、そろそろ帰るべきだろう。夜の街は相応に物騒かもしれないのだし。叔母もいい加減に姿を消しているに違いない。
答えは気になる。それだけでも聞いておこうかと思ったところで
「おや、もう閉店時間だ。すまないね、引き留めてしまって」
香霖堂さんがそう云った。
絶妙なタイミングだ。質問の間合いを外されてしまった。
ひょっとすると、しつこく問われるのを避けたのかも知れない。無理矢理聞くのは良いことではないだろうし、時間も時間だ。素直に帰った方が良いだろう。
私が席を立つと、入り口の扉を引いてくれる。外では満月が人気のない路地を照らしていた。
「お邪魔しました」
一礼すると白いワンピースの足元が風に翻った。玄関口でつばの広い帽子を手に取りかぶる。香霖堂さんは微笑み頷くと――奇妙な言葉を口にした。
「次は、あちら側でお会いしましょう」
「あちら側……?」
きょとん、と見返す私に。
香霖堂さんが微笑みを崩さず、指を鳴らす。
その瞬間。
「きゃっ……!」
ぱん、と。
何かが弾け割れたような音がした。針を突き立てられた風船がそうであるように、空気の塊が飛び出してくる。凄まじいばかりの勢いは、目を開けていられないほどだ。
髪が千々に乱れ、服の裾が舞う。帽子を押えながら身を縮めた。
轟々。
轟。
やがて風の音が徐々にと弱まり、やがて止む。
ゆっくりと、目を開けるとそこでは――
「……」
店が、魔法のように消え去っていた。
温かみのある木に匂いも、独特の風味を持つ看板も消え失せている。路地の一点に、私有地らしき荒れ地が広がっているだけだ。
――成程。
そういう店だったのか。香霖堂さんがどうにも不思議な存在と感じられたのも、故無しではなかったというわけだ。
いわゆる『魔法のお店』だったのだろう。物語の中では良く聞く話だが、自分が体験するとは思わなかった。
ともあれ、お世話になったことにはかわりない。
今ではもう何もない空間にぺこりと頭を下げ。
私は帰路についたのだった。
11
数日後。
私は鍵を弄びながら、居間のテーブルに一人座っていた。長い髪に手をすべらかし、頬杖を付く。こんな時、父さんや姉さん達ならどうしただろうか。
――実際、どうしたものか。
迷い惑いながら、壁に立てかけた鏡の前に立つ。今ではこれが実は何処かへ通ずる扉であるということには全く疑いを抱かなくなっていた。夢で見た光景のせいもあるし、香霖堂さんの話のせいもある。それに、何より――
鏡の前に立ち、鍵を手にする。
手を伸ばしてゆけば、当然鏡面に突き当たる。それでも気にせず手を伸ばし続ければ――ずぶりと。腕が鏡面に沈み込んだ。
香霖堂さんの話を聞いてから、鏡を相手に色々と試し、見つけた現象だ。少し前までなら何があったと慌て、次いで自分の頭を疑うところ。だが、鍵の到着や、香霖堂が目の前で消えるという現象を経験した今、この程度では驚かない。
さらに腕を、即ち鍵を送り込んでゆけば、指先に金属らしき感触が伝わる。手探りで形を把握すると、一部分に穴があいている。
鍵と穴とくれば鍵穴しかあるまい。そう判断して手にした鍵を差し込む。
かちり、と。
鍵が鍵穴にはまりこんだ。
だが、それだけだ。右に回しても左に回しても何も起らず。解錠したとて、何か変化があったわけではない。
香霖堂さんは、扉は鍵だけで開くものではないと云っていたが――さて。
仮に開いたとしても、その後どうするのだろうか。繋がる先は幻想郷とやらであろうが、こちらよりも心安らかに暮らせるならば行ってしまっても良いと、そうも思う。その気持ちは、ここ数日でますます強くなっていた。相当に現世嫌悪が強まっているらしい。
あれやこれやと考えていると、扉を叩く音がした。
嫌な予感がする。予感というより確信。来客が誰かは、火を見るより明らかだ。
とはいえ、居留守を決め込むわけにもいくまい。最低限の礼儀というものがある。
「はい、今参ります」
とてとてと玄関に向かい。がちゃりと扉を開ければ。
――ああ、やっぱり。
そこには、随分と真面目な顔をした叔母が立っていた。
*
私と叔母は居間のテーブルで向かい合っていた。先ほどから一言の会話もない。まあ当然だ、私としては話すべき内容など全くと云って良いほどないのだから。必然的に叔母も意地になって、何も云おうとしなくなる。
時計の鐘が15時を知らせる頃――ようやく諦めたのか叔母が自分から口を開いた。
「この間はびっくりしたわ。いきなり出て行ってしまうのだもの」
驚いたのはこちらだ。一度断った話を臆面もなく持ち出されるとは思わなかった。まあ……あのように大人げない反応をしてしまったのは少々恥ずかしいが。
私がそう返答すると、叔母は紅茶を口にしてきまりが悪そうに笑う。
「確かに少し無神経だったわね。申し訳ないと思うわ。でもね、貴女の為を思ってのことなのよ。それだけは信じてちょうだい。恩を着せるつもりはないけれど、お兄様のことがあった時だって、貴女たちの味方をしたのは私くらいだったわけだし……」
「云いたいことははっきり仰ってください」
言葉を遮った私に、叔母が一瞬むっとした表情 を向けた。どうやら私は露骨に嫌な顔をしていたらしい。
だが、それは当たり前だ。先日あれほど云ったのにまだ懲りないのだから。おまけに奥歯に物が挟まったような物言いをされては誰でも苛つくだろう。
「そう、ならはっきり云うわ」
ゆらりと叔母が立ち上がった。両の瞳がぴたりと据わる。いつに無い様子に、私は怪訝に目を細める。空気こそ読めないが最終的には強引とまではいかない女 が、こんな振る舞いに出るとは珍しいこともあるものだ。
「レイラ。この家を出なさい」
「……え?」
きょとんとして叔母を見やってしまった。いつになく真剣な瞳、厳しい表情で私をじっと見返してくる。これはどうやら、一時期の気の迷いや勢いに駆られたものではなさそうである。
「……本気で仰っているのですか?」
「勿論よ。こんな時に冗談は云わないわ」
貴女の存在が冗談だという気もするのだが、そんな言葉を口に出来る空気では無さそうだ。じろりと見返せば、私の碧の視線と、叔母の蒼いそれが空中でぶつかる。視線を逸らすことなく、叔母は言葉を続けてくる。
「いい加減過去にしがみつくのはおやめなさいな。貴女は現実から目を背けているだけよ。お兄様は亡くなったし、ルナサも、メルランも、それにリリカももう居ないのよ。思い出は大事。でもね、もう忘れなさい。捨て去りなさい。それが貴女のためよ」
「――」
言の葉が喧しい。
動悸が激しい。
息が苦しい。
頭が痛い。
沈黙しているのを肯定と解したのか、叔母は一人頷いて滔滔と喋り続ける。
「例の結婚のお話だって貴女を思ってのことなのよ。他家の方々とお付き合いして、家に入るということになれば、いくら貴女でも現実を見つめざるを得ないでしょう。最初は少し辛いかもしれないけれど、長い目で見れば、誰にとっても良い結果を招くはずよ」
「……叔母様、少しお黙りください」
声を押し殺し、ただそれだけを告げる。私もそろそろ我慢の限界だ。
ぴしり。
手元のカップにヒビが入った。
だが、この女性 が黙るはずもない。私を一瞥するだけだ。
「いっそのことお屋敷を売り払ってしまうべきかしらね。この家をわざわざ残しておく理由などないのだし――」
ばん!
声を阻むべく強くテーブルを叩くと、叔母が身を震わせた。ソーサーが揺れ、紅茶がクロスにこぼれる。後で掃除をしなければ。
「お黙り下さいと云っているでしょう! いかに叔母様といえども、そのようなことを云う権利はないはずです。私はこの家の当主であり、屋敷を守る義務があります。貴女の云いぐさは無礼も良いところ。今すぐお帰り下さい」
さっと叔母の顔色が変わった。堪忍袋の緒が切れたのは、ほとんど同時というわけだ。顔を朱に染め、怒鳴り出す。
「いい加減になさい! 貴女はそれでもプリズムリバー一族の娘!? 家のことを、一族のことを思うならこんな生活はやめるべきよ。この家に、屋敷に、皆の思い出にしがみついていて何の意味があるっていうの!!」
その言葉を聞いた刹那。
ぷちり、と。
私の頭の中で何が切れた。
――もう、駄目だ。
――これ以上、この人の言葉を聞くことは出来ない。一刻たりも。
ゆらりと立ち上がった。
特に意味ある行動ではない。座してくだらぬ話を聞き続けるのに耐えられなくなったというだけだ。
それなのに、叔母が少し身じろぎした。私の迫力にたじろいだのか。
「レイラ、聞いて……?」
震える声で精一杯問いかけようとして
がた。
そんな音が、喧しい声を遮った。
何の音だ、とばかりにきょろきょろしていた叔母の瞳が、テーブルのあたりで大きく見開かれる。
私が席を立ってすぐに、テーブルと椅子が自動的に揺れ始めたからだ。何が起ったのかと、あたりを見回して落ち着かない様子。
ぴしりと。叔母の手元に置かれていたティーカップが二つに割れた。流れ出した紅茶が、純白のテーブルクロスを鈍色に染める。
「ちょ、ちょっと、何なのこれは!? レイラ、貴女、何を……?」
今更そんな問いもあったものではない。
騒霊現象 に決まっているだろう。私程の年である少年少女の感情が激発すると、時として発生する現象である。ここ何年かは絶えてなかったのだが、久しぶりにやってしまった。父さんや姉さんたちならまたかですませる程度の出来事とはいえ、叔母は初体験のはず。怯えるのも無理はない。
これで帰ってくれるだろうか――と淡い期待を抱けばさにあらず、がたがた揺れるテーブルを椅子を気味悪そうに眺めながら、ごくりと息を呑んだだけだった。頭を振り、目を当ててくる。気丈にもまだ言葉を連ねるつもりらしい。
「――脅かそうとしても意味がないわよ。今度ばかりは譲るつもりはないわ。一族のためにも、貴女のためにも、この家にしがみつくことは無意味だと――」
まだ云うか。
――本当に。
本当に、くどい。
「叔母様こそいい加減にしてください」
がた、がた。
声を低く押し殺すにつれて、私の内心は激化してゆく。感情が高ぶるにつれて、揺れが大きくなってきた。風景画が、ばたばたと壁を叩いている。まるで縦開きの窓のようだ。
「意味の有る無しではないのはお解りでしょう! ここは私の、私たちの家です。プリズムリバー一家の最後の拠り所です。現実から目を背けている? ええ、その通りです。私は現世など見たくはない。姉たちのいない世界など何の意味もない。大切な家族がもう誰も居ないなら、その思い出をよすがとするのみで生きていきたいと思うことが悪なのですか? 幻想の世界に耽溺するのは弱者なのですか? それなら私は弱者で結構です。自ら望んで、喜んで、現に生きるに値しない者になりましょう。往時の幻影に耽溺し、幻想の世界に参りましょう」
がたがたがた
がたがたがたがたがた
がたがたがたがたがたがたがたがたがたがたがたがたがたがたがたがたがたがたがたがたがたがたがたがたがたがたがたがたがたがたがたがたがたがたがたがたがたがたがたがたがたがたがたがたがたがたがたがたがたがたがたがたがたがたがたがた。
言葉が発せられるにつれ、何もかもが揺れを増してゆく。地震かと見紛うばかりだ。こうなってしまうと、自分でも、もうどうにもできない。
「――っ、レイラ……!」
床までが上下左右に揺れ、跳ね飛び出した。立っていられなくなったのか、叔母が尻餅をついた。その瞳には恐怖が滲んでいる。
がたん!
一際大きい揺れが襲ってきた。居間の片隅でしっかりと台座に固定されているはずの中世の甲冑が大きく揺れ、倒れ込む。装飾用の槍がその手を放れ、宙を飛び
「ひいっ!?」
ぐさりと。
叔母の足元に突き刺さった。顔面蒼白となって、叔母が怯え声を上げる。
「わ、私をどうするつもりなの! 一体何がしたいの、レイラ!?」
「ご安心ください。叔母様を傷つけるようなことはありませんから。私の願いは、一刻も早くこの家から出て行っていただきたいというだけです。そして叶うならば、もう二度と来ないで欲しいという、ただそれだけのこと」
先ほどまでの威勢はどうしたのやら、ぱくぱくと金魚のように口をふるわせながら、こくこくと頷く。
最早言葉もないようだ。床に這うようにしてよたよたと歩き、叔母が玄関口へと向かってゆく。
それを邪魔するつもりはない。開けと念じると、観音開きに扉が開いた。
這々の体で叔母が出て行く。
腰が抜けたのか、よろめきながらやっとの思いで屋敷の門に辿り着くと、一目散に丘を下っていった。あの様子では、二度と来ようとはしまい。
――では、最後の仕上げだ。
叔母が開け放しにしたままの扉に向かい念ずると、轟音と共にそれが閉ざされた。かちゃりがちゃりと二重三重に施錠 がされる。封印と云っても通用しそうな強固さだ。もう二度と、開くことがなさそうなほどに。
「……久々にやっちゃったな」
呟いて息をつくと、揺れ、あるいは空中を舞っていた絵や、椅子や、テーブルが動きを止めた。先ほどまでとはうってかわった静寂が居間を満たす。嵐の前ならぬ、後の静けさといえようか。
だが、これにて一件落着、とはいかなかった。いくわけがない。
しばらくの間、ぼうっとしていると、突然。
ぱりん、と。
何かが割れる音が、私の耳に届いた。
12
この部屋に、音を立てて割れそうなものは少なくない。庭に面した窓、装飾的な戸棚の硝子、照明など、幾らでも数え上げることが出来る。だが、この時期、この場所で割れそうなものといえば、件の姿見しかあるまいと私は感じていた。
慌てず騒がず、壁に立てかけておいた姿見へと近寄ると――
「……成程、こうなってたんだ。確かに扉ね、これ」
姿見の鏡面が粉々に砕けていた。床に散らばった破片が、照明からの光を反射して虹色に光っている。
そして、鏡面の代わりに浮かび上がる、精巧な彫り物の施された黒く揺らぐ幻影 の扉。
それを目にした刹那。
頭の中で個々の情報が繋がり、パズルの断片 が一点に集約してゆく。
鏡からの音楽。
香霖堂さんの言葉。
騒霊現象により閉じた扉――
偶然の導きか、神――或いは魔の見えざる手か。
外界と内界を通ずる扉が閉ざされ。
内界はそのままに幻界への扉が開かれ、そして幻界は外界と化す。
2から1が引かれ、新たに1が足され、プラスマイナスゼロ。帳尻はぴったりだ。相応の代
償とはこのことか。
鍵穴に鍵をはめこむだけで扉が開くはずがなかった。現実への扉を閉じることによって、幻想への扉を開かねばならなかったのだ。
他の誰でもない、私の意志をもって。
鏡面が砕かれ扉が出現した事実が意味することは唯一つ。此方に愛想をつかした私は、彼方――幻想郷に相応しいということなのだろう。
ならば善は急げ、である。
今更こちらに留まるか、あちらに行くかを迷いはしない。
行き先は無論、夢の国などではなかろう。香霖堂さんが指摘したように、幻想と理想は等価ではないからだ。それでも、姉たちの過ぎ去りし幻にしがみついている私には、幻の国こそが相応しい。
「……ある意味、叔母様には感謝しないとね」
実感を込めて呟く。自分がどうすべきか、結果的には叔母の来訪によってはっきりとしたのだから。感謝状くらいあげてもいいかもしれない。
飛び散った家具を片付けると、私は準備をすべく衣装部屋へと向かった。
*
「これでよし、と」
碧の舞台衣装と帽子をかぶり、扉と化した姿見を外壁に立てかけて、私は屋敷の庭で一人頷いた。まだ姉さんたちが居た頃に仕立てた物だが、何とか着られるようだ。背が然程伸びなかったことが幸いした。胸の辺りが多少きついが、これは仕方がなかろう。
一人きりになってから開くことの無かった衣装部屋から持ち出してきたこの衣装、着るのは本当に久しぶりだ。そもそも普段から着るようなものではない。
最後に着たのは、姉さんたちが居なくなってしまう直前、何処で開かれたか覚えてすらいないが、父に請われて独唱会に出場した時だったか。あれからどれ程経つのか、正確な日付は数えたことがないし数えようとも思わないが、数年は経っているのは間違いない。
着飾った自分の姿を確認する。夢の中で見たのと瓜二つだ。そして、あの夢の中で私は歌おうとし、姉さんたちは演奏していた。ならば、今から何をどうすればいいのか迷うことはない。
時刻は丁度、深夜の零時。昨日と今日の、今日と明日の境界たる時間。
満月の光が柔らかく私を照らしている。今夜ばかりは虫の音も聞こえない。私たちに気を使っていてくれるのだろうか。
遠くに望むのは街の光。見納めだ。
――では、はじめるとしよう。
「じゃあお願いね、姉さん」
そう呟くと、鏡――鏡だった幻の扉越しに、耳に馴染んだ旋律が漏れ出でる。
こんなことは起こりえない。常識ではあるはずがない。
だが、既にして鏡は扉であり、屋敷は幻界に近しい物と化している。ならば、消えた筈の姉たちが舞い戻ってきていても何の不思議もあるまい。
扉を透かして影が舞っているのが見える。煌々と照らす月光の下で、黒と白と赤の影絵がちらちらと蠢く。
黒にはヴァイオリン。白はトランペットで、赤はキーボード。
音がいっそう大きくなった。途端、私はそれが何の曲であったか明瞭に思いだした。
「……姉さんたら」
くすりと笑う。
何度となく、幾度となく親しんできた旋律だ。
私の好きだったうた。
嬉しいときも哀しいときも、姉妹全員での誕生パーティーでも姉さんがたちが居なくなったときも、何かあれば私が口ずさんでいたうた。
わざわざ私の好きだったものを選ぶあたり、ルナサ姉さんの差し金だなと思って口元が緩む。全く、いつもいつも気を使いすぎるのだから。
せっかくの気遣いを無駄にしてはいけないだろう。碧の舞台衣装の裾をつまみあげ、私はぺこりと一礼。胸元に手を当て、ステップを踏んで歌い始める。屋敷に私しか居なくなってから、こうやって歌うのははじめてだ。
Votre ame est un paysage choisi
Que vont charmant masques et bergamasques
Jouant du luth et dansant et quasi
Tristes sous leurs deguisements fantasques.
Tout en chantant sur le mode mineur
L'amour vainqueur et la vie opportune,
Ils n'ont pas l'air de croire a leur bonheur
Et leur chanson se mele au clair de lune,
Au calme clair de lune triste et beau,
Qui fait rever les oiseaux dans les arbres
Et sangloter d'extase les jets d'eau,
Les grands jets d'eau sveltes parmi les marbres.
どれほど歌い踊り続けていたか。
やがて演奏付きの独奏を終え、拍手も無い中で私は庭をぐるりと見回す。
屋敷は静かに佇み、人や虫の声はなく、月はただ静かに私を照らしている。そこには何の変化もない。
ただ、一点を除いては。
「入り口はここ、ね。それじゃあ……」
黒く揺らぐ幻影の扉は、強固な銀のそれへと姿を変えていた。触れることも、押し引きすることも出来る。
さあ、行くとしよう。もう迷いはない。
鍵を扉にさし。
ぎいと開く。
足を踏み出せば、柔らかい光に包まれて――
13
――優しい日差しが、私の瞼を突き刺した。
あたたかい陽光が照らしてくる。陽は高く、足元には柔らかい草の感触。私は、プリズムリバー屋敷の庭に一人立っていた。
風が頬を撫でた。長髪がなびいて流れる。爽やかで少し涼しげな風だ。秋がもう近いのだろう。
振り返れば、今し方くぐったばかりの鏡――いや、扉は何処にも無い。私が此方に来てしまった以上、用済みということなのだろう。
庭を囲む柵はそのままだ。
だがその彼方に広がるのは無論、今まで住んでいた街ではない。丘の遙か下に広がる風景は違ってしまっている。教会の尖塔も、壮麗な鐘楼も、石造りの街も無い。茫漠と広がる田畑、木造らしき家屋に、大きな鳥居。そんなものばかりだ。
此処が幻想郷。理想郷ならぬ、現実の彼方の地。
その世界に来てしまった以上、後戻りは出来まい。扉はもう無いのだし、私も、家も、既にして幻想の物となってしまったのだろうから。
そう。
この屋敷、私の家は現より放たれた。私が望んだ通りに。
私は自分の部屋を振り仰いだ。窓からはお気に入りのベッドがはっきりと見える。そして、ちょこちょこと動く三つの影も。
黒と白と赤の舞台衣装。昨夜の演奏会からの着たきりすずめというわけだ。あんな格好をずっとしているのは目立ってしょうがないけれど、それ以上に似合っているのがおかしくて私は微笑う。
楽器もそのままだ。ルナサ姉さんはヴァイオリン。メルラン姉さんはトランペット。そしてリリカ姉さんがキーボード。そして私の楽器はこの唄聲。四人での演奏会はいつでも準備完了だ。
ふわりとした風に目を細め、草を踏んで私は玄関の扉に手をかける。
閉じられているはずがない。
鍵は外され、扉は既に開かれた。
何より、ここは私の――私たちの家なのだ。
さあ帰ろう。
我が家に帰ろう。
――今日から私たちは、また四人になるのだから。
(了)
玄関口に鏡が置いてあったのは、翌朝のことだった。
何時の間に持ってきたのだろう。
街から帰り、夕食とお風呂を片付ける、玄関の鍵を確認して眠り、また起きる。その間に、一切の来客は無かった。郵便屋さんや宅配の人が来た様子もない。まさか香霖堂さんが直接届けに来たわけでもなかろう。つくづく、不思議な店であり人――或いは人以外の何者かである。
それにしても、だ。
「すっかり綺麗になったかな。でも……」
そう。
でも、なのだ。
件の黒い影はすっかり消えている。鏡面には一部の汚れもなく、ぴかぴかだ。だというのに、微妙な違和感が拭えない。
鏡面の下に、薄い薄い皮膜が張っているような印象。あの黒い影――扉のようなそれが、鏡面全体に広がったというような気がするのだ。
目には映っていない。私がそう感じているだけだ。だから直感的なものであり一切根拠はない。だが、幸か不幸か、私の直感は良く当たる。大体において、理性的な判断より瞬時の感覚の方が当てになる。論理的思考が苦手だと云えばそれまでなのだが、それについての議論は取りあえず横に置いておこう。
などと、当て所も無い思考を繰り広げている内に、ふと気付いたことがあった。
鏡の横。
其処に、何かが和紙にくるまって転がっていた。
手に取ると、ずしりとした感触があった。和紙を破かないように、ゆっくりと、丁寧に開く。
その中から出てきたのは――
「……え?」
一本の鍵だった。
間抜けな声と共にじっと見てしまう。極彩の光沢。月と陽と星のレリーフが刻まれた銀の鍵。見覚えのある――正確には、夢見覚えのある形。
間違いない。夢で見たのとまったく一緒のものだ。ひんやりとした手触りも、複雑精妙な形状も、紛うところがない。
和紙の内側には墨文字が記されていた。流麗な
『お預かりしていた品をお返しします。
当方が見る所、この鏡は鏡ではありません。扉の一種です。鏡と台座の間に、何処かへと通ずる扉が薄く引き延ばされ、綴じこまれていると云えましょう。サンドイッチのようなものです。
かなり強固に施錠されていますが、幸いにして鋳型を同じくする鍵の在庫があったため、そちらを同封いたします。
もっとも、扉は鍵だけで開くとは限らないこと、ゆめゆめお忘れなきよう。
それでは、またのご利用をお待ちしております。
香霖堂店主 森近霖之助』
――ふむ。
どうやら本当に扉であったようだ。あの影は、台座と鏡面に挟み込まれていた扉が、いわば「染み出てきた」といったところなのだろう。
この間は荒唐無稽と一蹴してしまったが、私の直感も捨てた物ではないということか。確かに常識では考えられない話ではある。だが、香霖堂そのものが、店主本人が常識とは相容れぬ型の存在だった。ならば、其処より導き出された帰因が常識外れであっても何らおかしいことはあるまい。そもそも、夢で見たのと全く同じ形状の鍵が手元にある時点で、常識への依拠は意味を失っているだろう。
考えるべき点は幾つもある。
何処に繋がっているのか。
如何にして開くのか。
その先に何が待っているのか――
黄昏彼誰丑三つ時。永久に眠りし東の都
夜半に渡れば三途川
行ったは良いが帰れない
帰れない――
東方に伝わるという、そんな童歌が頭に浮かぶ。
行き先が何処であるにせよ、帰る方法が無い可能性は常にあろう。扉の通ずる先は気になるが、ちょっとそこまでと出かけるわけにもいかないようだ。
とりあえず、鏡をどうしたものかとしばらく頭を捻っていたが――
「取りあえず、朝ご飯の支度かな」
一人ごちた。玄関先であれこれ悩んでいても仕方がない。食事をしてから部屋でゆっくり思案に耽るとしよう。幸い、時間は幾らでもある。
そう思い、台所に向かおうとしたところで。
ぎいと、扉が開いた。
9
「居たわね、レイラ」
来客は叔母だった。
例によって例の如く、羽根突きの帽子に派手な赤系のドレス。手には大きな日傘。けばけばしい化粧もあいまって、センスが良いとはあまり云えない……というよりも、あまりにもあまりな見た目である。ルナサ姉さんの爪の垢でも煎じて飲んでおくべきではなかっただろうか。おまけに晩夏にその格好ではまだまだ暑いだろう。ご苦労なことだ。
それにしても入ってくるならチャイムくらい鳴らして欲しい。
私が不機嫌にそう思っていても、叔母がそれを察する様子はない。ぎろぎろと周辺を睥睨している。
叔母の目が玄関脇の姿見に止まった。怪訝そうな顔で問うてくる。
「あら、どうしたのかしら。鏡なんか出して。何かあったの?」
「いえ、別にちょっと模様替えをしようかと思いまして」
「模様替え? 何でまたこんな時期に」
しつこく問いかけてくるが聞こえなかったふり。
迂闊に答えては何を言い出されるか解ったものではない。この鏡は不可思議ながらも大切なものだ。あれこれ詮索されたくはない。早いところ話を変えてしまおう。
「それで叔母様、今日は何のご用でしょう。
「あら、そうだったわね」
あっさりと話に乗ってくる叔母。
どうせ大したことではあるまい。適当に聞き流しておけば良かろうと、高をくくっていた私は――続く言葉を耳にした途端、天を仰ぐ羽目になった。
「先日の結婚のお話よ。あちらが大変乗り気でね、是非とも一度お会いしたいと云ってくださったの」
――藪蛇だった。
そんな話か。
適当に話を引っ張って、頃合いを見て追い返してしまえば良かった。最もこの話が本題だったのだろうから無駄だったのかもしれない。
思わず沈黙してしまった私に勘違いしたのか、叔母は上機嫌で、かつ一方的に喋りだした。
「まあ、貴女の将来にも関わることですしね、今ここでどうするか決めろなんて無茶なことは云わないわ。とにかく、お互いに話してみないことには何とも云えないでしょうし。先方のお屋敷まではそう遠くないから、レイラさえ良ければ今からでも――」
「その件なら先日お断りしたはずです」
自分の言葉に酔っているのか、陶酔的な叔母の声を遮る。刺々しいな――と自分でも少しそう思うが、何、叔母に対してはこれくらいで丁度良い。
しかしまあ――本当に、しつこい。昔からその傾向はあったが、一度断られたことを臆面もなく持ち出すほどとは思わなかった。私の人間観察が甘かったのだろうか。大きく溜息をついて、反論を続ける。
「何故そこまで私の結婚にこだわるのですか。叔母様の家に限らず、親族の皆様は無事栄えているはずです。お願いですから、そっとしておいてくださいませんか」
「そうもいかないのよ。この家はまだプリズムリバー一族の主家なのよ。私たちとしては、主家の息女――いえ、今となっては一族の主である貴女が、滞りなく平穏無事に暮らせるよう世話をし、見届ける義務があるわ。貴女も子供じゃないんだから、それくらいは解るでしょう」
正論と云えば正論か。
だが、理解することと納得することは等価ではない。叔母にはそれが解っていないようだ。大体、私の今の生活は十分に平穏で無事である。人と関わらず波風を立てず、ずっと屋敷で暮らしている。どこに問題があるのだ。
こんなやり取りをしていても何もならない。単刀直入に聞いてしまおう。
「叔母様、はっきり仰ってくれませんか。何故そこまで執拗なのか、私には正直解りかねます」
ふう、と。大袈裟に溜息をつかれた。やれやれ解っていないなあ、と云わんばかりだ。無自覚にここまで神経を逆なでできるのは才能かもしれない。
「いい? 歴史と伝統ある一族の正当な跡継ぎが、世間から引きこもって一人で暮らし続けている。それも、未来あるうら若い女性がね。家に居なければならない理由があるならともかく、身も心も健康なのよ。同じ階級の方々からは奇妙な目で見られるし、街ではお化け屋敷扱い。そうなると私たちにしても何かと困るのよ……」
延延と自前の論理を展開してゆく叔母の言葉。それを聞いているにつれ、目つきが険しくなるのが自分でも感じられた。
そんなことだろうとは思っていた。要するに誇りやら家柄やら世間体やら、そんな、愚にもつかないもののためか。
それが一体何だというのだ。
貴女のためだと? 笑わせる。結局は自分たちのためではないか。最初から素直に「このままでは世間体が悪いからどうにかしてくれ」とでも云えば良い。下手に貴女のためだなどと取り繕えば繕うほど、私としては忌々しさがつのるだけだ。
まあ、何を云っても無駄なのだろう。他人と自分の論理が異なるということを理解してはくれまい。これ以上相手をするのも面倒だ。思い切って話を打ち切ってしまおう。
「善処します。では叔母様、私、これから出かけますので。失礼します」
「ちょ、ちょっとレイラ、何処に行くの?」
「お望み通り、屋敷の外へ散歩です。閉じこもっているより少しは健康的ではありませんか?」
出来る限り穏やかで静かな声でそう云って。叔母が引き留める間もなく、私はぷいと背を向けると扉の外に滑り出てしまう。勿論、口やかましいあの
――嗚呼、まったく。
前言を撤回。こんなことなら、帰り道が無かろうと、屋敷ごと扉たる鏡の彼方に行ってしまいたいものだ。
そう思いながら、私は街の方へと足を向けていた。
10
「何処に通じているか、か。なかなか難しい質問だね……と、煎茶でいいかな」
「あ、有り難うございます」
私にお茶を渡しながら香霖堂さんはそう云った。
叔母を置いて外に出た後、私は何となく街を彷徨っていた。外に出るのは好きではない。だが、家に叔母の香水の匂いや粘着的な気配が残留してしまっているだろう。しばらく距離を置いたほうが良かろうと、半ば仕方なく街を歩く内に、此処に辿り着いていた。幸いにして店は開いており、香霖堂さんも来客を歓迎してくれたというわけだ。
今日も先日と似たような服装、青い上着――甚平と云うらしい――を来て、丸い眼鏡をしている。十年一日の如く同じ姿なのだろうか。だけれども、この店と人にはそれが良く似合っている。
「貴女は、どう思うね?」
「此処とは少し異なる場所に通じているのは間違いないとは思いますが。かといって、国境を越えた先や、海の彼方の国というのも面白みにかけます。もしかすると、行き先はある種の理想郷なのかもしれません」
私の答えに香霖堂さんは首を振る。それでも乱れない静謐な空間。
「理想郷などというものはありはしないよ。ユートピアはね、僕の国では無何有郷と書く。何処にもないからこそ、理想郷の名を関することが出来るのさ。この世の彼方、向こう側に繋がっているとしても、その先は精精が幻想郷だろうね」
まあそうだろう。理想郷があるなどと私も本気で信じているわけではない。
それにしても『幻想郷』とは面白い表現だ。一体如何なる場所だろうか。そう問う私に、どう答えたものかな――と、香霖堂さんはお茶を一口。
僅かな沈黙が降りる。穏やかなで心地良い時間。こういう空気は嫌いではない。
「幻想の世界とは、単に『あちら側』だよ。それは現実の対立項ではないし、理想郷ともまた異なるものだ。幻想が根幹である世界には、相応の理があり法則がある」
頷き耳を傾けながら、頭に浮かんだ問いを深く考えず口に出す。
「住み良い世界なのでしょうか、そこは」
「可能性としてはね。今云った通り、幻想郷とはこの世界とは異なる論理により成立しているものだ。万人にとってどうかは知らないけれど、貴女にとってより良い住処である可能性はあるだろうね」
軽い気持ちでの問いかけに、一瞬鼓動が速くなる。そのような世界もいいな――と、思ってしまったからだ。
もっとも、此方側に嫌気が差しているのも事実だが、積極的に何処かに消えてしまいたいとまでは思っていない。屋敷以外の世界に未練が無いのもまた確かではあるのだが。
「ただ、性質を異にする世界である以上、其処への道を簡単に見出すというわけにはいかない。散歩気分で迷い込むこともあるようだけれども。意識して幻想郷に辿り着くとすれば、矢張りそれ相応の代償が必要になると思うね」
「その代償とは何なのでしょう?」
「それは――」
ボーン、ボーン、ボーン……
香霖堂さんが言い淀んだところで。掛け時計が深夜の招来を告げた。
一人暮らしの身とはいえ、そろそろ帰るべきだろう。夜の街は相応に物騒かもしれないのだし。叔母もいい加減に姿を消しているに違いない。
答えは気になる。それだけでも聞いておこうかと思ったところで
「おや、もう閉店時間だ。すまないね、引き留めてしまって」
香霖堂さんがそう云った。
絶妙なタイミングだ。質問の間合いを外されてしまった。
ひょっとすると、しつこく問われるのを避けたのかも知れない。無理矢理聞くのは良いことではないだろうし、時間も時間だ。素直に帰った方が良いだろう。
私が席を立つと、入り口の扉を引いてくれる。外では満月が人気のない路地を照らしていた。
「お邪魔しました」
一礼すると白いワンピースの足元が風に翻った。玄関口でつばの広い帽子を手に取りかぶる。香霖堂さんは微笑み頷くと――奇妙な言葉を口にした。
「次は、あちら側でお会いしましょう」
「あちら側……?」
きょとん、と見返す私に。
香霖堂さんが微笑みを崩さず、指を鳴らす。
その瞬間。
「きゃっ……!」
ぱん、と。
何かが弾け割れたような音がした。針を突き立てられた風船がそうであるように、空気の塊が飛び出してくる。凄まじいばかりの勢いは、目を開けていられないほどだ。
髪が千々に乱れ、服の裾が舞う。帽子を押えながら身を縮めた。
轟々。
轟。
やがて風の音が徐々にと弱まり、やがて止む。
ゆっくりと、目を開けるとそこでは――
「……」
店が、魔法のように消え去っていた。
温かみのある木に匂いも、独特の風味を持つ看板も消え失せている。路地の一点に、私有地らしき荒れ地が広がっているだけだ。
――成程。
そういう店だったのか。香霖堂さんがどうにも不思議な存在と感じられたのも、故無しではなかったというわけだ。
いわゆる『魔法のお店』だったのだろう。物語の中では良く聞く話だが、自分が体験するとは思わなかった。
ともあれ、お世話になったことにはかわりない。
今ではもう何もない空間にぺこりと頭を下げ。
私は帰路についたのだった。
11
数日後。
私は鍵を弄びながら、居間のテーブルに一人座っていた。長い髪に手をすべらかし、頬杖を付く。こんな時、父さんや姉さん達ならどうしただろうか。
――実際、どうしたものか。
迷い惑いながら、壁に立てかけた鏡の前に立つ。今ではこれが実は何処かへ通ずる扉であるということには全く疑いを抱かなくなっていた。夢で見た光景のせいもあるし、香霖堂さんの話のせいもある。それに、何より――
鏡の前に立ち、鍵を手にする。
手を伸ばしてゆけば、当然鏡面に突き当たる。それでも気にせず手を伸ばし続ければ――ずぶりと。腕が鏡面に沈み込んだ。
香霖堂さんの話を聞いてから、鏡を相手に色々と試し、見つけた現象だ。少し前までなら何があったと慌て、次いで自分の頭を疑うところ。だが、鍵の到着や、香霖堂が目の前で消えるという現象を経験した今、この程度では驚かない。
さらに腕を、即ち鍵を送り込んでゆけば、指先に金属らしき感触が伝わる。手探りで形を把握すると、一部分に穴があいている。
鍵と穴とくれば鍵穴しかあるまい。そう判断して手にした鍵を差し込む。
かちり、と。
鍵が鍵穴にはまりこんだ。
だが、それだけだ。右に回しても左に回しても何も起らず。解錠したとて、何か変化があったわけではない。
香霖堂さんは、扉は鍵だけで開くものではないと云っていたが――さて。
仮に開いたとしても、その後どうするのだろうか。繋がる先は幻想郷とやらであろうが、こちらよりも心安らかに暮らせるならば行ってしまっても良いと、そうも思う。その気持ちは、ここ数日でますます強くなっていた。相当に現世嫌悪が強まっているらしい。
あれやこれやと考えていると、扉を叩く音がした。
嫌な予感がする。予感というより確信。来客が誰かは、火を見るより明らかだ。
とはいえ、居留守を決め込むわけにもいくまい。最低限の礼儀というものがある。
「はい、今参ります」
とてとてと玄関に向かい。がちゃりと扉を開ければ。
――ああ、やっぱり。
そこには、随分と真面目な顔をした叔母が立っていた。
私と叔母は居間のテーブルで向かい合っていた。先ほどから一言の会話もない。まあ当然だ、私としては話すべき内容など全くと云って良いほどないのだから。必然的に叔母も意地になって、何も云おうとしなくなる。
時計の鐘が15時を知らせる頃――ようやく諦めたのか叔母が自分から口を開いた。
「この間はびっくりしたわ。いきなり出て行ってしまうのだもの」
驚いたのはこちらだ。一度断った話を臆面もなく持ち出されるとは思わなかった。まあ……あのように大人げない反応をしてしまったのは少々恥ずかしいが。
私がそう返答すると、叔母は紅茶を口にしてきまりが悪そうに笑う。
「確かに少し無神経だったわね。申し訳ないと思うわ。でもね、貴女の為を思ってのことなのよ。それだけは信じてちょうだい。恩を着せるつもりはないけれど、お兄様のことがあった時だって、貴女たちの味方をしたのは私くらいだったわけだし……」
「云いたいことははっきり仰ってください」
言葉を遮った私に、叔母が一瞬むっとした
だが、それは当たり前だ。先日あれほど云ったのにまだ懲りないのだから。おまけに奥歯に物が挟まったような物言いをされては誰でも苛つくだろう。
「そう、ならはっきり云うわ」
ゆらりと叔母が立ち上がった。両の瞳がぴたりと据わる。いつに無い様子に、私は怪訝に目を細める。空気こそ読めないが最終的には強引とまではいかない
「レイラ。この家を出なさい」
「……え?」
きょとんとして叔母を見やってしまった。いつになく真剣な瞳、厳しい表情で私をじっと見返してくる。これはどうやら、一時期の気の迷いや勢いに駆られたものではなさそうである。
「……本気で仰っているのですか?」
「勿論よ。こんな時に冗談は云わないわ」
貴女の存在が冗談だという気もするのだが、そんな言葉を口に出来る空気では無さそうだ。じろりと見返せば、私の碧の視線と、叔母の蒼いそれが空中でぶつかる。視線を逸らすことなく、叔母は言葉を続けてくる。
「いい加減過去にしがみつくのはおやめなさいな。貴女は現実から目を背けているだけよ。お兄様は亡くなったし、ルナサも、メルランも、それにリリカももう居ないのよ。思い出は大事。でもね、もう忘れなさい。捨て去りなさい。それが貴女のためよ」
「――」
言の葉が喧しい。
動悸が激しい。
息が苦しい。
頭が痛い。
沈黙しているのを肯定と解したのか、叔母は一人頷いて滔滔と喋り続ける。
「例の結婚のお話だって貴女を思ってのことなのよ。他家の方々とお付き合いして、家に入るということになれば、いくら貴女でも現実を見つめざるを得ないでしょう。最初は少し辛いかもしれないけれど、長い目で見れば、誰にとっても良い結果を招くはずよ」
「……叔母様、少しお黙りください」
声を押し殺し、ただそれだけを告げる。私もそろそろ我慢の限界だ。
ぴしり。
手元のカップにヒビが入った。
だが、この
「いっそのことお屋敷を売り払ってしまうべきかしらね。この家をわざわざ残しておく理由などないのだし――」
ばん!
声を阻むべく強くテーブルを叩くと、叔母が身を震わせた。ソーサーが揺れ、紅茶がクロスにこぼれる。後で掃除をしなければ。
「お黙り下さいと云っているでしょう! いかに叔母様といえども、そのようなことを云う権利はないはずです。私はこの家の当主であり、屋敷を守る義務があります。貴女の云いぐさは無礼も良いところ。今すぐお帰り下さい」
さっと叔母の顔色が変わった。堪忍袋の緒が切れたのは、ほとんど同時というわけだ。顔を朱に染め、怒鳴り出す。
「いい加減になさい! 貴女はそれでもプリズムリバー一族の娘!? 家のことを、一族のことを思うならこんな生活はやめるべきよ。この家に、屋敷に、皆の思い出にしがみついていて何の意味があるっていうの!!」
その言葉を聞いた刹那。
ぷちり、と。
私の頭の中で何が切れた。
――もう、駄目だ。
――これ以上、この人の言葉を聞くことは出来ない。一刻たりも。
ゆらりと立ち上がった。
特に意味ある行動ではない。座してくだらぬ話を聞き続けるのに耐えられなくなったというだけだ。
それなのに、叔母が少し身じろぎした。私の迫力にたじろいだのか。
「レイラ、聞いて……?」
震える声で精一杯問いかけようとして
がた。
そんな音が、喧しい声を遮った。
何の音だ、とばかりにきょろきょろしていた叔母の瞳が、テーブルのあたりで大きく見開かれる。
私が席を立ってすぐに、テーブルと椅子が自動的に揺れ始めたからだ。何が起ったのかと、あたりを見回して落ち着かない様子。
ぴしりと。叔母の手元に置かれていたティーカップが二つに割れた。流れ出した紅茶が、純白のテーブルクロスを鈍色に染める。
「ちょ、ちょっと、何なのこれは!? レイラ、貴女、何を……?」
今更そんな問いもあったものではない。
これで帰ってくれるだろうか――と淡い期待を抱けばさにあらず、がたがた揺れるテーブルを椅子を気味悪そうに眺めながら、ごくりと息を呑んだだけだった。頭を振り、目を当ててくる。気丈にもまだ言葉を連ねるつもりらしい。
「――脅かそうとしても意味がないわよ。今度ばかりは譲るつもりはないわ。一族のためにも、貴女のためにも、この家にしがみつくことは無意味だと――」
まだ云うか。
――本当に。
本当に、くどい。
「叔母様こそいい加減にしてください」
がた、がた。
声を低く押し殺すにつれて、私の内心は激化してゆく。感情が高ぶるにつれて、揺れが大きくなってきた。風景画が、ばたばたと壁を叩いている。まるで縦開きの窓のようだ。
「意味の有る無しではないのはお解りでしょう! ここは私の、私たちの家です。プリズムリバー一家の最後の拠り所です。現実から目を背けている? ええ、その通りです。私は現世など見たくはない。姉たちのいない世界など何の意味もない。大切な家族がもう誰も居ないなら、その思い出をよすがとするのみで生きていきたいと思うことが悪なのですか? 幻想の世界に耽溺するのは弱者なのですか? それなら私は弱者で結構です。自ら望んで、喜んで、現に生きるに値しない者になりましょう。往時の幻影に耽溺し、幻想の世界に参りましょう」
がたがたがた
がたがたがたがたがた
がたがたがたがたがたがたがたがたがたがたがたがたがたがたがたがたがたがたがたがたがたがたがたがたがたがたがたがたがたがたがたがたがたがたがたがたがたがたがたがたがたがたがたがたがたがたがたがたがたがたがたがたがたがたがたがた。
言葉が発せられるにつれ、何もかもが揺れを増してゆく。地震かと見紛うばかりだ。こうなってしまうと、自分でも、もうどうにもできない。
「――っ、レイラ……!」
床までが上下左右に揺れ、跳ね飛び出した。立っていられなくなったのか、叔母が尻餅をついた。その瞳には恐怖が滲んでいる。
がたん!
一際大きい揺れが襲ってきた。居間の片隅でしっかりと台座に固定されているはずの中世の甲冑が大きく揺れ、倒れ込む。装飾用の槍がその手を放れ、宙を飛び
「ひいっ!?」
ぐさりと。
叔母の足元に突き刺さった。顔面蒼白となって、叔母が怯え声を上げる。
「わ、私をどうするつもりなの! 一体何がしたいの、レイラ!?」
「ご安心ください。叔母様を傷つけるようなことはありませんから。私の願いは、一刻も早くこの家から出て行っていただきたいというだけです。そして叶うならば、もう二度と来ないで欲しいという、ただそれだけのこと」
先ほどまでの威勢はどうしたのやら、ぱくぱくと金魚のように口をふるわせながら、こくこくと頷く。
最早言葉もないようだ。床に這うようにしてよたよたと歩き、叔母が玄関口へと向かってゆく。
それを邪魔するつもりはない。開けと念じると、観音開きに扉が開いた。
這々の体で叔母が出て行く。
腰が抜けたのか、よろめきながらやっとの思いで屋敷の門に辿り着くと、一目散に丘を下っていった。あの様子では、二度と来ようとはしまい。
――では、最後の仕上げだ。
叔母が開け放しにしたままの扉に向かい念ずると、轟音と共にそれが閉ざされた。かちゃりがちゃりと二重三重に
「……久々にやっちゃったな」
呟いて息をつくと、揺れ、あるいは空中を舞っていた絵や、椅子や、テーブルが動きを止めた。先ほどまでとはうってかわった静寂が居間を満たす。嵐の前ならぬ、後の静けさといえようか。
だが、これにて一件落着、とはいかなかった。いくわけがない。
しばらくの間、ぼうっとしていると、突然。
ぱりん、と。
何かが割れる音が、私の耳に届いた。
12
この部屋に、音を立てて割れそうなものは少なくない。庭に面した窓、装飾的な戸棚の硝子、照明など、幾らでも数え上げることが出来る。だが、この時期、この場所で割れそうなものといえば、件の姿見しかあるまいと私は感じていた。
慌てず騒がず、壁に立てかけておいた姿見へと近寄ると――
「……成程、こうなってたんだ。確かに扉ね、これ」
姿見の鏡面が粉々に砕けていた。床に散らばった破片が、照明からの光を反射して虹色に光っている。
そして、鏡面の代わりに浮かび上がる、精巧な彫り物の施された黒く揺らぐ
それを目にした刹那。
頭の中で個々の情報が繋がり、パズルの
鏡からの音楽。
香霖堂さんの言葉。
騒霊現象により閉じた扉――
偶然の導きか、神――或いは魔の見えざる手か。
外界と内界を通ずる扉が閉ざされ。
内界はそのままに幻界への扉が開かれ、そして幻界は外界と化す。
2から1が引かれ、新たに1が足され、プラスマイナスゼロ。帳尻はぴったりだ。相応の代
償とはこのことか。
鍵穴に鍵をはめこむだけで扉が開くはずがなかった。現実への扉を閉じることによって、幻想への扉を開かねばならなかったのだ。
他の誰でもない、私の意志をもって。
鏡面が砕かれ扉が出現した事実が意味することは唯一つ。此方に愛想をつかした私は、彼方――幻想郷に相応しいということなのだろう。
ならば善は急げ、である。
今更こちらに留まるか、あちらに行くかを迷いはしない。
行き先は無論、夢の国などではなかろう。香霖堂さんが指摘したように、幻想と理想は等価ではないからだ。それでも、姉たちの過ぎ去りし幻にしがみついている私には、幻の国こそが相応しい。
「……ある意味、叔母様には感謝しないとね」
実感を込めて呟く。自分がどうすべきか、結果的には叔母の来訪によってはっきりとしたのだから。感謝状くらいあげてもいいかもしれない。
飛び散った家具を片付けると、私は準備をすべく衣装部屋へと向かった。
「これでよし、と」
碧の舞台衣装と帽子をかぶり、扉と化した姿見を外壁に立てかけて、私は屋敷の庭で一人頷いた。まだ姉さんたちが居た頃に仕立てた物だが、何とか着られるようだ。背が然程伸びなかったことが幸いした。胸の辺りが多少きついが、これは仕方がなかろう。
一人きりになってから開くことの無かった衣装部屋から持ち出してきたこの衣装、着るのは本当に久しぶりだ。そもそも普段から着るようなものではない。
最後に着たのは、姉さんたちが居なくなってしまう直前、何処で開かれたか覚えてすらいないが、父に請われて独唱会に出場した時だったか。あれからどれ程経つのか、正確な日付は数えたことがないし数えようとも思わないが、数年は経っているのは間違いない。
着飾った自分の姿を確認する。夢の中で見たのと瓜二つだ。そして、あの夢の中で私は歌おうとし、姉さんたちは演奏していた。ならば、今から何をどうすればいいのか迷うことはない。
時刻は丁度、深夜の零時。昨日と今日の、今日と明日の境界たる時間。
満月の光が柔らかく私を照らしている。今夜ばかりは虫の音も聞こえない。私たちに気を使っていてくれるのだろうか。
遠くに望むのは街の光。見納めだ。
――では、はじめるとしよう。
「じゃあお願いね、姉さん」
そう呟くと、鏡――鏡だった幻の扉越しに、耳に馴染んだ旋律が漏れ出でる。
こんなことは起こりえない。常識ではあるはずがない。
だが、既にして鏡は扉であり、屋敷は幻界に近しい物と化している。ならば、消えた筈の姉たちが舞い戻ってきていても何の不思議もあるまい。
扉を透かして影が舞っているのが見える。煌々と照らす月光の下で、黒と白と赤の影絵がちらちらと蠢く。
黒にはヴァイオリン。白はトランペットで、赤はキーボード。
音がいっそう大きくなった。途端、私はそれが何の曲であったか明瞭に思いだした。
「……姉さんたら」
くすりと笑う。
何度となく、幾度となく親しんできた旋律だ。
私の好きだったうた。
嬉しいときも哀しいときも、姉妹全員での誕生パーティーでも姉さんがたちが居なくなったときも、何かあれば私が口ずさんでいたうた。
わざわざ私の好きだったものを選ぶあたり、ルナサ姉さんの差し金だなと思って口元が緩む。全く、いつもいつも気を使いすぎるのだから。
せっかくの気遣いを無駄にしてはいけないだろう。碧の舞台衣装の裾をつまみあげ、私はぺこりと一礼。胸元に手を当て、ステップを踏んで歌い始める。屋敷に私しか居なくなってから、こうやって歌うのははじめてだ。
どれほど歌い踊り続けていたか。
やがて演奏付きの独奏を終え、拍手も無い中で私は庭をぐるりと見回す。
屋敷は静かに佇み、人や虫の声はなく、月はただ静かに私を照らしている。そこには何の変化もない。
ただ、一点を除いては。
「入り口はここ、ね。それじゃあ……」
黒く揺らぐ幻影の扉は、強固な銀のそれへと姿を変えていた。触れることも、押し引きすることも出来る。
さあ、行くとしよう。もう迷いはない。
鍵を扉にさし。
ぎいと開く。
足を踏み出せば、柔らかい光に包まれて――
13
――優しい日差しが、私の瞼を突き刺した。
あたたかい陽光が照らしてくる。陽は高く、足元には柔らかい草の感触。私は、プリズムリバー屋敷の庭に一人立っていた。
風が頬を撫でた。長髪がなびいて流れる。爽やかで少し涼しげな風だ。秋がもう近いのだろう。
振り返れば、今し方くぐったばかりの鏡――いや、扉は何処にも無い。私が此方に来てしまった以上、用済みということなのだろう。
庭を囲む柵はそのままだ。
だがその彼方に広がるのは無論、今まで住んでいた街ではない。丘の遙か下に広がる風景は違ってしまっている。教会の尖塔も、壮麗な鐘楼も、石造りの街も無い。茫漠と広がる田畑、木造らしき家屋に、大きな鳥居。そんなものばかりだ。
此処が幻想郷。理想郷ならぬ、現実の彼方の地。
その世界に来てしまった以上、後戻りは出来まい。扉はもう無いのだし、私も、家も、既にして幻想の物となってしまったのだろうから。
そう。
この屋敷、私の家は現より放たれた。私が望んだ通りに。
私は自分の部屋を振り仰いだ。窓からはお気に入りのベッドがはっきりと見える。そして、ちょこちょこと動く三つの影も。
黒と白と赤の舞台衣装。昨夜の演奏会からの着たきりすずめというわけだ。あんな格好をずっとしているのは目立ってしょうがないけれど、それ以上に似合っているのがおかしくて私は微笑う。
楽器もそのままだ。ルナサ姉さんはヴァイオリン。メルラン姉さんはトランペット。そしてリリカ姉さんがキーボード。そして私の楽器はこの唄聲。四人での演奏会はいつでも準備完了だ。
ふわりとした風に目を細め、草を踏んで私は玄関の扉に手をかける。
閉じられているはずがない。
鍵は外され、扉は既に開かれた。
何より、ここは私の――私たちの家なのだ。
さあ帰ろう。
我が家に帰ろう。
――今日から私たちは、また四人になるのだから。
(了)
妖々夢時点でレイラは老衰で天寿を全うして3姉妹騒霊が残ったという
設定があったかと思います。
これが公式だとすると、霊と魔の湯飲みと時代設定が矛盾するかなと。
その点が少し気になったくらいで、あとは特に文句が思いつかないです。
強いてあげれば、叔母を単純な悪役にするではなく、かみ合わない善意
にした方が、姉のいない現実世界に適合しないレイラの動機に
深みが増したのではないかと思ったり思わなかったり。
良作だと思います。
確かに仰るとおり、時代設定の問題を忘れておりました。筆が滑ったとはいえ恥ずかしい……ご指摘、感謝いたします。
明白な矛盾点ゆえ、06/08/14をもって修正させていただきます。
丁寧なご意見ご感想、有り難うございます。