※前編、後編共に、数カ所でルビを用いています。ルビ対応ブラウザで読んでいただけると幸いです。
1
私は庭を眺めている。
その人の頭越しに、青々とした樹樹を見詰めている。
そうしているのは退屈しているからだというのに、目の前の女性が気付く様子はない。きんきんと耳障りな高音を垂れ流し続けているだけだ。
「……ですからね、悪いようにするつもりはないの。貴女も一人での生活は大変でしょう? この屋敷だって広いのですし、維持が大変よ。お兄様がいらした頃なら庭師やメイドに任せれば良かったのでしょうけど、今では貴女しか住んでいないじゃない……」
何度も何度も聞いた言葉を、飽きもせずに繰り返す。そんなことは承知の上での一人住まいだと、何回云ったら解って貰えるのだろう。
繰り返しということを割り引いても叔母の話は退屈だ。どこかで聞いた内容、どこかで聞いた声、どこかで聞いた口調。せっかくの心地良い午後が台無しだと、私は内心溜息をつく。
「聞いているの、レイラ?」
「……聞こえています、叔母様。その件については何度もお答えしているはずですが」
気を入れて答えようとしても、どうもいけない。面倒だといわんばかりの投げやりな声になってしまう。顔にこそ出さないが、叔母も不快なのではなかろうか。
気をつけねばならない。どんな相手にも真摯に接しろというのが、父の教えだった。もっとも、三人の姉は誰一人として守っていなかったが。
「この家を見捨てたくない、でしょう。気持ちは有り難いわ。私だって、プリズムリバー家代々のお屋敷は取っておきたいわよ。でもね、伯爵――兄さんは財産なんて残してくれなかったわ。税もかかるし、維持費だってあるでしょう。このままじゃ、今まで通りの暮らしを送ることは出来ないのよ」
この人は何を云っているのだ。
成程、父や姉さん達が居た頃と同じような生活を送ることは出来まい。けれども、私はそんな暮らし方をしたいなど思ったことはない。ひっそりと、世に知られずに、必要な時に街に出るだけの生き方が出来れば満足なのだ。何度も何度も説明したはずだが、俗物の叔母には解って貰えないらしい。全く、このような人と血が繋がっているなどとは考えたくもないものだ。
ティーカップに口を付け、ハーブティーの香りを楽しみながら窓の外に目をやる。悠長な私の仕草に叔母が苛ついているが、そんなことはどうでもいい。
「それについても前にお答えしました……それで叔母様、本題は何なのですか?」
隠し事をしているのは始めから解っていた。叔母は俗物だが愚かではない。同じ事を繰り返し云っていれば私が云うことを聞くと考えるようなはずがなかった。何かと話を引き延ばしているのは、云いたいことを云えずにいるからに違いない、
切り出しにくい話題なのだろう。だったらこちらから促した方が話が早い。良い知らせにしろ悪い知らせにしろ、どうせいつかは聞かねばならないのだから。
宙を泳いでいた叔母の視線が、ぴたりと私に定まった。
「……実はね、貴女に結婚のお話があるの」
「……」
正気か、と云わんばかりに私は叔母を正面から見る。困ったことに、叔母の瞳も表情も真面目で、冗談を云っているようにはとても見えない。
「悪い話じゃないのよ。うちの家に縁があってね、爵位もある方なの。まだ若いけれど、立派な方よ。英吉利で学位をとって、今ではもうお家の当主らしいわ。俗な話になってしまうけれど、今時の貴族にしては珍しくお金にも困っていない。それはプリズムリバー伯爵家に比べれば少し格が落ちるかも知れないけど――」
「お話は解りました」
垂れ流される言葉をきっぱりと遮る。話の腰を折ってしまった格好だ。繰り返すが、叔母は愚かではない。私が何故口を挟んだか、解らないということはなかろう。
案の定、叔母のこめかみに血管が浮いた。父も苛つくとそうだった。顔は全く似ていないが、兄妹ではあったらしい。こんな形で確認などしたくもないというのに。
「申し訳ありませんが叔母様、私、夕食の支度があります。続きはまた後日ということにしていただけますか」
「でもね、レイラ……」
「お帰り下さい」
視線と言葉が冷たくなるのをどうにもこらえることが出来ない。
答えを待たずに私は席を立った。座ったままではまたしつこく口を開きかねない。
叔母も人間だ。一応は屋敷の主である私を尻目に座り込んでいられるほど図々しくはない。それを良いことに、私は彼女を玄関にまで連れて行ってしまう。
「叔母様、今日はわざわざお尋ねくださり有り難う御座いました。お見送りいたします」
「レイ……」
ばたん。
終わりまで聞かずに乱暴に扉を閉めた。今頃叔母は憮然としているだろう。
一気に脱力感が襲ってくる。
――結局、せっかくの気持ち良い午後は台無しだった。
2
三階まで螺旋階段を登ると、西に向かって歩廊が長く延びている。南に面した壁には、備え付けの扉がある。
庭に臨む窓からは、大きな夕陽が覗いている。叔母がいつになく粘っていたせいか、もう夕刻になってしまったようだ。そろそろ夕食を作らねばならないだろうか。
雑念を弄びながら窓から壁へと視線を移す。白い壁紙にも汚れが目立ってきていた。
考えてみれば、この広い屋敷にメイドの一人もいないのだ。掃除が行き届かずとも当然かもしれない。私も暇があれば手を動かしていたが、掃除することが出来る範囲には当然限りがあった。
近々人手を借りなければならないな――そう思いながら、扉を見直す。
黒と白。
赤と碧。
四色に塗り分けられた四つの扉。こうやってしげしげと見ると、何とも偏執症的 な眺めだ。
客観的に見ると、扉を原色で塗り分けるなどあまり趣味が良いと云えない。父は確かに物好きな人だったが、ここまでいくと酔狂というより悪趣味だ。
まあ今更、扉を塗り直すつもりもない。碧の扉――私の部屋は兎も角、残りの三つを弄ってしまっては姉さんたちに申し訳が立たない。
特にメルラン姉さんは、白い扉と白い部屋を妙に気に入っていた。貴女の趣味は変っていると、ルナサ姉さんとリリカ姉さんによくからかわれていたものだ。
私はそんな時もにこにこしているメルラン姉さんが大好きで――
――やめよう。
姉さんたちのことを思い出すと、気が沈むばかりだ。ただでさえ、今日は叔母のせいであまり気分が良いとは云えないのに。
私は頭を振ると、碧の扉に手をかける。
ぎい、と、微かに軋んだ音がして扉が開いた。
*
扉の先には、この屋敷でただ一つ生きている部屋がある。
とはいえ、部屋の調度は単純 なものばかりだ。過剰な装飾は好みではないし、そもそも機能性に欠ける。物事は単純であるほど扱いやすく、深みがあるものだ。
私には少々大きすぎるベッドと、L字型を成す木製の机。ベッドと机が面した壁には採光性に優れた窓があり、緑の庭がよく見えている。書棚には革装幀の本と、姉さん達が遺した楽譜。私の書棚では楽譜が入りきらず、溢れ出てしまっている。頃合いを見て整理せねばと思いながらも、なかなか手は動いてくれない。
山積みになった楽譜の真横には姿見が在る。私の背丈ほどあるこれも、使って随分と長い。
私は鏡の前に立って手を広げる。
鏡面に映し出されるのは、碧の眼をした一人の娘だ。
深い黒髪。
青白い肌。
痩せた身体。
手入れもしていない癖にさらさらとした髪の毛が鬱陶しい。姉が居た頃は腰までだったそれは、だらだらと伸び続けて足元に届きそうである。
プリズムリバー伯爵家四女、レイラ・プリズムリバーが其処に居た。
父や姉たちが可愛い可愛いと抱きしめてくれたのは何時頃だったろうか。気がつけば背の丈は無駄に伸び、昔の服もサイズが合わなくなっている。本来なら、社交界に出て行ってもおかしくないのだから、当然かもしれない。
――もうルナサ姉さんが居なくなった時の年を超えてしまった。
鏡を見て自分を抱きしめると、肘に押し付けられた乳房が痛む。
私の体は、望みもしないのに女として成熟してきている。叔母が婚姻を勧めてきたのもそのせいなのだろうか。
――嫌だ
そんなのは嫌だ。
結婚が嫌なのではない。
生きるのを忌むのではない。
ただ私は――この現実 になど関わりたくないのだ。姉さん達がいないというのに、外に出ることに何の意味があるのだろう。
何も起らない、誰も居ないこの屋敷で暮らしていきたいと願っているだけだというに、世間はそれを許してはくれない。叔母の持ち込んできた話といい、僅かに残された財産をめぐっての悶着といい、あまりにも面倒なことが多すぎる。
ぽすり、と。溜息をついてベッドに身を投げ出した。じとりとした感触が身を包む。最近干していなかったせいか、布団が少し湿気っていた。
「……はぁ」
溜息をついてごろりと転がると、丁度視界に姿見が入ってきた。この鏡との付き合いは相当に長い。色々な物を手放してしまったが、これだけは何故だか手元に置いておきたかった。
元々は、父が姿を消す直前に海外からの土産として贈ってきたものだ。
何でも東洋で特別に作らせた珍品らしい。中国だったか西蔵 だったか。いや、もしかすると日本製だったかもしれない。
だがまあ、出自を問うても意味無いことだ。答えられたであろう父はとうに居ないし、私もわざわざ調べるまでの気力はない。珍品であり、私が気に入っているというだけで、部屋に置き放してにしておく理由は十分だろう。
改めて姿見をじっくりと観察する。
つくづく良く出来た品だ。縦と横の配分比も、枠に施された落ち着いた装飾も申し分がない。ころころとベッドに転がりながら眺めていると――
「……あれ?」
妙なことに気付いた。
鏡の一部が曇っているのだ。それも、息を吹きかけたような白い曇り方ではない。鏡の丁度中心、真中がぽっかりと黒くなっている。小さな影が映り込んでいる、といったところだ。
汚れがこびりついているのだろうか。
そう思い、手を伸ばして塵紙でこすってみるも、手応えはない。こそぎ落とせないことから見ても、埃が付着したというわけではなさそうだ。
何なのだろう。三文恐怖小説ではあるまいし、鏡にこの世ならぬものが映り込んでいるわけでもなかろうに。もっとも、世間では幽霊館と噂されているプリズムリバー屋敷、死霊生霊が彷徨っていても驚く人はあまりいなさそうだ。
「ふぁ……」
その影を見つめながら、大きな欠伸を一つ。
瞼が重い。まだ夕方だというのに、妙に眠くなっている。叔母とのやり取りで疲れてしまったのかもしれない。
夕食の前に一眠りすることにしよう。誰に注意されるわけでもない生活なのだから。昔なら、惰眠を貪りでもしていたらルナサ姉さんに大目玉を食っていたところだ。
「……お休みなさい」
誰に云うとでもなく呟き。
そうして私は、眠りの淵へと落ちていった。
3
――夢を見た。
私は家の前に立っている。
鉄柵に囲まれ、広々とした庭が在り、住人の数の割にやけに大きい、そんなお屋敷の前に。
云うまでもなく私の家、プリズムリバーの住処だ。だったら扉を開けてすいすいと中に入っていけば良いのに、何故だか私は庭と玄関の境目に立ちつくしている。見上げれば、のしかかる石壁、尖塔めいた屋根。
まるでそびえ立つお城だ。私が住み慣れているのは屋敷であって城ではない。だから、いつも見ている筈の景色も奇妙に見える。見知らぬ街で見知らぬ建物に迷い込んでしまった気分だった。
奇妙といえば私の格好もまた妙だ。鋭角的な帽子に、飾りの付いたちょっと恥ずかしくなってしまいそうな装束一式。色は碧で統一されており、帽子のてっぺんにはご丁寧に雲をあしらったアクセサリーが乗っかっている。帽子は奇妙な形なのに、ぐらぐらと揺れることもなく頭にぴったりと乗っかっている。まるで演奏会の舞台衣装だ。
いや、まるで、ではなく実際に舞台の衣装なのだろう。
その証拠に、扉の向こうからは音が漏れ聞こえてくる。
弦と吹と鍵。鮮やかな三重奏。
耳にしたことのない旋律だが、軽やかさが心地良い。軽妙で楽しげな演奏に心が浮き立つ。
鍵穴を覗き込むと、ちらちらと色の欠片が踊っている。黒と薄桃と赤の衣装、金と藍白と茶の髪。
何故かは解らないが、三人の姉が演奏しているのだと私は直感した。嗜み、ということで姉さんたちもそれなりに楽器を扱えたはずだ。最も、腕前はそれほどの物ではなく――せいぜい教養として身につけた程度である。こんな立派な演奏が出来たはずもない。
だが、これは夢の中だ。揃って立派な演奏を披露することもあり得るだろう。自身を省みても、私たち姉妹はやけに仲が良かった。それを思えば演奏の息が合っているのも当然だ。
音が一層激しくなった。演奏会 のクライマックスが近いのかもしれない。
さて、姉が勢揃いしているのに、私だけここで立ちつくしているわけにも行くまい。楽器は苦手だが、幸いにして詠うのは昔から大好きだ。言い換えれば、私の場合は歌声こそが楽器だと云えよう。
把手を引く。
だが扉が開く気配はない。右に左に回しても、がちゃがちゃを音を立てるだけ。施錠されているようだ。ならば、鍵を差し込まねばならないだろう。
身に纏った衣装をまさぐる。右のポケットに手を入れると、冷たい金属質の棒が手に触れた。すいと抜き出して、眺めると
「……これが、鍵?」
思わず私は呟いていた。夢の中のせいか、その声もどこか遠くて、有り得ないもののような気がする。
もっと有り得ないのは、鍵と思しき物体の形状だ。
先端は確かに鍵なのだ。だがそこから先がおかしい。
光沢は滑らかで、眺める角度によって色彩が変る。ある時は金色、またある時は銀色、果ては虹色という目映さ。頭の部分には、月、太陽、星をあしらった巧緻なレリーフが刻み込まれている。金属製なのは間違いないが、鉄、真鍮、貴金属ですらないようだ。最も近いのは銀だ。銀の鍵、といったところか。
実に珍しい一品である。じっくりと観察したい気はするが――
「……まあいいか」
後回しだ。
眺めるのはいつでも出来る。まずは、屋敷の中に入るのが先決だろう。演奏は益々激しくなり、急がなければ終わってしまいそうだ。
改めて扉の前に立つ。
ゆっくりと鍵らしき金属棒を差し込み。
ぐるりと回すとそこには――
4
窓から差し込む朝日に目を覚ます。
結局、あのまま眠ってしまったらしい。頭に手をあててみれば、髪はぐしゃぐしゃで服もしわしわだ。着替えも湯浴みもしなかったのだから当然といば当然か。やれやれ、伯爵家の娘がこの有様では、また叔母が血相を変えることだろう。
――それにしても、あれは。
もぞりとベッドから這い出ながら、私は昨夜の夢を反芻する。
夢の常として何も彼もがぼんやりとして、既にして記憶の彼方に霞み消えつつある。だがそれでも、そびえていた建物は、この屋敷――少なくとも、それに関係したものだということだけは疑いようがない。
そして、夢の中のあの演奏。
喧しくはあったが、決して不快なものではなかった。むしろ心地良いくらいだ。あのような奏楽なら大歓迎。無意味に垂れ流される金属質な叔母の声とはとは比べものにならない。夢路では姉たちが演ずると感じたが。
とまれ思考は後回しだ。背筋を反らして伸びを一つ。今日はどうしようか、そろそろ掃除か蔵書の整理でもしようか――そう思いながらベッドの横の鏡を見て
「……何、これ」
私は動きを止めた。
そこには目を鋭く細めた私が映っている。
いや、それはいい。姿見なのだから、私の姿が投影されるのは当然だ。メルラン姉さんのような優しい顔立ちではないせいで随分と表情がきついが、それも矢張りどうでもいい。
問題はそんなことではないのだ。
――おかしい。
昨夜も気にかかった、鏡の中心の黒い影。
それが大きくなっている。
ぽっかりと浮かんでいたのは、眠る前まで確かに字消しほどの大きさだった。それが今では、握り拳ほどになっている。
手を当てて大きさを確認してみる。鏡面すれすれに拳を浮かせてみると、ぴったりと重なった。錯覚や気の迷いではなさそうだ。
目を凝らしてみると、さらにおかしな点があった。影かと思えたそれには、僅かながら凹凸があるのだ。あまりに小さすぎて正確には判別出来ないが、周縁部が浮き彫りのようになっている。さらには、取っ手のように見えるものまで付いていた。
これではまるで扉ではないか。
それも見たこともない扉ではない。形状といい、彫り物の配置といい、夢で見たものとそっくりで――
――いや、私は何を考えているのだ。
影が扉だと? そんな荒唐無稽な現象があるはずもない。叔母の来訪に奇妙な夢と、少々負荷がかかる出来事が続いたせいで疲れているのだろう。お風呂にも入らずに眠ってしまったのだし。
とはいえ、「それ」がお気に入りの姿見に付着してしまっているのは確かだ。服の確認をする際にも不便になるし、放っておく訳にもいかない。
ベッドの脇の十字窓から空を見上げる。燦燦と照らす太陽、雲1つ無い青空。
たまの外出には悪くない陽気のようだった。
5
雑踏は苦手だ。
陽の光が苦手だ。
人の視線も苦手だ。
だから私は、街に出ると狭い路地を歩くことにしている。覆い被さってくる屋根の隙間から、陽光が少しだけ差し込む。このくらいの明るさが、私にとっては丁度良い。眩い太陽光はどうにも屈託が無さ過ぎるのだ。メルラン姉さんならば兎も角、私には憂鬱な黒い太陽程度がお似合いだろう。
それは兎も角、だ。
何処かに鏡を修繕出来る店、古道具屋のような所はないだろうか。街になど殆ど来ないせいで、心当たりが全くない。屋敷に出入りしていた馴染みの職人に頼めば良かったかとも思うが、今更連絡するのも気がひける。
路地を右に、次に左に。
大通りに繋がる道を出来るだけ避けて、彼方此方 へとふらふらしている内に――
「あれ、このお店……?」
突如、視界に入ってきたそれ。
何とも云えぬ違和感に、足を止めその建築物を眺めやる。
路地の右左には石造りの家が密集しているのだが、右手のしばらく先に、木造の小さな店があるのだ。
木で造られた建物などはじめて見る。
木と紙で家を組み立てる国があるという噂を耳にしたことはあるが、この街、否、この国にそのような習慣があるとは寡聞にして知らない。
興味をそそられ、私は其の建物にと向かってゆく。ふらふら、ふらふらとした足取りは、痩せぎすの身体と相まって、餌に引き寄せられる昆虫のように見えるかもしれない。もっとも昆虫といえど、蝶のような華やかさとは無縁。この針金のような細身では、せいぜいが甲虫か七節だろう。
軒先には木彫りの看板がかかっていた。この国の言葉ではない。まるで絵のような形の文字。父の東方土産に、似たような文字が印刷されていた覚えがある。日本や中国で使われている、漢字とかいう言語だ。
看板には『香霖堂』と書かれている。
右隅に「古道具売ります、買います、鑑定修復等引き受けます」とある。古道具屋の類だろう。
しかし――こんな店のことは聞いたことがない。
勿論、私が知らないだけなのかもしれない。私は街の人と全くといって良いほど交流がないし、あちら側にしてもプリズムリバー屋敷を意識して遠ざけているからだ。散歩も滅多にしないので、存在を見落としていても不思議ではない。
だが、それでも妙だ。
昔からあるなら父やメルラン姉さんが放っておかなかっただろうし、最近出来たのならば珍しいもの好きな叔母が話題にしないはずもない。なら、噂話の一端なりとも、私の耳に入っているはずだが。
まあいい。
看板を信じれば、鑑定修繕も引き受けてくれるようだ。鏡を診てもらうのも悪くはないだろう。そのあたりの家具屋に頼むつもりは毛頭無かったのだし、渡りに船というところだ。
晩夏の風がぬるく頬を撫でてゆく。生温い風に押されるように、私は薄い木の扉に手をかけ、店の中に入っていった。
6
奇妙な店だった。
店内には雑然とした品物が並んでいる。古道具を扱うのだからそれは当然だ。だが、置いてある品物の種類までもが此処までばらばらなのは珍しい。
鉄製の甲冑があったかと思えば、その真横には翡翠で出来た蛙の置物がちょこんと控えている。金押しの題名が擦れたモロッコ革装の古書が積み上げられ、フライパンや鍋がそれよりも高い山を成していた。木製の衣装箱――箪笥と云っただろうか――の天辺に、青、緑、赤、黄と、割れたスタンドグラスが散らばっている。ひびが入って崩れかけたマリア像が天上から吊り下げられ、その足元に転がっているのは、真鍮で出来た八角形の小物だ。立てかけられた札には『八卦炉』と書いてあるが、何に使うものなのかさっぱり解らない。店の中はどこもかしこもその調子だ。ここまで無国籍だと呆れるを通り越して笑ってしまう。
「やあ、いらっしゃい」
突然の軽やかな声に、びくりとして振り向く。
多種多様な意匠に気を取られ、ぼうっとしていたのだろう。そう声をかけられるまで、私は木製のカウンターの向こうに座った男性 に気がつかなかった。
店に劣らず変った格好をしていた。
見慣れない青色の服装に、古風な丸眼鏡、ざっくりとした白髪。顔立ちは明らかに東洋系のそれで、このあたりで滅多に見かけるようなものではない。
見たところ、年は私よりだいぶ上だ。30歳前後というところだろうか。店の外見と同じように、出自がこの一帯ではないのが一目でわかる。日本か中国の出身なのだろうかと、私はつたない知識で見当をつけた。
特に印象的なのは眼鏡の奥の瞳だ。外見に似合わない、年齢不詳の目をしている。リリカ姉さんよりも子供っぽくて、父さんよりも老成した色合い。実年齢が判然としない、そんな男 だ。
「店主が云うのも何だけど、固定客以外のお客さんというのは珍しくてね。それも、外から来た人なんて何年ぶりかだ。何かお探しかな」
低く、良く通る声が店内を満たした。落ち着いた艶のある声だ。私は、こういう音が嫌いではない。
ところで、外から来た、というのはどういうことだろう。
確かに、店の主にとっては客というのは常に外からの来訪者だ。万年訪ねてくるような常連客だとしても、それは矢張り入り込んでくるものに過ぎない。外と内を明確に区分してこそ、店主は店主として成立する。常に中に存在しているならば、それは既にして店の一部であり、客とは呼べない。その意味では、「外から来た」という言い方は決して不思議ではない。
けれども――少し意味合いが違う気がする。抽象表現としての内外ではなく、地理的空間的な意味でそう表現しているような気がするのだ。私が感覚的にそう思ったというだけで、根拠は全くないのだが、それにしても――
「どうかしたかな?」
「あ――えっと」
静かな声がとりとめもない思考を遮る。
「ここは、どういうお店なのでしょう」
云った直後に後悔した。何という質問だ。表看板に古道具云々とはっきり記してあったではないか。その上、私はそれを見て入ってきたのだ。今更どういう店なのかもなかろう。
「うん、良く聞いてくれたね」
良く通る聲。間抜けな問いを気にする様子もなくて、内心ほっとする。
「本堂は由緒正しく見えるけど別にそんなことはない骨董店でございます。売り買い見立てから修繕まで何でもござれ。創ることだけは出来ないけれど、その他は何事であろうとよろず引き受けます。迷家 からの皿の鉢、巴里の名探偵が愛用した海泡石 のパイプに、妖精が編んだ天鵞絨 まで、余所では求め得ぬ珍品名品も満載。して、ご用件は何かな?」
一気に言い立ててにっこりと笑う。その笑顔につられるように、私はここまで持ってきた姿見を指し示した。
「修理をお願いしたいのです。昔から使っている家具が壊れてしまって。えっと、それで……」
呼びかけようとして言葉に詰まる。
名前を聞いていなかったことに今更思い至った。店主さん、でもいいのだが、この空間には少し似合わない気がする。内装も本人も古風な印象だし、ここは名前かせめて通称で呼んでおきたいところだ。
私の戸惑いを察したのか、その人はゆったりと椅子に腰掛け、言葉を継ぐ。
「修繕も勿論引き受けているよ。後、僕のことは――香霖堂、とでも呼んで貰えるかな」
そう云って店の主――香霖堂さんは、穏やかに微笑んだ。
7
「これは面白いね。何処で手に入れたのかな」
「父の土産です。東方で手に入れたと云っていました。印度か中国か、それとも日本かはちょっと解りませんけど」
「成程ね。多分これは日本製だよ。かなり腕の良い職人が手がけてるね。うん、こんな上手物に会えるとは、ちょっと予想外だったな」
拡大鏡で鏡をつぶさに観察しながら、香霖堂さんはそう云った。
声が弾んでいる。私には良く解らないが、そういう趣味の持ち主にはたまらないものなのかもしれない。父が海外から帰ってくる度に、名品珍品に囲まれて嬉しそうにしていたのを思い出す。好事家というのは妙なものだ。
妙といえば妙なのが香霖堂さんだ。風体が街に似合わないという以上に、何かがずれている。硝子の奥の瞳はにこやかに笑っているし、物腰も飄飄として魅力的だ。だというのに、どこか違和感を感じるのは何故なのだろう。どこからどう見ても物好きで人の良い好青年なのだが――
「ところで――」
落ち着いた声音に思案を破られ、はっと顔を上げる。
鑑定が終わったのか、こと、と鏡を山積みの小道具に立てかけて、香霖堂さんがカウンターの中に入ってゆく。肘をつき手と手を組み合わせれば、その瞳は射抜くように鋭く、穏やかだ。何とも二律背反 な人である。
「貴女は鏡とは何なのか、考えたことはあるかい?」
「何かを映すためのものではないのですか?」
鏡は鏡ではないのだろうか。光を受け、その前に置かれた物を、或いは者を正確に反映する道具。
「とも限らないさ。何かを映し出す、という行為には思いの外深い意味がある。キャロル家の一人娘が鏡の向こうに行こうと したのは偶然じゃないんだ。鏡は古代から世界各地で呪物 として使われてきた。東洋のシャーマンは國の未来を鏡で占ったし、欧羅巴では凸面鏡は神の瞳として解釈されてきたんだよ。鏡をシンボリックに用いた絵画に至っては数知れないさ。ただの家具がそんなにも長く執着され続けるわけがない。昔のお話でも、鏡は良く出てくるだろう? それこそ神代の水鏡から、ね」
成程。
言われてみればそうかもしれない。童話なら魔法の鏡はお馴染みの小道具だ。鏡よ鏡、鏡さんと――白雪姫 を持ち出すまでもない。
私がそう云うと、香霖堂さんはにこやかに頷いた。
「理解が早くて助かるよ。さて、かように鏡がただの調度品ではないことが解って貰えたと思うけれど――」
「けれど――?」
鸚鵡返しに尋ねてしまう。
カチコチと、壁にかかった時計の長針短針が音を刻んでいる。
鏡を修繕してもらいに来たはずなのに、すっかり話に引き込まれてしまっている自分がいた。まあ、何をするにも一刻を争う忙しい生活を送っているわけではない。たまにはこんな、何の役にも立たなそうな話を聞いて過すのも一興だろう。それに、私もこういう語らいは決して嫌いではない。
「君は鏡の本質的な役割は何だと思う?」
また難しい質問を。具体的な問いならともかく、抽象的なそれに即答しろというのはなかなか大変だ。少し考えようと首を捻ったところで、私の脳裏に何故だか昨夜の夢と、レリーフが付された鏡の影がよぎった。
「扉、ですか」
「ご名答」
我知らず答えると、香霖堂さんが実に嬉しそうに頷く。どうやら正解だったらしい。
「さっきも云っただろう? 『鏡の国の』という表現は決して故ないものじゃない。何も彼もがあべこべな世界。生者が死者で死者が生者、現は夢で夜の夢こそがまこと。鏡はさかしまの国への扉さ。パヴァリアの狂王が鏡の廻廊にこだわり続けたのは、『あちら側』を見たかった、出来ることなら行きたかったからかもしれないね」
耳に心地良い声で、香霖堂さんが滔滔と解説を続ける。それにしても衒学的 な人だ。叔母のような短気な人なら、話を聞いている内に暴れ出すのではなかろうか。幸いにして私は無用な話が大好きなので、こうして喜んで聞いている。
「それはそうと、鏡の修理についてだけどね」
ようやく本題だ。
「この店に持ち込んでくれたのは正解だったよ。この黒い染み――正確には、染みらしきものは、汚れが付着したわけじゃないね。多分、これは――」
「多分――?」
切られた言葉を追いかけるように問う。
けれども、香霖堂さんはそれ以上説明しようとしなかった。首を振って、カウンターで手を組む。
「……まあ、追々解ると思う。推測だけでものを云うのは避けたいしね。取りあえず鏡は――そうだな、預かっておいていいかな。大体の所は解ったけれど、なかなか珍しいものだし、少し調べてみたい。多分、関係ある物が店の何処かにあると思うしね」
「ええ、お願いします」
即答した。実際、他に選択の余地はなかろう。
私一人でどうこう出来るものではなさそうだし。餅は餅屋だ。専門家に任せるべきだろう。
「承りました。それで……そうだな、一日か二日預かればどうにかなると思う。わざわざ来て貰うのも面倒だろうし、鑑定と修繕が終わり次第お届けするよ。それで構わないかな?」
「でしたら、丘の上の屋敷にまで届けてくださると助かります。街の人に、プリズムリバーの館はどこかと聞けばすぐに解ると思いますから」
「それじゃあ、これが預かり証。まあ一応、ね」
一筆啓上仕るといった様子で筆先が踊る。
なかなかの達筆だ。この国の言葉の横に、漢字が記されているのが面白い。かさりとした和紙に記された預かり証を受け取り、私は頭を下げた。
「それじゃあ、お願いします」
「またのお越しを」
面白い店だ。その内また来よう、と思いつつ、会釈をして私はまた扉に手をかける。
ぎぃ。
ばたん。
扉を閉め、一度振り向く。静かな路地に香霖堂が佇んでいる。
何となく息をついて私は帰路についた。
(続)
1
私は庭を眺めている。
その人の頭越しに、青々とした樹樹を見詰めている。
そうしているのは退屈しているからだというのに、目の前の女性が気付く様子はない。きんきんと耳障りな高音を垂れ流し続けているだけだ。
「……ですからね、悪いようにするつもりはないの。貴女も一人での生活は大変でしょう? この屋敷だって広いのですし、維持が大変よ。お兄様がいらした頃なら庭師やメイドに任せれば良かったのでしょうけど、今では貴女しか住んでいないじゃない……」
何度も何度も聞いた言葉を、飽きもせずに繰り返す。そんなことは承知の上での一人住まいだと、何回云ったら解って貰えるのだろう。
繰り返しということを割り引いても叔母の話は退屈だ。どこかで聞いた内容、どこかで聞いた声、どこかで聞いた口調。せっかくの心地良い午後が台無しだと、私は内心溜息をつく。
「聞いているの、レイラ?」
「……聞こえています、叔母様。その件については何度もお答えしているはずですが」
気を入れて答えようとしても、どうもいけない。面倒だといわんばかりの投げやりな声になってしまう。顔にこそ出さないが、叔母も不快なのではなかろうか。
気をつけねばならない。どんな相手にも真摯に接しろというのが、父の教えだった。もっとも、三人の姉は誰一人として守っていなかったが。
「この家を見捨てたくない、でしょう。気持ちは有り難いわ。私だって、プリズムリバー家代々のお屋敷は取っておきたいわよ。でもね、伯爵――兄さんは財産なんて残してくれなかったわ。税もかかるし、維持費だってあるでしょう。このままじゃ、今まで通りの暮らしを送ることは出来ないのよ」
この人は何を云っているのだ。
成程、父や姉さん達が居た頃と同じような生活を送ることは出来まい。けれども、私はそんな暮らし方をしたいなど思ったことはない。ひっそりと、世に知られずに、必要な時に街に出るだけの生き方が出来れば満足なのだ。何度も何度も説明したはずだが、俗物の叔母には解って貰えないらしい。全く、このような人と血が繋がっているなどとは考えたくもないものだ。
ティーカップに口を付け、ハーブティーの香りを楽しみながら窓の外に目をやる。悠長な私の仕草に叔母が苛ついているが、そんなことはどうでもいい。
「それについても前にお答えしました……それで叔母様、本題は何なのですか?」
隠し事をしているのは始めから解っていた。叔母は俗物だが愚かではない。同じ事を繰り返し云っていれば私が云うことを聞くと考えるようなはずがなかった。何かと話を引き延ばしているのは、云いたいことを云えずにいるからに違いない、
切り出しにくい話題なのだろう。だったらこちらから促した方が話が早い。良い知らせにしろ悪い知らせにしろ、どうせいつかは聞かねばならないのだから。
宙を泳いでいた叔母の視線が、ぴたりと私に定まった。
「……実はね、貴女に結婚のお話があるの」
「……」
正気か、と云わんばかりに私は叔母を正面から見る。困ったことに、叔母の瞳も表情も真面目で、冗談を云っているようにはとても見えない。
「悪い話じゃないのよ。うちの家に縁があってね、爵位もある方なの。まだ若いけれど、立派な方よ。英吉利で学位をとって、今ではもうお家の当主らしいわ。俗な話になってしまうけれど、今時の貴族にしては珍しくお金にも困っていない。それはプリズムリバー伯爵家に比べれば少し格が落ちるかも知れないけど――」
「お話は解りました」
垂れ流される言葉をきっぱりと遮る。話の腰を折ってしまった格好だ。繰り返すが、叔母は愚かではない。私が何故口を挟んだか、解らないということはなかろう。
案の定、叔母のこめかみに血管が浮いた。父も苛つくとそうだった。顔は全く似ていないが、兄妹ではあったらしい。こんな形で確認などしたくもないというのに。
「申し訳ありませんが叔母様、私、夕食の支度があります。続きはまた後日ということにしていただけますか」
「でもね、レイラ……」
「お帰り下さい」
視線と言葉が冷たくなるのをどうにもこらえることが出来ない。
答えを待たずに私は席を立った。座ったままではまたしつこく口を開きかねない。
叔母も人間だ。一応は屋敷の主である私を尻目に座り込んでいられるほど図々しくはない。それを良いことに、私は彼女を玄関にまで連れて行ってしまう。
「叔母様、今日はわざわざお尋ねくださり有り難う御座いました。お見送りいたします」
「レイ……」
ばたん。
終わりまで聞かずに乱暴に扉を閉めた。今頃叔母は憮然としているだろう。
一気に脱力感が襲ってくる。
――結局、せっかくの気持ち良い午後は台無しだった。
2
三階まで螺旋階段を登ると、西に向かって歩廊が長く延びている。南に面した壁には、備え付けの扉がある。
庭に臨む窓からは、大きな夕陽が覗いている。叔母がいつになく粘っていたせいか、もう夕刻になってしまったようだ。そろそろ夕食を作らねばならないだろうか。
雑念を弄びながら窓から壁へと視線を移す。白い壁紙にも汚れが目立ってきていた。
考えてみれば、この広い屋敷にメイドの一人もいないのだ。掃除が行き届かずとも当然かもしれない。私も暇があれば手を動かしていたが、掃除することが出来る範囲には当然限りがあった。
近々人手を借りなければならないな――そう思いながら、扉を見直す。
黒と白。
赤と碧。
四色に塗り分けられた四つの扉。こうやってしげしげと見ると、何とも
客観的に見ると、扉を原色で塗り分けるなどあまり趣味が良いと云えない。父は確かに物好きな人だったが、ここまでいくと酔狂というより悪趣味だ。
まあ今更、扉を塗り直すつもりもない。碧の扉――私の部屋は兎も角、残りの三つを弄ってしまっては姉さんたちに申し訳が立たない。
特にメルラン姉さんは、白い扉と白い部屋を妙に気に入っていた。貴女の趣味は変っていると、ルナサ姉さんとリリカ姉さんによくからかわれていたものだ。
私はそんな時もにこにこしているメルラン姉さんが大好きで――
――やめよう。
姉さんたちのことを思い出すと、気が沈むばかりだ。ただでさえ、今日は叔母のせいであまり気分が良いとは云えないのに。
私は頭を振ると、碧の扉に手をかける。
ぎい、と、微かに軋んだ音がして扉が開いた。
扉の先には、この屋敷でただ一つ生きている部屋がある。
とはいえ、部屋の調度は
私には少々大きすぎるベッドと、L字型を成す木製の机。ベッドと机が面した壁には採光性に優れた窓があり、緑の庭がよく見えている。書棚には革装幀の本と、姉さん達が遺した楽譜。私の書棚では楽譜が入りきらず、溢れ出てしまっている。頃合いを見て整理せねばと思いながらも、なかなか手は動いてくれない。
山積みになった楽譜の真横には姿見が在る。私の背丈ほどあるこれも、使って随分と長い。
私は鏡の前に立って手を広げる。
鏡面に映し出されるのは、碧の眼をした一人の娘だ。
深い黒髪。
青白い肌。
痩せた身体。
手入れもしていない癖にさらさらとした髪の毛が鬱陶しい。姉が居た頃は腰までだったそれは、だらだらと伸び続けて足元に届きそうである。
プリズムリバー伯爵家四女、レイラ・プリズムリバーが其処に居た。
父や姉たちが可愛い可愛いと抱きしめてくれたのは何時頃だったろうか。気がつけば背の丈は無駄に伸び、昔の服もサイズが合わなくなっている。本来なら、社交界に出て行ってもおかしくないのだから、当然かもしれない。
――もうルナサ姉さんが居なくなった時の年を超えてしまった。
鏡を見て自分を抱きしめると、肘に押し付けられた乳房が痛む。
私の体は、望みもしないのに女として成熟してきている。叔母が婚姻を勧めてきたのもそのせいなのだろうか。
――嫌だ
そんなのは嫌だ。
結婚が嫌なのではない。
生きるのを忌むのではない。
ただ私は――この
何も起らない、誰も居ないこの屋敷で暮らしていきたいと願っているだけだというに、世間はそれを許してはくれない。叔母の持ち込んできた話といい、僅かに残された財産をめぐっての悶着といい、あまりにも面倒なことが多すぎる。
ぽすり、と。溜息をついてベッドに身を投げ出した。じとりとした感触が身を包む。最近干していなかったせいか、布団が少し湿気っていた。
「……はぁ」
溜息をついてごろりと転がると、丁度視界に姿見が入ってきた。この鏡との付き合いは相当に長い。色々な物を手放してしまったが、これだけは何故だか手元に置いておきたかった。
元々は、父が姿を消す直前に海外からの土産として贈ってきたものだ。
何でも東洋で特別に作らせた珍品らしい。中国だったか
だがまあ、出自を問うても意味無いことだ。答えられたであろう父はとうに居ないし、私もわざわざ調べるまでの気力はない。珍品であり、私が気に入っているというだけで、部屋に置き放してにしておく理由は十分だろう。
改めて姿見をじっくりと観察する。
つくづく良く出来た品だ。縦と横の配分比も、枠に施された落ち着いた装飾も申し分がない。ころころとベッドに転がりながら眺めていると――
「……あれ?」
妙なことに気付いた。
鏡の一部が曇っているのだ。それも、息を吹きかけたような白い曇り方ではない。鏡の丁度中心、真中がぽっかりと黒くなっている。小さな影が映り込んでいる、といったところだ。
汚れがこびりついているのだろうか。
そう思い、手を伸ばして塵紙でこすってみるも、手応えはない。こそぎ落とせないことから見ても、埃が付着したというわけではなさそうだ。
何なのだろう。三文恐怖小説ではあるまいし、鏡にこの世ならぬものが映り込んでいるわけでもなかろうに。もっとも、世間では幽霊館と噂されているプリズムリバー屋敷、死霊生霊が彷徨っていても驚く人はあまりいなさそうだ。
「ふぁ……」
その影を見つめながら、大きな欠伸を一つ。
瞼が重い。まだ夕方だというのに、妙に眠くなっている。叔母とのやり取りで疲れてしまったのかもしれない。
夕食の前に一眠りすることにしよう。誰に注意されるわけでもない生活なのだから。昔なら、惰眠を貪りでもしていたらルナサ姉さんに大目玉を食っていたところだ。
「……お休みなさい」
誰に云うとでもなく呟き。
そうして私は、眠りの淵へと落ちていった。
3
――夢を見た。
私は家の前に立っている。
鉄柵に囲まれ、広々とした庭が在り、住人の数の割にやけに大きい、そんなお屋敷の前に。
云うまでもなく私の家、プリズムリバーの住処だ。だったら扉を開けてすいすいと中に入っていけば良いのに、何故だか私は庭と玄関の境目に立ちつくしている。見上げれば、のしかかる石壁、尖塔めいた屋根。
まるでそびえ立つお城だ。私が住み慣れているのは屋敷であって城ではない。だから、いつも見ている筈の景色も奇妙に見える。見知らぬ街で見知らぬ建物に迷い込んでしまった気分だった。
奇妙といえば私の格好もまた妙だ。鋭角的な帽子に、飾りの付いたちょっと恥ずかしくなってしまいそうな装束一式。色は碧で統一されており、帽子のてっぺんにはご丁寧に雲をあしらったアクセサリーが乗っかっている。帽子は奇妙な形なのに、ぐらぐらと揺れることもなく頭にぴったりと乗っかっている。まるで演奏会の舞台衣装だ。
いや、まるで、ではなく実際に舞台の衣装なのだろう。
その証拠に、扉の向こうからは音が漏れ聞こえてくる。
弦と吹と鍵。鮮やかな三重奏。
耳にしたことのない旋律だが、軽やかさが心地良い。軽妙で楽しげな演奏に心が浮き立つ。
鍵穴を覗き込むと、ちらちらと色の欠片が踊っている。黒と薄桃と赤の衣装、金と藍白と茶の髪。
何故かは解らないが、三人の姉が演奏しているのだと私は直感した。嗜み、ということで姉さんたちもそれなりに楽器を扱えたはずだ。最も、腕前はそれほどの物ではなく――せいぜい教養として身につけた程度である。こんな立派な演奏が出来たはずもない。
だが、これは夢の中だ。揃って立派な演奏を披露することもあり得るだろう。自身を省みても、私たち姉妹はやけに仲が良かった。それを思えば演奏の息が合っているのも当然だ。
音が一層激しくなった。
さて、姉が勢揃いしているのに、私だけここで立ちつくしているわけにも行くまい。楽器は苦手だが、幸いにして詠うのは昔から大好きだ。言い換えれば、私の場合は歌声こそが楽器だと云えよう。
把手を引く。
だが扉が開く気配はない。右に左に回しても、がちゃがちゃを音を立てるだけ。施錠されているようだ。ならば、鍵を差し込まねばならないだろう。
身に纏った衣装をまさぐる。右のポケットに手を入れると、冷たい金属質の棒が手に触れた。すいと抜き出して、眺めると
「……これが、鍵?」
思わず私は呟いていた。夢の中のせいか、その声もどこか遠くて、有り得ないもののような気がする。
もっと有り得ないのは、鍵と思しき物体の形状だ。
先端は確かに鍵なのだ。だがそこから先がおかしい。
光沢は滑らかで、眺める角度によって色彩が変る。ある時は金色、またある時は銀色、果ては虹色という目映さ。頭の部分には、月、太陽、星をあしらった巧緻なレリーフが刻み込まれている。金属製なのは間違いないが、鉄、真鍮、貴金属ですらないようだ。最も近いのは銀だ。銀の鍵、といったところか。
実に珍しい一品である。じっくりと観察したい気はするが――
「……まあいいか」
後回しだ。
眺めるのはいつでも出来る。まずは、屋敷の中に入るのが先決だろう。演奏は益々激しくなり、急がなければ終わってしまいそうだ。
改めて扉の前に立つ。
ゆっくりと鍵らしき金属棒を差し込み。
ぐるりと回すとそこには――
4
窓から差し込む朝日に目を覚ます。
結局、あのまま眠ってしまったらしい。頭に手をあててみれば、髪はぐしゃぐしゃで服もしわしわだ。着替えも湯浴みもしなかったのだから当然といば当然か。やれやれ、伯爵家の娘がこの有様では、また叔母が血相を変えることだろう。
――それにしても、あれは。
もぞりとベッドから這い出ながら、私は昨夜の夢を反芻する。
夢の常として何も彼もがぼんやりとして、既にして記憶の彼方に霞み消えつつある。だがそれでも、そびえていた建物は、この屋敷――少なくとも、それに関係したものだということだけは疑いようがない。
そして、夢の中のあの演奏。
喧しくはあったが、決して不快なものではなかった。むしろ心地良いくらいだ。あのような奏楽なら大歓迎。無意味に垂れ流される金属質な叔母の声とはとは比べものにならない。夢路では姉たちが演ずると感じたが。
とまれ思考は後回しだ。背筋を反らして伸びを一つ。今日はどうしようか、そろそろ掃除か蔵書の整理でもしようか――そう思いながらベッドの横の鏡を見て
「……何、これ」
私は動きを止めた。
そこには目を鋭く細めた私が映っている。
いや、それはいい。姿見なのだから、私の姿が投影されるのは当然だ。メルラン姉さんのような優しい顔立ちではないせいで随分と表情がきついが、それも矢張りどうでもいい。
問題はそんなことではないのだ。
――おかしい。
昨夜も気にかかった、鏡の中心の黒い影。
それが大きくなっている。
ぽっかりと浮かんでいたのは、眠る前まで確かに字消しほどの大きさだった。それが今では、握り拳ほどになっている。
手を当てて大きさを確認してみる。鏡面すれすれに拳を浮かせてみると、ぴったりと重なった。錯覚や気の迷いではなさそうだ。
目を凝らしてみると、さらにおかしな点があった。影かと思えたそれには、僅かながら凹凸があるのだ。あまりに小さすぎて正確には判別出来ないが、周縁部が浮き彫りのようになっている。さらには、取っ手のように見えるものまで付いていた。
これではまるで扉ではないか。
それも見たこともない扉ではない。形状といい、彫り物の配置といい、夢で見たものとそっくりで――
――いや、私は何を考えているのだ。
影が扉だと? そんな荒唐無稽な現象があるはずもない。叔母の来訪に奇妙な夢と、少々負荷がかかる出来事が続いたせいで疲れているのだろう。お風呂にも入らずに眠ってしまったのだし。
とはいえ、「それ」がお気に入りの姿見に付着してしまっているのは確かだ。服の確認をする際にも不便になるし、放っておく訳にもいかない。
ベッドの脇の十字窓から空を見上げる。燦燦と照らす太陽、雲1つ無い青空。
たまの外出には悪くない陽気のようだった。
5
雑踏は苦手だ。
陽の光が苦手だ。
人の視線も苦手だ。
だから私は、街に出ると狭い路地を歩くことにしている。覆い被さってくる屋根の隙間から、陽光が少しだけ差し込む。このくらいの明るさが、私にとっては丁度良い。眩い太陽光はどうにも屈託が無さ過ぎるのだ。メルラン姉さんならば兎も角、私には憂鬱な黒い太陽程度がお似合いだろう。
それは兎も角、だ。
何処かに鏡を修繕出来る店、古道具屋のような所はないだろうか。街になど殆ど来ないせいで、心当たりが全くない。屋敷に出入りしていた馴染みの職人に頼めば良かったかとも思うが、今更連絡するのも気がひける。
路地を右に、次に左に。
大通りに繋がる道を出来るだけ避けて、
「あれ、このお店……?」
突如、視界に入ってきたそれ。
何とも云えぬ違和感に、足を止めその建築物を眺めやる。
路地の右左には石造りの家が密集しているのだが、右手のしばらく先に、木造の小さな店があるのだ。
木で造られた建物などはじめて見る。
木と紙で家を組み立てる国があるという噂を耳にしたことはあるが、この街、否、この国にそのような習慣があるとは寡聞にして知らない。
興味をそそられ、私は其の建物にと向かってゆく。ふらふら、ふらふらとした足取りは、痩せぎすの身体と相まって、餌に引き寄せられる昆虫のように見えるかもしれない。もっとも昆虫といえど、蝶のような華やかさとは無縁。この針金のような細身では、せいぜいが甲虫か七節だろう。
軒先には木彫りの看板がかかっていた。この国の言葉ではない。まるで絵のような形の文字。父の東方土産に、似たような文字が印刷されていた覚えがある。日本や中国で使われている、漢字とかいう言語だ。
看板には『香霖堂』と書かれている。
右隅に「古道具売ります、買います、鑑定修復等引き受けます」とある。古道具屋の類だろう。
しかし――こんな店のことは聞いたことがない。
勿論、私が知らないだけなのかもしれない。私は街の人と全くといって良いほど交流がないし、あちら側にしてもプリズムリバー屋敷を意識して遠ざけているからだ。散歩も滅多にしないので、存在を見落としていても不思議ではない。
だが、それでも妙だ。
昔からあるなら父やメルラン姉さんが放っておかなかっただろうし、最近出来たのならば珍しいもの好きな叔母が話題にしないはずもない。なら、噂話の一端なりとも、私の耳に入っているはずだが。
まあいい。
看板を信じれば、鑑定修繕も引き受けてくれるようだ。鏡を診てもらうのも悪くはないだろう。そのあたりの家具屋に頼むつもりは毛頭無かったのだし、渡りに船というところだ。
晩夏の風がぬるく頬を撫でてゆく。生温い風に押されるように、私は薄い木の扉に手をかけ、店の中に入っていった。
6
奇妙な店だった。
店内には雑然とした品物が並んでいる。古道具を扱うのだからそれは当然だ。だが、置いてある品物の種類までもが此処までばらばらなのは珍しい。
鉄製の甲冑があったかと思えば、その真横には翡翠で出来た蛙の置物がちょこんと控えている。金押しの題名が擦れたモロッコ革装の古書が積み上げられ、フライパンや鍋がそれよりも高い山を成していた。木製の衣装箱――箪笥と云っただろうか――の天辺に、青、緑、赤、黄と、割れたスタンドグラスが散らばっている。ひびが入って崩れかけたマリア像が天上から吊り下げられ、その足元に転がっているのは、真鍮で出来た八角形の小物だ。立てかけられた札には『八卦炉』と書いてあるが、何に使うものなのかさっぱり解らない。店の中はどこもかしこもその調子だ。ここまで無国籍だと呆れるを通り越して笑ってしまう。
「やあ、いらっしゃい」
突然の軽やかな声に、びくりとして振り向く。
多種多様な意匠に気を取られ、ぼうっとしていたのだろう。そう声をかけられるまで、私は木製のカウンターの向こうに座った
店に劣らず変った格好をしていた。
見慣れない青色の服装に、古風な丸眼鏡、ざっくりとした白髪。顔立ちは明らかに東洋系のそれで、このあたりで滅多に見かけるようなものではない。
見たところ、年は私よりだいぶ上だ。30歳前後というところだろうか。店の外見と同じように、出自がこの一帯ではないのが一目でわかる。日本か中国の出身なのだろうかと、私はつたない知識で見当をつけた。
特に印象的なのは眼鏡の奥の瞳だ。外見に似合わない、年齢不詳の目をしている。リリカ姉さんよりも子供っぽくて、父さんよりも老成した色合い。実年齢が判然としない、そんな
「店主が云うのも何だけど、固定客以外のお客さんというのは珍しくてね。それも、外から来た人なんて何年ぶりかだ。何かお探しかな」
低く、良く通る声が店内を満たした。落ち着いた艶のある声だ。私は、こういう音が嫌いではない。
ところで、外から来た、というのはどういうことだろう。
確かに、店の主にとっては客というのは常に外からの来訪者だ。万年訪ねてくるような常連客だとしても、それは矢張り入り込んでくるものに過ぎない。外と内を明確に区分してこそ、店主は店主として成立する。常に中に存在しているならば、それは既にして店の一部であり、客とは呼べない。その意味では、「外から来た」という言い方は決して不思議ではない。
けれども――少し意味合いが違う気がする。抽象表現としての内外ではなく、地理的空間的な意味でそう表現しているような気がするのだ。私が感覚的にそう思ったというだけで、根拠は全くないのだが、それにしても――
「どうかしたかな?」
「あ――えっと」
静かな声がとりとめもない思考を遮る。
「ここは、どういうお店なのでしょう」
云った直後に後悔した。何という質問だ。表看板に古道具云々とはっきり記してあったではないか。その上、私はそれを見て入ってきたのだ。今更どういう店なのかもなかろう。
「うん、良く聞いてくれたね」
良く通る聲。間抜けな問いを気にする様子もなくて、内心ほっとする。
「本堂は由緒正しく見えるけど別にそんなことはない骨董店でございます。売り買い見立てから修繕まで何でもござれ。創ることだけは出来ないけれど、その他は何事であろうとよろず引き受けます。
一気に言い立ててにっこりと笑う。その笑顔につられるように、私はここまで持ってきた姿見を指し示した。
「修理をお願いしたいのです。昔から使っている家具が壊れてしまって。えっと、それで……」
呼びかけようとして言葉に詰まる。
名前を聞いていなかったことに今更思い至った。店主さん、でもいいのだが、この空間には少し似合わない気がする。内装も本人も古風な印象だし、ここは名前かせめて通称で呼んでおきたいところだ。
私の戸惑いを察したのか、その人はゆったりと椅子に腰掛け、言葉を継ぐ。
「修繕も勿論引き受けているよ。後、僕のことは――香霖堂、とでも呼んで貰えるかな」
そう云って店の主――香霖堂さんは、穏やかに微笑んだ。
7
「これは面白いね。何処で手に入れたのかな」
「父の土産です。東方で手に入れたと云っていました。印度か中国か、それとも日本かはちょっと解りませんけど」
「成程ね。多分これは日本製だよ。かなり腕の良い職人が手がけてるね。うん、こんな上手物に会えるとは、ちょっと予想外だったな」
拡大鏡で鏡をつぶさに観察しながら、香霖堂さんはそう云った。
声が弾んでいる。私には良く解らないが、そういう趣味の持ち主にはたまらないものなのかもしれない。父が海外から帰ってくる度に、名品珍品に囲まれて嬉しそうにしていたのを思い出す。好事家というのは妙なものだ。
妙といえば妙なのが香霖堂さんだ。風体が街に似合わないという以上に、何かがずれている。硝子の奥の瞳はにこやかに笑っているし、物腰も飄飄として魅力的だ。だというのに、どこか違和感を感じるのは何故なのだろう。どこからどう見ても物好きで人の良い好青年なのだが――
「ところで――」
落ち着いた声音に思案を破られ、はっと顔を上げる。
鑑定が終わったのか、こと、と鏡を山積みの小道具に立てかけて、香霖堂さんがカウンターの中に入ってゆく。肘をつき手と手を組み合わせれば、その瞳は射抜くように鋭く、穏やかだ。何とも
「貴女は鏡とは何なのか、考えたことはあるかい?」
「何かを映すためのものではないのですか?」
鏡は鏡ではないのだろうか。光を受け、その前に置かれた物を、或いは者を正確に反映する道具。
「とも限らないさ。何かを映し出す、という行為には思いの外深い意味がある。キャロル家の一人娘が
成程。
言われてみればそうかもしれない。童話なら魔法の鏡はお馴染みの小道具だ。鏡よ鏡、鏡さんと――
私がそう云うと、香霖堂さんはにこやかに頷いた。
「理解が早くて助かるよ。さて、かように鏡がただの調度品ではないことが解って貰えたと思うけれど――」
「けれど――?」
鸚鵡返しに尋ねてしまう。
カチコチと、壁にかかった時計の長針短針が音を刻んでいる。
鏡を修繕してもらいに来たはずなのに、すっかり話に引き込まれてしまっている自分がいた。まあ、何をするにも一刻を争う忙しい生活を送っているわけではない。たまにはこんな、何の役にも立たなそうな話を聞いて過すのも一興だろう。それに、私もこういう語らいは決して嫌いではない。
「君は鏡の本質的な役割は何だと思う?」
また難しい質問を。具体的な問いならともかく、抽象的なそれに即答しろというのはなかなか大変だ。少し考えようと首を捻ったところで、私の脳裏に何故だか昨夜の夢と、レリーフが付された鏡の影がよぎった。
「扉、ですか」
「ご名答」
我知らず答えると、香霖堂さんが実に嬉しそうに頷く。どうやら正解だったらしい。
「さっきも云っただろう? 『鏡の国の』という表現は決して故ないものじゃない。何も彼もがあべこべな世界。生者が死者で死者が生者、現は夢で夜の夢こそがまこと。鏡はさかしまの国への扉さ。パヴァリアの狂王が鏡の廻廊にこだわり続けたのは、『あちら側』を見たかった、出来ることなら行きたかったからかもしれないね」
耳に心地良い声で、香霖堂さんが滔滔と解説を続ける。それにしても
「それはそうと、鏡の修理についてだけどね」
ようやく本題だ。
「この店に持ち込んでくれたのは正解だったよ。この黒い染み――正確には、染みらしきものは、汚れが付着したわけじゃないね。多分、これは――」
「多分――?」
切られた言葉を追いかけるように問う。
けれども、香霖堂さんはそれ以上説明しようとしなかった。首を振って、カウンターで手を組む。
「……まあ、追々解ると思う。推測だけでものを云うのは避けたいしね。取りあえず鏡は――そうだな、預かっておいていいかな。大体の所は解ったけれど、なかなか珍しいものだし、少し調べてみたい。多分、関係ある物が店の何処かにあると思うしね」
「ええ、お願いします」
即答した。実際、他に選択の余地はなかろう。
私一人でどうこう出来るものではなさそうだし。餅は餅屋だ。専門家に任せるべきだろう。
「承りました。それで……そうだな、一日か二日預かればどうにかなると思う。わざわざ来て貰うのも面倒だろうし、鑑定と修繕が終わり次第お届けするよ。それで構わないかな?」
「でしたら、丘の上の屋敷にまで届けてくださると助かります。街の人に、プリズムリバーの館はどこかと聞けばすぐに解ると思いますから」
「それじゃあ、これが預かり証。まあ一応、ね」
一筆啓上仕るといった様子で筆先が踊る。
なかなかの達筆だ。この国の言葉の横に、漢字が記されているのが面白い。かさりとした和紙に記された預かり証を受け取り、私は頭を下げた。
「それじゃあ、お願いします」
「またのお越しを」
面白い店だ。その内また来よう、と思いつつ、会釈をして私はまた扉に手をかける。
ぎぃ。
ばたん。
扉を閉め、一度振り向く。静かな路地に香霖堂が佇んでいる。
何となく息をついて私は帰路についた。
(続)