こたつに入り、茶を啜る。
藍は眉をしかめながらみかんを1つ手に取った。
「まったく橙のやつ……」
さっきからこればかり呟いている。
横に紫の姿はない、冬なのでご主人様はおやすみなのだ。
別に橙が行方不明になること自体は珍しくない。
行方不明というと大袈裟だが、しばらくいなくなるだけでちゃんと帰ってくるし。
問題は今の季節である、橙は迷信などと言うが、その割にこの季節はこたつで丸くなる。
外出日数も他の季節に比べれば圧倒的に少なかった。
そして、出かけてもその日のうちに帰って来ることが多い。少なくとも今までは。
それも2月、冬将軍も全力のこの時期。
(これで1週間になるぞ……)
皮だけに飽き足らず、スジまでも取る。
藍は意外とそういうところが神経質だった。
足首が寂しい。
いつもなら橙が尻尾を巻きつけていたずらしてくるのに。
足首だけでない、寂しかった。紫も寝ているし橙もいない。
他の季節は紫が悪事……もとい、いたずらを仕掛けてくるので気が気ではないし、
冬は冬眠する紫を尻目に橙と2人でこたつに入って、眠る橙の頭を撫でてやったり、添い寝してやったり。
そして一緒に風呂に入って、一緒に寝るのだ。
体温の高い橙と一緒に寝るのは本当に心地良いのだ、喉がゴロゴロ鳴ってうるさいのはもう慣れた。
「あっ……」
みかんのスジ取りは藍の特技であった。
橙はみかんがあまり好きではないが藍が丁寧にむいたものだけは食べる。
(汁が……)
薄皮を破いてしまい、指についた汁を舐める。
「凶兆!! まさか……どこかで凍死しているのか!?」
思わずみかんを握りつぶす。
藍にとって、みかんのスジ取りの失敗はそれすなわち凶兆だった。
積もりに積もった不安もあって、藍は居ても立ってもいられなくなる。
(しかし紫様は……)
主のことも気にかかる……式神として、主の側を離れて良いものか。
もし少し目を離した間に何者かが命を狙ってきたらどうする。
とりわけ、今年は唯一まともに相手をしてくれていた霊夢に対して、凄惨極まりない嫌がらせをしたようではないか。
その復讐に来る可能性があるかもしれない。
が、それは自業自得だろうし、霊夢は返り討ちだろう。
次なる嫌がらせの手段が何かは気になるが、橙のことに比べたら。
(……わざわざこの寒い中、紫様に会いに来る者もいるまい)
まぁいいや、ということだった。
あと、橙も式神だが大抵藍の側には居なかった。
藍は気付いていなかったが。
橙の行く場所は大体決まっている。
たまに帰ってきて一緒に食事をするとき、橙がそれまであったことを嬉しそうに話すからだ。
「うー……寒いな」
高速で飛んでるのでなおさらであった。
しかも湖上、そしてこの辺は雪の妖精やらが跋扈している。
そいつらのせいで余計に寒い。
しかも久々に長距離回ったままなので吐きそうだった。藍は回りながら飛ぶ方が速い。
橙は心配だし、寒いし、気持ち悪いし、紫は不審な挙動ばかりするし、最悪だった。
最後のはあまり関係無い気もするが。今はおやすみしているし。
(あそこか……)
小さな家が見えた。
降り立ってフラフラしながら戸を見ると。
「チルン」
と書いてあった。
ああ、これは件のチルノという奴だな、にしても自分の名前を書き間違えるとは、酷く馬鹿だ。
「たのもーっ!!」
しかしそんなことは気にしてられない、戸をどんどんと叩く。
チルノなら橙の居所について何か手がかりを知っているかもしれない。
「むっ? 私は橙の主、八雲藍……あれ?」
何の返答も無く開いた戸に驚く。
しかしそこから顔を出したのは他ならぬ橙だった。
「藍様……」
橙の服がぼろぼろだ、しかも目に涙まで浮かべて、今にも泣き出しそうな表情。
「なっ、どうしたの橙? 何かされたの?」
「助けて、助けて藍様!!」
橙が藍に抱きついて泣きじゃくる、何事だ。
しかし家の中は静かなので、まだ覗いてないが家の中で何かあったわけではなさそうだ。
「落ち着くのよ橙、チルノは? いるの?」
「チルノが……チルノが……」
はっ、と事態を察すると、できるだけ優しく橙を引き剥がし、家の中を覗き見る。
そこには、ぼろぼろになってベッドに横たわるチルノの姿があった。
「どうした!? 大丈夫かチルノ!?」
「……ぅー……」
藍の呼びかけに対して、チルノは小さく呻くだけであった。
見た感じかなり酷い怪我だが数日経ってる様子で、致命傷と言うことでもなさそうだ。
よく見ると随所に手当てした跡がある、これは橙によるものだろう。
しかしそれは実に拙く、早く藍による手当てをしてやった方が良いのも事実。
「橙、待ってなさい、湖の氷を取ってくる」
「わ、私も行くっ!」
「いいから、ついてておやり」
橙を制すると、できるだけ近いところの氷を叩き割って持ち上げる。
といっても家のすぐ目の前に湖があるのだが。
「うぅ、冷たい……」
藍だって特に寒さに強いわけではないので、これはきついものがあった。
家の中へ運ぶと、その氷塊をさらに砕いて丁度良い大きさにし、袋に詰めてチルノを冷やしてやる。
氷精の手当てなんてしたことはないが、聞いた知識でこうするのが良いと藍は知っていた。
「これで元気になるはずよ」
不安げに見つめる橙に微笑みかける。
「流石藍様! すごいよ!」
ようやく橙も笑って、ほっと一安心。
「さて橙、お前も式神が落ちてしまっているわね、水に入ったろう? 憑け直してあげるからおいで」
「魔理沙にやられて……湖に……」
「あいつか……今度仕返ししておいてやるからな、安心おし」
せっかく笑ったのにまた橙がぐずり始めてしまった。
よしよしと頭を撫でてやり、藍は式神を憑け直す準備にかかった。
チルノの部屋は外よりも寒かった、流石氷精だけある、これでも快適なのだろう。
橙は寒さに耐えられないのか、式神を憑け直された後は藍に抱きついたまま眠ってしまっていた。
しかし部屋を暖めるわけにもいかなかった、それでは治りかけのチルノに具合が悪いからだ。
体温の高い橙がくっついていてくれているのがせめてもの救いだった。
冷やすだけと言うのも心配だし、いつも橙を治してやるのと同じように妖力を注いでやる。
「んー……うわっ!!」
チルノが目を覚まし、藍を見て飛び起きる。
「だ、誰よあんた!」
「橙の主の八雲藍だ、良かった、酷い怪我だったが治りが良いな」
「あ……」
橙の拙い手当てをやりなおし、氷の入った袋で冷やされ、身体に満ち満ちる妖力。
「まったく、何があったっていうの? お前も魔理沙にやられたのか?」
「や、やられてなんてないよ! ちょっと油断しただけ!」
本気で戦ったって魔理沙に敵うはずもあるまい。その程度のことは見てわかった。
藍だって幻想郷では随分な実力者である。
「無理をするものだ、あいつは一筋縄ではやれんよ、ちょっかいを出すのはおやめ」
「な、なによ! 知った風に!」
知った風にも何も、藍は頭だって良い。
伊達に長く生きているわけではないのだ、普段は暇だから本をよく読むし。
妖術の勉強だって家事の合間に欠かさない。氷精の性質についても知識だけはあるし、魔理沙のことも知っている。
1度目は、冥界で遊び回っていたときに、2度目は、永夜の事件のときに。
2度戦って2勝している、しかし1戦目はけして圧勝ではなかった。
それゆえ魔理沙は藍の中ではかなりの危険人物として認識されている。
永夜のときは……霊夢と紫もいたので一方的どころではなかったが。
「地の果てまで追うのよ」
と言い、負けて墜落した魔理沙を追撃、お気に入りの箒を奪った紫は……
それを両手に握り締めて膝へ打ち付けて叩き割り、代わりに耳掻きを渡した。
更に頭の上に乗ったお気に入りの帽子も奪い取り、代わりに餃子の皮を乗せた。
藍は、あの強気な魔理沙があそこまで泣きじゃくるのを初めて見た。
そしてそれ以来、魔理沙は徹底的に紫を避けるようになった。
まぁ話はそれたが、魔理沙は強い。
「んー……藍様ー?」
「橙、起きたか、チルノが目を覚ましたわよ」
「あ、ほんとだ! チルノ! 大丈夫?」
「あのぐらいあたいにはどうってことないよ!」
何の裏づけも無いその強気な態度は、魔理沙を彷彿とさせるものがあった。
しかし魔理沙と決定的に違うのは、魔理沙の場合何の裏づけも無い「ように見せている」ことであろう。
実際戦ったときは、その姿と軽口からは想像も及ばぬ技の種類と威力に苦しめられた。
「とにかく今日は帰るよ、橙」
「で、でもチルノが……」
「なに、手当てはしっかりしてある、問題はない」
橙の手を引いてチルノの家を出る。
「ではな、チルノ。無茶をしてはダメよ」
「さっさと帰りなさいよ!」
藍と橙は最後にチルノに一瞥くれると、並んで飛び去っていった。
「……あ、ありが……」
素直にお礼が言えなかった、そのことがチクリとチルノの胸に刺さっている。
もういないのに言ったって仕方が無い、チルノは言葉を飲み込んで家の中に入っていった。
帰ると、紫は朝と変わらない様子ですやすや寝息を立てていた。
家の状態も朝出たままだったし、やはり心配はいらないと藍は確信する。
そして藍と橙は久しぶりに一緒に入浴していた。
「ふぅむ、なるほどな」
わしわしと音を立てて、橙の頭を洗う。
ちなみに、橙の式神が入浴することで落ちることは無い。
橙の言うことには、あの辺を魔理沙がよく通過するらしい。目的は紅魔館のようだ。
「そのたびにチルノは魔理沙にちょっかいかけてるの」
「放っておけば良いだろうに……飛んで火にいる夏の虫というやつだなぁ」
湯船からお湯を汲んで橙の頭にかけてやる。
妖精というのは気性の荒い種族だから、これといった理由も無く他人に迷惑をかけたりする。
そこまで酷いことをするわけではないのが可愛らしいところなんだが。
相手があの魔理沙では、生半可ないたずらでは満足しないのだろう。
「さぁ橙お湯にお入り、30数えるまで出てはダメよ」
「はーい」
続いて自分の身体を洗いながら考える。
橙は特に魔理沙にこだわってないようだ、流れで巻き込まれてしまっているんだろう。
それほどの怪我を負っていなかったのは、おそらく魔理沙をあまり深追いしていないから。
そして魔理沙からすれば、紫につけられた心の深い傷から、八雲一家に関わりたくないというのもあるのだろう。
橙をいじめれば藍が出てくる、藍をいじめたら……紫にこっぴどくやられるのだ。
藍だって、そう簡単には魔理沙に引けを取らないのだが。
「30~っ! 藍様ー、先にあがるね、のぼせちゃいそう!」
「はいはい、しっかり身体を拭くんだよ」
「はーい」
橙が出て行くと、藍は身体を流して湯船に浸かった。
「ふぃー」
温まりながら思案に耽る、あのチルノという娘、どうも心に引っかかるなあ。
わずかながら橙に似てるところも無くもなかった、心配だ。
(また今度あの湖へ行くか……)
風呂からあがり、久しぶりに橙と一緒に寝た。
やはり、橙の体温の高さが心地よかった。
数日後、また橙が出かけた。
今度は「チルノのところへ行ってくる」とちゃんと言って行った。
藍もチルノの顔見知りになったことが橙は嬉しいようだ。
「ふふ、喜ぶかな、あいつら」
そう言いながら藍はご機嫌でおにぎりを作っていた。
そう、あの子達に持って行ってやるつもりだ。
自分用のいなり寿司も忘れない。
「これでよし、と」
たくさんのおにぎりと、見た目に工夫を凝らした可愛らしいおかず。
橙の大好きなミルクを水筒に、チルノは何が好きかよくわからないので、
よく冷やした、生絞りみかんジュースを。
「私が混ざってダメと言うことはあるまい」
藍だって暇で寂しい思いばかりするのは嫌だった。
ご機嫌で空へ飛び上がる。弁当を抱きしめて。
おっと回らないようにしなくては、中身が寄ってしまうから。
「なんだ、懲りない奴だぜ。バカとは知っていたけど、ここまでとはな」
「なんでっ!? なんで当たらないの!?」
またチルノは通りかかった魔理沙にちょっかいを出していた。
さっきから全力で攻撃しているのだが、それは一切魔理沙に当たらない。
その上、魔理沙はわざと弾にかすって遊んだりと、随分余裕だ。
「お前がバカだから当たらないんだ!」
「あっ!!」
魔理沙が一気に距離を詰める。
「ってことで一刻も早く紅魔館に行きたいんでな、ご退場願うよ」
もう自分が持ちうる全てのスペルカードは使った。手立てが無い。
魔理沙の一撃を受け、チルノはまたも敗北し、落ちていく。
1枚のスペルカードすら使わせることもできずに。
「チルノッ!!」
「あー? なんだ、また橙か……え!?」
橙ではなかった、その主、八雲藍だ。
橙には手加減していたのに、ついに藍が仕返しにきたのか?
魔理沙の表情が見る見るうちに真剣なものに変わっていく。
「魔理沙……久しぶりだな」
「なんでお前がここにいるんだ?」
「……チルノのやつ、またお前にちょっかいをかけたのか……橙は一緒じゃなかったか?」
「橙なら、スペルカードを全部避けてやったらすぐ逃げたぜ、そこら辺で見てるんじゃないか?」
そうか、無事か……橙については安心だ。
「なんだ、橙の仕返しか?」
「いや……」
魔理沙は、藍が何かの包みを大事そうに抱えていることに気がついた。
「なんだかわからんが、用があるのが私じゃないなら、失礼するぜ」
そう言って魔理沙は箒に魔力を込めると、凄まじいスピードで彼方へと消えていった。
1度は藍に敗北したものの、今戦ったら勝算は十分にあるのか、幾分かの余裕が見えた。
「耳掻き……耳掻き……」
魔理沙は藍達の視界から消え去った後、涙目でそう呟き続けていた。
意外と余裕じゃなかった。
チルノがふらふらしながら家に戻ると、橙はすでにそこにいた、
「チルノ、大丈夫?」
見た目ぼろぼろにはなっているものの、チルノは普通に振舞う。
「あのぐらいで取り乱さないでよ、あたいはこのぐらいへっちゃらだもん」
「チルノ……良かったぁ」
遅れて藍がチルノの家に入ろうとするも、足を止める。
2人ともさぞ落ち込んでいることだろう、特にあれだけ弄ばれていたチルノは……
(なんと言って慰めたものか……)
そんな藍に、2人の会話が家の中から聞こえてくる、
「あははっ、やっぱ単なる妖精のあたいじゃ、こんなもんだよね!」
「そうだよチルノ、生まれつきの天才ってやっぱりいるよね、藍様とか紫様みたいな」
「あーでもしんどかった! 魔理沙のやつ、遊んでばっかりでいつまでも攻撃してこないんだもん!
逃げるのもちょっとシャクだしさあ~」
2人を慰めてやろうと思っていた藍だったが、それを聞いて気が変わった。
強がっていたのはどうも藍の前でだけだったらしく、友達である橙の前では本音を話していた。
勝てるわけがないのにちょっかいを出し、負けて、そんな自分達を笑い飛ばしているのだ。
藍が乱暴に扉を開ける。
「藍……どうしたの?」
「ら、藍様?」
そこには尻尾の毛まで全て逆立てて怒りに震える藍がいた。
「なんで私が怒っているか……わからんか?」
そんな藍を見てため息をつきながら2人は言う、
「何よもー、ただでさえ魔理沙と戦って疲れてるっていうのにさ」
「藍様、チルノを手当てしてあげて!」
前回あんなに怪我が酷かったのは、魔理沙の虫の居所が悪かったとか、そんな理由だったんだろう。
今のチルノを見よ、ろくな怪我をしていない、あんなの手当てするまでもない。
「くそぉ!!」
藍がテーブルを殴る。
抱きかかえていた弁当を地面に投げつける。
弱いのは仕方ない、確かにお前達はそういう種族だ。
しかし何故負けていながら笑っていられる、お前達には誇りはないのか。
勝つつもりは無いのか、何を思って戦っているんだ。
楽しければそれで全て良いというのか、負けても悔しくないのか。
様々な思いが藍の心の中を駆け巡る。
「今のお前達のような者を何と言うか知っているか!! 負け犬だ!!」
チルノも橙も黙ってうつむいてしまう。
藍がチルノを睨みつける。
「チルノ!! お前はもっと根性のあるやつだと思っていたぞ!!」
ぼろぼろになりながらも、強がりを飛ばすチルノ。それは幻だったのか。
そして今度は橙を睨みつける。
「橙!! 私はお前をそんな式神に教育した覚えは無い!!」
放蕩娘、私など居なくても立派に生きていける、そんな式神だと思っていた。
確かに弱い、弱い種族、式の式、それでも全力でやってくれていると思ってた。
なのにこんな負け犬根性が染み付いていたなんて。尻尾を巻いて逃げたのも、そのせいだ。
「魔理沙だって、紫様だって、私だって、何もせずに強いわけはあるまい!!
才のある無しに関わらず、努力しない者は成長しない!! それは道理だ!!
なのにお前達はなんだ!! スペルカードを根こそぎ破られて悔しくないのか!!」
言った、言ってしまった。熱くなりすぎたかもしれない。
でも藍は、いや藍だからこそこんなのは耐えられなかった、何をへらへらしている。
私は紫様を守るために強くなくてはならないのだ、それこそが私の誇りなのだ。
何度も思う、お前達に誇りは無いのか、絶対に譲れない気持ちは無いのか。
「ふぅー……ふぅー……」
息を切らしながら、見てみると2人がふるふると震えている。
「……しいよ……」
2人の目に涙が浮かぶ。
「悔しいよ!! うぅーーっ!!」
チルノは床に拳を叩きつける。
「負けて当たり前になってたから……いつも笑ってごまかしてたけど……本当は悔しいよ!!」
「悔しいよ!! うぁーん!」
2人はどかどかと床を殴りながらむせび泣いた。
そうだ、笑っていたのは建前だ、負けん気の強いチルノが悔しがっていないはずはない。
橙にしたって、藍や紫を見て、自分の弱さを心の奥底で常に悲観していたのだ。
藍の熱い気持ちが、この子達の隠れた闘志に火をつけた。
そんな2人を見て藍の目からも、涙がぼろぼろこぼれ落ちる。
己の式神である橙の情けない姿、チルノに対する失望、そしてなにより……
この子達の姿が、過去の自分に重なって見えた。
この子達は変われる、そう思った藍はあえて厳しい台詞を浴びせる。
「悔しいのは誰でもそう思う……でも思うだけではダメだ!」
2人を見下ろす。
「お前達はそれでどうしたいんだ……」
「勝ちたい……!」
「魔理沙に勝ちたい!!」
呼応するように2人が立ち上がり、叫ぶ。
「魔理沙は……たった今お前達のスペルカードを余裕で完封していった相手だぞ!!」
「勝ちたいよ! 魔理沙がなんだっていうのよ!!」
「そうだよ! うぅーーっ!!」
「しかしな……魔理沙に勝つって言うのは並大抵の努力じゃないんだぞ!!」
それでもまだ厳しい言葉は止めない。
この2人の覚悟がどれほどのものなのか、藍は最後まで確認したかった。
「藍様……修行をつけてください!!」
「あたいも……魔理沙に勝ちたいよ!!」
「私の修行は厳しいぞ!! それでもやるのか!?」
「やります!!」
「勝つんだもん!!」
変われる、この子達は変われるぞ。
この子達の思いがこれほどとは……藍の胸に感動が突き上げた。
「よーし……よく言った! 私が必ず勝たせてやる!!」
「藍様!」
「藍……さん!!」
3人、肩を抱き合って結束を固める。
この子達は私を信じてくれている、私は全力でこの子達を磨き上げる。
藍の心に、使命感が炎となって燃え上がった。
そしてその後3人は、叩きつけられてぐちゃぐちゃになってしまった藍の弁当を食べた。
涙の味しかしなかったが、この弁当は、闘志という形で3人の身体に吸収された。
チルノの家の壁には「打倒!! 霧雨魔理沙!!」と書いた紙が貼られた。
書いたのは藍だ。
チルノに書かせたら何のためらいもなく「アリサ」と書いた。
どうもこの子の語学力は心配だ。
毎日家を往復するのは大変だが、チルノの家は寒すぎて藍と橙が耐えられないため、
2人はチルノの家のすぐ側に建っていた古い小屋を修復して住み込んだ。
チルノと橙はそこで遊んだりもしていたため、少しながら生活用品もあったし、
それでも足りないものは初めに八雲邸から持ち込んでおいた。
これならば朝は早くに始められるし、夜は終ったらすぐに休むことができる。
そして血の滲むような特訓が始まった。
「基本は体力だ! 走って走って走り込め!」
どんなに魔力、妖力、霊力が高かろうが、体力が無ければそれを使いきれずに負ける。
藍は知らない人物だが、紅魔館のパチュリーなどが良い例である。
2人は素直に藍の指示に従い、湖の周りを何周も走った。
「弾の本質を身体で覚えろ!」
手まりを使ってのキャッチボール。
最初は1個、次は2個、そして3個……どんどんと投げ合う手まりを増やし、
頭で考えるよりも先に身体が動くように……弾幕というものを理解させる。
これは同時に集中力を養う訓練にも繋がった。
「自分の長所と短所を理解しろ! 戦闘スタイル確立は最重要事項だ!」
敵の魔理沙は実に多彩な攻撃を持っているが、その中でも特徴的なものが「マスタースパーク」である。
「ミニ八卦炉」という道具で増幅されたそれは、山1つ簡単に吹き飛ばすぐらいの威力がある。
もちろん魔理沙はこれを橙やチルノに使ったことは無い、その必要すら無いと思っているから。
藍は一度直撃を受けたことがある、そのときは数キロメートル離れたところまで吹き飛ばされた。
つまりは、そういう切り札を1つは編み出せというのが藍の指導である。
そして魔理沙はマスタースパーク以外にも多彩で変則的なスペルを持つ。
それらは言うまでもなく、直線的な攻撃であるマスタースパークを支えている。
偏っているように見えて計算しつくされている、恐ろしい相手だった。
そこが短所を理解しろ、という指導である。
「よし、私が相手になるから全力でかかってこい!」
最後にはひたすら戦わせ、今までの総復習とした。
見違えるように強くなった2人、藍は負けこそしなかったがヒヤヒヤさせられることが何度もあった。
私をここまで追い詰められるなら、きっと魔理沙にも……
藍は、かすかに勝利を感じ始めていた。
ある日のこと。それは橙が体調不良を訴えたので小屋で寝かせ、チルノだけに修行をつけていたときのことだ。
「藍……さん」
「ん? どうしたのチルノ」
チルノは未だに藍に「さん」と付けるのを少し恥ずかしがっている様子があった。
「自分の式神の橙はわかるけど……どうして、あたいにここまでしてくれるの?」
それは、チルノが最初からずっと抱いていた疑問だった。
その日は運が悪かった、機嫌の悪い魔理沙にちょっかいを出したら、予想以上に酷くやられた。
そう、最初に藍に出会ったあの日のことである。
そして怪我を治してもらったにも関わらず、失礼な態度を取った。
お礼すら言えなかった。チルノは、ずっとそれを悔やんでいたのだ。
「あたいね……初めて会った人にここまで面倒見てもらえるなんて……初めてで……」
チルノの目に涙が浮かぶ。
藍の修行は相当に厳しいものだったが、とても真っ直ぐな瞳でチルノを見つめてくれていた。
それは他ならぬ、藍からチルノ向けられる愛情の表れである。
チルノには友達がいるものの、親や兄弟と言った存在とは無縁だった。
優しくて、厳しくて、頼りになる藍のことが大好きだった。
「あり……な、なんでもない」
「チルノ?」
一方で、言うことは素直に聞くが、そんな気持ちを正直に言えないチルノを藍は感じていた。
言えないというだけで、態度から伝わってくるので、藍はそれで良いと思っていた。
しかしそれは本人にしたらとても悔しいことなのだと、今のチルノを見て理解する。
藍はそっとチルノを抱きしめてやった。
「チルノ、ちゃんと伝わっているよ、お前の気持ち」
「ら、藍さん……」
「でも今は、それを気にしてはいけない。きっといつか言える日がくる、私は待っているからな」
抱きしめているチルノを一度離し、目を見つめる。
今にも大声で泣き出しそうな顔をしていたので、藍はとびきり優しく微笑んでやった。
そして言う、
「橙もお前も、私にすれば妹のようなものだ、細かい理由なんてないよ。
家族に優しくするのに、理由なんていらないしな」
それを聞いて泣き出してしまったチルノを藍は再び優しく抱きしめてやった。
チルノはいつもこうしてもらっていたであろう橙を、妬んだ。
でもチルノは橙も好きだったから、何もしなかったし、文句も言わなかった。
暖かいのは嫌いな性分だが、抱きしめられた藍の身体から伝わってくる体温は、嬉しかった。
気付けば冬将軍はすっかりなりを潜め、春になっていた。
チルノは嫌がったが、藍と橙は修行の合間に日光浴をしたりもした。
「さて……お前達は実によくやったよ」
チルノの家の中で2人を並んで座らせ、藍は語った。
「しかしながら、修行を付けてやれたのはおよそ2ヶ月強……」
そう、そろそろ目を覚ますのだ、紫が。
考えたくはないが、もう目覚めている可能性もある。
藍は家に帰り、また紫の身辺の世話に戻らなければいけなかった。
この子達は可愛い弟子だが、飽くまで自分が紫の式神であることを忘れてはいない。
それはずっと藍の心に引っかかっていたことだった。
「今日で帰らなくてはならない」
だがそんな様子を見せたら、橙はともかくチルノの戦意は失せてしまうのではないか?
そんな不安が藍の言葉を制限した。
ともかく、私がこれではいけない、2人まで元気が無くなってしまう。
気を取り直して、話を続ける。
「見違えるように強くはなったが、1人で戦おうとは思ってはダメよ、
私は、お前達が2人1組で戦う前提で修行をさせた、わかるね?」
「うん!」
「わかってるよ、藍様!」
「必ず勝たせてやる!」とは言ったものの、藍はそれも不安だった。
どうしたって付け焼刃感は否めない、それが果たしてあの魔理沙に通用するだろうか?
そう、次に魔理沙が通りかかったら決戦だ。
臥薪嘗胆の思いで修行し続けたこの2ヶ月、思いは報われるのだろうか?
(紫様……どうか、あとわずかばかり……藍に時間をください)
そんな願いが通じてかどうか……魔理沙は紅魔館へ向かっていた。
(あの本なかなか面白かったな、パチュリーはどう思ってるんだろうな、ああ早く話したい)
それは勝手に拝借した本だが、パチュリーはもう慣れっこであまり気にしていない。
その本についてパチュリーと論議を交わすのが楽しみだ。
箒を握る手に思わず力を込めつつ、ルンルン気分で紅魔館へ急ぐ。
しかし不意に嫌な気配を感じた。
そろそろ湖に差し掛かるかと言うところだ。
それは凄まじいスピードで魔理沙の背後から迫ってくる。
箒へ込める魔力を最大にしても即座に追いつかれそうだった。
……事態は動き出していたのだ。最悪の展開で。
藍の願い虚しく、3日前に紫がいつもより早い春に揺り起こされていた……
目が覚めて……呼んでも呼んでも出てこない藍……紫は1人むせび泣いた。
「私の、私の藍は? 藍はどこなの? ラァーーーーン!!」
何度も何度もそんな慟哭が八雲邸に響き渡ったという。
こっそり集めていた藍の抜け毛を秘密の引き出しから取り出し、それを眺めてはまた泣いた。
藍、寝っぱなしだったから汗臭いわ、寝ている間、何故私の身体を拭いてくれなかったの?
いっつも冬眠明けは、消化のいいものを作ってくれたじゃない。背中を流してくれたじゃない。
一緒にお散歩して、一緒にお花見して……
「尻尾枕で私の耳掃除をして頂戴!! せっかくこんなものまで作ったのに!!」
泣き喚く紫の手に握られていたのは、耳掃除後に残りかすをかき出す、ぽやぽやした毛玉部分が金色の……
そんな、ちょっと豪華な耳掻きだった。流石スキマ妖怪、良い品を持っている。
三日三晩泣き続けた紫、その心の中で……悲しみが怒りに変わったのだった。
「誰かが!! 誰かが残酷にも私の藍を奪ったのね!! 許せない!!」
スキマによる瞬間移動も忘れ……恐ろしい速度での藍捜索、そして藍を奪った憎い敵の捜索が始まっていた。
そして最初に遭遇したのが魔理沙だった。
「貴女かしら? 私の藍をたぶらかした悪魔は」
「あー? 何のことだかさっぱりだな」
「悪魔はお前だ」魔理沙はそう思った。
「冬眠からお目覚めか、まったく、またしばらく物騒な季節が続くんだな」
「ん~? なぁに~? 寝てる間に耳垢が溜まりすぎたのかしら? よく聞こえないの」
そういって、わざとらしく例の耳掻きで耳掃除をしてみせる。
魔理沙はその耳掻きを見て嫌な記憶が蘇ると共に、全身が怒りで打ち震えた。
「やっぱりこの特製耳掻きは掻き心地がたまらないわねぇ、ピッタリフィットなの」
「まだ寝ぼけてるみたいだな。幻想郷一強烈な目覚ましをプレゼントしてやるぜ!」
あのトラウマを克服するには紫を倒すしかない。
何も復讐に燃えて努力を積んでいたのはチルノや橙に限ったことではなかったのだ。
魔理沙もまた、紫を倒すためにずっと修行を積んでいた、今日こそそれを晴らすときだ。
「その余裕たっぷりの態度! 後悔させてやる!」
言うが早いか、スペルカードを取り出して星型の弾で紫を包み込む。
しかし攻撃としては不十分だった、それらは全て紫に届く前に見えない結界で打ち消された。
だが最初はそんなものでいい。魔理沙には勝算があった。
「その程度で幻想郷一を名乗るのは、図々しいと思うの」
紫は特製耳掻きを懐にしまうと、傘を振り下ろして無数の弾を生じさせた。
「前、お前に折られた箒と、今の箒『スパーク2号』は比べものにならんぜ!」
にやりと笑うと魔理沙は驚異的なスピードで紫の懐に潜り込んだ。
「この距離じゃ結界も何もあったものじゃないだろ? 『零距離マスタースパーク』だ、月まで吹っ飛びな」
ほぼ密着した状態で紫の腹に手をかざす、それは以前から考えていた勝利の方程式。
……のはずだったが。
「手と手のシワを合わせて、幸せ……って言うけれど、どう考えても『しわあわせ』だと思わない?」
紫はゆらりとほんの少しの距離を取ると、魔理沙と手を合わせ、さらに指を絡めた。
このまま撃ったら……自分の腕までマスタースパークで吹き飛んでしまうかもしれない。
振りほどこうにも、紫の握力は魔理沙のそれを遥かに凌駕していた。
「このまま撃てるの? それ、随分考えた作戦のようだけど、少し単純すぎるわ」
「く……」
正攻法では勝つ見込みが無いと思って考えた奇襲戦法、しかしそれは百戦錬磨の紫には通用しなかった。
「ち……負けだぜ……好きにしな」
「あらあら、威勢も良ければ往生際も良いのね」
「と思ったが気が変わったーー!!」
悪あがき。
魔理沙は紫の一瞬の油断をついて方向転換し、ミニ八卦炉の出力最大で逃げ出そうとした。
その瞬間、魔理沙のスカートがスキマから這い出た気味の悪い腕に掴まれ……
つんのめって箒(スパーク2号)から振り落とされ、箒(スパーク2号)のみが遠くへと飛んでいった。
「スパーク2号ーーーーー!?」
「追ってはダメなの、魔理沙」
魔理沙はスカートをスキマから伸びた腕に掴まれ、無様にぶら下がったまま悲しそうに、
離れていく箒(スパーク2号)を見つめていた。
「貴女には聞こえないのかしら? 『私は私はあーなーたーかーらー……たーびーだちーますー』
というスパーク2号の声が……そう、聞こえないのね、貴女、箒乗り失格だわ。
私には聞こえるの、箒の声。スパーク2号はかなり色好みなハンサムボーイなのよ。
貴女の小さなお尻に満足できなくなって、更なる桃尻を求めて旅立ったの、わかってあげなさい」
とても優しく、とても悲しい顔をして、紫も遠ざかっていく箒(スパーク2号)を見つめていた。
「頭おかしいこいつ」
魔理沙はそう思ったが、箒(スパーク2号)を失った今、逃げる術が無かった。
絶望し、なお力無くぶら下がるだけだった。
紫は魔理沙をぶら下げたまま地上に降りると、真剣な顔で問うた。
「さて、藍について何か知らないかしら?」
「あー? あぁ……そういやチルノのところに居たな……何度か見かけたよ、あとは知らん」
「そう……有力な情報をありがとう……」
そう言って紫は踵を返す。
あれ? 解放されるのか? 魔理沙はわずかにそれを期待した。
「あ、こんな有力な情報をくれた貴女に、お礼しないわけにはいかないわ、それは私の心が許さないの」
「いや!! いらん!! 頼む!! どこか行ってくださいぃ!!」
魔理沙の目には涙が浮かんでいた、それだけではない、ガタガタと震えている。
「そう言わないの……箒、残念よね……代わりになるかわからないけど、はい、これあげるわ」
そう言って魔理沙の前に差し出されたのは、たんぽぽの綿毛1本だった。
「そっくりよね、箒に。この子を『スパーク3号』と呼んで良いわ」
「いやあああああああああ!!」
魔理沙が頭を抱えて絶叫する。
耳掻きの方がまだましだった。もはや全然箒には似ていない。
「あ、あとその帽子やっぱり悪趣味なの、代わりにいいものをあげる」
それだけはやめて、と言った様子で魔理沙は両手でしっかり帽子を握り締める。
が、紫は馬鹿力だった、それをあっさりむしり取ると……
「ああ、なんて素敵なの。貴女にはもったいないわね」
そう言って、また魔理沙の頭の上に餃子の皮を乗せた。
しかもそれは、一度具を包んだが失敗して具を取り除いた形跡があった。
そして乾いてカピカピだった。
「うわぁぁぁぁん!!」
手のひらにたんぽぽの綿毛を乗せ、頭に汚い餃子の皮を乗せた魔理沙は子供のように泣きじゃくった。
そこにはシュールな世界があった。それこそが紫の世界。
「チャオ☆」
紫はスキマを開いてその中へと入っていった。
そのときに少し動いた空気がスパーク3号をさらっていった。
彼を受け止めた地面からは、きっとスパーク4号が生えてくることだろう。
一方、チルノの家。
3人は神妙な面持ちだった、何故なら藍が、
「今日魔理沙が来る来ないに関わらず、私はここを離れなければならない」
と、罪悪感に耐え切れずに、遂に告白したからだ。
橙はわかっていたからそれほど気にしていなかったが、やはりチルノはそれを聞くなり泣き出してしまった。
その辺の事情を以前から説明していなかったことを藍は後悔した。本当は最後まで見守りたかったが……
チルノはそれ以降藍に口を開かなくなってしまった。
「突然で本当に済まない……チルノ……」
「……」
大好きだからゆえの悲しい結末……
チルノと藍の心には大きな隔たりができてしまった。
「チ、チルノ~……別に会おうと思えばいつだって……」
「黙りなさいよ!」
慰めようとした橙をチルノが睨みつける。
あんたは良いわよ、いつだって会えるじゃない、帰る場所に藍がいるじゃない。
妬ましさが攻撃的な言葉になって、橙の胸に突き刺さる。
「あんたにあたいの気持ちなんてわからないじゃないの!!」
そんなとき……
「チャオ☆」
突然チルノの家の中に開いたスキマ……紫だった。
スキマの奥から聞こえる泣き声は、魔理沙の声。
「ま……魔理沙!?」
藍がつい驚きの声をあげる。
「藍、酷いわ、挨拶すら無いなんて……やっぱりあの魔法使い、潰しておいて正解だったの。
久しぶりに会って、一言目を取られてしまうなんて……私とても悲しい」
「ゆ、紫様……もうお目覚めになられたのですか!?」
「ああ藍、会いたかった。さぁ早く家に帰りましょう、いろいろとしたいこともあるし」
橙とチルノは、紫から放たれる異常なまでの妖気で完全に萎縮して動けなくなってしまっている。
もはや魔理沙どころではない、橙にしたって、ここまで紫が妖気を垂れ流しているのは初めて見た。
それは……そのぐらい紫が怒っていることを意味している。
「紫様! お願いです! もう少し、もう少しだけ藍に時間をいただけませんか!!
紫様が冬眠なさっている間、私はこの子達に修行をつけたのです!
どうか……この子達が目標としてきた、魔理沙と戦うまでの数日だけでも……!!」
藍が土下座をして紫に懇願する。
「そんなこと言われても困るの。魔理沙はきっとしばらく引きこもって枕を濡らすわ。
いつになるかわからないじゃない、そんな長い間藍無しで生活なんて……」
紫の目に涙がじわりと浮かぶ、とてもうそ臭い。
「なにとぞ……なにとぞ!!」
さっきは今日中に帰ると言ったが、やはり藍は最後まで見届けてやりたかった。
確かに魔理沙は紫にこてんぱんにされ、しばらく社会復帰できまい。
何をしたかはわからないが、相当酷いこと……少なくともその嫌がらせは前回を上回るはずだ。
だが、チルノと橙の気持ちを無駄にしたくなかった。
「ら……藍さん……」
そんな藍を見て、チルノは涙が止まらなかった。
自分に対して最後まで誠意を尽くそうとしている、己の主に意見してまで。
チルノだって、いつかは藍が戻らなければならないことはわかっていた。
けれど、それを認めたくなかった、ずっと側に居てほしかった。
なのに突然言われて動転してしまっただけなのだ。
しかし紫にしたらそんなことは知ったことではない。
「藍、いつからそんな反抗的になったの?」
気配が急変した。
垂れ流しになっている妖気が際限無く増加し始める。
チルノや橙だけではない、あの藍までもがその妖気を浴びて全身を震わせた。
「……!!」
もっと、もっと言い訳したいのに、身体が自由に動かせない、声が出ない。
土下座した姿勢のまま藍は硬直してしまっていた。
(逃げろ……! 逃げろお前達!!)
藍は心の中でそう叫び続けた。
紫は橙に対しても好意を持っているし優しいが、藍に対して程ではないので、
このような状況で橙に手を掛けないとは言い切れなかった。
もっと問題なのはチルノである、それこそ魔理沙と同じような目に遭ってもおかしくない。
ここは私だけが罰を受ければ良いのだ、この子達に罪は無いんだ。
「藍……帰ってお仕置きよ……ジュルッ!」
ものすごくドスのきいた、怒っている声だった。しかも最後に不気味な音がした。
紫がそっと藍の額に触れると、藍は意識を失ってその場に倒れる。
そして倒れた藍を抱き上げると、紫はスキマを開いてそこに入ろうとした、
そのとき、
「待ちなさいよ!!」
まだ紫の妖気は垂れ流しだ、むしろ時間の経過に比例してさっきより大きくなっている。
恐ろしくて誰も動けないはずなのに……チルノが叫んでいた。
藍の教え、藍の愛は……こんなにも強大な敵に立ち向かう勇気をチルノに植えつけていた。
無謀とも言える勇気、それは己の身を滅ぼしかねないものだが。
「勝手すぎよ!! 藍さんはあんただけのものじゃないもん!!」
「私だけのものよ」
言い切った。
が、チルノはひるまずに続ける。
「お礼したいんだもん!!」
「ダメよ」
なんということだ、紫はチルノの発言を全否定している。
まずい状況だった、このままではチルノは何をされるかわかったものではない。
「そう……貴女ね、藍をたぶらかしたのは……」
「……!!」
紫の妖気がさらに大きく膨れ上がり、またチルノは動けなくなってしまった。
最悪の状況、チルノに抗う術は無い。
抱いていた藍を一度下ろすと、紫は傘を振りかざした。
哀れチルノ、これから紫のえげつない嫌がらせが始まるのだ。
「弾幕だなんてヌルいことはしないわ、貴女の罪は、万死を以っても償いきれないの」
みしみしと変な音がする、家が軋んでいる? いや違う。
紫が何かの境界を操作し始めた音だ。
「とりあえず……貴女の『バカと狂人』の境界をより強固にした……狂うことさえ許さないわ」
「あ……あ……」
怒ってる割にはやることがセコかった。
だが当のチルノは、何者かに心を鷲掴みにされ、ゴリゴリと音を立てて割られるような、
そんなとてつもなく不快な感触に襲われる。
そして紫の境界いじりはさらに続く。
「さてもう1つ……あるものの境界を破壊したわ、徹底的に……まぁいずれわかるでしょう」
そういうと紫は藍のときの要領で橙も気絶させ、担ぎ上げた。
「さようなら、これに懲りたらもう私の藍に手を出してはダメよ」
高笑いと共に、藍と橙を担ぎ上げた紫がスキマへと入っていく。
紫がいなくなってしばらくした後、ようやく動けるようになった、そして、ただただ泣いた。
結局最後まで「ありがとう」が言えなかった。
そんな後悔の念にさいなまれて。
「う、うーむ……ここ数日の記憶が無いな……」
紫を怒らせて、しばらく再教育された期間の記憶が無い。
庭の掃除をしながら、藍は何をされたか思い出そうとしたが、思い出してはいけない気もする。
橙も同じだと言う。一体何をされたのか……
ぼーっと上の空で庭の掃除をしていると、茂みからガサガサと出てくる顔。
そう、あの氷精だ……あの子は健気にも、勇気を振り絞って藍に一言言いにきたのだ。
「藍さん……」
「お、お前……よくここまで……」
「ありがとう!」
ずっと言いたかった一言は満面の笑みで。
藍は涙が止まらなかった。
「ノーノノレノ!! お前のことは忘れないぞ!!」
「……ッ!?」
紫に見つかる前に飛び立とうとするノーノノレノに藍がわけのわからない言葉をかける。
「ノーノノレノ!?」
そう……いじられたのは……
「名前」の境界。
ノーノノレノの名前はそれからしばらくそのままだった。
そう、作者さえ彼女の正しい名前をもう打てなくなっているの。
私の能力を侮ってはダメよ。
ノーノノレノは「バカと狂人の境界」が強化されていたため、狂うこともできなかった。
彼女もまた、魔理沙のようにしばらく家にひきこもることとなったのだ。
「ひどいよ!! ひどすぎるよ!! せめてチノレノぐらいにしておいてよ!!」
氷精の悲しい叫び。
湖はまるで、彼女の涙。
彼女の家の戸に書いてある名前は、紫に境界をいじられた瞬間から「ノーノノレン」になっていた。
ただでさえ間違って書いてあったのに、余計酷いものになってしまった。
スキマ妖怪の所有物に手を出すということは、こういうことを意味する。
歪んだ愛情を一身に受け続けなければならない藍は、本人が思う以上に不幸なのだ。
大分ノーノノレノばかりに構っていたのに、橙に全く妬まれてないあたりも不幸だ。
後日談。
魔理沙の家には「打倒!! 八雲紫!!」という紙が貼られた。
そして橙も自分の名前を漢字で書けないことが発覚し、藍による漢字書き取りの勉強が義務付けられた。
藍は眉をしかめながらみかんを1つ手に取った。
「まったく橙のやつ……」
さっきからこればかり呟いている。
横に紫の姿はない、冬なのでご主人様はおやすみなのだ。
別に橙が行方不明になること自体は珍しくない。
行方不明というと大袈裟だが、しばらくいなくなるだけでちゃんと帰ってくるし。
問題は今の季節である、橙は迷信などと言うが、その割にこの季節はこたつで丸くなる。
外出日数も他の季節に比べれば圧倒的に少なかった。
そして、出かけてもその日のうちに帰って来ることが多い。少なくとも今までは。
それも2月、冬将軍も全力のこの時期。
(これで1週間になるぞ……)
皮だけに飽き足らず、スジまでも取る。
藍は意外とそういうところが神経質だった。
足首が寂しい。
いつもなら橙が尻尾を巻きつけていたずらしてくるのに。
足首だけでない、寂しかった。紫も寝ているし橙もいない。
他の季節は紫が悪事……もとい、いたずらを仕掛けてくるので気が気ではないし、
冬は冬眠する紫を尻目に橙と2人でこたつに入って、眠る橙の頭を撫でてやったり、添い寝してやったり。
そして一緒に風呂に入って、一緒に寝るのだ。
体温の高い橙と一緒に寝るのは本当に心地良いのだ、喉がゴロゴロ鳴ってうるさいのはもう慣れた。
「あっ……」
みかんのスジ取りは藍の特技であった。
橙はみかんがあまり好きではないが藍が丁寧にむいたものだけは食べる。
(汁が……)
薄皮を破いてしまい、指についた汁を舐める。
「凶兆!! まさか……どこかで凍死しているのか!?」
思わずみかんを握りつぶす。
藍にとって、みかんのスジ取りの失敗はそれすなわち凶兆だった。
積もりに積もった不安もあって、藍は居ても立ってもいられなくなる。
(しかし紫様は……)
主のことも気にかかる……式神として、主の側を離れて良いものか。
もし少し目を離した間に何者かが命を狙ってきたらどうする。
とりわけ、今年は唯一まともに相手をしてくれていた霊夢に対して、凄惨極まりない嫌がらせをしたようではないか。
その復讐に来る可能性があるかもしれない。
が、それは自業自得だろうし、霊夢は返り討ちだろう。
次なる嫌がらせの手段が何かは気になるが、橙のことに比べたら。
(……わざわざこの寒い中、紫様に会いに来る者もいるまい)
まぁいいや、ということだった。
あと、橙も式神だが大抵藍の側には居なかった。
藍は気付いていなかったが。
橙の行く場所は大体決まっている。
たまに帰ってきて一緒に食事をするとき、橙がそれまであったことを嬉しそうに話すからだ。
「うー……寒いな」
高速で飛んでるのでなおさらであった。
しかも湖上、そしてこの辺は雪の妖精やらが跋扈している。
そいつらのせいで余計に寒い。
しかも久々に長距離回ったままなので吐きそうだった。藍は回りながら飛ぶ方が速い。
橙は心配だし、寒いし、気持ち悪いし、紫は不審な挙動ばかりするし、最悪だった。
最後のはあまり関係無い気もするが。今はおやすみしているし。
(あそこか……)
小さな家が見えた。
降り立ってフラフラしながら戸を見ると。
「チルン」
と書いてあった。
ああ、これは件のチルノという奴だな、にしても自分の名前を書き間違えるとは、酷く馬鹿だ。
「たのもーっ!!」
しかしそんなことは気にしてられない、戸をどんどんと叩く。
チルノなら橙の居所について何か手がかりを知っているかもしれない。
「むっ? 私は橙の主、八雲藍……あれ?」
何の返答も無く開いた戸に驚く。
しかしそこから顔を出したのは他ならぬ橙だった。
「藍様……」
橙の服がぼろぼろだ、しかも目に涙まで浮かべて、今にも泣き出しそうな表情。
「なっ、どうしたの橙? 何かされたの?」
「助けて、助けて藍様!!」
橙が藍に抱きついて泣きじゃくる、何事だ。
しかし家の中は静かなので、まだ覗いてないが家の中で何かあったわけではなさそうだ。
「落ち着くのよ橙、チルノは? いるの?」
「チルノが……チルノが……」
はっ、と事態を察すると、できるだけ優しく橙を引き剥がし、家の中を覗き見る。
そこには、ぼろぼろになってベッドに横たわるチルノの姿があった。
「どうした!? 大丈夫かチルノ!?」
「……ぅー……」
藍の呼びかけに対して、チルノは小さく呻くだけであった。
見た感じかなり酷い怪我だが数日経ってる様子で、致命傷と言うことでもなさそうだ。
よく見ると随所に手当てした跡がある、これは橙によるものだろう。
しかしそれは実に拙く、早く藍による手当てをしてやった方が良いのも事実。
「橙、待ってなさい、湖の氷を取ってくる」
「わ、私も行くっ!」
「いいから、ついてておやり」
橙を制すると、できるだけ近いところの氷を叩き割って持ち上げる。
といっても家のすぐ目の前に湖があるのだが。
「うぅ、冷たい……」
藍だって特に寒さに強いわけではないので、これはきついものがあった。
家の中へ運ぶと、その氷塊をさらに砕いて丁度良い大きさにし、袋に詰めてチルノを冷やしてやる。
氷精の手当てなんてしたことはないが、聞いた知識でこうするのが良いと藍は知っていた。
「これで元気になるはずよ」
不安げに見つめる橙に微笑みかける。
「流石藍様! すごいよ!」
ようやく橙も笑って、ほっと一安心。
「さて橙、お前も式神が落ちてしまっているわね、水に入ったろう? 憑け直してあげるからおいで」
「魔理沙にやられて……湖に……」
「あいつか……今度仕返ししておいてやるからな、安心おし」
せっかく笑ったのにまた橙がぐずり始めてしまった。
よしよしと頭を撫でてやり、藍は式神を憑け直す準備にかかった。
チルノの部屋は外よりも寒かった、流石氷精だけある、これでも快適なのだろう。
橙は寒さに耐えられないのか、式神を憑け直された後は藍に抱きついたまま眠ってしまっていた。
しかし部屋を暖めるわけにもいかなかった、それでは治りかけのチルノに具合が悪いからだ。
体温の高い橙がくっついていてくれているのがせめてもの救いだった。
冷やすだけと言うのも心配だし、いつも橙を治してやるのと同じように妖力を注いでやる。
「んー……うわっ!!」
チルノが目を覚まし、藍を見て飛び起きる。
「だ、誰よあんた!」
「橙の主の八雲藍だ、良かった、酷い怪我だったが治りが良いな」
「あ……」
橙の拙い手当てをやりなおし、氷の入った袋で冷やされ、身体に満ち満ちる妖力。
「まったく、何があったっていうの? お前も魔理沙にやられたのか?」
「や、やられてなんてないよ! ちょっと油断しただけ!」
本気で戦ったって魔理沙に敵うはずもあるまい。その程度のことは見てわかった。
藍だって幻想郷では随分な実力者である。
「無理をするものだ、あいつは一筋縄ではやれんよ、ちょっかいを出すのはおやめ」
「な、なによ! 知った風に!」
知った風にも何も、藍は頭だって良い。
伊達に長く生きているわけではないのだ、普段は暇だから本をよく読むし。
妖術の勉強だって家事の合間に欠かさない。氷精の性質についても知識だけはあるし、魔理沙のことも知っている。
1度目は、冥界で遊び回っていたときに、2度目は、永夜の事件のときに。
2度戦って2勝している、しかし1戦目はけして圧勝ではなかった。
それゆえ魔理沙は藍の中ではかなりの危険人物として認識されている。
永夜のときは……霊夢と紫もいたので一方的どころではなかったが。
「地の果てまで追うのよ」
と言い、負けて墜落した魔理沙を追撃、お気に入りの箒を奪った紫は……
それを両手に握り締めて膝へ打ち付けて叩き割り、代わりに耳掻きを渡した。
更に頭の上に乗ったお気に入りの帽子も奪い取り、代わりに餃子の皮を乗せた。
藍は、あの強気な魔理沙があそこまで泣きじゃくるのを初めて見た。
そしてそれ以来、魔理沙は徹底的に紫を避けるようになった。
まぁ話はそれたが、魔理沙は強い。
「んー……藍様ー?」
「橙、起きたか、チルノが目を覚ましたわよ」
「あ、ほんとだ! チルノ! 大丈夫?」
「あのぐらいあたいにはどうってことないよ!」
何の裏づけも無いその強気な態度は、魔理沙を彷彿とさせるものがあった。
しかし魔理沙と決定的に違うのは、魔理沙の場合何の裏づけも無い「ように見せている」ことであろう。
実際戦ったときは、その姿と軽口からは想像も及ばぬ技の種類と威力に苦しめられた。
「とにかく今日は帰るよ、橙」
「で、でもチルノが……」
「なに、手当てはしっかりしてある、問題はない」
橙の手を引いてチルノの家を出る。
「ではな、チルノ。無茶をしてはダメよ」
「さっさと帰りなさいよ!」
藍と橙は最後にチルノに一瞥くれると、並んで飛び去っていった。
「……あ、ありが……」
素直にお礼が言えなかった、そのことがチクリとチルノの胸に刺さっている。
もういないのに言ったって仕方が無い、チルノは言葉を飲み込んで家の中に入っていった。
帰ると、紫は朝と変わらない様子ですやすや寝息を立てていた。
家の状態も朝出たままだったし、やはり心配はいらないと藍は確信する。
そして藍と橙は久しぶりに一緒に入浴していた。
「ふぅむ、なるほどな」
わしわしと音を立てて、橙の頭を洗う。
ちなみに、橙の式神が入浴することで落ちることは無い。
橙の言うことには、あの辺を魔理沙がよく通過するらしい。目的は紅魔館のようだ。
「そのたびにチルノは魔理沙にちょっかいかけてるの」
「放っておけば良いだろうに……飛んで火にいる夏の虫というやつだなぁ」
湯船からお湯を汲んで橙の頭にかけてやる。
妖精というのは気性の荒い種族だから、これといった理由も無く他人に迷惑をかけたりする。
そこまで酷いことをするわけではないのが可愛らしいところなんだが。
相手があの魔理沙では、生半可ないたずらでは満足しないのだろう。
「さぁ橙お湯にお入り、30数えるまで出てはダメよ」
「はーい」
続いて自分の身体を洗いながら考える。
橙は特に魔理沙にこだわってないようだ、流れで巻き込まれてしまっているんだろう。
それほどの怪我を負っていなかったのは、おそらく魔理沙をあまり深追いしていないから。
そして魔理沙からすれば、紫につけられた心の深い傷から、八雲一家に関わりたくないというのもあるのだろう。
橙をいじめれば藍が出てくる、藍をいじめたら……紫にこっぴどくやられるのだ。
藍だって、そう簡単には魔理沙に引けを取らないのだが。
「30~っ! 藍様ー、先にあがるね、のぼせちゃいそう!」
「はいはい、しっかり身体を拭くんだよ」
「はーい」
橙が出て行くと、藍は身体を流して湯船に浸かった。
「ふぃー」
温まりながら思案に耽る、あのチルノという娘、どうも心に引っかかるなあ。
わずかながら橙に似てるところも無くもなかった、心配だ。
(また今度あの湖へ行くか……)
風呂からあがり、久しぶりに橙と一緒に寝た。
やはり、橙の体温の高さが心地よかった。
数日後、また橙が出かけた。
今度は「チルノのところへ行ってくる」とちゃんと言って行った。
藍もチルノの顔見知りになったことが橙は嬉しいようだ。
「ふふ、喜ぶかな、あいつら」
そう言いながら藍はご機嫌でおにぎりを作っていた。
そう、あの子達に持って行ってやるつもりだ。
自分用のいなり寿司も忘れない。
「これでよし、と」
たくさんのおにぎりと、見た目に工夫を凝らした可愛らしいおかず。
橙の大好きなミルクを水筒に、チルノは何が好きかよくわからないので、
よく冷やした、生絞りみかんジュースを。
「私が混ざってダメと言うことはあるまい」
藍だって暇で寂しい思いばかりするのは嫌だった。
ご機嫌で空へ飛び上がる。弁当を抱きしめて。
おっと回らないようにしなくては、中身が寄ってしまうから。
「なんだ、懲りない奴だぜ。バカとは知っていたけど、ここまでとはな」
「なんでっ!? なんで当たらないの!?」
またチルノは通りかかった魔理沙にちょっかいを出していた。
さっきから全力で攻撃しているのだが、それは一切魔理沙に当たらない。
その上、魔理沙はわざと弾にかすって遊んだりと、随分余裕だ。
「お前がバカだから当たらないんだ!」
「あっ!!」
魔理沙が一気に距離を詰める。
「ってことで一刻も早く紅魔館に行きたいんでな、ご退場願うよ」
もう自分が持ちうる全てのスペルカードは使った。手立てが無い。
魔理沙の一撃を受け、チルノはまたも敗北し、落ちていく。
1枚のスペルカードすら使わせることもできずに。
「チルノッ!!」
「あー? なんだ、また橙か……え!?」
橙ではなかった、その主、八雲藍だ。
橙には手加減していたのに、ついに藍が仕返しにきたのか?
魔理沙の表情が見る見るうちに真剣なものに変わっていく。
「魔理沙……久しぶりだな」
「なんでお前がここにいるんだ?」
「……チルノのやつ、またお前にちょっかいをかけたのか……橙は一緒じゃなかったか?」
「橙なら、スペルカードを全部避けてやったらすぐ逃げたぜ、そこら辺で見てるんじゃないか?」
そうか、無事か……橙については安心だ。
「なんだ、橙の仕返しか?」
「いや……」
魔理沙は、藍が何かの包みを大事そうに抱えていることに気がついた。
「なんだかわからんが、用があるのが私じゃないなら、失礼するぜ」
そう言って魔理沙は箒に魔力を込めると、凄まじいスピードで彼方へと消えていった。
1度は藍に敗北したものの、今戦ったら勝算は十分にあるのか、幾分かの余裕が見えた。
「耳掻き……耳掻き……」
魔理沙は藍達の視界から消え去った後、涙目でそう呟き続けていた。
意外と余裕じゃなかった。
チルノがふらふらしながら家に戻ると、橙はすでにそこにいた、
「チルノ、大丈夫?」
見た目ぼろぼろにはなっているものの、チルノは普通に振舞う。
「あのぐらいで取り乱さないでよ、あたいはこのぐらいへっちゃらだもん」
「チルノ……良かったぁ」
遅れて藍がチルノの家に入ろうとするも、足を止める。
2人ともさぞ落ち込んでいることだろう、特にあれだけ弄ばれていたチルノは……
(なんと言って慰めたものか……)
そんな藍に、2人の会話が家の中から聞こえてくる、
「あははっ、やっぱ単なる妖精のあたいじゃ、こんなもんだよね!」
「そうだよチルノ、生まれつきの天才ってやっぱりいるよね、藍様とか紫様みたいな」
「あーでもしんどかった! 魔理沙のやつ、遊んでばっかりでいつまでも攻撃してこないんだもん!
逃げるのもちょっとシャクだしさあ~」
2人を慰めてやろうと思っていた藍だったが、それを聞いて気が変わった。
強がっていたのはどうも藍の前でだけだったらしく、友達である橙の前では本音を話していた。
勝てるわけがないのにちょっかいを出し、負けて、そんな自分達を笑い飛ばしているのだ。
藍が乱暴に扉を開ける。
「藍……どうしたの?」
「ら、藍様?」
そこには尻尾の毛まで全て逆立てて怒りに震える藍がいた。
「なんで私が怒っているか……わからんか?」
そんな藍を見てため息をつきながら2人は言う、
「何よもー、ただでさえ魔理沙と戦って疲れてるっていうのにさ」
「藍様、チルノを手当てしてあげて!」
前回あんなに怪我が酷かったのは、魔理沙の虫の居所が悪かったとか、そんな理由だったんだろう。
今のチルノを見よ、ろくな怪我をしていない、あんなの手当てするまでもない。
「くそぉ!!」
藍がテーブルを殴る。
抱きかかえていた弁当を地面に投げつける。
弱いのは仕方ない、確かにお前達はそういう種族だ。
しかし何故負けていながら笑っていられる、お前達には誇りはないのか。
勝つつもりは無いのか、何を思って戦っているんだ。
楽しければそれで全て良いというのか、負けても悔しくないのか。
様々な思いが藍の心の中を駆け巡る。
「今のお前達のような者を何と言うか知っているか!! 負け犬だ!!」
チルノも橙も黙ってうつむいてしまう。
藍がチルノを睨みつける。
「チルノ!! お前はもっと根性のあるやつだと思っていたぞ!!」
ぼろぼろになりながらも、強がりを飛ばすチルノ。それは幻だったのか。
そして今度は橙を睨みつける。
「橙!! 私はお前をそんな式神に教育した覚えは無い!!」
放蕩娘、私など居なくても立派に生きていける、そんな式神だと思っていた。
確かに弱い、弱い種族、式の式、それでも全力でやってくれていると思ってた。
なのにこんな負け犬根性が染み付いていたなんて。尻尾を巻いて逃げたのも、そのせいだ。
「魔理沙だって、紫様だって、私だって、何もせずに強いわけはあるまい!!
才のある無しに関わらず、努力しない者は成長しない!! それは道理だ!!
なのにお前達はなんだ!! スペルカードを根こそぎ破られて悔しくないのか!!」
言った、言ってしまった。熱くなりすぎたかもしれない。
でも藍は、いや藍だからこそこんなのは耐えられなかった、何をへらへらしている。
私は紫様を守るために強くなくてはならないのだ、それこそが私の誇りなのだ。
何度も思う、お前達に誇りは無いのか、絶対に譲れない気持ちは無いのか。
「ふぅー……ふぅー……」
息を切らしながら、見てみると2人がふるふると震えている。
「……しいよ……」
2人の目に涙が浮かぶ。
「悔しいよ!! うぅーーっ!!」
チルノは床に拳を叩きつける。
「負けて当たり前になってたから……いつも笑ってごまかしてたけど……本当は悔しいよ!!」
「悔しいよ!! うぁーん!」
2人はどかどかと床を殴りながらむせび泣いた。
そうだ、笑っていたのは建前だ、負けん気の強いチルノが悔しがっていないはずはない。
橙にしたって、藍や紫を見て、自分の弱さを心の奥底で常に悲観していたのだ。
藍の熱い気持ちが、この子達の隠れた闘志に火をつけた。
そんな2人を見て藍の目からも、涙がぼろぼろこぼれ落ちる。
己の式神である橙の情けない姿、チルノに対する失望、そしてなにより……
この子達の姿が、過去の自分に重なって見えた。
この子達は変われる、そう思った藍はあえて厳しい台詞を浴びせる。
「悔しいのは誰でもそう思う……でも思うだけではダメだ!」
2人を見下ろす。
「お前達はそれでどうしたいんだ……」
「勝ちたい……!」
「魔理沙に勝ちたい!!」
呼応するように2人が立ち上がり、叫ぶ。
「魔理沙は……たった今お前達のスペルカードを余裕で完封していった相手だぞ!!」
「勝ちたいよ! 魔理沙がなんだっていうのよ!!」
「そうだよ! うぅーーっ!!」
「しかしな……魔理沙に勝つって言うのは並大抵の努力じゃないんだぞ!!」
それでもまだ厳しい言葉は止めない。
この2人の覚悟がどれほどのものなのか、藍は最後まで確認したかった。
「藍様……修行をつけてください!!」
「あたいも……魔理沙に勝ちたいよ!!」
「私の修行は厳しいぞ!! それでもやるのか!?」
「やります!!」
「勝つんだもん!!」
変われる、この子達は変われるぞ。
この子達の思いがこれほどとは……藍の胸に感動が突き上げた。
「よーし……よく言った! 私が必ず勝たせてやる!!」
「藍様!」
「藍……さん!!」
3人、肩を抱き合って結束を固める。
この子達は私を信じてくれている、私は全力でこの子達を磨き上げる。
藍の心に、使命感が炎となって燃え上がった。
そしてその後3人は、叩きつけられてぐちゃぐちゃになってしまった藍の弁当を食べた。
涙の味しかしなかったが、この弁当は、闘志という形で3人の身体に吸収された。
チルノの家の壁には「打倒!! 霧雨魔理沙!!」と書いた紙が貼られた。
書いたのは藍だ。
チルノに書かせたら何のためらいもなく「アリサ」と書いた。
どうもこの子の語学力は心配だ。
毎日家を往復するのは大変だが、チルノの家は寒すぎて藍と橙が耐えられないため、
2人はチルノの家のすぐ側に建っていた古い小屋を修復して住み込んだ。
チルノと橙はそこで遊んだりもしていたため、少しながら生活用品もあったし、
それでも足りないものは初めに八雲邸から持ち込んでおいた。
これならば朝は早くに始められるし、夜は終ったらすぐに休むことができる。
そして血の滲むような特訓が始まった。
「基本は体力だ! 走って走って走り込め!」
どんなに魔力、妖力、霊力が高かろうが、体力が無ければそれを使いきれずに負ける。
藍は知らない人物だが、紅魔館のパチュリーなどが良い例である。
2人は素直に藍の指示に従い、湖の周りを何周も走った。
「弾の本質を身体で覚えろ!」
手まりを使ってのキャッチボール。
最初は1個、次は2個、そして3個……どんどんと投げ合う手まりを増やし、
頭で考えるよりも先に身体が動くように……弾幕というものを理解させる。
これは同時に集中力を養う訓練にも繋がった。
「自分の長所と短所を理解しろ! 戦闘スタイル確立は最重要事項だ!」
敵の魔理沙は実に多彩な攻撃を持っているが、その中でも特徴的なものが「マスタースパーク」である。
「ミニ八卦炉」という道具で増幅されたそれは、山1つ簡単に吹き飛ばすぐらいの威力がある。
もちろん魔理沙はこれを橙やチルノに使ったことは無い、その必要すら無いと思っているから。
藍は一度直撃を受けたことがある、そのときは数キロメートル離れたところまで吹き飛ばされた。
つまりは、そういう切り札を1つは編み出せというのが藍の指導である。
そして魔理沙はマスタースパーク以外にも多彩で変則的なスペルを持つ。
それらは言うまでもなく、直線的な攻撃であるマスタースパークを支えている。
偏っているように見えて計算しつくされている、恐ろしい相手だった。
そこが短所を理解しろ、という指導である。
「よし、私が相手になるから全力でかかってこい!」
最後にはひたすら戦わせ、今までの総復習とした。
見違えるように強くなった2人、藍は負けこそしなかったがヒヤヒヤさせられることが何度もあった。
私をここまで追い詰められるなら、きっと魔理沙にも……
藍は、かすかに勝利を感じ始めていた。
ある日のこと。それは橙が体調不良を訴えたので小屋で寝かせ、チルノだけに修行をつけていたときのことだ。
「藍……さん」
「ん? どうしたのチルノ」
チルノは未だに藍に「さん」と付けるのを少し恥ずかしがっている様子があった。
「自分の式神の橙はわかるけど……どうして、あたいにここまでしてくれるの?」
それは、チルノが最初からずっと抱いていた疑問だった。
その日は運が悪かった、機嫌の悪い魔理沙にちょっかいを出したら、予想以上に酷くやられた。
そう、最初に藍に出会ったあの日のことである。
そして怪我を治してもらったにも関わらず、失礼な態度を取った。
お礼すら言えなかった。チルノは、ずっとそれを悔やんでいたのだ。
「あたいね……初めて会った人にここまで面倒見てもらえるなんて……初めてで……」
チルノの目に涙が浮かぶ。
藍の修行は相当に厳しいものだったが、とても真っ直ぐな瞳でチルノを見つめてくれていた。
それは他ならぬ、藍からチルノ向けられる愛情の表れである。
チルノには友達がいるものの、親や兄弟と言った存在とは無縁だった。
優しくて、厳しくて、頼りになる藍のことが大好きだった。
「あり……な、なんでもない」
「チルノ?」
一方で、言うことは素直に聞くが、そんな気持ちを正直に言えないチルノを藍は感じていた。
言えないというだけで、態度から伝わってくるので、藍はそれで良いと思っていた。
しかしそれは本人にしたらとても悔しいことなのだと、今のチルノを見て理解する。
藍はそっとチルノを抱きしめてやった。
「チルノ、ちゃんと伝わっているよ、お前の気持ち」
「ら、藍さん……」
「でも今は、それを気にしてはいけない。きっといつか言える日がくる、私は待っているからな」
抱きしめているチルノを一度離し、目を見つめる。
今にも大声で泣き出しそうな顔をしていたので、藍はとびきり優しく微笑んでやった。
そして言う、
「橙もお前も、私にすれば妹のようなものだ、細かい理由なんてないよ。
家族に優しくするのに、理由なんていらないしな」
それを聞いて泣き出してしまったチルノを藍は再び優しく抱きしめてやった。
チルノはいつもこうしてもらっていたであろう橙を、妬んだ。
でもチルノは橙も好きだったから、何もしなかったし、文句も言わなかった。
暖かいのは嫌いな性分だが、抱きしめられた藍の身体から伝わってくる体温は、嬉しかった。
気付けば冬将軍はすっかりなりを潜め、春になっていた。
チルノは嫌がったが、藍と橙は修行の合間に日光浴をしたりもした。
「さて……お前達は実によくやったよ」
チルノの家の中で2人を並んで座らせ、藍は語った。
「しかしながら、修行を付けてやれたのはおよそ2ヶ月強……」
そう、そろそろ目を覚ますのだ、紫が。
考えたくはないが、もう目覚めている可能性もある。
藍は家に帰り、また紫の身辺の世話に戻らなければいけなかった。
この子達は可愛い弟子だが、飽くまで自分が紫の式神であることを忘れてはいない。
それはずっと藍の心に引っかかっていたことだった。
「今日で帰らなくてはならない」
だがそんな様子を見せたら、橙はともかくチルノの戦意は失せてしまうのではないか?
そんな不安が藍の言葉を制限した。
ともかく、私がこれではいけない、2人まで元気が無くなってしまう。
気を取り直して、話を続ける。
「見違えるように強くはなったが、1人で戦おうとは思ってはダメよ、
私は、お前達が2人1組で戦う前提で修行をさせた、わかるね?」
「うん!」
「わかってるよ、藍様!」
「必ず勝たせてやる!」とは言ったものの、藍はそれも不安だった。
どうしたって付け焼刃感は否めない、それが果たしてあの魔理沙に通用するだろうか?
そう、次に魔理沙が通りかかったら決戦だ。
臥薪嘗胆の思いで修行し続けたこの2ヶ月、思いは報われるのだろうか?
(紫様……どうか、あとわずかばかり……藍に時間をください)
そんな願いが通じてかどうか……魔理沙は紅魔館へ向かっていた。
(あの本なかなか面白かったな、パチュリーはどう思ってるんだろうな、ああ早く話したい)
それは勝手に拝借した本だが、パチュリーはもう慣れっこであまり気にしていない。
その本についてパチュリーと論議を交わすのが楽しみだ。
箒を握る手に思わず力を込めつつ、ルンルン気分で紅魔館へ急ぐ。
しかし不意に嫌な気配を感じた。
そろそろ湖に差し掛かるかと言うところだ。
それは凄まじいスピードで魔理沙の背後から迫ってくる。
箒へ込める魔力を最大にしても即座に追いつかれそうだった。
……事態は動き出していたのだ。最悪の展開で。
藍の願い虚しく、3日前に紫がいつもより早い春に揺り起こされていた……
目が覚めて……呼んでも呼んでも出てこない藍……紫は1人むせび泣いた。
「私の、私の藍は? 藍はどこなの? ラァーーーーン!!」
何度も何度もそんな慟哭が八雲邸に響き渡ったという。
こっそり集めていた藍の抜け毛を秘密の引き出しから取り出し、それを眺めてはまた泣いた。
藍、寝っぱなしだったから汗臭いわ、寝ている間、何故私の身体を拭いてくれなかったの?
いっつも冬眠明けは、消化のいいものを作ってくれたじゃない。背中を流してくれたじゃない。
一緒にお散歩して、一緒にお花見して……
「尻尾枕で私の耳掃除をして頂戴!! せっかくこんなものまで作ったのに!!」
泣き喚く紫の手に握られていたのは、耳掃除後に残りかすをかき出す、ぽやぽやした毛玉部分が金色の……
そんな、ちょっと豪華な耳掻きだった。流石スキマ妖怪、良い品を持っている。
三日三晩泣き続けた紫、その心の中で……悲しみが怒りに変わったのだった。
「誰かが!! 誰かが残酷にも私の藍を奪ったのね!! 許せない!!」
スキマによる瞬間移動も忘れ……恐ろしい速度での藍捜索、そして藍を奪った憎い敵の捜索が始まっていた。
そして最初に遭遇したのが魔理沙だった。
「貴女かしら? 私の藍をたぶらかした悪魔は」
「あー? 何のことだかさっぱりだな」
「悪魔はお前だ」魔理沙はそう思った。
「冬眠からお目覚めか、まったく、またしばらく物騒な季節が続くんだな」
「ん~? なぁに~? 寝てる間に耳垢が溜まりすぎたのかしら? よく聞こえないの」
そういって、わざとらしく例の耳掻きで耳掃除をしてみせる。
魔理沙はその耳掻きを見て嫌な記憶が蘇ると共に、全身が怒りで打ち震えた。
「やっぱりこの特製耳掻きは掻き心地がたまらないわねぇ、ピッタリフィットなの」
「まだ寝ぼけてるみたいだな。幻想郷一強烈な目覚ましをプレゼントしてやるぜ!」
あのトラウマを克服するには紫を倒すしかない。
何も復讐に燃えて努力を積んでいたのはチルノや橙に限ったことではなかったのだ。
魔理沙もまた、紫を倒すためにずっと修行を積んでいた、今日こそそれを晴らすときだ。
「その余裕たっぷりの態度! 後悔させてやる!」
言うが早いか、スペルカードを取り出して星型の弾で紫を包み込む。
しかし攻撃としては不十分だった、それらは全て紫に届く前に見えない結界で打ち消された。
だが最初はそんなものでいい。魔理沙には勝算があった。
「その程度で幻想郷一を名乗るのは、図々しいと思うの」
紫は特製耳掻きを懐にしまうと、傘を振り下ろして無数の弾を生じさせた。
「前、お前に折られた箒と、今の箒『スパーク2号』は比べものにならんぜ!」
にやりと笑うと魔理沙は驚異的なスピードで紫の懐に潜り込んだ。
「この距離じゃ結界も何もあったものじゃないだろ? 『零距離マスタースパーク』だ、月まで吹っ飛びな」
ほぼ密着した状態で紫の腹に手をかざす、それは以前から考えていた勝利の方程式。
……のはずだったが。
「手と手のシワを合わせて、幸せ……って言うけれど、どう考えても『しわあわせ』だと思わない?」
紫はゆらりとほんの少しの距離を取ると、魔理沙と手を合わせ、さらに指を絡めた。
このまま撃ったら……自分の腕までマスタースパークで吹き飛んでしまうかもしれない。
振りほどこうにも、紫の握力は魔理沙のそれを遥かに凌駕していた。
「このまま撃てるの? それ、随分考えた作戦のようだけど、少し単純すぎるわ」
「く……」
正攻法では勝つ見込みが無いと思って考えた奇襲戦法、しかしそれは百戦錬磨の紫には通用しなかった。
「ち……負けだぜ……好きにしな」
「あらあら、威勢も良ければ往生際も良いのね」
「と思ったが気が変わったーー!!」
悪あがき。
魔理沙は紫の一瞬の油断をついて方向転換し、ミニ八卦炉の出力最大で逃げ出そうとした。
その瞬間、魔理沙のスカートがスキマから這い出た気味の悪い腕に掴まれ……
つんのめって箒(スパーク2号)から振り落とされ、箒(スパーク2号)のみが遠くへと飛んでいった。
「スパーク2号ーーーーー!?」
「追ってはダメなの、魔理沙」
魔理沙はスカートをスキマから伸びた腕に掴まれ、無様にぶら下がったまま悲しそうに、
離れていく箒(スパーク2号)を見つめていた。
「貴女には聞こえないのかしら? 『私は私はあーなーたーかーらー……たーびーだちーますー』
というスパーク2号の声が……そう、聞こえないのね、貴女、箒乗り失格だわ。
私には聞こえるの、箒の声。スパーク2号はかなり色好みなハンサムボーイなのよ。
貴女の小さなお尻に満足できなくなって、更なる桃尻を求めて旅立ったの、わかってあげなさい」
とても優しく、とても悲しい顔をして、紫も遠ざかっていく箒(スパーク2号)を見つめていた。
「頭おかしいこいつ」
魔理沙はそう思ったが、箒(スパーク2号)を失った今、逃げる術が無かった。
絶望し、なお力無くぶら下がるだけだった。
紫は魔理沙をぶら下げたまま地上に降りると、真剣な顔で問うた。
「さて、藍について何か知らないかしら?」
「あー? あぁ……そういやチルノのところに居たな……何度か見かけたよ、あとは知らん」
「そう……有力な情報をありがとう……」
そう言って紫は踵を返す。
あれ? 解放されるのか? 魔理沙はわずかにそれを期待した。
「あ、こんな有力な情報をくれた貴女に、お礼しないわけにはいかないわ、それは私の心が許さないの」
「いや!! いらん!! 頼む!! どこか行ってくださいぃ!!」
魔理沙の目には涙が浮かんでいた、それだけではない、ガタガタと震えている。
「そう言わないの……箒、残念よね……代わりになるかわからないけど、はい、これあげるわ」
そう言って魔理沙の前に差し出されたのは、たんぽぽの綿毛1本だった。
「そっくりよね、箒に。この子を『スパーク3号』と呼んで良いわ」
「いやあああああああああ!!」
魔理沙が頭を抱えて絶叫する。
耳掻きの方がまだましだった。もはや全然箒には似ていない。
「あ、あとその帽子やっぱり悪趣味なの、代わりにいいものをあげる」
それだけはやめて、と言った様子で魔理沙は両手でしっかり帽子を握り締める。
が、紫は馬鹿力だった、それをあっさりむしり取ると……
「ああ、なんて素敵なの。貴女にはもったいないわね」
そう言って、また魔理沙の頭の上に餃子の皮を乗せた。
しかもそれは、一度具を包んだが失敗して具を取り除いた形跡があった。
そして乾いてカピカピだった。
「うわぁぁぁぁん!!」
手のひらにたんぽぽの綿毛を乗せ、頭に汚い餃子の皮を乗せた魔理沙は子供のように泣きじゃくった。
そこにはシュールな世界があった。それこそが紫の世界。
「チャオ☆」
紫はスキマを開いてその中へと入っていった。
そのときに少し動いた空気がスパーク3号をさらっていった。
彼を受け止めた地面からは、きっとスパーク4号が生えてくることだろう。
一方、チルノの家。
3人は神妙な面持ちだった、何故なら藍が、
「今日魔理沙が来る来ないに関わらず、私はここを離れなければならない」
と、罪悪感に耐え切れずに、遂に告白したからだ。
橙はわかっていたからそれほど気にしていなかったが、やはりチルノはそれを聞くなり泣き出してしまった。
その辺の事情を以前から説明していなかったことを藍は後悔した。本当は最後まで見守りたかったが……
チルノはそれ以降藍に口を開かなくなってしまった。
「突然で本当に済まない……チルノ……」
「……」
大好きだからゆえの悲しい結末……
チルノと藍の心には大きな隔たりができてしまった。
「チ、チルノ~……別に会おうと思えばいつだって……」
「黙りなさいよ!」
慰めようとした橙をチルノが睨みつける。
あんたは良いわよ、いつだって会えるじゃない、帰る場所に藍がいるじゃない。
妬ましさが攻撃的な言葉になって、橙の胸に突き刺さる。
「あんたにあたいの気持ちなんてわからないじゃないの!!」
そんなとき……
「チャオ☆」
突然チルノの家の中に開いたスキマ……紫だった。
スキマの奥から聞こえる泣き声は、魔理沙の声。
「ま……魔理沙!?」
藍がつい驚きの声をあげる。
「藍、酷いわ、挨拶すら無いなんて……やっぱりあの魔法使い、潰しておいて正解だったの。
久しぶりに会って、一言目を取られてしまうなんて……私とても悲しい」
「ゆ、紫様……もうお目覚めになられたのですか!?」
「ああ藍、会いたかった。さぁ早く家に帰りましょう、いろいろとしたいこともあるし」
橙とチルノは、紫から放たれる異常なまでの妖気で完全に萎縮して動けなくなってしまっている。
もはや魔理沙どころではない、橙にしたって、ここまで紫が妖気を垂れ流しているのは初めて見た。
それは……そのぐらい紫が怒っていることを意味している。
「紫様! お願いです! もう少し、もう少しだけ藍に時間をいただけませんか!!
紫様が冬眠なさっている間、私はこの子達に修行をつけたのです!
どうか……この子達が目標としてきた、魔理沙と戦うまでの数日だけでも……!!」
藍が土下座をして紫に懇願する。
「そんなこと言われても困るの。魔理沙はきっとしばらく引きこもって枕を濡らすわ。
いつになるかわからないじゃない、そんな長い間藍無しで生活なんて……」
紫の目に涙がじわりと浮かぶ、とてもうそ臭い。
「なにとぞ……なにとぞ!!」
さっきは今日中に帰ると言ったが、やはり藍は最後まで見届けてやりたかった。
確かに魔理沙は紫にこてんぱんにされ、しばらく社会復帰できまい。
何をしたかはわからないが、相当酷いこと……少なくともその嫌がらせは前回を上回るはずだ。
だが、チルノと橙の気持ちを無駄にしたくなかった。
「ら……藍さん……」
そんな藍を見て、チルノは涙が止まらなかった。
自分に対して最後まで誠意を尽くそうとしている、己の主に意見してまで。
チルノだって、いつかは藍が戻らなければならないことはわかっていた。
けれど、それを認めたくなかった、ずっと側に居てほしかった。
なのに突然言われて動転してしまっただけなのだ。
しかし紫にしたらそんなことは知ったことではない。
「藍、いつからそんな反抗的になったの?」
気配が急変した。
垂れ流しになっている妖気が際限無く増加し始める。
チルノや橙だけではない、あの藍までもがその妖気を浴びて全身を震わせた。
「……!!」
もっと、もっと言い訳したいのに、身体が自由に動かせない、声が出ない。
土下座した姿勢のまま藍は硬直してしまっていた。
(逃げろ……! 逃げろお前達!!)
藍は心の中でそう叫び続けた。
紫は橙に対しても好意を持っているし優しいが、藍に対して程ではないので、
このような状況で橙に手を掛けないとは言い切れなかった。
もっと問題なのはチルノである、それこそ魔理沙と同じような目に遭ってもおかしくない。
ここは私だけが罰を受ければ良いのだ、この子達に罪は無いんだ。
「藍……帰ってお仕置きよ……ジュルッ!」
ものすごくドスのきいた、怒っている声だった。しかも最後に不気味な音がした。
紫がそっと藍の額に触れると、藍は意識を失ってその場に倒れる。
そして倒れた藍を抱き上げると、紫はスキマを開いてそこに入ろうとした、
そのとき、
「待ちなさいよ!!」
まだ紫の妖気は垂れ流しだ、むしろ時間の経過に比例してさっきより大きくなっている。
恐ろしくて誰も動けないはずなのに……チルノが叫んでいた。
藍の教え、藍の愛は……こんなにも強大な敵に立ち向かう勇気をチルノに植えつけていた。
無謀とも言える勇気、それは己の身を滅ぼしかねないものだが。
「勝手すぎよ!! 藍さんはあんただけのものじゃないもん!!」
「私だけのものよ」
言い切った。
が、チルノはひるまずに続ける。
「お礼したいんだもん!!」
「ダメよ」
なんということだ、紫はチルノの発言を全否定している。
まずい状況だった、このままではチルノは何をされるかわかったものではない。
「そう……貴女ね、藍をたぶらかしたのは……」
「……!!」
紫の妖気がさらに大きく膨れ上がり、またチルノは動けなくなってしまった。
最悪の状況、チルノに抗う術は無い。
抱いていた藍を一度下ろすと、紫は傘を振りかざした。
哀れチルノ、これから紫のえげつない嫌がらせが始まるのだ。
「弾幕だなんてヌルいことはしないわ、貴女の罪は、万死を以っても償いきれないの」
みしみしと変な音がする、家が軋んでいる? いや違う。
紫が何かの境界を操作し始めた音だ。
「とりあえず……貴女の『バカと狂人』の境界をより強固にした……狂うことさえ許さないわ」
「あ……あ……」
怒ってる割にはやることがセコかった。
だが当のチルノは、何者かに心を鷲掴みにされ、ゴリゴリと音を立てて割られるような、
そんなとてつもなく不快な感触に襲われる。
そして紫の境界いじりはさらに続く。
「さてもう1つ……あるものの境界を破壊したわ、徹底的に……まぁいずれわかるでしょう」
そういうと紫は藍のときの要領で橙も気絶させ、担ぎ上げた。
「さようなら、これに懲りたらもう私の藍に手を出してはダメよ」
高笑いと共に、藍と橙を担ぎ上げた紫がスキマへと入っていく。
紫がいなくなってしばらくした後、ようやく動けるようになった、そして、ただただ泣いた。
結局最後まで「ありがとう」が言えなかった。
そんな後悔の念にさいなまれて。
「う、うーむ……ここ数日の記憶が無いな……」
紫を怒らせて、しばらく再教育された期間の記憶が無い。
庭の掃除をしながら、藍は何をされたか思い出そうとしたが、思い出してはいけない気もする。
橙も同じだと言う。一体何をされたのか……
ぼーっと上の空で庭の掃除をしていると、茂みからガサガサと出てくる顔。
そう、あの氷精だ……あの子は健気にも、勇気を振り絞って藍に一言言いにきたのだ。
「藍さん……」
「お、お前……よくここまで……」
「ありがとう!」
ずっと言いたかった一言は満面の笑みで。
藍は涙が止まらなかった。
「ノーノノレノ!! お前のことは忘れないぞ!!」
「……ッ!?」
紫に見つかる前に飛び立とうとするノーノノレノに藍がわけのわからない言葉をかける。
「ノーノノレノ!?」
そう……いじられたのは……
「名前」の境界。
ノーノノレノの名前はそれからしばらくそのままだった。
そう、作者さえ彼女の正しい名前をもう打てなくなっているの。
私の能力を侮ってはダメよ。
ノーノノレノは「バカと狂人の境界」が強化されていたため、狂うこともできなかった。
彼女もまた、魔理沙のようにしばらく家にひきこもることとなったのだ。
「ひどいよ!! ひどすぎるよ!! せめてチノレノぐらいにしておいてよ!!」
氷精の悲しい叫び。
湖はまるで、彼女の涙。
彼女の家の戸に書いてある名前は、紫に境界をいじられた瞬間から「ノーノノレン」になっていた。
ただでさえ間違って書いてあったのに、余計酷いものになってしまった。
スキマ妖怪の所有物に手を出すということは、こういうことを意味する。
歪んだ愛情を一身に受け続けなければならない藍は、本人が思う以上に不幸なのだ。
大分ノーノノレノばかりに構っていたのに、橙に全く妬まれてないあたりも不幸だ。
後日談。
魔理沙の家には「打倒!! 八雲紫!!」という紙が貼られた。
そして橙も自分の名前を漢字で書けないことが発覚し、藍による漢字書き取りの勉強が義務付けられた。
正に外道・・・・!
ってかチルノの名前が分解されすぎです、原子レベルまで分解されていますがな
最後のほうの「チルノばかりに構っていたのに」……
つまりVENI氏は紫を超えたのね!
失礼しましたorz
修正させていただきました。
でも藍様求めて慟哭するなんて蝶プリティw
ル→ノレ
ノ→ノ
なるほど、そんなお茶目が素敵です紫様
いやもう…清玄さんも真っ青。
前作も含めてね。
結局特訓の成果がどうなったかはうやむやですか・・・?
せっかくの良い話だったのに安易にキャラ暴走ネタに走って
台無しにするのはもったいないと思います。
これじゃ特訓の話がなんのためにあったのかわからない。
紫様の言動も普通に怖くて笑えないです。
名前いじりネタもちゃんとしたギャグで使えば笑えたんでしょうけど
この話では非情な追い討ちとしか受け取れなかったです。
せめてチルノに対するなんらかのフォローが欲しかったところです。
急な話の展開の意味が解りません。私が⑨だからですか。
神の如き力を持つ強者の前では、努力も才能も話の展開さえも塵芥の如しって事ですか。成程、真理ですね。
私程度ではこの高尚な文に共感も理解も出来そうにありません。
それと紫の口調がおかしいです。
次に期待しておきます。
初めはとても期待できる文章だっただけにその後の展開が惜しかったです
カオスなのも面白いですがw
笑える酷さではなく、笑えない酷さでした
これを笑える酷さだと思える人は高得点ものなんでしょうが、私には前半までで未完の方がよかったという感じです。
最後のオチで努力全否定
この流れでこのオチは、流石に不快
自分は、面白かったのでいい作品だとは思いました
セオリーどおりに熱血モノでありながら、それをぶっ潰す展開が非線形で良いと思います。
何の脈絡も無く紫様が登場した辺りからおかしくなっていった気がします。