*これは一度投稿したものに修正、加筆を加えたものです、詳細は作者コメントをごらんください。
夜の廊下を血に濡れたメイドが歩く。
場所は紅魔館。
「メイド長、またですか?」
「ええ……何なのかしら、一体」
血まみれの咲夜に部下のメイドが声をかける。
血まみれなのは別に侵入者を排除したからではない。
数日前から、
「貴女のいれた紅茶はまずいのよ」
と言って、レミリアが咲夜の頭に紅茶をかけるのだ。
紅魔館において、レミリアが飲んでいる紅茶とはそれすなわち人間の血である。
だから本来、誰がいれようとうまいもまずいも無いはずなのだ。
血自体には個体差があるかもしれないが。
そもそも最近のレミリアは口すらつけずに咲夜に突き返している。
「ちゃんとB型の血にしました?」
「随分前からB型しか持って行ってないわ」
レミリアはとりわけB型の血が好みらしい。
「メイド長がお掃除なさっているとき、私がA型を持って行ったら飲んでいただけたのですが……」
「A型で……?」
それを言って、メイドはハッとする。
恐る恐る見ると、咲夜の表情は先ほどよりも更に険しいものになっていた。
「なるほど……私に対してだけなのね」
血生臭くてたまらないが、今浴場へ行くわけには行かない。
咲夜は洗面所で簡単に顔と手を洗うと、その日は再び仕事に戻った。
レミリアはこのところ不機嫌だった。
本当に紅茶がまずい、それについて咲夜は反省の色がないどころか、
何度もまずい紅茶をいれてくる。一体どういう了見なのだ。
何故? 今までこんなことなかった、いつだって咲夜はおいしい紅茶を持ってきてくれた。
主にB型の血が好きだが他の血を飲みたいときもある、それこそ気分によって。
それら全てを読み取って、咲夜はいつも飲みたいものを持ってきてくれた。
レミリアにとって、咲夜は最も信頼をおける人間。
だからこそ、余計に苛立った。
どうしたの? 咲夜。
ドアをノックする音が聞こえる、咲夜だ。
今日こそは、ちゃんと私の気持ちを読み取ってくれるんだろうか。
だが、その気持ちはまたも裏切られることになる。
また、匂いを嗅いだだけで顔にかけられた。その翌日も、さらにその翌日も。
なんとなく心当たりが無いわけでもなかった。
最近、紅茶を飲まずにかけるだけでなく、口癖のようによく言う言葉があった。
「やっぱり、人間って使えないわね」
バカな、私は人間だが妖怪である他のメイド達よりも良くやっている。
口には出さないが、何度そう思ったことか。
前々からわがままな主だとは思っていたが、流石にこれは度が過ぎる。
バカにされることはよくあったが、前はまだ冗談じみていた。
最近は本気だ、目つきも鋭く睨みつけてくる。
何が不愉快なのかわからないが、私はちゃんとやっている。
咲夜も、レミリアの心が見えなくなっていた。
「まずいのよ、メイド長失格ね」
レミリアはまたも紅茶を飲まずに顔にかける。
だがひるんでばかりもいられない。
「お嬢様、お言葉ではございますが」
「何よ?」
余計不愉快そうにレミリアが睨みつける。
「血の調達も楽ではございません。何がそんなに不愉快なのか、話してはいただけませんか?」
ハンカチで髪と顔を拭きながら、毅然とした態度で質問を投げかける。
実際血も含めたレミリアの食料の調達は咲夜が行っていた。
殺して血を抜くのはそれほど難しいことではないが、館の外で無闇に殺生はしたくない。
気絶させて、殺さない程度に抜いたりするには結構な人数を襲う必要が出てくる。
毎日外出できるほど暇でもないので、一度にたくさん集めてこなくてはならないのに。
「貴女自信がよ、咲夜」
まったく反省の色が無いばかりか、口答えまでするようになった咲夜。
怒りと悲しみのあまり、言葉が荒くなる。
「私の何が不愉快なのでしょうか」
「全部よ、顔も見たくないわ」
何が原因でこうなってしまったのか咲夜はわかりかねた。
しかしまったく取り付く島も無い、どうしたものか。
「やっぱり、人間って使えないわね」
普段冷静な咲夜も、このところレミリアの態度のことを考えてよく眠れなかったり、
そうでなくても顔が合えばいびられるため、ストレスが溜まっていた。
「その発言の撤回を要求しますわ」
「何を偉そうに」
「ここしばらくの自分の行動を省みても、私には反省すべき点はございませんの」
「よく言うわね、あれだけまずい紅茶を持ってきておいて」
レミリアがどんどん殺気立って行くのを感じた。
まさに「早く視界から消えろ」と言わんばかりの目つき。
「もう一度言います、さっきの発言の撤回を要求しますわ」
「誰が撤回するか、私は本当のことを言っただけよ。紅茶もまずいし、咲夜は使えない」
今にも飛び掛ってきそうなレミリアを見て、咲夜は本能的に生命の危険を感じた。
そして無意識の内に懐のナイフ数本に手を伸ばす。
レミリアはそれを見逃さなかった。
「何のつもり? 咲夜」
「これは……」
しまった、と思ったときにはもう遅かった。
「なるほど……完全に失望したわ、咲夜」
「ご、誤解です……」
「言い訳なんか聞きたくない! 咲夜は裏切り者!!」
目には涙が浮かんでいたが、暗い室内、咲夜はそれに気付かなかった。
レミリアが大きく息を吸う。
「お嬢様……話を……!!」
「紅魔館全人員に告げる!! 咲夜が謀反を謀った!! 館から出すな!! 直ちに捕らえなさい!!」
凄まじい声量、咲夜は即座に時間を止めて耳を塞いだがそれでも頭が割れそうだった。
確かにこれは全館へと響き渡ったであろう。
レミリアはもう、頭に血が上ったのと、ショックのあまりに何も考えられなかった。
いくら暴言を浴びせかけようと、心の中ではいつも咲夜に感心していたのに。
そんな咲夜が、私にナイフを向けようとした。
「何をお考えですかお嬢様! 私にそんなつもりは……」
「ならその手に握られているものは何よ!!」
言い返せなかった。
確かに主に忠誠を誓った立場上「死ね」と言われたら死ぬ覚悟が必要なのかもしれない。
人は咲夜を「完全で瀟洒な従者」と呼ぶ、そんな咲夜ならなおさらだ。
その忠誠心には一切のほころびも許されないのだろう、自覚していた。
「お嬢様、ほんとに一体何があったというのです!」
「紅茶がまずいと言っているでしょう!」
咲夜は本当に何もわからなかった、全て完璧にこなしてきたはずだ。
そしてショックだった、確かに最近のレミリアには不信を抱いていたが、忠誠心を捨てたつもりはない。
しかし「つもりはない」という時点で不完全だったのだ。「捨てていない」と言い切れなければ。
そんな少しの不信がナイフに手を伸ばすという行動に現れた。
「お嬢様!!」
「お嬢様と呼ぶな!!」
凄まじい瞬発力でレミリアが床を蹴る。
普通の屋敷に比べて幾分か丈夫に作られているその床でも、レミリアの脚力に耐えられずに穴が開く。
「……ッ!!」
ギンッ、と鈍い音が響く、咲夜は辛うじて手にしたナイフでレミリアの爪を弾いた。
精神的にも十分な余裕があれば、反撃に転じるぐらいの時間を止めることは可能だが、
すさまじいまでのレミリアの気迫に圧され、一瞬止めるにしか至らない。
それゆえ、時間を止めても防御するので精一杯だった。
レミリアは次の攻撃に移ろうと、壁に張り付いて様子を窺っている。
ナイフが銀製でなければ、ナイフごと腕を取られていただろう……異常な腕の痺れがそれを感じさせた。
引っ掻いたレミリアの指から少し血が出ている。
「チッ……」
レミリアが懐から何かを出す。
「スペルカード……お嬢様、本気ですか!?」
「お嬢様と呼ぶなって言ってるでしょ!!」
スペルカード発動。
物理法則を無視したいくつもの真紅のナイフが、緩い弧を描きつつ咲夜に向かって飛んでいく。
「クッ!!」
余裕が無い、一瞬しか時間は止められなかった。
しかし、咲夜はそのほんの一瞬の間に全てのナイフの軌道から身をそらした。
「咲夜!!」
「お嬢様……ナイフに手をつけたことは……」
「何度も言わせるな!」
レミリアが間髪入れずに飛び掛ってくる。
「痛ッ!!」
五指の間それぞれに銀のナイフを挟み、レミリアの爪を受け流したものの、
4本のうち3本が弾き飛ばされた。無理矢理ナイフをもぎ取られた指の間に激痛が走る。
床を削りながらスピードを殺すレミリア、もはや手加減無しだった。
「おじょ……レミリア様! どうしても話を聞いてはいただけませんか!?」
時間が無い、時間を止めて説得はできないのだ。
もう、いつ他のメイドが駆けつけてもおかしくはない、いや、既に数名が退路を固め始めている。
ドアの外から気配を感じる。退路が固められているのはここだけではないだろう。
「咲夜の裏切り者!!」
もう説得は無理、ならば脱出して一時しのぎするしかない、そう思ったときだった。
「お嬢様!! ご無事ですか!?」
退路を固めて待機するメイドをかきわけ、ドアを蹴破って入ってくる者が居た。
紅美鈴、紅魔館の門番である。
「お嬢様!! 咲夜さん!! 何があったって言うんですか!?」」
「美鈴!! 話を……」
手には血の付いたナイフ。
床には先ほど弾き飛ばされた数本のナイフ。
美鈴の目の色が変わる。
「咲夜さ……いや十六夜咲夜!! 貴様お嬢様に何をした!!」
美鈴とて咲夜には多大な信頼を寄せているし、憧れでもある。
しかし、その上にはさらに尊敬するレミリアがいる。
誤解とはいえ、美鈴はそれらのナイフを見て、即座に行動に移っていた。
レミリアには及ばないものの、驚異的な踏み込みで咲夜の首めがけ手刀を繰り出す。
気を帯びたそれは、咲夜のナイフを砕いて首に命中……するはずだった。
「あ、あれ!?」
そこにあったのは粉々になったナイフのみ。まるで手品のように咲夜の姿は消えていた。
紅魔館の周囲を取り囲んだ湖。
咲夜は首を押さえながらその上を飛行していた。
「くっ……美鈴相手に……我ながら情けない」
危うく頚動脈に到達するところだった。
まさかあの美鈴がここまでの戦闘力を秘めていたとは、完全に侮った。
しかし侮っていたのが心の余裕を生んだのも事実で、首に手刀が触れた瞬間、
「この場面で美鈴まで相手にするのはまずい」と感じた。
数十秒止められれば離脱には十分な時間だった。
飛びながら手際よく止血し、常に持ち歩いている包帯を巻く。
踏み込みを許したのがまずかった、あの間合いは美鈴の世界。
そんな咲夜は気付いてなかった、仮にも美鈴は門番の長。
霊夢や魔理沙の侵入を許してしまっていたのは、後に控える咲夜に絶対的な信用を置いていたからだ。
そんな甘えが、彼女の本気を包み隠してしまっていたのだ。
ところがそんな咲夜が謀反を起こしたと聞き、美鈴は本来の力全てを出し切ってレミリアを守ろうとした。
抜けたところもあるが、非常に真面目で、本当にレミリアを尊敬していたのだ。
そういった意味でも、咲夜は完敗だった。
しかしそんなこと咲夜は気付かずに相変わらずの逃飛行、否、逃避行。
「お嬢様!! お怪我はございませんか!?」
「んもう、落ち着きが無いわね美鈴は」
銀のナイフでついた傷は既に完治している。
慌てた様子であちらこちらベタベタ触ったり、じろじろ見たりする美鈴が鬱陶しい。
「あまり触るんじゃないわよ、もう!!」
「は、はっ! 失礼いたしました、これもお嬢様を案じるが故! お許しを!」
1人で使うには広いレミリアの部屋だったが、全館内から集まった従者達が入れるわけはなく、
レミリアと美鈴をギチギチに取り巻いた従者達の、
「良かった……」
や、
「咲夜さん……」
という呟きが断続的に聞こえてくる、とても居心地の悪い状態になっていた。
廊下も同じ状態だ。
「もういいわ、皆持ち場へ戻りなさい、あ、美鈴は残るのよ」
「わ、私は残るんですか!?」
美鈴には大事な用があった。
他の従者達は、みしみしとひしめき合いながら、小さなドアをくぐって持ち場へと帰っていく。
皆出て行って少しすると、レミリアは美鈴に言った。
「貴女が今日からメイド長をやりなさい」
「はっ! ……へ!?」
美鈴が硬直する。
「し、しかしそうなると門番長は誰が……!?」
「あんなの誰がやっても一緒よ、不安なら貴女が館内で迎撃すれば済むことでしょう」
レミリアにしたらたっぷりと嫌味を込めて放った台詞だった。
美鈴はそれどころではなかったので気にかけなかったが。
「メイド長の仕事はわかるかしら?」
「はっ……メイドへの指示と掃除ぐらいならば!」
料理は得意ではないらしい。
自分で頼んでおきながら、美鈴を頼りなく思った。
「それだけよ……もういいわ、出て行きなさい」
「はい、かしこまりました……」
美鈴は目眩がした、口ではああ言ったがあれらの仕事が私に務まるだろうか。
美鈴が出て行った後、レミリアは一人で泣いた。
やりすぎたかもしれないという後悔とナイフを向けられたことによるショックから。
紅魔館から大分離れた山の中、そこにある小さな川辺に咲夜は降り立った。
「ンッンッ……」
両手ですくって川の水を飲む。冷たい川の水は心から美味しかった。
月明かりに照らされて水面に映った自分の髪の毛にはところどころ乾いた血がこびりついていた。
「ふぅ……ふぅ……」
顔が血生臭い、今度は川の水で顔を洗う。
(どうしよう……)
少し滲んだ涙も、川の水が洗い流してくれた。
翌日、大きな岩に抱きつくような姿勢で咲夜は寝ていた。
あちこちに血の付いたメイド服、その血は既にどす黒く変色している。
それだけではない、こんなところで一晩過ごしたためにあちこちに付着した泥。
これがあの「完全で瀟洒な従者」と呼ばれていた十六夜咲夜だろうか。
しかし当人はそんなことを気にしている余裕はなかった。
目を覚まして懐中時計に目をやると、いつも通りの起床時間。
川で顔を洗った後、森に入り手頃な枝を集め、いくらかの木の実や食べられるキノコなどを採取し、
戻ると、その後下着だけになって血と泥にまみれたメイド服を洗う。
そして枝を組み立てて簡易な物干し竿を作り、そこに洗った服を干す。
(誰も来ないわよね……)
自力で起こした焚き火にあたり、木の実をかじる。山の朝は冷えた。
焚き火であぶっているキノコは美味しそうな匂いではなかった。
メイド服が乾いたら、改めてこの辺を少し散策しよう。
普段から山野を駆け回って食材集めをすることもある昨夜は、サバイバル技能にも長けていた。
(本気で探せば結構あるものよね)
左手には上手く結んで袋状にしたエプロン。その中にはたくさんの山菜や木の実。
そして右手には捕まえてきた野うさぎがぶら下がっていた。
(さてこっちはどうかしら……)
川に仕掛けておいた草を編んで作った簡易なトラップ、それには大きめの川魚が1匹かかっていた。
その気になって捕まえようと思えば、時間を止めてたくさん捕まえられるのだが、
森の方で何か動物を捕れるだろうと思っていたので、こちらは適当だった。水が冷たいし。
(多すぎたわ……)
野うさぎは逃がしてやることにした、必要ならいつでも捕れる。
今日のたんぱく源はあの魚だけで十分だろう。
普段なら何のためらいも無くさばいてしまう野うさぎが、今日はなんだか可愛そうに見えたのもあった。
(エゴね……魚も生きているのに)
自分を皮肉って苦笑しながら、食事の準備に取り掛かるのだった。
そして逃げていく野うさぎに一言。
「良いわね、お前は帰るところがあって」
ドンドンドン!
「誰?」
「はっ! メイド長の美鈴です!」
「お入り」
「失礼いたします!」
昨日美鈴が蹴破ったドアは既に直されている、紅魔館のメイド達は働き者だ。
だがそんなこと全く気にせず、美鈴はかしこまった態度でレミリアの部屋へと足を踏み入れた。
「お嬢様! ご機嫌うるわしゅう!」
「すごい違和感ね、普通に喋りなさい」
「はっ!」
美鈴はガチガチに緊張していた。
門番長の自分であればともかく、今はメイド長としての自分がいる。
メイド長としての振る舞いがまったくわからなかった。
そんな美鈴に、レミリアは容赦なく命じる。
「それより美鈴、寝起きで喉が渇いているの、紅茶をいれなさい」
「はっ! ただちに!」
美鈴は館の外にある氷室に向かった。
咲夜は採取してきた血液の鮮度を保つため、パチュリーの協力を得てこれを作ったのだ。
「う、うーむ……」
A、B、AB、Oとラベルの貼られた瓶がそこにはあった。
「お嬢様ってどれが好きなんだろ……」
咲夜に限らず紅魔館のメイドは、レミリアがB型を好んでいるのを常識的に知っていた。
特に寝起きはほぼ確実にB型の血を飲む。しかしそこだけは門番であった美鈴の記憶の中にはなかった。
門番でも知っている者は居たが、美鈴はそういうところに無頓着だった。
「ううん……まぁ確率は4分の1だし、当たって砕けろ!!」
仕方が無いので美鈴は適当に選んだ。
お叱りを受けたらそのときは別のものを持ってくるしかない。
(咲夜さんは、すごかったんだな……)
ぶるぶると首を振る、あれは裏切り者なのだ、もう忘れなくてはならない。
そう頭では思うものの……内心では、悲しかった。
「あら、やるじゃない、私の好みを知っていたのね」
美鈴の勘は運良く当たった、ほっと胸を撫で下ろす。
「あ、ありがとうございます! 光栄の極みでございます!!」
「じゃ、1人でティータイムとするわ、持ち場に戻りなさい」
「はっ!」
心がすっきりしない、紅茶さえ手に入れば早く美鈴を追い払って1人になりたかった。
そんなレミリアの気持ちを知ってか知らずか、美鈴は仕事をやり終えた満足な顔で廊下を歩いていった。
早寝など許されない生活が長かった咲夜は、相変わらずの川辺で眠れずに月を眺めていた。
「十六夜……咲夜」
自分の名前……を呟いたとき、涙が止まらなくなった。
そうだこれは自分の名前ではない、あの方から頂いた名前だ。
私はもうこの名前を名乗ってはいけないのだ、そう思ったとき、物凄く悲しくなった。
遠い記憶が蘇る。
虐げられていた自分、恐れられていた自分。
思い出したくないのに、次々と芋づる式に記憶が蘇る。
何故? 私は何か悪いことをした?
気付けば幻想郷に迷い込んでいた、そこでレミリアに拾われた。
自分も人外の存在ゆえか、はたまたそれ以外の理由があってか。
とにかく、初めて自分を受け入れてくれた存在。
私はただ、あの方のために全力を尽くして仕えるのみ。
気付けば、メイド長にまで登りつめていた。それは実質レミリアの片腕だった。
そのとき初めて自分の力を誇りに思えた、自分に自信が持てた。
「嫌……」
顔を上げる。
「嫌よ!!」
こんなことで終ってなるものか。
「私は紅魔館のメイド長、十六夜咲夜よ!!」
メイド長の肩書きに未練があるわけではない。
あの方にとって、最も信頼のおける存在であること、それが誇り。
『貴女、使えるわ。私のメイドになりなさい』
メイド服の白い箇所を全て引きちぎる、白いエプロンを投げ捨てる。
『何その名前、変ね。気に入らないわ』
穴を掘り、川から汲んできた水をぶちまける。
『そう……ねぇ……咲夜……十六夜咲夜……こんな名前、素敵だと思わない?』
泥をかぶる、白い肌に泥を塗りたくる。
美鈴に付けられた首の傷さえも意に介さない。
(レミリア様を、もう一度振り向かせる!!)
咲夜は飛んだ、紅魔館へ向かって。
私が帰る場所はあそこしかない。
「他愛無い、やはり貴女達だけに紅魔館は任せられないわね」
あっさりと侵入を果たす。当然のことだ、時間を止めているのにわかるはずもない。
泥をかぶったのは闇に溶けて身を隠すためだが、そこまでする必要があったかは不明だ。
しかし、完全と呼ばれ続けて驕っていた自分を一度投げ捨てたかった。そんな意味合いが大きい。
その驕りがきっと、自分の目を曇らせ何かを見落させたのだ、違いない。
実はわがままな割にレミリアは心が広い、従者に対してだけだが。
多少怒られることはあっても、次の日にはからっとしているし。
よほど酷く怒らせない限り従者に手を掛けるということは滅多にないのだ。
つまり、咲夜は重ね重ねレミリアを怒らせるような真似をしていた可能性がある。
そして咲夜が向かったのは、氷室。やはり原因は紅茶にあったのではないかと考えたのだ。
(いつも何度もラベルは確認していたわ、間違えるはずはない)
眺めてみると、少し血液の瓶が動かされた形跡がある。
レミリアは寝起きにまず1回紅茶を飲むのだが、それはほとんど咲夜の仕事だった。
他のメイド達と比べ物にならないほど仕事が多いのに、何故か手が空いてるのがいつも咲夜だけだから。
紅茶を飲みたいと思ったときにメイドを呼ぶと、すぐに咲夜が飛んでくる。
稀に他のメイドがいれることもあるが、実質咲夜の仕事と言っても過言ではなかった。
それこそ掃除……つまり、美鈴を初めとした門番隊が討ち漏らした侵入者の排除をしているときぐらいである。
咲夜は瓶の並べ方まで完璧なため、他人に動かされると少しのズレでそれがわかった。
(動いてるのは……A型だけね……バカね、誰よこんなことしたの)
たまにB以外も飲むときはあるが、鮮度の関係上、ほとんど手を付けられずに捨てることがほとんどだ。
その「たまに」のために咲夜は補充を欠かさないが、それが報われることはあまり無い。
(A型だけ動いてる……? B型は……?)
動いてない。
寝起きにA型の血を持っていけばまず間違いなく付き返されるだろう。
そして、新しくちゃんとB型を持ってくるように申し付けられるはずだ。
懐中時計に目をやる、既にレミリアが眠りから覚めて大分経っているはずだ。
寝起きにA型の血で満足した? そんなことは考えにくかった。
(どういうこと?)
そのときハッと閃いた。
数日前に聞いた、あの言葉。
『メイド長がお掃除なさっているとき、私がA型を持って行ったら飲んでいただけたのですが……』
頭の中で全てが繋がった。
そうか、そういうことだったのか。
こんな簡単なことに気付けなかったとは、確かにメイド長失格と言われても仕方ない。
「侵入者あり!! 侵入者あり!! 元メイド長、十六夜咲夜だ!! 排除せよ!!」
そんな叫びが飛び交う、もはや咲夜は身を隠す必要も無かった。
そう、完全だ。何者も私を止められない、確固たる自信がある。
何分でも、何十分でも、何時間でも、いや、何年でも止めてやる。
確固たる自信がある、その手には湯気の立つ1杯の紅茶。
これを、お嬢様に……届ける。
「おどきなさい、貴女達では役不足だわ」
迫り来る全てのメイドの足にナイフをくれてやる。
「うぅっ!!」と呻くと、皆足を押さえて地面を転がり回った。
「ごめんなさいね、わけは後で話すわ」
紅茶は一滴もこぼすことなく。
あのメイド達だって妖怪だ、あの程度の傷、明日には治って職務に戻るだろう。
そこまで計算づくだ、完全だった、自信を取り戻した。
神速のナイフ、いくらでも止めてられる時間。
「させるか!! 十六夜咲夜!!」
最後に迎え撃つは新メイド長、紅美鈴。
二人は向かい合って静止する。
「本当に……裏切ってしまったんですか? お嬢様の首を取りに来たんですか?」
「ごめんなさいね、今は説明している時間はないの。そろそろお嬢様お休みになるから」
自信に満ちた妖艶な笑み、泥まみれの懐中時計を美鈴に見せる。
「それに、紅茶も冷めてしまう」
そして時間が歪む、空間が歪む。首筋をかすめる1本のナイフ。
「借りは返したわ、良い攻撃だったわよ」
声だけが響いた、気付くと首に一筋の傷を付けられて。
立ち尽くした、何をされたのかわからなかった。
そして首筋を伝う生暖かい血が、時間が動き出したことを教えてくれた。
その傷は頚動脈に届く寸前。
恐ろしくて動けなかった。
追う気にもなれない。
だが嬉しくもあった、ゾクゾクする。あれこそが十六夜咲夜。
ああ、きっと誤解だったんだ……今の咲夜さんなら、きっとまたお嬢様に……
「お嬢様」
ドアを開けると、窓の外を見つめるレミリアがそこにいた。
「何をしに来たの?」
怒っている様子はないが、威圧的な声だった。
「紅茶をいれてまいりました」
「いらないわ、貴女のはまずいの」
この期に及んで、心にも無い台詞が口をつく。
本当は「おかえり、咲夜」とでも声をかけたかったが、それはプライドが許さなかった。
それは咲夜にも伝わっていた、だからこそ、咲夜は行動で示す。
「もしお口に合わなければこの場で自らそっ首叩き落します。どうか、お飲みいただけませんか?」
振り返ると、そこには自信に満ち溢れた表情の咲夜がいた。
覚悟の決まった、一点の曇りも無い顔。泥だらけだが輝いて見えた。
それはメイド長に就任した頃の咲夜。
もし冗談でも、まずいと言えば本当に自害するだろう。
「……良いわ、飲んであげる」
「ありがとうございます」
咲夜はひざまずき、レミリアに紅茶を差し出した。
流石にカップには泥がついてしまっていたが、カップの中、そして口をつける部分には一粒の砂も無かった。
レミリアが、すーっと匂いを嗅ぎ、それにそっと口を付ける。
「……美味しいわ」
そこにいたのは、微笑む主。
「……ありがとうございます」
そこにいたのは、完全で瀟洒な従者。
フタを開けてみればなんのことはない。
そもそもが、A型とB型のラベルを貼り間違えていたのだ。
もちろんこれは咲夜によるミスではない。
普段は咲夜が自分でラベルを貼るが、その日は「掃除」が忙しくて他のメイドに任せた。
血を渡されたときわけのわからなくなったメイドは、A型とB型を貼り間違えてしまったのだ。
完全さを自負するあまりに見落としていた簡単なミス。
それによって「十六夜咲夜」は失われかけた。
レミリアがわがままだったからだけではない。
本当にまずい、もとい、レミリアの気分に合わない紅茶を渡してしまっていたのだ。
その後メイド長に復帰した咲夜は、今まで以上に完全な働きを見せている。
「美味しいわ、咲夜」
失いたくない名、失いたくない主。
そんなメイド長は、今日も忙しい。
夜の廊下を血に濡れたメイドが歩く。
場所は紅魔館。
「メイド長、またですか?」
「ええ……何なのかしら、一体」
血まみれの咲夜に部下のメイドが声をかける。
血まみれなのは別に侵入者を排除したからではない。
数日前から、
「貴女のいれた紅茶はまずいのよ」
と言って、レミリアが咲夜の頭に紅茶をかけるのだ。
紅魔館において、レミリアが飲んでいる紅茶とはそれすなわち人間の血である。
だから本来、誰がいれようとうまいもまずいも無いはずなのだ。
血自体には個体差があるかもしれないが。
そもそも最近のレミリアは口すらつけずに咲夜に突き返している。
「ちゃんとB型の血にしました?」
「随分前からB型しか持って行ってないわ」
レミリアはとりわけB型の血が好みらしい。
「メイド長がお掃除なさっているとき、私がA型を持って行ったら飲んでいただけたのですが……」
「A型で……?」
それを言って、メイドはハッとする。
恐る恐る見ると、咲夜の表情は先ほどよりも更に険しいものになっていた。
「なるほど……私に対してだけなのね」
血生臭くてたまらないが、今浴場へ行くわけには行かない。
咲夜は洗面所で簡単に顔と手を洗うと、その日は再び仕事に戻った。
レミリアはこのところ不機嫌だった。
本当に紅茶がまずい、それについて咲夜は反省の色がないどころか、
何度もまずい紅茶をいれてくる。一体どういう了見なのだ。
何故? 今までこんなことなかった、いつだって咲夜はおいしい紅茶を持ってきてくれた。
主にB型の血が好きだが他の血を飲みたいときもある、それこそ気分によって。
それら全てを読み取って、咲夜はいつも飲みたいものを持ってきてくれた。
レミリアにとって、咲夜は最も信頼をおける人間。
だからこそ、余計に苛立った。
どうしたの? 咲夜。
ドアをノックする音が聞こえる、咲夜だ。
今日こそは、ちゃんと私の気持ちを読み取ってくれるんだろうか。
だが、その気持ちはまたも裏切られることになる。
また、匂いを嗅いだだけで顔にかけられた。その翌日も、さらにその翌日も。
なんとなく心当たりが無いわけでもなかった。
最近、紅茶を飲まずにかけるだけでなく、口癖のようによく言う言葉があった。
「やっぱり、人間って使えないわね」
バカな、私は人間だが妖怪である他のメイド達よりも良くやっている。
口には出さないが、何度そう思ったことか。
前々からわがままな主だとは思っていたが、流石にこれは度が過ぎる。
バカにされることはよくあったが、前はまだ冗談じみていた。
最近は本気だ、目つきも鋭く睨みつけてくる。
何が不愉快なのかわからないが、私はちゃんとやっている。
咲夜も、レミリアの心が見えなくなっていた。
「まずいのよ、メイド長失格ね」
レミリアはまたも紅茶を飲まずに顔にかける。
だがひるんでばかりもいられない。
「お嬢様、お言葉ではございますが」
「何よ?」
余計不愉快そうにレミリアが睨みつける。
「血の調達も楽ではございません。何がそんなに不愉快なのか、話してはいただけませんか?」
ハンカチで髪と顔を拭きながら、毅然とした態度で質問を投げかける。
実際血も含めたレミリアの食料の調達は咲夜が行っていた。
殺して血を抜くのはそれほど難しいことではないが、館の外で無闇に殺生はしたくない。
気絶させて、殺さない程度に抜いたりするには結構な人数を襲う必要が出てくる。
毎日外出できるほど暇でもないので、一度にたくさん集めてこなくてはならないのに。
「貴女自信がよ、咲夜」
まったく反省の色が無いばかりか、口答えまでするようになった咲夜。
怒りと悲しみのあまり、言葉が荒くなる。
「私の何が不愉快なのでしょうか」
「全部よ、顔も見たくないわ」
何が原因でこうなってしまったのか咲夜はわかりかねた。
しかしまったく取り付く島も無い、どうしたものか。
「やっぱり、人間って使えないわね」
普段冷静な咲夜も、このところレミリアの態度のことを考えてよく眠れなかったり、
そうでなくても顔が合えばいびられるため、ストレスが溜まっていた。
「その発言の撤回を要求しますわ」
「何を偉そうに」
「ここしばらくの自分の行動を省みても、私には反省すべき点はございませんの」
「よく言うわね、あれだけまずい紅茶を持ってきておいて」
レミリアがどんどん殺気立って行くのを感じた。
まさに「早く視界から消えろ」と言わんばかりの目つき。
「もう一度言います、さっきの発言の撤回を要求しますわ」
「誰が撤回するか、私は本当のことを言っただけよ。紅茶もまずいし、咲夜は使えない」
今にも飛び掛ってきそうなレミリアを見て、咲夜は本能的に生命の危険を感じた。
そして無意識の内に懐のナイフ数本に手を伸ばす。
レミリアはそれを見逃さなかった。
「何のつもり? 咲夜」
「これは……」
しまった、と思ったときにはもう遅かった。
「なるほど……完全に失望したわ、咲夜」
「ご、誤解です……」
「言い訳なんか聞きたくない! 咲夜は裏切り者!!」
目には涙が浮かんでいたが、暗い室内、咲夜はそれに気付かなかった。
レミリアが大きく息を吸う。
「お嬢様……話を……!!」
「紅魔館全人員に告げる!! 咲夜が謀反を謀った!! 館から出すな!! 直ちに捕らえなさい!!」
凄まじい声量、咲夜は即座に時間を止めて耳を塞いだがそれでも頭が割れそうだった。
確かにこれは全館へと響き渡ったであろう。
レミリアはもう、頭に血が上ったのと、ショックのあまりに何も考えられなかった。
いくら暴言を浴びせかけようと、心の中ではいつも咲夜に感心していたのに。
そんな咲夜が、私にナイフを向けようとした。
「何をお考えですかお嬢様! 私にそんなつもりは……」
「ならその手に握られているものは何よ!!」
言い返せなかった。
確かに主に忠誠を誓った立場上「死ね」と言われたら死ぬ覚悟が必要なのかもしれない。
人は咲夜を「完全で瀟洒な従者」と呼ぶ、そんな咲夜ならなおさらだ。
その忠誠心には一切のほころびも許されないのだろう、自覚していた。
「お嬢様、ほんとに一体何があったというのです!」
「紅茶がまずいと言っているでしょう!」
咲夜は本当に何もわからなかった、全て完璧にこなしてきたはずだ。
そしてショックだった、確かに最近のレミリアには不信を抱いていたが、忠誠心を捨てたつもりはない。
しかし「つもりはない」という時点で不完全だったのだ。「捨てていない」と言い切れなければ。
そんな少しの不信がナイフに手を伸ばすという行動に現れた。
「お嬢様!!」
「お嬢様と呼ぶな!!」
凄まじい瞬発力でレミリアが床を蹴る。
普通の屋敷に比べて幾分か丈夫に作られているその床でも、レミリアの脚力に耐えられずに穴が開く。
「……ッ!!」
ギンッ、と鈍い音が響く、咲夜は辛うじて手にしたナイフでレミリアの爪を弾いた。
精神的にも十分な余裕があれば、反撃に転じるぐらいの時間を止めることは可能だが、
すさまじいまでのレミリアの気迫に圧され、一瞬止めるにしか至らない。
それゆえ、時間を止めても防御するので精一杯だった。
レミリアは次の攻撃に移ろうと、壁に張り付いて様子を窺っている。
ナイフが銀製でなければ、ナイフごと腕を取られていただろう……異常な腕の痺れがそれを感じさせた。
引っ掻いたレミリアの指から少し血が出ている。
「チッ……」
レミリアが懐から何かを出す。
「スペルカード……お嬢様、本気ですか!?」
「お嬢様と呼ぶなって言ってるでしょ!!」
スペルカード発動。
物理法則を無視したいくつもの真紅のナイフが、緩い弧を描きつつ咲夜に向かって飛んでいく。
「クッ!!」
余裕が無い、一瞬しか時間は止められなかった。
しかし、咲夜はそのほんの一瞬の間に全てのナイフの軌道から身をそらした。
「咲夜!!」
「お嬢様……ナイフに手をつけたことは……」
「何度も言わせるな!」
レミリアが間髪入れずに飛び掛ってくる。
「痛ッ!!」
五指の間それぞれに銀のナイフを挟み、レミリアの爪を受け流したものの、
4本のうち3本が弾き飛ばされた。無理矢理ナイフをもぎ取られた指の間に激痛が走る。
床を削りながらスピードを殺すレミリア、もはや手加減無しだった。
「おじょ……レミリア様! どうしても話を聞いてはいただけませんか!?」
時間が無い、時間を止めて説得はできないのだ。
もう、いつ他のメイドが駆けつけてもおかしくはない、いや、既に数名が退路を固め始めている。
ドアの外から気配を感じる。退路が固められているのはここだけではないだろう。
「咲夜の裏切り者!!」
もう説得は無理、ならば脱出して一時しのぎするしかない、そう思ったときだった。
「お嬢様!! ご無事ですか!?」
退路を固めて待機するメイドをかきわけ、ドアを蹴破って入ってくる者が居た。
紅美鈴、紅魔館の門番である。
「お嬢様!! 咲夜さん!! 何があったって言うんですか!?」」
「美鈴!! 話を……」
手には血の付いたナイフ。
床には先ほど弾き飛ばされた数本のナイフ。
美鈴の目の色が変わる。
「咲夜さ……いや十六夜咲夜!! 貴様お嬢様に何をした!!」
美鈴とて咲夜には多大な信頼を寄せているし、憧れでもある。
しかし、その上にはさらに尊敬するレミリアがいる。
誤解とはいえ、美鈴はそれらのナイフを見て、即座に行動に移っていた。
レミリアには及ばないものの、驚異的な踏み込みで咲夜の首めがけ手刀を繰り出す。
気を帯びたそれは、咲夜のナイフを砕いて首に命中……するはずだった。
「あ、あれ!?」
そこにあったのは粉々になったナイフのみ。まるで手品のように咲夜の姿は消えていた。
紅魔館の周囲を取り囲んだ湖。
咲夜は首を押さえながらその上を飛行していた。
「くっ……美鈴相手に……我ながら情けない」
危うく頚動脈に到達するところだった。
まさかあの美鈴がここまでの戦闘力を秘めていたとは、完全に侮った。
しかし侮っていたのが心の余裕を生んだのも事実で、首に手刀が触れた瞬間、
「この場面で美鈴まで相手にするのはまずい」と感じた。
数十秒止められれば離脱には十分な時間だった。
飛びながら手際よく止血し、常に持ち歩いている包帯を巻く。
踏み込みを許したのがまずかった、あの間合いは美鈴の世界。
そんな咲夜は気付いてなかった、仮にも美鈴は門番の長。
霊夢や魔理沙の侵入を許してしまっていたのは、後に控える咲夜に絶対的な信用を置いていたからだ。
そんな甘えが、彼女の本気を包み隠してしまっていたのだ。
ところがそんな咲夜が謀反を起こしたと聞き、美鈴は本来の力全てを出し切ってレミリアを守ろうとした。
抜けたところもあるが、非常に真面目で、本当にレミリアを尊敬していたのだ。
そういった意味でも、咲夜は完敗だった。
しかしそんなこと咲夜は気付かずに相変わらずの逃飛行、否、逃避行。
「お嬢様!! お怪我はございませんか!?」
「んもう、落ち着きが無いわね美鈴は」
銀のナイフでついた傷は既に完治している。
慌てた様子であちらこちらベタベタ触ったり、じろじろ見たりする美鈴が鬱陶しい。
「あまり触るんじゃないわよ、もう!!」
「は、はっ! 失礼いたしました、これもお嬢様を案じるが故! お許しを!」
1人で使うには広いレミリアの部屋だったが、全館内から集まった従者達が入れるわけはなく、
レミリアと美鈴をギチギチに取り巻いた従者達の、
「良かった……」
や、
「咲夜さん……」
という呟きが断続的に聞こえてくる、とても居心地の悪い状態になっていた。
廊下も同じ状態だ。
「もういいわ、皆持ち場へ戻りなさい、あ、美鈴は残るのよ」
「わ、私は残るんですか!?」
美鈴には大事な用があった。
他の従者達は、みしみしとひしめき合いながら、小さなドアをくぐって持ち場へと帰っていく。
皆出て行って少しすると、レミリアは美鈴に言った。
「貴女が今日からメイド長をやりなさい」
「はっ! ……へ!?」
美鈴が硬直する。
「し、しかしそうなると門番長は誰が……!?」
「あんなの誰がやっても一緒よ、不安なら貴女が館内で迎撃すれば済むことでしょう」
レミリアにしたらたっぷりと嫌味を込めて放った台詞だった。
美鈴はそれどころではなかったので気にかけなかったが。
「メイド長の仕事はわかるかしら?」
「はっ……メイドへの指示と掃除ぐらいならば!」
料理は得意ではないらしい。
自分で頼んでおきながら、美鈴を頼りなく思った。
「それだけよ……もういいわ、出て行きなさい」
「はい、かしこまりました……」
美鈴は目眩がした、口ではああ言ったがあれらの仕事が私に務まるだろうか。
美鈴が出て行った後、レミリアは一人で泣いた。
やりすぎたかもしれないという後悔とナイフを向けられたことによるショックから。
紅魔館から大分離れた山の中、そこにある小さな川辺に咲夜は降り立った。
「ンッンッ……」
両手ですくって川の水を飲む。冷たい川の水は心から美味しかった。
月明かりに照らされて水面に映った自分の髪の毛にはところどころ乾いた血がこびりついていた。
「ふぅ……ふぅ……」
顔が血生臭い、今度は川の水で顔を洗う。
(どうしよう……)
少し滲んだ涙も、川の水が洗い流してくれた。
翌日、大きな岩に抱きつくような姿勢で咲夜は寝ていた。
あちこちに血の付いたメイド服、その血は既にどす黒く変色している。
それだけではない、こんなところで一晩過ごしたためにあちこちに付着した泥。
これがあの「完全で瀟洒な従者」と呼ばれていた十六夜咲夜だろうか。
しかし当人はそんなことを気にしている余裕はなかった。
目を覚まして懐中時計に目をやると、いつも通りの起床時間。
川で顔を洗った後、森に入り手頃な枝を集め、いくらかの木の実や食べられるキノコなどを採取し、
戻ると、その後下着だけになって血と泥にまみれたメイド服を洗う。
そして枝を組み立てて簡易な物干し竿を作り、そこに洗った服を干す。
(誰も来ないわよね……)
自力で起こした焚き火にあたり、木の実をかじる。山の朝は冷えた。
焚き火であぶっているキノコは美味しそうな匂いではなかった。
メイド服が乾いたら、改めてこの辺を少し散策しよう。
普段から山野を駆け回って食材集めをすることもある昨夜は、サバイバル技能にも長けていた。
(本気で探せば結構あるものよね)
左手には上手く結んで袋状にしたエプロン。その中にはたくさんの山菜や木の実。
そして右手には捕まえてきた野うさぎがぶら下がっていた。
(さてこっちはどうかしら……)
川に仕掛けておいた草を編んで作った簡易なトラップ、それには大きめの川魚が1匹かかっていた。
その気になって捕まえようと思えば、時間を止めてたくさん捕まえられるのだが、
森の方で何か動物を捕れるだろうと思っていたので、こちらは適当だった。水が冷たいし。
(多すぎたわ……)
野うさぎは逃がしてやることにした、必要ならいつでも捕れる。
今日のたんぱく源はあの魚だけで十分だろう。
普段なら何のためらいも無くさばいてしまう野うさぎが、今日はなんだか可愛そうに見えたのもあった。
(エゴね……魚も生きているのに)
自分を皮肉って苦笑しながら、食事の準備に取り掛かるのだった。
そして逃げていく野うさぎに一言。
「良いわね、お前は帰るところがあって」
ドンドンドン!
「誰?」
「はっ! メイド長の美鈴です!」
「お入り」
「失礼いたします!」
昨日美鈴が蹴破ったドアは既に直されている、紅魔館のメイド達は働き者だ。
だがそんなこと全く気にせず、美鈴はかしこまった態度でレミリアの部屋へと足を踏み入れた。
「お嬢様! ご機嫌うるわしゅう!」
「すごい違和感ね、普通に喋りなさい」
「はっ!」
美鈴はガチガチに緊張していた。
門番長の自分であればともかく、今はメイド長としての自分がいる。
メイド長としての振る舞いがまったくわからなかった。
そんな美鈴に、レミリアは容赦なく命じる。
「それより美鈴、寝起きで喉が渇いているの、紅茶をいれなさい」
「はっ! ただちに!」
美鈴は館の外にある氷室に向かった。
咲夜は採取してきた血液の鮮度を保つため、パチュリーの協力を得てこれを作ったのだ。
「う、うーむ……」
A、B、AB、Oとラベルの貼られた瓶がそこにはあった。
「お嬢様ってどれが好きなんだろ……」
咲夜に限らず紅魔館のメイドは、レミリアがB型を好んでいるのを常識的に知っていた。
特に寝起きはほぼ確実にB型の血を飲む。しかしそこだけは門番であった美鈴の記憶の中にはなかった。
門番でも知っている者は居たが、美鈴はそういうところに無頓着だった。
「ううん……まぁ確率は4分の1だし、当たって砕けろ!!」
仕方が無いので美鈴は適当に選んだ。
お叱りを受けたらそのときは別のものを持ってくるしかない。
(咲夜さんは、すごかったんだな……)
ぶるぶると首を振る、あれは裏切り者なのだ、もう忘れなくてはならない。
そう頭では思うものの……内心では、悲しかった。
「あら、やるじゃない、私の好みを知っていたのね」
美鈴の勘は運良く当たった、ほっと胸を撫で下ろす。
「あ、ありがとうございます! 光栄の極みでございます!!」
「じゃ、1人でティータイムとするわ、持ち場に戻りなさい」
「はっ!」
心がすっきりしない、紅茶さえ手に入れば早く美鈴を追い払って1人になりたかった。
そんなレミリアの気持ちを知ってか知らずか、美鈴は仕事をやり終えた満足な顔で廊下を歩いていった。
早寝など許されない生活が長かった咲夜は、相変わらずの川辺で眠れずに月を眺めていた。
「十六夜……咲夜」
自分の名前……を呟いたとき、涙が止まらなくなった。
そうだこれは自分の名前ではない、あの方から頂いた名前だ。
私はもうこの名前を名乗ってはいけないのだ、そう思ったとき、物凄く悲しくなった。
遠い記憶が蘇る。
虐げられていた自分、恐れられていた自分。
思い出したくないのに、次々と芋づる式に記憶が蘇る。
何故? 私は何か悪いことをした?
気付けば幻想郷に迷い込んでいた、そこでレミリアに拾われた。
自分も人外の存在ゆえか、はたまたそれ以外の理由があってか。
とにかく、初めて自分を受け入れてくれた存在。
私はただ、あの方のために全力を尽くして仕えるのみ。
気付けば、メイド長にまで登りつめていた。それは実質レミリアの片腕だった。
そのとき初めて自分の力を誇りに思えた、自分に自信が持てた。
「嫌……」
顔を上げる。
「嫌よ!!」
こんなことで終ってなるものか。
「私は紅魔館のメイド長、十六夜咲夜よ!!」
メイド長の肩書きに未練があるわけではない。
あの方にとって、最も信頼のおける存在であること、それが誇り。
『貴女、使えるわ。私のメイドになりなさい』
メイド服の白い箇所を全て引きちぎる、白いエプロンを投げ捨てる。
『何その名前、変ね。気に入らないわ』
穴を掘り、川から汲んできた水をぶちまける。
『そう……ねぇ……咲夜……十六夜咲夜……こんな名前、素敵だと思わない?』
泥をかぶる、白い肌に泥を塗りたくる。
美鈴に付けられた首の傷さえも意に介さない。
(レミリア様を、もう一度振り向かせる!!)
咲夜は飛んだ、紅魔館へ向かって。
私が帰る場所はあそこしかない。
「他愛無い、やはり貴女達だけに紅魔館は任せられないわね」
あっさりと侵入を果たす。当然のことだ、時間を止めているのにわかるはずもない。
泥をかぶったのは闇に溶けて身を隠すためだが、そこまでする必要があったかは不明だ。
しかし、完全と呼ばれ続けて驕っていた自分を一度投げ捨てたかった。そんな意味合いが大きい。
その驕りがきっと、自分の目を曇らせ何かを見落させたのだ、違いない。
実はわがままな割にレミリアは心が広い、従者に対してだけだが。
多少怒られることはあっても、次の日にはからっとしているし。
よほど酷く怒らせない限り従者に手を掛けるということは滅多にないのだ。
つまり、咲夜は重ね重ねレミリアを怒らせるような真似をしていた可能性がある。
そして咲夜が向かったのは、氷室。やはり原因は紅茶にあったのではないかと考えたのだ。
(いつも何度もラベルは確認していたわ、間違えるはずはない)
眺めてみると、少し血液の瓶が動かされた形跡がある。
レミリアは寝起きにまず1回紅茶を飲むのだが、それはほとんど咲夜の仕事だった。
他のメイド達と比べ物にならないほど仕事が多いのに、何故か手が空いてるのがいつも咲夜だけだから。
紅茶を飲みたいと思ったときにメイドを呼ぶと、すぐに咲夜が飛んでくる。
稀に他のメイドがいれることもあるが、実質咲夜の仕事と言っても過言ではなかった。
それこそ掃除……つまり、美鈴を初めとした門番隊が討ち漏らした侵入者の排除をしているときぐらいである。
咲夜は瓶の並べ方まで完璧なため、他人に動かされると少しのズレでそれがわかった。
(動いてるのは……A型だけね……バカね、誰よこんなことしたの)
たまにB以外も飲むときはあるが、鮮度の関係上、ほとんど手を付けられずに捨てることがほとんどだ。
その「たまに」のために咲夜は補充を欠かさないが、それが報われることはあまり無い。
(A型だけ動いてる……? B型は……?)
動いてない。
寝起きにA型の血を持っていけばまず間違いなく付き返されるだろう。
そして、新しくちゃんとB型を持ってくるように申し付けられるはずだ。
懐中時計に目をやる、既にレミリアが眠りから覚めて大分経っているはずだ。
寝起きにA型の血で満足した? そんなことは考えにくかった。
(どういうこと?)
そのときハッと閃いた。
数日前に聞いた、あの言葉。
『メイド長がお掃除なさっているとき、私がA型を持って行ったら飲んでいただけたのですが……』
頭の中で全てが繋がった。
そうか、そういうことだったのか。
こんな簡単なことに気付けなかったとは、確かにメイド長失格と言われても仕方ない。
「侵入者あり!! 侵入者あり!! 元メイド長、十六夜咲夜だ!! 排除せよ!!」
そんな叫びが飛び交う、もはや咲夜は身を隠す必要も無かった。
そう、完全だ。何者も私を止められない、確固たる自信がある。
何分でも、何十分でも、何時間でも、いや、何年でも止めてやる。
確固たる自信がある、その手には湯気の立つ1杯の紅茶。
これを、お嬢様に……届ける。
「おどきなさい、貴女達では役不足だわ」
迫り来る全てのメイドの足にナイフをくれてやる。
「うぅっ!!」と呻くと、皆足を押さえて地面を転がり回った。
「ごめんなさいね、わけは後で話すわ」
紅茶は一滴もこぼすことなく。
あのメイド達だって妖怪だ、あの程度の傷、明日には治って職務に戻るだろう。
そこまで計算づくだ、完全だった、自信を取り戻した。
神速のナイフ、いくらでも止めてられる時間。
「させるか!! 十六夜咲夜!!」
最後に迎え撃つは新メイド長、紅美鈴。
二人は向かい合って静止する。
「本当に……裏切ってしまったんですか? お嬢様の首を取りに来たんですか?」
「ごめんなさいね、今は説明している時間はないの。そろそろお嬢様お休みになるから」
自信に満ちた妖艶な笑み、泥まみれの懐中時計を美鈴に見せる。
「それに、紅茶も冷めてしまう」
そして時間が歪む、空間が歪む。首筋をかすめる1本のナイフ。
「借りは返したわ、良い攻撃だったわよ」
声だけが響いた、気付くと首に一筋の傷を付けられて。
立ち尽くした、何をされたのかわからなかった。
そして首筋を伝う生暖かい血が、時間が動き出したことを教えてくれた。
その傷は頚動脈に届く寸前。
恐ろしくて動けなかった。
追う気にもなれない。
だが嬉しくもあった、ゾクゾクする。あれこそが十六夜咲夜。
ああ、きっと誤解だったんだ……今の咲夜さんなら、きっとまたお嬢様に……
「お嬢様」
ドアを開けると、窓の外を見つめるレミリアがそこにいた。
「何をしに来たの?」
怒っている様子はないが、威圧的な声だった。
「紅茶をいれてまいりました」
「いらないわ、貴女のはまずいの」
この期に及んで、心にも無い台詞が口をつく。
本当は「おかえり、咲夜」とでも声をかけたかったが、それはプライドが許さなかった。
それは咲夜にも伝わっていた、だからこそ、咲夜は行動で示す。
「もしお口に合わなければこの場で自らそっ首叩き落します。どうか、お飲みいただけませんか?」
振り返ると、そこには自信に満ち溢れた表情の咲夜がいた。
覚悟の決まった、一点の曇りも無い顔。泥だらけだが輝いて見えた。
それはメイド長に就任した頃の咲夜。
もし冗談でも、まずいと言えば本当に自害するだろう。
「……良いわ、飲んであげる」
「ありがとうございます」
咲夜はひざまずき、レミリアに紅茶を差し出した。
流石にカップには泥がついてしまっていたが、カップの中、そして口をつける部分には一粒の砂も無かった。
レミリアが、すーっと匂いを嗅ぎ、それにそっと口を付ける。
「……美味しいわ」
そこにいたのは、微笑む主。
「……ありがとうございます」
そこにいたのは、完全で瀟洒な従者。
フタを開けてみればなんのことはない。
そもそもが、A型とB型のラベルを貼り間違えていたのだ。
もちろんこれは咲夜によるミスではない。
普段は咲夜が自分でラベルを貼るが、その日は「掃除」が忙しくて他のメイドに任せた。
血を渡されたときわけのわからなくなったメイドは、A型とB型を貼り間違えてしまったのだ。
完全さを自負するあまりに見落としていた簡単なミス。
それによって「十六夜咲夜」は失われかけた。
レミリアがわがままだったからだけではない。
本当にまずい、もとい、レミリアの気分に合わない紅茶を渡してしまっていたのだ。
その後メイド長に復帰した咲夜は、今まで以上に完全な働きを見せている。
「美味しいわ、咲夜」
失いたくない名、失いたくない主。
そんなメイド長は、今日も忙しい。
でも美鈴の出番は減ったのね…。あっても蛇足になるだけだろうけど…。
ちなみに点数は二度目な分引いてます。
忙しさの中で、血液の瓶をメイドに渡しちゃうとか伏線が欲しいなあ。
アイディア自体は悪くなかったし、面白かった。
次への期待を込めて少し点数は上乗せ(w
頑張ってくださいな。
いろいろとこれからに生かしていきたいと思います。
>美鈴
もっと彼女を書きたかったですけどね……修正前はそれも減点対象になったと思い
泣く泣く削ることにしました。
ですが、なんらかの形で生かしてやりたいですねー。
>忙しさの中で、血液の瓶をメイドに渡しちゃうとか伏線が欲しいなあ。
バレないようにするあまり……手がかりを減らしすぎたかもしれませんねえ。
それで全体的に厚みが無くなってしまったのかなあ、と。
前半のレミリアと咲夜の間に出来た不穏な空気はかなりおもしろかった。
仲直りに入るまでの過程でもう一捻りあれば、でも楽しめた。
すれ違いを描きたかったのだろうけど、交互に咲夜とレミリアの視点を入れ替える手法も題材が題材なだけに違和感を覚える。
すれ違いを描きたいならこんな紅茶の味が気に入らないなんて小さい題材じゃなくてもっと大きなスケールで描いて欲しい。
咲夜の視点だけで進んでいればもっと意外なオチがあるんじゃないかと期待できたけれど…
と言っても肝心のオチがほんとに血液型が違うから気に入りませんでしたじゃどのみち失望してしまうけど。
味が気に入らないからってだけで飲まずに頭からかけちゃったり乱闘騒ぎ起こしたりって話じゃさすがに現実感がなさすぎる。
すれ違いという話の大筋はおもしろかったけれど、肝心のすれ違いの原因があまりにも小さすぎて全体的に茶番にしか見えない。
たんなるラベルの張り間違い。
この先どんな波乱万丈があるのだろうかと途中まで本当にワクワクしながら読んでいただけに
最後のオチでがっかりです。
これの修正前と他のVENIさんの小説を読んだ上で
VENIさんは咲夜のことが嫌いなのかと思ってしまいました。
でも修正後を読んだのと事情を知ったことで
そんなことはないと安心しました。