私は死にたかった。
何で死にたかったのか……学生時代から付き合っていた彼に捨てられたからか、単調な仕事に疲れたからか、早く身を固めろと煩い親に嫌気が差したからか……いや、きっと自動販売機に差し込んだ千円札が何度入れても戻ってきたからだろう。
しわくちゃの千円札が、自分と重なって、もう要らないと言われてるみたいで……だから、死にたくなったのだ。
足元に広がるのは真っ青な海。
雲ひとつない空と果てまで広がる海の境界は朧で、パノラマの視界は全て青。
崖下から吹き上げる風が髪を激しく散らし、眩しい太陽はまるで作り物みたいで――こんな日に相応しい。
此処から一歩踏み出せば、私は死ねる。
今日が雨だったら、きっと私は泣けていた。
でもこんなに良い天気だから、泣けなかった。
泣けてたら私の気持ちも変えれたかもしれないのに、こんなに眩しい青だから――仕方がない。
真っ直ぐに海と空の境界を見つめる。
自分が飛べない事なんて、ピーターパンを読む前に知っていた。
だから歩く。歩いて逝く。
さぁ、勇気を出して踏み出そう。この詰まらない自分を置いていこう。
私は
その
右足を――
「海を汚すのは感心しませんね」
背後から掛けられた声に右足が竦む。ひょうっと吹く強い風に押され、私は三歩後退した。
邪魔をされた事に対する怒りよりも、恥ずかしい事を見られた気まずさで慌てて振り向く。
そこには緑の髪をした小柄な女性。
白い肌に切れ長の瞳。昔のお墓に飾ってあるような板切れで口元を隠し、にこにこと笑っている。
白いブラウスに濃紺のベストとスカート。頭には奇妙な飾りの付いた紺と金の帽子。
全体的に装飾過多で、下手をすれば引いてしまうような格好だが、彼女には不思議と良く似合っていた。
否、今初めて会ったというのに、それ以外の格好が想像できない。
彼女は目を細めて笑う。
否――嘲笑っている。
「魚の餌というのは、死に様としては最上に近い。生命を奪う事で得た肉体を、奪った生命に還す。十全ですが――貴女にその価値がありますか?」
「……誰よ、あんた」
「これは失礼。私の名は四季映姫。閻魔をやっております」
そう言って、にたりと笑う。
口調こそ丁寧だが、表情こそにこやかだが、あの目は……嫌いな目だ。
「閻魔?」
「えぇ、本来この辺りは担当していないのですが……今日はオフですので」
口元を隠し、にたにたと、にたにたと。
その笑みが、無性に癇に障った。
「閻魔だか何だか知らないけど、関係ないでしょ? あっち行って」
「そうしたいのは山々ですが、閻魔として目の前で消え逝く命を見過ごす訳にはまいりません。それに見て御覧なさい、この美しい海を。私はこの風景を見るために、貴重な休日を使って此処に来たのです。醜い死体などで穢されるのは――我慢できません」
「……酷い言い様ね。解った。私が別の場所に行けばいいんでしょ? どうぞこの美しい自然を存分に。それじゃ」
こんなヤツに関わっていられない。死ぬ方法なんていくらでもあるし、死に様を選ぶほど傲慢ではない。
ただ苦しいのは嫌なので、何か別の方法を――
「お待ちなさい」
「……何よ」
閻魔を名乗る少女の横を通り過ぎた時、彼女の右手が私の左手を掴んだ。
振り返って睨むと、そこには蒼く深い瞳。
まるで全てを見透かすような――そんな瞳。
「宜しければ話して頂けませんか? 何故貴女は――」
「どうでもいいでしょう? 私が死のうと生きようと貴女には」
「嗚呼、そんな事はどうでも良いのです。私が聞きたいのは――何故、遺書を残さないのか――という事です」
「……え?」
「自殺をする者は遺書を残す。これが当たり前なのです。己の死をもって、誰かに、或いは『世界』という実体のない怪物に、何かを訴えかける。それが自殺です。遺書のない自殺は只の逃避。それでは余りに――芸がない」
「遺書なんて……遺すものなんてないわ。そうよ、これは逃避。それがいけないっての!?」
思わず口調がきつくなった。
彼女の瞳に気圧されないように真っ直ぐに見つめ、しかし彼女はそれを涼しげに流す。
凍土のように硬く、紫鏡のように妖しく、深く深く全てを見通すような瞳のままで。
可笑しな話だが、私はその時初めて彼女が人間ではないのだと――脳ではなく魂で――理解した。
ただの頭のおかしな女性だと思っていたが……人間にあんな瞳は出来ない。
彼女は人ならぬ笑みを浮かべ、妖しく、まるで獲物を弄ぶ猫のような瞳で、
「最悪です」
と断言した。
「逃避――それは生きる上で不可避。厳しい生存競争において、弱き者に許されたただ一つの戦術。ですから逃げれる時は逃げるべきなのです。ですが」
彼女は瞳を閉じて歩き出す。
それは崖の方角で――
その先には何もなくて――
「それは全て生き残る為の術。生から逃避する事は――生命に対する侮蔑」
一歩一歩、恐れもなく、躊躇いもなく、弾劾しながら断崖へと。
「それだけは許されない。それは貴女という存在ではなく、貴女を今日まで生かした生命への侮蔑。それでは貴女に奪われた生命が――報われない。貴女は奪った生命に対して『対価』を支払わなければいけない。それがルールなのですよ」
対価? 何を言ってるんだこいつは。
彼女は断崖の先端、紛れもなくあと僅かに身体を傾ければ落ちるという地点で、くるりと振り向く。
生と死の境界に恐れもなくその身を置き、にたにたと意地悪く笑っている。
私は彼女を引き戻そうと――そんなところにいたら危ないと――普通なら言っていただろう。
だけど確信していた。
理由も理屈もなく理解していた。
断崖絶壁、尖った岩礁、激しく狂う荒波――そんなものでは彼女を殺せない、と。
「……貴女、何な訳?」
「最初に言いましたよ? 私は閻魔です。罪を暴き、罪を裁き、罪を詰む。ただそれだけの……しがない公務員です」
「しかもオフってか?」
「福利厚生はいい加減なんですけどね。実は十年ぶりの休暇なんですよ」
「まぁ、それはいいわ。貴女が嘘を言ってないってのは解るし、閻魔なら自殺を止めようってのも解る。気紛れに選んだこの海で十年ぶりのバカンスを楽しんでいる閻魔とカチ合うってほど、私の運が悪いってのもよーく解った。解る? 私は運が悪いの。何をやっても上手くいかない。何をやっても失敗する。しかも立ち直れない程の絶望すら与えて貰えず、緩く、緩慢に腐っていく。それに耐えられないの。ぶっちゃけ『生きるのに飽きた』のよ! 私が今までに沢山の生命を糧に生きてきたから、私にはその『対価』を支払う義務がある? はん、そんなもん知ったこっちゃないわ。私は私の人生の『破産』を宣告する。今止められても必ずやってやるわよ!」
頭に来たから、何もかも全部叩きつけてやった。
ざまあみろ。私が死んで地獄に落ちるならそれでも良い。私が嫌になったのは、この真綿で首を絞めるような絶望感だ。どこにも辿り着けず、緩やかに腐って死んでいくのに耐えられないのだ。その地獄に比べれば、たかが一瞬の死や地獄の業火など恐れるに足りない。あぁ、そうだ。今度こそ私は私の目標を達成してみせるんだ。閻魔如きに邪魔をさせるもんか。私は絶対に『死んで』みせる。
閻魔は笑みを絶やさず、崖の端に立ち、吹き付ける風にゆらゆらと揺れながら。
その深い蒼の瞳を、一層愉しそうに細める。
それはまるで悪魔のように――
「貴女の意志は解りました。生きる事を、苦痛と感じる人間がいる事は知っています。彼らには何の言葉も届かない。どんな説教も届かない。何故なら彼らは救われたいとこれっぽっちも思っていないから。どんなに厳しい叱責も、どんなに優しい甘言も届かない。だから私の説教も無駄でしょうね。仕方がありません。私の負けを認めましょう。貴女が召された後、通常の業務に戻り貴女を裁く事にしましょう。私は貴女の意志を変える事は出来なかった……貴女の勝ちです。私は去りますので後はどうぞご自由に」
私の……勝ち?
嗚呼、これはただの言葉遊びだ。
私はただの負け犬で、あらゆるものに負け続けて、尻尾を巻いて逃げ出すのだ。それでも良い。それこそが私に相応しい。
彼女は微笑みを浮かべたまま、もう私とは目を合わさずに私の横を通り過ぎる。
閻魔にすら見捨てられたのだ。私はいっそ清々しい気分で、閻魔と入れ替わりに崖へと向かう。心残りなんてない。絶望もしていない。私は私の意志を通したんだ。どれほど無様で歪でも、私は最後に――
「ですが……貴女は『死』を得る事が出来ますか?」
下らない戯言。
もう耳を貸す必要はない。
あと三歩。
「何をやっても上手く行かない、何処にも辿り着けない貴女が『死』を得る事など出来ますか?」
馬鹿なことを。
私は今、間違いなく『死』に向かって歩いている。
あと二歩。
「死に至るには過程があります。貴女如きに、それを得る事が出来ると思っているのですか?」
「煩いわね!」
煩わしい。これこそが負け犬の遠吠えだ。
此処から飛び降りる、ただそれだけで私は『死』を手に入れる事が出来るというのに。
閻魔ともあろう者がなんて無様。愚にも付かぬ戯言で私を惑わそうなどと――
その時、私の脳裏に――稲妻が奔った。
もしかしたら――今振り向けば、私の生涯で唯一私が打ち負かした敗者の顔が見れるかもしれない。
しかもそれは閻魔。多くの者が怖れ崇める至高の存在。そんな神様みたいな者が浮かべる屈辱の顔。
私は『死』だけでなく、それを得る事も出来るのではないか?
脊髄を快楽が貫き、心臓が踊り、口元が歪む。
悔しそうに唇を噛む閻魔を眺めながら、嗤いながら死んでいける。
嗚呼、それはなんて甘美。最後の最後の最後に私が手に入れた――たった一つの勝利。
だから私は振り向く。
口元を歪ませ、勝利の余韻に浸りながら――振り向くまでの一瞬が、これ程までに待ち遠しいなんて。
そして私が振り向いたそこには――
何一つ変わらずに、にたにたと笑う蒼い瞳。
ふいに視界が真っ暗になる。
先程までの晴れやかな気分は、心地よい高揚感は、その瞳に砕かれた。
嗚呼、そうか。
私には、やっぱり手に入れる事が出来ないのか。
「貴女がそこから飛び降り、崖下に叩き付けられるまで十秒もあれば十分でしょう。脳挫傷と頚椎骨折により、貴女は死へと一歩近づく。
ですが……それは一歩目に過ぎません。
貴女たち人間は、脳が死ねば生命も死ぬと思い込んでいる。
確かに脳が死ねば復活は出来ません。
そう言った意味で間違いではないのですが――それだけでは足りないのです」
止めて。
もういいから。もう解ったから。
「では『死』とは何か?
他人の心にその人の思い出が生きていれば、それは『死』ではない……そんな戯言を申すつもりはありません。純粋に生物学としての話です。脳が死ぬ事により全ての生命活動――心臓や筋肉、その他諸々の活動は停止します。貴女の魂がどれだけ生きる事を命じようと、肉体は応える事はありません。これが外見での『死』です。
ですが――それはアウトプットの問題。
どれだけ貴女が生きたいと望もうとも、肉体が応えない。ただの一方通行となるだけ。
それも――『死』に至るニ歩目に過ぎない」
聞きたくない。聞きたくない。そんな言葉聞きたくない。
だけど閻魔は――
されど閻魔は――
容赦も、慈悲も、手を緩める事もなく、私の心臓を摘出するように。
傷を、深く、深く、見たくなかった事まで、知りたくなかった事まで、全て抉り出すように――
「インプット――つまり外界の刺激は、全ての細胞が死滅するまで貴女の脳に送られ続けます。
波に嬲られ何度も岩に叩き付けられる痛みも、魚たちが貴女の残骸を啄ばむ感触も全て伝えられます。
貴女の肉体全てが崩壊するその時まで、『死』に至るその時まで、いつまでも絶える事なく――貴女はその『痛み』に耐えられますか?」
「う、うう……」
「『死』は逃避足りえない。全ての生物はその苦しみを本能的に悟っているから、『死』を怖れるのですよ」
「う、うううぅ……」
「それでも貴女は――死ねますか?」
「う、ううぅぅぅぁぁぁあああ!!」
泣いた。
生まれて初めて、子供のように泣いた。
生きる事に耐えられなかった負け犬が、死に耐えられる筈もない。
地面を掻き毟り、狂ったように泣き叫び、私は生まれて初めて自分の弱さを呪った。
今までは全てを運の所為にし、求める前に諦め、傷付かない生き方を選択し続けた。『生きていても死んでも同じ事』――自分で思いついた訳ではなく、何処かの本で読んだ言葉を借りて自分に酔っていた。自分で思考せず、自分で選択せず、ただ流されるままに、ただ踊らされるままに。自身の苦痛を、自身の罪を、全て『他人』に擦り付ける事で。
最低だ、屑だ、生きる価値もない――そして死ぬ勇気すらない。
どうすれば良いんだ、どうすれば良かったんだ。私は、私は……
縋るように――
祈るように――
願うように――
請うように――
答えを、生きる為の答えを求めて――私は顔を上げる。
そこにはもう、誰もいない。
私は、閻魔にすらも――捨てられた。
§
それから数十年が過ぎた。
私はその後、親の勧めで見合いをして結婚した。とてもハンサムとは言い難い容姿だったが、私の事をとても大切にしてくれた。
そして三人の子供を授かった。
子供は確かに可愛かったけれど、小さかった頃は毎夜夜中に起こされ眠れぬ夜が続き、少し大きくなってからはやんちゃをして近所の人々に頭を下げる日々が続き、そして三人の子供が私たちのもとから巣立った時、自分がもう取り戻せないくらい老いているのを感じた。
それからまた何十年も過ぎて――私は自宅のベッドで子や孫に囲まれ、惜しまれながらその生涯を閉じる。
眠るように――
穏やかに――
§
「お久しぶりですね」
「本当に閻魔だったのね。貴女」
「私は嘘を申しません」
「嘘吐き」
私が笑うと閻魔も笑った。
にたにたと、あの時と変わらない、嘲るような笑みで。
「結局、本当に死んでしまうまで死ねなかったわよ。貴女の所為でね」
「あら? 幸せだったんじゃないですか?」
「見かけは、ね。あの後、田舎に帰って見合いして子や孫に恵まれて……まぁまぁ上等な生涯だったと思うわ。相変わらず詰まらない毎日だったけどね」
「上等ですね」
「上等よ」
私達は笑いあう。
喉元にナイフを突き付けあった、破滅の笑みで。
「しっかし私も運が悪いわ。こんな性質の悪いヤツと知り合っちゃうなんて」
「私は運が良いのです。旅先で面白い娯楽に出会えましたし。中々いませんよ? こんな歪んだ魂なんて」
「暇潰しだったっての?」
「勿論です。楽しいですよ? 人の人生を弄ぶのは」
「このサドが」
「良く言われます」
結局、私は生涯自分が負け犬だという現実と向い合わなくてはならなかった。
それは自覚する前よりも辛く厳しい日々。
『死』という逃走経路を絶たれた私は、死ぬまで生きるという牢獄に囚われているようなもの。
どろどろと腐っていく魂は、それでも決して崩壊してくれず、今日という日を迎えるまでついに私を解放してはくれなかった。
それは正に――地獄のような日々。
「さて……それでは判決です」
「何でも良いわ。血の池だろうと針の山だろうと。今更怖れるものなんて……」
「貴女の罪は重すぎる。血の池、針の山……そのようなものでは何万年掛かろうと贖いきれない。
よって、貴女は再び人間として生を得る事を命じます」
「は!? え、ちょ、ちょっと!」
「裁判は以上です、では」
「ま、待ちなさいよ。そんな……またあの地獄に戻れっての!? お願い、それだけは!」
「精々苦しみなさい……『対価』を支払い終わるまで」
最後に閻魔はにたりと笑い、重い扉が閉まる。
私は一人取り残される。
私は扉に駆け寄って、
「どっちが歪んでんのよ! この変態閻魔!」
思いっきり扉を蹴りつけた。
《終》
――サドと良く言われるえーきさま吹いた。
んでもって最後の会話が個人的にとても深く感じました。
私の目には、その映姫様の嘲りがとてつもなく優しく見えるのはどうしてでしょうね、ええ。
とりあえず、死んだら彼女に裁いてもらいたいです。切実に。
こういうこと言ってはいけないのかも知れないけど、内容が重いのに作者自身はお気楽な気分で書いたんじゃないかと思ってしまう。
ハッピーエンドともバッドエンドともとれる文章は、とても嫌らしくて上手いと思うけれども。
読解力のない読者ですいません。でもオチがしてやられたって感じがして
好きです 何点つければいいか自分でもよく判らないんでフリーレスで
花映塚はまだ未プレイですが早くえーきさまにあってみたくなりましたよ。
ところでオフでもその格好なんですか・・・・私服ないんすか?
エキストラの人の心情も分かる気がします。