Childhood's end(全ての言葉はさようなら)
第十二部【汝、楽園に触れるなかれ】
「きみが、きみのバラの花をとても大切におもっているのは、きみがその花のために時間を無駄にしたからなんだよ」
[ねえだけど、儚いってなに?]
「お早うございます。美鈴様」
「おはようカーサ。どうしたの?今日は夜勤だって言ってたのに」
如雨露を傾け、小さな雨を降らす。季節は秋。そろそろ朝方は、もう一枚上に着ないと寒いかもと美鈴は考えた。
「それを代わっていただいたのです。ですから今日は、昼の間にデスクワークに専念しようかと」
「あれ、そうなんだ」
書類の仕事はあまり得意ではない美鈴は、その点にかけては彼女に頭が上がらなかったりする。そのかわりと言ってはなんだが、日中の門番の九割が美鈴の仕事だ。名前だけの門番隊長というわけではない。ちなみに夜勤は七人で一班。有事の際には、一人か二人は伝達の役割を担っている為、足自慢は最低班に一人は組み込まれている。実際、夜の襲撃者は質が悪い者も多い。
「夜に何か用事でもあるの?」
滅多に仕事を休まないし交代も言い出さない彼女なので気になった。見た感じも普通だし、気の流れも正常そうだが、調子が悪かったりするのだろうか。
「そのことなのですが、美鈴様。今晩、お時間を頂けないないでしょうか」
「うん?」
彼女のこうした慇懃な態度は、昔からだからもう慣れたが、それでもときどき妙に照れてしまう。例えば、こんなふうに頼み事をされた時とか。
「それはかまわないけど…」
「ありがとうございます。それでは、詳しい話はその時にしますので」
「わかったわ」
と、花の方に向き直ろうとして、美鈴は彼女の足音が聞こえないことに気づいた。
顔をあげる。
翡翠のように薄い色素の目が、何か物言いたげにこちらを見つめている。
「えっと、なに?」
「美鈴様は」
翡翠のように薄い色素の目が、何か物言いたげにこちらを見つめている。
「美鈴様は、花がお好きですね」
「ええ、まあね」
翡翠のように薄い色素の目が、何か物言いたげにこちらを見つめている。
「花は、儚いものです。それでも、美鈴様は、愛情を持って世話をなさっている」
「儚いって、そりゃ私たちに比べればそうだけど」
「それは、花だけでしょうか?」
「――――――――え?」
何か言いたそうな目が、何かを諦めたように笑う。
「世迷いごとでした。お忘れください」
そうして、彼女は去ってゆく。
「なんだったの?」
さっぱりわからないのに、一つだけわかったこともある。
たった今、彼女にとってとても大切な何かが、決定されたのだ。
[従者の卵]
『自分のものにしてしまったことじゃなきゃ何にもわかりゃしないよ。人間ってヤツは、今じゃもう何もわかる暇はないんだ』
スペルカードを扱えるようになる少し前、早く大人になって美鈴より強くなりたい気持ちと、半人前扱いでも一緒にいられる状況とで、心は揺れていた。その揺れのもと、まともに美鈴と話しが出来ない日々が続いていた。
実際その頃すでに私の精神年齢は、彼女とほとんど差がなかったのだ。なのに相変わらず美鈴が保護者面をするものだから、両者とも切り替えを見失っていた。
その時の私の苛立ちと言ったら酷いものだった。今以上に館には敵が多かったし、立場はただのメイドだった。安全な場所と言えば美鈴の部屋だけという毎日だったのだ。にも関わらず、何を思ったか美鈴は私と距離を置こうとしたり、かと思えば、突然てんで的外れな説教が始まる日もあった。
カーサからそれがパチュリー様の入れ知恵によるものだと教えてもらわなかったら、青さにまかせて派手な大げんかを繰り広げていたに違いないと、今でも断言できる。
それは、本当にぞっとしない想像だった。
[人間よ、汝、微笑みと涙との間の振り子よ]
「重要なのは逃げない事よ」
「はい?」
「過去でも罪でもテストでも、嫌なものほど逃げるとあとが怖いの。これ、あと数世紀は保つ真理だから」
「いや、なんの話ですか?っていうかテストって何ですか?」
呼ばれてとりあえず来てみたら、いきなりわけのわからない話をされて、美鈴はちょっと混乱していた。主に、魔女という存在そのものに。
「約束を果たそうと思ってね。あの時の質問の答えよ」
「はぁ約束ですか」
知識と日陰の少女ことパチュリー・ノーレッジは、いつになく忙しそうに走り書きを続けながらも言う。
「今から数年前に約束したでしょ?咲夜の精神状態について、何か有益な情報がわかったら教えるって」
「しましたけど、でもそれは」
「あなたは『何でもいいから、わかったらすぐにでも教えて欲しい』と言ったわ。そして、今日までその約束の破棄については一切言及していない。つまり、それはまだ続行中なのよ」
美鈴はその言葉を考えてみる。彼女が今になってその約束を果たそうしたことについて。
その間、パチュリーは手を休ませずに、何冊もの本を次々と覗いては、目当ての情報がないことに苛立ちを募らせていた。ああまた綴りを間違えたわまったくこういうのはそれこそ小悪魔向きの仕事なのにあっちはまだ終わらないのかしら。時折そんな声も聞こえる。何をそんなに焦っているのか知らないが、こんなに慌ただしくしているのは初めてではないだろうか。
「つまり」
噛み合わないものを感じながら口を開く。
「咲夜さんに何かあったんですか?」
はぁという溜め息。そこにも気づいてないのね、と呟かれる。
「あなたはあの時でもう終わったつもりだったのだろうけど、そうじゃなかったのよ。もっとも私だってそうだと思っていたわ、最近までは」
「反抗期が終わってなかったってことですか」
確かに素直な性格ではないが。
「そもそもあれは、明確には反抗期ではなかったのよ」
「…はい?」
「反抗期というもの自体が、思春期と呼ばれる年代に起きる、ある一つの精神状態にすぎないのよ。私たちはそこを読み違えたの。文字通りね」
知識を貯蔵する魔女は言う。
「多感なお年頃、と外では言うそうよ。ようするに咲夜は、ただあなたに反発していたわけではないの。この意味、わかるかしら」
「ええ…と?」
謎かけられた。
「今なら咲夜の苛立ちが、手に取るようにわかるわね。もういいわ、私の時間は無限じゃないもの。とくに、明日という時間までは」
「あした?明日なにかあるんですか?」
「ええ、あるわ。私の座標的にはビッグイベントよ。でもそれは、あなたの物語には関係のない」
「仰る意味がよくわかりません」
そうね。パチュリーはようやっと目当てのものを見つけたのか、本を一つ残して、あとの全てをどこかに消した。
「約束だから、教えてあげるわ。魔女はルールと約束は割と守るもの」
「そうなんですか?約束はともかく、魔法とかは時々反則に思えるときがありますよ」
「それは正しいものの見方ではないわね。そもそも魔法は、便利なものでも楽をする為のものでもない。いい、この際だから覚えておくといいわ」
重要なことを説明をする際、こつこつとペン先で机を叩くその仕草は、誰かに似ている。誰だったろうかと美鈴は考えた。
「魔法を使うって事は、別の法に縛られることよ」
「――――――――肝に銘じておきます」
「そうしなさい。さて、咲夜のことだけど」
結局、会話は散々寄り道をしてしまった。
「その前に、一つ聞きたいのだけれど、中国」
「美鈴です。もうあれですかパチュリー様まで魔理沙の手先なんですか」
「何も泣かなくたっていいじゃない。ああもう、今日は話がとことん進まないわね。私が訊きたいのはね、美鈴。あなたはこのままでいいのかってことなのよ」
[The Minds of Sakuya]
相変わらず咲夜の中では、たくさんの彼女たちが泣いたり怒ったり笑ったりしている。そうして一人だけ浮いた彼女は、そんな彼女たちをただ眺めているようだった。
たくさんの彼女たちが騒ぐのは、どうやら咲夜が一人でいる時が多いことに最近気づいた。
一番大人しいのは美鈴といるとき。その時は存在を忘れるほどだ。
お嬢様といるときは、静かな時もあれば通常より騒がしいときもある。
たくさんの彼女たちは今日も煩い。最近、とみに騒がしくなってきている気がする。何かに心が揺れる度に、声達はますます存在を主張し、頭の中がぐちゃぐちゃになりそうだった。なのに、見た目は変わらない、変われない。
いつも通り笑顔を貼り付けて、その日その日の仕事をこなしてゆく。
ああ、狂っているな、と思った。
[ゴーストビートⅢ]
「まっているの」
「てんしかあくまか、しにがみか。どれになるかしらないけれど」
まっているの。
「それは、何故かしら」
声は優しく訊いた。そのことが何故か怖かった。
「おとうさんは、もうひろわれてしまったの。だから、わたしにもむかえがくるの」
彼女は何かを考えているようだった。わたしはただ次の言葉を待った。
「それが、あなたの二つめの願いなら」
ぐにゃりと、空気が歪む。
「叶えてあげるわ。けれど、今のあなたは小さすぎる。だから、ほんの少しお休みなさいな。そうして目が覚めたら、一番最初に出会うものについて行くといいわ」
遠い昔に、そう言われた。
[真夜中に]
「ですから、私は何ともありませんわ、お嬢様」
「ここ最近のあなたを見ていると、とてもそうは思えないのだけれど」
レミリアが苛立たし気にカップをソーサに戻すと、その衝撃でヒビが入った。
チッと言う音は、果たしてどちらの心によるものだろう。
「本当に、最近のお前を見ていると、無理矢理にでも吸血してやりたくなるよ」
「小食は改善されたのですか?」
「頑是無い話をする」
「それは、お嬢様の方ではないですか」
三発くらいぶっ放してやろうかとレミリアは本気で思ったが、フランとの約束もあるしと何とか押さえる。
「美鈴と」
その名前の一つで、咲夜が纏う空気が、さらに険悪なものになる。
「どうせなんかあったんだろうけどね、それを仕事に持ち込むのはやめなさい」
「持ち込んでなんていません。お嬢様が話題にしたのではありませんか」
完全で瀟洒な従者だって?レミリアは目の前の彼女が、メイド長になった夜を思い出す。初めてあった夜と同様に、月が眩しい冬の夜を。
ふう、と息を吐く。
どうしても人間に固執するかな。
「夜明けも近いしね。いいわ。今回だけは賽の目が悪いもの。観客に徹してあげる。とっとと、行け」
閉まる扉の音に、思わず独りごちた。
「泣き出しそうな顔しちゃってさ。誰に遠慮してるかもわかってない癖に」
本当は、もっと言いたいことがたくさんあったけど。
「泣かれてもいないのに、なぐさめる事なんてできないわ」
そのことを、わかっているのだろうか、あの門番は。
[選択の不自由]
――――――――――――――だってフェアじゃないですよ。
紅魔館の門番隊長は、そう言って諦めたように笑った。
それは、いつかの会話の続きだった。
「人間が人外になることは出来て、妖怪が人間になることは出来ないなんて。咲夜さんにだけその選択があるのは、フェアじゃないですよ。わかりますか?その迷いを、私は決して知ることはないんです」
一瞬、あの人形遣いの言葉を考えた。
「仕方がない?本当にそう思っているの?」
「だって、人間と妖怪は」
「私が訊いているのは真理ではないの、あなたの自身の気持ちなの。一緒にいたくないの?あんなに――――――――」
一瞬、あの人形遣いの言葉を考えた。
「私には咲夜さんがわかりません。咲夜さんだってそうだと思います。そうして、そのことは心を重くするんです」
ただあの人間の少女が、笑うところを見たかっただけなのだ。一緒にいることで彼女があんな顔をするのなら、とるべき行動は一つに思えた。
一瞬、あの人形遣いの言葉を考えた。
一瞬、あの人形遣いの言葉を考えた。
二人とも、別々に。一人の妖怪の、違う状況で言った言葉を。二人はその時、思い出していた。
だからそれぞれ、半分くらいは気づいていた。相手が、自分と同じくらい迷っていることに。形容しがたい感情が、一つの馬鹿馬鹿しい選択肢を、選ばせようとしていることに。
二人は同時に気づいてた。
「わかっているようでわかってないから教えてあげるわ。これで約束は、とりあえず果たされる」
パチュリー・ノーレッジは、ひょっとしたら最後の会話になるかもしれないと、彼女を見た。珍しく本を開きもせずに、ただ真っ直ぐと視線を合わす。それが精一杯の礼儀であり、誠心誠意の示し方でああることを、つい最近教えてくれた誰かを思い出しながら。
「いろいろ言ってやりたいけれど、今回は二つにしておくわ。まず一つ。人間が泣くには悲しいだけが理由ではないということ。あの頃のあなたが咲夜の泣く気持ちが分からなかったのは、その認識の所為」
パチュリー・ノーレッジは、ひょっとしたらこれが彼女との最後の会話かもしれないと可笑しくなった。可笑しさにもいろいろ有ることを、すぐにでも付け足して教えてやりたいくらい奇妙な高揚感があった。こんな気持ちになるのは眼を合わしている所為と、その行為が彼女との会話を彷彿させるからだとわかって、今度は頭がくらくらしてきた。
馬鹿になっているんだろうなと思う。そうだ、きちんとそのことは書物に書いてあった。この感情は、いつの世も人を馬鹿にするのだ。そうしてそれは、妖怪にも効果があったわけだ。
「二つめ。あなたが思うよりもずっと、咲夜のあなたへの想いは複雑で深い。それに気づかないことはあなたの落ち度。視線に籠もる意味を読み解けない。言葉の裏に至れない。沈黙するというその行為自体が、大きなメッセージだと知りなさい。どんなに咲夜が怒ったり泣いているように見えても、それは表面だけかもしれないの。過去はこの際仕方がないわ。見るべきは未来。今度咲夜がきれたら、それから逃げないこと。心を読み違えないように、怖いからって視線を外さないことね」
一息で言い切る。言ってやった。
パチュリー・ノーレッジはかなり自分にしてはぶちまけた話し方をしたつもりだったのだが、ぶちまけられた彼女はというと、何故か笑っている。
「それはつまり、今度、思いっきり怒られろってことですか?」
「そうだけどなんか違うわ。情緒がない……なにを笑っているの?」
へえ、はあ、なるほど。と気のない台詞を何度か繰り返した後、それでも少しは何かが楽になったような顔をして、
「いえ、アリスさんと似たようなことを言うから」
とんでもないコメントを、寄越してくれた。
「はい?」
「いえいえ。なんかもう、最近なんなんですか?私、そんなに悪いことしたんでしょか?」
説教とはちょっと違いますけど。入れ替わり立ち替わり日替わりで、記念すべき今日は三日目ですよ。
彼女があんまりにも軽い調子でそういうから、パチュリーはそこでようやっと気づいた。
自分の親友がまだ彼女に、紅魔館の『 』である彼女に、彼女の身に起きかけていることを、何一つ教えていないのだということに。
自分の親友は、無謀にも咲夜の方に働きかけようとしたのだ。パチュリーがあんなにも、念入りに咲夜の精神状態について話したというのに。
レミィ、貴女には繊細さと慎重さが足らない。
数十年の友情が、少し揺らぎかけた。
「美鈴」
「はい?」
「一つ訊きたいのだけれど、あなた何で咲夜が人間のままで不満じゃないのかって質問に、あんな答え方したの?」
「お嬢様達がそう言ったんじゃないんですか?咲夜さんを眷属にしたいって」
「誰がそんなこと言ったの?」
「別に誰も言ってません。ただ昨日、フランドール様がですね」
[暗転]
あわや戦闘に突入かというところで、フランは急に思いだしたように構えをといた。
「フランドール様?」
「いけないいけない。お姉様との約束を破るところだった。それに、今の美鈴と弾幕っても意味ないし」
「…意味がない。約束?」
「今日から三日間は、何があっても弾幕も戦闘も無しって約束したの」
「大事な話ってそれですか?」
「まあそうかな。それが全部ってわけじゃないけどね」
そんなことはどうでもいいけど。フランドール・スカーレットは言う。
「問題はねえ、咲夜のことなの」
「咲夜さんが痛いって、どういうことです?あと、私が悪いって」
「美鈴はわからないんだね、咲夜のこと」
「フランドール様はわかるんですか?」
「美鈴ほどはわかんない」
「私は全然わかりませんよ」
「美鈴はわからないのとは違うと思うなぁ。美鈴はきっと、考えないから駄目なんだよ。ヒントは誰より貰ってるのに」
「ヒント、ですか」
「小悪魔はたくさん考えるんだって。パチュリーも考えるし、お姉様は…どうだろう。考えなくてもわかっている、とか言うかも。でも、わたしは考えることにしたの。それでね、今わたしとっても幸せだから、それがもっと幸せになって、それが長く続くにはどうしたらいいかなって。それでね、たくさん考えて思ったの、咲夜が人間でなくなればいいのにって。だからお姉様にそう言ったら、そうできたらいいかもねって」
[暗転]
「それだけ?」
「それだけです」
パチュリーは頭を抱えたくなった。その一連の会話から、幾つか欠点がわかったから。
一つ目は、フランの主張が、美鈴と咲夜との問題だったはずが、そのあと咲夜の寿命について本題がずれていること。
二つ目は、美鈴が考えているのとは違う心境で、レミリアはフランの言葉に同意したということに、フランと美鈴がわかっていないということ。
三つ目は、美鈴が致命的なほど、事態を把握していないということ。
四つ目は、美鈴が自分に起きている現象に、まるで自覚がないということ。
結論、目の前のこの門番は、何もわかっていないということ。
時間が足らない。パチュリー・ノーレッジの生きた中で、あまり深刻には使われなかった言葉だが、そんな日々とは今日からおさらばのようだ。
とにかく足らない。明日には、自分はまったく戦力外になるというのに。
「美鈴、もう私も知らないわ。あとは自力で頑張りなさい。これでヒントが揃うと信じていうけれど、さっきの会話と似たものを、私たちは半年前にもした。これは覚えている?」
孔雀石のような眼が、不思議そうにパチュリーを見た。
「最近、あなたよく夢をみるんじゃないかしら?自分の記憶とは思えない夢を」
孔雀石のような眼が、何かを確かめるように細まり、彼女は頷いた。
「これで最後。ここ数日間、あなたはどれくらい門番の仕事をしている?今この時間、あなたの代わりをしているのは誰?」
孔雀石のような眼が、驚いたように瞬きをして―――――――――――――――
「パチュリー様、やりすぎですよ」
崩れ落ちそうな彼女の腕を、小悪魔が掴んで支えた。
「時間がないのよ」
「だからって焦りすぎですよ。ほらもう、美鈴さんすごい汗ですよ。意識が戻ったら謝罪してくださいね」
「いやよ。そんなことしたらまた気絶するわ。意識が戻ったら、何事もなかったようにしなさい。おそらくさっきの会話も、だいぶ抜け落ちてると思うし」
「難儀ですね」
「大義なのよ」
仕方なさそうに、魔女は溜め息をつく。
「結び直せばいいだけのことよ。ほんとに、咲夜があんなにも人間に固執しなければ、話は格段にまとまりやすくなるのに」
「それも栓のない話だと言ったのは、パチュリー様の方じゃないですか。メイド長が人間でいたがるのは、魔理沙さんのそれが自分らしい生き方だと信じているものとは違うのでしょう?」
「そうね。はっきしりとしたことまでは突き止められないけれど、そんな前向きなものとは違うわ」
そうして、パチュリー・ノーレッジは手元の本を小悪魔に渡した。
「さあ、私の方の用事も、ささっと終わらせるわよ」
全ては、ハッピーエンドのために。
めでたしめでたしと笑うために。
第十三部【叶わない敵わない適わない】
あなたが耳に回したその両腕を、閉じてしまった目を、そろそろ解放して欲しいのです。
[彼女の役割]
ノックの音がする。
それよりも前に気の流れでわかっていたが。
「夜分に申し訳ありません、美鈴様」
紅魔館門番副隊長ことカーサは、言葉通り申し訳なさそうにそう言った。
「妖怪は、むしろ夜の方が礼儀にかなってるんじゃない?」
「ですが美鈴様は人間の、メイド長の時間で生活しているではありませんか」
「五年くらい付き合ってたら、すっかり習慣になっちゃってね。業務に差し障るなら、また戻すけど」
「その必要はありません」
妙にきっぱりとした声だった。
「それで、用って?」
「実は、美鈴様に提案があるのです」
そう言うと、カーサは手に持っていた包みを開けた。
これは、まだ試作品なのですが。
「本当の意味での、百薬の長を造っていただけないでしょうか」
たち上るその香りは、紛う事なき酒気だった。
「どうして?」
「美鈴様は、漢方にお詳しいですよね?その他にも、随分と多趣味でいらっしゃる」
彼女は一つ綺麗に笑ってみせると、指折りに歌うように言った。
「園芸、釣り、料理、絵、漬け物、鍛冶、彫刻、囲碁将棋、剣舞、古今東西の体術の習得、そうして造酒」
「趣味の延長程度だよ。薬ならあの竹林の薬師が一番だろうし、お酒なら神社の鬼にでも……」
「実は祝いの酒なのです」
「祝い?何の?」
「地下にある酒蔵の復活のです」
「それって、卵が先か鶏が先かってゆうか、順序が逆のような」
「日頃頑張っている皆さまに、門番隊から何かという話が先日持ち上がりまして」
「それにかこつけて、騒ぎたいのね」
孔雀石に似た眼が、楽しげに笑う。
「いいよ。そういうことなら協力するわ」
いつものように笑って引き受けた上司に、部下はほんの少しだけ緊張した様子で試作品を差し出した。
「とりあえず、一献お願いできますか」
「よろこんで」
めったな量では酔わない美鈴は、気軽に頷いた。
「…あ、れ」
異変に気がついた時には、すでに飲み始めてから一時間は経っていた。
視界がぐらぐらする。何だろう。真っ直ぐに背を伸ばしていられない。
思わず倒れそうになるのを、手をついてやり過ごす。彼女の方を見てみると、何ともなさそうに、普段通りの顔でこちらを見ていた。
まて、普段通り?
思わず立ち上がる。
「…カーサ?」
彼女は答えなかった。
その翡翠のような色素の薄い目とあったとたん、がくりと膝が崩れる。ついさっきも似たようなことがあった気がする。床にぶつかるかと思うより前に、美鈴は二本の腕に抱き寄せられた。
「思い出しましたか、美鈴様。それは酔うという感覚です。もうお気づきでしょうが、これはただの酒ではありません。アルコール分解を邪魔する薬のはいった特注品です。竹林の薬師のものですから、副作用はそれほど心配しなくても平気だそうですが、アルコールそのものが毒ですから。……少々、お辛そうですね」
「カーサ…なん…で?」
身体が上手く動かなかった。当然だ。カーサの言うとおり、酒とは一種の毒なのだから。
「そんな顔なさらないでください。これは謀反などではありません」
そう言うと、彼女は美鈴を抱き上げた。中央の机から離れて、窓の一つに方に、ベットの置いてある方へと移動する。そうして、細心の注意を払って寝かせると、苦しげに眉を寄せる美鈴の前髪を払った。その際触れた指は驚くほど冷たかった。
その冷たさに、少しだけ冷静さが戻ってくる。呼吸を整え、何とか気を練ると、丹田に力を込めて発する。
「カーサ。事と次第によっては、私はあなたを敵とし、排除しなければならない。問うが、これは如何なることだ」
「怖いことを仰いますね、今日の美鈴様は。いつもそれくらい強気でいてくださればいいのですけれど」
満足に動けないこの状況では、美鈴の言葉はカーサの脅威にはなりえないのだろう。彼女はいつものように穏やかそうな微笑を浮かべ、美鈴を安心させようとしてだろうか、そうっと美鈴の髪に触れると優しく梳いた。
「繰り返しますが、これは謀反などではありません。どうぞ怒りをお鎮めください。このような無礼を働いたことは謝罪します。事が済んだ後なら、いくらでもお叱りはうけましょう。ですが、今は――――――――――困りましたね。わかってください。貴女様にそのような眼で見られるのは、とても辛いのです」
彼女は本当に困っているようだった。
「そうですね、その要求は、私の我が儘かもしれませんね。では、美鈴様」
彼女は少し声色を固くした。
「気づいていらっしゃいますか?今の美鈴様は、とても無防備でいらっしゃいます。これなら私でも容易く命を奪うことが出来ます。ですから私の言葉に従ってください。よろしいでしょうか?」
言葉の割には、美鈴の髪を梳く手は相変わらず遠慮深いものだった。それに彼女を包む気は穏やかで、とても美鈴の生殺与奪の権を握る相手とは思えない。それはさみしいほど静かなに澄んだ、冬の朝に酷似していた。
なぜだろう。美鈴は確信してしまう。彼女はきっと。
「美鈴様」
その唇が開き、言葉を紡ぐ。
「な、に?」
もう指一本動かすのもやっと様子に、彼女こそ傷ついたように眉を寄せた。
「申し訳ありません。薬が効き過ぎてしまったようです。ですが、私は私の役目を務めさせていただきます」
役目?これは彼女の意志によるものではないのだろうか。
「ご無礼を承知で重ねて申し上げます。美鈴様、どうぞ無用な詮索はなさらないでください。全ては予定調和であり、そうして、誰も結末を知らない符合なのです」
彼女の言葉は難しかった。普段は説明上手なのに、今日に限っては全くその意図が読めなかった。しゅっと、火がともる音。それを追うように、何かの匂いが鼻をついた。
「淡梅香。私のこの力は、あまり強力ではないので」
その言葉から察するに、補助かあるいは強化の役割を担った魔具だろうか。
「普段の貴女様なら、かような呪など何ともないでしょうが」
ぎっと木の軋む音。
「三つ目のご無礼をお許しください」
美鈴の両肩のすぐ横に彼女が手をつくと、ベットはその二人分の体重に不平を漏らした。上下対称になるように、カーサは美鈴に近づく。こんな至近距離で彼女を見たのは初めてだ。
「眼を」
彼女は言った。
「眼を見てください」
彼女は、耳に直接言葉を落とし込むように囁いた。
私の眼を見ていてください。それほどお時間はとらせませんから。
それが、意識を手放す前に聞いた、彼女の最後の言葉だった。
溺れるように眠りについて、夢から覚める夢をみる。
溺れるように眠りについて、夢から覚める夢をみる。
ここではないどこか。
誰でもない私。
夢のような記憶。
それは始まりにして終わりの歌。
血の匂い。
誰かの悲鳴。
とても大切な何かをなくした記憶。
もう誰も語れなくなってしまった物語。
血のにおい。血の匂い。
とても大切な何かをなくした記憶。
『 』
あれは、誰の言葉だったのか。
とおいむかし、あなたさまはたいせつなものをなくしたのですね。
これは、誰の言葉なのだろう。
あと何気にアリパチェ派の私としては最終日の二人も気になるぜ。
>「それは、花だでしょうか?」→花だから
>肝にめんじておきます→肝にめいじて(銘じて)
誰かより分かっている。けど誰より分かっていない。
そんな美鈴は私は好きです。