Childhood's end(全ての言葉はさようなら)
In the room the women come and go.Talking of Michelangelo.
【狭間の章】
[BGN~あるいは終わりの一日前~]
本に埋もれて生きてきた魔女は、時が満ちてゆくのを肌で感じていた。
あんなに捕らえるのに苦労していた彼女の魔力が、風のようにこちらへと向かってくるのがわかる。
それは、青と金が絡み合う、まぶしい朝の空のようで。
それは、碧と金が絡み合う、きらめく昼の川のようで。
それは、蒼と金が絡み合う、かがやく宵の月のようで。
実に、彼女に相応しい。
空気にとける、光だった。
それは、けして太陽にはなれない。
そんなさみしい、さみしいひかり。
やがて始まるその瞬間に、魔女は一人覚悟を決める。
本が抜き取られていたのは三日前。
聡明な彼女なら、きっとそれぐらいで解き明かすだろうと予測していた。
「冒険の時間ね、アリス・マーガトロイド」
あなたはこれが、自分の意志だと信じているんでしょうけど。
私だって、これは自分の意志だと信じている。
机の上に置いてあった瓶をとった。中の液体が少女の心のように揺れている。何とも形容しがたい色に濁るそれを、パチュリーは不安と共に一息であおった。力を持ったそれが喉を流れ、食道を通り、胃におちた。かっと、瞬間に熱くなる感覚。そして、そこから波紋のように広がってゆく魔力。
全てが収まる頃には、彼女はすぐそこまで来ていた。
一時的に力を高めてくれる薬の効果はおよそ十五分。
それが『向こう』のどれくらいにあたるのかはわからないけれど。
「そうね、お互い頑張りましょう」
戦友というものがいるなら、それはこんな気分なのかもしれない。
まだ答えは見つけてないけど。
これが正しいなんてわかりはしないけど。
けれど人でも妖怪でも、自分のためだけに戦っては幸せを掴めない。
ねえ、そうでしょう? 紅、美鈴
数分後、知識と日陰の少女ことパチュリー・ノーレッジの精神は、七色の人形遣いことアリス・マーガトロイドと共に、この世界の座標から外れた。
それは、また別の物語。
[泣いたりなんて、しないけど ――――あるいは終わりの四日前――――]
遠く雨音が聞こえる。
激しく落ちては散ってゆく。
まるで、咲夜の心そのものだった。
見た目は何でもないふりをして、心はそれに囚われて、身体は丁寧にお茶を淹れている。
心と身体が乖離する。
夢遊病のように心は浮遊する。
手術台でエーテル麻酔をかけられた患者のように。
すべてはまるで絵空事。
「メイド長」
珍しいことに、厨房にいた一人が声をかけてきた。休憩中の咲夜に声をかけるのは、いつのまにか暗黙のタブーとなっていたのに。
「なに?」
心はバラバラ。けれども頬の筋肉が勝手に微笑を浮かびあがらせる。それは咲夜の中の、浮くようにバランスをとっている彼女の命令だった。
咲夜の中には何人もの彼女がいて、それぞれ泣いたり怒ったり笑ったりしている。
ただ、浮いている彼女だけは、そんな彼女たちなど関係なく正常に受け答えを続けていくのだ。
「先ほど金髪の、そうです、前に人形をつれていた」
「アリス・マーガトロイド」
言わんとしていることを悟る。
そう言えば、このメイドは数日前にここで働き始めたばかりだいうことを思い出した。
「彼女の名前よ。覚えておいて」
「その、よろしいのですか?」
「彼女は実質パチュリー様のお客なの。見ても見ないふりをしてちょうだい」
気配の薄い彼女が見つかるなんて珍しい。しかも、今日は魔理沙が来ているというのに。二人がここで会うのは初めてではないだろうか。魔法使いたちの会話というのも気になったが、今までの流れだ。どうせアリスはすぐに帰ってしまうだろう。
最後の一滴、ゴールデンドロップが落ちる。ティーカップの時を止めると、咲夜は厨房を出た。
空間操作で長くなった廊下を歩きながら、咲夜は先ほど門前で美鈴が言った言葉を、頭の中で何度も何度も反復していた。何も疑問に思わない顔。何も不安のない目。いつも通りの声で、日常のように会話をする彼女。全てが咲夜の心と噛み合わない。そのことが、咲夜の中の一人を打ちのめしている。半年くらい前からうすうすと感じていたが、もう認めるしかない。
以前よりずっと、美鈴と咲夜の時間感覚がずれている。
二人のどちらかの感覚が狂っているという意味ではない。
一時間がどれくらいなのかは、美鈴も咲夜も同じくらいの正確さで―――――若干咲夜に分があるが―――――きちんと身体のリズムで計って行動出来る。そうではなく問題は、その一時間を短く感じるのか長く感じるのか、その差が半年くらい前からどんどん開いていく一方なのだ。
咲夜は何も変わっていない。変化したのは美鈴の方だ。以前なら、まだ咲夜が今より小さかった頃の彼女なら、三日間会わなくて平気なはずがなかった。数時間おきに咲夜の動向を気にしていたし、朝夕の挨拶も必ずしていた。もっと咲夜が大きくなって、仕事が忙しくて偶にしか会えなくなった頃は、会う度に咲夜の体調を気にしていた。咲夜にとっても、それが普通で日常で当たり前だった。
同じ感覚で生きていたはずなのだ。
いったい何が起きているのか。その答えの半分はすでに咲夜の手にはあった。かつて咲夜は、ちょうどその反対の現象を、つまり元は違った感覚が、だんだん同じになってゆく過程を目のあたりにしていた。それは、咲夜がこの屋敷に来た頃から、二人が同じ部屋に居住し、同じものを食べ、同じように一日を過ごすようになってからの日々のことで。つまり原因は生活の乖離なのだろう。でも、それなら何故今頃になって?メイド長になったあの日から、部屋が別々になったあの時から、もう数年経っているというのに、何故今頃?
ようやっと咲夜のいない生活に慣れたというならば、逆に半年で今の状態は速すぎる。
だから、つまり、それ以外に何か、もっと決定的な要素が別に――――――――――――――――
「咲夜?」
混乱を受け持つ彼女の自己主張が一段と激しくなった時、ふいに青く透明な、空気のような声が入ってきた。それは知っている妖怪の声だったが、記憶していたものより、なにかが抜け落ちているような気がしてならなかった。ちゃんと聞いたのはひさびさだが、ここまで純度の高いものだったろうか。
「あなたから話しかけてくるなんて珍しいわね、アリス」
それでも振り返った先にいる彼女は、記憶と寸分違わない。アリス・マーガトロイド、七色の人形遣い。咲夜とは異なる時の流れの住人であり、咲夜が知る限り、もっとも妖怪らしくない妖怪である。
彼女は、雨の日だというのにまるで濡れていなかった。
「今お帰り?」
「ええ。魔理沙が来たから」
その言い方に若干違和感を覚える。
「いいの?用事があったからこの雨の中を来たんでしょ?」
「ああ、やっぱり外は雨なのね」
「え」
まさか。
「私は昨日からここにいたから。まいったわね、濡れて帰るしかないか」
何でもなさそうに、とんでもないことを言う。
「昨日からって、パチュリー様は」
「気づいてないんじゃないかしら。おそらく、私がこうして帰ろうとしていることも」
まさか。
そんな馬鹿なことがあるはずがない。いくら何でも、就寝時には小悪魔が念入りに見回りをしている。一晩気づかれないなんてことは、あのスキマでもない限りありえないはずだ。
さすがに一瞬、美鈴のことが思考から抜け落ちた。純粋な、驚きによって。
けれど本当は、その後アリスが呟いた言葉こそ、もっとも重要なものだったのだ。
残念ながら、咲夜はそれを聞き逃がしたのだけれど。
「そういうわけだから咲夜、何か浸透性の低い包みを貸してくれないかしら」
「それにくるまって飛ぶの?」
「人形を濡らしたくないの。お願いできる?」
アリスは肩掛け型の鞄を軽く撫でる。彼女の服装に見合ったそれは、確かに防水性を期待できるものではなかった。
「ああ、それぐらいなら。ちょっとこれを持っていて」
アリスが紅茶の載ったお盆を受け取り、瞬きをしたその次の瞬間にはもう、咲夜は一枚の布を持って立っていた。相変わらず、魔法使いの魔法よりらしいそれに、アリスは苦笑を隠せないようだった。
「うん、これなら大丈夫そう。手間をかけさせて悪かったわね」
「客をもてなすのはメイドの務めよ」
「私は侵入者でしょ?」
「そうね。そういうことになっていたかしら」
今度は苦笑ではなく、本当に面白そうな笑み。
「いいえ。本当に侵入者なのよ、本当にね」
二人の会話は、そこで終わった。
去ってゆく背に、ふと違和感を覚えた。
くだんの人形は、あの鞄では収まらないことはないが、少し狭いのではないだろうか。そもそもいつもなら、門を出るまで人形は、彼女の傍で浮遊しているのに。
[Oh, do not ask, What is it?]
部屋のなかでは女たちが行ったり来たりして、ミケランジェロの話しをしている。
部屋に向かう途中、美鈴はアリスに会った。彼女の日常を考えると、「見つけた」という言い方が正しいかもしれない。
門前以外で彼女と出会うことは無かったので、この場合挨拶をすべきかどうかと悩んでいると、向こうから声をかけてきた。
「こんにちは門番さん。今日は人によく出会うわ。そういう日なのかしら」
「こんにちはアリス・マーガトロイドさん。いま、そっちから来ました?」
「ええ。帰るところよ」
「帰るって、ああ…」
美鈴はそういえばと思い出した。昨日の午後は用事があって、カーサ―――――副隊長のことだが―――――に門番を代わってもらったんだった。昨日アリスが来たのは早朝。ということは、
「今までずっといたんですか?」
「ええ、まあね」
「パチュリー様がよく許しましたね」
「許可なんて取らないわ。侵入者だもの」
「侵入者なら、私はお相手をしなければならないのですが」
「出来れば見逃してくれない?」
「いいですよ」
あっさりと返す。
「あら、咲夜といい、意外と忠誠心が薄いのね、あなたたち」
「咲夜さんにも会ったんですね」
「なんかおかしかったわよ、彼女。そうは見えないけど」
「見えないのに?」
「モノを見るのは得意なの。じゃなくて、私が声をかけるまで気づかないんだもの」
「ということは、さっきのは気のせいじゃないのかな…」
ほんの一瞬、苛烈なほど乱れた気を感じた、あれは。
「なにかわけあり?」
考え込むように眉を寄せた美鈴に、無関心なのかそうでないのか、明日の天気の話題のように、軽い調子でアリスは訊いた。
「う~ん、私にもよくわかんないんですけどね。というか、昔から全然わからなんですよね、咲夜さんは」
「彼女とは長いの?」
「子どもの頃から知ってますよ。実は咲夜さんがお嬢様につくより前は、一緒の部屋だったんですよ」
「それは初耳ね。そう、そんなあなたでも咲夜の不機嫌の理由まではわからないのね」
「あ、やっぱり怒ってるんですか」
原因はわからないけれど。
人形遣いは、ふと真面目な顔になった。
「なんとなくそんな気がしただけ。案外、あなたがわからないことに怒っていたのかもしれないわね」
「人間の気持ちなんてわかりませんよぅ。昨日悩んでいたことは、今日は大したことじゃなくて、あれが好きだと言っていたのに、気がつけばもう違ってたりして。目を離したら大きくなってるし、言ってることもすぐ変わるし。何より、気分屋じゃないですか。かといって、お嬢様の気紛れとも違って、何かルールがあるようなのに、そのルール自体がすぐ変わるというか。もう、何を考えてるのかわかりませんよ」
言いながら自分で驚いた。こんなことを考えていたつもりはなかった。ただあの紅茶がもう美味しくなくなって、彼女があっという間に大きくなって、そうして、彼女が出て行ってから部屋のベットが一つになって、食材には気を使う必要もなくなって、他にもいろいろと、気づかないくらい自分の生活が彼女によって決まっていたことに気づいて――――――――――――――。
紅茶は、きっときっかけだったんだろうと思う。妖怪と人間の差を、何だか見せつけられた気がした。
たぶん、いろいろと気が抜けたのだ。
それでなんだか、たぶん、いろいろと、ぐじゃぐじゃになって、しまったのだ。
「美鈴」
アリスの声色が、さっきよりもずっと硬質に響く。
耳慣れないそれに、意識が引き戻された。
そういえば、名前を呼ばれたのは初めてだと気づく。
「あ、はい?」
真っ直ぐと、目を合わされる。
「一度しか言わないわ」
七色の人形遣いであるはずの少女は言った。
「自分の気持ちもわからなくなったりするのに、他人のことなんてわかりっこないわ。当然でしょ?当たり前のことを責められるなんて、それこそ不条理だわ」
けれど、と。アリス・マーガトロイドであるはずの少女は言った。
「わからないのはいいの。仕方がないことだから。悪いのは、わかろうとしなかった時よ。こういうときは、怒られなさい」
力強く、それは言い切った。
その瞬間、美鈴はアリスの瞳に、少女のイメージから、遠く外れた何かを見た気がした。
それは、静かなのに激しく剣呑で、触れる先から何かを壊し、何かを創り出す水のようで。
それは、歪なのに完全で、不誠実なほど誠実で、不確実なのに自信に満ちた、何もない空気のようで。
まるで何かに似ていて、けれど何にも似ていない。
それは、何だったのだろう。
それがそれがあなたの作品だと。
という歌のフレーズを思い出しました。
妖怪と人間の時間軸はこうも残酷な差があるのでしょうか……
それでも、アリスのくれたヒントには痺れました。
回を重ねるごとに引き込まれていく自分が怖い……
女性の姿をした少女は誰よりも知っていない。
どちらでもない彼女は何も知らない。
今回は大人なアリスを見せていただきました。
お気に召したら光栄です。
どうかもうしばらくの間、彼女たちの物語にお付き合いください。
あまり他人と係わらないアリスが、あえて他人に伝える言葉はとても重く感じますね。
しかしむずかしい
今まで見た二次創作のアリスで一番好きかも