――――吸血鬼の棲む城、紅魔館。
その大きな景観に、負けず劣らず内部も巨大である。
・・・否、「巨大過ぎる」と訂正した方が良かろうか。
外と中をじっくり比較すると、勘が良ければ或る構造の矛盾に気づくだろう。
柱の長さから始まり、廊下の幅、部屋の数、窓の量に至るまで。
それら全てを組み合わせてみれば、どう思考を巡らせようとも外界から見たままの形になる事は有り得ない。
一体これはどういう事か?
しかし、ことこの城の住人達から言えば、これらの現象は不思議でも何でも無い事であった。
嘗て、城の一郭に居を構える魔法使いはこう語った。
「――――お城には、空間を操るのが好きな人が居るのよ・・・」
「空間操作」
それが、この城を見た目以上に巨大にさせているカラクリであった。
何やらとてつもないく壮大な響きを感じさせるが、更にはこの能力が或る一個人の力による物なのだから驚きである。
・・・噂をすれば、なんとやらか。
長い長い廊下、血の様に赤い絨毯を敷き詰めた床を歩く一つの影。
髪の色は目の醒める様な、銀。
頭に被っているのは白色のカチューシャ、身体に纏うのは豪華なフリルのついたエプロン。
それらには醜悪な皺、染み一つたりとて存在し無い、完全無欠の着こなし具合。
そしてそれは他でもない、彼女が何者であるかの証明ともなる。
紅魔館メイド長・・・「十六夜 咲夜」その人であった。
住居者の殆どが妖怪や悪魔のフルコースである紅魔館において、彼女は唯一人の珍しい純正人間である。
・・・が、その内に秘めたる力は普通の人間から遠く懸け離れていた。
其の一つが、先程特筆した空間操作であり、それ以外にも能力があるのだが・・・ここは割愛とさせて頂こう。
未だ若い身空でありつつメイド軍団の長という大きな位に治まった彼女であるが、人間と妖怪の格差を感じさせぬ見事な働きぶりで、今や彼女は紅魔館中のメイド達の憧れを一身に受けている。
美麗、完全、完璧、瀟洒。
一言で言い表そうにも、上の様な単語を幾ら並べても足りない程だ。
だがしかし、今の彼女はそのようなイメージとはかなり・・・いや、大分懸け離れていた。
普段はたおやかな微笑みを倍増させる美しい瞳。
それが今や目尻を限界以上に釣り上げさせており、その様は何処か、獲物を狙う猛禽類を彷彿とさせる。
「――――全く、あの娘ったらどうしていつも・・・」
口で悪態を吐きつつ、歩みもそれに呼応してか若干早くなっていた。
だがそれでも長い廊下には無駄な物音一つ流れない。
唯々、無音の静寂が辺りを包むだけである。
どれだけ不満を感じようとも瀟洒たる事を信条とする、如何にも彼女らしい仕草と言えよう。
主の心情が第一であり、自らは二の次。十六夜 咲夜は根っからのメイド気質なのだ。
そして、本日5回目となる溜息を漏らしてから・・・目的の部屋へと辿り着いた。
ワザとらしく咳払いをし、ドアをノックする。
「美鈴? 私です、ここを開けなさい」
美鈴とは紅魔館で門番をしている「紅 美鈴」の事である。
何時もは掃除や主の身の回りの世話の為に手が離せない咲夜の代わりに手伝いとして美鈴の手を借りたりしているのだが。
今日は聊か勝手が違っていた。
遡るは、先日。
――――チュドォォォォォォォォン!!
「なっ・・・何事!?」
夕食の為、厨房仕事に従事していた咲夜の耳を劈く大音量と大振動。
ありったけの銀ナイフを装備して、駆けつけた咲夜が目にしたのは・・・
――――台風一過もかくやというくらいに、本がごっそり消失している無数の本棚と。
――――黒焦げになった中国人と。
――――青筋を立つつも、喘息の発作で何も言えずに陸に上がった魚の酔うに喘ぐ司書と、必死になって薬を飲ませようとする子悪魔。
更には・・・
「はっはっはー! この本は借りてくぜー! ちゃんと返しておくから心配するな、私が忘れた頃に。 by博麗 霊夢」
等と、どう考えても白黒魔法使いの仕業と見られる落書き。
こうまで描けば皆まで言わずとも解るであろう。
咲夜は美鈴に説教をしに来たのだ。無論、必要とあらば多少の折檻も厭わない。
命を捨てろとまでは言わないが、せめて1ボムくらいは減らすようにしろと常々言っているのに、あれである。
今までどんな侵入者も主の間へと行き着く前に追い返していた実績を誇る鉄壁の陣が破られたのは、霧の事変から数えてこれで5度目だ。1度や2度は目こぼしをしてもこれ以上は黙っている訳には行かない。
「・・・美鈴? 美鈴、居るんでしょう? ここを開けなさい、話があります!」
次第に扉を叩くリズムが荒くなる。
おかしい。今まではノック一回で直ぐ扉を開けたというのに。
予め部屋で待ってるようにと念を押していたから外出とは考えられない。
「・・・?」
疑念に駆られるがまま、ドアノブに手を掛け・・・回した。
“ガチャリ”
開いた。何故か鍵はかかっていなかった。
「・・・入るわよ、美鈴」
一応断りを言ってから、部屋を覗く咲夜。
矢張り美鈴の姿は何処にも居ない。
他と比べて大した畳を持たぬ室内だし、調度品もたかが知れてるので身を隠しているという事は無さそうだ。
念の為にクローゼットを開いてはみたが、変えのチャイナ服数点以外はさしておかしい部分は見当たらない。
「あの娘・・・一体何処に行ったのよ・・・ん?」
目線を下ろすと、ベッドの上に何やら紙切れが一枚。
そこには震え霞んだ字で、こう書かれていた。
「――――サガサナイデ、クダサイ」
“グシャリ!”
咲夜の掌で、長方形の紙切れがボール状のそれへと変化した。
――――逃げやがった、あのチャイナ!
“逃す物ですか”とばかりに踵を返そうとした所で・・・突然、「はた」と彼女の足が止まる。
無論、頭では今すぐ脱走者を捕らえろという命令を絶えず送っていた。
しかし・・・だがしかしである。
咲夜の目線は開け放たれたクローゼット・・・正しくはその中に掛けてある美鈴のチャイナ服へと注がれていた。
「・・・・・・」
何故か無言で数秒ほど固まり・・・
「ちょ、ちょっとだけ・・・いいわよね?」
誰に対しての言い訳なのか。咲夜は恐る恐るチャイナ服へと手を伸ばし・・・それを、掴んだ。
掴んで、また数秒ほどの苦悩を見せてから己が身体に宛がった。
「丈は・・・合ってるみたいね・・・」
今までは、何処となく気恥ずかしい思いがあったし何よりメイド長という立場上の柵もあった。
・・・しかし、今やこの部屋は誰も居ない。
主である美鈴は暫く帰って来ないだろう。
ならば・・・ならばと咲夜は長い間心の隅に留めてあった感情を吐露してもいいのではないか?という結論を弾き出す。
誰の目にも触れないという事は、何も起こらなかったという事とほぼ同義。
――――ゴクリ。
唾を飲み込むという行為が、これ程煩く聴こえるのは初めての事だった。
「わ、私は・・・何を・・・」
頭を軽く振って、あわやという所で現実へと戻る咲夜。
今日ここに来た目的は全く別だった筈。
だのに馬鹿馬鹿しい誘惑に少しでも傾倒いてしまうとは、言語道断では無いか。
しかし、内に潜んだもう一人の彼女は自分自身にこう囁く。
――――たかが美鈴一人、直ぐに見つけられるわよ。
――――それよりも、問題は今なのよ。今なら誰にも見つからずにこの服を試着できるわ。
「で・・・でも・・・」
――――折角のチャンスを逃したら、この先一生無いかもしれないじゃない。
――――後でいいわ、じゃいの。今やれるかなのよ。
「・・・・・・」
瞳に戸惑いの色が浮かんでは消える。
メイド長としての責務、その楔が、彼女の最後の一押しを躊躇わせていた。
だが、内面の自分は畳み掛けるのを止めようとはしない。
――――ぐずぐずしてたら人が来るかもしれないじゃない。
――――偶にはちっぽけなプライドを捨てていい時だってあるわ。
――――さあ、どうするの?十六夜 咲夜?怖いの?怖いのなら尻尾を丸めて逃げ出しなさい! 違うというのなら証明してみせなさい、さあ! ハリー! ハリー! ハリー! ハリー! ハリー! ハリー!!
「~~~~~~~~~~~~ッッッ!!!」
己が奥歯を噛み砕かん程の音を出し蹲ってしまう咲夜。
が、次の瞬間恐ろしき速度で顔を挙げ、眼の奥に「何か」を決意した光を湛えて。
――――シュルリ!
・・・胸リボンを解いた。寝る時以外は外さないと決めていたカチューシャもベッドに畳む。
――――少女 着替中。
実質の時間は3分にも満たないが、この時ばかりは何十時間もの重圧を感じた。
そして彼女は目を開き・・・鏡に映った自分の姿を見て若干息を飲んでしまう。
普段の彼女からは想像も出来ないような服装で、彼女は佇んでいる。
緑を強調した布と、太ももまで伸びたスリット。
一寸でも激しく動けば下着が見えてしまう恐れもあり、ついつい。
“こんな服で良く蹴り技なんて放てるものだ”と、他人事みたいに呟いてしまう。
髪も、何時ものカチューシャを置いて、これまたクローゼットにあったツインリボンで纏めて見た。
・・・唯、胸の部分が若干緩い気がするが・・・不毛な怒りを引き起こしてしまいそうなので考えるのを止めた。
暫くの間鏡の前で立ち尽くしていたが、やがて思い立った様にクルリとその場で1回転。
余ったスリットが風を切ってふわりと舞い、主にも滅多に見せない穏やかな表情を自分自身へと向けた。
皆はメイド服が一番自分に似合うと口を揃えて言うのだが、私とて一人の女性なのだから、様々な服を着てみたいという俗物的思考はある。
普段はメイド長という役職の蓋で締め切ってしまっている想い。
けど、今は・・・今だけは・・・その蓋を開けて中身を楽しんでしまいたい。
それから暫くの間、咲夜は時が経つのも忘れて鏡の前で色々なポーズを取っていた。
詳しい事は彼女の名誉毀損になるので割愛して・・・確実に、咲夜は浮かれていた。
それは――――
――――ガチャッ。
自分以外の来訪者が来るかもしれないという可能性を次元の狭間へと吹っ飛ばしてしまっていた程である。
「・・・え?」
凡そ、瀟洒を自負している者とは思えない間の抜けた声。
更に、次の瞬間聴こえて来たのは・・・
「咲夜?私も美鈴に話があるのだけれど・・・」
気だるそうな声。自分の良く知った声。失念する筈も無い。
紅魔館の一郭に位置する書庫、「ヴワル図書館」の司書件、主のご友人である「パチュリー・ノーレッジ」様・・・
それはいい。その様な事実関係は今はどうでもいいのだ。
問題は、そう問題は唯一つ。
今の自分のこの服装。見るも鮮やかなチャイナ服であるという事。
――――思考が、凍りつく。
こんな姿を見たら何と仰られるだろう?笑うだろうか?確実に笑うであろう?
それだけならいい、百歩譲って我慢するとしよう。
が、パチュリー様の立場が「主のご友人」である事が致命的なのだ。
賭けてもいい、自分がこんな服を着ていたという事実を“余す事無く”話してしまう、と。
主に・・・知られる・・・お嬢様に・・・レミリアお嬢様に知られてしまう・・・
――――何とか しないと。
凍りついた思考を無理矢理にフル回転させる。
途端火花が散って伝達系に異常をきたしてしまうがどうでもいい事だった。
今、この場を、どうにかして切り抜けられる方法を。
――――時を止めて移動・・・駄目だ、扉はパチュリー様の背後にある。とても誤魔化しとおす事は出来ない。
――――なら窓から・・・却下だ。事故防止の為の鉄格子が仇になっている。
他に出口は無いの・・・?
どんなに無茶でもいい、誤魔化しとおせるなら無様と言われようと構わない。
何か策は無いのか・・・何か・・・何か――――!!
「咲夜・・・?」
パチュリーが、眼前に広がる光景を直視・・・しようとして。
――――突如、世界が回転した。
「はあ・・・ッ?」
意識と感覚が追い付かない。
辛うじて認識出来た事といったら、背中が床に当たっていた。 そんなとこだけだった。
漸くに、一体どのような魔法を使われたのか分析しようとして。
ナニか、目の前が真っ黒に染まっている事に気づいた。 しかも。
変だ。 これ、何で。 迫って。 あれ?
「――――ッッッ、駄目押しいいいいいいいいいいいいいいいっ!!」
狭い室内に響き渡る。切羽詰った、何者かの咆哮。
そして迫り来る「黒いモノ」が、足の裏だと判明する寸前には、既にパチュリーの意識はブラックアウトしていた・・・。
・・・それから。
あの後、謎の侵入者から「襲撃された」パチュリーは、悠に数ヶ月もの間、自室のベッドに固まり続ける事となってしまった。
――――ちなみに、美鈴はどうなったかというと・・・
大規模な山狩りを3度繰り返した後に発見された。
・・・とだけ「メイド閻魔帳」なるモノに書かれてあった。
その大きな景観に、負けず劣らず内部も巨大である。
・・・否、「巨大過ぎる」と訂正した方が良かろうか。
外と中をじっくり比較すると、勘が良ければ或る構造の矛盾に気づくだろう。
柱の長さから始まり、廊下の幅、部屋の数、窓の量に至るまで。
それら全てを組み合わせてみれば、どう思考を巡らせようとも外界から見たままの形になる事は有り得ない。
一体これはどういう事か?
しかし、ことこの城の住人達から言えば、これらの現象は不思議でも何でも無い事であった。
嘗て、城の一郭に居を構える魔法使いはこう語った。
「――――お城には、空間を操るのが好きな人が居るのよ・・・」
「空間操作」
それが、この城を見た目以上に巨大にさせているカラクリであった。
何やらとてつもないく壮大な響きを感じさせるが、更にはこの能力が或る一個人の力による物なのだから驚きである。
・・・噂をすれば、なんとやらか。
長い長い廊下、血の様に赤い絨毯を敷き詰めた床を歩く一つの影。
髪の色は目の醒める様な、銀。
頭に被っているのは白色のカチューシャ、身体に纏うのは豪華なフリルのついたエプロン。
それらには醜悪な皺、染み一つたりとて存在し無い、完全無欠の着こなし具合。
そしてそれは他でもない、彼女が何者であるかの証明ともなる。
紅魔館メイド長・・・「十六夜 咲夜」その人であった。
住居者の殆どが妖怪や悪魔のフルコースである紅魔館において、彼女は唯一人の珍しい純正人間である。
・・・が、その内に秘めたる力は普通の人間から遠く懸け離れていた。
其の一つが、先程特筆した空間操作であり、それ以外にも能力があるのだが・・・ここは割愛とさせて頂こう。
未だ若い身空でありつつメイド軍団の長という大きな位に治まった彼女であるが、人間と妖怪の格差を感じさせぬ見事な働きぶりで、今や彼女は紅魔館中のメイド達の憧れを一身に受けている。
美麗、完全、完璧、瀟洒。
一言で言い表そうにも、上の様な単語を幾ら並べても足りない程だ。
だがしかし、今の彼女はそのようなイメージとはかなり・・・いや、大分懸け離れていた。
普段はたおやかな微笑みを倍増させる美しい瞳。
それが今や目尻を限界以上に釣り上げさせており、その様は何処か、獲物を狙う猛禽類を彷彿とさせる。
「――――全く、あの娘ったらどうしていつも・・・」
口で悪態を吐きつつ、歩みもそれに呼応してか若干早くなっていた。
だがそれでも長い廊下には無駄な物音一つ流れない。
唯々、無音の静寂が辺りを包むだけである。
どれだけ不満を感じようとも瀟洒たる事を信条とする、如何にも彼女らしい仕草と言えよう。
主の心情が第一であり、自らは二の次。十六夜 咲夜は根っからのメイド気質なのだ。
そして、本日5回目となる溜息を漏らしてから・・・目的の部屋へと辿り着いた。
ワザとらしく咳払いをし、ドアをノックする。
「美鈴? 私です、ここを開けなさい」
美鈴とは紅魔館で門番をしている「紅 美鈴」の事である。
何時もは掃除や主の身の回りの世話の為に手が離せない咲夜の代わりに手伝いとして美鈴の手を借りたりしているのだが。
今日は聊か勝手が違っていた。
遡るは、先日。
――――チュドォォォォォォォォン!!
「なっ・・・何事!?」
夕食の為、厨房仕事に従事していた咲夜の耳を劈く大音量と大振動。
ありったけの銀ナイフを装備して、駆けつけた咲夜が目にしたのは・・・
――――台風一過もかくやというくらいに、本がごっそり消失している無数の本棚と。
――――黒焦げになった中国人と。
――――青筋を立つつも、喘息の発作で何も言えずに陸に上がった魚の酔うに喘ぐ司書と、必死になって薬を飲ませようとする子悪魔。
更には・・・
「はっはっはー! この本は借りてくぜー! ちゃんと返しておくから心配するな、私が忘れた頃に。 by博麗 霊夢」
等と、どう考えても白黒魔法使いの仕業と見られる落書き。
こうまで描けば皆まで言わずとも解るであろう。
咲夜は美鈴に説教をしに来たのだ。無論、必要とあらば多少の折檻も厭わない。
命を捨てろとまでは言わないが、せめて1ボムくらいは減らすようにしろと常々言っているのに、あれである。
今までどんな侵入者も主の間へと行き着く前に追い返していた実績を誇る鉄壁の陣が破られたのは、霧の事変から数えてこれで5度目だ。1度や2度は目こぼしをしてもこれ以上は黙っている訳には行かない。
「・・・美鈴? 美鈴、居るんでしょう? ここを開けなさい、話があります!」
次第に扉を叩くリズムが荒くなる。
おかしい。今まではノック一回で直ぐ扉を開けたというのに。
予め部屋で待ってるようにと念を押していたから外出とは考えられない。
「・・・?」
疑念に駆られるがまま、ドアノブに手を掛け・・・回した。
“ガチャリ”
開いた。何故か鍵はかかっていなかった。
「・・・入るわよ、美鈴」
一応断りを言ってから、部屋を覗く咲夜。
矢張り美鈴の姿は何処にも居ない。
他と比べて大した畳を持たぬ室内だし、調度品もたかが知れてるので身を隠しているという事は無さそうだ。
念の為にクローゼットを開いてはみたが、変えのチャイナ服数点以外はさしておかしい部分は見当たらない。
「あの娘・・・一体何処に行ったのよ・・・ん?」
目線を下ろすと、ベッドの上に何やら紙切れが一枚。
そこには震え霞んだ字で、こう書かれていた。
「――――サガサナイデ、クダサイ」
“グシャリ!”
咲夜の掌で、長方形の紙切れがボール状のそれへと変化した。
――――逃げやがった、あのチャイナ!
“逃す物ですか”とばかりに踵を返そうとした所で・・・突然、「はた」と彼女の足が止まる。
無論、頭では今すぐ脱走者を捕らえろという命令を絶えず送っていた。
しかし・・・だがしかしである。
咲夜の目線は開け放たれたクローゼット・・・正しくはその中に掛けてある美鈴のチャイナ服へと注がれていた。
「・・・・・・」
何故か無言で数秒ほど固まり・・・
「ちょ、ちょっとだけ・・・いいわよね?」
誰に対しての言い訳なのか。咲夜は恐る恐るチャイナ服へと手を伸ばし・・・それを、掴んだ。
掴んで、また数秒ほどの苦悩を見せてから己が身体に宛がった。
「丈は・・・合ってるみたいね・・・」
今までは、何処となく気恥ずかしい思いがあったし何よりメイド長という立場上の柵もあった。
・・・しかし、今やこの部屋は誰も居ない。
主である美鈴は暫く帰って来ないだろう。
ならば・・・ならばと咲夜は長い間心の隅に留めてあった感情を吐露してもいいのではないか?という結論を弾き出す。
誰の目にも触れないという事は、何も起こらなかったという事とほぼ同義。
――――ゴクリ。
唾を飲み込むという行為が、これ程煩く聴こえるのは初めての事だった。
「わ、私は・・・何を・・・」
頭を軽く振って、あわやという所で現実へと戻る咲夜。
今日ここに来た目的は全く別だった筈。
だのに馬鹿馬鹿しい誘惑に少しでも傾倒いてしまうとは、言語道断では無いか。
しかし、内に潜んだもう一人の彼女は自分自身にこう囁く。
――――たかが美鈴一人、直ぐに見つけられるわよ。
――――それよりも、問題は今なのよ。今なら誰にも見つからずにこの服を試着できるわ。
「で・・・でも・・・」
――――折角のチャンスを逃したら、この先一生無いかもしれないじゃない。
――――後でいいわ、じゃいの。今やれるかなのよ。
「・・・・・・」
瞳に戸惑いの色が浮かんでは消える。
メイド長としての責務、その楔が、彼女の最後の一押しを躊躇わせていた。
だが、内面の自分は畳み掛けるのを止めようとはしない。
――――ぐずぐずしてたら人が来るかもしれないじゃない。
――――偶にはちっぽけなプライドを捨てていい時だってあるわ。
――――さあ、どうするの?十六夜 咲夜?怖いの?怖いのなら尻尾を丸めて逃げ出しなさい! 違うというのなら証明してみせなさい、さあ! ハリー! ハリー! ハリー! ハリー! ハリー! ハリー!!
「~~~~~~~~~~~~ッッッ!!!」
己が奥歯を噛み砕かん程の音を出し蹲ってしまう咲夜。
が、次の瞬間恐ろしき速度で顔を挙げ、眼の奥に「何か」を決意した光を湛えて。
――――シュルリ!
・・・胸リボンを解いた。寝る時以外は外さないと決めていたカチューシャもベッドに畳む。
――――少女 着替中。
実質の時間は3分にも満たないが、この時ばかりは何十時間もの重圧を感じた。
そして彼女は目を開き・・・鏡に映った自分の姿を見て若干息を飲んでしまう。
普段の彼女からは想像も出来ないような服装で、彼女は佇んでいる。
緑を強調した布と、太ももまで伸びたスリット。
一寸でも激しく動けば下着が見えてしまう恐れもあり、ついつい。
“こんな服で良く蹴り技なんて放てるものだ”と、他人事みたいに呟いてしまう。
髪も、何時ものカチューシャを置いて、これまたクローゼットにあったツインリボンで纏めて見た。
・・・唯、胸の部分が若干緩い気がするが・・・不毛な怒りを引き起こしてしまいそうなので考えるのを止めた。
暫くの間鏡の前で立ち尽くしていたが、やがて思い立った様にクルリとその場で1回転。
余ったスリットが風を切ってふわりと舞い、主にも滅多に見せない穏やかな表情を自分自身へと向けた。
皆はメイド服が一番自分に似合うと口を揃えて言うのだが、私とて一人の女性なのだから、様々な服を着てみたいという俗物的思考はある。
普段はメイド長という役職の蓋で締め切ってしまっている想い。
けど、今は・・・今だけは・・・その蓋を開けて中身を楽しんでしまいたい。
それから暫くの間、咲夜は時が経つのも忘れて鏡の前で色々なポーズを取っていた。
詳しい事は彼女の名誉毀損になるので割愛して・・・確実に、咲夜は浮かれていた。
それは――――
――――ガチャッ。
自分以外の来訪者が来るかもしれないという可能性を次元の狭間へと吹っ飛ばしてしまっていた程である。
「・・・え?」
凡そ、瀟洒を自負している者とは思えない間の抜けた声。
更に、次の瞬間聴こえて来たのは・・・
「咲夜?私も美鈴に話があるのだけれど・・・」
気だるそうな声。自分の良く知った声。失念する筈も無い。
紅魔館の一郭に位置する書庫、「ヴワル図書館」の司書件、主のご友人である「パチュリー・ノーレッジ」様・・・
それはいい。その様な事実関係は今はどうでもいいのだ。
問題は、そう問題は唯一つ。
今の自分のこの服装。見るも鮮やかなチャイナ服であるという事。
――――思考が、凍りつく。
こんな姿を見たら何と仰られるだろう?笑うだろうか?確実に笑うであろう?
それだけならいい、百歩譲って我慢するとしよう。
が、パチュリー様の立場が「主のご友人」である事が致命的なのだ。
賭けてもいい、自分がこんな服を着ていたという事実を“余す事無く”話してしまう、と。
主に・・・知られる・・・お嬢様に・・・レミリアお嬢様に知られてしまう・・・
――――何とか しないと。
凍りついた思考を無理矢理にフル回転させる。
途端火花が散って伝達系に異常をきたしてしまうがどうでもいい事だった。
今、この場を、どうにかして切り抜けられる方法を。
――――時を止めて移動・・・駄目だ、扉はパチュリー様の背後にある。とても誤魔化しとおす事は出来ない。
――――なら窓から・・・却下だ。事故防止の為の鉄格子が仇になっている。
他に出口は無いの・・・?
どんなに無茶でもいい、誤魔化しとおせるなら無様と言われようと構わない。
何か策は無いのか・・・何か・・・何か――――!!
「咲夜・・・?」
パチュリーが、眼前に広がる光景を直視・・・しようとして。
――――突如、世界が回転した。
「はあ・・・ッ?」
意識と感覚が追い付かない。
辛うじて認識出来た事といったら、背中が床に当たっていた。 そんなとこだけだった。
漸くに、一体どのような魔法を使われたのか分析しようとして。
ナニか、目の前が真っ黒に染まっている事に気づいた。 しかも。
変だ。 これ、何で。 迫って。 あれ?
「――――ッッッ、駄目押しいいいいいいいいいいいいいいいっ!!」
狭い室内に響き渡る。切羽詰った、何者かの咆哮。
そして迫り来る「黒いモノ」が、足の裏だと判明する寸前には、既にパチュリーの意識はブラックアウトしていた・・・。
・・・それから。
あの後、謎の侵入者から「襲撃された」パチュリーは、悠に数ヶ月もの間、自室のベッドに固まり続ける事となってしまった。
――――ちなみに、美鈴はどうなったかというと・・・
大規模な山狩りを3度繰り返した後に発見された。
・・・とだけ「メイド閻魔帳」なるモノに書かれてあった。
地の文でもう少し抑揚や複線を作っていけば、もっと面白いギャグSSになるかと思います。
と、気付いたことを少し。
「大きな位に治まった」→この場合の「おさまる」は「納まる」が適当かと。
「台風一過もかくや」→台風一過とは、台風が過ぎ去った後の晴天のことをいう言葉で、何かが吹き飛ばされたように無くなった様子を表わす言葉ではありません。
「尻尾を丸めて」→これも日本語としては、「尻尾を巻いて」が正しいかと。
と、気付いたことを三点ほど。神経質なことばかりをつらつらと申し訳ありません。
今後も頑張って下さい。
でもこれからに期待します。