生きる者全てを拒絶するかの様に風と砂が吹き荒び、無機質な乾いた大気だけが満ち溢れている、荒れ果てた大地。
その男は、一心不乱に前を見据えながら、荒野を前へ前へと歩いていた。
色濃い髭に伸び過ぎた長髪、お世辞にも健康的とは言えない顔色。身分という言葉からは程遠い、そんな男だった。
「……問おう。貴方は何者だ」
ひび割れ朽ち果て、しかし内には多大なる輝きを秘めた、金剛石を思わせる声。薄く口を開いた、男の物だった。
「私は何者でも無い。ただ此処に在り其処に在り、何処にも在り誰にも有る。それが私」
前を見据えた男の先。そこに在ったそれが、男の声に答えていた。
闇。
それ以外の何物でも無い、暗く暗く沈み浮かぶ闇。掴み取れる程に濃厚で、荒れ吹雪く砂風に蹂躙されない程度にはあやふやな、闇。
男の視線の先で、そんな闇が宙を漂っていた。
「……問おう。貴方は闇か」
「誰かが私と同じ様な者を闇と呼ぶのならば、私は闇以外の何物でも無いのだろう。私の様な物で闇以外の呼び方があるのならば、私は別の何かなのかもしれない」
「ならば、貴方は闇だ」
「そうか、私は闇なのか」
闇の声に、微かに高揚が滲む。
名は真であり偽である。名を誇り生きる糧を得る事もあれば、名を誇り足枷を強いる事もある。名を忌み羽を得る事もあれば、名を忌み我を失う事もある。
二面性を担う物、それが名だ。
少なくとも、目の前の闇は――今し方、闇と名付けられた闇は――名を真とし、是と受けた様である。
「闇が私で、私は闇。闇の一部であり全てでもある私は、苗床であり安息であり胎内でもある……そんな私は、神か? 或いは、悪魔か? 生まれて間も無い私は、世にとっては是か? 或いは、世にとっては非か?」
「貴方が望み定める事。故に、私では決められない。分からない」
蠢く闇。見据える男。荒れ狂う砂嵐。
口無き口で、闇は蠢き苦悶する。
「何故だ。貴方なら分かるであろう、決めるであろう。神と悪魔、貴方ならば容易い筈だ」
「神も悪魔も、鼻も目も口もある。全てが無い貴方は、闇より他の何者にもなる事は出来ない。闇として此処に在り其処に在り、何処にも在り誰にも有らねばならない……私がそうと決め付けてしまえば、貴方は神にも悪魔にも、是にも非にもなれない」
「嫌だ。私は闇以上の物が欲しい。闇すら無かった私は得る事を知った。今し方、他ならぬ貴方によって知り得た。貴方は私に智慧の果実を授けた。苗床、安息、胎内、そして楽園……そう在るべき場所から追放する資格を、貴方は私に無為に手渡した」
生きる糧と足枷。智慧と戯言。まさに、名とは二面性。
「……そうか、私の所為か」
「貴方の所為だ、名付け親」
男は瞑目し、懐から一枚の布を取り出す。
「貴方は闇であり闇では無い。問おう、闇ならぬ闇よ。貴方は何を望む」
「鼻と目と口が欲しい。手も足も髪も欲しい。貴方とは違う、だが貴方の様な物が欲しい」
歓喜に打ち震える、闇ならぬ闇。蠢き漂うそれへと、男は布を縛り付ける。
形無き闇を縛る事は叶わない。だが名を得た闇を縛る事は容易い。何故ならそれは既に、別の物へと成り代わっているからだ。
「これより先は、貴方が望み定める事。楽園へは、もう戻れない」
男は歩き始める。乾いた大地に横たわり、徐々に薄れる闇を置き去りにして。
「……問おう。貴方は聖者か、名付け親よ」
闇が――否、闇とは程遠い存在へと変じ掛けるそれが、薄れ往く意識の最中で問う。
「それは貴方が決める事だ、産まれたばかりの私の子よ」
小さな呟きは、瞬く間に為す術も無く、砂嵐に掻き消されてしまった。
◆◆◆
高々と、天に昇る影。
三人の男が、十字型に組まれた杭に両手首と両足首を釘で打ち付けられ、磔にされている。
「――っ」
幾人かの兵士が何かを言い合っているのを、金髪の少女はゆったりと浮遊しながら、黙って見つめていた。
宙に浮くその姿は明らかに人目を引く筈なのだが、眼下の人間達に気付いた様子は見られない。闇に隠れれば、人間にはまず見えないからだ。
「――、――」
一人の兵士が槍を持ち、中央の男へと歩み寄る。
色濃い髭の生えた、磔られている男に、反応の兆しは無い。俯き加減で瞑目する顔は、眠りを思わせる程に安らかだった。
それを見た兵士は、感動も萎縮もせず淡々と頭上の男を見上げ、淀み無く槍を構えなおし。
「あ」
脇腹を突き刺した。
鮮やかな赤黒い液体が宙を舞い、槍を持つ兵士へと僅かに降りかかる。
「――っ、――っ」
液体が目に入ったのか、兵士は慌てた様に顔を押さえる。少女の視線は動かない。
槍による刺し傷から赤が流れ、それでも瞑目したまま微動だにしない、磔にされた男。その安らか過ぎる顔から、微塵も動いていなかった。
「……」
必要以上にあどけなく、必要以上に表情に乏しい、顔。
何も言わずに少女は、色濃い髭、伸び放題の長髪、槍による脇腹の刺し傷。それらを、順を追ってゆっくりと見つめていく。
そうして一巡した後に、最後は安らか過ぎるその顔へと、再び紅い瞳を向けた。
「……聖者は」
軽やかで虚ろな声が空へと溶け、金髪を微かに揺らす少女は手を水平に広げ始める。
高々と宙に浮く影は磔にされた男のそれと、驚く程によく似ていた、かもしれない。
頭のリボンが、風に合わせて軽く靡く。
「聖者は、十字架に磔られました」
陶磁器の様に、白く滑らかな頬。
流れ落ちた一筋の輝きは、幻と見紛う程に美しかった。
ぬぬ、つまりルーミアの起源?
自分には難解だ・・・・
闇が体をもらうくだりは知識を得て楽園を追放されるアダムとイヴに準えてるような…。
だとしたら、彼女が何を思ってあのポーズをとっているのか考えると面白いですね。
しかしということは、イ<裁かれました>はロ<裁かれました>ったのか!?
ごめんなさい。
>煌庫氏
つまりは、そういう事です。
>名前が無い程度の能力氏(2006-07-19 16:07:24)
つまりは、そんな感じなのです。
>MIM.E氏
寧ろ闇がロ<裁かれました>という事で。
最後に、読んで下さった全ての方々に感謝の言葉を。
本当に本当に、ありがとうございました。