Coolier - 新生・東方創想話

白狐懐古録 前ノ巻

2006/07/14 11:16:11
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 しゃわしゃわと、そこら彼処に乱立する杉の大木からは、四方八方から盛大な、蝉の大合唱。
 取り立てて急峻というわけではないが、さりとてなだらかとは言い難い斜度の微妙な獣道にあって、視界を満たすのは蝉と杉。岩と苔。水と羊歯。
 遙か上空に向かってそびえる大木を伝っていくと、皆でして競争に打ち勝ったと、またその勝利に酔いしれることも良しとせず、今も伸び続ける濃緑色の茂み。それが槍となり球となって、ひいては森と成して一塊に介在している。
 山中、東国下野国。
 山中といえど、風が抜けぬ森の中、更には朝の水を吐き出す昼下がりの大地は、そこにいるだけで茹だりそうなくらいに蒸し暑い。かさばるからといって、水を持たねば一刻を待たずして路傍の砂と成り果てる事だろう。
 ましてや、怪奇の談として謡われるそのご当地といえば、何を況や。誰がどこで朽ち果て風化しても、なんの不思議もない。
 そのような謂われのある土地をわざわざ自ら訪ねるのは、よほどの好事家かそれとも身投げの志願者か。黄泉路へと続きかねない奥の細道に、二つの人影が軽やかに踊っていた。
 斜面を交互に鋭角に、切れ込むように折れ曲がって走る道はお世辞にも歩きやすいとは言い難く、水気を帯びた赤土や華麗に脚を絡める木の根が並の歩行すら困難にする大地の上にあって、影は疾風のように木々の隙間を縫っていく。

「やれやれ、老骨には堪えるわい。嬢や、一足で送ってはくれんのか」

 白一色の法衣に黒一色の袈裟。錫杖を持つ手には皺が多く、それは菅笠の下に隠れる顔についても同様だ。だが、山野を駆け回るその身のこなしは、それらから推定できる年齢から大きくかけ余りにも離れている。
 だがその割に、絞り出されたようなしわがれた声は随分と哀れみを誘った。町中でこの声を出せば、布施の類はまるで問題なかろう。

「その二本の脚は何の為に付いているの? 脚を動かさないと途端に呆けるわよ」

 しかし、後ろの市女笠から返ってくる声はさらりと冷たい。伏せた顔から表情は伺えないが、纏う空気は何処までも自然でさりげなく、声音は落ち着いて何処までも朗々と澄み渡り、それがこの存在を一層際だたせ、かつ、その相違を見事に隠蔽していた。

「やれやれ、年寄りを労らんと神罰が下るぞ」
「それをいうと逆に私を労らなければならなくなるのだけど、その辺りは宜しいかしら?」
「おお、いかんいかん。藪蛇じゃわい」

 そう、後方を跳ねるように走る壺装束は女性だ。なだらかな曲線を描く豊満な体にやや不釣り合いの小袖が力不足と嘆くが、彼女が帯びる空気はそれすらも容易く呑み込んで収める。
 仏僧に女性。この平生ならぬ世にしては些か不用心な顔ぶれではあるが、着衣の乱れなく野を駆ける様はまるで疾駆する獣である。
 足音もなく、重苦しい空気を薙ぎ払うかのように奔走していた二つの影。その陽炎のような動きが、峠の頂点に差し掛かった所でぴたりと止まった。
 それまで続いていた森の影が、山腹を境としてぴたりと日向に変わる。余りにもくっきりとしすぎた陰陽の境。俄に襲いかかった容赦ない日射しに、二人は揃って眼を細める。
 鬱蒼と茂る森がその峠を境として突如、終わりを告げていた。例外なく立ち枯れた先に続くはずの木々、至る所がひび割れていた不毛の大地。不意に開けた視界は何処までも砂色一色で、そよ風に混じる粉のような粒子が喉にからんで何とも不快だった。
 立ち止まる二人の足下にぼとんと、上空から何かが落ちてきた。派手な音をたてたそいつは数度大きく痙攣した後、ぴくりとも動かなくなる。
 孔雀にも近い鳥形の妖怪。大柄で一抱えもあるそいつが何の前触れもなく上空から振ってきて、目の前の境で息吹を手放して絶命した。

「ふむ、

 もののふの 矢並つくろふ 小手の上に
   霰たばしる 那須の篠原

 余りそういう風情のある所ではないわねぇ」

 眼前に広がるのは、まさしく死の荒野だった。一面の平野でありながら遮るものが何もない為、蝉の季節とは思えないほどに風通しが良い。
 荒廃。一言でいえば、そんな言葉が相応しいか。何処までも砂色一色で埋め尽くされた凹凸に乏しい地形は余りに異様で、湿気の多さに反して皮膚から発する熱を身が内から搾り取るような感覚が、見る者の心胆を心底、寒からしめた。

「やれるかの? 嬢や」

 落ちた妖怪に合掌しながら声を掛ける僧に一瞥もすることなく、示し合わせたかのように女も瞑目し、掌を胸の前で合わせると小声で口早に何かを唱えだした。
 一線を画した死地と生地の狭間にあるのは、間違いなく死線なのだろう。その死線を前に僧が経を読み、女がまた祝詞をあげる。
 朗々たる経、蕭々たる風。彩りに乏しい荒野に、その二つだけが寂しく満ちる。
 どれくらい時が経ったか、陽の角度がじわりと上り詰めたある一時を境に女があわせていた手を解き複雑な印を結んで目を開くと、枯れ果てた大地から人一人が歩けるほどの幅を伴って青々とした下草が見る見るうちに植生し、一本の道を作り上げるに至った。
 一瞬のうちに多い繁った下草の道は如何にも砂中から生え出た感を醸し出す。植生が進むにつれてさらさらと流れ落ちる砂とは対称的に、艶やかな茎の合間に絡め取られた点々と見える白い物体。
 そのまま肉を付ければ今にも動き出しそうなくらい白いそれは、砂に沈んだからこそその白さを保っているのだろう。腐食が進む土中であれば、こうはいかない。
 ひょいと、つまりは付着物が削げ落ちた人骨やら何やらまで絡め取ったその絨毯の上を取り立てて気にする様子も見せず、僧が飛び乗り平然と歩いていく。

「さてさて、ご対面かの」

 先程、経を上げたからしばらくは良いとでもいうのだろうか。その飄々とした態度は余りに軽い。苦笑しながら女が後に続く。
 黄色く色彩に乏しい荒野に延々と続く一本の緑色絨毯。その上をとつとつと歩く二つの影以外に動くものは何もなく、唯一、ひび割れた大地を彩る下草も、歩みの速度に比例して二人が脚を離した後方から舞い散るように散っていく。
 進むほどに殺風景な荒野は輪をかけて殺風景となり、立ち枯れた樹どころか枯れ草や岩までもが視界から姿を消し、遂には砂漠のような一面の黄土色となる。空から見れば、一色の布地に細々とのたくる緑の線が見て取れることだろう。
 咽喉に絡む細かい砂を孕んだ風を浴びながらひたすら歩くこと数刻、緑の絨毯はひとつの大きな岩にたどり着いた。
 やや不揃いの縦長なその岩は、確かに頂上を見れば首が痛くなるくらいに巨大なものであったが、それでも山岳などのあるべきところにあれば別段、気に留めることもなかろう。
 が、この見渡す限りの一面が砂まみれである不毛なこの地では、そこに存在していること自体が不自然なことこの上なかった。
 砂上の楼閣に唯一、歪んだ輪郭を孕ませる一本の石柱はその身から陽炎のような妖気を発し、形取られた髑髏は近寄るものを無作為に貪ろうと大口を開ける。
 二人に向けて迫る口は肉ではなく魂を喰らう。呑み込まれれば抵抗は許されないだろう。

「禅師、任せたわよ」
「ほいさ」

 大口を開いた髑髏が猛然と迫り、二人を呑み込むまであと数瞬と肉薄した所で、僧が錫杖を構えた。
 まるで鎌首を上げた蛇が噛みつくように迫ってきた強大な妖気が、錫杖に触れた端から霧散していく。
 霧散するのは髑髏だけではなかった。捩るように渦巻いた妖気が、光を屈折させるほどに密度の高い邪気が、僧の読経一言一句に反応して薄らいでいく。
 そしてかつんと軽い音。錫杖の石突きで小突いた岩が、乾いた音を立てて縦にひび割れると、脆くまるで周囲を取り囲む砂の如く、崩れて散った。
 どさっと唯一度、重たい音が地を撫でると、砂煙が舞った後にしんと再び静寂が戻る。
 そこを覗き込むのは、やはり僧と女の二人のみ。

「おや、九尾と聞いたが、二本しかないのう」
「延命の為に妖力をゆっくりと漸減させた結果でしょうね」
「さて、仕上げにかかるかの。すぐに成仏させ――」
「気が変わったわ、和尚」
「うん?」
「この子を、もらうわ」

 それは昔のお話。遠い遠い昔のお話。

「……人に仇成すつもりか……?」

 決して誰の口からも語られることのない、知られざる昔のお伽噺。






 永い永い微睡みの中にあった。
 御することの出来ぬ妖気が絡み付き渦を巻いて何処までも狂おしく駆けていく。
 喰らえども喰らえども癒せぬ飢えは尽きるところなく牙を剥き、無尽蔵に分け隔てなく万物を喰らい尽くしてゆく。
 地も、風も、水も、人も、分け隔てなく平等に。
 後に残るものは何もない。豊饒な大地は無情な砂と化し、水は根から枯れ果て、飛ぶ鳥すら尽きる空は無機質に遠い。
 その中にただ一人残される自分。いつまでもいつまでも、妖気が続く限り近寄るものを喰らい尽くす。
 意識の底に蠢く髑髏が口を開いたところで、私はその場から跳ね起きた。
 荒く上下する肩を抱きしめ、粘り着く口内の唾液を苦心の末に呑み込む。
 全身から熱を発する身体が、心から水を欲していた。
 私は本能のみで目前に差し出された湯飲みをひっつかむと、口を支点として一気に上下をひっくり返す。
 まさしく末期の水。これほどまでに何かを欲したのはいつぶりだろうか。両手で包むように持った湯飲みを下げると、胸の奥底からほぅと一息つく。
 生じた余裕に張りつめた気を緩めると、全身が汗を被って何とも気色の悪い感触。張り付いた襦袢を抓んで引きはがすと、ずっしりと湿って重い。
 悪い夢だ。何か、ずっと悪い夢を見ていたような気がする。思い出そうとして身の芯から来た震えに一度、大きく身を揺らす。
 意識を逸らそうと鈍い頭痛を堪えて頭を振ると、見慣れない膝が一対、揃えられて自分の枕元に並んでいた。
 つと視線を上げていくと、緋の帯が巻かれた細い腰に、車百合の刺繍が成された白い麻が包む豊かな胸元に辿り着いた。
 眉をひそめて更に顎を上げていく。些か黄を帯びた、しかし圧倒的に白味が強い瀬戸のような肌が覗く細い首筋、そこから垣間見える波打った蜂蜜のような艶濃い金糸。
 いよいよ懐疑心を伴って、体を起こしたまま顔を水平に保つ。
 にこにこと、まるで精巧な彫り物のように美しい、満面の笑みを湛えた裏のない顔。
 ……誰だ?
 他にもいくつか考えなければならないことはあったのだが、結局はというかまず真っ先に解決しなければならないそれが大勢を占めた。

「お加減は如何?」

 にこにこ。
 その笑顔にまるで邪気はないが、さりとて見覚えのない人間が枕元に座っていようものなら、それは警戒して然るべきだろう。
 ……枕元?
 改めてみると、何もかもが疑問だということに気づく。
 今まで私が伏せていた固い煎餅のような布団。そもそもが、何故に私は布団の上にいる? 私は東国で伏せっていたはずだ。
 見回してみると、三畳しかない部屋から竈のある土間が覗く。生活道具は少なく、私からすれば犬小屋のような益体のない作り。何故に、この様な粗末な場所にいる? 私は東国に潜んでいたはずだ。
 そして、女。今居るはずのこの国ではまず見かけない髪の色。細められた瞳は黄昏に波打つ海面のように、黄金の輝きを湛えている。顔立ちこそ大和のそれに近いが、全体的な容姿は飛び抜けて異様だった。が、過度の自己主張はせずに風景の一角として収まっている点が何とも不思議でもあった。
 風景。背後に開けた障子戸からこぢんまりとした殺風景な庭と、その奥にそびえる鬱蒼とした森が垣間見える。耳を澄ますと、しんと静まりかえった空気の中に小鳥の囀りや枝から立つ梢のざわめき。随分と優しい音の中に人の喧噪がまるでないところから鑑みると、人里からは距離を置いた場所にいるのだろう。

「悪く……、ない」

 ここが何処なのか。これが一体、どのような状況なのか。何一つとして理解は出来なかったが、混乱を来すということは不思議となかった。自体が余りに突飛だったからか、まだ何も飲み込めていないだけなのか。
 ただ、少なくとも今すぐに殺されるということはないという確証はあった。堪えようもない脱力感と、床から体を起こしただけで抜け落ちるような妖気の虚脱感。殺そうと思えば、起きるのを待たずに容易く出来たはずだ。
 頭の中で慎重に言葉を選ぶ。理解できないことが多いだけに、一から筋だって質問していかなければならない。
 まず正すべきは、すっぽりと空洞を晒す前の記憶。
 草をかき分ける音。逃げても逃げても飽くことなく追い続ける軍勢。雨のように飛び交う矢。絡みつく追跡の術。
 雨に濡れる、私の身体。
 身の芯から湧き出た怖じ気に一度、身を大きく震わせる。
 早くなる鼓動。荒くなる呼吸。全身から再び、汗が滝のように吹き出す。
 落ち着け。私は今こうして生きているではないか。

「……お前が、私を助けてくれたのか」

 喘ぐ口を苦労して押さえ込むと、少しばかり戸惑うような光を眼に漂わせた後、女はゆっくりと首肯した。

「どうかしら? 少しばかり誤謬がある気も致しますが」

 忘れようにも身体は覚えている。骨を貫いて魂まで切り裂くようなあの痛みを。歯を食いしばっても悲鳴が漏れ出るあの苦しみを。
 この場所がどこかは分からないが、私がこうして生きているということはつまり、この女が瀕死の私を連れて帰って看病したということになる。
 それもあの、万からなる包囲をかいくぐってである。私が為せなかったことを、この女はいとも簡単もやってのけたのだ。
 その困難たるや、如何なるものか。其処で意識を手放した私だからこそ、分かる。

「本当にありがとう。心から礼を言わせてもらう」

 素直に深々と頭を下げると、女は困ったように細く薄い眉を寄せた。

「困ってしまいますね。心からお礼を言われますと、本当に困ってしまいます」

 はて、何か困らせるようなことでもいっただろうか。
 そう怪訝に思って今度は私が眉根を寄せたところに、女が軽く印を結んでみせる。
 途端に、私を目眩が襲った。それも並の目眩ではない。天地がひっくり返るような、意識を素手で鷲掴みされて振り回されるような、そんな恐慌が私を襲った。
 再び、私の間隔が平行を取り戻したのはどれだけの時が流れた後だったか。例えようのない恐怖が心にべっとりと染みつくには充分な時間だった。
 獣のように荒ぶる呼吸。圧迫される胸元を震える手で握りしめる。

「あなたの命は、正確には砕け散りました」

 命が漏れ出でる。私はその感覚に戦き、うっすらと涙の浮かんだ目をこすることもせず、懸命に震える奥歯を噛み締める。

「そのままであれば、この世に不浄の霊として漂うばかりだったあなたの魂は今、私がこうして繋ぎ合わせることで辛うじて保たれています」
「……つまり……?」
「生き長らえたいのであれば、月並みですが私の命に従って頂きます」
「ふざけるな! 誰がそんな――」

 激情に任せ女を切り裂こうと爪を振り上げた途端、掌からこぼれ落ちる砂のように私の命がさらさらと流れ出る。敷き布団に落ちる額。強烈な脱力感と体温の低下。自分が死に直行しているという恐怖。

「この通り、生存を望むのならあなたに選択肢はありません」

 滝のような冷や汗を拭いもせず、自由のきかない身体で懸命に首を巡らせ、低い位置から辛うじて精一杯の怨嗟を込めて女を睨め付ける。
 視線の先には、先程までの百合のような笑顔は何処にしまったのか、まるで能面のような女が真っ平らな表情でこちらを見下ろしていた。

「……いつか……、必ず殺してやるからな……!」
「楽しみにしているわ」

 目一杯の呪詛の言葉も、すげなく流され、そこで、女の顔に感情がふいと戻った。

「私は八雲紫。あなたのお名前は?」
「貴様に名乗る名などない!」
「……じゃあ、適当に呼んで良いという事かしら?」

 何処をどう捻ればそうなるというのだ。
 手足が動けば今すぐにでもこいつを八つ裂きにしてやるのだが、生憎と今は動悸を抑えることで精一杯だった。命を握られているせいか妖力も旨く纏まらず、だから布団の上からせめて睨め付けてやる。

「……尻尾はそのままきつね色だから面白くないわね。……綺麗な白い肌に、見惚れるくらいに煌びやかな長い白金の御髪」

 ああでもないこうでもないと、先程の告白の方がよほど衝撃的だろうに、遙かに深刻な表情で思い悩む曰く八雲紫。一目で分かる懊悩と黙考の末、ぽむと胸元で合わせられる両の掌。

「決めました。あなたのことは今からしろきつねさんと呼びます」

 そのまんまじゃないか。






 高地と呼ぶには些か誇張があるが、かといって平地あるわけではない程よい高所の紫の家から少し下ると、些かにだらかとなった扇状の肥沃な土地に棚田が築いてある。
 斜面に沿って段々に切り開かれた大地。一枚一枚の広さはさほどでもないが、下に立って見上げれば首が痛くなるほどの高低差を持つ田は、不規則な畦の曲線や不揃いな高さも相まってなかなかに壮観だった。
 一面が蓮華の薄紅で埋め尽くされた田に鍬を入れ土を起こし、等分に割った三の内の一が全て水気を含んだ土色に変わると、上手にある水路を開いてせせらぐ水を誘い込む。段々の田は受けた清水を高きから低きへ、ゆっくりと伝播させていき、その際に水面を打つ水音が例えようもなく耳に優しい。
 やがて満々に水を湛えると、桜の季節を経てめっきり強くなった日差しを受け瞬くように光る何枚も重なった水田に、中腰の紫が一本一本、青々とした苗を活けていく。
 何でも、全ての田に苗を活けず三等分にしたうちの一区画しか作付けしないのは、昨年に収穫を終えた田を休ませるためだとか。下草の生えた一見、荒れ放題の区画が休耕田、その上から筵をかぶせて雑草を抑えた区画が準備田、そして今現在、鍬鍬で掘り起こした区画が耕作田ということになるそうな。作付けは米五割に蕎麦三割、麦二割。季節が暮れて水田の収穫が終わると、今度はそこに芋や大根、人参などを植えるのだとか。紫は訊いてもいないことを嬉々として逐一、丁寧に語った。
 高価で希少な人参を一体、何処から入手したのかとか、粟稗の類なく全てが白米とは何と贅沢なことかとか、思うことは多々あれど、中腰で数えることもうんざりする枚数の田にひたすら苗をおろす紫の姿を見ていると、最終的にはご苦労なことだという半ば呆れたような感想しか残らなかった。
 私はといえば、最上段の水田の脇に良く糊のきいた傘で日陰を取りながら、その様子をのんびり眺めているだけである。
 勿論、手伝うつもりなどさらさら無い。私がここにいる理由は紫の傍を離れると死ぬかもしれないという、冗談では済まされない脅しに屈したからだ。
 紫もそれを心得ているのか、生活を共にするようになってからは生活習慣こそ迎合を余儀なくされたものの、行儀や好き嫌いを除いて、労務の一切を強いられたことはない。
 その私の脇には、やや色褪せた掌に収まるほどの飯行李が二つに小振りの曲げ物が二つ、それに一節で切り分けられた栓付きの竹筒が二本。
 細い柳で編まれた四角い飯行李には、早朝に炊いた窯の米を塩漬けの紫蘇の葉や佃煮、山菜などを包み込んだおむすびが収められており、木曽檜を曲げて創られた曲げ物の中には、だし巻き卵や芋の煮付けなどの各種おかず類が、竹筒には家の脇にある井戸から汲んだ水が封入されている。
 それにしても、見ているだけで汗が浮かぶこの暑さには思わず閉口させられる。気温に左右されるか弱い作りではないにしろ、高い湿度はじわじわと私の身体を浸食し、強い日射しが地面にしみこんだ露草から更に水分を充満させる。高所は良く避暑に用いられる所と思っていたが、これは都とどう違うというのだ。枯葉色にくすんだ竹筒の栓を抜き一口呷ると、何とも生ぬるい感触が喉元を通り過ぎていく。
 見上げると、抜けるような五月晴れに点々とした黒い燕が戯れながら離れては交わってと、伸びやかに羽を伸ばしていた。緩やかに弧を描いて時折、急降下を見せるのは鳶か鷹か。近くの森からは少しつっかえ調子の鶯が懸命に存在を誇示し、そこに混じるのは雉や四十雀、目白や椋、雲雀に鶺鴒。
 ぽとりと時折、傘を叩く椿。遠景を飾る新緑の最中に垣間見える石楠花や山桜。茂みを探せば昼の主役、蕨や薇がまだどこかにあるだろう。
 茹だる暑さを別にすれば、何とものどかな限りだ。行儀悪く下草の上に寝そべると、顔のすぐ横に菫の花がこんにちは。鼻孔をくすぐる青い香りと共に、鳥の協奏と風の音が心地よく耳朶を愛撫する。
 ああ……、良い気分だな……。
 二本だけになってしまった自慢の尻尾を枕に、大きく全身を伸び。そのまま、意識を騒がしい静寂の中に落とす。
 このまま、眠ってしまったらどれだけ気持ちいいだろうなぁ……。
 目を閉じても、音は閉じない。身体はなくならない。
 光、風、音、香。全身をあらゆる自然が慰撫していく。
 …………。
 …………。
 …………。
 …………。

「あら、起こしてしまいました?」

 じりじりと顔を灼く南天の陽光が、薄く閉じた目蓋をこじ開けた。強い逆光の真ん中にぼんやりと人影が見える。
 天から降ってわいた声に慌てて体を起こすと、いつの間にかほっかむりを解いた紫が隣に腰を掛けて、長い金髪を波立てながらおむすびを頬張っていた。

「よく寝ていたわよ」

 にっこり。
 まただ。またこの笑顔だ。
 全く以て居心地の悪い笑顔。こちらの命を質草に取っておきながら、どうしてこの様にぬけぬけと心の底から笑顔を見せられるのか。
 それとも何か。こいつは私が思うより数倍も上手で厚顔で、実はこの笑顔の下に表現するのもおぞましいほどにどす黒い感情が覆い隠されていたりするのだろうか。こちらの意など全く介さぬとでもいうのだろうか。
 正直な話、充分にあり得ると考えながら、差し出された私の飯行李と曲げ物をひったくる。全く、何とも食事のまずくなる笑顔だが、食物に罪はない。
 実の所、日がな一日中、暇づくしでこれぐらいしか楽しめるものがない。そのまま地面に叩き付けてやりたい衝動を抑えながら、ひったくった昼食はしっかりと摂る。一度、派手に実演して、正座を強要された上で朝から日暮れまでこっぴどく絞られたこととは余り関係ない。
 手早く飯行李と曲げ物の蓋を開けると早速、手づかみでおむすびを一口、大口で頬張った。赤紫の紫蘇の大葉でくるまれたおむすびは辛く酸っぱいが、私としては一粒に味が濃縮されている梅干しよりもこちらの方が好みだった。
 至福。宮中で労役に就いていた頃には正直、考えられないような食事だ。白米もそうなのだが、米に限らず紫が手がける料理は全てが絶品だ。蕎麦、うどん、厚手の麺麭など各種穀物はいうに及ばず、おかず各種に至るまで全てが神がかった味を醸し出す。
 しっとりとした紫蘇の葉の食感と、その下に隠れるホロリとした白米の歯ごたえは多分に唾液を誘う。一口一口をしっかりと噛み締めて、私は神髄のおむすびを味わった。
 くすくすくすくす。
 囀るような微笑の声。つられて見ると、山菜おむすびに食指を動かした紫が口元を抑えながら少女のように笑っていた

「あなた、本当に美味しそうにご飯を食べてくれますね」

 しまった、顔に出ていたか。決まり悪く、むすくれながら腰まで届く自慢の髪を撫でる。
 だが、構えていた追求はない。
 普段なら飛んでくるはずの揶揄がないことで、逆に不安を抱いた私はちらりと紫を盗み見る。
 紫の目は、私を映してはいなかった。あれだけの労務に励みながらも薄く汗が滲んだのみの額を布巾で拭きながら、紫は山野の合間をぼんやりと眺めている。
 蕾を膨らませる山藤の花。野生の杜鵑花。山梔子にはまだ早く、沈丁花が散った中、遅咲きの木蓮が微かに香りを漂わせている。
 ちょろちょろと、水が畝を流れる音。さらさらと、木の葉が擦れる音。天候が崩れるのか、微かに谷が胎動している。

「綺麗ねぇ……」

 八雲の家で暮らすようになってから早二月。
 早くも私はこの優しい緩やかな流れに身を任せようとしていたのだと思う。






 することがないと、時間の巡りは極めて遅い。
 かといって、振り返ってみるとそういう時の流れこそ思い出す引き出しがないので記憶にも薄い。何とも情けない限りで、実際に思い出せることといえば田起こしと田植え、春の花々や山の移り変わりといった、全てに紫に纏わる記憶だけである。
 これでは良くないと思い、丁度、梅雨に入ったことも相まって私は何の断りもなく八雲の家を家捜しした。
 といっても、はっきりいってこの家は狭い。釜戸などがある土間を除くと、存在するのは居住空間の三畳一間に、あとは食物がつまった穀倉とある程度の広さを持つ蔵が一棟だけ。探索の手は必然的に、蔵の方角へと延びることになった。
 蔵の大きさといえば母屋に比べて一回りほどは大きいだろうか。組まれた石垣の上に屹立する白壁、しっかりとした鬼瓦。母屋の壁板などは年季が入ったというよりはどう見ても薄汚いという表現がお似合いだが、こちらは良く年輪を経た独特の香に似た体が漂っている。雨漏りがおきやしないか少々、心配になる苔生した茅葺きの屋根を見てからこちらを見ると、何とも贅に過ぎた蔵である。いっそのことこちらに住めば良いではないかと思うのだが。
 さて、この家で本といえば自動的に紫が写本したものとなるのだが、蔵を漁るとまあ出てくるわ出てくるわ。軽く書名を挙げるだけでも、霊異記、古事記、出雲風土記といった漢文主体の書物から万葉集、方丈記、更級日記といった和漢混合文の書物まで、書数も多彩、分野も和歌集から民謡、果ては門外不出の教典に至るまでと実に多岐に渡っていた。
 殊更に、私が眠ってからの仮名遣いの変化や時世の移り変わりを知る上で、書棚にあった吾妻鏡や治承物語などは大変、参考になったし実に楽しく閲覧させてもらった。いやはや、我が身の上ながら、物事の変遷とは傍目で見るとこうも呆気ないものなのだろうか。客観と主観の違いはげに恐ろしきものである。
 そういうわけで、長雨の日は紫の所在にかかわらず畳での読書会。紫も、黴や虫食いについての留意こそ促したものの、本の持ち出しに関しては一切、口を挟まなかった。全く以て鷹揚なものである。この書の価値が分からぬ訳でもあるまいに。
 一方で、武家社会となってからも変わらぬ貴重な書の、さらに希覯な書物を写しとして所持している紫が一体、どういった存在なのかまたしても疑問を抱く。勿論、紙、墨、原本、どれをとっても貴重なので、どうやって調達しているのかも。
 八雲紫。今は田植えや種まきが済んで青々としている田畑をこの雨の中、ご苦労にも点検に出ているところだ。
 雑草は牛や鴨や山羊がいればそのまま飼料となるが、生憎と家には鶏しかいないので仕方なく枯れ草は堆肥にしているとか、人糞牛糞ほか有機肥料が生育には一番良いのだが、入手困難なため仕方なく輪作や田畑転換、腐葉土などに頼って作付けを行っているとか、合間を縫って語られる紫の話といえばこんなものばかりで、悪いが理知に富むとは到底言い難い。畠に鍬を入れるあの泥にまみれた顔と、この書物がどうしても帰結しないのである。
 一方で、行儀には割とうるさい。物腰や言葉遣いを見てもそれとなく気品というものも感じられるのだが、如何せん、洗練されているというわけではなく、ただ所作の節々にそれとなく教養が見て取れるというだけだ。はっきりしたことは一つとして分からない。
 結局、八雲紫については何一つとして分からないということだ。どう足掻いても分からないのなら、考えないに限る。
 ごろん。
 見つかれば行儀が悪いと窘められることを承知で、ごろりと畳に寝そべりながら座り心地が良いとは言い難い座布団を顎に敷いて和書を読み漁る。

 しとしとしとしと。
 げこげこげこげこ。
 ぱらぱらぱらぱら。

 雨音が地面を叩く音。
 遠くで蛙が鳴く音。
 草花に溜まった雨粒が落ちる音。
 ぺらり――。
 そこに、ゆったりと和紙の頁をめくる柔らかい音が加わる。
 ごろり。畳で身体を返す音がやけに重く響く。

 しとしとしとしと。
 げこげこげこげこ。
 ぱらぱらぱらぱら。

 雨が一粒一粒、大地を潤すたびに。

 ぺらり――。

 しとしとしとしと。
 げこげこげこげこ。
 ぱらぱらぱらぱら。

 梅雨は、更けていく。






 夏。
 誰が何といおうが真夏である。
 雨を受けて頭を垂れる紫陽花もすっかり散って、新緑も早、濃緑色。ぎらぎらとした凶器とも狂気ともいえそうな頭上の太陽は呵責なく容赦なく罪悪なく万便に降り注ぐ。
 立ち並んだ四方八方の木々から撃ち放たれる蝉の無差別射撃。どれが油蝉だとか熊蝉だとかみんみん蝉だとか構っていられないほどの大合唱。合掌。
 水田の方が少しは涼しいだろうと出張ってみたが、何のことはない。確かに風は幾分かひやりとしているが、じりじりと降り注ぐ灼熱の日光が直に襲いかかる分、どちらもさして大差はなかった。
 木陰にもたれかかり、小袖の合わせを扇いで風を送り込みながら、だらしなく舌を垂れる。
 暑さにやられることはないといっても、暑いものは暑いのである。梅雨時ほどの湿気こそないものの、この暑さはもはや拷問だ。都も暑かったがこれほどではなかったぞ。

「しろきつねさん」

 第一、ここは一体、何処だ。遠景から見るに内陸の山間であることに間違いはなさそうだが、生憎と私の記憶帳簿にこの様な景色はない。

「しろきつねさん」

 勿論、この日いづる国が私の見識よりも遙かに広く、様々な国がひしめいていることは百も承知している。それにしても、ここはどこかという問いに対して天上界という返答はなかろう。明らかに人を喰っている。

「しろきつねさん」

 首筋に当てられた冷ややかな感触に、思わず飛び上がる。ええい、わざと無視していたというのに、この女はたおやかに見えて一度、食らいつくと梃子でも離れない。
 渋面で如何にも嫌そうな顔を造って精一杯の半眼で後ろを振り返ったそこには、燦々たる陽の恵みを色濃く受けて白と黒とに陰影をはっきりさせた麦わら帽の紫が笊を抱えて立っていた。
 私がここに出向くもう一つの理由。
 水路で良く冷やされた胡瓜や真桑瓜が希に振る舞われるからである。
 卑しいというなかれ。先だっても述べた通り、私は暇なのである。楽しめることといえば、景色の移り変わりに蔵の書物や骨董の物色、後は毎度振る舞われる三食くらいなのである。そんな中でよく冷えた真桑瓜の甘味といったらお前、親子供を質に入れてでも味わった方が良い。
 そして今、首筋に当てられたのが件のよく冷えた胡瓜。紫の手の内にあるまま有無をいわさず、問答無用で丸かじりする。
 がりっと確かな弾力と共に、噛み合わされる口内で多分に水分を含んだ弾力ある肉質が砕ける。
 一が二へ、二が四へ、四が八へ、噛むたびに己が実態を細分化させていく冷えた胡瓜は確かに美味ではあるが、その気色の悪い笑顔をやめろと何度言っても紫は全く聞く耳を持たない。
 がりがりがしゃりしゃりと音を変えたところで、今一度、周囲を仰ぎ見る。
 蒼一色。まさしくその表現が相応しい大暑の水田はすくすくと稲の丈を伸ばし、青々と繁った細長い葉が艶々と陽光を反射する。
 葉風から薫る満ちあふれた生気。冷たいはずの用水はしっかりと深さの取られた水田で日の光を浴びてたっぷりと暖められ、運ばれてくる養分が土中の栄養と相乗してすくすくと稲を育てるのである。

「今年は大水も大風もなさそうだし、良い実りに恵まれそうね」

 さっと、水路を遡って巻き上がってくる水の香りの混じった風に運ばれる髪を抑えながら、紫は雲一つない空を仰いだ。
 澄み渡っていて、青が薄く手を伸ばしても届きそうにないほど遠かった春の空と違って、夏の空は重厚な碧を湛えて近く大きくそびえている。運ばれる髪は気にも留めず、笊に乗せられた真桑瓜を手で掴みながら、私もまた空を仰ぎ見る。
 大空にいつの間にやら、高く低くと忙しく奏で立てる燕の姿はなく、住人の顔は枝から枝を伝うように飛ぶ燕や四十雀、雄大に弧を描く鷹や鳶、雉鳩や郭公に顔を変えている。
 山をにぎわす花。藤はとうに花を落とし、開けた土地に賑やかな色合いを見せる松葉牡丹や昼顔、薄の穂先のように賑やかな浜木綿、今から秋まで咲き続けるという名の如き薄紅の百日紅が、水田の上部に植わって花を咲かせている。
 この頃は、日が暮れるにつれて虫も賑やかさを増している。凛々と鳴く流麗な鈴虫や松虫、哀愁を誘う蟋蟀やがちゃがちゃ、縁側をふと照らすのは魂の如く淡く儚い光を浮かべる源氏蛍。
 しゃくりと手に取った真桑瓜を囓りながら、じりじりと肌を焼く憎い太陽に呼応して、じわりと玉のような汗が浮く。
 流石に紫も似たようなもので、涼しい顔をしながら額に浮かぶ汗を隠せないようだ。
 ふう。
 重なる吐息。私の方は溜息で、紫の方は恐らく嘆息。
 思わず顔を見合わせた後、ころころと笑ったのは紫。余りにも狙い澄ましたような間合いに吹き出したのだろう。
 陽をたっぷり受けて開花した、素朴で科のある艶やかな笑顔。まるで、花開いた芙蓉だ。
 こんな笑顔を毎日、数回も相手にしていれば、毒気も抜けるというものだろう。

「枇杷を採ってきたから、お夕飯の後に戴きましょうか」

 日が昇る暑い昼。日が落ちた幾分は涼しい夜。青く繁る田。長く伸びる蔓。沢の音。井戸の音。動物の足音。鳥の声。虫の声。
 明るい紫の声。
 世界の流動に自然と身を任せながら。
 こうして、良く晴れた夏の日々は過ぎていった。






「なーんにもおこんねぇべな……」
「だな。やっぱり嘘っこだぁ」
「な、なぁ……、やっぱりやめにしねか? こったなこと他のもんに知れたら、唯ではすまんで……」
「ははぁ、長治郎。さてはお前、また漏らしたな?」
「ば、馬鹿いうでね! お前こそ、足が震えとるじゃないか!」
「何を! やるかこの!」

 大禍時。暮れた陽が世界を照らすこの茜の世界を、人はそう称す。
 魔が潜む時。この時までに家に入らねば、魔が来て鬼が来て人を攫い喰らうという。
 鴉が鳴く頃には既に人影はまばらで、遊びに夢中となって時の経過を忘れた子供達も、揃って拳骨で殴られ耳を引っ張られていく。
 影が蠢き闇が這いずる夜。そこは既に人の時間ではない。
 故に人は守り神たる陽が暮れるとこぞって家に帰る。闇を畏れるが故に、闇の中に潜む何かを畏れるが故に。

「やれやれ。少し季節外れだけど、肝試しのつもりなんでしょうね」

 そんな宵闇の道なき道を歩く影が五つ。
 揃って襤褸を纏ったざんばら頭の各々が、低い背で藪をかき分けながら賑やかに行進している。禁を破った罪悪から来るものか、闇夜の畏怖から自然と発せられたものか、声を出していれば少しは気も紛れるのだろう。

「試す肝も小さそうな小魚ばかりだな」

 かなかなとひぐらしのなく森を、食いでもなさそうな小坊主が五人、紫がいう所の『境界線』を跨いで私たちが暮らしている山に侵入しようとしていた。
 つい先程、畦の雑草を抜いていた紫が突如、立ち上がって、人が来たと呟いた。
 何をいっているのかと怪訝に眉をひそめた私の腕を引いて急行したのが、この樹齢数百年はありそうな楡の木の上。
 紫がいうには、この辺りが『境界線』なのだそうだが、それが何を示しているのかは今ひとつ分からない。初めは結界でも引かれているのかと思ったが、それならあの坊主どもがここに辿り着ける道理も無し。そもそも、これほどまでに霊的反応が薄い土地で結界などあろうはずもない。
 ……のではあるが。
 どうも、感覚が狂うというのが正直なところである。まっすぐ正面を見据えていたはずが、いつの間にか視線が脇に逸れていってしまうような感覚。いうなれば、妖力の平衡感覚が微妙に狂うのである。それも、狂っているという自覚がない程度に。
 はてと、今一度首を傾げて微かに妖力を集中させると、確かに何かが少しだけ違う。微妙な違和感を感じ取って、私は尻尾を捻る。
 しかし、考えても詮無きことなので取り敢えず、考えることをやめた。最近、こればかりで些か気分が滅入るが、この女は全く尻尾を出さないのだから仕方あるまい。

「ここ数十年は言いつけを守る良い子ばかりでしたからね。彼らの勇気ある行動に乾杯」

 そもそもがこの女、人間か妖怪かもようとして知れないのだが、さて、数十年ということは、紫は妖怪なのか。
 共に暮らしだして数ヶ月、下手をすると初めてとなる紫の正体の一端を咀嚼しながら、私は相変わらず藻掻く蟻のように草の海をかき分ける子供達を見下ろす。

「この近辺に村でもあるのか?」
「ええ、もう二つほど山を越えたところに一つ、村落があります」

 まあ、疑いようもなくその村の子供達だろう。子供の足で山二つというと、朝から歩き通しか。こんな面白味のない女一人を見るために、ご苦労なことだ。

「それで? あの子らの処遇はどうするつもりだ?」

 その村と紫とがどういう関係か分からないが、少なくとも『言いつけ』という決まり事で両者が何らかの関係を持っていることは間違いないだろう。出来れば、そういう辺りの事も聞き出したいところだが。
 慎重に言葉を選ぶ私に、紫はちょいちょいと指先で子供達を差す。
 はてと思い今一度、子供を見ると、何やら先程と違ってやけに騒がしい。

「おらん! 八兵衛がどこにもおらん!」
「よう探せ! さっきまでそこにおったろう!」
「お、おれ見た! いきなり地面に吸い込まれていきよったんじゃ!」
「お、おらもみた! 神隠しだぁ! 山神様の祟りじゃあ!」

 蜘蛛の子を散らすように、わらわらと子供達が来た道を一目散に駆け戻っていく。

「やめろといわれるほどに興味は募るものなのでしょうね」
「……殺したのか?」
「いいえ。でもあの子らには少し、怖い目を見て頂きます」

 気の毒にと、おっとり頬に手を当てる紫が見送る子供の影は、計四つ。
 逃げ帰った子らが地面に吸い込まれたといっていた以上、私が気づかないうちに、紫が何かをしたのだろう。それに関しての妖力も霊力も感じなかったが、もう大抵のことでは驚かない。

「しかし、今から山二つを戻るとなると、村に帰る前に日が暮れないか?」
「そこまでの面倒は見切れません。子供だからこそ、行動に際しての責任はしっかりと身体で勉強してもらいます」

 とすると、物の怪に取って喰われることすら容認するというのか。御近所さんの扱いには意外と冷たいのだろうか。

「……今日は新月ですし、日の巡りも悪くない。恐らくは特に手を打たなくても平気でしょう」

 どうやら違ったようだ。肝を潰したあの子らが無事に帰れるとは到底思えないが、帰れないのならそれはそれで別に手を打つのだろう。
 こいつがいうところの『恐らくは』は、きっとその事を差している。







 あれほど青かった穂がじわりと日を追うごとに色を失い、やがて育つ籾の重さに耐えきれず頭を垂れる。
 一色だった森が赤に黄色に緑にと賑やかになる頃、田はそれまでの潤いを全て実りへと変える。
 水が抜かれた大地は良質の泥を残し、その上に築かれるのは一面の黄金色。
 紫が植えた稲は見事に秋を満喫していた。蕎麦もしっかりと細かな白い花をつけ、麦もまた米と同じ様相を呈している。
 つまりは、これ以上にない秋というわけだ。山も綺麗で花も綺麗。食料も余るほどに取れて、誰もが笑顔で明日を暮らせる。
 秋。実りの秋。恵みの秋。
 食事の内容も春先と比べれば幾分、賑やかとなり、いつになく私の舌を楽しませてくれる。
 野菊も、金木犀も、山茶花も、寒露の今をこれでもかというくらい謳歌している。

「今年は豊作だったみたいね」

 しんなりとした畦の上でぼんやりと風の形に波を作る田を眺めていると、不意に背後から声がかかった。
 そういう紫の背後には、堆く積まれた稲俵に茄子や芋、山芋に蓮根などの各種秋の実り。

「どうしたんだ、それ?」
「今年のお供え物」

 また曖昧な言葉で煙に巻こうとしているんだろうが、そうはいかない。

「供えられたということは、崇められているということだな?」
「そう……、かしらね?」

 私の問いを口の中で反芻したのか、きょとんとしていた紫の顔が俄に歪む。

「誰に?」

 押し黙る紫。

「誰に?」

 詰め寄る私。

「だ・れ・に?」

 ずいと鼻っ柱をつきつけると、珍しく紫が目線を逸らした。
 これは痛快だ。普段からのらりくらりと人の返事をかわしている紫が、初めて返答に窮した。
 弱点をかぎつける私の嗅覚は鈍っていなかったようだ。いや、逆に手づかみする鰻のようにするりとはぐらかされる回数だけ、私の感覚は鋭くなっていったのだろう。
 勿論、紫に答える義務はないのだが、この女、妙なところで妙に律儀な性格である。

「……この間、少し話した村よ」

 ほれ、この通り、きっちりと逃げ道を塞いで追及すれば、意外にもあっさりと観念して白状した。

「この間の……、ああ、あの子らの村か」
「ええ。これらはあの村の収穫祭にお供えされた品々」

 なるほど。どうして紫が住まう山への侵入者を阻むのか、少しは分かった気がする。

「『山神様』ね。ご苦労にも、色々と何かしているわけだ」

 恐らく、この山は神聖視され人間が住まう村の戒律として侵すことを禁じられているのだろう。だからこそ、あの子らは「山神様の祟り」を信じ、紫もまたそれに乗じている。両者は確実に不可侵の領域を設け、時事折々の節目だけに一方通行の会話を投げかける。
 だが、人は怯懦だけでは神を神聖視しない。圧倒的な不可視の神秘と幾らかの恩寵、それにほんの一握りの恐怖が存在を神に仕立て上げるのである。
 ということは、紫は少なくとも何らかの天啓を村に授けていることとなる。
 確実な恩恵と明日の平穏。それらが不確実である現実であるからこそ、神は信じられ崇められ奉られるのである。
 紫は以前、山に侵入してきた子らに対して「ここ数十年は見ない」といったが、まさしくそれはその通りで、神と崇められるほどに紫は長く生き、秘やかに人との関わりを持ってきたのだろう。この隠棲のような暮らしと質素な衣食はまるで仙人を彷彿とさせる。
 少しずつ解けてきた紫を覆い隠す紗に、私は些か満足感を覚えた。つまり、紫の位置づけとはそういうところか。

「しかし、山の神は醜女じゃなかったのか?」
「あら嬉しい。じゃあ、私は美人なのかしら」

 揶揄するような人の悪い笑顔に動じず、私は肩をすくめる。確かに顔立ちは美形で肢体も豊か、蜂蜜色の髪と瞳も相まって、紫の容姿はまるで砂漠の蜃気楼だ。
 かてて加えて、神とまで崇められているのなら、人との関係も良好、つまりは性格もそこそこであるのだろう。それは、あの最悪の出会いから今までに至るまでの紫を見ていれば充分に分かることだった。
 だが、そこで頷くほど私も人は良くない。鼻を鳴らしてそっぽを向いてみせる。
 すると、紫はそんな私の様子に苦笑してか、空を仰ぎ見た。

「私は醜いわよ。身も心も」

 だが、何故だか自嘲だと勘付いてしまったその笑顔は、私の心にこの季節にも似た色を深く落とし込んだ。






 どうと重い音を立てて、私の身体が地面の上を転げ回る。
 固い地面は八雲宅前、物干しや虫干しに長らくしっかりと長い年月を経て踏み固められた空間である。防風林はしっかりと植わっているが、それでも良く乾燥したこの季節になると希に庭先を旋毛が巻き、細かい埃や砂を巻き上げる。
 紫の動きは至って凡庸だ。私の腕力と動体視力をからすれば捕らえることは容易いはずだった。
 追いつけるはずもない私の足で追い込んで、背後に回ったら防御不可能な力と速度で一撃。それで勝負は終わるはずだったのだ。
 それが一体どういう手品か、貫いたと確信した腕が乾いた砂に沁みる水のように吸い込まれかと思うと、一瞬後には天地が逆転しそのまま砂埃を立てるのである。視界の高低差からすると、相当派手に飛んでいるらしいのだが、私の身体にそれほどの怪力がかかった感触はない。それにも関わらず、脚が地面を離れる時の浮遊感などは、自らで飛行している時などと比べものにならないほどの浮遊感がある。
 それでいて、飛ばされる前兆がつかめない為、浮くことは愚か落下の方向すら定められぬのだから手のうちようがなく、今も脳天から落ちた視界がちかちかと光る虫を無数に飛ばしている。
 声も出せぬほどの激痛に混濁した意識を根性で立て直すと、身体をばねのように跳ね上げて跳躍、急降下。上空からの強襲。
 しっかりと紫の動きを見極めるため、攻撃は寸前まで繰り出さない。あの雲のような霞のような動きを見極めるため。
 ……今、私は何といった?
 雲のような、霞のような。
 雲とはこの手に取って握ることが出来るものだろうか。霞とは爪にかけて切り裂くことが出来るものだろうか。
 紫は動かない。私の爪があと一尺に迫っても、一寸に迫っても。
 鋭く風を切る音。まるで決められた軌跡をなぞるように振られた私の腕が、宙を裂く。
 疑惑の対象となった紫の繊手は緩やかな弧を描き、目標を失った牙は行き場を失い、翻って私の身体を乱気流に巻き込む。
 捕まれる手首の感触、伸びきった腕がもう一度、限界を超えて引き延ばされると、重心が制御を離れ、あっさりと体は宙を泳ぐ。
 見せかけ上は動きを止めた腕も、流れ落ちる力までは止められない。振った爪の勢いを殺せぬ私の右腕が、頭頂から巻き込むように背に向けて捻り込まれると、その折りたたまれた腕を背後から回された紫の手が下向きに押さえ込み、同時に身体の外から体重を乗せて私の膝の裏を踏みつける。
 弓なりにしなる身体。紫は風のような淀みない動きで膝をついた私の背後に滑り込むと、完全に極まった肘を巧みに持ち替えながら、私の着ている衣の襟を使って首を締め上げる。
 妖怪は呼吸というものを必要としない。だが、本能として刻まれた生理反応は反射として身体にいつまでも染みついているものである。
 止まる呼吸。逆流する血流。顔の血管が膨張し、舌根が空気を欲してせり出される。
 一瞬のうちに苦悶が快楽へと代わり、ゆっくりと幕を下ろす視界に表情を恍惚とさせる。
 だらしなく開く口を押さえようともせず、遂に意識を手放しかけた時、首を締め付ける襟が弛められた。
 途端に蘇る思考。せき止められていた血液が瀑布となって脳に巡り、自分が置かれている状況を即座に判別する。
 肺腑の血脈が欠乏した酸素を要求し、咽せる口元から滴る唾液もそのままに、私は唯ひたすら空気を貪った。
 忙しく上下させる背中を撫でる手。幾分か、呼吸が楽になった。

「ねぇ、もうやめましょうよ、しろきつねさん」

 生憎と視界は踏み固められた地面一色だが、その表情は手に取るように分かる。
 つまり、ここは八雲家の庭先で、そこに情けなく転がっているのが私で、きっと困ったようにきかん坊でも諭すような表情で苦笑いを浮かべながら私の背中を撫でているのが紫。
 かれこれこの二週間、私は食料を一口も口にしていない。
 というのも、発端は暇をもてあました私が紫を少しからかってやろうと襲いかかったところに発する。
 私の予想からすれば、無策で襲うならともかくとして待ち伏せるとなると野生の勘を残した私の方に分があるはずで、収穫後の田の土に植わった苗木の世話を終えた紫が一日の労務を終えて気を緩めながら帰ってくる八雲家と田との帰り道、夕日の影となり地脈の流れも豊富で息をひそめた私の妖気など軽く呑み込んでしまうであろうこの岩陰こそが最適の埋伏場所で、あわよくばそこで分捕った紫の生命保持権を盾にこのずん止まった状況を打破できるはずだった。今までどうしてそこに思い至らなかったのかという疑問は多々あるだろうが、もし紫がその時の気分一つで私の命を散らすような手合いだったらどうだろう。私が反逆の牙を剥いたというだけで、私は儚くこの世から消えて失せることとなる。
 つまり、計画が失敗に終わったところで相手を傷つけなければ冗談ですませられる、この確証が得られたからこそ、晴れてこうして計画を実行に移しているのである。失敗したなら失敗したで、失敗の度合いを計画に盛り込んで、後は策で補完すればよい。
 最も、現在に至る観察から、身体能力で私が紫に引けを取るとは到底思えなかった。子供を神隠しに会わせたり供物を指先一つで移動させたりと、私の命を保持している点から見ても術の面からは充分に驚異と思える紫はいつも、私からすれば随分と間延びした進捗で田を耕し、畠に水をまき、作物を収穫している。一度として特異な能力を発動することなく、これまでずっとだ。
 このことから、私は紫は高名な術者が世を忌んで庵にこもっているような類の退魔師だと判断したのだ。
 それなら話は簡単で、相手の術が脅威なのであれば、術を使用する間もなく屠ってしまえばよいだけの話だ。
 都から追われたあのときのように。
 あのときのように。
 胸の奥から滲み出たどす黒い感情を辛うじて抑えると、息を整え妖気を抑えて岩陰に潜む。幾ら労務の後を狙ったといえど、相手はあの紫だ。
 私の鋭敏な両耳は既に紫の足音を捕らえている。このまま何事もなくいけば、十数度、呼吸を繰り返すうちに紫は姿を現すだろう。

 ざっくざっく。
 すー……はー……。
 ざっくざっく。
 すー……はー……。
 ざっくざっく。
 すー……はー……。

 今までに経験したこともない程に重苦しい空気。何故か、私の脳裏に紫の笑顔がよぎる。
 土間で鍋をかき回す紫。
 卓袱台の対面に座って微笑む紫。
 弁当を手渡す紫。
 繕い物をする紫。
 足音はもうすぐそこだ。こんな益体もない想いを孕んでいては成功するものも成功しない。
 頭を振って邪念を締め出し、今一度、気配に集中する。

 ざっくざっく。
 すー……はー……。
 ざっくざっく。
 すー……はー……。
 ざっくざっく。
 すー……はー……。

 ……今だ。
 足音が岩陰から最短になったところで、音もなく飛び出す。
 狙うは喉頸。馬乗りになり自由を奪ったところで、交渉に入る。
 翻る爪。迫る紫の身体。見開かれる眼。
 跳躍、白い首筋が見る見るうちに近くなる。
 夕日に染まった首筋が、軽く脈打つ首筋が、縊れそうなくらい無防備に晒されている。
 そう、簡単だ。後は振り上げたこの手で細い顎の下を握ればいい。握れば、人の頭を一つ潰すくらい、訳はない。

「ああ吃驚した」

 ……だというのに、どうして私が組み伏せられているんだ?
 仰向けに転がった私の右腕が絡み取られ、肩の付け根を紫の片腕が押さえつけている。

「誰かと思ったらしろきつねさん。お迎えありがとうね」

 後頭部にかけられる声。つまり、今現在、私に馬乗りしているのは紫ということになる。
 唖然とした後、少し頭に来た。
 何か。こいつは莫迦にしているのか。確かに私の不意打ちを返り討ちにした点は瞠目に値するが、かといって術を行使して私を縛るでも無し、唯、私を組み伏せるだけと来た。
 この程度の力、跳ね返せないとでも思っているのか。背筋に力を込めて、自由である片腕で紫の体ごと起こそうとして。
 ……全く動かなかった。
 おかしい。びくともしないのである。抱えられている右腕にも押さえつけられている右肩にも、取り立てて力が加えられているわけではない。
 地面に押しつけられている私の身体にも、単純に紫が乗っているだけだ。
 それにもかかわらず、私の身体は岩戸で押さえつけられたかのように動かない。
 しばらく懸命に、陸で藻掻く魚のようにじたばたしていたのだが、結局はどうにもならず、唖然と全活動停止に至る。
 何がどうなっている?

「狙いは良かったと思うんだけど、如何せん、あなたの腕では無理だと思いますよ」
「……何を根拠に?」
「今、この現状を根拠に」

 かちんと来た。今でこそ零落の身だが、一時は九尾の仙狐にまで上り詰めた私に、たかが一人の脆弱な存在を握りつぶすことが不可能だと?
 面白いことをいってくれる。

「……良いだろう」
「しろきつねさん?」

 組み伏せられたまま、滾る殺気に身を任せて口を動かす。

「私がお前をねじ伏せられなければ、その日の食事はいらない!」

 私の断食は一ヶ月を待たず、紫の懇願によって終了した。






 冬。
 しんしんと降り注ぐという表現は、齟齬があるように見えて実に的を射ている。
 沢の水以上に冷たい雪は触れたものを一様に軋ませ、歪めていく。その密かな歪みが蓄積して音となり、またその音自体も雪に吸い込まれて、まるで殻に包まれた世界の外から聞こえてくるように、無音に近い、けれど無音ではない不思議な空間を生み出す。
 この様な感じで、雪は以前こそ風物詩以外の何者でもなかったが、こうして縁の下を見ると実は万物何もかもが使いよう次第だと判る。
 高床の軒下に居並ぶ大根に人参、白菜に菠薐草。きちんと整列されて、綿のように積もる純白の雪で凍結されている畑の作物。
 それらを含めて、京の庭と比べれば風情も何もあったものではない。辺りには立ち枯れたような落葉の森が続き、防風、防砂林に囲まれた家は決して見晴らしが良いわけでもない。庭といっても単純に物干場であるからして、縁側からは殺風景な広がりが見て取れるだけである。そこが雪囲いに囲まれれば、もうわずかな日の光も射す隙間すらない。
 それでも、春には李が咲いていた。夏は色濃い緑があった。秋には華やかな彩りがあった。そこから連動する季節の巡りは到底、無視できるものではない。
 ここまで肌身で季節を実感したのは、これが初めてだといっても良いくらいだ。森に住んでいたあのときよりも、都に住んでいたあのときよりも、いつどんなときよりも。
 白む息を何ともなしに吐き出しつつ、二本の尻尾と長い後ろ髪を首に巻いて縁側から背後を振り返る。
 そこには、書机で静かに筆を走らせる紫の姿。
 冬になってすっかり雪に埋没した畑で出来ることは何もない。仕込んだ酒や味噌を吟味するのが精々だとかいっていたが、紫がどこからか持ち出してきた新酒は確かに美味だった。といっても、どぶろく程度ならともかく、本格的な酒をこの家で仕込むのは流石に無理だ。酒は紫が持ち込んだものなのだろう。
 新酒や蔵で寝かせてある古酒を片手に紫が煮たおでんで一杯やるのが、すっかり冬の楽しみと定着してる今日この頃。白醤油を使った薄味のものから赤みそを使った濃口のものまで、味の楽園は尽きることを知らない。
 冬眠中の魚を捕ったり、鳥を撃ったり、本を読んだり。雪に閉ざされてからというもの、そう好んで外を出歩くでもなし、これまでで最も静かな季節が私を支配していた。
 筵を編む紫の横でごろりと寝ころびながら、時には外に出て雪を掻いて、時にはつららを酒の中に落として。
 しんしんと、雪が積もる。時には吹雪いて、希に晴れて。






 普段では、必要以上に紫が話しかけてくることはないから、私も存分に自由を満喫している。
 逆に、紫の方から自発的に声をかけてくる時は、決まって彼女が痛飲している時だ。
 周期こそ不定期で、そもそも季節に一度あるかないかというくらいなのだが、そういう時はどうにも普段から逸脱している流れの中に自分の所在がないためか、柄にもなく緊張してしまうおかしな自分がそこにいた。

「ねぇ、しろきつねさん」

 紫はいうほどに酒を好まず、口にするのは大半が甘口の軽いものだ。食事の折りにも、そもそもが酒を好まぬ性質のためか、私の酒宴を肴にして食事を進めることの方が多かった。
 その彼女の傍らに林立する徳利から香る佳芳。ここに来てから専ら私が好んで呑む、辛口の清酒だ。

「生を前提としてしか顕在できない存在が死を望む時って、どんなときだと思う?」

 所謂、世間でいうところの絡み酒とも違う。滔々として紫が私に語りかける言葉は、往々にして答えを出しがたい、命題ともいえるような質問に近かった。

「飲んでるのか?」
「ええ、微酔い」

 嘘だ。
 そう強くないくせに、この女は時折、浴びるように酒を呑む。そういう時は、決まってこの様にとろけたような瞳で縁側に座っているのだ。

「私の答えは簡単。生の苦痛が死の苦痛を上回った時」

 私を映しているようで、遙か遠くをかいま見ている紫の瞳。そのとろけそうな蜂蜜色に引き込まれそうになりつつも、辛うじて踏みとどまる。普段の紫とはまるで違う実像のない姿は、私の知りうる存在を遙かに超越していた。

「……随分と逆説的かつ悲観的な意見だな」
「でもね、大概はそうじゃないかしら? 生きること自体が苦痛だというのなら、それは息をするだけで常につきまとう。それだったら、一瞬の苦痛ですむ死の方が遙かにましだと思わない?」

 解脱。敢えて今の紫を言葉に当てはめるのなら、それが一番近いだろうか。どちらにも偏らず、あらゆるものにこだわらず、何にも捕らわれない。空の心を持ったものが行き着く領解。それが今の紫にはあった。

「……私には理解できない感情だよ」
「そうね」

 普段はあれほどまでに裏表なく笑っているものが。

「あなたは殺されてすらも生きた。思惑はどうあれ、それは素晴らしいことだと思うわ」

 遙かに遠い目をして、語らずにはいられない言葉を紡いで。

「生きようとする意志は、何より貴いものだものね」

 くっと、手にしたぐい飲みを傾ける。

「あなたは自分の生に一欠片の疑問すらも抱いたことがない。違うかしら?」
「……何が言いたい?」
「別に」

 浴びるように、まるで自らを痛めつけるように、紫は酒を注ぐ。

「ただ、羨ましいと思っただけよ」






物語は佳境へ。[後ノ巻]に続きます。
Mya
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