夜道。巡廻という名の散歩をしている最中。
滅多に人の通らない、森の中の道で、見知らぬ少年に出会った。
「何をしている?」
足を止めて、慧音は少年に訊ねた。
夜の森。頭上が開けた、少しだけ広い道。
月と星の光に照らされた道の中ほどに、その少年はいた。
藍色の、大きめの作務衣を着た、まだ若い少年だった。
手には大きな木製スコップを持っていて、まるで落とし穴でも掘るかのように、道に穴を掘っていた。
道といっても舗装されているわけではない。少しばかり開けた、ただの土道だ。
踏み固められ――というよりも、雨風で固められた土道。
その道にスコップの歯をつきたて、少年は、穴を掘っている。
慧音の存在に気付いても、その手を止めない。
慧音は少年に一歩だけ近付き、少しだけ強い口調で、
「もう夜も遅い。この辺りには妖怪も出るから、帰らないと危険だぞ」
そう言ってから、慧音は気付く。
まったく人のことは言えないな、と。
傍から慧音を見れば、夜に女の身、しかも手ぶらで歩いているように見えるだろう。
無防備を通り越して不審にすら感じてしまうかもしれない。
最悪、「お前は妖怪じゃないのか」といわれることを慧音は覚悟する。
が、少年は、慧音の予想とはまったく違う言葉を吐いた。
「――どこに?」
なぜ、でもなく。はい、でもなく。いいえ、でもなく。
どこに、と少年は答えた。
まるで、帰る家が、もうどこにもないかのように。
慧音は少年と、そしてその周りを見る。
木の傍には壺がおかれていて、その中には灰が詰まっている。
少年は足が汚れるのも構わずに、ひたすらに穴を掘っている。
なんとなく、わかった。
少年には、もはや、帰るべき家がないということを。
意図的に答えを言わずに、慧音はもう一度、同じ質問をした。
「何をしている?」
「見れば分かるだろ」
「穴を掘っているな」
「墓を掘ってんだ」
やはりな、と慧音は内心で頷く。
壺に入っていた骨。あれは、恐らくは、遺骨だ。
そして少年の言葉は正しい。幻想郷の中には、墓石屋がどこにでも存在するわけではない。
火葬や土葬――とくに土葬は――幻想郷で主流の葬り方だ。大規模な火葬場がないので、大抵が土葬になる。
「誰の墓かな」
慧音の問いに、少年は即答する。
「おっとうだ」
おっとう――父親。
――祖父か、祖母だと思っていた。
けれど少年は、はっきりと、父親だと告げてきた。
慧音の見る限り、少年は若く、父が老衰で死ぬような歳だとは思えなかった。
幻想郷の死因に、交通事故や自殺はほとんどない。
その代わり、減ってきたとはいえ――けっして消えはしない、幻想郷特有の死に方が一つある。
その一つを、慧音は口にする。
「妖怪に殺されたか」
少年は頷く。頷き、手を動かし続ける。
穴は掘り進められ、少年の膝のあたりまでが穴へと入った。穴の脇には、掘り出された土が新たな山を作っている。
墓は、もうすぐ出来上がる。
一つ目の墓を見ながら、慧音は訊ねた。
「……どんな妖怪だったか、覚えているか」
人を襲うような妖怪ならばこらしめてやる必要がある。そう思ったからだ。
少年は首をもう一度縦に振った。
そして、穴を掘る手を止めて、慧音を見つめた。
がらんどうの、ビー玉のような瞳が、慧音を見ている。
慧音を見つめたまま、少年は言った。
「おっかあだ」
その言葉に、慧音は息を呑む。
少年の言葉を、すべて信じるのならば。
少年の父は死に。
少年の母は妖怪であるということになる。
そして、それに加えて――
「――母が、父を殺したのか」
慧音の言葉に頷いて、少年は墓を掘るのに戻る。
右の穴と同じように、その隣、少し間を開けて、左に穴を掘っていく。
二つ目の墓を、掘っていく。
少年の力は決して強くはない。
一瞬で穴が完成する――そんな、都合のいい事態は起こらない。
あくまでも、丹念に。
自分の力だけを使って。
少年はスコップを動かす。そのたびに穴の脇に土が積まれ、穴は広がっていく。
手なれたのか、二つ目の穴を掘り終えるのに、一つ目ほど時間はかからなかった。
「――おっとうは人間で、おっかあは妖怪だった」
二つの穴が掘り終わる。右の穴と、左の穴。
穴の深さはどちらも同じで、人が一人寝転がれるほどの深さだった。
少年の手で掘るには――さぞかし大変だっただろうに。
実際、少年の作務衣は上も下も土で汚れていた。
歩く際に擦ったのか、穴を掘る間にそうなったのか、ズボンの裾はぼろぼろだった。
それでも、少年は休もうとしなかった。
木の根元においてあった壺を手にとり、その中身を、そっと穴の中に出す。
「おっとうは、おっかあが好きだったから、逃げなかった」
灰が、零れた。
壺の中にぎっしりと詰まっていた灰を、すべて穴の中に還す。
そしてそれらが、風で飛ぶよりも早く、土を被せる。
灰を埋めるように、灰になった誰かを埋めるように、少年は土を被せる。
その動作を、慧音は黙って見守っている。
その言葉を、慧音は黙って聞いている。
少年は一つの墓を埋め終え、隣の墓に移る。
そして少年は、作務衣のポケットから、それを取り出した。
「おっかあは、おっとうが好きだったから、食べたんだ」
人間の、手を。
手首から先しかないそれは、明らかな喰い残しだ。
妖怪に食べられた、人間の手だ。
少年の言葉で、慧音はその手が誰のものなのかを知る。
少年の父親の、手だ。
父親を殺したという、母親が、喰い残した手だ。
その光景を、慧音はまるで自らの目で見てきたかのように思い浮かべることができた。
人間の父と、妖怪の母がいる。
二人は幻想郷のどこかで出会い、恋に落ちる。雪女の伝説のように。
閉鎖世界である幻想郷においてはあり得ないことではない。
珍しいことではあるが。
その後の対応は地方によって異なる。
神と淫通したということで殺される場所もあれば、妖怪の母親を温かく迎え入れる村もあるだろう。
一番多いのは、村から追い出され、妖怪にも混じれず、山辺でひっそりと暮らすことだ。
ときに人と交わりつつ、ときに妖怪と交わりつつ、ひっそりと生きていく。
上白沢 慧音のように。
人間の男と妖怪の女は愛し合い、愛情を育て、子供を作ったのだろう。
そして――異種結婚の結果は、大抵が似たようなものだ。
どちらかが死ぬ。
それは良いことでも、悪いことでもない。成功でも失敗でもない。
そういうものなのだ。
相手が妖怪であることを認められなければ、人間が妖怪を殺す。
そうでなければ――妖怪が、人間を殺してしまう。
愛しているから。
愛しているから――食べたくなる。
それもやはり、良いことでも、悪いことでもない。
ただ、違うだけなのだ。
愛し方が、違うだけ。
百年を生きる魔女が、人とは違う生き方を選ぶように。
千年を生きる人間が、悟った思考を得るように。
万年を生きる妖怪が、誰からも理解されないように。
違うだけなのだ。
人を愛した妖怪は――愛さずには、いられなかったのだろう。
簡単に死んでしまう人間を、放っておくことができなかったのだろう。
自分と、同じものにしたかったのだ。
愛したかったのだ。
だから少年の母は――父を食べた。
その光景が、慧音には、ありありと想像できた。
だからこそ、言えることは、何もなかった。
慧音には、そんな相手はいない。
食べてしまいたいほどに好きな相手も、食べられてもいいと思えるような相手もいない。
大切な友人がいるくらいだ。
静かに燃える炎のような――その女性の、愛情は、分からない。
だからこそ慧音は何も言わず、少年は埋め続ける。穴の脇に積まれた土を、スコップで押して戻す。
手を土の中に埋め、先の墓と同じように土を被せた。
「でも――」
そこで少年は、一拍間を置いた。
上半身を起こし、身をひねって、慧音を見る。
自分の肩までしかない小さな少年。真摯な瞳の少年から、慧音は目を逸らさない。
慧音の瞳を覗きこんで、少年は、はっきりと言った。
「おっとうがいないことに耐えられなくて、おっかあは死んじまった」
「――――」
なんと言えば、よかったのだろう?
慧音には分からない。
分かることは幾つもある。
たとえば、さっき埋めていた手が父親のものならば――遺骨の方は、誰のものなのかとか。
少年の母親がどうなったのかとか。
なぜ墓が二つあるのかとか。
なぜ、少年が、一人きりなのかとか。
そういった疑問の数々に、慧音は今、答えを出すことができる。
少年がはっきりと教えてくれたからだ。
けれど――少年に対して、何を言えばいいのか、まったく分からない。
両親を失い、その墓を掘る少年に、何と声をかければいいのか、分からなかった。
「おっかあもおっとうもいっちまった。だから俺――墓、作ろうと思って」
少年の手から、スコップが離れた。
倒れたスコップが、土にぶつかって鈍い音をたてる。
少年は拾おうとしなかった。もう、拾う必要がないのだ。
二人の墓を作り終えたのだから。
全てを終え、惚けたように立ち尽くして、少年は慧音を見ていた。
慧音もまた、少年を見る。
ほとんど最初から、分かっていた。
だからこそ、言わなければならないことがあった。
――否。
それを訊かなければ、自分はきっと後悔する。
だから、慧音は訊ねた。
「――きみの墓は、掘らなくていいのか?」
少年は。
半分が人の少年は。
半分が妖怪の少年は。
生まれるまえに死んでしまったであろう少年は。
生まれた瞬間に死んでしまったであろう少年は。
曖昧に――けれど、少しだけ嬉しそうに、笑った。
それが、慧音が、見た、少年の最後の姿だった。
幻だったかのように少年の姿が消える。
闇夜に溶けるように消えてしまう。
はじめから、そんな少年はいなかったかのように。
やるべきことを終え、遠くへ去ってしまったかのように。
どれくらい遠くかといえば――きっと、空よりも遠く、高い場所に行ったのだ。
後に残ったのは。
恐らくは、父親のものであったであろう藍色の作務衣と。
小さな骨が、一本だけ。
慧音は空を見上げる。月はまだ頭上にあって、夜明けは遠かった。
少年は、答えなかった。
はい、とも、いいえ、とも言わなかった。
ただ、笑っただけだった。
けど、その笑いが、幸せそうだったから。
――墓を作ろう。慧音は、そう思った。
置きっぱなしになったスコップを手に取る。子供が持っていたにしては重い。
半人半妖だったからか、と思う。
そう思うと、少しだけ愉快だった。自分と少年は、似たようなものだからだ。
半分、か。
そう思うと、不思議な気がした。
少年の父は、人の天国に行ったのだろうか。
少年の母は、妖怪の天国に行ったのだろうか。
ならば、あの少年の魂は、どこへ行くのだろう。
ならば――私の魂は、どこへ行くのだろう。
そう思うと愉快だった。自分にも分からないことがあるのが、慧音には楽しいと思えた。
スコップに力を込めて、穴を掘る。
父親が埋まった穴と。
母親が埋まった穴と。
その間の隙間にスコップを突きたて、慧音は穴を掘っていく。
弾幕を打ち込めば穴などすぐに掘れるのだが、決してそうしようとはしない。あくまでも、スコップを使って掘る。
小一時間もかからずに、深い穴は出来上がる。
作務衣と小さな骨をその一番底に置いて、少しだけ迷って、スコップも底に突きたてた。柄の部分が、かすかに地上に顔を覗かせる。
墓標、のようなものだ。
それは感傷だ、と慧音は思う。
魂は空へと昇っていって。
肉体は土へと帰って。
墓を作るのは、ただの、感傷に過ぎないのだ。
その感傷が、とてつもなく、愛しく思える。
無駄なこと、感傷を捨てないからこそ、私は半分人なのだ――そう思った。
墓は、魂のためでも、肉体のためでもない。
残されたものが手をあわせるために作るのだから。
土を被せる。少年の上に。スコップを覆い隠すように。
すべてを戻せば、微かに土のふくらみが出来るだけで、元通りになる。雨でも降れば、その膨らみさえもなくなるだろう。
有機的なスコップ、その取っ手部分だけが顔を覗かせている。
――来年、また来よう。手を合わせに。
そう思いながら慧音は立ち上がる。普通ならば、『覚えていれば』と枕詞がつくところだ。
が、慧音にはそれはない。
半白沢の慧音は忘れない。
少年のことを、忘れない。
出会ったことのない、少年の父と母のことを、忘れない。
一つの家族の死を、慧音は忘れない。
だから――来年も、来ようと誓った。
立ち上がり、踵を返す。
空には何も見えない。雲と、月があるだけだ。
博麗大結界も、白玉楼も、『天国』も、目には見えない。
神様がいるかどうかすら、定かではない。
もし、そんなものがいるのならば。
もし、そんなものがあるのならば。
少年と、父と、母が――死後、再び仲良く過ごせるように。
そう、願ってしまった。
月の下、慧音は歩き出す。気軽な足取りで、迷うこともなく、闇夜を切り裂いて歩く。
振り返ることはない。
見らずとも。
居らずとも。
三つの墓はそこにある。
明日も変わらず、そこにあるだろう。
明後日も変わらず、そこにあるだろう。
明々後日も変わらず、そこにあるだろう。
その次の日も、その次の日も、変わることなく、そこにあるだろう。
一週間後も、一年後も――墓は変わらず、そこにあるだろう。
そして、墓の下で眠る骸は土に溶け、新たな栄養になるだろう。
骸の上からは、草と、花と、木が生まれてくるだろう。
スコップの柄が風化して消えるほどの時間が経つころには、巨大な森が出来ているだろう。
ならば――墓は、そこにあるのだ。
慧音が忘れてしまっても。
慧音が死んでしまっても。
誰からも忘れさられても。
三つの墓は、そこにあるのだろう。
歩き去る。振り返らない。
慧音は歩きながら、ふと思う。
半人半獣の私は――――――――――――――――――――――――――――
けれどそれは、考えても詮のないことだ。
慧音は歩く。空を見上げれば月がある。
帰ったら、台所の奥にある、秘蔵の酒を開けよう。月と、森を見ながら、一人で静かに飲もう。
足取りは軽く。
かすかに唄いながら。
慧音は、三つの墓と森を後にした。
(了)
けーねの半獣属性は後天的なものだと思っていますが、この際関係なし。