……忘れ雪が……舞って ……冬が 閉じ……
――そんな歌が聞こえて来たのは、私がいつものように、カメラを手に記事のネタを求めて空を彷徨っている時だった。
私は空中で立ち止まり、全身で伸びをする。続いて深呼吸。春の空気をめいっぱい取り込んだ。
春の麗らかな陽射しを一身に浴びていると、何だか心の中まであたたまってゆく気がした。
最初はその歌は、気のせいかなと思った。なぜならその歌声は、春風のようにやわらかくほのかで、まるで淡雪みたいに、儚く空に溶け消えてしまったからだった。
白昼夢とまではいかなくとも、春という陽気が気まぐれに私にもたらした幻聴なのだろうか、と。
けれど、空中で静止したままよく耳を澄ませてみると、曲は分からないけれども、確かにどこからか誰かの歌声が聞こえて来るのだった。
今日は私は、幻想郷の春の様子を取材して回ろうと思っていたところだった。
とは言え、これと言って行く当てがあった訳でもない。ならばと思い、私はその歌の出所を探してみることにした。
「またけったいなのが来たわね」
「何だ? ここの食い物につられて来たのか?」
「違いますよっ。全く……」
地面に着地したそばから、酷い言われようである。
歌声を求めて私が辿り着いたのは、意外と言うか、博麗神社だった。神社の周りに植えられた桜は丁度満開を迎えていて、こうして地上から見上げると、青空を覆い尽くすまでに桃色の花が咲き誇っている。
ふわり、と風が吹くと、ひらり、と花弁が舞う。
もしかしたら、ここ博麗神社の桜が、幻想郷中の桜の中で最も美しいのかも知れない、などと思う。
早速、桜の木々を写真に収める。全体を覆う薄桃色の花びらと、その隙間からのぞく青い空。いい一枚だ。
そんな桜の木の下でお弁当を広げて花見をしているのは、霊夢さんと魔理沙さん。いつもの二人だった。
「魔理沙だって、食べ物につられて来たようなものじゃない」
「まあな。でもいいじゃないか。花見はみんなでするものだろう? それに、随分と料理を振舞ってるじゃないか。一人でこれ全部食べるつもりだったのか?」
魔理沙さんが、広げられたお弁当を見渡す。
おにぎりに煮物、肉団子に玉子焼き、稲荷寿司に山菜数種、三色団子に桜餅に、どこから調達したのか分からない海老天、その他諸々。品数も豊富で、随分と豪勢だ。これを全部、霊夢さんが用意したと言うのだろうか。確かに一人分ではないだろう。
「桜も満開だから、どうせ今日あたりは誰かしら来るだろうと思ってたのよ。そしたら案の定、魔理沙が来たって訳。私の勘は当たるのよ」
「それはそれは、ありがたい」
「だから、次は魔理沙の番ね。夕餉の支度とか色々」
「ひどいぜ」
やれやれ、といった風に、魔理沙さんが肩をすくめて苦笑する。対して霊夢さんはすまし顔でお茶を啜っていた。相変わらずの二人に、私の方がやれやれと言いたい気分になる。
というか、私はこんな仕様もない話をしに来たのではないのだ。
「ところで、こちらでどなたか歌を歌っていませんでしたか?」
「歌? ん……ああ、それならあいつだ」
魔理沙さんがおにぎりをくわえたまま、社殿の屋根の上を指差す。
示された方向へ目をやると、そこにはミスティアさんがいた。手にウグイスとおぼしき鳥を乗せている。何かお喋りでもしているのだろうか。
「さっきまでそばで歌っててやかましかったんだが、コレ見せたらあそこまで逃げ出したんだ」
とニヤニヤしながら言って、魔理沙さんが手に持ってフリフリしているのは…………一本の、焼き鳥。お弁当の献立のひとつだ。せっかくさっきは「その他諸々」にカテゴライズして目を逸らしておいたと言うのに、こうして目の前に差し出されたら、その存在を認めざるを得ないではないか。
「全く……。食べるな、とは言いません。どうせ言っても無駄でしょうからね。だからせめて、私たちの前には出さないで下さい!」
「へいへい」
分かったのか分かってないのか、手をひらひらさせながらの、おざなりな返事。どうせ分かってないだろうが。
相変わらずの魔理沙さんはほっぽって、私はミスティアさんの方に向き直った。
彼女はウグイスを空に放ち、立ち上がる。どうやらまた歌ってくれるようだ。
す……と瞳を閉じ、おもむろに手を後ろに組んで翼を広げるミスティアさん。ゆるりとしたやわらかなその動作は、彼女が自然にその姿勢を取っていることを表している。生きることがすなわち歌うことである彼女に、ぴったりのスタイルだった。
――桜咲く 香りよ
春を届けし 風よ
今まさに 花開く
まるで 目覚めるように――
歌詞も、旋律も、やはり私の知らないもの。春の陽気のように、穏やかでゆったりとした歌だった。私たちの耳にそっと届けるように、曲の一節一節をふんわりと歌い上げてくれる。
声量は決して大きくはないのに、遠く遠く、空のずっと向こうにまで行き渡りそうな、そんな歌声だった。
そう言えば、私が最初に彼女の歌声を聞いた時も、ここからは離れた場所だった。彼女の歌には、何か不思議な力が宿っているのかも知れない。
私はカメラを取り出し、歌を歌うミスティアさんを撮影させてもらう。桜の花に囲まれたステージに立つその姿は、春の訪れを喜び歌う歌姫のようだった。写真だけでは歌声までは切り取れないのが実に惜しいと思う。
私は、抜けるように晴れた清々しい空を見上げる。
この歌は、幻想郷のどこにまで届けられているのだろうか――。
「あ」
青色に塗られた空の中、黄金色の髪をなびかせた白い姿がひとつ、視界に映った。
「お、リリーホワイトだなあれ」
「春だものね」
リリーさんもこちらに気付いたようで、私たちに向けて笑顔で手をぶんぶんと振ってくれた。きっと、めいっぱいに春を伝えているつもりなのだろうと思う。
ミスティアさんに続いて、笑顔のリリーさんも写真に撮った。良い一枚だった。
興奮しているとあたり構わず弾を飛ばして来る彼女だけれども、今日は大丈夫なようだ。春らしく、桜の花びらを辺りに振りまいている。それも彼女の能力なのだろう。
彼女も、ミスティアさんが歌う春の歌に誘われてここまで来たのだろうか。ミスティアさんのそばで翼を休めて、耳をそばだてるようにしている。
――さあ 春を伝えに行こう
あなたには 翼がある
風に乗って 飛び立とう
私にも 翼がある――
偶然なのか、サビの部分は、まるでリリーさんへ向けて歌っているような歌詞だった。
意外にも、霊夢さんと魔理沙さんも、目を閉じて歌に聞き入っている。
ひとしきりミスティアさんのそばで歌を聞けて満足したのか、ぺこりと頭を下げて、リリーさんがまたどこかへ飛んでゆく。その姿はすぐさま桜の花の向こうに隠れていってしまった。
ふと、私は今までリリーさんに取材を敢行したことがなかったことに思い当たった。
丁度良い機会だ。
「私、ちょっとリリーさんのところに行って来ますね」
まだ歌を聞いている二人に小声で言い、飛び立つ。ミスティアさんの歌をそばでもっと聞いていたいとも思ったけれど、やはり取材本能が優先されるのだ。
飛び出したついでに、空中からもミスティアさんのショットを一枚押さえる。うむ、これも良い一枚だ。
――風になって 飛び立とう
私にも 翼がある――
繰り返されるサビの部分。心地良く耳に響いた。
そう言えば、私にも翼があったっけ、などと今更ながらに思った。
「いませんね……」
手でひさしを作り、空中で360度全方位を見回す。あちこちに春の景色を見ることが出来るが、肝心のリリーさんの姿が見当たらなかった。どこへ行ってしまったのだろうか。
彼女が飛んで行った方向は……。確か、博麗神社正面の石段を下る方向に針路を取っていた。まだ遠くへ行ってしまったということはないだろうから、その方向を飛んで捜してみることにした。
「……あれは?」
と、その方向に、こちら――博麗神社の方に向かってくる影が二つ。一方は日傘を手にしている。見覚えのある姿。咲夜さんとレミリアさんだった。
「あら、新聞屋さん、こんにちは」
「ねえ咲夜、誰だっけこの人?」
子供がよく分からないものを指差すような、そのまんまな仕草でレミリアさんが言う。……私は彼女に覚えられてないのか。
「文々。新聞の射命丸文です。この間、取材でそちらの館に伺ったじゃないですか」
「……ああ、思い出したわ。そんなこともあったわね。どうにも印象が薄いのよ、貴方」
「薄い……ですか?」
そんなことを言われたのは初めてだ。記者たるもの、取材対象には顔と名前を覚えられてナンボのところがあるから、もっと精進せねばならない。
「だってねぇ、ウチに来る連中ときたら、紅白とか黒白とか、何かと騒がしいやつらばっかりだし」
ああ、その二人なら確かに騒がしそうだし、無駄に印象に残る。って、そんな二人と比べられても困るのだけれど。
「でもお嬢様、彼女は客人としてはきちんと礼節を弁えています。あの二人とは違って」
「だから印象が薄いのね」
せっかく咲夜さんがフォローを入れてくれたのにこの言われよう。レミリアさんにとっては、印象深いかそうでないかだけが問題なのだろうか。というかあの二人と比べられてもホントに困る。
「まあ、そんなことは置いておいて。今日はお二方はお出掛けなのですか?」
「ええ、お嬢様が博麗神社で花見をご所望で」
そう言う咲夜さんは、大きめのランチボックスを手にしている。魔理沙さんとは違ってきちんと弁当を用意しているという訳か。
誰かが来そうだと言う霊夢さんの勘が見事に当たっていて、何だか面白い。
「そう。ここは、こんなに桜の花が咲いているのよ。それを楽しまない手はないわ」
レミリアさんが芝居がかった仕草で両手を広げ、眼下で満開に花を咲かせる桜の木々に目をやる。まるで、ここ一体の桜は我が物であるとでも言うかのように。
けれど、紅魔館という洋館に住む彼女が桜に興味を持つこと自体、私には何となく似合わない感じがした。
「レミリアさんは、桜の花がお好きなのですか?」
「ええ。綺麗でいいじゃないの」
さも当然のように言う。
「どちらかと言えば西洋的な貴方が、和の心として親しまれている桜を好むのは、何だか不思議な感じです」
「愚かね。花の綺麗さを解するのにわざわざ洋の東西の別を問う必要があるのかしら?」
「う……」
私はあくまでためしに訊いてみたまでなのだが、愚かとまで言われてしまった。しかしこれは、問うた私の方が悪いのだろう。文化のレベルでどうあろうと、個人レベルで桜を好むかはまた別の話だ。
風が吹いて、どこからともなく桜の花びらが運ばれて来る。それは何かに導かれるように、レミリアさんの周囲を取り囲むように渦を巻く。そしてまた手を広げ、花びらと共に舞うようにくるりと一つターンする。
「燃え盛るように咲き乱れ、刹那の内に燃え尽きるように散っていく。
いいじゃないの。そう、まるで――――人間みたいで」
くすり、と。
不敵に笑うその表情は、人が畏怖する吸血鬼そのものだった。小さな身体から押し寄せる、圧倒的な威圧感。人ならぬ身である私でも、思わず背筋に寒気が走った。自然、身体が緊張を強いられる。
と、張り詰めた空気を解くように咲夜さんが飄々と口を挟んだ。
「お嬢様、あまり動かれると日傘から外れて日の光が当たってしまいますよ」
「ちょっと咲夜、せっかくカッコ良く決めたのにオチつけるようなこと言わないの!」
咲夜さんへ、子供みたいに文句をつけるレミリアさん。先ほどまでの威圧感はどこへやら、である。我がままな子供とその保護者という構図そのままに見えたが、そんな失礼なことを言おうものならこの場で焼き鳥どころか消し炭にされてしまいそうなので黙っておいた。
「そういえば文さん、あなたはここで何を?」
「ああ、そうでした。お二方はリリーホワイトさんを見かけませんでしたか? 私は今幻想郷の春の様子を見て回ってるところでして。先ほど彼女の姿を見かけたんですが見失ってしまって……」
「リリーホワイト? 彼女ならさっき会ったわよ。あっちへ飛んでいったわ」
咲夜さんが、博麗神社と反対方向の平野部を指差す。
「ねぇ咲夜、リリーホワイトって、春春言ってた、いかにも頭が春っぽかったさっきのアレ?」
「そうですわ、お嬢様」
……レミリアさんにこんなことを言われているだなんて、夢にも思っていないだろうなぁ、彼女。
というか、リリーさんは本当に誰彼構わずそんな風に春を伝えているのか。妥協の一切ないその在り方には尊敬の念さえ覚える。
「ありがとうございます。では私はリリーさんを追って行きますので、これで失礼します」
「そう、じゃあ私たちも花見に行こうかしらね、咲夜」
「はい、お嬢様」
二人はそのまま地上へと降りて行った。
私は、桜の木に近寄っていったレミリアさんを写真に収める。
桜と、吸血鬼。
その奇妙な組み合わせが、今は不思議と馴染んで見えた。
人は、儚く散りゆく桜の花に美しさを見い出し、その姿を自身に重ねるという。
レミリアさんは、人でない立場でありながら、桜のそんな在りようを、人間になぞらえた。
興味深い一致だと思う。
――桜の花 いざや
ゆるり 花開き
誇り高く 咲き乱れ
儚く 散りゆけ――
ミスティアさんの歌が聞こえる。
「リリーさーんはどこですか~」
意味もなく、歌うように声を出す。返事はない。当たり前だが。
咲夜さんに教えられた方角を探しているのだけれども、リリーさんの姿は見当たらない。のん気にお喋りしていたのが災いした。でも、それはそれで得る物があったのも事実だから、無駄に足踏みしていたことにはならないだろう。
地上を見やる。
瑞々しいまでの草木の緑が眩しい。
リリーさんはもう、この辺り一体にも春を伝え終えているのだろうか。
「おや、あの後ろ姿は……」
山間部のふもとに当たるところ。桜の木の下に座る、銀色の長い髪の二人。
「どうもこんにちは、慧音さんに妹紅さん」
「おや新聞屋さん、こんにちは」
「あれぇ、私は焼き鳥の追加を注文した覚えはないんだけどなぁ」
「焼き鳥言うな」
のっけから酷い言われようだ。
「冗談さ、冗談」
「たちの悪い冗談です。……それはともかく、お二方もお花見ですか?」
「まあね。慧音が誘ってくれたんだ」
「お二方はお知り合いだったのですね」
「うん。友達ってやつだね」
屈託なく友達と言われ、慧音さんが微妙に照れている。妹紅さんは気付いてないが。
慧音さんは妖怪の身でありながら普段は里にいて、人間たちを守る立場にある。そんな彼女にとって、「友達」と言える存在は実は少ないのかも知れない、などと思う。
やはりお花見にはお弁当がつきもので、二人の前にも置かれている。おにぎりとか山菜とか。焼き鳥は視界に入らなかったことにした。
「で、ブンヤさんはこんなところで何してるんだい? 身体を張った食材提供?」
「ですから……」
「だから冗談さ。お前さんは煮ても焼いても食えなさそうだしね。慧音の作ってくれたお弁当の方がずっと美味しいよ」
「も、妹紅……」
慧音さんがおにぎりくわえたまま、またしても困ったように照れている。狼狽する慧音さんというのも中々にレアだ。普段が真面目なだけに。
「あれ、慧音、口もとにご飯つぶついてるよ」
「ほ、本当か?」
確かに一粒ついている。慧音さん動揺し過ぎである。
「取ってあげる」
妹紅さんが腕を伸ばして、そのご飯つぶをつまみ取る。つまみ取ったご飯つぶを、そのまま自分の口に放り込んだ。
「も、妹紅! なに食べてるんだ!」
「いいじゃない、このくらい気にしなくても。慧音の味がしたよ」
ボンッ。
慧音さん頭が爆発した。その顔がいい感じに赤く染まっている。もじもじしてる姿が何だか可愛い。
「ううぅ……」
「ほらほら、水でも飲んで落ち着きなって」
「あ、ああ」
妹紅さんから竹の水筒を受け取り、ごくごくと飲む。ふぅっとひと息。
「さ、桜の花が綺麗だな、今日は」
「そうだねぇ」
「そうですねぇ」
平静を装う慧音さんも面白い。顔をそむけるように、また水を口にする。
その時だった。
春風に運ばれるように歌が聞こえてきたのは。
――桜の花を 見てるフリをして~
そっぽ向く あなたの頬も おなじ桜色~
まだkissさえもしてないのに ねぇ どうしたの~♪ ――
ブハッッッ!!
慧音さんが噴き出した。盛大に。
「ななな、何だ今の歌は!」
「あー、これはミスティアさんが歌を歌ってるんですよ。嬉しそうな曲でしたね今の」
「キキキ、キスって一体何だはしたないっ」
「慧音、面白すぎー」
妹紅さんは手をはたいて大笑いだ。
かく言う私も笑いが止まらない。慧音さんがここまで動揺してしまうとは。真面目過ぎると言うか純情と言うか。桜色を通り越してトマト並みに赤くなっている。
ミスティアさんもいいタイミングでいい歌を届けてくれたものだ。
「ちょ、ちょっとそこの沢で顔洗ってくる!」
「はいよー」
慧音さんがどこかへ飛んでいく。言っては悪いが、まるで逃げるみたいな後ろ姿だった。
「はー面白かったー」
「う~ん、慧音さんってあんな面もあったんですねぇ」
「まあね。普段がくそ真面目な分、からかわれるのには弱いんだ」
「そんな感じですね」
私も、妹紅さんの隣りに腰を下ろす。若草が素足に触れてこそばゆかった。
「慧音はガチガチにお堅い性格だから、こういう時くらいは存分にリラックスして欲しいよ。普段は苦労も多いだろうし」
「…………」
「……お前さんは普段の慧音を知ってる?」
「はい。いつもは里にいて、妖怪から人間たちを守っていることは」
「そう。慧音は妖怪の中でも力のある方だから、並大抵の連中に負けることはまずないけれど、何せ一人でやってることだからね。大変だよ。人間ったって、みんながみんないいやつばっかりじゃないだろうし」
「……人間である貴方が言うと、妙な説得力がありますね」
「そんな里の人間を守り、私みたいな変な人間にも構ってくれる。慧音は凄く変わってる。……でも、凄くいい娘だと思う」
「そうですねぇ。慧音さんはとても良い方ですし、あなたも変な人間ですし」
「言うねぇ」
笑って、妹紅さんは草むらに仰向けに倒れ込む。
私も彼女に合わせるように寝転んだ。若草のにおいが間近に感じられた。
「でも、慧音さんにとって人間は全て守る対象ですから、貴方もその一人なのでしょう。変でも何でも」
「一言余計。それに私は、別に誰に守られなくても一人で生きていける。慧音と会う前からずっとそうして来たんだから」
「素直ではないですね」
「永く生きてると、人間どこかスレてしまうものなのさ」
「…………」
顔を傾けて、妹紅さんの横顔を見る。微動だにしない。どこか焦点の合わない瞳で空を見上げているだけだ。
そんな彼女に、私はまともな返事が出来なかった。
詳しいことは知らないけれど、彼女は人間ではありえない長さの年月を、既に生きているらしい。
「……でも、最近になって思うようになった。慧音は、私の“心”を、守ってくれているんだなぁ、って」
「心、ですか?」
「うん」
私に、というよりは、空に向けて話しているようだった。
妹紅さんの言葉の真意が、私にはよくつかめなかった。詳しく訊いてみたいとも思うけれど、それは私が触れてはいけないことのような気がした。きっとそれは、慧音さんだけが立ち入ることを許される、妹紅さんの深い心の領域なのだろうと思う。
「……少し、お喋りが過ぎたかな」
よっこらせ、と、年寄りじみたことを口にしつつ、妹紅さんが身体を起こした。
「ところで、さっき聞きそびれたけど、お前さんはこんな幻想郷の片田舎に何しに来たのさ?」
「あっ」
私はがばっと身体を起こす。いけない、すっかり忘れている。
「そうですよ、私は今リリーホワイトさんを捜してるところなんです。見ませんでした?」
「リリーホワイト? あの春の妖精なら、さっき慧音と一緒に見たよ。桜の花びらを振りまきながら、あっちに飛んでいった」
妹紅さんの指差す方向は確か……竹林のある方だったか。
草の上に手をついて、立ち上がる。よっこらせ、などとは言わない。
「ありがとうございます。では私はリリーさんを追い掛けますのでこれにて。慧音さんによろしくお伝え下さい」
「せわしいねぇ。のどかな春の昼下がり、もっとのんびりしようよ」
「いえ、記者たるものそうはいきません。ネタは鮮度が命ですから」
「ふ~ん、大変だねぇ」
「仕事ですから。それじゃ、失礼します」
ふわりと、春風に乗るように飛び立つ。春と烏は合わないかも知れないけれど、これは気分の問題だからいいのだ。
「そうそう、言い忘れてたけどさー」
地上の妹紅さんから声が掛かる。何かニヤニヤしてる。
「そっちは焼き鳥のメッカだから気を付けなー!」
「うるさ~い!」
妹紅さんはやっぱり妹紅さんだった。
「は~るがき~た~ は~るがき~た~ ど~こ~に~ 来た~」
ミスティアさんの真似をして、私も歌を歌ってみる。けどリリーさんは聞きに来てくれない。……私が音痴だからか?
「山にき~た~ 里にき~た~ 竹林に~も~ 来た~」
……むぅ、語呂が悪すぎる。竹林の前にいるからって、変えるのは良くないようだ。
「何かヘタっぴな歌が聞こえるねー鈴仙」
「こら、てゐ。ホントでもそういうこと言わないの!」
ひどいこと言われた気がする。……ってそうじゃなくて。
声のした方、竹林の中から現れたのは、鈴仙さんとてゐさん。と、その後ろには永琳さんと輝夜さんもいた。
「あ、え~と、文さん、こんにちは」
「え~、コホン。どうも、皆さんおそろいで」
私は鈴仙さんと向かい合うが、互いに、微妙に視線をそらしている。何だか気まずい。というか、さっきのはフォローになってませんよ鈴仙さん。ううぅ。
「あら、新聞屋さん。お久し振り」
「……あ、こんにちは、永琳さん。その節はどうも」
永琳さんが前に出て来てくれたおかげで、微妙な空気が取り払われる。
「また何かの取材かしら? でもごめんなさいね、今からちょっと出掛けるところだから」
「あ、いえ、そういう訳ではないです。ええと、このあたりでリリーホワイトさんを見かけませんでした? 私は今彼女を取材しようと思って追い掛けてるのですが」
「リリーホワイト? さっき見たわよ」
横からてゐさんが口を挟む。
「ホントですか?」
「うん。今さっき竹林の中で迷子になって半ベソかいてたから、私が出る道を教えてあげたの」
迷子……。可哀想に、リリーさん。きっと、迷子になることをも覚悟で竹林の中へも春を伝えに行ったのだろう。その健気な姿を想像すると涙を禁じ得ない。
「……それで、そのあとリリーさんはどこに向かったかとか、分かりますか?」
「そうそう『私、誰かに追い回されてるんです! 助けて下さい!』とか言ってた。あんたのことだったのね」
「えっ! ちょ、ちょっと待って下さいよそんな」
「こら、てゐ! いい加減なこと言わないの!」
鈴仙さんがてゐさんの頭をぺしりと叩く。嘘を言っていたようだ。
「いいじゃないのー。このくらい序の口じゃなーい」
「そういう問題じゃないでしょ!」
そうだ。序の口でも関脇でも嘘は嘘だろう。
というか、私がリリーさんを追い回しているのは事実だから、危うく嘘に引っかかるところだった。別にリリーさんを取って食おうとしている訳ではないとは言え、当の本人にストーカー認定されてしまったらたまらない。
「ええと確か、後はマヨヒガとか冥界がとか言ってた」
鈴仙さんが、てゐさんの耳を掴んだまま教えてくれた。
う~ん、リリーさんは本当に幻想郷全体をカバーしているようだ。そんなところにまで行くとは。
「分かりました。ご協力ありがとうございます」
「ああ、ちょっと待って」
「?」
そのままマヨヒガに向かおうとした私を呼び止めたのは、永琳さんだった。
「なんでしょう?」
「貴方、新聞記者よね。なら色んなことに詳しいと思うんだけど、この辺りでどこかお花見をするのにいい場所を知らないかしら?」
「皆さん、お花見でお出掛けだったのですか」
よく見れば、鈴仙さんが何か荷物を持っている。あれはお弁当か。
「ええ。たまには皆で外に出るのもいいでしょうから。それで、どこかいい場所を知らない?」
彼女たちは、どこへ行くかも決めないで出て来たのだろうか。まあこの時期なら、適当に出歩けばどこかで桜の木に出くわすだろうけど。月人たちの考えることはよく分からない。
ともあれ、いい場所と言われたら、やはりあそこだろう。
「さっき行って来たところですが、博麗神社はどうでしょう。桜が丁度満開で、凄く綺麗ですよ」
「あの巫女のところね。それも面白いわね」
「それと、お花見の情報をご所望であれば、我が文々。新聞を購読されることをお勧めします。幻想郷各地の桜の開花予想から、満開の予報、オススメの花見スポットの紹介などなど、春の幻想郷ライフを満喫する特集情報が満載でございます」
「あら、それはいいわね。今度からお願いしようかしら」
「是非是非」
好感触。私は心の中でよっしゃあとガッツポーズした。
とは言うものの、花見スポットの紹介はしたことがあるけれど、桜の開花予想なんて実はやっていなかったりする。まあ、来シーズンからやろうと思っていたことだから構わないだろう。そういうコトにする。
……ところで。
先ほどから、てゐさんが鈴仙さんの後ろでコソコソと何かしているのが視界の端に映っていて、気になって仕方が無いのだが。
「も~らいっ」
「あっ、てゐ! 何してるのよ!」
鈴仙さんの手をかわし、文字通り脱兎の如く逃げ出すてゐさん。手には一本のニンジン。
「それは私のおやつよ~!」
「へへ~ん」
何やら情けない声を上げて鈴仙さんが追い掛けるが、てゐさんの足も中々のものだ。ていうかニンジンっておやつなのか。まあ、兎だからいいのか。
「……やれやれ、何してるのかしらねぇあの子たち」
永琳さんが駆け回る二人を横目に、頬に手を当てて困ったように苦笑する。とは言え口調はのんびりとしたもので、別段困っている訳ではなさそうだった。
「あら、いいことじゃないの。元気で」
「えっ?」
口を開いたのは、先ほどまで黙って事の成り行きを見ていた輝夜さんだった。口元に笑みを浮かべて、追いかけっこをする二人を目で追っていた。
「私も混ぜてもらおうかしら」
「姫?」
言うが早いか、輝夜さんは駆け出していた。
「イナバ待ちなさ~い!」
「って姫様何で私を!?」
「問答無用よ~!」
「ひゃわ~~!」
「わ~!」
てゐさんを鈴仙さんが追い掛け、その鈴仙さんをさらに輝夜さんが追い掛ける。何だかよく分からない光景だった。
「まあ、てゐは普段ほとんど外に出てないからはしゃいでるんでしょうけど。姫まで……」
「なんかこう、春ですねぇ」
「ホント、何してるのかしらねぇあの子たち」
“あの子たち”にもう一人加わったようだ。と言っても、やはり困っているようには見えない。
とりあえず、走り回る輝夜さんというのは存外にレアな気がするので、三人まとめて写真に撮ってみた。使い道はないけれど、まあいいだろう。
てゐさんがはしゃいだまま空中に飛び上がる。
「私より先に博麗神社に着いたら返してあげるー」
「もぉ! 師匠、先に行ってます!」
「ほらほら、イナバ! 後ろなんか向いてる余裕があって?」
「ひゃ~!」
三人寄れば姦しいとはよく言ったものだ。三人は騒がしさそのままに博麗神社の方向へ飛んで行ってしまった。
鈴仙さんはこの勝負に負けたら、ニンジンをタダで取られるという訳か。中々に理不尽だ。
「なんかこう、あなたの言うとおり、春ねぇ……」
ボヤく永琳さん。でもやっぱり、困っている訳ではなさそうだった。
三人が飛んでいった空を見やったままでいると、その方向から歌が聞こえてきた。
――は~るがき~た~ は~るがき~た~ ど~こ~に~ 来た~
山にき~た~ 里にき~た~ 神社にも~ 来た~――
「歌?」
「あ、これはミスティアさんの歌です。今博麗神社に行きますと、彼女の歌も聞けますよ」
「ふぅん、どこもかしこも春なのね」
そう。今は山も里も神社も、春真っ盛りなのだ。もちろん、それを享受している私たちみんなも。
「じゃあ私も、あの子たちを追い掛けて博麗神社に行こうかしらね」
「永琳さんは、鈴仙さんとてゐさんの、どっちの勝ちに賭けますか? 私は何だかんだ、鈴仙さんが先に向こうに到着していそうな気がしますが」
「そうね……、競争は鈴仙の勝ち。でもニンジンはてゐのもの、ってところかしらね」
「……あの二人らしいですね、それは」
どういう経緯でニンジンがてゐさんのものになるかはともかく、不思議と納得がいく。妹・てゐさんに振り回される、姉・鈴仙さんという構図が、ありありと浮かんだ。輝夜さんは……その二人の上のお姉さんだろうか。
「それじゃ、私は行くわね」
「あ、はい。博麗神社の桜、どうぞお楽しみ下さい」
別に何もしてないけれど、良いことをしたように感じられるのは何故だろうか。
そんなことをぼんやりと考えながら、飛び立つ永琳さんを見送っていると、不意に彼女がこちらを振り向いた。
「そうそう、貴方」
「なんでしょう?」
「歌を歌うなら、もう少し練習してからにすることをお勧めするわ」
「……精進します」
ううぅ。てゐさんみたいに陰で言われるのも凹むけど、こうしてハッキリ指摘されるのもそれはそれで痛い。
ふーんだ。どーせカラスは夕日に向かってカァカァ鳴いてりゃいいんでしょー!
……今日は、去り際の台詞にダメージを受ける日なのだろうか……。
「確かこっちの方で合っているはず……」
こっち、と言うのも微妙ではあるが。
マヨヒガという場所は本来、山の中を彷徨い歩いている時に突如見つかる立派な家とか言われている。けれどここ幻想郷においては、八雲さんらが住む単なる家だったりする。いつか彼女たちを取材に訪ねた時も普通に辿り着けたし。
そう言ってしまうと神秘性も何もあったものではないが、迷い家にあるものを持ち帰れば幸福が訪れるというのは伝承通りと聞く。
それに、これだけ山の深くにあるのだから、空を飛べない人間たちではそうそう辿り着けないのは確かだろう。
「あ、ありました」
山林の中にひっそりと佇む、一軒の家。マヨヒガ。空中からゆっくりと近付くと、縁側に人影が見えた。藍さんだ。
静かに庭に降り立つ。藍さんは縁側に腰を下ろし、目を閉じていた。座禅でもしているのだろうか。
私は音を立てぬよう、そろそろと近付いていく。もし本当に座禅の修行中であったなら、私はそのまま失礼するつもりだった。邪魔は良くない。
と、突如藍さんが目を見開く。私は驚いて声を上げそうになったが、藍さんは口元に人差し指を当て、静かに、の仕草をする。続いて反対の手の親指で自身の後方を指した。
その親指の先には、黄金色をした豊かな毛並みの藍さんの尻尾。……と、猫っぽい茶色の尻尾が二本見えた。あれは橙さんの尻尾か。
そのまま傍まで行ってもよいものかと思案したが、このまま帰ることの方が変だと思い直した。
「どうもこんにちは。すみません、お邪魔してしまって」
あくまで小声で話しかける。
「いや、構わないさ。どうせ暇だからね」
「あれ、でも座禅していたという訳ではないのですか?」
「いんや、昼寝だよ。橙と一緒にね」
そう言って後ろを向く藍さんの背中には、九尾の尻尾にくるまって幸せそうに眠る橙さんの寝顔があった。一本の尻尾を、抱き枕のように抱いている。
春のぽかぽか陽気。柔らかい日差し。藍さんのふかふかの尻尾。凄く気持ち良さそうだ。何だかうらやましい。私もこのふかふかの寝床で寝てみたい。
「ダメだよ」
「ぐぅ」
読まれてしまった。まあこれは、橙さん専用の寝床といったところなのだろう。
私は、藍さんの横に座らせてもらう。なるほど、ここの縁側は日当たりが良くて暖かい。午睡にはもってこいだ。
「それで、何の用? こんな辺境の地に」
「実は、特別に用という用があって来た訳ではないんです」
「?」
もちろん、リリーさんの取材をしたくて、ここまで彼女を追って来た訳ではある。けれど、その道すがら色んな方たちに会って、春の中での皆さんの様子を伺うことも、また大切だと思うようになって来た。もとより私は今日は、幻想郷の春の様子を見て回るつもりだったのだし。
そうして幻想郷中を巡る中で、リリーさんにも会えたらと思っている。
「藍さんは、どこかお花見に出掛けたりはしないのですか? あちこちで桜が満開ですよ」
住居の周囲には桜の木は見当たらず、囲まれるように常緑樹に覆われている。なるほど、これならば普通の人間にはここは見つからないことだろう。ただ失礼ながらその分だけ、いささか華やかさには欠ける印象だった。
地面には幾枚かの桜の花びらが見て取れるが、これはどこからか風で運ばれて来たのだろう。
「そうだねぇ、出掛けたいとは思ってるんだけれども……」
「……けれども?」
「春になると、近々紫様が冬眠から起きて来られるから、私はそれまでこうして待機をしていなければならないのさ」
八雲紫。
私は例の虐待事件のこともあって、彼女には良い印象を持っていない。何より今、その虐待の被害者が目の前にいるのだ。
「冬眠って……。もう十分に春なんですから、とっくに起きて来てもいい頃じゃないですか」
「冬眠と春眠がひと続きになっているだけさ。ここのところ、春眠の期間が長くなってるけれどね」
「……冬眠と春眠では、意味合いが全く異なる気がしますが」
「まあ、紫様のお考えは私には及びもつかない。それだけのことさ」
考えがどうとかそういう問題ではないんじゃないかと思ったが、当の藍さんの言葉には、迷いや淀みがない。嘘偽りなくそう思っているのだろう。
彼女が酷い目に遭っていた、あの虐待の現場を目の当たりにした身としては、その従順さが腑に落ちなかった。被害者としてあの虐待事件について思うところを訊ねたかったけれど、それは躊躇われるものがある。藍さんとしても、触れられたくはないだろう。
「別に、そんな寝ぼすけのことなんか脇に置いといて出掛けてしまえばいいじゃないですか。橙さんと一緒に」
「ははは、そうもいかないよ」
困ったように苦笑する。虐待に怯えているようにも見えなかった。
式神として在ることで何倍もの力を得られるということは、以前の取材で聞いた。そうであっても、紫さんからあんな仕打ちを受けて、なお平然とその式神でいることが信じられなかった。我が事でもないのに、私はもどかしささえ覚えた。
「あんなひどいことをする主なんて、ほっとけばいいんですよ」
あの時の虐待の様子が目の前によみがえり、私は少し興奮気味だった。思わず口が滑る。しまったと思った。
「……あまり、私の主を悪く言わないで頂きたい」
感情の篭らない声で、藍さんが言った。私は思わず、彼女と顔を見合わせる。
主の悪口を言われて憤っている訳でもなく、新たな虐待が加えられるのを恐れている訳でもなく。淡々とした口調だった。
「……すみません。言葉が過ぎました」
「でもまあ、貴方の言いたいことは分からないでもないけれど」
「?」
藍さんはひとつ、ふぅっと溜息をついて、立ち上がろうとする。しかし、尻尾に橙さんを寝かせていることに気付いて、上げかけた腰を元に戻した。
「知っての通り紫様は、普段どんなことを考えているのか表情からは全く読み取れないし、やることなすこと命令すること、私の理解の範囲を大いに逸脱することも日常茶飯事」
「…………」
「……でも、そんな紫様でも、従者のことをちゃんと想ってくれることもある。……例えば今の時期――春はどこか花見に連れて行ってくれたりね」
「そうなんですか……」
「まあでも、ここ最近の紫様は、二度寝三度寝が酷くてなかなか起きて来て下さらないから、そんなこともなくなってしまったけれどね」
遠くの空を見遣りながら、藍さんは言った。その横顔が、どこか寂しげだった。あまり、他人には見せたくない表情だろう。
私は立ち上がって、藍さんと同じ空を見上げる。ずっとそうしていると、ぽつりぽつりと点在する雲が、少しずつ、生い茂る木々の向こうへとたゆたい消えていく。
あの方向は……博麗神社か。
今頃はもう、レミリアさんや咲夜さんに加えて、永遠亭の面々も花見に参加していることだろう。永琳さんたちは、博麗神社の桜を楽しんでいるだろうか。そうであればいいのだけれど。
とは言えあの面子では、もしかしたら、もはや花見と言うよりは宴会の様相を呈しているかも知れない、などと思う。
ミスティアさん、まだ歌っているだろうか。
――と。
――続く桜の並木
あなたの手に引かれ 歩いていった 昔懐かしき 記憶
手のぬくもりさえ 今は 淡く 遠く 花霞のように――
「これは……?」
「ミスティアさんの歌です。博麗神社で歌っているのですが、不思議とこうして遠くまで聞こえるんです。先ほどから色んな歌を歌ってくれていて、楽しいですよ」
「…………」
藍さんの方を振り返る。彼女は、目を閉じ腕を組んで、黙り込んでしまっている。
いや、ただ黙しているのではない。歌声に耳を傾けているのだ。
「あなたの手に引かれ、か……」
再び目を開いて、藍さんがつぶやく。どこか憂いを含んだ表情。また遠くの空を見つめる。
「藍さんも、そうしてもらったことがあるのですか?」
あえて、誰に、とは言わない。
「あるよ」
率直で、確かな藍さんの返事。
紫さんが藍さんの手を引いて、桜並木を歩く――。申し訳ないが、私にはそんな光景は想像出来なかった。
「納得してないようなカオしてるけれど、本当さ。ずっとずっと、昔のことだけれどもね」
「そうですか……」
これ以上この話を続けるのは、何だか申し訳ないような気がした。
「……ところで、こちらでリリーさんを見かけましたか? 実は私は今、彼女を追い掛けながら色んなところを回ってるのですが」
「ああ、あの白い妖精なら、さっき見たよ。彼女を見ると、春だなぁって思う。そのあたりに落ちてる桜の花びらは、彼女が届けてくれたのさ」
「なるほど……」
「私にとっての春は、あの白い妖精と、こうして暖かそうに昼寝する橙の寝顔。それだけで、満足さ」
本当に満足そうにそう言って、藍さんは橙さんの頭を撫でている。橙さんはくすぐったそうに身をよじり、ふかふかの尻尾の中に顔をうずめていった。可愛らしい仕草だった。
一瞬、藍さんは自分みたいな寂しい思いをして欲しくないが為に、こうして橙さんを必要以上に気に掛けているのかと思ったけれど、それは穿ち過ぎだとも思った。
ただ単に、藍さんは橙さんのことを慈しんでいる。それだけのことなのだから。
これ以上、私はここにいる必要はないだろうと思った。
「それでは、私はリリーさんを追い掛けますので、失礼しますね」
「申し訳ないね、何のおもてなしも出来なくて」
「いえいえ。こちらこそお休みのところをすみません。では」
立ち上がって、空を見上げる。次は白玉楼か。
「あ、そうそう」
「何でしょうか?」
飛び上がろうとしていると、藍さんに呼び止められる。彼女も立ち上がろうとしているが、橙さんを尻尾に寝かせているのでやはり立てず、中腰で停止した。申し訳ないが何だか面白い。
「ええと……、さっきの紫様についての話は、くれぐれも内緒でお願いするよ」
視線を私から少しばかりそらして、頬をぽりぽりと掻いている。
きっと、変なことを言ったから虐待を恐れているとかいう訳ではなく、ただ単に、恥ずかしいからなのだろう。
そんな藍さんが、何だか可愛かった。
「大丈夫ですよ。私の胸の内だけに、とどめておきます」
「ありがとう」
そう言って腰を落ち着かせた藍さんを見届けて、私は風に乗って飛び立つ。
木々の上まで上昇してから、二人の方を振り返る。藍さんが橙さんの頭を撫でているのが遠目でも分かった。その周囲だけ、まるで木漏れ日が差し込んでいるかのように、暖かそうに映えて見えた。
春の日だまりに休む、式と式の式。その姿を一枚写真に撮る。今度会う時にでも差し上げよう。
控えめだけれども、こんな春の在りようも良いもの、と思った。
「あら天狗さん、お花見にいらしたのかしら?」
西行寺家の庭に降り立つと、幽々子さんは、前に取材で訪ねた時と同じ縁側に、同じように腰掛けて、同じように和菓子を口にしていた。違うのは、この間はおまんじゅうだったのが、今日は三色団子になっていることか。
……そんな差はどうでもいいか。
「花見、ですか。まあ、そんなようなものです」
「そう。じゃ、貴方もどうぞ」
と言って、幽々子さんが私に隣席を勧め、お団子を差し出す。お皿の上には、既に串だけになったお団子の残骸が何本も。前の時も思ったが、本当に良く食べるお嬢様だ。
「妖夢、お団子の追加と、お客様にお茶をよろしく」
後ろに控える妖夢さんに声を掛ける。
「はい、今ご用意いたします」
「あ、お構いなく」
「お団子は私ももっと食べたいのよ」
「はあ、そうですか……」
呆れて溜息をつきながらも、勧められるままに幽々子さんの隣りに腰掛ける。彼女から頂いた三色団子の一つ目を口にした時には、幽々子さん本人は一本まるまる平らげていた。
「どう? お団子美味しいでしょ」
「はい、確かに。……何だか、貴方にとっては文字通り、花より団子、ですね」
「まあ失礼ね」
「違うのですか?」
「違うわね。それを言うなら、花も団子も、よ」
「はあ……」
これは物凄く好意的な目で見れば、天真爛漫となるのだろうが、まあ要するに我がままということだろう。
「桜も綺麗で、お団子も美味しくて、言うことないわね」
幽々子さんが湯飲みを手に、白玉楼の広大な土地を見やる。
右も左も正面も、どこを見ても桜は満開。どこまで続いているのか確かめようとしても、地平の向こうはぼんやりと花で霞んでしまって分からなかった。
「博麗神社の桜も良かったのですが、ここの桜も凄く綺麗ですね」
「ありがとう。私の自慢のひとつよ」
「質問なのですが、妖夢さんは一人で、この異常に広い庭全体の手入れをなさっている訳ですか?」
「そうよ。掃除から、桜の木の剪定まで」
「だから休みがないのですね……。凄いです」
休みなしどころか、一年が何日あったとしてもこの庭全体の掃除をするには足りない気がする。
「妖夢はよく頑張っていると思うわ。まだまだ、甘いところもあるけれどもね」
幽々子さんがふっと微笑む。普段から割とのんびりした笑顔をしている方だという印象があるけれど、今のその表情は、嬉しさが内面から滲み出ているような、そんな柔らかな笑顔だった。
「たまには、褒めてあげたらいかがですか? ああいう子は、褒めたらもっと伸びる子だと思います。あなたは、誰かを褒めるとかそういうことをしなさそうに見えます」
「あら、あなたは結構お節介焼きなのね」
「まあ、人様の事情に首を突っ込むのが仕事のようなものですから」
そればかりが仕事という訳ではもちろんないが、人のことをネタにして売って、それでメシを食っているという側面が新聞記者にはある。だから記者たるもの、誰に対してどんな取材をするにしても、常に礼儀正しく謙虚に接し、相手の心をおもんばかるようにしなければならない。……まあ、そう思うようになったのは最近のことだけれども。
「そうね……。桜の剪定は難しいって、貴方は知ってるかしら?」
「そういえば、桜の木って剪定するものなのですか? よく『桜切る馬鹿 梅切らぬ馬鹿』とか言いますけど」
「ええ、桜にも剪定は必要よ。病気にかかった部分は切らないといけないし、枝どうしが絡んだりするのも病気の発生の原因になるから、枝の成長もきちんと管理していないといけないの。そして、桜は剪定に弱いから、切ったところはきちんと薬を塗っておく必要もあるわね」
「へぇ、そうなんですか」
「それに、剪定作業は主に、木々が葉を落とした寒い冬の間にするの。だから大変なのよ」
全て初耳だった。新聞記者として様々なことを見聞きするけれど、世の中にはやはり、私の知らないことがまだまだ溢れているのだと実感させられる。だからこそ、この仕事が楽しいのだけれども。
「……それはそれとして、このことと妖夢さんを褒めることと、どういう関係が?」
「目の前に咲く、桜の花を見なさい」
言われて、視線を隣りの幽々子さんから正面の桜の木々に向ける。
どの木も、自らの美しさを競うように満開に咲き誇り、それでいて、整った樹形の木が整然と並んで全体としても調和を成している。個々にじっくり見ても、総体として見渡しても、それぞれの美しさがあった。
すなわち、管理が行き届いているということか。
「そう。ここの桜たちは毎年綺麗に咲いているの。それは、長年に渡って妖夢がきちんと管理しているからなのよ。だから、私たちが桜の美しさを褒めることは、そのまま妖夢の仕事ぶりを褒めることになるのよ」
褒め方としてはいささか回りくどいと言える。けれど、話をはぐらかそうとしたり、何かと一筋縄ではいかない性格の幽々子さんらしいとも思えた。
そしてさっき、幽々子さんはここの桜の綺麗さを自慢のひとつだと言っていた。つまり、それを成した妖夢さんをも含めて、自慢なのだろう。
「妖夢さんは、自分がたくさん褒められてることに、気付いているのでしょうか」
「分かってないんじゃないかしら。あの子、結構抜けてるところがあるから。まあ、そのあたりも含めて、妖夢もまだまだ修行不足、ってところかしらね」
そう言って、幽々子さんはくすくすと笑う。
放任する訳でもなく、さりとて甘やかす訳でもなく。あくまで、見守る、という立ち位置に終始する。これは意外と難しいことだと思う。
給金は無けれども、たくさんの想いが支払われている。お金では買えない、もっと大切なものが。
きっと妖夢さんだって、全く分かっていないという訳ではないのだろう。逆説的だけれども、そうでなければこれだけの仕事をきちんとこなすことは常人には不可能に思える。
木々の剪定に精を出す妖夢さんと、それを縁側からのんびりと見守る幽々子さん。そんな二人の姿が、花霞の向こうに幻視出来た気がした。
歌声が聞こえてきたのは、そんな風にぼんやりと桜の花を眺めている時だった。
――さくら さくら
やよいの 空は
見わたす かぎり――
「あら、この歌は……?」
「ミスティアさんが博麗神社で歌っているのです。ここにまで届くのですね……」
「なんかこう、懐かしいような旋律ね」
幽々子さんが目を閉じて歌に聞き入っている。
丁度その時、妖夢さんもお茶とお団子を手に戻って来た。
「歌、ですか?」
「ミスティアさんの歌がここまで届いてるのですよ」
「へぇ……」
――霞か 雲か
匂いぞ 出ずる――
ゆったりと、ゆったりと。
まるで、春という季節を丁寧に紡ぎ出すような、そんな歌い方だった。
「……妖夢、扇の用意をお願い」
「えっ?」
「たまには、舞でも披露しようと思ったのよ。こんなにも桜が綺麗なんだし、ね」
幽々子さんがおもむろに立ち上がり、桜を背に両手を広げた格好で嬉しそうにそう言った。
「は、はい! いますぐご用意を」
妖夢さんも嬉しそうに返事をし、駆け出す。ものの数十秒ですぐに戻って来た。手には2本の扇。それを受け取り、幽々子さんは誘われるように桜の木々の方へ歩み寄っていった。
桜の木の下でこちらを向いて立ち止まり、目を閉じる。
ゆっくりと、両手の扇が開かれる。色は、幽々子さんの衣装と同じ青地に、桜の模様。
――さくら さくら
野山も 里も――
歌に合わせるように、舞が始まる。
桜の花びらちらつく中で ゆらりゆらりと舞う姿
優美な衣装に引け取らず 立ち居振る舞い優雅で幽雅
ぴんと背を張り扇をかざし そのままくるりと一回転
つられて一緒に舞うように 花びらふわりとひるがえる――
……私は思わず溜息をついた。呆れて、ではない。あまりの華麗さに、だ。
普段の、どこか地に足の着かない彼女の姿からはかけ離れた、雅な舞だった。
私は妖夢さんに許可を頂いて、幽々子さんの舞を何枚も写真に撮らせてもらった。一面に使っても立派に映えるような、美しく趣のある姿だった。
ややあってから、隣に座っていた妖夢さんがぽつりと言った。
「普段は、私が見たいとお願いしても、幽々子さまは舞を見せて下さらないんですよね……。めんどくさいとか何とか理由をつけて」
寂しそうに、でもそれ以上に嬉しそうに。
「そうなのですか?」
「ええ。ですから文さん、今日は来て下さってありがとうございます」
「そんな、とんでもない。こちらこそ、素晴らしい舞をありがとうございます」
会話はそこまでにして、私たちは再び幽々子さんの舞に見入る。
……普段は見せてくれない、か。
なるほど、だからさっき、扇を取りに行く妖夢さんは嬉しそうにしていた訳だ。
ならばきっとこの舞は、私に向けてではなく、妖夢さんに向けてなのだろう、と漠然と思った。私と、そしてミスティアさんがきっかけを与えただけで。
綺麗な桜の花と、美味しいお団子のお礼を込めて、妖夢さんに舞を披露している。私にはそう見えた。
そうでしょう? 幽々子さん。
「あれま何処ぞの天狗さん。こんないい陽気の日にも仕事かい?」
「仕事半分の、まあ、取材旅行ってところでしょうか。貴方たちは仕事はないのですか?」
「ん? あたいたちは今日は休暇さ。そうですよね四季様」
「ええ。働き過ぎは身体によくないですからね。よく働いたらよく休むことも、善行の一つなのです。まあ、小町がよく働いてるかどうかはまた別問題ですけどね」
「そんな殺生な~」
無縁塚にほど近い場所。リリーさんを追っていたらこんなところにまで辿り着いてしまった。そんなところで花見をしていたのは、閻魔様と死神のコンビだった。
小町さんは木の幹にもたれかかってのんびりと。映姫さんは立ったまま遠くの景色を眺めている。休暇中でも笏を手にしているのは、それが自身のトレードマークだと思っているからだろうか。
「休みとは言え、裁きを待つ魂たちが今もいることを考えると、休みでもついつい落ち着かなくなるのですけどね、私は。特に、桜の花を見ていると、ね」
「四季様、それ職業病ですって。もっとのんびりしましょうよ。休みなんですから」
「……そうね。この私が唯一貴方から学ばなければならないのは、そのサボり根性ね」
「うわ、凄いイヤミ。
…………そんな性格だと嫁の貰い手なくなっちゃいますよー」
後半部分は、私にだけ聞こえるように小声だった。
「小町。貴方は地獄に落ちたいのですか?」
「え? 何か?」
「あなたの発言は立派なセクシャルハラスメント。セクハラはれっきとした悪行よ。同性間でもセクハラは成立するわ。はい、後でお仕置き部屋ね」
「……聞こえてました?」
「……認めたわね」
「そんなぁ」
何だか漫才を見ているような気分になる。一方は必死だが。とりあえず、映姫さんは地獄耳らしい。閻魔様なだけに。
それよりこれは、上司から部下へのいやがらせ、いわゆるパワーハラスメントではないかと思うのだが。
そして何より、私個人としてはお仕置き部屋とやらの詳細が激しく気になったのだが、触れてしまうとこちらにまで矛先が向きそうな気がしたので黙っておいた。
「そうそう、そういえば貴方……」
「はい? 私ですか?」
映姫さんが矛先ならぬ笏先をこちらに差し向ける。黙っていても変わらなかった。
「どうですか? 前に私が言ったように、良いニュースを取り上げるようになりましたか?」
「そうですね……」
いきなり問われても困る。なので、時間稼ぎに言葉を濁す。
「貴方はこの間、世を正す様に新聞を書く、と言っていましたね。それはどうしましたか?」
「そんなこと言いましたっけ?」
「言いました」
とぼけてみたが無駄なようだ。もっとも、そう言ったのは事実ではあるが。
どうしたものだろう、と視線を横に逃がすと、面白半分、呆れ半分の表情で私たち二人を眺める小町さんの姿が目に入った。「四季様またやってるよ」とか顔に書いてある。ただ、私がどう受け答えをするかについては興味があるようだった。
そんな小町さんの顔を見ていたら、面白いことを思いついた。
「そうですね……。世を正すという意味で、ひとつ、権力を監視し、その腐敗を告発することも新聞の大事な役目かと思います。例えば『遅々として進まぬ死者の彼岸渡し 問われる閻魔の監督責任』みたいな」
「う……」
うめいたのは、眼前の映姫さんと、横の小町さんの両方。
「こうやって権力の腐敗を告発し、指弾し撲滅することで、腐敗そのものを減らす効果があると考えられます。これならば事件を誘発することもなく、なおかつ世の中も正しくなると思うのですがいかがでしょうか」
ここぞとばかりに畳み掛ける。
映姫さんは難しい顔をし、小町さんはすっかり表情を暗くしている。私としてはでまかせで言ってみただけなのだが、存外に動揺されて驚いた。そんなに痛いところを突いていたのだろうか。
二人とも、完全に黙りこくってしまう。気まずい沈黙だった。
「あの、すみません。腐敗とか監督責任がどうとかというのは冗談です。本当に……」
「……いえ、貴方の言うことももっともでしょう。私も反省をしなければなりません」
「いや、悪いのはあたいだ。四季様を責めないでくれないか。この休暇が終わったらちゃんと仕事はする。だから……」
「…………」
しゅんとして、小町さんが私に頭を下げる。私はどこか、いたたまれない気持ちになった。
もちろん、私には彼女たちを責めるつもりは毛頭なかった。死者たちの彼岸渡しも少しずつだが着実に進んでいるし、今更彼女たちを記事にして晒しものにすることなど、却ってその仕事を滞らせる結果になりかねない。「世を正す」という目的から大きく外れる。なにより、「腐敗」は言い過ぎだ、と我ながら思った。
権力を監視し、腐敗など何かしらの問題があればそれを記事で告発する――それが新聞の重要な役割の一端であることは、新聞記者として認識していなければならない。
けれど、他人様の行ないについて訳知り顔で非難する資格が、私自身にあるのだろうかと思うことがある。
もちろん私は、新聞記者として誇りを持ち、良心に基づき、世の出来事を公明正大に嘘偽りなく記事にしているつもりだ。ただそれでも、間違った報道をしてしまったこともあるだろうし、いつか映姫さんに言われたように、記事の正誤にかかわらず、私の事件報道が新たな事件を誘発しているということもあるだろう。
表向きでは公正さや正当性の旗を振っておきながら、内実では、更なる事件を誘発している。
そんな私が、どのツラ下げて腐敗がどうのとか言えるのだろう。何様のつもりだ。
記事を書けば、事実が変わる。
これは映姫さんの言葉。
そして私は、事実を変えるという新聞の力を利用して、世を正す様に新聞を書く、と言った。
けれどそれは、あくまで理想に過ぎず、具体的に何をどのように書けば世を正せる新聞記事になるのかまでは、私は分かっていなかった。現状では単なる空論に過ぎないのだった。
風が吹いて、桜の花がさわさわと鳴る。
せっかくの花見日和に、私たちは一体何をしているのだろうか。
私は何だかやるせなくなって、仰向くかたちで空を見上げた。太陽はとうに南中を過ぎ、日の入りへ向けて傾いていた。
「――あっ」
視界の端。真っ青な空の中。白い姿。
リリーさんだ。
いつの間にか、私は彼女よりも先を行ってしまっていたようだ。
彼女は地上に私たちの姿を認めると、博麗神社で会った時と同じように、こちらに笑顔と桜の花びらを振りまきながら手を振ってくれた。
そうして私たちに春を届けて、彼女は翼を羽ばたかせ、またどこかへと飛んでいってしまう。今度こそはと思い、私は彼女の向かった方をしっかりと確認した。
彼女が届けてくれた花びらが、ひらひらと舞い降りて来る。小町さんがそれを手で受け止めていた。
「せっかく、桜の花も綺麗なんだ。お堅い話はやめないか? ……まあ、あたいが言うのもなんだけど、さ」
小町さんが頭を掻いて照れ笑いを浮かべる。私は、どこか救われた気分になった。
「そうですね……」
「私も、休暇中であることを失念してはいけませんね」
「そうですよ。少しはあたいからサボり根性を学んで下さいよ」
三人で笑う。リリーさんに助けられて、ようやく、もとの和やかな空気が戻ってきたのだった。
ただそれでも、私の心が晴れていないのも事実だった。良いニュースを書いているか、世を正す新聞とはどのようなものなのか、その答えがきちんと出せている訳ではない。
「閻魔様、少し、よろしいでしょうか。話半分としてでも聞いて下されば……」
「……何でしょう」
落ち着いた空気を取り戻せたのに、蒸し返すかたちでこういう話を始めるのはもちろん気が引ける。リリーさんを追い掛けたいという気持ちもある。けれど、映姫さんから示された問いをうやむやのままにして答えを出すことから逃れるのは、記者としての私の誇りが許さなかった。
「閻魔様が先ほど仰いました、世を正す新聞についてですが……」
「はい」
映姫さんが、真剣な表情をこちらに向ける。その目は、私に裁断を下そうというのではなく、どちらかと言えば私を試そうとしているように見えた。
私が「世を正す新聞」を書こうとしたところで、映姫さんからしてみれば30点にしかならない。にも関わらずそのことを訊いて来るあたり、その後私がどう考えていったのか、それを知りたいのだろうと思った。
「……未だ、どのような記事を書けば世を正す新聞として在ることが出来るのか、答えは出ていません」
「それはそうでしょう。前にも言いましたが、真実を変える力は、何よりも大きな力。貴方のしようとしていることは、言わばその力を思うがままに操ろうというものですから」
そう。私が自分なりに、世を正せると思って記事を書いたところで、事実が私の思い通りに変わってくれるとは限らない。恐らく、事実を変える力は私の手に余るものなのだろう。
「……それを踏まえて、では貴方は、これからどのように新聞を書いていくのですか?」
あらためて、映姫さんに真正面から見つめられる。
ここからが、本番だろう。私は緊張で震えそうになる手を握り締めた。決して、嫌な緊張ではなかった。
「新聞は、世の中の出来事を広く伝えるために存在します。けれど、伝えるべき事柄はなにも事件だけとは限りません」
「その心は?」
「例えば、四季折々の季節の訪れを、写真や記事で以って知らせることも、新聞の大事な役割だと思います」
「季節、ですか」
「はい。春夏秋冬、ここ幻想郷は、自然が豊かな色彩を見せてくれます。それらを記事にしていくのです。また、ほんの少しの自然の変化から四季のうつろいを掬い取って、皆に伝えるのです。
出来事を伝えることが新聞の仕事ではありますが、世の出来事全てが事件である訳がありませんから」
「ふむ……」
映姫さんが口元に笏を当て、思案顔。少なくとも、悪い印象は与えていないようだ。
無論季節のことは、それはそれで新聞記事を構成する要素の一部分にしか過ぎない。それでも、これはある種の「良いニュース」であることを、私は信じている。
「……では貴方は、春満開の今の季節を、どのように伝えるつもりですか?」
「春は、目覚めの季節。喜びの季節。それが記事を読む人みんなに伝わるように、私が見てきたこと――例えば博麗神社の桜の様子など――を、全てをぶつけるつもりです」
今の私では、これが限界だった。
これ以上は、これから新聞記者としてさらに取材活動を続けることで、あるべき新聞の姿というものを模索していくしかないと思った。
「あなたの言いたいことは分かりました」
私への注文も、叱責もなく、映姫さんはそれだけを言った。
「今日は、採点はなしですか?」
「先ほども言いましたが、今日は私は休暇中の身ですから」
「あ……すみませんでした。お休み中なのに」
先ほどの気まずい雰囲気の時とは違って、素直な気持ちで謝ることが出来た。
「構いませんよ。これによって貴方が少しでも善行を積んでいけるようになるのならば、私は何も惜しみませんから」
そう言って、映姫さんは私に向けて微笑んでくれた。
その表情を見れば分かる。映姫さんはただの嫌がらせで私に注意を与えているのではなく、本気で私に罪を減らさせようとしているのだ、と。
「では、私は取材の続きに行きます。ありがとうございました」
「……ああ、待ちなさい」
飛び立とうとしたところで、映姫さんに呼び止められる。神妙な顔つきだった。
「何でしょうか?」
「貴方は先ほど、春は喜びの季節、と言いましたね?」
「はい」
「しかし、全ての者にとってそれが本当に当てはまるのか、貴方は見極める必要があります」
「……はい」
映姫さんの言うことがすぐに飲み込めた訳ではないが、少なくともこの方は間違ったことは言わないはず。私は映姫さんの言葉を胸に置き留めた。
そして彼女は、私の瞳を真っ直ぐに見据えながらこう言ったのだった。
「新聞記者として更に経験と取材を重ね、見聞を広め続けること。これが今の貴方が積める善行よ」
「さすがに、少し冷え込んで来たわね」
日の暮れる頃ともなれば、昼間の暖かさも鳴りを潜めてしまう。春を迎えたとは言え、冬の忘れ物がまだまだ幻想郷に残されていることを実感させられた。
今日は幻想郷の各地を随分と飛び回った。もう、太陽も遠くの山の向こうへ沈もうと傾いている時間だ。西の空から東の空にかけて、燃えるような夕焼け色が徐々に明るさを失い、切れ目なくやがて青色に移り変わっていくグラデーションが綺麗だった。
「そろそろ、リリーさんにお会いしたいのですけど……」
私は今、博麗神社や人間の里などとはかなり離れた山間部を飛行していた。地上には、木々がひっそりと生い茂っている。このあたりは誰かの住みかという訳ではなく、恐らく雑多な妖怪たちが適当に身を潜めていることだろう。
山をひとつ、迂回するようにして飛んでいく。
その山を回りこんだ向こう。距離があってもすぐにそれと分かる白い姿があった。
リリーさんだ。
彼女はこちらに背を向けるかたちで、空中で翼だけを羽ばたかせて停止していた。
そして、
「あれは……レティさん?」
彼女のさらに向こうには、冬の妖怪、レティさんがいた。二人は丁度、向き合うようなかたちで対峙している。
冬に生きる妖怪と、春を伝える妖精。
そんな二人がこうして相対しているのは、決して偶然ではないのだろうと直感した。
リリーさんは今日、幻想郷の各地で春を伝えて来た。その総仕上げとして、冬の妖怪であるレティさんに春の訪れを伝えようとしているのだろうか。
私はどうすべきか迷った。
リリーさんが一人でいるのであれば話し掛けていたのだけれど、彼女は今こうしてレティさんと差し向かっている。そこに割って入ることには躊躇われるものがあった。
でも、こうして私も空中にいる以上は、いずれ存在に気付かれてしまうだろう。ならばと思い、私は二人のそばへと近付いていくことにした。
「あら、天狗さん。貴方も私の冬に終止符を打ちに来たのかしら?」
リリーさんの横に並んだ私に、レティさんが皮肉めいたことを言う。けれど口調は、以前私が取材した時と同じようにゆったりとしたもので、私を責めている風ではなかった。むしろこれは、リリーさんへの当てこすりだろうか。私は返事に窮した。
「まあ、どっちでもいいけれどね」
「…………」
私が何も言えないでいると、レティさんはあらためてリリーさんの方へと向き直る。
「貴方が来たってことは、私はお休みの時期かしらね」
「はい。冬の季節も終わって、今はもう……春ですから」
リリーさんが抑えたトーンで言った。
私はその横顔を見る。そこには、先ほど会った時に見せてくれた笑顔はなく、表情がどこか強張っている。
私やその他多くの人たちは、春が伝えられることを喜ぶけれど、レティさんはきっとそうではないだろう。だから、リリーさんは緊張しているのかも知れない。
「じゃあ私が、春の訪れに対して抵抗する、って言ったらどうする?」
「え? それは……」
レティさんの思いもよらない言葉に、リリーさんが戸惑いの色を見せる。
「冗談よ、冗談。そんなにうろたえないでよ」
手をひらひらとさせて、レティさんが笑う。
そして、手を後ろに組み、私たちからゆっくりと身体を背け、言った。
「……でも、貴方はいいわよねぇ。春の訪れはみんなが喜んでくれるから。
けど、去り行く冬の後ろ姿に離愁を感じてくれる人なんて、これっぽっちもいないのよ。不公平よねぇ、全く」
まるで、独り言のように。軽い調子で喋っているつもりなのだろうが、その陰にはやはり一抹の寂しさが感じ取れた。
「まあ、そんなこと考えるのは詮無いことよね。分かってることなんだから」
「レティさん……」
言葉が続かない。けれど、彼女にどんな言葉を掛けようが、それは所詮はうわべだけのものになってしまうだろう。私だって、寒さが厳しい冬よりも、気候が穏やかで暖かな春の方が好きなのだから。
「ま、こんなお喋りしてても仕方がないし、私はそろそろ失礼しようかしら」
レティさんはそう言って正面に向き直り、続いて、おもむろに両手を広げる。
何をするつもりなのだろうか。
――と。
突如、周囲の空気が肌を刺すようにキンと冷え込み、全身に震えが駆け巡る。思わずうめき声を上げそうになった。
そして次の瞬間、
「わっ!」
前触れなく強風が辺りに吹き荒れ、今度こそ声を上げてしまう。身体のバランスが崩れる。反射的に腕で顔面を守り、目をつぶる。腕に冷たいものが当たった。
これは……雪?
しかし風を操る者として、この程度の風に屈していてはいけない。私は正面からの風を葉団扇でいなし、再び目を開けた。
目の前には――視界を完全に埋め尽くす、猛吹雪。私の前方で雪と風が渦巻いている。レティさんの姿が雪に遮られて見えない。
だが、今彼女が真正面で寒気を操って吹雪を起こしているということは確実だろう。真意のほどは分からない。もしかしたら本当に、春の訪れに対して抵抗を試みているのかも知れない。
そう言えば、そばにいたはずのリリーさんも姿も見当たらない。吹き飛ばされたのだろうか。
かなりの強風だが、私の力を以ってすれば、より強い風を巻き起こして吹き飛ばし返すことも可能だろう。しかし、リリーさんがこの風に抗ってまだ近くにいる可能性を考えると、強引な手段は取れなかった。
ならば――。
私は、愛用のカメラを取り出す。カメラを吹雪に曝すのはもちろん気が引けるが、ここはこの方法がベストだろう。
すなわち、私の特殊なカメラで、目の前の猛吹雪を――雪の弾幕を、消し去るのだ。
吹き付ける風を葉団扇でいなしつつ、私はファインダーを覗く。とは言え風を完全に無に出来ているわけではないので、どうしても視界がブレてしまう。加えて、シャッターボタンを押さえる人差し指も寒さでかじかんでいる。撮影環境としては最悪だった。
少しだけ……仕方がないか。
ファインダーから目を離し、左手に握る葉団扇に力を込める。
そしてそのまま―― 一閃!
葉団扇から放たれた風が吹雪を吹き飛ばし、私の周囲に無風の空白域を瞬間的に作り出した。しかしそれも数瞬の猶予に過ぎないだろう。
私は速やかにカメラを顔に寄せファインダーを覗く。ターゲットは眼前の雪の渦。更には今にも私へと襲い掛からんとしている無数の雪片。
渦がファインダーの中心に収まるように微調整。方位を決定。撮影準備が完了する。
撮影対象に意識を集中。時間が間延びする感覚。
私は人差し指に力を込めて。
シャッターボタンを。
――押した。
それは文字通り刹那の出来事だった。
私が場を撮影したことにより、周囲の吹雪が切り取られたように消え去る。同時に吹き付ける風も止まった。まるで台風の目に入ったかのような急激な変化だった。
そして、吹雪が切り取られた空間の中心には。
先ほどと同じ格好をしたレティさんがいた。
突然雪が消滅したことで、彼女は驚いたような表情を見せる。しかし私の方を向いてカメラを見つけるや、納得したように微笑んだ。そういうコトね、と言うように。
そのまま口元にも笑みを浮かべ、帽子を目深にかぶり直す。
と、また周囲に吹雪を発生させる。しかし今度は先ほどと比べて強くない、戯れのようなものだった。
その意図が分からぬまま、私はレティさんを見た。
その唇が、動いていた。
――また……会いましょうね
吹雪にかき消されて声は聞こえない。けれど、私にはそう言っているように見えた。
それに応じようと何か言おうとした時、またしてもレティさんを取り巻く吹雪の渦が発生。視界が雪に満たされる。しかしそれもわずかな時間。風が止んだ。雪も弱まる。視界が開ける。先ほどと違うのは、そこにはもう――レティさんの姿が存在しないということだった。
周囲を見渡しても、その姿は見つけられない。あたかも、吹雪と共に吹き去ってしまったかのように。
そして後には、レティさんの残した寒気が、はらはらと雪を舞わせているのだった。
私はしばしの間、か弱い雪が降る情景に、立ちすくむように見入っていた。
レティさんの最後の表情を思い出す。
彼女は笑っていた。雪をかき消されて、悔しがる訳でもなく。
むしろ、悪戯の失敗をした子供が、ちぇっと残念がるような、そんな表情だった。
そして、冬が立ち去り春を迎える今の時期だからこそ、雪の存在を心に刻み込ませようと思ったのだろう。やがて時が巡れば、また雪降る季節が訪れる、と。
地上の方を見てみる。
それなりの量が降ったにもかかわらず、地面に雪が積もった様子はなかった。
私は、ひとひらの雪を目で追い掛ける。それは、ふわふわと、ゆらゆらと、地上に吸い寄せられていく。やがて地上に降り立った雪片はしかし、結晶という姿を保てずに、土の中に溶け消えていった。地面はもはや、雪を雪のままで受け止めることは出来ないのだろう。
そして、レティさんがもたらしたこの雪も――この冬最後の雪も、じきに止むことだろう。
今はもう、春なのだから。
私は、吹雪のために離ればなれになってしまったリリーさんを捜す。
彼女はすぐに見つかった。私のはるか後方に吹き飛ばされていたのだった。なるほど、これくらい離れていれば、あの局地的な吹雪の影響からは逃れられたのかも知れない。
「リリーさん、大丈夫ですか?」
風の影響だろう、彼女の綺麗な金色の髪が乱れてはいるが、それ以外は特に怪我もなさそうで大丈夫そうだった。悪戯としてはたちが悪いものかも知れないが、レティさんとてリリーさんを傷つけるつもりはなかったのだろう。
「私は大丈夫です。……あなたは、凄いですね。あんな吹雪の中でも無事だなんて。ええと……」
そう言えば、私は未だに名を名乗ってなかったことに思い当たった。
「あ、私は射命丸文。新聞記者です」
「文さん……新聞記者さん?」
「ええ。このたびは、幻想郷に春を伝えるあなたに取材を申し込みたいと思いまして、参上しました。こうしてお会い出来て、嬉しいです」
「取材? 私に?」
「はい」
リリーさんが困ったように身をよじる。確かに、突然取材など申し込まれては戸惑うのも当たり前だろう。
それより気になるのは、先ほど私が映姫さんたちと彼女を見た時より、目に見えて元気がないことだった。やはり、一日中各地を飛び回るのは相当に疲弊するのだろう。もしくは、春を伝える者として、冬の妖怪レティさんに冬の終わりを告げなければならないことが辛かったのかも知れない。
「……お疲れのようですが、休みますか?」
「いえ、私にはまだ仕事が残っています。まだ、春を伝えなければならない方が……」
私は意外に思った。てっきり、レティさんに春を伝えることで以って、リリーさんの仕事が完了すると思っていたからだ。
「どういうことでしょうか?」
「……あの子です」
リリーさんが、白く細い指で地上の方を指差した。
その方向――いまだ空からの雪が降り続くところ。
そこにいたのは、チルノさんだった。
「な、何よあんたたち」
まばらではあったが、周囲には木々が生い茂っている。そのため、地上は空中よりも夜に近い暗さだった。
雪の降る中、私たちと相対するや、チルノさんは敵対するような目でこちらを睨み付けて来る。氷の塊を胸元に抱えながら。
チルノさんが強気に振舞うのはいつものことだが、今の彼女からは、必要以上に気丈さを繕っているような印象を受けた。
「チルノさんは、いつからここに?」
「いいじゃない、いつからだって」
会話のきっかけとしてとりあえず聞いてみたのだが、どうにも棘々していて取り付く島もない。
「お久し振りですね、チルノさん」
「…………」
その話し掛け方からして、どうやらリリーさんとチルノさんとは面識があるようだった。
ただ、チルノさんからは返事ひとつさえない。まるでリリーさんが親の敵であるかのように、強く睨みつけたままだった。
「レティさんのことでしたら……ごめんなさい。でも、それが私の役割なの。彼女に冬の終わりを告げて、休んでもらうための」
チルノさんの刺々しい態度はそこに原因があるようだった。
レティさんが居られる冬の間、チルノさんがレティさんによく懐いているということは、聞いたことがあった。チルノさんにとっては、同じような能力を持つ者として親近感があったのだろう。
しかし、それに対してレティさんがチルノさんのことをどう思っていたかについては、よく分からない、というのが正直なところだ。傍目からすればその能力は似ているけれども、少なくともレティさんは、妖怪である自分自身と妖精であるチルノさんとを明確に別のものとしていた。
ただどうあれ、チルノさんには悪いが、この件でリリーさんを責めるのはいささか筋が違う。春が来れば、レティさんは自主的に身を隠してしまうのだから。
チルノさんは何も言わず、ただ両手に抱え持った氷の塊を見つめているだけだった。
「チルノさん、その氷は何ですか?」
大事そうに抱えていたので、私は気になって聞いてみた。まさか、また蛙を凍らせていた訳でもあるまい。
けれどチルノさんは、その氷をかばうように身体を背けてしまった。
「……見てもいいけど、壊さないでよ」
「大丈夫ですよ」
「うまくいったの、これだけなんだから」
そう言って、チルノさんは私の目の前に氷の塊を差し出してくれた。でも、私に手渡してくれるつもりはないようで、見せてくれるだけにとどまった。
私とリリーさんは、その丸い氷の塊を覗き込むようにして見つめる。無色透明できれいな水晶玉のようだった。
その氷の玉をよく見てみると、
「これは……」
氷の中には、雪の結晶が二粒ばかり、ほぼそのままの形で保存されていた。それを見ただけで、私はチルノさんの思いが分かってしまう。きっとリリーさんもそうだろう。
雪は未だにちらついてはいるが、それは地面に降り積もることもなく、やがて止んでしまう。この世から雪が消え去ってしまう。だから、こうして氷の中に閉じ込めてしまうことで、雪を守ろうとしたのだろう。
その雪に、レティさんの影を見い出しているのだから。
形見――そんな言葉が脳裏をよぎるが、口には出せなかった。
まわりを見回してみると、他にも氷の塊がたくさん転がっていた。そばにあったそれを、ひとつ拾い上げてみる。チルノさんの持つものと違い、氷が白く曇ってしまっている。
なるほど、他のものは失敗してしまったものなのだろう。きっと、雪の結晶が壊れてしまったり、こんな風に氷が曇ってしまい、結晶が見えなくなってしまったりして。
チルノさんが知っているかは分からないが、一般に、氷はゆっくりと凍らせない限り、白く濁ってしまうと言われている。しかしチルノさんは普段、蛙を瞬時に凍らせる修行をしている。その修行の成果がこの大量の失敗作となってしまっているのならば、たいそう皮肉な話だった。
私は手に取った氷を置き、再び彼女の手にある氷を見る。
それでも、こうして透明度の高い氷を作り出し、雪の結晶を保護することに成功したのだから、氷精としてのチルノさんの能力もそれなりのものなのだろう。もしくは、思いの強さがそうさせたのだろうか。
「あのさ……」
「うん?」
「どうしてレティは、春になるとどこかにいっちゃうの?」
チルノさんが、寂しさをそのまま吐き出すようにつぶやいた。真っ直ぐな瞳だった。そこにはもう、先ほどまでの攻撃的な色は失われている。すがるような表情だった。
私は、リリーさんと顔を見合わせる。私が話します、と、その目が言っていた。
「レティさんは、冬以外の季節に表に出ると、疲れてしまうのです。だから今は、次の冬までどこかで休んでいるのですよ」
「でもあたいは、春でも夏でも平気だよ? どうしてレティはダメなの?」
「それは……」
それはそのまま、レティさんと、妖精であるチルノさんとの違いにつながるのだろう。ただそれを言ってしまうのは、彼女にとってはあまりに残酷な気がした。
私は、チルノさんの持つ氷の玉をあらためて見つめる。
星のようにきらめく、二粒の雪の結晶。それは氷の中で、右側と左側とに分かれて位置していた。
氷の中で固定され、動くことの出来ない二粒の結晶。それが、決して一緒になれないレティさんとチルノさんとを暗示しているかのようだった。
返事に窮し、私たちは黙することしか出来なかった。
「……なら、春なんて来なければいいのに」
春の訪れに抵抗するように、チルノさんが吐き捨てる。リリーさんが、ちょっと困ったような顔をした。
「季節は巡って、やがて春が訪れる。それは自然の摂理。私と同じ、自然の申し子たる妖精のあなたなら、それは分かると思います」
「…………」
恐らくそれは、自然そのものである彼女たち妖精にとっては、知覚するというレベル以前に、当然のこととして刷り込まれているのだろう。
チルノさんだって、本当は分かっているのだと思う。でも、それを――春の訪れを認めてしまえば、彼女の中でレティさんがいなくなってしまう。氷が解け壊れてしまう。
触れてしまえば、そのまま脆く崩れてしまう。そんな危うい表情だった。
私は再び、リリーさんと顔を見合わせる。
私にはこれ以上、チルノさんをなだめる言葉が思い浮かばない。でも、このまま彼女を放っておくことも出来なかった。
それは、リリーさんも同じようだった。憂いを含んだその表情から、なんとかしてあげたいというその思いが切ないほどに伝わってくる。それは、春を伝える者としての使命感のようなものなのだろうか。
と、――その時。
不意に、リリーさんが何かを感じ取ったかのように、空へと顔を向ける。
そして、柔らかな笑顔を浮かべて、チルノさんの方に向き直った。
「チルノさん。歌……、聞こえますか?」
「……うた?」
「ええ」
私ははっとして、懸命に耳をそばだてる。
木々のざわめきや風の鳴る音をかき分けた向こう。
ミスティアさんの歌が、聞こえた。
――忘れ雪が 空に舞って
冬が 閉じてゆく――
「聞こえますか?」
「……うん」
忘れ雪。春を迎えようとする頃に見られる、降りじまいの雪。
今私たちの周りでちらつく雪が、まさにそうだった。
そしてこの歌は……私が空を飛んでいる時に最初に聞いた曲だった。
――桜咲くその日まで 春なんて知らなかった
そんな見え透いた嘘 自分についていた
この冬の最後の雪 それはまるで春を告げるようで
でも季節が巡ればまた会える だから今は舞う桜を喜ぼう――
春が近付いて来ても、チルノさんは、見て見ぬふりをしていたのだろうと思う。それが、報われない行為だとしても。
いつしかリリーさんの手がチルノさんの頭に触れていて、その心を静めるように、ゆっくりと撫でている。チルノさんは大人しくその手を受け入れて、歌に聞き入っていた。
――雪の上に刻んだ 足跡が解けて消えても
二人並んで歩いた 思いは解けさせはしない
さよならを言わないのは また会えると 知っているから
たとえ涙流そうとも また会えると 信じてるから――
高らかに歌い上げられたその歌は、どこか強い意思を感じさせるものだった。これは、歌い手の思いによるものなのか。それとも、聞き手としての私の中でその歌が強く反響しているからだろうか。
歌を聞き終えて、チルノさんが見上げるようにリリーさんの方に顔を向け、口を開いた。
「あのさ……」
「何ですか?」
「あたい、またレティと会えるかな……?」
「会えますよ。季節は巡りますから」
「本当に?」
「あなたが、そう信じれば」
リリーさんは優しく微笑んで、チルノさんのひとつひとつの問い掛けに答えていく。それを聞いて、チルノさんの表情も、明かりが差したように輝いていった。
でも、それもわずかばかりのことだった。
笑おうとするその表情は、しかしそれに反して次第にゆがんでいく。その瞳が滲んでゆくのが目に見えて分かった。そしてそれが――彼女の想いが許容量を超えて。
とすっ、と音がした。
チルノさんが、手に持っていた氷の玉を地面に取り落とした音だった。
それを合図とするように、その瞳から涙が溢れ出して。
声を上げて泣き出したのだった。
そのまま崩れ落ちそうになるのを、リリーさんが胸に抱きとめた。
チルノさんはそのままその胸にすがり、泣き続けていた。
――去り行く冬の後ろ姿に離愁を感じてくれる人なんて、これっぽっちもいない。
そんなことを言っていた、冬の妖怪のことを思い出した。
それは、違いますよ、レティさん。少なくとも一人だけは、私の目の前にいます。終わりゆく冬の、名残を惜しむ方が。それも、こんなにも健気で、可愛らしい子が……。
チルノさんは今はまだ、春を、舞う桜を喜ぶことは出来ないかも知れない。
でも、それでもいい。
春の訪れを――冬の幕引きを、受け入れてくれたのだから。
だからせめて。
せめて、この幼き慟哭が、微かでも冬の妖怪の元へ届いていて欲しい。私はそれだけを祈った。
忘れ雪は、まだ降り続いていた。まるで、チルノさんを慰めるかのように。
陽は山の向こうに隠れつつある。周囲の薄暗さがさらに増して来た頃になってようやく、チルノさんは落ち着きを取り戻した。リリーさんはそれまでの間ずっと、チルノさんの背中を撫でさすっていたのだった。
リリーさんから身体を離し、指で涙を拭う。息を大きく吸い込んで、吐き出す。泣き腫らしたそのままの目をしていたけれど、心は平静さを取り戻したようだった。
とは言え、そのまま帰らせるのも何だか心配になってしまう。せめて、彼女がよくいる湖の方まで送ってあげることにしようか……。
と思った時。
「チルノちゃーん!」
空から、声がした。
上を向いて間もなく、空から一人の女の子が私たちのそばに降り立った。羽根を持った、緑色の髪をした女の子。よくチルノさんと一緒にいる子だった。やや呼吸が荒いのは、もしかしたらチルノさんを捜して長いこと飛び回っていたからだろうか。
周囲にいる私やリリーさんに少しばかり戸惑いを見せながら、彼女はチルノさんに向かう。
「チルノちゃん……」
けれど当の本人は、彼女を避けるようにして顔をそむけてしまう。
当たり前と言えば当たり前だった。誰だって、自分の泣き腫らした顔など他人に見られたくはない。相手が友達なら尚更だろう。
でも彼女は、そんな風にチルノさんにつれなくされても、怒ることも寂しがることもなかった。むしろ、チルノさんの仕草と、その顔、そして周りにいる私たちの様子を見ただけで、大方のところを察してくれたようだった。彼女はかなり聡明なのかも知れない。
「ね、帰ろ。チルノちゃん」
つとめて明るく言う。
彼女がゆっくりと手を差し出すと、チルノさんもおずおずとした様子で振り向き、その手を握った。チルノさんに手を握ってもらうと、緑髪の女の子は、嬉しそうに、にっこりと笑った。
屈託のない笑顔を投げ掛けられて、チルノさんも表情にわずかばかり明るさを取り戻したようだった。
緑髪の女の子は、チルノさんと手を繋いだまま私とリリーさんの方を向き直り、丁寧にぺこりと礼をしてくれた。
「チルノさんを……お願いしますね」
「はい」
意思のこもった真っ直ぐな返事だった。
「チルノさんも、また会いましょうね」
「うん……」
小さな声だったけれども、しっかりと私の目を見て返事をしてくれた。もう、大丈夫だろう。
緑髪の女の子は再度私たちの方に小さく礼をして、チルノさんと一緒に、手を繋いだまま空へと飛び立っていく。二人は寄り添うようにして、羽根を羽ばたかせていた。
あの女の子には、チルノさんを優しく包み込む春風のようであって欲しい。私はそう願わずにはいられなかった。
その後ろ姿を、遠く薄闇の向こうに見えなくなるまで、私たちは見送っていたのだった。
「ようやく、話を伺えますね……」
夜を迎える一歩手前のような暗さの中、残されたのは、私とリリーさんの二人だけ。
ここに至るまでには色んなことがあった気がするけれど、よくよく考えれば私がリリーさんを追いかけ始めたのは今日の昼頃のことだ。まだ数時間しか経っていない。
ただ、私は今になって、一体何を伺えばよいのか、その問い掛けが思い浮かばないことに気が付いた。
私は博麗神社からリリーさんの足跡を追い、彼女が幻想郷の各地で春を伝えていたことを確認した。春を伝える妖精として、冬の妖怪に冬の終わりを告げていたこと、春の訪れを拒絶してたチルノさんへ、優しく春を届けていたことも、この目で見て来た。
これだけで、私はリリーさんに関する記事を書ける気がする。リリーさんを追い掛ける過程そのものが、期せずして取材のようなものになっていたのだった。彼女の働きぶりは、充分過ぎるほどに見させてもらった。仕事へのひたむきさでは、映姫さんに匹敵するのではないかと思う。
それほどまでに、彼女は立派に、自身の役割を果たし切ったのだった。
そこまで考えてから、ふと、私の中でひとつの問いが生じた。
――彼女は役割を果たしたら、どこへ行くのだろうか。
生じた疑問は、私の中の知識を経てひとつの推測を導き出す。
彼女は春の妖精。春になるとどこからともなく現れる。皆に春を伝える。……そして、春以外の時期には全く姿を現さない。
それらから推測されるのは。
――彼女は役割を終えたら消えてゆくのだろうか。
分からない。
けれど、その疑問を彼女にぶつけて良いものか、それも分からなかった。もし本当にそうであるのなら、私がそれを言ってしまうのは、あたかも彼女へ死刑を宣告しているかのように感じられた。
「あの、文……さん?」
リリーさんに話し掛けられて、私ははっとした。
取材を行なう者として、相手を待たせるのはいけないことだ。
「あ、すいません……。
春の伝えるあなたの仕事ぶりは、文々。新聞の記者、射命丸文がこの目でしかと確認いたしました。その様子を記事にしてもよろしいでしょうか」
「私のことなんかでよろしければ……」
リリーさんらしいと言うか、極めて慎ましやかな返答だった。彼女はもっと、自らの働きを誇ってもよいと思う。
「ありがとうございます。それで……」
「はい」
その先を言うのを、思わずためらってしまう。けれど、聞かなければ先に進むことも出来ない。
私は覚悟を決めた。
「あなたは、こうして春を伝え終えて、これからどこへゆくのですか?」
私は、リリーさんの瞳を真正面に見据えて尋ねた。
彼女は一瞬、目を見開き、やや伏し目がちになって視線をそらす。表情に影が差した。
やっぱり、と私は思った。やはり、彼女はもうどこかへ行くのではない。消えゆくのだ。
少しばかりの逡巡の後、リリーさんが顔を上げて、言った。
「……上に出て、少し、お話しませんか?」
木々の上に出て西の空を見ると、太陽はもう山の向こうへ身を隠している。残照のために空ではまだ見晴らしが利くが、間もなく夜の帳が下りてしまうことだろう。
空からは文字通りの、名残のような雪がまだ降り続いていた。
再び私たちは向かい合い、リリーさんがまず口を開いた。
「私は、春を伝えることが使命です。ですから、それを終えた私は、間もなく消えてしまいます。……あなたが思っているように」
「……そうなのですか」
やっぱり、と私は思った。そして彼女は、私の心の中も察してくれていた。
「でも、いいんです。私が春を伝えて、皆さんが喜んでくれるならば、私はそれだけで満足ですから。……チルノさんも、春の訪れを受け入れてくれましたし」
きっと、それはまぎれもない彼女の本音であるのだろう。色んな方々に春を伝え、多くの人がそれを享受し、喜んでくれた。それは彼女にとって何事にも代えがたく嬉しいことなのだろう。
けれど。
そうして春を伝えた彼女が、それを終えてそのまま消えていってしまうことを、一体誰が知っているのだろうか。
――去り行く冬の後ろ姿に離愁を感じてくれる人なんて、これっぽっちもいない
私はまた、レティさんの言葉を思い出す。彼女には少なくとも、チルノさんという一人の少女がいた。決して、これっぽっちもいない訳ではない。
では、春を伝え飛び回る妖精の後ろ姿に別れの悲しさを感じ取る人がいるのだろうか。
きっと、いないだろう。
それは、彼女が春を届ける様子を思い出せば分かる。笑顔で春を振り撒く彼女には、悲壮さの欠片も見られないのだから。
それでも、いいのですか? ――とは、問えなかった。
「いつもは一人でいますから、寂しくないと言えば嘘になります」
「…………」
「でも、今は……あなたが居てくれています。私と一緒にチルノさんに春を伝えて下さいました。そして、こうして私とお話をして下さっています。私にとってあなたは、かけがえのない方です」
「リリーさん……」
私は、胸が熱くなるのを感じた。
私たちは、今日、博麗神社で初めて顔を合わせた関係に過ぎない。そして、私が取材のためにただただ彼女を一方的に追い掛けている。それだけの間柄のはずだった。
なのに彼女は、私にそこまで言ってくれたのだ。
そんなリリーさんの思いに何か報いることが出来るとしたら、私にはひとつしかないだろう。
「あなたのことは、私が誇りを持って記事にいたします。最高の記事にしてみせます」
「……ありがとうございます」
皆に春を伝えること。冬に終わりを告げること。そして、役割を終えたら消えゆくこと……。私は、その全てを余すところなく記事にすることを、自らに課した。
思いの強さという点では、私は、レティさんに対するチルノさんのそれには敵わないだろう。けれど私には、私だからこそ出来ることがある。私の書いた記事を読んだ誰かが、リリーさんについての真実を知り、春の訪れをより愛しく思い、その春告げの妖精のことをもっと好きになってくれたらと思う。
誰も知らなかった日陰の事実に光を当てていくこと。それも、新聞の大切な使命なのだから。
ただ、私が記事を書いたとしても、それをリリーさん本人に見せることは叶わない。それだけが心残りだった。
「そろそろ、私は失礼しなければいけませんね……」
「もう……ですか?」
「はい。もう、日も暮れていますから」
確かに、既に日も落ち、暗闇が幻想郷を覆う時間だ。周囲の景色も、闇に溶けるようにぼんやりとしか見えない。もう、一日が終わろうとしているのだ。
リリーさんは、今日という日、一日しかいられないのだろうか。
「いなくなると言っても、私はただ自然へと還っていくだけなのです。本当に、いなくなる訳ではないのです。姿が見えなくなるだけで」
けれど私にとっては、姿が見えなくなることはやはり、いなくなることと同義だった。
「そして、次の春が訪れる時には、また私が春を伝えに現れます」
「そうですか……」
「私自身も、春の風を身に受けながら空を飛んで、春を伝えるのが大好きですから」
はにかみながらリリーさんはそう言った。春が好きだという思いでは、春の妖精である彼女は誰にも負けないことだろう。
「そう言えば……、文さん、あとひとつ、伺いたいのですが」
「何でしょうか?」
「神社で歌を歌っていた方は、何という方ですか?」
昼間に博麗神社で歌を歌っていたミスティアさんの姿が、すぐに思い浮かんだ。思えば彼女は今日、様々な歌を聞かせてくれた。多くの人が、その春の歌を耳にしていることだろう。
ある意味で彼女も、歌を歌うことで春を伝えていたと思う。
「彼女は、ミスティアさんです。ミスティア・ローレライ、と言います。歌を歌うのが大好きな方です」
「そうですか。私はあの方の歌を聞きながら春を伝えるのが、大好きなのです」
胸元で指を組んで、嬉しそうに言った。
リリーさんとミスティアさんを引き合わせたい、と思った。リリーさんは歌を聞くのが好きそうだし、ミスティアさんも、自分の歌を聞いてくれる相手は大歓迎だろう。きっと、二人は仲良くしてくれる。
でも、この春はもう、それは叶わない。次の春の話になる。
「リリーさん」
「はい」
「また……、会えますよね」
「会えますよ。季節は巡りますから」
「そうですよね」
「そう、信じれば。私も、信じています」
そう言って、チルノさんにそうした時と同じように、優しく微笑んでくれた。私も笑顔を返そうとしたけれど、上手く出来たかは分からなかった。私も信じています、という言葉が、たまらなく嬉しかった。
「それでは、私は――行きます」
リリーさんが私から身を引いて距離を取り、両手と翼をめいっぱい広げる。どこか、神聖ささえ感じさせる姿だった。
と、次の瞬間。
ふわり、と風が起こった。
まさに春を感じさせる、柔らかで暖かい風だった。
更に次の瞬間には、一帯に桜の花びらが舞っていた。
それは、一枚一枚が発光しているかのようにほのかに薄桃色に光り、風を受けてまるで踊るようにひるがえる。
周囲にひらめく花びらは次第に増え、あたりを桜色の光で溢れさせていた。
その中心には――穏やかな笑顔で佇む、リリーさん。
ぼんやりとした光の中に浮かび上がる彼女の姿は、光に溶け入るように、おぼろげな輪郭をしていた。
淡い光を放つ花びらはますます増えていく。そのたびに、彼女の姿が曖昧になってゆく。
私はただただ、その光景に見とれていた。
時間を忘れて、そうしていた。
そして、気付いた時には。
そこにはもうリリーさんの姿はなく。
辺りには、淡い色合いの桜の花びらが、ゆらゆらと舞い降りているのだった。
「行って、しまわれましたか……」
夜の闇の中に一人取り残された私は、名残を惜しむようにつぶやいた。
私は手のひらを差し出し、一枚の花びらを受け止める。ごくごく普通の、桜の花びらだった。
そう言えば、と思い出す。
いつの間にか、レティさんの残した寒気は消え去っていて、雪も止んでいた。その代わりに、桜の花びらが今も空からゆらゆらと舞い降りて来ている。
この季節に舞うべきは、雪の欠片ではなく、桜の花びらであるとでも言うかのように。
そして、私に対して、めいっぱいの春を届けるかのように。
気が付けば、私は涙を流していた。
それが、素敵な春を届けてくれた、嬉しさからのものなのか、リリーさんが消えてしまった、悲しさからのものなのかは、私自身にも分からなかった。
春だったら、もう充分過ぎるくらいに享受していたというのに。
彼女とはまだ、今日知り合いになったばかりだというのに。
私が泣いてしまうなんて、いつ以来だろうかと思う。
それも分からないけれど、決して嫌な気はしなかった。
――たとえ涙流そうとも また会えると 信じてるから
ミスティアさんの歌を思い出す。
あの時は、まるでチルノさんに向けて歌っているかのようだと思っていた。けれど今それは、私の胸にも、強くじんわりと響いて来るのだった。
「たとえ涙流そうとも また会えると 信じてるから――」
その旋律を思い出しながら、私は口に出して歌ってみた。
ミスティアさんみたいに上手くは歌えないけれど、構わなかった。
自分の庵に帰り、私は夢中になって記事を書き進めた。
思った以上に筆は順調に進み、今やもう、ほとんどの記事を書き終えていた。
今号は、幻想郷の春の様子を伝える新聞。私が各地を回って見聞きしたことを、あまねく綴るのだ。リリーさんのことも、ミスティアさんのことも、レティさんのことも。もちろんリリーさんのことは、その仕事ぶりから、それを終えて消えていってしまうことまでを、欠かすことなく記していった。
ただ、新聞記事にどのような話題を盛り込んでいこうとも、やはり一面では出来る限り明るい話題を掲げたいと思う。そういう考え方は、報道に携わる者としては甘いのかも知れないけれど、明るい話題が多い方が、世の中がより良くなる方向へ進むと、私は信じている。
そんな訳で一面は、春を喜び伝えるリリーさんと、晴れ晴れと春の歌を歌うミスティアさんとを記事のメインに据えることにした。
後は、記事の見出し文と一面に載せる写真を決め、それに合わせて本文を調整するだけである。
用いる写真については、記事を書きながら考えていたのだけれど、未だに決められないでいた。
手には二枚の写真。
一枚は、大空を羽ばたくリリーさん。もう一枚は、博麗神社で歌を歌うミスティアさん。春と言えばやはりリリーさんだけれども、翼を広げて気持ち良く歌を歌っているミスティアさんの写真もまた捨てがたかった。
私は、二枚の写真を目の前に立てて並べ、眺める。
リリーさんは今にも元気に羽ばたいてくれそうで。
ミスティアさんは今にも歌い出してくれそうで。
二人とも、生き生きとした姿で写真に収められていた。
そうしてぼんやりと写真を眺めていると、日中に聞いたミスティアさんの歌が耳元で再生される。
チルノさんやリリーさんと一緒に聞いた歌。
白玉楼で幽々子さんの舞いを鑑賞しながら聞いた歌。
各地を飛び回りながら色んな方々と聞いた歌。
そして、博麗神社でミスティアさんを間近にしながら聞いた歌――。
そこまで回想にふけると、ふと閃くものがあった。あらためて、二枚の写真を見比べる。
そうだ。これを見出しの言葉に使おう。写真も、それに合わせて二枚とも載せてしまうことにしよう。これならば、見出しと、二枚の写真と、そして本文が上手く繋がると思った。
リリーさんは身一つで幻想郷中を飛び回ることで、春を伝えていた。
ミスティアさんは歌声を幻想郷中に響かせることで、春を伝えていた。
――そして私は、新聞記事で以って、季節の訪れを伝えると、映姫さんに言った。
今の私はまだ、その二人に加われるほどの立場にはないだろう。
けれどいつかは私も、春を伝える、その一翼を担えるようになろうと、希望と、そして誓いを込めて。
私は見出しの言葉を決めた。
『春告げの翼 幻想郷を翔ける』と。
とてもよかったですご馳走様。
既に夏とはいえ、創作物に季節は関係ないと思います。
情景が目に浮かぶようでした。優しくて暖かな春をありがとうございます・・・
嬉しさと、寂しさ。涙が、深く心に響きました。
巡り巡る季節の中で、また会いましょう。
ああ!いいお話でした。
とにかく優しいお話でした
すっかりと擦れてしまった今の自分には少しばかりこの幻想は眩しいくらいですが、
だからこそ「ありがとう」という言葉を送らせていただきたく。
そして自分もまだまだ季節感の描写は突き詰めないとなぁと思わされました。
それにしてもゆゆ様はかわいいなっ。(ぇー
願わくばリリーの想いが、ミスチーの歌に乗って幻想郷中に響きますように。
中々難しいこととは思いますが、最後は自作で〆て欲しかったかな。
読んでいて、はらはらと涙を流すような良い話だったと思います。
今年の過ぎ去った春を思い出しました。良い話をありがとうございます。
ほのぼのの中にある春、その美しさ、堪能させていただきました。
ありがとうございますです。
生き生きと動き回る皆々が実に素敵でした。MVPは竹林で迷うリリーホワイトにっ!
ふとリリーとみすちーの話を読みたくなってみたりした。
ともあれ良い話でした。
行き交う年も旅人ならば、廻り来る季節たちもまた旅人なのでしょう、
彼らを迎える嬉しさ、そして見送る淋しさ、そんなものを詰め込んだ素晴らしいお話でした。
たとえどんな季節でもこの美しい幻想に触れれば、心の中には暖かな春が訪れることでしょう。
温かい涙を、ありがとう。
ところで何故小悪魔が登場しないのかと小一時間(ぇ