夜が降りてくるところを、見たことがあるだろうか?
一度でいい、地球の、陽が去っていくときに、反対側を見上げてみるといい。いや、見上げてもかならず見えるわけではない、じっと目を凝らして、運がよければ、<穴>から見えるというだけだ。
それでも、見るだけの価値はある。
どんなに難しいとしても、一度でいいから、見てみるべきなのだ。
夜が降りてくるところを。
陽が逃げ去り――夜が『降りて』くるところを、一度でいいから見てみるといい。
その景色は、まさしく、幻想と呼ぶのに相応しいものだから。
私は一度だけ見たことある。遠い昔、母様が生きていたころに、一緒に見上げたのだ。
それ以来、その景色に、私はすっかり魅了されてしまった。
だから――夜な夜な、私は頭上を見上げて、ずっと待っているのだ。
夜を。
夜が降りてくるのを。
端からみたらおかしく見えるだろう。それもそうだ、私は何をするでもなく、ただひたすらに上を見ているのだから。酒を呑みながらでも、餅を食べながらでもない。
何もしないのだ。
何かをして、見逃すことなんてできないから。
ただただ、じっと上を見上げて――夜が降りてくる、一時間に満たない時間を、座って過ごす。
初めのうちは、みんな、「何をしているんですか?」と聞いてきた。
私は正直に「夜を見ているのよ」と答えた。答えを聞いたみんなは、「ああそうなのへえすごいですね」という分かったような顔をするか、それ以上何も言わずに黙って去っていった。
別にいいのだ。
誰かに理解してもらおうなんて思ってないから。
私だけが、この美しい光景を知っていれば、それでいいのだ。
だってそうだろう。たとえ私が見ていなくても、知っていなくても、その美しい光景は、ただそこに存在するのだから。観覧者の存在と関係なく、ただ美しくあり続ける。
誰も居なくても、地球が回り続けるように。
誰も居なくても、月が回り続けるように。
誰も居なくても、夜はそこにある。
誰も居なくても、夜は降りてくる。
その在り方自体も美しいと、私は思うのだ。
「何を見ておられるのですか?」
今日もまた客がきた。
もうすぐ陽が沈む――ちょうどそれを見計らったかのように。
客は、客ではなかった。ある意味では家族だった。けれど、私の習慣を、彼女は知らなかったはずだ。初めての客、でも間違いではない。
ここは私の世界だ。私だけの世界だ。少なくとも、今だけは。
だから、たとえ八意 永琳だとしても、今は客なのだ。
「夜」
私は簡潔に答えた。長い長い時間が、私から説明の二文字を奪っていた。残ったのは夜の一文字だけだ。
ほとんど意味が不明の私の答えに、永琳はそれでも納得したようにうなずいた。
「姫は、夜が降りてくるところを見たいのですね」
驚いた。
いくら永琳が天才だとは言えど、たったひと言で理解するとは思わなかったのだ。
永琳の方を振り向くことなく、夜を待ち続けられたのは、奇跡かもしれない。
私は永琳の方を振り向くことなく、言った。
「どうして?」
主語を抜かしたのはわざとだ。
永琳なら、きっと、それだけでも通用すると思ったから。ひょっとしたら『ど』だけでも通じたかもしれない。
案の定、永琳は私の意を汲み取って、望みどおりの返答をした。
「昔の文献に載っていました。……もっとも、実際に見たことはありませんけど」
そう言って、永琳は私の隣に座った。
二人並んで縁側に座って、二人揃って空を見上げる。
夜が降りてくるところを待つ。
「姫は?」
永琳も、空を見上げたまま言った。私のほうを見ようともしない。それはひょっとしたら無礼なことなのかもしれないけれど、私はそれをとやかく言う気はなかった。それほどまでに無粋なことはない。
私も、空を見上げたまま、答えた。
「あるわ」
一度だけだけれど、とは言わなかった。
なんとなく認めるのが悔しかったからだ。
答えるかわりに、私は空を見上げて、ただただ夜を待った。
――予感があった。
それはひょっとすると希望だったかもしれないけれど、たぶん予感だったのだろう。
あの日。一度だけ、夜が降りてくるのを見たとき。
あのときも、母さまと一緒だった。
誰かと空を見上げたのは、それが初めてで、最後だった。母様は偉い人だから、子供に愛情をさけるような人ではなかったのだ。そのときのそれも、ただの気まぐれか、なにかの奇跡だったのだろう。
そして、母様がいなくなってからは、そもそも仲が良い相手などいなくなってしまった。
だから、これは、二度目だ。
誰かと空を見上げたのは。
ひょっとしたら――二度目の奇跡が起きるかもしれないと、私はそう思ったのだ。
そして、それは、叶った。
永琳の見ている前で。
「姫。あれが――」
私の見ている前で。
「ええ、そうよ」
静かに、
「――あれが、『夜』よ」
夜が降りてきた。
その景色を、私は今まで忘れていなかった。一日として。
そして、今、再び見た景色を、私は一日として忘れることはないだろう。
何と言えばいいのだろう?
この、美しい景色を。
言葉に表しきれない、心を魂ごと揺さぶるような光景を。
夜は中心から、あっという間に、私たちの見えている世界すべてを覆いつくすように伸びていった。
黒い黒い闇。黒い黒い夜。
その正体を、遠くから眺める私たちは知っていた。
夜が生まれる場所。地球の中心。
そこには、少女がいた。
黒い服。赤いスカーフ。
金色の髪は、何にも縛られることはなく、ゆったりと長く風にたゆたっている。
彼女は目を閉じていた。まずまっさきに、自分の世界を闇に閉ざしたのだろう。
彼女が目をつぶると、彼女の身体から、闇が飛び出るのだ。
少女が踊るたびに、回るたびに、闇が広がる速度は速くなっていった。
腕を振るうと闇が出る。
髪が揺れると夜が出る。
そうして、彼女を中心に、闇が、夜が広がってくのだ。
空に――月の真下に浮かぶ彼女から、夜が、地上へと降りていく。
夜が降りていく。
その光景を、私と永琳は、声もなく見つめていた。
永琳は、始めてみるその美しい光景に、完全に心奪われて。
私は、再び見ることのできた美しい光景を、少しも漏らさず心に残すために。
遠く離れた場所。
38万キロの向こう側。
手の届かない場所に存在する、美しい世界を、私たちはじっと見続けていた――
遥か遠い天体。
38万キロの真空に隔てられた、地球。
美しき蒼い星に――夜が降りてくる。
そうなると実は世界の半分は常にるみゃのものってことに。
どうじゃ、世界の半分をそなたにくれてやr「いただきまーす」
舞台のギミックも面白く感じました。