母様が死んだ日のことねェ
随分と昔の話だわ
『越界幻想』 ~ Unforgettable…… ~
確か背比べをした時よ
アタシの背が母様に追いついちゃったの
そしたら、あの人ったら勝ち気だからねェ
ぎゃあぎゃあ騒いでアタシの頭をはたきつけて、わんわん泣いて
あ、もちろん本気ではたいたんじゃないわよ
優しくよ、優しく
と、それでね。あの人の泣き顔がおかしいのなんのってそりゃなかったわよ
本当に嬉しそうに泣くんだもの。アタシの方が涙出ちゃったわよ
あんな馬鹿っつら見たのはアレで最後ねェ
母様その日の夜は凄い御馳走つくってくれたのよ
もう嬉しくて飛び上がっちゃいそうなほどの御馳走
美味しかったわァ
女のアタシがこんなの食べていいのかって聞いたらさ、まーたはたきつけてね、
こんのほでなすゥ! のっつォばりかだってねでかァねかぁ! なんて大声で言われてね
ああ今のは、このお馬鹿さん、でくの坊みたいなこと言わないで食べなさいって言ったのよ
田舎の方言て本当にややこしくてねェ。嫌よねェ
そうでもない? そう そう
貴方達本当に良いお孫さんになったわねェ
文句一つ言わないだなんて小さい頃のアタシみたいよ
え、そんなんじゃないって? いやいや本当よ
で、どこまで話したんだったかしら。んー
……あら嫌だアタシ。もう忘れちゃったわ
歳取ると駄目ねェ忘れっぽくなって……ん? 何?
ああ、夕飯食べたとこ? んんそう。わかったわ
それじゃ夕飯食べたとこ。うん
その頃はまだ戦争があったのよ。もちろん貴方達も知ってるわよね
ああ、そうだ。アタシが田舎の人だったのになんで標準語話せるかってのも教えなきゃねェ
え、それはいいって? 駄目じゃないまったく
昔のアタシはそんなに辛抱できない子じゃあ無かったわァ。情けないわねェもう
順序を追って話さないとわからない話だってあるのよ
例えばアップルパイの作り方とか、シチューの作り方とか……え、何? わかったから始めてくれ?
そうそうそうよ。最初から黙って聞けばいいのよ。男は辛抱強くなきゃ
えーと標準語だったわね。そうそう
ざっぱりと言うとね。アタシんちは田舎の村の爪弾きモンだったのよ
村八分、なーんて言うと今の子はだぁれも知らないんだろうけどね
父様が本当にろっくでなしでねェ。村の中で悪いことやって、アタシんちは除け者にされちゃったのよ
田舎で除け者にされるってのは、今はそんなことないだろうけれど、
人間じゃなくてね、ゴミ屑同然に扱われるのと同じなのよ。本当のことよ
そんな目に遭うなんてどんな悪いことしたのか、アタシには死んでも教えてくれなかったなァ
父様が幽霊にでもなって出てきたら、今度こそ尋ねようと思ってたんだけどさ
今日この日までちっとも出てくれやしないの。うふふふ
…………
……ふう
もう昔のことだけれども、アタシんちは酷い有様だったわァ
思い出したくもない。死んだ方がマシだと何遍思ったかしら
糞味噌のようなモノ投げつけられたり石投げられて目が潰れそうになったり
そこら辺で米粒囓ってる鼠の方がまだ幸せよォ
罵りの声を聞かない日なんて無かったし、
アタシがなんでこんな目に遭わなきゃならないのかと歯を食いしばらなかった日は一度も無かった
朝、川で顔を洗ってたらね。後ろから顔を川に突っ込まれて溺れ死にそうにもなったし、
誰かの家が盗人になんて入られたらまっすぐアタシんちが目を付けられたのよ
もう。本当嫌だったわ
笑い話にもならないわねェ
本当はもっともっとあるんだけれど、村の話はやめるわ
涙出そうだもの。もう悔しい
……父様がね
こんな生活にくたびれ果てて、アタシが死にたいなぁなんて思った時だったかしら
この村にいたら殺される。だから出て行こうって言ったのよ。食べる物が何も無い晩にさ
その言葉聞いたらアタシ、なんだか涙出ちゃってね
なんで泣いたのかもう覚えてないんだけれど。もうわんわん泣いたわ
母様も本当悔しそうな顔で泣いてた
父様も泣いたのよ
あの他人に幾らけなされても怯えたような顔をして、へらへら笑うだけだった父様がねェ
アタシの兄様――もう死んじゃったけれどもね、その子だけが泣かなかったわ
父様も母様もアタシも泣いてるのに、兄様ったら泣かないのよ
ただ不思議そうな顔でぼんやりしてたの
後でなんで泣かなかったの? って聞いたらさ、
お腹がすいててぼうっとしてたら、父様の話聞き逃したんだってさァ
……本当バッカよねェ。あはははははははは
そんなとこも父様にそっくりだったわ。貴方達にも見せてあげたかった
…………
…………
そうそう、それで出てったのよ。アタシ達
田舎からずーっとずーっと。倒れそうになっても歩いてね
言いたかないけど、泥棒したわ
食べる物なんて何も無かったんですもの
食べなきゃ死んでた
それこそボロ雑巾のようになって、飢えてじわじわとお天道様に焦がされて死ぬより、
盗人って呼ばれて殺される方が楽だと思ったわ
本当に死に物狂いだった
戦争なんて関係無かった。村の人や周りの人に、飢えに殺されそうだった
それでも歩いて、歩いて
アタシ達は歩いて、やっと都会に出たのよ
そこがアタシ達の出てきた村と同じ国の中にある場所だなんて、信じられなかった
もくもくと煙を吐く工場
無愛想な色のコンクリートに煉瓦
昼間の内は絶えない騒音
田舎の土と木と青い空しか見てこなかったアタシには信じられない光景だったわ
鉄の箱ががたごと地面を揺らしながら通った時なんて心臓どっきどきになっちゃったわよォ
後でね。アレは自動車って言うんだって都会の子に笑われたわ
訛りのある言葉も散々けなされた。ふふふ
……でもアタシ。凄く楽しかったわ
都会での生活が楽しかった
みんなアタシを田舎者扱いしてけなすけれど、殺そうとまではしなかった
村を出て本当に良かったと思った
仲良くなれた子も数人いた。みっちゃんとさっちゃんって言うんだけどね
その子達から標準語を教わって、アタシ喋れるようになったのよ。嬉しかったなァ
父様と母様はね、近くの工場で働いたの
父様はのんびり屋だったからでくの坊
母様はいつでも口うるさいからノコギリだなんてあだ名を付けられたらしいわ
アタシと兄様は二人で靴磨きをしたの
二人でうたい文句を考えてお客を呼ぶのが楽しかった
お客さんの靴がぴかぴかになった時は嬉しかった
そのお客さんが笑ってくれた時はもっともっと、嬉しかった
みんな一所懸命生きてたわ
あの頃は幸せだった
あ、もちろん今もよ。本当だからね
あはははははは
…………
…………
でもね。幸せって気紛れなものなのよ
アタシと兄様は5つ歳が離れていてね
兄様が兵隊に取られて戦地に行ってから半年が経った頃
アタシはまだ子供だったわよ。ちょうど貴方達くらい、12、3歳の頃だったかしら
母様と父様ったらスケベでねェ。新しい子がお腹に居た時よ
年甲斐も無く新しい子なんかつくってさァ。え? 子供が出来るとなんでスケベなのかって?
……あら嫌だわアタシ。知らなくても無理ないわよねェ。歳とると恥ずかしさなんて忘れちゃうのかしら
そうか昔から無かったわね恥ずかしさなんて。あははははははは嫌だわおかしいあははは……
…………
…………
…………
……うん、ごめんね
お婆ちゃんちょっと涙出ちゃって。大丈夫 大丈夫
歳とると涙もろくなるってのは本当ね。馬鹿みたいだわ
……背の低い母様の身長とアタシが並んだ時ね
父様と母様の間に挟まれて、アタシ寝たの
川の字になって寝る。なんてのも、もう死語なのかしらね
お腹一杯食べて、一杯馬鹿にされて、幸せ一杯だったわ
母様と父様は疲れてたのか、ぐっすりと死んだように眠っててね
生まれて初めてだったかなァ。アタシ一人で考えたの
死にたく無いって。早く戦争が終わって、兄様も帰ってきて、もっと生きたいって
きっと楽しくなっていたのね。生きるのが
兄様にも、母様の御馳走食べさせてやりたいなーなんて思いながら眠ろうとしたのよ
そしたらかんかんかんかん鐘が喧しく鳴ったの
うーうーうーうーサイレンが鳴ってね、父様と母様飛び起きたの
空襲警報よ。貴方達は知ってる?
敵の爆撃機がね、アタシ達の真上を飛んで、爆弾を落っことし始めたのよ
いきなり窓の外が真っ赤に光ったと思ったら、地面が跳ねるように揺れて
アタシ立ってたんだけど思わずすっころんじゃってね
地面が揺れてガラスが割れたし、吊り下げてた豆電球が落っこちて割れたわ
父様ったら驚いて腰が抜けちゃったみたいで、魚みたいに口をぱくぱくさせてた
そんな中、お腹を膨らませた母様だけはきびきびと動いてたの
まるで兵隊さんみたいだった。アタシに防火頭巾とかさっと渡してね
腰の抜けた父さん引っ張って外に飛び出したの。アタシもすぐさまついていったわ
そしたら、そこは一面火の海
人の波に突き飛ばされないようにアタシんちを振り返ってみたら、お隣さんが燃えてた
うちにも火が来ちゃうよォ なんて思ってたらさ、母様に怒鳴られて手を引っ張られたの
早く逃げるわよって。安全なとこに逃げましょって
アタシ達は本当に火の中を転がり回る鼠のようだった
アタシは母様、父様と両手を繋いでひたすら走った
倒れてきた木材に押し潰されている人がいた
燃えてる人に抱き付かれて火が移った人もいた
爆弾にやられたのか上半身だけの人もいた
死んだ赤子に話しかけてる女の人がいた
焼けただれた顔でふらふらと歩き回る人がいた
地獄だった
地獄以外に、なんて呼べばいいのかわからないもの
酷かったわ
アタシは心の底から生きたいと思った
死にたくないと思った
だから懸命に走った
懸命に走った
そして、いつの間にか片方の手が離れていたことに気がついたの
父様とはぐれてしまっていた
辺りを見回して見ても、父様らしき影は見つからなかった
アタシは叫んだ。父様の名を叫んだわ
叫びながら立ち止まったアタシの頬を、突然母様にぴしゃりと叩かれた
母様が鬼のような顔で、死にたくなかったら走りなさいって言った
アタシは泣きながら走り出したわ
気が狂いそうだった
空襲警報のサイレンの音
火がごうごうと燃える音
爆弾が地面に落ちて弾ける音
はぐれてしまった人の名を呼ぶ声
怖くて泣き叫ぶ子供の声
おかしくなってしまった人の笑い声
本当に、地獄としか言い様がなかったわ
涙で目の前が見えなくなってね
母様に引っ張られて必死に走ってたら、突然目の前がぴかっと光って、真っ赤になったのよ
そして音がしなくなった
何も聞こえなくなったの
何も見えなくなった
真っ暗な世界の中で、体を動かすことさえ出来なくなった
その時アタシは、「ああ、死んだのか」 って思ったわ
爆弾に当たって、きっと死んだのだと思った
終わっちゃったんだと思った
そう思って眠ろうとしたらね。次第に明るくなってくのよ
目の前が段々明るくなっていってね、白くなったと思ったらまた赤くなって――
目が醒めた時、アタシは煙の舞い上がる赤い空を仰いで地面に転がってたわ
なんだか頬がひりひりすると思って手を当てたら、その手が血でまっかっかになった
頬を擦りむいただけだったんだけれど、アタシは凄く驚いちゃって立ち上がったの
目玉が飛び出すかと思うくらい目を見開いてね、はあはあ肩で息をして
そして見ちゃったわ
……顔とお腹に黒い破片がいっぱい刺さってる母様を
アタシは何が起こったのかわからなくてずっと突っ立ってたわ
何秒だったかしら、何十秒だったかしら
何分かもしれないし何十分かもしれない、もしかしたら何時間かも
アタシったら母様に似ず臆病だったからね。わかった瞬間逃げ出したわ
わかりたくなかったの。それ以上わかりたくなかったの
わかりたくなくて逃げたの。ひたすら走ったの
涙を拭くことも出来ずに走った
アタシは走ったわ
一生分は走ったわね
火の海の中を
走った
走って走り通した
爆撃機が空気を裂いて飛んでいく音が耳の中にこだましてた
ぶうんぶうんぶうんぶうんぶうんぶうん って
アタシは涙で前が見えなくなった
走りながら考えた
父様やみっちゃん、さっちゃん達まで母様みたいになっちゃってるのかなって
戦地の兄様も、あんなになっちゃってるのかなって
アタシは戦争が本当に怖くなった
アタシのことを知っている人が、みーんな死んじゃうんじゃないかって
アタシの大事な物を、ぜーんぶ持って行っちゃうんじゃないかって
アタシの幸せだった時間を、全て壊しちゃうんじゃないかって
怖かった
怖くてしょうがなかった
みんなが死んでしまったら、アタシはどうしたらいいの?
アタシは忘れられてしまうの?
アタシはいなくなっちゃうの?
アタシどうなっちゃうの?
支離滅裂なことばかりが頭をよぎっていったわ
怖かったのよ
怖かった
怖かった
アタシは涙で前が見えなくなっても走り続けた
ぶうんぶうんぶうん と、爆撃機の飛んでいく音が聞こえていたから、走り続けた
アタシは走り続けた
怖くて、恐ろしくて、怖くて
長い間逃げ続けた
……そうしたらね
爆撃機の音が突然聞こえなくなったのよ
ぷつんと切れたようにね、ちっともしなくなった
それどころか人の悲鳴も聞こえなかった。静かだった
地面も都会の固いアスファルトじゃなくて、土になってた
アタシは涙で前が見えないまま、力が抜けちゃってぺたりと地面に座り込んだわ
泣いたわ
死ぬほど泣いた
怖くて泣いた
心細くて泣いた
悲しくて泣いた
アタシは泣いていた
……そうしたらね、突然、後ろで声がしたの
最初は怖くて、竦み上がっちゃったわ
声をかけたのは敵の兵隊さんで、アタシを殺しちゃうのかと思ったの
でも、違ったわ
そこは古びた神社の境内だったの
きれいな、桜がね
桜が咲いていたの
社は……本当、ボロくてねェ
今にも蜘蛛のお化けが出そうだった
アタシに声をかけたのは千早を着た巫女さんでさ
泣いてたアタシに、どうしたのって聞くのよ
アタシが空襲で逃げてきたって言ったら、本当に変な顔してねェ
巫女さんはとりあえずアタシを縁側に座らせてね、お茶を飲ませてくれたのよ
茶菓子なんてその頃は贅沢品だったから、ボロく見えても本当は由緒ある神社だったのかしらねェ
そのお茶が、とてもとても美味しくて
アタシはぼうっとして何も考えられなくなったわ
さっき起こったことが現実だったのか、錯覚だったのか、はたまた夢だったのかわからなくなった
流す涙も枯れ果てていたわ
目の前では立派な桜の木が揺れていたかしら
青々とした葉を茂らせてねェ
本当に力強かった
しばらく経ってから巫女さんが、落ち着いたかしらってアタシに尋ねたの
アタシはもう悲しくも何ともなかった
いえ、違うわね。もう何も考えられなかった
母様死んじゃったのってだけ言ったら、後はぼうっと桜の木を眺めていた気がするわ
そう言えば空襲があった時は夜だったはずなのに、神社は明るかったわねェ
空襲は地獄のようだったから、きっと朝まで走ってて気づかなかったんだわ
巫女さんはずっと黙っていてくれた
アタシ、その時は何も話したく無かったの。疲れ果てていたの
だから有り難かったわ
何も考えずに済んだ
何も思い出さずに済んだ
ただ、風に揺られる桜の木を眺めていられた
いつまでもそうしていたかった
けれど、さすがに巫女さんもそういう訳にはいかないものね
あなた家は?って聞かれて、たぶん燃えちゃったって答えた
家族は?って聞かれて、死んじゃったかもって答えた
これからどうするの?って聞かれて、アタシは答えられなかった
枯れ果てたと思ってた涙がまた流れたわ
頭が真っ白になって、何も考えられなくなった
巫女さんが何か言ってた気がするけれど、まったく覚えてないわ
アタシは耳を閉じて、顔を塵汚れや焼け炭でどろどろになっていたもんぺに押し付けた
顔をこすりつけて乱暴に涙を拭ったら、頬の傷が開いちゃってまた血が出た
そんな風に泣いてた時、巫女さんの物じゃない声がしたのよ
怪訝に思ったアタシが顔を上げると、そこには真っ黒な服を着た女の子が立っていたわ
今まで見たこともない上品そうなスカート。箒を脇に抱えていて、頭にはとんがり帽子
でも でも許せなかったのはそんなへんてこな格好じゃなくてね
その子が母様を殺した、憎い敵の国の子だったこと
金色の髪、金色の目。絶対アタシの国の人間じゃなかった
もしかしたら敵の国の人じゃなかったのかも知れないのにね
アタシったらそんなとこだけ母様に似たのか、カッカして殴りかかってたわ
腰を入れて殴ったつもりなんだけれど、あっさり避けられちゃった
体のバランス崩して転んじゃって、それでも立ち上がって殴りかかったわよ
巫女さんが必死に止めてね。アタシもう訳のわからないことを叫びまくってたと思うわ
そうしたらその憎い真っ黒な子
巫女さんに羽交い締めにされてるアタシの頭を箒でぱこっと叩いてね
物凄い勢いで叩かれたからアタシのびちゃったの。気絶しちゃったの
次に起きた時、アタシは手を紐で縛られてたわ。もう信じられない
盗人か何かと間違えられたのかしらねェ。訳がわからなかったわ
巫女さんに呆れたような顔で迎えられて、
真っ黒な子には憎ったらしいくらいかわいい笑顔で迎えられて
アタシ、その憎ったらしい子に体当たりだけでも喰らわせてやろうと思ったの
本当勝ち気でしょう? 嫌だわ母様にそっくり
そうしてまっすぐ黒い子に向かっていったはずなのに、おかしいのよ
アタシちっとも前に進めないの
確かに足は動かしてるんだけれどね、アタシの足下の地面だけ無くなってしまったような感じで……
おかしいなと思って足下を見たらね
アタシ、宙に浮いてたの
足が地面を蹴ろうとして、届く寸前でぶんぶん振られてて
何が起こったのかとわからずにいたのよ
そうしたら、真っ黒い子が指をくいっと、まるで糸を引き寄せるみたいに動かしたの
すーっと、アタシの体が真っ黒な子に引き寄せられて――
その子がまたがる箒の後ろに、アタシまでまたがされたの
何をするつもりよ!ってアタシが聞いたら、
歓迎会だぜ、だなんて男言葉を使って気障ったらしく言ったわ あの子
後ろで巫女さんが、馬鹿みたいねえ なんて呟いてたのを覚えてる
その声が聞こえるか聞こえないか――
突然アタシの体がぐいっと後ろに引っ張られて
空の手前にあったはずの桜の木が、地面に吸い寄せられたの
目の前には空だけがあって
何が起こったかわからなかった
信じられなかった
地面が遠く、遠く、遠く
空がこんなにも近くなって――
アタシは空を飛んでいたわ
箒に乗って空を飛んでいた
どうだ? 面白いもんだろう?って、アタシの前に座ってる憎ったらしい子が言ったわ
何がなんだかわからなくなって
そこでアタシ気づいたの
これは夢なんじゃないかって
空襲も、母様も、空を飛んでるのも、全部夢なんじゃないかって
そうじゃないと説明できないもの こんな馬鹿げた一日
アタシはまた泣いていた
今度の涙は、心が打ち震えて流した涙だった
綺麗だったわァ
透き通った水晶のような湖
田舎で見たそれよりも、もっと力強い森の木達
虹のように咲いた七色の花畑
アタシの真横を、飛行機みたいに編隊を組んで飛んでいく鳥達
白雪の帽子を被った山の峰と、そこにどっかりと座っている夕陽
陽ざしを受け止めて茜色になった草原
澄んだ空気 透き通った空
東から昇ってくる青い月
アタシはその景色を眺めながら泣いてた
一生分泣いても構わないと思った
これから泣けなくなっても、それでもいい 泣きたかったの
本当に、綺麗な景色だったわ
……綺麗だったわァ
神社に戻って、アタシは放心したように座り込んだの。縁側ではなく地べたによ
今度こそ感情が無くなってしまったような気がしたわ
疲れて何も考えられなくなった
目の前で、真っ黒い子と巫女さんがアタシの前に並んで立って、顔を見合わせていたわ
何やら話をしていたけれど、アタシはもうそれを聞く気力すら無かった
巫女さんがアタシの顔を見て何か言ったわ。同意を求めているような顔だったかしらね
アタシが何のことだかわからずにぼうっとしていると、耳に口を近づけて来てこう呟いたの
「あなたの居るべき所へ帰りなさい」
確かにそう言ったと思うわ。アタシはなんのことだかさっぱりだったけれど
目の前で巫女さんが口をぱくぱくと動かし始めた
祝詞か何かでも唱えているみたいだったわね
疲れ果てていたアタシは巫女さんの声を聞きながら目を閉じた
そして地べたに転がったまま、やがて眠ったわ
ずっと目を閉じてたの
そうしたら、声が聞こえてきた
アタシの名前を誰かが呼んでいたの
最初は弱々しく、段々と力強く、最後はもう煩く感じるくらい
アタシがぱちりと目を開けると、そこには父様の顔があった
アタシは疲れ切っていて、父様の名を呼ぶのがやっとだった
父様の名前を、ゆっくりと口を開いて、呼んだらさ
あんなに驚いたような父様の顔、見たことなかった
ぎゅっと抱き締められちゃったの
あんまり強く抱きしめるものだから、体のあちこちが痛くなったわ
父様は泣いているみたいだった
アタシは何が起きたのかわからなかった
唯一わかったのは、父様の暖かさが夢なんかじゃないことだけ
――あの不思議な神社は、本当になんだったのかしら
とても綺麗な場所
アタシ達とは違う形で、命が懸命に生きているのを感じられた場所
夢だったのかしら。それとも幻覚だったのかしら
とにかく確かなのは、そんな場所にアタシがほんの少しの間居たこと
夢の国だろうとまやかしの中だろうとなんだろうとね
……え? 何?
ふふ。そう
貴方達も行ってみたいって?
そうねェ
いきたいって強く願えば、忘れられたくないって思えばきっと行けると思うわ
アタシはそう思っている時に行けたんですもの
……話の続き
父様と再会できてからしばらく経ったわ
空襲は夢なんかじゃなかった
残酷よねェ
アタシの母様はきっちりと死んでたわ
お腹の子供と二人分、父様とアタシは骨の入っていないお墓を建てた
みっちゃんとさっちゃんは生きてた。また会えた。アタシ達は再会を心から喜んだわ
あっという間に戦争は終わった
嘘みたいな終わり方だった
大きな爆弾が落とされて、アタシ達の国は戦争に負けた
この年、世界中でたくさんの人達が無くなったのよ
苦しまずに死ねた人なんてほとんどいなかったわ
みんな一所懸命に生きて、でも苦しんで、苦しんで死んでいったの
そんなことあってはいけないはずなのに
兄様も外国の地で亡くなった
小指の骨だという、嘘みたいな小さな欠片が骨壺に入れられて渡された
アタシの家族は、父様とアタシの二人きりになってしまった
戦争が終わる前に疎開で別れたみっちゃんとは遂に連絡が取れなくなってしまったし、
さっちゃんは海を越えて男の人の所にお嫁に行ってしまった
アタシは端から見ると、随分寂しい子になっちゃった
……それでも、アタシは生きた
地獄のような日々を生き抜いて、今ここで孫達と話をしているわ
もし良かったら、この話を貴方達の子供にも伝えてちょうだい
それがお婆ちゃんからのお願い
昔を忘れ去っては駄目
語り伝えないと駄目
アタシが感じたことを、忘れないで
アタシ達が後悔したことを、忘れないでね
貴方達はそんな思いをしてはいけないの
……だからといって、昔ばかり見ても駄目よ
今日を生きなければ、明日だってやって来ないんだから
……ふふ
アタシも涙もろくなっちゃって困っちゃう
……お婆ちゃんなんだか疲れたわ
もう寝るわね
うん うん
ありがとう。でも大丈夫よ
それじゃお休み
また遊びに来なさい
※ ※ ※
婆ちゃんが死んだのは、それから三ヶ月経った後のことだった
あんなに元気だったのに信じられなかった
そんなに急がなくていいのに、と思った
俺は母ちゃん、父ちゃん、兄ちゃんと一緒に葬式に出た
婆ちゃんは綺麗な顔で死んでた
花に囲まれて、みんなに見送られて、燃やされて骨になった
人間ってこんなに簡単に死んじゃうんだと思うと、涙も出なかった
葬式の終わった夜、婆ちゃんのことを思い出した時に初めて涙が出た
兄ちゃんが隣で眠っていたので、声を出さないように泣いた
次の朝の食事はなんだかうまくなかった
人が死ぬのを見たのは初めてだったからかもしれない
朝メシを残して、俺は母ちゃんに怒鳴られながら家を出た
今日は日曜日だ
だから学校にでも行けば誰か友達に会えるような気がして、自転車のペダルを漕いだ
気づいたら、兄ちゃんも後ろから追っかけてきていた
中学生になった癖にまだ弟離れが出来ないのかと思うと溜め息が出た
兄ちゃんは俺の横に並ぶと、婆ちゃんの言ったこと、覚えてるかって聞いてきた
戦争のこと?と、俺が聞き返すと、違う違う と兄ちゃんは機嫌悪そうな声で言った
変な神社のことだよ 兄ちゃんが言った
あの神社がどうかしたの? 俺は聞いた
見てみたくないか? 兄ちゃんが言った
見てみたいけどさ 俺が言った
どうしたら行けるかわかるか? 兄ちゃんが俺に尋ねて、俺は笑ってしまった
……この馬鹿、もう忘れたのかよ
「いきたいって思えば、忘れられたくないって思えば行けるんだろ?」