*里の人間として、原作で描かれていないキャラが登場します。
『あたい、映姫のママになる!』
「四季様、次のお客さんを運んできました」
「来る……ふぅ、やっと来ましたか」
小町は三途の川を霊を連れて渡り、彼岸に船をつけた。
昨晩、幻想郷中を水浸しにし、ここ彼岸まで濡らしたた大雨は既に止んでいた。
突き抜けるように澄んだ水色の空の下、未だしっとりと水気を含んだ野に足をおろすと、淡く瑞々しい草花の香りが、ふわりと立ち込めた。
空よりも濃い青色をした小さな花が、まばらに咲いているその川岸の野の中で、映姫は小町達に背を向けて座っていた。
その肩が揺れる。こうもため息の多い閻魔はほかにはいないだろう。
持っていた何かをその場にそっと置いて、ゆっくりと小町の方を向いた。
小町は、映姫に真っ直ぐ見つめられるといつも、心の向こう側を透かして見られているような感覚になる。
すでに見慣れている小町でも、この表情の映姫とは長時間向かい合いたくないと思っているのだから、初めて連れてこられ、閻魔に会った霊ならばなおさらそう思うだろう。
小町に連れてこられた霊は、船の上では身の上話に花を咲かせ、ご機嫌にゆらゆら揺れていたものだった。
“最後に一番大切なものを守れたのだから、自分は幸せだった。残してきた事は申し訳なく思うが、生きていれば必ず一人前になると信じている、だから不安など全く無い!”などと豪語する気の強い霊であった。
しかし、映姫を前にしてはそんな霊ですら、内側から脆く崩れそうなほどに透かされ、固まっていた。
「初めまして。私は四季映姫ヤマザナドゥ。あなたを裁く閻魔です。そんなに緊張しなくてもよいのです。いまさら隠しても全て私には分かるのだから。あなたの罪、徳、全てを明らかにして最後の裁きと致します」
ゆらゆらと揺れる事すら忘れ、緊張して寡黙になった霊に映姫はいつもどおりの挨拶をした。
それから映姫は少し離れた場所にある大きな門を指し示した。
「あそこで貴方の裁きを行います。すぐにでも始めたいのですが、少しこの死神に話があります。先に中に入って待っていてもらえますか? ほんの少しの時間です。その間に心を澄ましておきなさい」
霊は言われたとおり、真っ直ぐに大きな門の中に吸い込まれていった。
映姫はそれを見届けた後、再びゆっくりと振り向いた。
そして、猫背になりながら船に片足突っ込んで、今にも逃げ出そうとしている小町に声をかけた。
「小町。今日はだいぶ待ちました。まだ花は少ないのです。全て私が摘んでしまうところでしたよ」
「あはははは」
「笑ってごまかすものではありません。一昨日あれほど説教したでしょう? あなたは心を入れ替えると誓った。昨日はその言葉どおり朝早くから真面目にたくさんの霊を運んできた。これはいよいよ、あなたにも私の心が伝わったのだと嬉しく思ったのです。ですから、私もそんなあなたの誠意に報いようと今日はこうして外に出てあなたが霊を運んでくるのを待っていたのです」
「あはははは、それでわざわざ外で待っていてくださったんですね。花占いなんかしちゃってあははは」
小町は引き攣った笑みを浮かべながらちらりと真っ青な空を見やった。
太陽は、もう若干西に傾き始めていた。
「昨日と今日を足して二で割ればだいたいちょうど良い感……じ……なんて」
「それならば、明日はまた昨日のようにいつもの倍以上働くのですか? 小町、意味の無い言い訳は止めなさい。いったい何年私の元で仕事をしているのですか」
「いやぁでも、ほら、花ならまだ咲いてますし。たまにのんびりされるのも良いですよ」
「余計なお世話です。あなたのおかげで、日々だいぶのんびりと仕事する羽目になっているのですから。あなたは少々いい加減すぎる。でも……」
「でも……?」
映姫は一呼吸置いてから、勿体つけるように言った。
「あなたは少々、私のママに似ている」
「ママ?」
聞きなれない単語だった。いや、単語は知っているが、映姫の口から聞こえるとは思っていなかったため、間抜けに聞き返してしまった。
「ママです。まさかとは思いますが、ママも知らないのですか?」
「い、いいえ、知ってますよ、存じ上げてますよ? ハイ」
小町は眉間にしわを寄せて、映姫の次の言葉に集中することにした。
「ママは、幼少時の私の目にはまこと不思議な人に映っていました。のんびりでいい加減で、けれどやらなければならない事はきちんとこなす人だった。厳格なパパと何故気が合ったのかは今の私にも分かりませんが。ともかく、子供の目に不思議だったママは、今思うと仕事にムラのある人だったのだと思います。小町、あなたのように、追い込まれてから事を始める人だった」
「はぁ、ママが、ですか」
「ええ。そして、私に花占いを教えてくれたのもママでした。だから、今日は朝からあなたとママの事ばかり考えていた。そして気がついたのです。あなたのことを強く説教するだけなのは、閻魔として正しくても、四季映姫として望ましいのかどうか。私はママが大好きでした。だから、小町、あなたの事もどうしても悪く思えないのです。いい加減さは欠点ですが、あなたのような人間にしか持ちえない暖かさがあることを私は知っている。先ほどの霊の様子を見れば分かります。だからせめて、私があなたをかばえる程度には真面目に仕事をしてもらいたいのです。ずっと一緒に仕事を続けられるように」
「はぁ、ママですか……今、ご両親はどちらに?」
「勿論、遠く離れて仕事をしていますよ。私はもう独立したのですから。小町、何か言いたい事があるならはっきりといいなさい。どうせ、私に花占いが似合わないとかそういう事でしょう」
「いやぁ、そうじゃなくて」
普段と違い、妙に感情を込めて話す映姫は小町を戸惑わせた。
小町は後頭部に手を当て、真っ赤な後ろ髪をわさわさと掻きむしりながら目を閉じた。
口も結んで難しい顔をしている。
「今日はずっと朝から待ってたんですよね。一人で花を摘みながら、あたいが来るのを」
「そうです。それがどうかしましたか?」
「四季様、正直に言いますとですね」
「えぇ、小町。言いなさい。あなたの正直な気持ちを聞きたいですね、仕事を私のことをどう思っているのか」
小町は口を真一文字に結んだまま映姫の正面に立った。
二人の身長差は大きく、子供を見下ろす大人、まさにそのままの図。
大人は、いとも軽々と子供を抱き上げ、お互いの顔の位置を同じところまで持ち上げた。
「四季様」
「何ですか小町」
「……可愛すぎです」
「は? なんですか? バカにしているのですか!? 放しなさい。降ろしなさい。あ、ちょっと」
小町はそのまま映姫をギュウっと胸に抱きしめた。
「それならそうと言ってくれればよかったんです。あたい時々悩んでたんですよ? 嫌われてるんじゃないかって」
「嫌ってなどいません。あなたが霊を届けてくれるのをいつもどれだけ心待ちにしているか。それはともかく、放しなさい。むしろ、今のあなたは何か誤解していませんか? ママに似ているとは言いましたが、小町は小町でママではな……」
「あぁもう、繰り返さないでください。可愛いなぁ。あたい決めた! 遠くにいる本物のママにはなれないけど、ここにいる間はあたいが映姫のママになる!!」
「え。ちょっと待って小町。小町さん?」
「遠慮はいらないですよ、映姫様。このまま中までお連れしますね」
腕に力を込めてしっかり映姫を抱きしめながら、そのまま小町は映姫の仕事場の門へと向かった。
ママ、ママ~♪ と鼻歌を歌いながら。
「放しなさい! 止めなさい! 降ろしなさい、小町!!」
小町の背中を叩こうとするが、腋に手を回されて抱き寄せられているために上手く力が入らない。
今の映姫の様子には、ポカポカという擬音が良く似合った。
「暴れちゃ駄目ですよ。メ!」
「こここここここここ小町!!」
映姫の顔が真っ赤に染まる。一方で小町の顔は実に幸せそうだった。
先ほど門の中に入った霊が、映姫が遅いため不安に思い、門から顔を覗かせた。
霊は、映姫と小町の様子を見て、生前を思い出し、ゆらゆらと、ゆらゆらと揺れた。
『母上と母ちゃんの違いに里の慧音先生が挑む』
十五畳ほどの広さの簡素な畳部屋に、背が低くて長い木の机が三列ほど並べられていた。
そこには、幼子から、そろそろ大人と認められる歳まで、様々な年齢の子供達が机に並び座っている。
それぞれ、真っ黒になるまで書き込まれた紙の束や、手垢がついてやはり黒くなったぼろぼろの本を数人で見せ合い、熱心に読み書きをしていた。
時刻は早朝。家の手伝いを日の出前に終えた子供達が集まって読み書き歴史を習う、ここは上白沢慧音の学校だった。
「おはよう。皆そろっているな」
「おはようございます。先生」
部屋に入ってきた慧音の挨拶に元気よく子供達は返した。
慧音はうむと頷く。それから、庭に面したふすまのもとへ行き、それを勢いよく開けた。
薄暗かった室内に、まだ昇り切っていない日の光が差し込む。よく磨かれた縁側の板は白く光を反射した。
子供達は眩しがって目を細め、入ってきた冷気にピンと背筋を伸ばした。
冷気といっても、冬のそれよりはだいぶ和らいで、もう春を感じことのできるほど。庭の木々にも花の芽吹きが見られる。
「それでは今日は読み書きから始めよう」
「先生」
「どうした」
「蔵吉がまだ寝てます」
慧音が言った子供の指差したほうを見ると、机の一番前列の一番外側に、今年数え年で七つになった蔵吉が目を閉じて舟をこいでいた。
「ふむ」
蔵吉の前に座って顔の高さをそろえた慧音は、両手を大きく開いて思い切り
パチン!!
と蔵吉の前で、手の平を打って音をたてた。
突然目の前で大きな音がしたものだから、蔵吉は大きく肩を震わせのけぞった。
勢いあまり、後ろの机に頭をぶつけそうになるが、慧音が肩を掴んで止めてやった。
教室中から明るい笑い声が漏れる。
蔵吉は何が起きたか分からないといった様子で首をキョロキョロとまわし、自分のすぐ前に顔があるのに気がついて慌てて声を上げた。
「か、母ちゃん!?」
む、と慧音は顔を複雑に歪めた。
一瞬の間をおいて教室中に大爆笑が起こり、蔵吉の顔が、かーっと赤くなっていく。
「寝ぼけているのか。私はお前の母親ではないぞ。だいたい、お前の母親と言うにはいささか歳が、いや、実際はともかくとして、この際見た目の問題なのだが、つまり何が言いたいかというとだな」
「ごめん先生、夢に死んだ母ちゃんが出てきて、それで!」
「死んだ……。蔵吉、そうだったか……」
死んだと聞いて笑いが収まる。死人の話題が出てまだ笑うような子供はこの学校にはいなかった。
けれどその沈黙も、丸められた風呂敷が飛んできて、蔵吉の頭に直撃した事でまた大爆笑に逆戻りした。
「いってーー!! なんだよ! いいとこだったのに出てくんなよくそばばぁ!」
「うるさいこのバカ息子! あたしを殺すんじゃないよ! 弁当忘れたから届けてやったのになんて言い草だい、この親不孝者!!」
「あぁ、これは蔵吉の母上。あなたが死ぬなどおかしいと思っていたところだ」
「本当にすみません慧音先生。こいつをみっちりしごいてやって下さいよ。腕の一本折れて帰ってきても、あたしは気にしませんから」
はっはっは、と蔵吉の母親は豪快に笑って帰っていった。
「先生……本当に腕折ったりしないよな?」
神妙な面持ちで蔵吉は慧音に聞いてきた。
恐らく、家でいつもそうやって叱られているのだろうことが、容易に想像できて微笑ましかった。
「安心しろ。読み書きで腕を折るなど私の知る歴史にも無いよ。それよりも蔵吉。人には冗談でも口にしてはいけない事がいくつかあるのだ。良い機会だから皆も聞くように」
「はーい」
そろった返事が聞こえる。蔵吉も小さな声で返事に混ざった。
「まず一つ、決して冗談で人死にを騙ってはいけない。身内なら、なおさらだ。言葉には力がある。口にする事で運命の流れが大きく変わることもあるのだ。あぁ、分かりにくいか、ならば、運命などといった抽象的なものでなくてだな、その言葉は聞いた相手と自分の気持ちを必ず傷つける。傷跡は深くずっと残る。それほどに重い言葉だ」
「でも先生、おれの母ちゃんがそんな事気にすると思えないよ」
「ならば、蔵吉。今からお前の母親の前で、目を見てその言葉を言えるか」
「言えないけど」
「それは、お仕置きが恐いからか?」
「それもあるけど……それだけじゃなくて……上手く言えない」
子供達はそれぞれに考えをめぐらせ、慧音の言葉をそれぞれの形で納得しようと努力していた。
実に素直な言葉達だと慧音は思った。
こんな子供達に教える事の出来る、めぐり合わせに感謝しながら、みんなの考えが落ち着くまで黙って待った。
「おれ、母ちゃんになんて謝ったらいいかな」
「謝るより、日々感謝する事だ。言葉に出してな」
蔵吉が頷いたのを見て、慧音は言葉を続けた。
「あーそれから、もう一つ言ってはいけないことがある。例えば今、蔵吉は私のことを母親と見間違えたが、つまり先ほども言ったことだが、こう、うむ、女性。そうだ、女性に見た目の感想を言うときだな、いや、違うか、私はいったい何を言っているのだ。とにかく」
「せんせーい」
「あぁもう、一体何だ今度は」
「まだ寝てる子がいまーす」
三列目の机の一番庭から離れた奥の隅には、銀色の水溜りが出来ていた。
綺麗で長い、慧音と同じ銀色の髪が机の上にばさぁと広がっていて、中央に幸せそうな顔で瞳を閉じた顔が浮いていた。
慧音はその水溜りの前に立ち、浮かぶ顔を中心に大きく手を広げて
ベチ!
と両手のひらで顔を挟み込んで音をたてた。
「イタ!!」
「起きろ妹紅!」
がばっと顔をあげて左右を確認した妹紅は、正面に慧音の顔があるのに気がついて、言った。
「慧音母ちゃん!!」
再び教室は爆笑に包まれた。
授業が終わり、慧音と妹紅は並んで慧音の庵へと歩いていた。
雲間から差す午後の日差しが、優しく木々を縫って二人に薄い影を落とす。
「母ちゃん、慧音母ちゃんか。っくくく」
妹紅はその言い回しが気に入ったらしく、何度も繰り返しては笑っている。
慧音はそれが面白くない。複雑な慧音の心境を知ってか知らずか妹紅はずっと止めようとしなかった。
「妹紅、あの時お前起きていたのだな。何のために寝た振りなどしたのだ。私をこうしてからかうためか?」
「いやー、あん時は寝てたよ。その前は起きてたけどさ。慧音が人に死ねと口にするなとか言ったあたりから寝てた」
「そんなに眠かったのか。生活が乱れているのか?」
「違う違う。そんな心配は無いよ。たださ、私は慧音の話を聞く資格が無いなと思ってさ。慧音の言う事は正しいんだ。けど私は、他人の目を見て死ねと言ってる、なんて言っても殺しあってるからさ。本気で」
「妹紅……」
妹紅は両手を頭に当てて一歩慧音より先を歩いた。空を見上げ口笛でも吹くように気楽に言った。
「あの子達は良い子だよ。慧音の教え方が上手いんだ。里はきっと良くなる。慧音の心配事もそのうち解消するさ。けれど私はあそこに居ない方が良くない? 慧音に言われたから混ざるようにしたけれど、私の存在は慧音の言葉を嘘にしちゃうよ」
「そんな事は無い。そんな事は無いんだ妹紅。お前の存在は認められないものじゃない」
「そうかな?」
「確かに、私はお前に答えを出す事が出来ない。いつかは死に別れ消える生物に、蓬莱人の答えなど出せないのかもしれない」
「ほら、やっぱり」
「だが私には、歴史がある。少なくとも今、お前はこの幻想郷に受け入れられているのだ。世界はお前を受け入れている。ならば、いつか必ずお前が人の歴史に受け入れられるそんな答えを、私が出して見せる」
慧音は言い切った。迷いもなくはっきりと。いつも曖昧な事を善しとしない慧音がはっきりと言い切ったのだ。
前を歩いていた妹紅は立ち止まり、肩を震わせた。
泣いているのかも知れない、慧音はそう予想した。けれど、聞こえてきたのは嗚咽ではなく笑い声だった。
「くくく、ははははは。ほんとに慧音母ちゃんだよ全く。言われると不機嫌な顔するくせに、やっぱり慧音は母ちゃんだ」
「妹紅?」
「私にもね、母上は居たのさ。もうあんまり覚えてないけど。綺麗で優しくて、弱い方だった。弱いのに精一杯私を生んでくれたんだ。育ててくれた。私という人間を作ってくれた母上。私は蓬莱の薬を飲む事でそんな母上を裏切ってしまったのかもしれない。人でなくなった、母上の子供ではなくなった私は拠り所をなくし、いつ消えてもおかしくない、いつまでも消えない存在になった」
妹紅はくるりと振り返り、慧音の目を真っ直ぐ見ていった。
「そんな私に、慧音は場所と意味を……確かな蓬莱人としての藤原妹紅を作ってくれるって言ったんだ。今は出来ないけどいつか必ずって言い切った。豪快だよ慧音は。蔵吉の母ちゃんと一緒だ。母上とは違う強い母ちゃんだ」
ニッと口の端を吊り上げて笑って見せた妹紅に対し、慧音は腕を組んで不機嫌に顔を膨らませた。
「どうにも……」
慧音も瞳はそらさずに、真っ直ぐに妹紅と対峙した。
「その、母ちゃんだけは慣れないな。せめて姉上にはならないものか。不良妹の世話を見てやる健気な姉だ」
「姉上じゃ、大きくなったら甘えられないじゃない」
「甘える気で居たのか。そんなに母ちゃんに甘えたいのなら、ここから庵まで負ぶってやろうか?」
「あ、私、そう言う冗談真に受けるよ?」
「む」
「あはは、自分で言って自分で顔赤らめてるよ。そんなんじゃ、私に意味を見つけてくれるなんて無理だね」
生意気そうに手をひらひらさせて見せる妹紅の前で、慧音はかがんで背中を向けた。
「ねぇ慧音。どうしてそこまでしてくれるの?」
「よく、子は親を選べないというが、親の立場からしたら親は子を選ばない。ただ、おまえがこの背中に乗ってくれる存在なら私はそれを受け入れる」
「乗らなかったら?」
「今度は私が意地でもお前の背中に乗ってやる。離れんぞ私は」
「恥かしいこと言ってるよね? 私達」
「そ、そそそそ、そんな事は無いぞ」
「そう?」
「私と妹紅はこれで普通なのだ」
「そっか」
「もし、お前が私の子となるのなら、あいつとの殺し合いは止めてくれるのか?」
「分からないよ。そんなの」
「ふむ。娘に恋人が出来た親の気持ちとはこういうものか」
「違う気がする。それとこれとは別の話。あいつは、どう思ってるのかなんてさっぱり分からないからね」
「そうか。だが、今はまだそれでもいい事にしよう。それよりも妹紅、少し揺れるがしっかりつかまっていてくれ。雨が降ってきたようだ。急いで帰ることにする」
「ん、分かった」
ぽつぽつと落ちてきた水滴が、慧音の髪と妹紅の顔を濡らし、つたい落ちて慧音の肩を染める。
濡れて縮まった肩布を、妹紅はギュッと強く掴んだ。
降り出した雨は、間を置かず強まり、夕焼けが空を染めるよりだいぶ早くに、厚い雲が空を覆った。
稲光が里と森と竹林に強い影痕を焼き付けた。
やがて、益々勢いを付けた雨が風を呼び、風が雨を呼び、ザァと言う音でできた暗い自然の結界に、幻想郷は飲み込まれていった。
『永遠亭らぷそでぃ~うどんげのとまどい~』
永遠亭は雨に閉ざされていた。
「てゐママー」「てゐママー」「てゐママー」「てうぃままー」
「はいはいはいはい、ちょっと待ってなさい、いま人参すりつぶしてあげるから。あ、こら、あなたは部屋から出ないの! 部屋の外には恐い怪獣ウドンゲインがいるわよ。それからあなたは……駄目! 絶対に駄目! トイレならあっちよ! って間に合わない!? くらいボムだけは嫌ーーー!!」
てゐは幼兎を抱きかかえて部屋を跳ねて出ていった。
残された幼兎の一羽が、途中までてゐが用意していた、すりつぶし人参の皿に興味を持ち、顔を突っ込んで舐め始めた。
外に出ようとしていた幼兎も食べ物と見て寄って来て、皿とそれを舐めている幼兎の顔の狭い隙間に、自分の顔を滑り込ませた。
当然、皿を持つ手が負荷に耐え切れず、中身ごと落としてひっくり返った。
人参のペーストは畳の上に広がってしまったが、二羽の幼兎は気にせずに、そのまま舐め続けたのだった。
「うまうま」「うまうま」「キャッキャ」
鈴仙は、最初は微笑ましくその光景を見守っているだけだった。
本当は手を出したくても、どうすれば良いのか分からなかったのが大きい理由なのだが。
それでも、零れ落ちた食べ物を舐めるのは、あまり衛生的とは言えない。
しょうがなく、落ちた人参ペーストをふき取るために幼兎達に近寄った。
とたんに、容赦なくペーストを投げつけられた。
「かいじゅうウドンゲいー」「かいじゅうウドンゲいー」「キャッキャ」
鈴仙の顔が真っ赤に染まる。人参の汁が目に沁みる。
永遠亭の未来は安泰だと鈴仙は思った。悲しい意味で。
「無様ね、ウドンゲいー」
「師匠まで、やめて下さい。本気で落ち込みますから」
「落ち込ませてるのよ」
そこへ、ほっとした顔のてゐが幼兎を抱きかかえて帰ってきたが、畳の上の惨状を見てその表情が固まった。
鈴仙はてゐが怒るか嘆くかすると思った。
けれどてゐは、ふぅと一つだけ、ため息とも気合とも取れる息を吐き、黙々と畳の掃除を始めた。
汚した張本人たちは、てゐの動きを面白そうに目で追って真似をし始めた。
「もう食べ物で遊んじゃ駄目よ。分かった?」
「あかったー」「あかったー」「分かったー」
「ホントに分かったのかしら。この子達ってば」
てゐは一羽の幼兎の頭を軽く押して揺らした。
それを見ていたもう一羽は、羨ましいと思ったようで、自分から頭をてゐの方に突き出してきた。
てゐは口と瞳を半開きにしたまま、まるで魅入られたかのように手を伸ばし、今度は少し強く幼兎の頭を押す。
体の柔らかい幼兎は、勢いをもらってそのままごろんと転がり、反動で起き上がりこぼしのように戻ってきた。
もう一羽もその様子を真似し、二羽でごろごろと転がって遊び始めた。
てゐは転がる幼兎に自分の顔を目一杯近寄せて、反動で起き上がった幼兎と目が合うたびにほんの数秒のにらめっこをし、離れると、んふふーと声を溢した。
その笑いは伝染するようで、てゐと転がって遊ぶ兎とか全員がキャッキャと騒いでいた。
一方、抱えてトイレに連れて行ったあの子はいつの間にかすやすやと眠っていた。
「んふふふふ」
「すやすや」「ごろごろ」「ごろごろ」「キャッキャ、ごろごろごろーっと」
「意外だと思いませんか? 師匠。幼いイナバの世話なんて、てゐが引き受けるとは思わなかったし、それにあんなに楽しそうにしてるし。何気に扱い上手いし……」
「ああ、ウドンゲいーはここ百年くらいしかてゐの姿見て無いからね。彼女はあなたが来る前からここのリーダーだったのよ。子イナバの扱いくらいできて当然でしょう」
「そうかもしれませんが……納得いかない。騙されてる気がします。そうか! ああやって自分に懐かせて思うように永遠亭を牛耳る作戦ですね! なんてあくどい!」
鈴仙はぐっと腕を握った。
その服に染み付いた人参の香りが、荒げた鼻息とともに部屋を漂う。
永琳は額に小さくしわを寄せて、鈴仙を諭すように言った。
「よく考えて鈴仙。例え、てゐの本性がどうであろうと、愛情たっぷりに優しくイナバに接する事は悪い事かしら?」
「い……いえ」
「人の本性なんて相手がどう思うかで変わるのよ。あの場にいる皆にとって、てゐがママならば、それで十分じゃないかしら」
「師匠のおっしゃる事は分かります……でも、やっぱり少しだけ納得いきません」
しゅんと小さくなる鈴仙の若さに、永琳は少しだけ嫉妬した。
年経て、人として磨かれ大きくなることで唯一失われてしまうもの、それは疑問を持つ心と言い換えることも出来るだろう。
永琳自身、自分が完成された人間などとは思っておらず、未だに弟子にも主にも言えない悩みに襲われる事がある。
けれど、例えば今鈴仙が感じている疑問に対しては、既に自分自身の答えを用意して納得できる程度には悟っているつもりだった。
それは穢れてしまうと言う事とは少し違うのだが、鈴仙とてゐと幼兎たちを見やり、それから、最も深く世を悟っているだろう主の心中に思いをめぐらせた永琳は、なんとも言えない焦燥感を感じたのだった。
今、自分に、永琳に出来る事は何か。
「だいたい、どうして姫様まで幼いイナバに混ざって遊んでますか」
「キャッキャ」「キャッキャ」「キャーキャーアハハハは」
永琳は無言で首を振って、そして、腰を上げようとした。
その永琳の服の裾を、鈴仙は指で小さく掴んだ。
「…………うどんげ?」
「師匠、今あそこに混ざりに行ったなら私は、二度と師匠と呼べる自信がありません」
「鈴仙……私は、ママって呼んじゃいけないのかしら。あのてゐに、母を求めてはいけないのかしら!」
「だめです」
「それじゃ、鈴仙が、代わりに私をママって呼んでくれるのかしら……」
「嫌です」
「ウドンゲいー」
「違います」
「……しょうがないわね。あの子達の本当の母親の様子を見てくるわ。そろそろ熱も引いたかもしれない」
「あ、それなら私も」
「そうね、でも来るならその前に着替えてから来なさい。病室を汚さないようにね」
永琳はすっと立ち上がり、輝夜にお辞儀をして部屋を出て行った。
その後を追って部屋を出て行こうとする鈴仙に輝夜から声がかかる。
「イナバは心配のし過ぎなのよ。ここは永遠亭なのだから、永琳が守ってあげるし、私が遊んであげるわ。今回は私もほんの少し、守るのに協力したのだけれど。ねぇ、他に何か必要だったのかしら?」
「ですが、仮にも姫様がその様に……」
「私たちが少しだけ本気を出して作り上げたこの空間の中で、自由に遠慮なく生きることは、あなたにとって何か不幸なのかしら?」
不幸なわけが無い。
月と比べてあまりにも幸せなこの永遠亭、その幸せが壊れる事を不安に思うのが馬鹿らしくなるほど、大きすぎる父母に守られている。
大雨に打たれ熱を出したイナバを永琳が看病し、その幼い子達はてゐと輝夜が面倒を見ていた。
ここ数年で一番の大きな嵐から永遠亭を守るように、永琳は屋敷に結界を張り、それを輝夜が手伝った。
本当に何の心配も無い永遠亭。その事実に月の若い兎娘はまだ慣れていなかった。
複雑な表情をして部屋を出て行った鈴仙・U・イナバを、イナバ達の母親役のてゐがコロコロとした笑顔で見送った。
その日午後から降り出した雨は即座に嵐となって、幻想郷を水浸しにしていたのだった。
「行ってくる」
「慧音、今日は止めといた方がいいんじゃ」
「こんな日だからもう一度里を見に行くのだ。大丈夫、私がこの程度の雨でどうにかなる事など無い」
「そんなに里が心配? だったら私もついていく!」
「妹紅のほうこそ、雨は苦手ではなかったのか?」
「そうだけど……でも、嫌な予感がするよ」
『嵐の中に烏天狗が感じたもの』
何十年に一度という、止め処なく降り続く豪雨。自然現象ではあるが、あまりに異常で記録的な雨量。
烏天狗の文はこんな日だからこそ、何か事件が起きるかもしれないと思い、幻想郷を飛び回っていた。
風を操り、自らの周りの雨を避けながら飛ぶ。
けれどあまりに雨脚が強すぎて、濡れないように移動するのも一苦労だった。
森を越えて、湖に浮かぶ紅い屋根を越えて、そのまま湖に注ぎ込む河を上流へ登っていった。
河の水は普段の何倍にも膨れ上がり、激しく音をたて、茶黒く濁っていた。
さながら暴れる竜の様に、今にも体を自由自在にうねらせて、あたり一面を飲み込んでしまいそうな、それほどに強い流れ。高くて真っ黒な空を背にして、それを眺める。
強い雨のせいで視界はあまり良くないが、足元の方に何か動く影を見つけた。
千里を見やるその目でしっかりと捉えれば、それは人間の女だった。
暴れる河の下流の方へ、慌てた様子で向かっている。
何故こんなところに人間がいるのか疑問に思った文だったが、視線を少し上げてすぐに気がついた。
いつの間にか人里の近くまで来ていたらしい。
村々は、まるで朽ち果てた廃村と見間違うほどに沈んでいた。
恐らく道であっただろう場所には小さな川が出来ていて、我が物顔で里を分断している。
どの家も戸をガッチリと閉め、外を出歩くものなど勿論いなかった。
これは確かに事件ではあるが、文の好みの派手で大袈裟で注目を集めるような記事になるかどうかは微妙なところだった。
『人間が自然災害で大変な目にあっています』では天狗の新聞は売れないのだ。
見える様子を手短に手帳に書きまとめ、それからつまらなさそうに、ペンを懐にしまう。
興味を失い、その場を離れようと視線を遠くに移すと、里の終わりのもう少し先、流れる河が大きくうねりを見せる場所にたくさんの動く影を見つけた。里の人間達だ。
この大雨の中、人が集まり慌てている。
文は大きな事件の匂いを感じ、全速で翔けた。人々の中心にいる、里の半妖、上白沢慧音の元へ。
「決壊するのも時間の問題だよ、逃げるべきだ」
「里を、家と畑を見捨てて逃げるなんてできねぇ、じい様から託された土地なんだ。何とか堤防を修復できねぇか?」「危険すぎる、いつ決壊するかもわからねえし、何より、この雨の中作業するのは無謀だ」
「せめて、この雨が止んでくれれば、堤防を直すのだって出来るのに……」
里から少し上流にいった場所、河が大きく弧を描いてできた自然の土手には、近くの森から切り出された丸太が敷き詰められ堤防が築かれていた。
けれど、古くなっていたためか、今回のあまりの雨量のせいか、堤防の隙間から水がちょろちょろと漏れ出している。
それは、今でこそ湧き水のように可愛いものだが、いつ堤防を破り暴れ龍となって里を押し流すか分からない。
「慧音様……」
「慧音先生!」
「一体どうしたら良いですか、何とかならねえか?」
集まった村の男たちのすがりつく瞳が慧音を囲む。
強い視線を感じているからだろう、慧音はうつむいて顔を上げずにいた。
上空から、文が声をかけるのを躊躇っていると、慧音はその場に膝をついて男たちに頭を下げた。
「すまない」
「慧音様、いったいどうして、顔を上げてください」
「いや、日頃から里を守ると言っておきながら、肝心なときに力になれない私を許してくれ。私の力では皆を守りながら堤防を修復する事は不可能だ。だから……里を一度諦めて皆、竹林の入り口の方へ避難してくれないか」
「慧音様!」
カシャ!
大雨の音にまぎれて突然上から異質な機械音が響いた。
慧音と集まっていた男たちが空を見上げる。
「こんにちわ。なんだか大変そうですね」
「妖怪!? 天狗!」
「射命丸……。お前、どういうつもりだ」
困惑と警戒の表情を向けられた文は、両手を前に出して落ち着くように促した。
「まぁまぁ、何もしませんよ。それより、要するにしばらくの間、雨と河の水を抑えておけば良いのですよね?」
「そんなこと、できるのか?」
「当然です。天狗の風の力を見くびらないでくださいね」
文は口元を横に引いて不敵な笑みを浮かべた、するとその背後から突風が生まれ、渦を描いて昇り、周辺一帯の上空に強い大気の流れを作った。
その渦は轟々と音をたて、さらに勢いを増して昇り上げ、天上に広がる黒く重い雨雲を削り始めた。
やがて雲は薄くなり、ついに霞と消し飛んだ。幻想郷中に広がる分厚い雲にぽっかりと穴が開いたのだ。
村の男たちの口から驚きの声が上がる。
慧音は注意深く文の様子を見つめていた。
雲を吹き飛ばした文は、風の渦を今までよりも一段と大きく回し、その先端を河に向けてぶつけた。
依然勢いの衰えない水流と強い剛の風がぶつかる。その様子はさながら水と風の龍の力比べのようであった。
一瞬の均衡の後、水の龍が僅かに押され、その進路を堤防の向こう側の方にしぶしぶと変えた。
開いた空から夕方の太陽が覗き、堤防の隙間から漏れる水も勢いをなくした。
「はぁ、はぁ。こんなところでしょうか」
風の渦を未だ維持したままの文は、かすかに肩を揺らしながら言った。
「すげえ、里が救われた!」
「天狗様の力だ!」
驚き戸惑って見ていた男たちから歓声が上がった。
慧音も、やや感嘆の表情を浮かべつつ、視線は真っ直ぐ文に向けていた。
「はいはーい、感謝してくれるなら新聞購読してくださいね! とは言え、さすがにこれ一時的なものです。ずっとこの状態を続けるのは私でも難しいので、今のうちに堤防の修理とかしちゃってください」
歓喜をあげて準備に取り掛かろうとする町の男たちを制して、慧音は低い声で文に尋ねた。
「どうしてお前がこんな事をしてくれるんだ?」
「あれ、私、信用無いですか? 困ったときはお互い様じゃないですか……って……はいはい、下心はありますよ。だから怖い目しないでください。先ほど取った慧音さんの写真を使ってこの事を記事にします。妖怪が人間を守るために頭を下げる、そこへ他の妖怪の助けもあって、あ、ここ一応私だってことは伏せておきますから、そして人間の里は守られた。これなら、ただ大雨で人里が大打撃をうけた、より面白い記事になります。悪い話じゃないでしょう?」
「お前の興味は、人ではなく妖怪なのだな」
「残念ですが、天狗仲間にはそのほうが受けが良いんですよねぇ」
「慧音様……」
里のために何も出来ない事を、頭を下げて謝罪する慧音の写真が使われるとあって、里の男たちには躊躇を見せた。
けれど、慧音は、納得いったという表情をして、大声で言った。
「いいや、みんな気にするな。私のことがどんな記事にされようとかまわない。それより、直ぐに修理にかかってくれ!」
それを聞いて、おう、と一斉に掛け声が上がった。
慧音の意思は男たちに伝わり、男たちはその恩に報いるために、きびきびとした動作でみな堤防の修理を始めた。
建材となる木は常にいくらか切り倒され用意されていた。
背の高い男が指揮を取り、それらを運んで堤防を組みなおしていく。
慧音もその輪の中に入って行った。
一刻ほどして、堤防の修理は軌道に乗って、壊れかけていたところの補修はほとんど終わりかけていた。
文が風を操りつつ、空から人々の動きを写真に取ったりメモしたりしていると、この風の結界に濡れた鳥が一羽飛びこんできた。
「なんだ、天狗の仕業かぁ」
「あなたは、妹紅さん……ちょっとあんまり近寄らないでください、紙とペンが濡れてしまいます」
「あぁ、ごめんごめん。おかしな事になってるみたいでさ、ちょっと慌ててたんだ」
妹紅は濡れて顔に張り付いたその長い髪を両手で持ち上げ、頭の後ろで纏めると、布をしぼるようにギュッと、髪を握る手に力を込めた。
しぼり落ちた水滴が、キラキラと落ちてゆく夕日に照らされる。
その冷たいしぶきが慧音の頬にあたり、慧音は空を見た。
「おーい、慧音! こっちは大丈夫そうね!」
「あぁ、射命丸のおかげだ、補強ももう直ぐ終わる。それより、そっちはどうだ? 避難は無事終わったのか?」
「とりあえず、女と子供は竹林の奥の丘まで無事送り届けたよ」
「それで里に人影がなかったんですね」
文は頷きながらメモに書き加えた。
「それよりも」
慧音が飛び上がり、妹紅と同じ高さまで来る。
「妹紅は向こうで待機しているはずだろう? 何故人々を残してきた」
「派手に周りを焼いて見せ付けておいたからね、しばらくは妖怪も怖がって近寄らないさ。それよりも、さ、実は親子が一組揃ってないんだ。ほら、あの元気な子供とその母ちゃんだよ。こっちに残ってない?」
「いや、男衆しかここにはいないぞ」
妹紅がいたずらを咎められた子供のように顔をしかめた。
「え……、てっきり男たちに混ざって修理手伝ってるのだと思ってた。……ヤバイかな」
「まさか、途中ではぐれたのか!?」
妹紅の肩を両手で強く掴み、慧音は顔を近づけていた。
どうやらトラブル発生のようだと、文は意識の触手で注意深く二人の様子を探り始めた。
はぐれた村人、親子? 文の意識が一瞬何かを掠めたが、直ぐに目の前の会話に集中し直す。
「ここに来るまでの竹林は見てきたけど、いなかった。村を出るとき母親を見たって言う人がいてさ、河の方へ向かったようだって言ってたからてっきり、こっちの修理に混ざりに来てるのかと」
「だが、ここへは来ていない。とすると、まだどこかの建物の中にいるのか、あるいは……」
慧音が振り返り、依然、激しく流れている河を見やる。
人より大きな石や、流木があちらこちらで転がり浮いて砕けていく様が小さく見える。
例えばあの枯れ木のように、流れに飲まれたとしたら……小さく砕けた人間を識別する事などできるだろうか?
「行って来る」
「あ、でもここは?」
「射命丸に任せていれば大丈夫だろう。頼まれてくれるか?」
「別にいいですけど、行方不明の親子、探しに行くんですか?」
「そうだ。妹紅、手分けするぞ」
「分かった!」
「見つかるといいですねーって……あれ、そういえば」
地に下りて、男たちに事情を伝えている慧音に、文は言った。
「今思い出したんですけど。私、見たかも、その人間」
文は慧音を先導し、雨を打ち砕くような速さで下流へと飛ぶ。
妹紅は文の代わりに残って、男たちを手伝い、守っている。
文が離れたため、次第に雨と風が戻り、河の流れも元通りになっていったが、幸い堤防の修理はほぼ完成していた。
「見かけたのはこの辺りです」
「……やはり空からでは見つけ辛いか」
ただでさえ視界の悪い豪雨の中、普段ならありえないものが風で飛び交い、黒い雲に覆われた暗い地は、泥色に染められていて、見分けがつかない。
「これじゃ、無事かどうかも分かりませんね」
「せめて……もう少し早く知っていれば……いや、それより手分けして探そう、私はここから西へ向かう」
声音こそ落ち着いていたが、焦りを隠しきれない慧音は文の返事を待たずに、高度を下げて飛び去った。
文は、ふわふわと浮かびながら、慧音の後姿をぼーっと見送る。
「もしかして私、悪い事したのかしら?」
つぶやいて、それからゆっくりと文も高度を下げた。
この辺りは、地形に凹凸の多い野原だった。
雨量を増した河が、野原と河とを隔てていた小高い丘を乗り越え、二本目の河が野原を横断していた。
新しい河は野原の低い場所を進み、そうして取り残された丘の峰が大きな中州を形成する。
文はそこに、不自然に置かれた小さな点を見つけた。よく見れば、間違いなくそれは人間。
「ラッキーです」
声を軽ませる。
河に挟まれ身動きが取れなくなっているのだろう。
一瞬で近づき、声をかけようとして、しかし文は音を発する事が出来なかった。
人間……女は、恐らく母親は、ぬかるんだ地に膝をつき丸くなって、意識を失っている子供を胸の中に抱きかかえ、動かない。
しっかりと子をかき抱き、風を受けても倒れずいる様は、確かに生きている事を示してはいたが、全く動こうとしない。
雨音が鈍く世界を包む中、目を閉じ子の頭に頬を寄せる母の表情は歪みなく澄んでいた。
大自然に圧倒され、取り残され、死の恐怖に脅かされた儚さ……そう言った、文の想像していた、か弱い人間の様相はまるで無かったのだ。
ただ、強く、子を守りぬく静かな意思が何か神聖なものに感じられてしまって、文は声が出なかった。
そして、母親の目がゆっくりと開いた。
彼女の焦点は雨に遮られる事も無く、ゆっくりと文の瞳に合わされた。
まっすぐ見つめられて戸惑う文に、母親は口を開いて言った。
「慧音様? ……いえ、あなたは……」
母親の視線が文の全身を捉え、瞳を黒ませた。
「その羽から感じる強さ……学の無いあたしには分からないが、あなたは妖ではなく、天の使いに見える」
「いや、私は」
「どうか」
文が否定を口にしきる前に、母親は抱いていた子供を、幼い少年を文に差し出す。
「この子を助けてやってください」
「だから私は……そのために来たんですけど……」
「助かりました。ありがとう」
文が少年を受け取ると、母親は心底安らいだ、そして強く望んだ事を成し遂げた満足な顔をして、瞳を閉じて、倒れた。
「っあ、大丈夫ですか!?」
声をかけてももう、返事は無い。
直ぐに上空に向けて慧音への合図の弾幕を飛ばす。
それは花火のように天で弾けて、雨に溶けた。
――助かりました。ありがとう――
母親のその最後の言葉が、表情が、何度も何度も、一見無意味に、しかし無視できない印象で、文の頭の中で繰り返されていた。
堤防が直されたおかげで大規模な河の決壊は押さえられた。
そのため、里の東側、比較的高台にあったため水難を辛うじて逃れていたその場所に村人達は戻り、依然雨の降り止まぬ夜に怯え、耐えていた。
その中の一軒、薄暗い部屋で、文は妹紅と共に、助け運び込んだ親子を看ていた。
囲炉裏の灯も部屋の低い処までしか届いていない。戸が開いて戻ってきた慧音の顔が薄暗かった。
「おかえり」
「医者様は無事次の患者まで運んだよ」
この雨に打たれて熱を出すもの、怪我をしたもの、里には病人が多くあった。
先ほどまで親子を診ていた医者も、直ぐに次の患者のところへ向かわなければいけなかった。
「慧音さん、二人は助かるのでしょうか?」
「蔵吉、子供の方は頭を怪我し気絶しているようだ、油断は出来ないが、熱は出ていない、呼吸も安定しているから恐らく大丈夫だろう。しかし、母親の方は……」
慧音が言いよどむ。
生気の無い青白い顔なのに、異様なまでの、傍目にも分かる程の高熱。
雨の中、倒れた子供の命を守った母親の体力は全て流れて失われていた。
「母親の方は……このままでは今夜が峠だ」
「何か方法あるでしょ!? 薬とか、術とか、ねぇ慧音」
必死に考えをめぐらす妹紅に対し、慧音は静かに首を振り、うつむき、強く唇をかみ締めていた。
対照的な二人だが、思いは同じだろう。
一方、文は漠然とそんな二人と、寝かされた子供を見ていた。
なぜ、この母親はこんなになってまで子供を守っていたのか。
もちろん、母親が子供を守るのは、大切にするのは理解できる。けれど、自らの命と引き換えにしようとしてまで、想いを注げるというのはどういうことなのか、実感が湧かなかったのだ。
ただ、最後の母親の言葉が、頭の中で何度も何度も繰り返される。
強い、無視出来ない、けれど実感の湧かない想いを、預かってしまったように感じた。
「薬、探してきます」
ついにじっとしていられなくなり、文は立ち上がり、外へ出た。
風を操り雨を避けるのも忘れて飛び上がろうとするが、同じく外へ出てきた慧音に声をかけられた。
「何処へ行くのだ」
「永遠亭の薬師ならきっと」
「あぁ……しかし、彼女が力を貸してくれるかどうか。私も行こう、共に頼めばあるいは」
「いえ、私一人の方が速く飛べますから、もう行ってもいいですか」
「待て、ひとつ。何故お前がそんなに、雨に濡れてまであの母親のために行動する」
「私、一度は彼女の事を放っておいたんです。でも、それなのにそんな私に彼女は、助かった、ありがとうって」
「それがお前に負い目を感じさせているのか、けれど妖怪と人の理屈は違うのだろう?」
文は首を振った。
「負い目とか、理屈じゃありません。使命感と興味……かな。新聞記者だからでしょうか?」
慧音の返事を待たずに、文は飛び立った。
風に乗り瞬く間に竹林を越え、気がつくと文は、湖の近くまで来ていた。
振り返る。竹林がずうっと広がっている。
予想と違う場所に自分がいることで、一瞬自分がいる場所が全く分からなくなった。
月明かりの無い夜が、自分勝手に吹き荒れる風が、方向感覚を狂わせたのか。
里の方向を見定め、間にあるはずの永遠亭へ向けてもう一度飛ぶ、今度は見落とさないようにやや速度を落として。
しかし、気がつくと、文は里の入り口まで来ていた。
おかしい。
見つからないわけが無いのだ。永遠亭は取材で何度も訪れている。
竹林の中ほどまで飛んで辺りを見回してみた、が、見つからない。
もしやと思い、文は流れる風の気配を探った。
やがて、風が渦を巻きかけ、また元に戻る不自然な流れを見つけた。
突風を生み、真っ直ぐに放ってみる。真っ直ぐしか進まないはずの風はある場所から曲がり始め、Sの曲線を描いた。
「空間が捻じ曲げられている」
それは、恐らく永遠亭を守る結界。
永遠亭周辺の空間を切り取り、失った場所を無理やり周りの座標を捻じ曲げてつなげている。
恐ろしく高度な術だが、永琳か輝夜ならば可能であろう。
永遠亭を外界から完全に隔離させた結界を前に、永琳と輝夜の名を呼ぶ文の声はただただ、霧散し、嵐にかき消された。
朝。
日が昇るのが見えた。
幻想郷を厚く覆っていた黒い雲は、不思議なほどに跡形もなく消え、青い空が広がっていた。
ついに、永遠亭へたどり着く事の出来なかった文が慧音たちの小屋へと戻ってきた。
慧音は、力尽きた母親の顔に布をかぶせていた。
何も出来なかった妹紅が、ただ黙って頭をたれていた。
ただ、少年だけが母親の胸に両腕を乗せ泣いていた。
「ごめんなさい……間に合わなかった」
文のつぶやきを切っ掛けに、少年が声を上げた。
「おれが、悪いんだ……、言いつけやぶって、雨の日なのに河を見に行ったりしたから。気がついたら河に囲まれてて、母ちゃんが助けに来てくれて、でも河を渡ろうとして足を滑らせて……。慧音先生、おれが母ちゃんが死んだとか言ったから本当になったのかな。おれが母ちゃん殺したのかな……おれなんか助けに来なければ母ちゃんは!!」
少年に声をかけようと、慧音が母親を挟んで少年の前に立った。
けれど、さらにその間に、文が入り込み、少年の肩に手を置いた。
少年の涙に濡れた瞳を見つめる。
それは、諭すためではなく、悔しさと後悔で色を失った瞳に畏怖と興味を抱いていたためだった。
「私は、あなたの母親に、最後にあなたを託されました。ですが本当は、あなたが死のうが、あなたの母親が死のうが、私には関係ないのです」
「射命丸!」
文の遠慮ない物言いに妹紅が声を上げ立ち上がる、しかし、文の表情に何かを察した慧音が妹紅を止めた。
「本当は関係ないのですが、でも、あなたの母親は確かに、私の心を動かすほどに強く、あなたを想っていました。結局私は役に立てませんでしたが……それでも、そこまで強くあなたを助けようとしたんです。そのあなたが死ぬといったから死んだ? そうじゃないと思います。あなたがこの人を殺したんじゃない。この人が命をかけてあなたを助けたんです。その違い、間違えては、亡くなったこの人に、あなたの母親に失礼ではないでしょうか」
決して強い言葉ではなかった。
むしろ、遠慮がちに確認するような文の物言いだった。
真っ黒で大きく見開かれた文の瞳を受けても、少年の心の整理はつかないようで、一瞬揺れた少年の瞳は、再び現在の幻想郷の大地のようにずぶ濡れになった。
やがて、里の人間が集まり、亡くなった母親の葬式の準備が始まった。
里はまだ、大雨から立ち直ってないため手伝う人もまばらだった。
文は、これ以上いても邪魔になると思い里を出ることにした。
太陽を仰ぎ見る。眩しい。思わず徹夜してしまった事に気がつく。
その程度でへばる文ではないが、昨日取材した事は何も記事にしていない。
「取材はもういいのか」
「あの子は、これからどうなるんですか?」
「あの子が生まれる前に父親は亡くなっている。独り立ちできるようになるまでは、私や里の皆で面倒を見るだろう」
「なぜ、人はあんなにも弱いのに、あそこまでお互いを自分より大切に思えるのでしょう。自分を犠牲にしてまでなんて、馬鹿らしいですが、でも……私は無視できなかった」
「弱いからだと思う。射命丸。私も半妖ゆえ、本当に理解しているとは言えないかもしれないが、しかし」
慧音は一度区切り、目を閉じて考えを纏めたようだ。
そして言った。
「歴史において人は、弱いからこそ強い絆で互いを想い合い、全てを次の世代に託して来た。妖怪は人よりずっと強く独りで生きていける。勿論妖怪にも親、あるいはその様なものはいる。しかし、人の絆が比べて相当に濃いのは、そう言う理由ではないかと思う」
「けれど、私は、あの母親に会った時、その強い想いの一部を託された気がしたんです」
「人の思いに共感することはあるだろう。稀なケースではあるが、妖怪と相容れた人間もいる。妖怪にもそういった気持ちは無いわけではないからな」
おそらく慧音は自分の事を言ったのだろう。
「私、興味が出ました」
「人間の母親にか?」
「それもありますが、むしろ私が感じたこの気持ちの方です。つまり、妖怪にとっての母親との関係について。私が感じたこの気持ち、この疑問、他の皆さんがどう思っているのか、記事にしたら面白いと思いませんか?」
「面白いと思う。派手ではないが、私は幻想郷のそんな一面も見てみたいと思う。しかし何故、興味を持った?」
文は、晴れた空を見上げて言った。
「眩しく感じたからでしょうか」
文は、持っていたメモ帳を太陽にかざしながら、今まで書いていた一番上の紙を破り捨て、風に飛ばした。
そして、新しく開いた真っ白なページに、こう書き記した。
『東方母模様』
派手ではないが、私は幻想郷のこんな一面が読みたかったのだ!
いいお話でした。ほんのりと好き過ぎます、こういうの。
母ちゃんは映姫様にどう言われるんだろうか。
良かったです。ありがとう。
子の母の子は、子をしてて。
母の子の母、母してる。
泣いてなんかない、泣いてなんかないやい・゚・(ノД`)・゚・
いつもMIM.E様の作品には唸らされる事が多いですが・・・今回は全く感服しきり。