――私は詠唱した。
火が揺らめき、水がせせらぎ、木々が囁いた。
金の硬さに身を引き締め、土の柔らかさに気を緩めた。
月は美しく、日は暖かかった。
なのに、虚しい――
少女には友達が居ない。
少女はその幼き時代を独りで過ごした。
周りから疎まれていたわけではない、病弱だったのだ。
多くの子供達が元気に遊ぶ中、少女は独りで本を読む毎日だった。
しかし、それは決して少女にとって苦なる生活ではない。
本を読み知識を得ることはとても楽しかった。
蒼空の中、紅葉する木の下、安らげる日常を過ごした。
――カチャ、カチャ。
少女はある時、魔道書グリモワールに触れた。
その宇宙論からなる七惑の護符に非常に興味をそそられたのだ。
来る日も来る日も、それを読むことに明け暮れた。
研究に研究を重ねた。
少女はいつしか魔女への道を目指していたのだ。
――トン。
「君はどうも――回り道をする癖があるようだね」
「お言葉ですが先生、知識の実践には慎重な準備が必要と仰られたのは貴方です」
「いやはや、それは本当だよ。
真理は回り道をしないと普通は得られないものさ。
でもね、本来それはいつでも目の前にあるものなんだよ。
……分かるかな、気づけばいつでもそれは掴める状態なんだ」
「そうですか。それはそうと――チェックメイトです」
先に置いたビショップが、ここぞとばかりにキングの逃げ道を塞いでいた。
「――ああ、午後から弟子と約束があるんだ。
済まないが今日はこれまでだ」
「先生、待ってください。肝心の結果が――」
「見事だったよ、合格だ」
彼は少女に、大げさな身振りで魔女認定試験の結果を伝えた。
「文句無しだ、特に水の術の尖力には恐れ入ったよ。
これからも頑張って精進してくれたまえ。
……ああ、それならば君に魔法名を授けねばな」
少し考えた振りをしながら、少女を焦らしつつ言った。
「『パチュリー・ノーレッジ』だ。
知性溢れる君にぴったりな素敵な名前だろう?」
「有難うございます、しかし何故パチュリーなんでしょう」
「気に入らないかね?
紅と蒼の調和の取れた美しい植物だと思うのだが」
「今つけてる香水の材料から適当に付けたとしか思えません」
「――さてお別れだね、短い間だったが面白かったよ。
最後に一つだけ警告しようか。
もし友達とチェスをやることがあれば……その時は手加減するべきだ」
――バタン。
少女にとって、彼は最後まで良く分からない人だった。
どこまでが本気で、真意なのか、その台詞の端々にいつも惑わされる。
今やっていたチェスも、こちらのチェックメイトで終わってはいるが
今までの彼との対戦ではこんな展開は有り得なかった。
少女は確かに強かったが、彼にだけはどうしても勝てなかったのだ。
そしていつも、勝負が決する前にはぐらかして中断してしまう。
続けていれば自身が負けていたと、少女は信じて疑わないでいた。
――今日は合格祝いのつもりなんだろうか――真実はもう分からない。
少女は独りでチェスの駒を動かした。
――カタン。
盤面から寂しく落ちたキングは、ころころ転がり本棚の下に入り込んでしまった。
「お別れね」
魔術師としての彼は尊敬していたが、個人としては何の感情も無かった。
少女は虚しさを胸に、駒をそのままに、丁重に退室し帰路についた。
一つ言っておく、少女は身寄りが居ない。
母と父もすでに他界している、そして友達も居ない。
唯一の知り合いが“先生”であったが、もうこれから会うことは無いだろう。
――トントン。
つい最近まで独学で魔術を学んでいたが限界が来たのだ。
それは技術もあるが、一番困ったのは生活費だった。
少女は彼を見つけると早速“先生”に仕立て上げ、
助手となることで自身の最低限の生活も保障させた。
――トントン。
心地よい音が木霊していた、音が時を支配していた。
少女は静かに本を開き、眠い目をこすり文を見つめた。
――ドンドン。
音は次第に五月蝿くなってきた、いつものことだ。
――チッ。
舌打ちが聞こえた、やはり少女の予想通りだった。
とりあえず今しなければならないことは生計だ。
“先生”の保障も消えた今、自力で衣食住を確保せねばならない。
少女は気だるい体に鞭打って立ち上がり、
荷物を持ち、外に大家が居ないことを確認して外に出た。
紫香のテウルギア~マデルの紅鍵~
博識なものはまだいい、付き合うことで何かを得ることもあるだろう。
知識の無いものは何の価値もない、相手にするだけ無駄だ。
ただそれは少女の理屈、何も無い少女に好んで近づく輩は居なかった。
少女はいつも独りだ――不便は何一つ感じない。
少女は病弱だ――知識さえ吸収できれば問題無い。
少女はお金が無い――ほとほと困っている。
これからどうしようかと少女は路頭で、路頭に迷った。
魔女として十分な能力を見つけた少女は、魔法道具の製造も可能であり
それを売ることでお金を得る手段を持ち合わせていた。
ただ、少女はそれを選べない。
一つ目の道具はいい、しかし二つ目からはもう飽きてしまう。
作ることは自分のためになるが、完成してしまえばもう得るものは無いのだ。
少女は貧しさに困る現状でも、あくまで己の貪欲さを貫いた。
ぐぅ、お腹がなった。
やはり背に腹は変えられないのだ。
我慢して歩いていたが、もう既に空は暗闇が支配している。
辺りの建物からも明かりは無く、唯一薄汚い民宿から光が差していた。
「どうぞいらっしゃいませ、一名様ですね、奥の部屋にどうぞ」
薄汚い店員が、抑揚の無い台詞で少女を案内した。
どうみても歓迎という様子ではなく、
面倒くさそうで、嫌らしい目つきをしていた。
案内された部屋はとても綺麗とは言えなかったが、贅沢は言えない。
ただ、ここの宿泊料でなけなしの金が尽きてしまった。
もしこれが人生最後の宿になったら最悪だ、と少女はうんざりした。
「はい、お食事です。食器は明朝片付けますので」
無愛想な表情で、頼んでいた食事がやってきた。
予想通り質素な食事で、量もさることながら質も怪しいものだった。
でも贅沢は言えない。
あむ、もぐもぐ、丁寧に租借して長い間楽しもうと思った。
ごくん、不味いのですぐ飲み込むことにした。
味が、無い。何もかもが足りない。
『塩』が欲しい。
水と食料があっても、『塩』が無ければ人は死ぬと読んだことがある。
それを少女は身をもって体感した。
嫌な知識を実践してしまったものだ、と生まれて初めてそれに悔やんだ。
「…………」
少女は詠唱した、大気中の水分を集め――器に貯めた。
その水を使い食事を味わずにとにかく流し込んだ――水すら不味かった。
寝た。
――夢を見た。
少女の目の前には草原が広がっていた。
それはのどかで、美しく、何処かで見たような風景だった。
「貴女も天使になってみたいですか?」
声がした方を振り返ると、その主は居た。
白く、蒼く、美しい羽を携えている、イメージ通りの天使だった。
でも全体の輪郭も、顔もボヤけていた。
夢の中なんてそんなものだと、うっすら思った。
「じゃあ貴女は今から天使です。さあそこに座ってください」
そういってその天使は髪の毛を一本抜き取った。
何をするのか不思議に見つめていると、
どこからか取り出した短剣に繋ぎ、少女の頭の上に刃を向けぶら下げた。
「これが天使です」
しばらくぶら下がっていたそれはプツっと音を立て、
少女の頭の上に――
――少女は目が覚めた。
目の前には見慣れない天井があったので、宿に泊まっていることを思い出す。
「……はぁ、“ダモクレスの剣”なんて夢に見たくなかったわ」
夢の正体は少女はすぐ理解した。
それはいつ落ちてもおかしくない短剣が危険そのものであることから、
隣り合わせの、身に付きまとう危険を暗示する喩えであった。
おそらく元出は神話からだったと記憶している、だから天使が出てきたのだろう。
吸収した知識が、夢とはいえまたも嫌な実践をされてしまったと悔やんだ。
眠気は感じられなかったが、まだ外は暗かった。
ごろんと寝返りを繰り返し暇をつぶしても、まだ明けそうにない暗さだった。
「…………」
少女は詠唱した、大気中から酸素と種を集め――火を付けた。
手元から発せられた火は、目元の高さまで上昇して留まり部屋を照らした。
ただ、あまり効率はよくないようで月明かりと変わらなかった。
これだから人間は信用できないのよね、と少女は思った。
少女が置いた荷物は、その場所にはすっかり消え失せていた。
最初に少女は宿の店員を疑ったが、彼はおそらく独りでここを経営している。
私の口を塞がなければ宿に人が来なくなるため、自分の身が無事な理由が無い。
宿を今日潰す予定でもない限り、それは無い。
少女はそこで深呼吸をし、考えるのを辞めた。
悪かったのは自身なのだ。
人と無闇に接したから悪いのだ。
周りの者は皆、敵なのだ。
そんな少女の思いに、唯一救いだったのは大切な本が無事だった事だろう。
部屋の隅にぽつんと残されたソレは、裏表紙を地に付け開かれていた。
「――紅葉、ね」
その魔導書に紅葉が貼り付けられたのはいつだったろうか。
少女は今思い出しても可笑しさに声が出そうだった。
幼い頃に、なんとなく心に留まったソレを、こうやって貼り付けた。
そして今でもずっとそれを残している。
懐かしさ――得体の知れない感傷が迫ってくる事を恐れ、少女は無意識に本を閉じた。
身を気を引き締めましょう、と自身に言い聞かせた。
少女に安息の場所はまだ無いのだ。
「……?」
宿の店員が居なかったことは気にならなかった。
外に出て、ようやくこの違和感に気づいた。
明けていないのだから暗いのは自然だ。
人は眠っているのだから静かなのは自然だ。
だがこの場においてその自然は間違いなく不自然であったのだ。
(馬鹿な、そんなはずはないわ)
空には月が無かった、星が無かった。
空気が明らかに違う――この一帯が何かのヴェールに包まれているような、邪悪な何かが。
ほんのわずかな光を頼りに少女は歩いていたが、
その鉄に似た、鼻をつんざくような匂いの元を見つけ足を止めた。
それはどうやら、かつて人間だったものだと理解できた。
少女に理解できたのは、端々の肉片、衣服の切れ端、おびただしい量の血のおかげだ。
そして、以前は少女の所有物だったと思われるものも混ざっていた。
――居る。
何かがこの辺りに居る。
闇を作り出している者が居る。
人? 妖怪?
得体の知れない恐怖に対して、少女は特に慄くことはなかった。
怖くないといえばそれは嘘でしか無いのだが、心のどこかで何とかなると信じていた。
そして、魔術の実践の一環として喜びに震えた。
少女は詠唱した、静かに佇み沈黙し――土を踏みしめ、それと精神を一体化した。
周囲の大地から地上の違和感を感じ取ろうとした、上手く行くかは分からなかった。
結果としてそれは成功した。
少女は間違いなく、少し先のほうで何者かが戦闘していることを感じ取った。
汗が頬を蔦り、緊張している事を自覚した。
冷たくなって固まっている指先をほぐしながら、少女は前進した。
――ビチャビチャ
少女がその場に到着したときにはすでに戦闘は終了していた。
代わりに、目の前のソレは何かをぎゅぅと掴んで夢中に食していた。
ソレは見た感じ――妖怪。この妖怪から闇が滲み出ている。
この妙な空気の暗闇の元凶はまさにこの妖怪であったのだ。
(……リボン?)
アンバランスな、その妖怪に付けられたリボンから僅かな魔力を感じた。
そして少女はその魔力が、どういった意味であるかを瞬時に理解した。
「……また人間? 今日は大量だね」
捕食を終え立ち上がった妖怪は少女に目をやり、すぐさま睨みつけた
それは動物が獲物を見つけたときの威嚇の目そのものだ。
「む?」
少女は詠唱した――自分の周りに魔法陣を展開させ戦闘態勢に入ったのだ。
「そう……貴女も魔法使いなのね。魔女は美味しいから楽しみだわ」
場が一転して――
――少女は理解した。
この場の光が完全に妖怪に吸収されたことに。
これでは何も見えない、先ほどの戦闘していたと思われる魔法使いもおそらく、
この闇を攻略できずに敗北したのではないだろうか。
少女は詠唱した、迷わず体にまとわり付く温度を操り――風を支配した。
目に見えぬというなら肌で感じるしかない、風で感じ取り、風と共に動こう。
「……!」
妖怪は幾度と無く少女に攻撃を仕掛けたが、
それはさながら水中の藁のように掴みきれず全て回避された。
今まで妖怪は、全て闇の中に捕まえ大人しく餌にすることが出来た。
なのに、今は目の前の少女一人を捕まえられずに居た。
「そんなばかな! どうして私の位置が把握できるの?」
妖怪が焦りを覚える中、少女は頑として冷静だった。
そして機を待っていたのだ――今がその時だった。
少女は詠唱した、術式を展開させ――妖怪のリボンに向かい金の魔力を打ちつけた。
――ドクン
先ほどの魔法使いがそのリボンを付けたのだと推測した。
リボンには中途半端な術式が施されており、完成にはあと金が足りなかったのだ。
――ドクン
少女の視界が開けてきた。目の前には顔をおさえしゃがみこんでいる妖怪の姿があった。
「な、なにをした……?」
「油断したのね、妖怪。食した獲物は最後にあなたにリボンを付けていた事に気づいた?」
――ドクン
「リボン……? それがなんだというの……ググ……」
「ソロモンの護符を用いたものよ、要するにそれは力を封印するもの」
「そ……そ…お…なの…か! このままでは力が……ウググ……。
それなら……せめて貴様の命を……!」
――ドクン
敵が窮地に陥ったときにすることは、せめて一矢報いる心からの行動だけなのか。
くだらなく感じた、醜さを感じた、そしてその思いを含め蔑すみの目を少女は向けた。
――ドクン
「き、きさま……馬鹿にして!
こ、この夜の支配者を…………く、くそぉぉぉぉ!」
――ドクン
少女の胸はずっと強い胸騒ぎを知らせていたというのに――
――ズバァァァァァ!!
それは刹那の出来事。
その肉体を、その小さな手が、後ろから前へと貫いた。
「醜い妖怪風情が夜の支配者だと?
くだらん、せめて散り様くらいは美しくするがいい」
――ドクン
妖怪が声を出すことは無かった。
小さな手に貫かれたソレはボロ雑巾のように惨めに投げ捨てられた。
少女はついに戦慄した。
先ほどの妖怪とは違う、次元が違う。
そうだ、魔女にとって最大の敵。
共に、利用することはあってもされてはいけない永遠の関係。
――ドクン
羽を携えた紅い――
――悪魔だ。
「お前は人間ね」
「貴女は悪魔ね。私はこれでも魔女よ、敵ね」
「あら魔女なのね。私は吸血鬼よ、覚えておいて」
魔女と吸血鬼が対峙する。
§ § §
先手を打ったのは少女だ。
少女は詠唱した――“アグニシャイン”――
少女の右手から放たれた幾重にも重なった火球の群れが悪魔へと襲う。
それは少女にとってはまさしく小手調べ。
相手がこれをどう対処するか、その様子を見たうえで相手の力量を判断するのだ。
(避けるのか、それとも防ぐのか……!)
目の前の敵は火球に驚いた様子も見せず、ただそのまま立っていたのだった。
そのまま全ての火球が集中し、確実な被弾が予測された。
その刹那、悪魔の口元が、禍々しく笑いに歪んでいた。
「…………!?」
少女がそれを視認し、理解するのに僅かだが大きい時間を経た。
隙間の無い弾幕に堂々と突進をし、敵は眼前に立ち塞がっていたのだ。
「お前の力はこんなものなの? ならこれで終わりよ」
「……くっ!」
少女は詠唱した――“レイジィトリリトン”――
全身で感じた目の前の恐怖に、本能で咄嗟に判断する。
心臓を狙った鋭利な爪が向けられると同時に、高速で自身の周りに土の弾幕を展開。
相手の攻撃を弾いた少女は、目の前の敵が桁違いの運動能力を持っていることを知る。
「ふふ……やるじゃないか」
一旦距離を離す悪魔は、常に余裕の表情を以って少女を見据えている。
不愉快だった。
――少女には友達が居ない。
人を観察することこそ面白味があったが、少女を見ようとする者は居なかった。
病弱で人と接することをしてこれなかった少女にとって、
人との付き合いは生きることに必要で無いことを理解していた。
誰からどう思われようとも勝手だと思っていたのだし、自身も勝手に生きていた。
魔女としての道を本格的に進んだ時、少女は“先生”と弟子達に出会った。
真剣に知識を深く取り込みたかった少女にとって、当然の選択だった。
しかし少女の思惑は頓挫した、熱心な研究をするにあたって周りの者が邪魔である。
同じ真剣な想いを抱いて来ているものとばかり思っていたために後悔したのだ。
少女の目にとって、他の者はふざけすぎていた。
仲間意識を持つことを重視し、戯れ、愚痴をいい、協力していた。
少女は思う。 私達は敵なのだ、馴れ合いは勝手にやれ、巻き込むな。
少女は研究途中のものを他の者に見せることも決して無かった。
成果、功績をひけらかすこともなかった。
周りの者とはとにかく距離を取った。
それでもしつこい者が、少女とチェスの対戦を申し込み続けてきた。
仕方なく少女は、目の前で論文を書き上げながら無言で勝負した。
ノータイムで刺して勝利した時、もう誘われることも無くなった。
その事には何も感じることは無い。
不愉快だったのは“先生”だ。
何かの知識を得る代償に、チェスに付き合わされた。
そしてくだらない雑談をいつも交わした。
ただの価値が無い事、なんてことはない過ぎ去る日常。
それがどうしても少女の心に違和感を感じさせ、非常に疲れたような気分になるのだ。
彼は少女を見ていた。少女は彼の瞳を見ることがどうしても苦手だった。
魔法使いとして、“先生”として尊敬はしていた。
しかし彼という人間は、好きになれなかった。
どんな者に対しても感情を持つことは無いが、彼だけは好きではなかった――
少女は詠唱した――“オータムエッジ”――
目の前の敵に、誘導性の高い金の弾幕を次々に展開する。
「捕まえてみろ、出来るものならな!」
余裕の表情を崩さず、迫り来る弾幕を悪魔は高速で避け続ける。
少女自身も移動しながら絶えず弾幕を浴びせかけ追いかけた。
やがて幾度と無く打ち続けるも、決して捕らえることが出来ないと分かった。
例え捕らえても、果たしてダメージが与えられるのかも疑問だった。
一体どうすればいいのかと、頭の中では途方に暮れていたのだ。
――ふと、悪魔のその眼が何かを視認し、思考をそれに奪われていた事を見逃さなかった。
確かにその悪魔は何かを見つけ、それに戸惑いを感じたのだ。
少女はゆっくりとその場の状況を見渡す。
少女が立ち、目の前の敵が居て、その背後に大きな湖が在った。
そして一つの知識を少女は頭から導き出した。
水だ。
吸血鬼は水に弱いのだ。
幸運にも少女は水の魔術を最も得意としてた。
湖を利用した最大の魔術をぶつければ、目の前の敵は確実に滅ぶ。
少女は金の弾幕の展開を中断し、高速でその魔術を詠唱する。
悪魔は少女の様子を見て、強力な魔術を展開すると予測して睨みつけていた。
「遊んでいた貴女が悪いのよ。
敵がどんな切り札を持っていて、
そしてどんな死角から攻撃してるか分からないのだから」
少女は詠唱した――“ベリーインレイク”――
突如として湖から水が吹き上がり、その音に悪魔は背後を振り返った。
それは魔力を持った水が勢いをもって槍のように襲い掛かっていた。
少女は最後の術を詠唱する。
自らに少しの余裕も許さなかった。
こうなった時、敵が取るであろう行動はただ一つ。
まばたき一つせず、悪魔にふさわしい眼光で睨み、高速で直線に突進してくる。
背後から悪魔に迫るその水は、僅かながらその速度に追いついていなかった。
たった少しでも触れれば、少女が勝利することを互いに理解していた。
悪魔は背後の水が決して追いつかないことを確認すると、速度を緩めた。
少女の眼前に到達した事で勝利を確信した。
「惜しかったな、私が疾すぎたのが敗因だよ」
今度はチャチな弾幕のバリアをも貫く、本気の攻撃だった。
そのまま突撃し、少女の心臓をもぎとれるはずだった。
少女は最後の術を詠唱した――“スプリングウィンド”――
「なっ……!?」
「ほら、油断した。
貴女は私を気にするあまり、予想外の背後の攻撃に反応が遅れた。
焦った貴女は水を気にするあまり、眼前の私の術を浅く想定しすぎた。
……チェックメイトよ」
少女から巻き起こる風が、悪魔を激しく追い返す。
悪魔は必死に抗い進行を試みるが、健闘する間も無く虚しく――
「……ぐ……こ、こんな……ガ……ガァァァァァァァァッッッ!!!!」
水が触れた。
水という弱点において無防備な中、少女の魔力によるダメージが諸にのしかかる。
悪魔は叩きつけられる水の中必死にもがき苦しんでいた。
少女は術の操作を辞めることは無く、そのまま湖に叩き落す狙いがあった。
それによって完全な勝利をこの場は得たといえるのだ。
しかし。
「……っ、げほっ……げほっ……かっ……!」
このタイミングで、持病の発作が少女を襲った。
詠唱が出来ないばかりか立っていることも出来ず、屈みこんだ。
おそらくは上級の魔術を駆使しすぎたせいが大きいのであろう、
少女はその場に血をも吐き、そのまま倒れてしまった。
「……うぐ……ぐ……はぁっ、はぁっ……」
全身が苦しく、呼吸もままならない。
おそらく悪魔も似たような状況で苦しんでいるのだろうと考えた。
どちらが先に回復し、トドメを刺しにいくかで運命が決まる。
なんとか呼吸は落ち着いたものの、依然として立ち上がることは出来なかった。
苦しく、苦しく、なんとか顔だけでもあげようと手で必死に地面を抑える。
近くの木々の傍まで体を引きずらせ、背中を預け、顔をあげて前を見る。
満身創痍の悪魔が立っているのを見て、少女は自らの死を静かに悟った。
「お前は体が弱いのか」
「ええ」
「さぞ努力して、そこまでの魔女になったんだろうな」
「ええ」
「本は好きか」
「ええ」
「今まで何年生きてきたんだ」
「……早く殺しなさいな」
「何故お前は死を恐れない、私を畏れない」
「それは……」
何故か。そんな事はいつでも少女が抱いてるその想いに他ならない。
「生きていることに価値なんか無いからよ」
少女は、自身に関わるもの全てに価値を見出していない。
それは裏返せば、自身を無価値だと思っているからこそに他ならなかった。
「死にたいわけじゃないんだろう?」
「どっちでもいいわ、好きにしなさい」
「……未練も何も無いというのか」
少女に未練などありはしない。
悪魔はいつまでも少女の想いを理解できていなかったのだろうか?
沈黙の時が流れる、心地よい風が肺に入り少女の息も落ち着く。
少女は目を瞑り、今までの人生を思い返した。
心の底から楽しめたことは何一つ無かった。
ただ強いてあげるならば――
「……“賢者の石”」
「“賢者の石”?」
「魔法使いの最終目標……“賢者の石”。
そこに辿りついていれば、何か変わったのかもしれない」
「…………」
少女を突き動かす衝動は知識の探求。
魔法使いの最終目標である賢者の石、
それが少女の全てであり、生きる糧であった。
しかし、もしそれに到達してしまった場合はどうなるのか。
目標が消えうせ、死ぬことを選ぶのか。
それとも何か新しいものが見えてくるのだろうか?
少女には分からなかった。
悪魔が近寄り手をかざす。
少女が見上げても、その表情を窺う事は出来なかった。
だから何を思ってそれを差し出したのか分からなかったのだ。
「…………これは?」
悪魔の小さな手の平には、小汚い鉄の『鍵』があった。
「“ヴワル魔法図書館”の鍵だ、そこで得られぬ知識は無い」
「……どういうこと?」
「私は興味が無い、お前が使うといい」
「そうじゃなくて」
「どっちでもいいんだろう? ならば言うとおりに動いてもらおうか」
少女は戸惑いつつもその『鍵』を手に取った。
§ § §
悪魔に連れられ、森を抜け湖を渡り、大きな建物の前に辿り着いた。
闇が薄くなり、夜が明けていくのが分かった。
少女を待つのは悪魔の罠だろうか、それとも違う何かがあるのだろうか。
分からない、いくら考えても答えが出るわけは無かった。
進まねば道は拓かない。
少女はそれを理解した訳ではないが、止まった足を一歩踏みしめた。
少女は『鍵』を使う。
重々しい未知への扉が今開かれたのだ――
to be continued “Celsu the scarlett salt”...
(ケルスの紅塩へ続く)