*** この作品は一部を投稿するまでも無いSSスレにて既出しています。
*** 多数の投稿するまでも無いSSスレ住人の方々に多大なご迷惑をお掛けしました事、
*** この場を借りて深くお詫びさせていただきます。ごめんなさい。
記憶は褪せてしまっても、思い出には色がある。
想いは冷めてしまっても、宿る色には熱がある。
試行初日
チルノは常々、出よう出よう、今日こそ出ようと考えていた。
ヒンヤリ冷凍庫は嫌いではない。むしろ理想郷。だがあいにくと狭い。
それさえ解決されれば理想郷を一山越えて桃源郷なのだが。
しかし理想郷で十分な理由があった。
足りぬ事に危機感が無いのは、彼女がまだ未熟な蕾であったが故か。
否、足りていた。彼女には広さも待遇も関係は無いのかもしれない。
理想郷を桃源郷、桃源郷をエデンたらしめた要因は、チルノに与えられるアメにある。
その名も今世紀最後のガリガリスイカポーション安打棒。
チルノが命をかけたのは愚かなる者の欲望を啜る魔の氷菓子。
これがチルノの住まう高級冷蔵庫の室内へと日に3回、断続的に投与される。
この3回という数字がまた巧妙にして狡猾だ。
日に3回でそのペースは8時間毎。
腹が膨れ眠くなるのが1時間。目がさめて口が寂しくなるのに3時間。禁断症状が6時間。
諦めを感じるのが8時間。という按配。諦めと同時にアメが来るのだ。
チルノはそのたびに、エデンを夢想する。
そして8時間。給油口もとい餌付け穴から咎が放り込まれる。
タシャン。大好きな重量が、床に積もる氷晶を穿つ音。
跳ね起きたチルノは2秒で対象の捕獲に成功。野獣の様にパッケージを引き裂き、貪る。
踊る舌から撒き散らされた欲望の残滓はコキュートスの気温で宝石に変わる。
故にチルノは気付かない。己の醜さに。
飼いならされた豚が、そこにいた。
四方は重力を無視して隆起する氷晶を纏った壁に塞がれて。
唯一冷気の逃げ口ともなる給油口付近から垂れる水滴が壁の一角を均す。
薄い氷膜はまるで鏡の様。チルノは水鏡が嫌いだった。誰かにその日のパンツを覗かれるから。
普段満足に鏡の中の自分を観察する事の無いチルノは、気だるい体を起こして氷鏡の前に立つ。
映し出された孤影は有明の弦の如く、丸く流れる白いラインを美しく主張した。
禁断症状から1時間。アメを求め悶える無量の刻。チルノが己にできる慰みはこれぐらいのものだった。
出たい。
§
──戻しておいてくれ。
透き通ったアクアマリン。男は掌で転がしていたそれを女に手渡す。
──今度こそ上手くいきそうですか?
女はその場を立ち去ろうとする男の背に喰いつく。餓鬼の使いでは無いと。
──成果を上げるためにもじっくりやらせてもらう。
男はそれだけ言うとその場を後にした。
残された女は溜息を一つ。
女が一人赴いた一室。
立ち並ぶ背の高い棚の一つから、透明な箱を取り出す。
女が手に取った小さな硝子のケース。
蓋を開け、アクアマリンをそっと納める。
ぼろぼろの先客達が出迎えるかの様にかちゃかちゃと音を立てた。
とある場所、とある一室。淡い光が俄かに漏れた。
§
日時不明 乳石英の面影
粉雪が降る。
チルノは両手を広げ、全てを受け止めようとした。
貪欲な者の手を逃れた者達は、土に積りやがて彼女を儚むように消えてゆく。
しゃりしゃりと小気味良く彼女が歩く。
降っては溶け、溶けては消える者達への手向けか。
彼女は白の景色に良く見える様、彼らがそこに在った証を刻み続けた。
彼女はこの季節が好きだった。
白く生まれ、多くの色を受容する優しさをもちながら。
より白く、ともすれば色も無く消えゆく。
そんな彼らが、彼女はたまらなく好きだった。
一面の銀世界に一際透き通る乳石英をチルノは見つけた。
それは人の形をしていた。憂鬱な表情で彼女は何処か遠くを見ていた。
視線の先に何があるのかと、チルノはそれを追う。
そこにあるのは、はらはらと粉雪散らす白む天蓋だけだった。
再び視線を戻す。やはり何をするでも無く宙を見上げていた。
チルノにはもともと我慢性など有りはしない。
物怖じせず、意を決して彼女に話し掛ける。
威勢の良い声で名を名乗り、まくしたてるチルノ。
乳石英は一瞬その様相を曇らせた後、笑顔で名を名乗った。
その笑顔と共に、彼女の体温が空気を伝いチルノに届く。
それは雪よりも、鉄よりも、チルノよりも。尚冷たい。
チルノは一瞬怯んだが、その位では好奇心が起こす濁流の堤防にはなり得ない。
なんで、寂しそうな顔で空ばかり見ていたの?
その質問に、彼女の笑顔は静かに崩れた。
能面の様に表情を失った顔で、彼女は訥々と語りだす。
私は終末を知り、再生を与える。
だけど彼らは良く思わないでしょう。
栄華を極めた彼らを悉く嘲笑い終末へと誘う私を。
彼女は何処か寂しげで。
四季の一端を司りながらも一切の恵み無く、多くの者達へ幕を引く役を担う彼女。
彼女の吐息は氷精すら凍える終の調べ。
一瞬でも恐れを抱いた事を、チルノは心底悔いた。
強くなりたい。何度そう思っただろうか。
逃げ惑うだけの日々、守られるだけの自分。
打破できるものならと幾度も願った。
チルノは彼女に、自分が願った未来の一つの結末を見た。
力という物が万能ではない事を、チルノは知った。
私は終りと始まりしか見る事を許されない。
だからあなたに見届けて欲しい。
見れぬ私に教えて欲しい。始まりと終りを紡ぐ、世界の在り様を。
彼女はチルノよりも一回り成熟した体をもつ。
背丈も顔も上下の膨らみも、桃夭恥じ入る程に美しい。
しかしチルノよりも幾分か大きな手だけは、
不相応に頼りなく見えた。
それは何一つ持つ事の適わない、赤子の手だった。
次いでチルノは己の手を見た。
若い紅葉の様に小振りなそれは沢山の思い出を抱え込み、今にもはち切れんばかりで。
欲張りな手は、夢を握り締めまどろむ幸福を知っていた。
彼女は再び遠くの空へと視線を投げる。
見るという目的に於いて、それは酷く曖昧だった。
彼女が見ている物も、見るべくして見ているのではなく。
そこだけを凝視する事で、それ以外の全てを瞳に映す事を拒んでいる様にも見えて。
一切の未練を、残さぬ様に。雪げぬ爪痕を、残さぬ様に。
チルノはそんな彼女に手を伸ばそうとして、やめた。
自分の役目は決まったのだ。すべき事は、一時の慰めでは無い。
夢の続き、引き受けます。
チルノは駆け出す。多くの物を見るために、多くの事を感じるために。
乳石英がチルノに向けた、優しい笑顔の中の一点の既視感。
それは大好きな翡翠の瞳の中に映りこむ、縋る様な自身の瞳。
あの人は、あたいだ。きっと、応えてみせる。
乳石英の視線の先で小さくて大きな背中が、少しずつ遠ざかっていった。
§
試行二日目
そこには多くの妖精達の行き交いがあった。
チルノはその中に居る。
誰に求められる事も無く、誰に求むる事も無く。
抱えた膝が彼女の持つ全て。
どうしようもなく、彼女は独りだった。
する事も無く佇んでいると、足元に小さな一輪の花が咲いているのを見つけた。
それはまるでチルノを慰めている様で、彼女はそっとその花を摘んだ。
直後、花は無残にも凍りつき粉々に散った。
しばらくして、またもチルノの傍に花が咲いていた。
彼女は一瞬微笑んで、膝に回した手を、ぎゅっと握り締めた。
周りは春の賑わいがあった。
摘めば死んでしまう花達は、尚チルノの周りを隙間無く埋めていく。
幾度も手を伸ばしかけた。その度、強く体を強張らせた。
何時から、こうなってしまったんだろう。
彼女は身を縮こませたまま、咲き乱れる花に追われていた。
それは決して望んで等いない、未来だった。
§
男は難解な記号を写す式を睨みつける。
男の作業は難航していた。
多くの期待を一身に担うその大事は、成せば巨万の富と名声を得る事だろう。
男は躍起になっていた。今度こそ、と。
取り上げた煤けたアクアマリン。
汚れが目立ってきたそれを、清潔な布で愛でる様に丹念に拭き上げ、式の口へと放り込んだ。
──良い結果を出してくれ。
式の感覚器が集中する電子の揺り籠が、ゆっくりと動き始めた。
§
日時不明 翡翠の抱擁
ずっと守られていた。
妖精は弱い。常に危険と隣り合う。
十字架を背負わぬ彼女達。生来の素養は闘争を理由と認めない。
人が伝える彼女達が起こす奇跡、結局は彼女達においても奇跡でしか無い。
捕食者に比べ彼女達は余りにも無力だった。
しかし彼女だけは強くあろうとした、それ故に優しかった。
一度脅威が近付けば、彼女の統率のもと妖精達は難を凌ぐ。
翡翠の髪が靡く度、泣き虫チルノに笑顔が戻る。
いつからだろうか。逆に彼女を守る様になったのは。
木霊の嘆きが悪意の接近を妖精達に伝えれば、チルノ含む妖精達は陸を離れ湖上へと逃げる。
悪意の殆ど。水を恐れ空に疎い無能な人妖はこれで凌げる。
残る内凡そ半分。尚しぶとく留まるなら、水を母とする妖精が霧を出し、晴れる頃には平穏が戻る。
稀有な一握り。岸から弓引く者あれば、逃げの一手に挑発を織り交ぜ誘導。不意の流れ弾を受けた不夜城が動けば事は済む。
水に明るく空に通づる異例が、統率を失い散り散りに逃げる妖精達へと押し迫る。
阿鼻叫喚の混乱のさ中、明日の為動く事が出来たのはやはり彼女だった。
武器も無ければ奇跡も無い。精々が時間稼ぎ。彼女はそれを心底納得していた。
妖精達を背に庇い踊り出た彼女へと、欲望に濡れ光る上顎が迫る。
その様子を呆然と見ていたのはチルノだった。
一目散に散開する妖精達に倣わず、理不尽に今が奪い去られんとする不条理をただ見つめる愚行。
不意に、肌を裂く様な冷気が水面を駆け抜けた。
這い上る赤は心を満たし、小さな胸は張り詰め、骨の髄までが冥く染まる。
立ち込める厳冬の香りがチルノの涙を砕いて散し、それは顕現した。
湖底を穿ち天を衝く白銀の塔。舞い散る飛沫は、一瞬の間をおいて硝子の雨を降らせた。
後に残された無音の世界で、一溜りも無く掻き消えた怪生の名残が湖水に薄まり散ってゆく。
内に生じた未知の胎動の心地良さに慄き、チルノは縋る様に愛しい翡翠を探す。
見開かれた瞳の中にチルノはいない。
災いを映す鈍い原色を湛えた翡翠。昨日までは何よりも気高く頼もしかった輝き。
あたいは化け物だ。
ついと踵を返すチルノ。彼女は無理矢理向き直らせ、抱きすくめた。
言葉を経ずチルノは感じた。とくんとくん。掛かる吐息熱く、伝う鼓動早鐘の如く。
小刻みに波打つ翡翠の上絹が物語る真実。子供心に悟った。何も望んではいけない事を。
身悶えするチルノ。しかし彼女はチルノを離しはしなかった。
切ない程に抱き締める。緋は熱を失い、黒は優しさに満ちる。
チルノの目に透き通る海を見て、彼女はもう一度深く抱き締める。
大丈夫だから。その声の暖かさに、チルノは夢の中へ落ちた。
妖精達の可愛らしい悲鳴に混じって豪気な声が響く。
泣き虫チルノはもういない。ヤンチャが過ぎると彼女は嘆く。
しかし威張る事は無く、責務の重さに腐る事も無く。
今を守る為の物。それが力に対するチルノの認識。
唯一の不満。弱き日の憧憬は今は隣に。
それがチルノは悲しく、嬉しかった。
例え暖かい背に甘える事が、もう許されないのだとしても。
チルノの通った後に、点々と連なる落し物。
拾う事はせず、振り返りもしない。
望んでいた事、当たり前の日常。次々と捨てて。
その手に凍てつくナイフを宿したその日から。
弁える事で、応えていこうと誓った。
翡翠の抱擁の温もりを、二度と離さぬ様に。
あたいが居る限り、大ちゃんは誰よりも強い。
愛される者が奇跡を起こす。その奇跡はチルノに委ねられ。
どこか寂しげに、しかし暖かく微笑む大妖精。今日もチルノは守られている。
§
試行三日目
その手は確かに繋がれていた。
暖かかった。きっとそうだった。
柔かかった。そうに違いない。
優しかった。そうだったかもしれない。
拒絶する事など。無かったに、違いない。
そこに断定は無かった。
繋がれていた筈の手。今は何も繋がってはいない。
その事実だけが示されていた。
伸ばされた手の先を見遣れば、そこには冥い闇が降りていた。
一寸先は何も見通せぬ闇の果てに、その温もりは沈んでしまったのだろうか。
闇を見つめる彼女は、己の手に再び問い掛けた。
暖かかったのか、柔かかったのか、優しかったのか。
本当に、自分を拒んではいなかったのか。
パズルのピースの様に収まる形。
手という物を、神はそう作った。
ならばなぜ。この手は片方だけのまま。
チルノは闇を見つめる。その中に、繋がっていた筈の片方を探そうと。
闇は漣一つ立たぬ水面にも似た様相を映す。
いくら目を凝らしても、いくら願っても。
彼女の前には常に同じ色しか映す事は無い。
そこには手は無かった。彼女が繋いでいた筈の手は、何処にも無かった。
上も、左も、右も、下も、全ては闇。
闇の世界の中心、くり抜かれた様に不自然に明るい場所に彼女は居た。
闇の中に手を突き入れ、やんわりと開閉する。
それに感触は伴わなかった。
あの手はどこへ行ってしまった。
求めていた手は、どこへ行ってしまった。
形を失ったそれは、どこへ行ってしまった。
不意に、闇の中の手が暖かい何かに包まれた。
はっとして握り返した瞬間、その温もりは嘘の様に掻き消えた。
チルノは今度は両手を突き入れて、忙しなく闇の中を掻いた。
その様子を嘲笑うかの様に、降りた闇はそれきり夜の静寂を保ち続けていた。
まるで、今ので最後だとでも言わんばかりに。
§
男が取り出したのは、幾らかの小さな瑕をこしらえたアクアマリン。
──これでは、他のと同じじゃないか。
最後まで取っておいた、最も状態の良かった貴石。
気付けば何も得られぬまま、既に他のそれの初期段階と並ぶ程度にまで劣化が進んでいた。
漏れた溜息は、歪な球の表面を俄かに曇らせる程に大きかった。
男は一人報告書を纏める。一瞬の躊躇いの後、整った字を静かに連ねた。
──経過、極めて良し。
§
日時不明 タンザナイトの憂鬱
チルノの地図は青を総合的に使用する。
水を百般に応用するチルノは、遊び場も湖で事足りていた。
それでもチルノもお年頃。たまには遠出の刺激が欲しい。
そうと決めたらチルノは早い。仲間の誘いも右から左。
翡翠手製、蔓草のポシェットが悲鳴を上げる。冒険の必需品を手当たり次第ぐいぐいと。
花蜜の小瓶と木彫りのお椀とおまけに木彫りのスプーンと。
木組みの小屋から一人飛び出し、近場の森へといざ切り込む。
縦横無尽に条網走る。蛇腹の道は天然迷宮。
にんまり笑顔のチルノ。期待を胸に勇ましく踏み出す。
歩いて歩いて休んで歩いて。
も一つ歩いてふと気付く。視界の先に降りた夜。
闇孕むそれは痩せた古木の様であり。
一歩進めば案山子の様であり、二歩進めば人の様であり。
それは黒く美しい人の形。見知った姿、それは妖。
チルノは慌てて目を逸らす。己の不運をたっぷり嘆いた。
チルノは彼女が苦手だった。嫌いな訳では決して無い。
宵闇従え何時も一人で佇む彼女。
チルノの目には幾分不気味に映りこむ。
それでも害が無ければ出かけは一人で帰りは二人。
害があるからチルノも渋々対策を練る。
目が合うと彼女はお決まりの台詞を投げかけて来る。
そうで無ければ女神像との差異は無いのに。
遠く聳える尾根の彩りを愛でながら彼女へと近付く。
彼女は相手の意見を聞く謙虚さ、納得が行かなければ肯定と見なす大胆さを併せ持つ優秀な逸材。
しかし問い掛けさえ未然に防げば一先ず無害と学習した。
日の照る時分チルノの周りは夕暮れだ。息遣いさえ感じ合う距離。焦がれる温度が頬を噛む。
違えば漏れなく一触即発。その様さながら高綱渡り。
頭脳よ叫べ。チルノは思案に思案する。
一、待ちに徹する。
彼女は相手の出方を窺う。ならば打って出ずに焦らす。
却下。我慢比べは経験済み。惨敗を喫し必死の説得実に一昼夜を経た。
二、後ろから延髄チョップ。
彼女は両翼に相手を巻き込まぬ様気遣う。密着すれば難なく背後を取れる。そこに光明あり。
却下。一度目こそ効いた。しかし二度通じるはずも無く。真後ろを向いた首には流石のチルノも泣いて励まされた。
三、スカートめくり。
彼女の武器たる突出した食欲が他を押し退けつつあるだけで、彼女とて根底は乙女。隠された純情を暴く。
却下。これも一度目は効いたが二度目はパンツも下げてようやく動じた。それ以上を知らぬチルノに三度目は無い。
千思万考報われず、チルノの顔に難色浮かぶ。
のぼせた頭に諦めが去来する。しかし。
ぐー。
間の抜けた腹鳴は物言わぬエレジー。
脱力呈したチルノには、貴石の誘いが甘過ぎた。
目の前のが取って食べれる氷精?
満面の笑みから零れた台詞に、チルノは深く溜息を吐く。
あんたは食べてもいい妖怪?
食べないで。美味しくないよ。
胸元で腕を交差し全力で拒否する。その姿にチルノは過去を見る。
臆病故に繋いだ夢幻泡沫の日々。
チルノは守ってくれる友が居た。独り佇むタンザナイトは何に縋る。
面と向って笑顔が見たい。共に歩こう彼女とも。
あたいは食べちゃだめだけど。ポシェットから出した小瓶を開ける。
美味しいみぞれをこしらえたげる。
漂い出す甘い香りに、期待に満ちた瞳が潤む。
取り出したもう一つ、お椀を掲げて精神統一。
奇行に小首を傾げた彼女。卒然と場を包む冷気に飛び上る。
お椀の上に白む気流が渦巻き、拳大の氷塊を形作った。
チルノがふぅと息吹を掛かけると、それは儚く散って小山を成す。
花蜜を垂らしスプーンを添えて差し出した。
受け取ったそれを恐る恐ると口に運ぶ。
尖る甘味を雪解け水が優しく洗い、心地良い清涼感が鼻へと抜ける。
咀嚼も忘れる無我の一時。すぐに空のお椀に舌が這う。
上目遣いは無言の要求。タンザナイトはどこまでも妖しく。
まだ足りないでしょ、うちへおいでよ。見惚れた時には負けていた。
歓喜に打ち震える彼女。その手を引いて歩き出す。
あたいはチルノ。あんたは?
ルーミア。美味しい物が大好き。美味しい物をくれたあなたも大好き。
チルノは彼女が割と好き。彼女の笑顔はもっと好き。
失明招くその眩しさには夕暮れの色が丁度良い。
§
試行四日目
何処からか響く歌声。
耳を澄ます程にはっきりとチルノを包みこむ。
とても暖かな、優しい旋律だった。
それは聴き覚えのある歌だった。
心の深い部分で、何かが締め付けられていた。
堪らず彼女は立ち上がり、歌の出所を探る。
しかしそれと同時に歌は止んだ。
見渡せば静寂。歌はもう聴こえない。
彼女はじっと耳を澄ませた。
しばし続いた無音の後、歌声は、またも何処からか聴こえてくる。
歌が止まないように、ただ聴きに徹する事にした。
その歌は心に遠く、耳に近く。
そこでふと気付いた。歌を紡いでいたのは、彼女自身だった。
唯一残された歌を謡い続けていたのは、彼女だった。
そうする事で、友の面影が失われぬ様。
寂しさが降りる程に彼女は歌う。
紡ぐ旋律を伝って、友はいつでも彼女に暖かな歌声を届けてくれるから。
§
吐き出された煙草の煙はたゆたう間もなく煙色の空へ吸い込まれていく。
──煙草なんて、寿命を縮めるだけですよ。
女の声が何処からとも無く掛けられる。
──粉塵塗れの薄汚れた風。あんたこそフィルタの一つくらい咥えたらどうだ。
男の声がぶっきらぼうに応えた。
作業に没頭する男の背中に、静かに辛辣な事実が叩きつけられる。
──報告書は訂正して出しておきましたから。
──何故そんな事を。今回がだめでも、次があれば。
──もう沢山です。今回で成果が上がらなければ、サンプル提供はありません。
──そこは……幾らでも便宜の図り様があるだろう。
──貴重なサンプルを5つも無駄にしたあなたを、これ以上は庇えません。
女を強かに睨め付けていた男も、諦めた様に式へと視線を戻した。
──俺を失って、後悔するなよ。
──そうならないで済む様、願ってます。極個人的に……。
§
日時不明 マラカイトの囁き
暇を持て余していたチルノ。湖を離れ一人草原を歩く。
さりとて遊びのあては無い。風に吹かれて無軌道に。
しかしめぼしい事も無く。既に赤い陽光差す時刻。
そろそろ帰らなくちゃ。
こんな日もあるよと己を励まし、とぼとぼ歩く。
しばらく歩いてふと気付く。風が運ぶ楽しげな調べ。
近い門限に焦る茜色の足取りも、その誘惑を断ち切れず。
風を手繰り音を探る。近付くに連れはっきりと見えてきた形。
一対の翼を風に靡かせながら踊る少女。妖精とはまた違う美しさを持つ。
夕陽に照らされて尚映えるその姿に、チルノはただ見入り、聴き入っていた。
母性すら感じさせる豊かな微笑湛えた蕾が紡ぐバラード。
蝶も花もが恥じ入る妖艶、優しい調べは抱擁の如く。
舞い、舞い、舞い、謡い、謡い、謡う。
心底愉しむ様に。今こそを慈しむ様に。
死に急ぐ不孝を醜、生を謳歌する徳を美と置いたなら。
彼女ほど美しい生き物は他に居ないのではないか。
術中に居るとは露知らず。チルノはただただ聴き惚れる。
輪廻を刻む足取りは、緩やかにチルノへと向かう。
ステップを踏む度上品に香り立つマラカイト。
ターンに靡くスカートの裾が零す艶やかな白樺の太もも。
夕陽が演出する血潮色の稜線。神々しくも情熱的なそれを見てチルノは熱っぽい溜息を漏らす。
賛辞すら野暮になる歌声。氷精すらも盲目にする。
幻想の中に幻想を謡う奇跡は何時の間にかチルノの目の前まで来ていた。
俄かに大仰なターンを決めると、スカートの裾を摘み膝を曲げてコケティッシュにお辞儀してみせる。
観客が小さな氷精一人であっても一切の手抜きはしない。彼女は己が輝く瞬間を知っていた。
ご静聴、ありがとう。でも妖精はお呼びでないの。
ごめん嘘。いつもより余計に謡っちゃったわ。
途端に泣きそうな顔のチルノを見て、慌てて言の葉を取り繕う。
子供の泣き顔ほど心を揺らすものは無い。太い放浪生活に彼女が見出した法則だった。
子供だからって大人気ない事をするものじゃないわ。さあ一緒に謡いましょう。
差し出された手も白樺の枝の様に白く繊細で。チルノははにかみながらその手を取った。
二つの影が伸び伸びと舞う。片やぎこちなく、片や美しく。
要領を得たチルノは率先して音を奏で、艶やかなマラカイトがその音色を拾い言の葉を謡う。
チルノが駆け上れば弾む歌声のウィーンワルツで勢いをつけ、しっとりと下れば慈愛のノクターンで深く包み込む。
度々躓いたり横道に逸れたりもする。それすらも夕陽が未練がましく尾根を焼く程に微笑ましかった。
やがて陽も落ち夜の帳が下りる頃。
月下の銀盤に踊る影二つ。最後に奏でられたのは一夜限りの恋人達の詩。
歌が止んで尚二つの影は楽しげにもつれ合い、大地の和毛に横たわる。
二つの熱い吐息が夜のしじまに浮いては消えた。
ステージを台無しにしちゃったかな。隣に寄り添う彼女に思う。
今は考えるのをやめよう。くすりと笑って、投げ出された脚線美を丁寧に賜った。
朝露の香りが鼻をくすぐる。目覚めを迎えたのは濃紺の空に一際目立つ明けの明星。
遊ぶ両手に彼女の温もりは既に無く、一夜限りのマラカイトに見た幻想はやはり幻想に淡く溶けた。
夜更かしの過ぎた太陽は未だ上らず、喪失感に苛まれる心に一層の陰を落とした。
私の綺麗な所、大ちゃんにも見せてあげよう。
チルノは己に言い聞かし、ゼンマイ仕掛けの足取りで湖へ向かう。夢じゃない。夢なんかじゃない。
帰り着いたチルノは姿身を見下ろす。そこに灰被りの魔法は既に無い。
呆然と眺めていたチルノ。水面がにわかにさざめくのを見る。
小粒が、やがて大粒が、姿見を叩く。一つ、二つ。広がる波紋。
美し過ぎた昨日と、平凡過ぎる今と。思いを馳せる程に、チルノはしゃくりを上げて泣いた。
そんなチルノの姿を遠目に見つけて寄って来たのは不眠の翡翠。
あの子の為だ、今日と言う今日は心を鬼にして一方的に徹底的に容赦無くリズミカルに喉が破れるまで怒鳴りつける。
そう決意したのが夜半過ぎ。
息を殺し背後まで忍び寄った時、耳を突いたのはチルノの小さな嗚咽。一夜越しの決意は瞬く間に粉砕した。
どうしたの、どこか痛いの。飛び付いて畳み掛ける。
一瞬驚いた風のチルノも、やはりさめざめと泣くばかり。
小さな肩をそっと抱き寄せる翡翠。今は静かに見守る事にした。
こんな時しか守れない、そう思いながら。何時であっても、常にチルノを守っているのは彼女であるという事には気付かずに。
灼熱の太陽が南中に座す時刻。その恩恵を余さず受ける幻想郷では全ての物が原始の萌木色を宿す。
翡翠はゆったりと足を崩し水面を眺める。膝枕で小さく寝息をたてる愛しき氷精の海色の髪を撫で付けながら。
私が寂しかったんだ、この子に必要とされなくなる事が。彼女は思った。そして願った。
今だけは、昔のように求められただけ与えたい。
水辺に佇む二つの貴石は優しい風に包まれて。しかしそこには不穏な陰が迫っていた。
背後から唐突に奏でられる子守唄。
聴き慣れぬ美しさに飛び上がり振り向く。思わずチルノの頭を取り落とした。
ぶへ! 痛い痛い。ぺっぺ。
支えを失い強かに土を食んだチルノが悲鳴を上げた。
ああ、折角の子守唄が台無しになっちゃった。
警戒する翡翠の視線も何処吹く風。マラカイトはころころと笑う。
その歌の様な鈴の音に反応したのは翡翠ではなくチルノだった。
立ち上がったチルノは背に庇おうとする翡翠に構わず前に出る。
引き止めるべく手を伸ばす翡翠。しかしその手は届かぬままに竦んだ。
いつか見た、凍てついた瞳。
どうして、いなくなっちゃったの?
チルノが堤防決壊寸前の瞳でマラカイトを睨みつける。翡翠も一瞬の戸惑いの後漏れなく便乗。
お風呂で温まりたくて一度帰ったの。あなたが一晩中私の足を枕にしてくれたもんだから冷えちゃって。
不穏な色に困惑するマラカイト。愛想笑いで茶濁しにかかる。
また一緒に謡ってよ。と力一杯ストレートなチルノ。
それにすっかり毒気を抜かれ、見つめ返して承諾一つ。
ぱっと笑顔が花開く。その現金さがチルノの美徳。
チルノちゃんはお昼寝の時間だから。和んだ空気に翡翠が切り込む。
それなら私に任せて頂戴。食い下がるマラカイトに遠慮は無い。
しばし睨み合った貴石は同時にチルノを射抜く。
さあ、と急かすは険しい翡翠。
どっち? と鼻息荒くマラカイト。
チルノは腕を組んで一思案。甲乙付ける基準に悩む。
チルノをあやして幾年月。翡翠の抱擁は夢の心地。
優しい歌声が安眠に誘う。マラカイトの囁きも捨てがたい。
考えれば考える程に、考える事も馬鹿らしい程、単純な結論が出た。
みんなで謡おう。
チルノは二人の手を取り謡い始める。
待ってましたと自慢の喉でチルノの調べに華を添えるマラカイト。
戸惑いながらも妖精らしく楽しい事には目が無い翡翠。
やがて二人も開いた手を繋ぎ、円を作って楽しげに旋律を奏で始めた。
三人の輪は次々と加わる妖精達の色を受けて多彩な模様を形作る。
その中心でお姫様に憧れるチルノは今に恋をする。
無垢な少女のささやかな夢に、マラカイトの歌声が応えた。
チルノの願いは歌に乗り、巡る風が天へと運ぶ。
南中の太陽が妖精達のミュージカルを鷹揚に見守っていた。
§
試行五日目
乾いた熱砂がチルノの足を執拗に舐める。
一面に広がる褐色の大地。滑らかに均された塩の山。
彼女の通った後にだけ、小さな足跡がどこまでも続いている。
歩を進めるたび滴る汗の痕跡は次の歩を待たず消える。
何故歩き続ける事が出来るか。信じる物があるから。
頑なに愚直に。ただ信じて焼けた塩を踏み続けた。
念願叶い、彼女は灼熱の大地に浮く陽炎を見る。
前方の幽らめきは炎天の陽光を気丈に跳ね返し僅かな恵みをそこに湛えていた。
熱射に晒され急速に気化し絶え間なく吹き上がる蒸気は、
通る陽光の色を借りては尚凛々と輝いて幽かな蜃気楼を見せていた。
それは皮肉にもゆらゆらと燃ゆる蝋燭の灯にも似ていた。
手を伸ばせば消え入りそうなそれに、チルノは確かな確信を持つ。
つい先程までは鉛の様に重かった足を奮い立たせた。
一息に駆け寄り、危うげなそれに迷う事無く飛び込んだ。
飛沫が上がり疲弊した体に潤いが染み渡る。
途端、水に焼け石を投げ入れたのか如く、水面が癇癪を起こす。
薄い木片を割り砕く様な乾いた音が幾つも響いた。
水を得て急速に冷えたチルノ。
それにより更に急激に冷やされた水が、水面に膜を張っては割れ、割れては膜を張る。
音が止んだ時には、そこは彼女の肌に合う涼しさに落ち着いていた。
彼女は水から惚けた顔だけ出して天上の灼熱を睨む。
照り付ける熱線は微塵の容赦も無く。
次いで歩んできた道程を振り返り見る。
地平の彼方から彼女を追う様に、点々と黒い跡が続いていた。
小さい物は彼女の足跡。大きい物は干上がったオアシスだった。
示し合わせた様に一定の間隔で存在を主張するそこにたどり着く度、
彼女はここが何者かの手の平の上なのではといぶかしんだ。
しかし一度恵みが絶え乾きに晒されれば全ては吹き飛んでしまう。
何の疑いも持たず彼女は次のオアシスを目指すのだ。
明日を憂うのも、心の底から感謝するのも、出会った瞬間だけ。
冷水の心地良さに放心し無我を漂った末一息をついた頃には、
オアシスは心もとなく干上がってしまう。
故に彼女は何時も、大事な一言を言いそびれていた。
たった一言感謝の言の葉を紡ぐ、ただそれだけの事ができずにいた。
チルノの小さなアゴを伝い最後の一滴が滴り落ちる。
のそりと立ち上がると、最早求める事しか知らない彼女は迷わず歩き始めた。
次のオアシスの存在を、当然ある物と信じ疑いの欠片も持たず。
§
──失礼します。
──なんだ人殺し。研究の邪魔だ。
むべも無く、男は背中を向けたままに言い放った。
女は表情を変えず、淡々と言の葉を並べる。
──上は、今回結果を出せなければ、ここに回す研究費及び施設維持費全てを打ち切ると。
男は突如くぐもった笑みを漏らした。自嘲めいた、狂人の様な。
──あんたはいいな。ここを出ても、俺みたいなのにくっついてりゃ綺麗な箱の中に住めるんだ。
──死にたいと思う事は多々ありますが。
──俺には次の当ても無い。ここを追われれば生きてはいけない。それもあんたのせいだ。あんたは人殺しだ。
──そうでしょうね。あなたもきっと消えてしまう。
──……恐らくは、次で最後だ。もうサンプルがもたない。頼む、もう一度だけチャンスを……。
応えの代わりに、扉の閉まる音だけが重く響いた。
一人残された男は、禁を破り震える手で煙草に火を点ける。
しかし定まらず、零れた煙草から上がる煙を、同じく定まらぬ目線で追っていた。
§
日時不明 蠱惑のペリドット
チルノは友と誘い合わせて夕暮れの森を遊ぶ。
既に門限は過ぎている。しかし禁を破ったわけではない。
今日の遊びはかくれんぼ。日の高い内の彼女は浮き彫りの闇を纏う。
彼女を相手取るなら空が濃紺に染まる時分が旬の刻。
そう主張するチルノに、翡翠も渋々承知した。
もーいーかーい。まあだだよー。もーいーかーい。もういいよー。
かくして鬼のチルノは闇に紛れる友を走査する。
しかし彼女は夜の森に一日の長がある。
枝を払い藪を除け息遣いを求め耳を欹てるも、そう簡単に尻尾は出さない。
貴石の輝きを求め右へ左へ。時々躓きながらもめげずに探し続けた。
どうしよう。
チルノは空を仰ぐ。頭上では無数の星達が消え入りそうな個性を主張していた。
夕暮れ過ぎてとっぷりと暮れた夜空。
既にかくれんぼが成立する条件を逸していた。
まさか一回も終わらない内に真っ暗になるなんて。さりとて時間とは無常なる物。チルノは思案する。
諦めて降参を宣言するか、継続するか。
チルノの山盛りの負けん気は降参を受容しない。そして何よりも。
全然遊んでないのに終わるのはいやだ。そうと決めたら萎えかけの心に気合を一つ。力いっぱい頬を打つ。
風船が割れる様な鋭い破裂音が響き渡り、加減を誤ったチルノは頬を押さえて蹲る。
じんじんと痛む頬を摩っていると、不意に背後からくすくすと小さな笑みが漏れた。
災い転じて福となる。それがまさにチルノの心情。
音のした方に目を凝らす。薄らと見える茂みが風も無いのにか細く揺れている。チルノは心の中でにんまりと白星を付けた。
ルーミアみーつけた。たっぷり探しちゃった。
しかし返事は無い。漂う違和感に小首を傾げるチルノ。
タンザナイトは嘘を知らない。潔い彼女が見つかって尚息を潜める筈も無く。
待たせ過ぎたかな。
警戒せず近付くチルノ。違和感の意味に気付いた時には遅すぎた。
揺れている茂みは一箇所に留まらず。前で後ろで左で右で。
よくよく目を凝らす。空気が、地が、闇までもが蠢いていた。
絡み付く剣呑な気配に、思わず羽がピンと張る。
闇に潜むそれは確かな存在感を主張しながらも、見えぬチルノを嘲笑うかの様に沈黙を保つ。
ルーミア、何か言って。
それは希望。わかっていても縋りたかった。しかし沈黙は破られぬまま。
だ、誰かいるんでしょ、出てきなさいよ!
震える声で精一杯の虚勢。
それが薮蛇となり、一斉にチルノに注がれる不穏な百の視線、千の視線。
流石のチルノも冷や汗滲む。心が恐怖に塗り潰される瞬間。
前後不覚な闇の中、敵対者だけに夜目が利く。
動くに動けず逃げるに逃げられず。
深い闇に奥歯の鳴る音だけが虚しく響く。
そんなチルノを見兼ねてか、先に動いたのは闇に潜む者。
暗闇の中から溜息が一つ。チルノはそれを異形の合図と取った。
目を堅く瞑り耳を押さえその場に蹲る。
睨む恐怖からただ目を逸らす。対策ならぬ対策が、今のチルノの精一杯。
震えるチルノの背を優しく撫ぜる手が一つ。
びくりと震えたチルノに、静かに声がかかった。
そんなに怯えなくてもいいじゃない、失礼しちゃうわ。
少しおどけた調子のその声に、チルノは警戒しながらもゆっくりと顔を上げる。
目を開けた瞬間、チルノを飲み込む鮮烈な光の奔流。
幻孕む灯が情熱の鼓動を刻む。夜のしじまを妖しく照らすは無数の蛍火。
暗黒に慣らされた目には蛍の暖光すらも鋭利に刺さる。
顔を顰めながら声の主を探す。ややあって捉える愛しい色。
しかし目が慣れるに連れ気付く。捕捉したそれと求める色との間にある齟齬。
そこにあるのはつぶらなペリドット。愛しい翡翠とは似て非なる物。
途端にチルノの顔が凍り付く。裏切られた想いに視界が歪む。
ごめんね悪気はなかったんだけど。
その言葉に一瞬反応が遅れたチルノ。ペリドットは怪訝な色を浮かべて覗き込む。
本当? おずおずと聞き返すチルノに、無邪気にくすりと微笑み頷いた。
チルノはほっと胸を撫で下ろす。解れた緊張が涙腺を苛み、一筋の雫が零れた。
それを見たペリドットは妖艶な笑みを湛え、チルノの頬に手を添えてその涙を舐め取った。
飛び上がったチルノを見て悪びれた様子も見せずくすくすと笑う。
水に大きく依存する氷精。その形は住まう土地の水を映す。
ねえ、あなたの家に連れてって。
突然の要求に戸惑うチルノ。不快な湿り気を帯びた衣服が、目の前の貴石への警戒を促していた。
なんであんたなんか。沸々と怒り込み上げるチルノは言葉を飾らず。
それを聞いたペリドット。無言でチルノの腰に腕を回し抱き寄せる。
あなたがこんなに甘くて、可愛いから。
きっと素敵な水場に違いない。唇さえ触れそうな距離で、ペリドットは囁いた。
トマトの様に真っ赤なチルノ。たじろぎながらも強がって見せる。
そこまで言うなら、仕方ないわね。
ペリドットの抱擁を押し退けたチルノ。熟れた顔を隠すように踵を返す。
先を行くから着いて来て。
背中越しにそれだけ言うと、笑う膝をぎこちなく動かし歩き出す。
それを見て満面の笑顔の彼女も、素直に従い着いていく。
その口から漏らした小さな安堵の溜息に、チルノは気付かない。
一時はどうなるかと思った。血の上る頭でチルノは考えた。
それはペリドットにしても同じ事。
老い先短い大勢の仲間達を抱える彼女は蛍の女王、リグル・ナイトバグ。
餌場の確保もままならず、途方に暮れていたのは彼女だった。
それを救った凍れる女神と、それに巡り合えた幸運に、顔は笑い心で泣いて感謝した。
チルノは不意に立ち止まる。消えぬしこりが心に一つ。
なんだろう、まあいいや。
解決を見ぬまま、後ろを歩くペリドットに急かされる様に帰路を急いだ。
もういいよー。もういいよー。チルノー。もういいよー。
寂しげなタンザナイトの声が寝息へと変わるのは、もう少し先の話。
§
何時からか心の内に棲み付いた物。
或いは諦めにも似た感情を伴うそれは、失敗を重ねる毎、一つの形となって男の脳裏を静かに埋めた。
幻想が幻想として在り続けているとするのなら。
何故彼女達、妖精石はここに在る。
そこには確かな矛盾があった。
膨らみ続けるそれは、無視できない大きさへと成長する。
男の積むあらゆる業に悉く唾を吐いた。
妖精石は語らない。
そこに僅かな幻想と、その残り香を預けたまま。
幻想は、何処に在る。
エデン幻想。在りし日の姿を幽かに閉じ込めた貴石、妖精石。
自らが犯す業の先駆が定義したそれに口付けを一つ贈り、式の口にねじ込む。
──抽出再開。
命令を受けた式が伝える膨大な文字列を祈るような目で追い続けた。
皮肉なる土塊は、幻想を求め幻想を逸する。
§
試行最終日
今を見失った惰性の日々が連なり行く中で。
チルノは紙屑に埋め尽くされた机に向かいしゃにむに筆を走らせる。
しかしその筆はピリオドを打たずして唐突に止まった。
行き場を無くした先端が無垢な白地に黒い穢れを広げていく。
広がれど。広がれど。薄まる事の無い黒は、彼女の瞳に映り込み、交じり合う。
紙に降りた言の葉は一つだけ。後を継ぐ文字は無い。
言霊成らず、のたくる蚯蚓が紙面を這うばかり。
気に障るそれを便箋ごと握り潰すと筆と共に壁に叩きつけ、力無く机に突っ伏す。
後に響くは押し殺した嗚咽。チルノの手紙に届かない。
会いたい人がいる。会えない人がいる。
一方的な手紙を何百何千と書き連ねようとも。
行き着く果ては、引き出しからはみ出した封書の山。
会いたい。深層に根付いた思いは消えず。
手の届かないどこかで、静かに疼く痛み。
果ての無い想いだけが無為に募り、忘我の最果てへと誘う。
なぜ苦しむのか。誤魔化してしまえば楽になれるのに。
しかしその選択は彼女の内には存在し得ない。
なぜなら幻想を愛する事を止めた時、彼女はきっと消えてしまうから。
チルノは立ち上がり、窓の外を見る。
銀の代わりに緑が萌え、降りる涙は舞う暇も無いまま忙しなく地を叩いていた。
全てはその目が求めぬ色。生が謳歌する灰色の世界。
色の無い世界の中心で、音も形も、全てが変わらない。
変わる事を願う彼女は、宛の無い手紙を書き続けていた。
泣いている暇は無い。便箋を敷き、筆を取る。
言いたい事、伝えたい事は無限にあった。
しかし心底願う事は一つしかない。
だからこそそれを書いてはいけない。そこで筆が止まってしまうから。
部屋を満たす緩やかな時の流れ。
それに押し流されまいと、彼女は筆を通して語りはじめた。
あたいは、元気です。
§
──止めろ。
従順な式が吐き出した瑕だらけのアクアマリン。
それをポケットに詰めた男は別の式により自動化された扉を抜けベランダに出る。
燻る煙草が湧き上がる不安を麻痺させてくれる。
通気口の傍で煙を吐いても、誰からも文句は言われない。
男は煙草の端と共に自由を噛み締めた。
回らない換気扇。点かない灯り。
男が見上げた古巣は、今はまるで巨大な棺桶の様相を呈していた。
──何がエデンだ、新天地の糸口等と踊らされて馬鹿を見た。
灰色のパノラマを一瞥し、汚れた白衣は呟いた。
§
日時不明 妖精石
湖の弾幕ごっこ。今日のチルノもきんきんに冷えている。
それは得意の中でも上の上といきり立ち、剋目せよと躍り出る。
やれ、この副将に挑む馬鹿はどこのどいつだ! そいつはきっとあたい以上の馬鹿だ!
すっかり乗り気で副将を気取る。
なぜ副将か。大将はちゃんといる。
大好きな大将に一番可愛がってもらえる副将が、チルノの指定席。
相手はリグル。ペリドットの瞳が走れば幻想の蟲達はレギオンを組み、マーチを開始する。
チルノも認めるなかなかの実力者。
だからなんだと手を打ち鳴らし、さあ来いと咆えた直後に待ったをかける。
手が痺れてる。少し待て。
憎めないから共に居る。リグルは後にそう語る。
遊びは終り、戦果を早く大将へ。力の限り羽ばたいた。
体は上へ上へと上がり行く。浮力は十分。だけど推進は悪いな滑った方が速いかも。良しならば。
目の前に広がる湖に、無色透明の橋を架ける。さあ急いで帰るぞ大将の元へ。凍れ凍れ、凍ってしまえ!
一方大将。聳え立つブルーハワイ恐山が雪崩を起こすのを見て、存外に遅いなと溜息を吐いた。
ただいまレティ! 鼻息荒く飛び込んで来たチルノに、大将は一瞬仰天した後、ほっと胸を撫で下ろす。
どうだった。大将は優しく尋ねた。見れば分かる、ボロボロの身なり。
ふんぞり返って鼻を鳴らし、チルノは堂々と報告する。負けました美しい。
正直者はあなたかしら? ご褒美は絶品の恐山よ大声は出さないで雪崩が起きるわ。もう起きてます大将。
結果なんてどうでもいい。元気なチルノを優しく見守る大将が、チルノは堪らなく好きだった。
チルノと愉快な仲間達。組み木の家で切り株仕立てのテーブルを囲み、一同に会する。
ルーミアの暗幕にリグルの照明。
二つのコントラストが幻想を奏で、晩餐は特別な物となる。
これに聖母の囁きがあれば。しかしミスティアは食事にご執心。
謡っている間は食べれない。太い歌手人生にミスティアが見出した法則だった。
所在無げに食器が並ぶ宴も酣。あらあら困ったわとレティ。
もうちゃんとしたチルノの服が無いの。全部ぼろぼろ、困ったわ。
チルノ、失意のどん底に沈む。世界が自分中心に回っていない事を嘆き悲しみ喉を震わせて泣いた。
私の服を一つあげるよと大妖精。チルノに笑顔の花が咲く。
でも、それも破いちゃったらとじわりと痛ましいチルノ。
レティがリグルのおでこをつんと突く。次は少し手加減なさい。
彼女の涙は甘いジェラート。泣かせないでよまた太っちゃう。
ずっしりと定位置を確保するレティに、全員が腹を抱えて笑った。チルノも笑った。
笑って泣いていい時分。チャントがしめやかに晩餐のトリを飾る。
昨日も今日も、そして明日も続いて行くだろう幸福。誰もが今を感謝した。
§
雑然とした夢の跡。そこが彼女達の遊び場。
ふざけてじゃれあい、やがて疲れて寄合い眠る。
積る残骸が彼女達の毛布。
瑕だらけの妖精石。遠き幻想に夢を見る。
日時不明 化石色の妖精石
出たい。
出たい。出たい。出たい。
切ない痛みが胸を埋め、チルノは無為に空を掻く。
アメが投げ込まれる事が無くなって随分経った。
しばし狂気の坩堝に飲まれ自我を失いかけていたチルノも一先ずは落ち着き、そして今また狂おうとしていた。
身を焼く苦しみは抜けた。しかし喜びも無い。魂を掻き毟る孤独だけが降りていた。
表情を失った次は心だった。
それを手放す事を彼女は拒んだが、何者とも触れ合いを無くした心は緩やかに形を崩していった。
焦るのが億劫になり座り込む。
チルノはただ一人、手の平をじっと見つめる。
この手は何を掴んでいたのか。彼女はゆっくりと思い返す。
巡る螺旋は色とりどりの奔流。どれもが眩しく暖かい。
チルノが探していた物、本当に欲しかったもの。そこにはあった。
一つの手。二つの手。三つの手。四つの手。五つの手。たくさんの手。
それらは大きく或いは暖かく、それでいて不快では無かった。
チルノはついと立ち上がり氷鏡の前に立つ。
何時からか、閉ざした氷で覆ってしまっていた。
時が止まればいいと、自分の歩みだけを止めていた。
昨日までは孤影を映すだけの虚ろな鏡。
今ははっきりと扉が見える。
添えた手に力が篭り、仮初の鏡は脆く崩れた。
早く、皆の所へ。
開け放たれたドアの向こうから春の日差しが差し込む。
人が捨て去りやがては忘却の彼方へ追いやったからこそ、幻想足りえた幻想。
再び人がそれを求めた時、それは幻想では無くなる。
多くの者が願わぬ虚無の果てに、罪無き幻想を迎え入れるエデンは在った。
懐かしい香りがする。友の語らいが聴こえる。
遠くに、しかしはっきりと。
最後の妖精石が音も無く砕け散り、暖かな日差しが差し込む。
それを全身に受けたチルノは伸びを一つ。満面の笑顔で額に浮いた珠の汗を拭う。
チルノは振り返らない。もう迷いはしない。
友は皆等しく彼女を迎えるだろう。それが既に彼女の形に非ずとも、友の形に非ずとも。
さあ、誰に会いに行こうかな。でもその前に、まずは大ちゃんに謝らないと。
踏み出した一歩が麗らかな陽気の中へと溶け込んでいく。
その優しさに微笑みを一つ、チルノは軽やかに飛び出した。
*** 多数の投稿するまでも無いSSスレ住人の方々に多大なご迷惑をお掛けしました事、
*** この場を借りて深くお詫びさせていただきます。ごめんなさい。
記憶は褪せてしまっても、思い出には色がある。
想いは冷めてしまっても、宿る色には熱がある。
試行初日
チルノは常々、出よう出よう、今日こそ出ようと考えていた。
ヒンヤリ冷凍庫は嫌いではない。むしろ理想郷。だがあいにくと狭い。
それさえ解決されれば理想郷を一山越えて桃源郷なのだが。
しかし理想郷で十分な理由があった。
足りぬ事に危機感が無いのは、彼女がまだ未熟な蕾であったが故か。
否、足りていた。彼女には広さも待遇も関係は無いのかもしれない。
理想郷を桃源郷、桃源郷をエデンたらしめた要因は、チルノに与えられるアメにある。
その名も今世紀最後のガリガリスイカポーション安打棒。
チルノが命をかけたのは愚かなる者の欲望を啜る魔の氷菓子。
これがチルノの住まう高級冷蔵庫の室内へと日に3回、断続的に投与される。
この3回という数字がまた巧妙にして狡猾だ。
日に3回でそのペースは8時間毎。
腹が膨れ眠くなるのが1時間。目がさめて口が寂しくなるのに3時間。禁断症状が6時間。
諦めを感じるのが8時間。という按配。諦めと同時にアメが来るのだ。
チルノはそのたびに、エデンを夢想する。
そして8時間。給油口もとい餌付け穴から咎が放り込まれる。
タシャン。大好きな重量が、床に積もる氷晶を穿つ音。
跳ね起きたチルノは2秒で対象の捕獲に成功。野獣の様にパッケージを引き裂き、貪る。
踊る舌から撒き散らされた欲望の残滓はコキュートスの気温で宝石に変わる。
故にチルノは気付かない。己の醜さに。
飼いならされた豚が、そこにいた。
四方は重力を無視して隆起する氷晶を纏った壁に塞がれて。
唯一冷気の逃げ口ともなる給油口付近から垂れる水滴が壁の一角を均す。
薄い氷膜はまるで鏡の様。チルノは水鏡が嫌いだった。誰かにその日のパンツを覗かれるから。
普段満足に鏡の中の自分を観察する事の無いチルノは、気だるい体を起こして氷鏡の前に立つ。
映し出された孤影は有明の弦の如く、丸く流れる白いラインを美しく主張した。
禁断症状から1時間。アメを求め悶える無量の刻。チルノが己にできる慰みはこれぐらいのものだった。
出たい。
§
──戻しておいてくれ。
透き通ったアクアマリン。男は掌で転がしていたそれを女に手渡す。
──今度こそ上手くいきそうですか?
女はその場を立ち去ろうとする男の背に喰いつく。餓鬼の使いでは無いと。
──成果を上げるためにもじっくりやらせてもらう。
男はそれだけ言うとその場を後にした。
残された女は溜息を一つ。
女が一人赴いた一室。
立ち並ぶ背の高い棚の一つから、透明な箱を取り出す。
女が手に取った小さな硝子のケース。
蓋を開け、アクアマリンをそっと納める。
ぼろぼろの先客達が出迎えるかの様にかちゃかちゃと音を立てた。
とある場所、とある一室。淡い光が俄かに漏れた。
§
日時不明 乳石英の面影
粉雪が降る。
チルノは両手を広げ、全てを受け止めようとした。
貪欲な者の手を逃れた者達は、土に積りやがて彼女を儚むように消えてゆく。
しゃりしゃりと小気味良く彼女が歩く。
降っては溶け、溶けては消える者達への手向けか。
彼女は白の景色に良く見える様、彼らがそこに在った証を刻み続けた。
彼女はこの季節が好きだった。
白く生まれ、多くの色を受容する優しさをもちながら。
より白く、ともすれば色も無く消えゆく。
そんな彼らが、彼女はたまらなく好きだった。
一面の銀世界に一際透き通る乳石英をチルノは見つけた。
それは人の形をしていた。憂鬱な表情で彼女は何処か遠くを見ていた。
視線の先に何があるのかと、チルノはそれを追う。
そこにあるのは、はらはらと粉雪散らす白む天蓋だけだった。
再び視線を戻す。やはり何をするでも無く宙を見上げていた。
チルノにはもともと我慢性など有りはしない。
物怖じせず、意を決して彼女に話し掛ける。
威勢の良い声で名を名乗り、まくしたてるチルノ。
乳石英は一瞬その様相を曇らせた後、笑顔で名を名乗った。
その笑顔と共に、彼女の体温が空気を伝いチルノに届く。
それは雪よりも、鉄よりも、チルノよりも。尚冷たい。
チルノは一瞬怯んだが、その位では好奇心が起こす濁流の堤防にはなり得ない。
なんで、寂しそうな顔で空ばかり見ていたの?
その質問に、彼女の笑顔は静かに崩れた。
能面の様に表情を失った顔で、彼女は訥々と語りだす。
私は終末を知り、再生を与える。
だけど彼らは良く思わないでしょう。
栄華を極めた彼らを悉く嘲笑い終末へと誘う私を。
彼女は何処か寂しげで。
四季の一端を司りながらも一切の恵み無く、多くの者達へ幕を引く役を担う彼女。
彼女の吐息は氷精すら凍える終の調べ。
一瞬でも恐れを抱いた事を、チルノは心底悔いた。
強くなりたい。何度そう思っただろうか。
逃げ惑うだけの日々、守られるだけの自分。
打破できるものならと幾度も願った。
チルノは彼女に、自分が願った未来の一つの結末を見た。
力という物が万能ではない事を、チルノは知った。
私は終りと始まりしか見る事を許されない。
だからあなたに見届けて欲しい。
見れぬ私に教えて欲しい。始まりと終りを紡ぐ、世界の在り様を。
彼女はチルノよりも一回り成熟した体をもつ。
背丈も顔も上下の膨らみも、桃夭恥じ入る程に美しい。
しかしチルノよりも幾分か大きな手だけは、
不相応に頼りなく見えた。
それは何一つ持つ事の適わない、赤子の手だった。
次いでチルノは己の手を見た。
若い紅葉の様に小振りなそれは沢山の思い出を抱え込み、今にもはち切れんばかりで。
欲張りな手は、夢を握り締めまどろむ幸福を知っていた。
彼女は再び遠くの空へと視線を投げる。
見るという目的に於いて、それは酷く曖昧だった。
彼女が見ている物も、見るべくして見ているのではなく。
そこだけを凝視する事で、それ以外の全てを瞳に映す事を拒んでいる様にも見えて。
一切の未練を、残さぬ様に。雪げぬ爪痕を、残さぬ様に。
チルノはそんな彼女に手を伸ばそうとして、やめた。
自分の役目は決まったのだ。すべき事は、一時の慰めでは無い。
夢の続き、引き受けます。
チルノは駆け出す。多くの物を見るために、多くの事を感じるために。
乳石英がチルノに向けた、優しい笑顔の中の一点の既視感。
それは大好きな翡翠の瞳の中に映りこむ、縋る様な自身の瞳。
あの人は、あたいだ。きっと、応えてみせる。
乳石英の視線の先で小さくて大きな背中が、少しずつ遠ざかっていった。
§
試行二日目
そこには多くの妖精達の行き交いがあった。
チルノはその中に居る。
誰に求められる事も無く、誰に求むる事も無く。
抱えた膝が彼女の持つ全て。
どうしようもなく、彼女は独りだった。
する事も無く佇んでいると、足元に小さな一輪の花が咲いているのを見つけた。
それはまるでチルノを慰めている様で、彼女はそっとその花を摘んだ。
直後、花は無残にも凍りつき粉々に散った。
しばらくして、またもチルノの傍に花が咲いていた。
彼女は一瞬微笑んで、膝に回した手を、ぎゅっと握り締めた。
周りは春の賑わいがあった。
摘めば死んでしまう花達は、尚チルノの周りを隙間無く埋めていく。
幾度も手を伸ばしかけた。その度、強く体を強張らせた。
何時から、こうなってしまったんだろう。
彼女は身を縮こませたまま、咲き乱れる花に追われていた。
それは決して望んで等いない、未来だった。
§
男は難解な記号を写す式を睨みつける。
男の作業は難航していた。
多くの期待を一身に担うその大事は、成せば巨万の富と名声を得る事だろう。
男は躍起になっていた。今度こそ、と。
取り上げた煤けたアクアマリン。
汚れが目立ってきたそれを、清潔な布で愛でる様に丹念に拭き上げ、式の口へと放り込んだ。
──良い結果を出してくれ。
式の感覚器が集中する電子の揺り籠が、ゆっくりと動き始めた。
§
日時不明 翡翠の抱擁
ずっと守られていた。
妖精は弱い。常に危険と隣り合う。
十字架を背負わぬ彼女達。生来の素養は闘争を理由と認めない。
人が伝える彼女達が起こす奇跡、結局は彼女達においても奇跡でしか無い。
捕食者に比べ彼女達は余りにも無力だった。
しかし彼女だけは強くあろうとした、それ故に優しかった。
一度脅威が近付けば、彼女の統率のもと妖精達は難を凌ぐ。
翡翠の髪が靡く度、泣き虫チルノに笑顔が戻る。
いつからだろうか。逆に彼女を守る様になったのは。
木霊の嘆きが悪意の接近を妖精達に伝えれば、チルノ含む妖精達は陸を離れ湖上へと逃げる。
悪意の殆ど。水を恐れ空に疎い無能な人妖はこれで凌げる。
残る内凡そ半分。尚しぶとく留まるなら、水を母とする妖精が霧を出し、晴れる頃には平穏が戻る。
稀有な一握り。岸から弓引く者あれば、逃げの一手に挑発を織り交ぜ誘導。不意の流れ弾を受けた不夜城が動けば事は済む。
水に明るく空に通づる異例が、統率を失い散り散りに逃げる妖精達へと押し迫る。
阿鼻叫喚の混乱のさ中、明日の為動く事が出来たのはやはり彼女だった。
武器も無ければ奇跡も無い。精々が時間稼ぎ。彼女はそれを心底納得していた。
妖精達を背に庇い踊り出た彼女へと、欲望に濡れ光る上顎が迫る。
その様子を呆然と見ていたのはチルノだった。
一目散に散開する妖精達に倣わず、理不尽に今が奪い去られんとする不条理をただ見つめる愚行。
不意に、肌を裂く様な冷気が水面を駆け抜けた。
這い上る赤は心を満たし、小さな胸は張り詰め、骨の髄までが冥く染まる。
立ち込める厳冬の香りがチルノの涙を砕いて散し、それは顕現した。
湖底を穿ち天を衝く白銀の塔。舞い散る飛沫は、一瞬の間をおいて硝子の雨を降らせた。
後に残された無音の世界で、一溜りも無く掻き消えた怪生の名残が湖水に薄まり散ってゆく。
内に生じた未知の胎動の心地良さに慄き、チルノは縋る様に愛しい翡翠を探す。
見開かれた瞳の中にチルノはいない。
災いを映す鈍い原色を湛えた翡翠。昨日までは何よりも気高く頼もしかった輝き。
あたいは化け物だ。
ついと踵を返すチルノ。彼女は無理矢理向き直らせ、抱きすくめた。
言葉を経ずチルノは感じた。とくんとくん。掛かる吐息熱く、伝う鼓動早鐘の如く。
小刻みに波打つ翡翠の上絹が物語る真実。子供心に悟った。何も望んではいけない事を。
身悶えするチルノ。しかし彼女はチルノを離しはしなかった。
切ない程に抱き締める。緋は熱を失い、黒は優しさに満ちる。
チルノの目に透き通る海を見て、彼女はもう一度深く抱き締める。
大丈夫だから。その声の暖かさに、チルノは夢の中へ落ちた。
妖精達の可愛らしい悲鳴に混じって豪気な声が響く。
泣き虫チルノはもういない。ヤンチャが過ぎると彼女は嘆く。
しかし威張る事は無く、責務の重さに腐る事も無く。
今を守る為の物。それが力に対するチルノの認識。
唯一の不満。弱き日の憧憬は今は隣に。
それがチルノは悲しく、嬉しかった。
例え暖かい背に甘える事が、もう許されないのだとしても。
チルノの通った後に、点々と連なる落し物。
拾う事はせず、振り返りもしない。
望んでいた事、当たり前の日常。次々と捨てて。
その手に凍てつくナイフを宿したその日から。
弁える事で、応えていこうと誓った。
翡翠の抱擁の温もりを、二度と離さぬ様に。
あたいが居る限り、大ちゃんは誰よりも強い。
愛される者が奇跡を起こす。その奇跡はチルノに委ねられ。
どこか寂しげに、しかし暖かく微笑む大妖精。今日もチルノは守られている。
§
試行三日目
その手は確かに繋がれていた。
暖かかった。きっとそうだった。
柔かかった。そうに違いない。
優しかった。そうだったかもしれない。
拒絶する事など。無かったに、違いない。
そこに断定は無かった。
繋がれていた筈の手。今は何も繋がってはいない。
その事実だけが示されていた。
伸ばされた手の先を見遣れば、そこには冥い闇が降りていた。
一寸先は何も見通せぬ闇の果てに、その温もりは沈んでしまったのだろうか。
闇を見つめる彼女は、己の手に再び問い掛けた。
暖かかったのか、柔かかったのか、優しかったのか。
本当に、自分を拒んではいなかったのか。
パズルのピースの様に収まる形。
手という物を、神はそう作った。
ならばなぜ。この手は片方だけのまま。
チルノは闇を見つめる。その中に、繋がっていた筈の片方を探そうと。
闇は漣一つ立たぬ水面にも似た様相を映す。
いくら目を凝らしても、いくら願っても。
彼女の前には常に同じ色しか映す事は無い。
そこには手は無かった。彼女が繋いでいた筈の手は、何処にも無かった。
上も、左も、右も、下も、全ては闇。
闇の世界の中心、くり抜かれた様に不自然に明るい場所に彼女は居た。
闇の中に手を突き入れ、やんわりと開閉する。
それに感触は伴わなかった。
あの手はどこへ行ってしまった。
求めていた手は、どこへ行ってしまった。
形を失ったそれは、どこへ行ってしまった。
不意に、闇の中の手が暖かい何かに包まれた。
はっとして握り返した瞬間、その温もりは嘘の様に掻き消えた。
チルノは今度は両手を突き入れて、忙しなく闇の中を掻いた。
その様子を嘲笑うかの様に、降りた闇はそれきり夜の静寂を保ち続けていた。
まるで、今ので最後だとでも言わんばかりに。
§
男が取り出したのは、幾らかの小さな瑕をこしらえたアクアマリン。
──これでは、他のと同じじゃないか。
最後まで取っておいた、最も状態の良かった貴石。
気付けば何も得られぬまま、既に他のそれの初期段階と並ぶ程度にまで劣化が進んでいた。
漏れた溜息は、歪な球の表面を俄かに曇らせる程に大きかった。
男は一人報告書を纏める。一瞬の躊躇いの後、整った字を静かに連ねた。
──経過、極めて良し。
§
日時不明 タンザナイトの憂鬱
チルノの地図は青を総合的に使用する。
水を百般に応用するチルノは、遊び場も湖で事足りていた。
それでもチルノもお年頃。たまには遠出の刺激が欲しい。
そうと決めたらチルノは早い。仲間の誘いも右から左。
翡翠手製、蔓草のポシェットが悲鳴を上げる。冒険の必需品を手当たり次第ぐいぐいと。
花蜜の小瓶と木彫りのお椀とおまけに木彫りのスプーンと。
木組みの小屋から一人飛び出し、近場の森へといざ切り込む。
縦横無尽に条網走る。蛇腹の道は天然迷宮。
にんまり笑顔のチルノ。期待を胸に勇ましく踏み出す。
歩いて歩いて休んで歩いて。
も一つ歩いてふと気付く。視界の先に降りた夜。
闇孕むそれは痩せた古木の様であり。
一歩進めば案山子の様であり、二歩進めば人の様であり。
それは黒く美しい人の形。見知った姿、それは妖。
チルノは慌てて目を逸らす。己の不運をたっぷり嘆いた。
チルノは彼女が苦手だった。嫌いな訳では決して無い。
宵闇従え何時も一人で佇む彼女。
チルノの目には幾分不気味に映りこむ。
それでも害が無ければ出かけは一人で帰りは二人。
害があるからチルノも渋々対策を練る。
目が合うと彼女はお決まりの台詞を投げかけて来る。
そうで無ければ女神像との差異は無いのに。
遠く聳える尾根の彩りを愛でながら彼女へと近付く。
彼女は相手の意見を聞く謙虚さ、納得が行かなければ肯定と見なす大胆さを併せ持つ優秀な逸材。
しかし問い掛けさえ未然に防げば一先ず無害と学習した。
日の照る時分チルノの周りは夕暮れだ。息遣いさえ感じ合う距離。焦がれる温度が頬を噛む。
違えば漏れなく一触即発。その様さながら高綱渡り。
頭脳よ叫べ。チルノは思案に思案する。
一、待ちに徹する。
彼女は相手の出方を窺う。ならば打って出ずに焦らす。
却下。我慢比べは経験済み。惨敗を喫し必死の説得実に一昼夜を経た。
二、後ろから延髄チョップ。
彼女は両翼に相手を巻き込まぬ様気遣う。密着すれば難なく背後を取れる。そこに光明あり。
却下。一度目こそ効いた。しかし二度通じるはずも無く。真後ろを向いた首には流石のチルノも泣いて励まされた。
三、スカートめくり。
彼女の武器たる突出した食欲が他を押し退けつつあるだけで、彼女とて根底は乙女。隠された純情を暴く。
却下。これも一度目は効いたが二度目はパンツも下げてようやく動じた。それ以上を知らぬチルノに三度目は無い。
千思万考報われず、チルノの顔に難色浮かぶ。
のぼせた頭に諦めが去来する。しかし。
ぐー。
間の抜けた腹鳴は物言わぬエレジー。
脱力呈したチルノには、貴石の誘いが甘過ぎた。
目の前のが取って食べれる氷精?
満面の笑みから零れた台詞に、チルノは深く溜息を吐く。
あんたは食べてもいい妖怪?
食べないで。美味しくないよ。
胸元で腕を交差し全力で拒否する。その姿にチルノは過去を見る。
臆病故に繋いだ夢幻泡沫の日々。
チルノは守ってくれる友が居た。独り佇むタンザナイトは何に縋る。
面と向って笑顔が見たい。共に歩こう彼女とも。
あたいは食べちゃだめだけど。ポシェットから出した小瓶を開ける。
美味しいみぞれをこしらえたげる。
漂い出す甘い香りに、期待に満ちた瞳が潤む。
取り出したもう一つ、お椀を掲げて精神統一。
奇行に小首を傾げた彼女。卒然と場を包む冷気に飛び上る。
お椀の上に白む気流が渦巻き、拳大の氷塊を形作った。
チルノがふぅと息吹を掛かけると、それは儚く散って小山を成す。
花蜜を垂らしスプーンを添えて差し出した。
受け取ったそれを恐る恐ると口に運ぶ。
尖る甘味を雪解け水が優しく洗い、心地良い清涼感が鼻へと抜ける。
咀嚼も忘れる無我の一時。すぐに空のお椀に舌が這う。
上目遣いは無言の要求。タンザナイトはどこまでも妖しく。
まだ足りないでしょ、うちへおいでよ。見惚れた時には負けていた。
歓喜に打ち震える彼女。その手を引いて歩き出す。
あたいはチルノ。あんたは?
ルーミア。美味しい物が大好き。美味しい物をくれたあなたも大好き。
チルノは彼女が割と好き。彼女の笑顔はもっと好き。
失明招くその眩しさには夕暮れの色が丁度良い。
§
試行四日目
何処からか響く歌声。
耳を澄ます程にはっきりとチルノを包みこむ。
とても暖かな、優しい旋律だった。
それは聴き覚えのある歌だった。
心の深い部分で、何かが締め付けられていた。
堪らず彼女は立ち上がり、歌の出所を探る。
しかしそれと同時に歌は止んだ。
見渡せば静寂。歌はもう聴こえない。
彼女はじっと耳を澄ませた。
しばし続いた無音の後、歌声は、またも何処からか聴こえてくる。
歌が止まないように、ただ聴きに徹する事にした。
その歌は心に遠く、耳に近く。
そこでふと気付いた。歌を紡いでいたのは、彼女自身だった。
唯一残された歌を謡い続けていたのは、彼女だった。
そうする事で、友の面影が失われぬ様。
寂しさが降りる程に彼女は歌う。
紡ぐ旋律を伝って、友はいつでも彼女に暖かな歌声を届けてくれるから。
§
吐き出された煙草の煙はたゆたう間もなく煙色の空へ吸い込まれていく。
──煙草なんて、寿命を縮めるだけですよ。
女の声が何処からとも無く掛けられる。
──粉塵塗れの薄汚れた風。あんたこそフィルタの一つくらい咥えたらどうだ。
男の声がぶっきらぼうに応えた。
作業に没頭する男の背中に、静かに辛辣な事実が叩きつけられる。
──報告書は訂正して出しておきましたから。
──何故そんな事を。今回がだめでも、次があれば。
──もう沢山です。今回で成果が上がらなければ、サンプル提供はありません。
──そこは……幾らでも便宜の図り様があるだろう。
──貴重なサンプルを5つも無駄にしたあなたを、これ以上は庇えません。
女を強かに睨め付けていた男も、諦めた様に式へと視線を戻した。
──俺を失って、後悔するなよ。
──そうならないで済む様、願ってます。極個人的に……。
§
日時不明 マラカイトの囁き
暇を持て余していたチルノ。湖を離れ一人草原を歩く。
さりとて遊びのあては無い。風に吹かれて無軌道に。
しかしめぼしい事も無く。既に赤い陽光差す時刻。
そろそろ帰らなくちゃ。
こんな日もあるよと己を励まし、とぼとぼ歩く。
しばらく歩いてふと気付く。風が運ぶ楽しげな調べ。
近い門限に焦る茜色の足取りも、その誘惑を断ち切れず。
風を手繰り音を探る。近付くに連れはっきりと見えてきた形。
一対の翼を風に靡かせながら踊る少女。妖精とはまた違う美しさを持つ。
夕陽に照らされて尚映えるその姿に、チルノはただ見入り、聴き入っていた。
母性すら感じさせる豊かな微笑湛えた蕾が紡ぐバラード。
蝶も花もが恥じ入る妖艶、優しい調べは抱擁の如く。
舞い、舞い、舞い、謡い、謡い、謡う。
心底愉しむ様に。今こそを慈しむ様に。
死に急ぐ不孝を醜、生を謳歌する徳を美と置いたなら。
彼女ほど美しい生き物は他に居ないのではないか。
術中に居るとは露知らず。チルノはただただ聴き惚れる。
輪廻を刻む足取りは、緩やかにチルノへと向かう。
ステップを踏む度上品に香り立つマラカイト。
ターンに靡くスカートの裾が零す艶やかな白樺の太もも。
夕陽が演出する血潮色の稜線。神々しくも情熱的なそれを見てチルノは熱っぽい溜息を漏らす。
賛辞すら野暮になる歌声。氷精すらも盲目にする。
幻想の中に幻想を謡う奇跡は何時の間にかチルノの目の前まで来ていた。
俄かに大仰なターンを決めると、スカートの裾を摘み膝を曲げてコケティッシュにお辞儀してみせる。
観客が小さな氷精一人であっても一切の手抜きはしない。彼女は己が輝く瞬間を知っていた。
ご静聴、ありがとう。でも妖精はお呼びでないの。
ごめん嘘。いつもより余計に謡っちゃったわ。
途端に泣きそうな顔のチルノを見て、慌てて言の葉を取り繕う。
子供の泣き顔ほど心を揺らすものは無い。太い放浪生活に彼女が見出した法則だった。
子供だからって大人気ない事をするものじゃないわ。さあ一緒に謡いましょう。
差し出された手も白樺の枝の様に白く繊細で。チルノははにかみながらその手を取った。
二つの影が伸び伸びと舞う。片やぎこちなく、片や美しく。
要領を得たチルノは率先して音を奏で、艶やかなマラカイトがその音色を拾い言の葉を謡う。
チルノが駆け上れば弾む歌声のウィーンワルツで勢いをつけ、しっとりと下れば慈愛のノクターンで深く包み込む。
度々躓いたり横道に逸れたりもする。それすらも夕陽が未練がましく尾根を焼く程に微笑ましかった。
やがて陽も落ち夜の帳が下りる頃。
月下の銀盤に踊る影二つ。最後に奏でられたのは一夜限りの恋人達の詩。
歌が止んで尚二つの影は楽しげにもつれ合い、大地の和毛に横たわる。
二つの熱い吐息が夜のしじまに浮いては消えた。
ステージを台無しにしちゃったかな。隣に寄り添う彼女に思う。
今は考えるのをやめよう。くすりと笑って、投げ出された脚線美を丁寧に賜った。
朝露の香りが鼻をくすぐる。目覚めを迎えたのは濃紺の空に一際目立つ明けの明星。
遊ぶ両手に彼女の温もりは既に無く、一夜限りのマラカイトに見た幻想はやはり幻想に淡く溶けた。
夜更かしの過ぎた太陽は未だ上らず、喪失感に苛まれる心に一層の陰を落とした。
私の綺麗な所、大ちゃんにも見せてあげよう。
チルノは己に言い聞かし、ゼンマイ仕掛けの足取りで湖へ向かう。夢じゃない。夢なんかじゃない。
帰り着いたチルノは姿身を見下ろす。そこに灰被りの魔法は既に無い。
呆然と眺めていたチルノ。水面がにわかにさざめくのを見る。
小粒が、やがて大粒が、姿見を叩く。一つ、二つ。広がる波紋。
美し過ぎた昨日と、平凡過ぎる今と。思いを馳せる程に、チルノはしゃくりを上げて泣いた。
そんなチルノの姿を遠目に見つけて寄って来たのは不眠の翡翠。
あの子の為だ、今日と言う今日は心を鬼にして一方的に徹底的に容赦無くリズミカルに喉が破れるまで怒鳴りつける。
そう決意したのが夜半過ぎ。
息を殺し背後まで忍び寄った時、耳を突いたのはチルノの小さな嗚咽。一夜越しの決意は瞬く間に粉砕した。
どうしたの、どこか痛いの。飛び付いて畳み掛ける。
一瞬驚いた風のチルノも、やはりさめざめと泣くばかり。
小さな肩をそっと抱き寄せる翡翠。今は静かに見守る事にした。
こんな時しか守れない、そう思いながら。何時であっても、常にチルノを守っているのは彼女であるという事には気付かずに。
灼熱の太陽が南中に座す時刻。その恩恵を余さず受ける幻想郷では全ての物が原始の萌木色を宿す。
翡翠はゆったりと足を崩し水面を眺める。膝枕で小さく寝息をたてる愛しき氷精の海色の髪を撫で付けながら。
私が寂しかったんだ、この子に必要とされなくなる事が。彼女は思った。そして願った。
今だけは、昔のように求められただけ与えたい。
水辺に佇む二つの貴石は優しい風に包まれて。しかしそこには不穏な陰が迫っていた。
背後から唐突に奏でられる子守唄。
聴き慣れぬ美しさに飛び上がり振り向く。思わずチルノの頭を取り落とした。
ぶへ! 痛い痛い。ぺっぺ。
支えを失い強かに土を食んだチルノが悲鳴を上げた。
ああ、折角の子守唄が台無しになっちゃった。
警戒する翡翠の視線も何処吹く風。マラカイトはころころと笑う。
その歌の様な鈴の音に反応したのは翡翠ではなくチルノだった。
立ち上がったチルノは背に庇おうとする翡翠に構わず前に出る。
引き止めるべく手を伸ばす翡翠。しかしその手は届かぬままに竦んだ。
いつか見た、凍てついた瞳。
どうして、いなくなっちゃったの?
チルノが堤防決壊寸前の瞳でマラカイトを睨みつける。翡翠も一瞬の戸惑いの後漏れなく便乗。
お風呂で温まりたくて一度帰ったの。あなたが一晩中私の足を枕にしてくれたもんだから冷えちゃって。
不穏な色に困惑するマラカイト。愛想笑いで茶濁しにかかる。
また一緒に謡ってよ。と力一杯ストレートなチルノ。
それにすっかり毒気を抜かれ、見つめ返して承諾一つ。
ぱっと笑顔が花開く。その現金さがチルノの美徳。
チルノちゃんはお昼寝の時間だから。和んだ空気に翡翠が切り込む。
それなら私に任せて頂戴。食い下がるマラカイトに遠慮は無い。
しばし睨み合った貴石は同時にチルノを射抜く。
さあ、と急かすは険しい翡翠。
どっち? と鼻息荒くマラカイト。
チルノは腕を組んで一思案。甲乙付ける基準に悩む。
チルノをあやして幾年月。翡翠の抱擁は夢の心地。
優しい歌声が安眠に誘う。マラカイトの囁きも捨てがたい。
考えれば考える程に、考える事も馬鹿らしい程、単純な結論が出た。
みんなで謡おう。
チルノは二人の手を取り謡い始める。
待ってましたと自慢の喉でチルノの調べに華を添えるマラカイト。
戸惑いながらも妖精らしく楽しい事には目が無い翡翠。
やがて二人も開いた手を繋ぎ、円を作って楽しげに旋律を奏で始めた。
三人の輪は次々と加わる妖精達の色を受けて多彩な模様を形作る。
その中心でお姫様に憧れるチルノは今に恋をする。
無垢な少女のささやかな夢に、マラカイトの歌声が応えた。
チルノの願いは歌に乗り、巡る風が天へと運ぶ。
南中の太陽が妖精達のミュージカルを鷹揚に見守っていた。
§
試行五日目
乾いた熱砂がチルノの足を執拗に舐める。
一面に広がる褐色の大地。滑らかに均された塩の山。
彼女の通った後にだけ、小さな足跡がどこまでも続いている。
歩を進めるたび滴る汗の痕跡は次の歩を待たず消える。
何故歩き続ける事が出来るか。信じる物があるから。
頑なに愚直に。ただ信じて焼けた塩を踏み続けた。
念願叶い、彼女は灼熱の大地に浮く陽炎を見る。
前方の幽らめきは炎天の陽光を気丈に跳ね返し僅かな恵みをそこに湛えていた。
熱射に晒され急速に気化し絶え間なく吹き上がる蒸気は、
通る陽光の色を借りては尚凛々と輝いて幽かな蜃気楼を見せていた。
それは皮肉にもゆらゆらと燃ゆる蝋燭の灯にも似ていた。
手を伸ばせば消え入りそうなそれに、チルノは確かな確信を持つ。
つい先程までは鉛の様に重かった足を奮い立たせた。
一息に駆け寄り、危うげなそれに迷う事無く飛び込んだ。
飛沫が上がり疲弊した体に潤いが染み渡る。
途端、水に焼け石を投げ入れたのか如く、水面が癇癪を起こす。
薄い木片を割り砕く様な乾いた音が幾つも響いた。
水を得て急速に冷えたチルノ。
それにより更に急激に冷やされた水が、水面に膜を張っては割れ、割れては膜を張る。
音が止んだ時には、そこは彼女の肌に合う涼しさに落ち着いていた。
彼女は水から惚けた顔だけ出して天上の灼熱を睨む。
照り付ける熱線は微塵の容赦も無く。
次いで歩んできた道程を振り返り見る。
地平の彼方から彼女を追う様に、点々と黒い跡が続いていた。
小さい物は彼女の足跡。大きい物は干上がったオアシスだった。
示し合わせた様に一定の間隔で存在を主張するそこにたどり着く度、
彼女はここが何者かの手の平の上なのではといぶかしんだ。
しかし一度恵みが絶え乾きに晒されれば全ては吹き飛んでしまう。
何の疑いも持たず彼女は次のオアシスを目指すのだ。
明日を憂うのも、心の底から感謝するのも、出会った瞬間だけ。
冷水の心地良さに放心し無我を漂った末一息をついた頃には、
オアシスは心もとなく干上がってしまう。
故に彼女は何時も、大事な一言を言いそびれていた。
たった一言感謝の言の葉を紡ぐ、ただそれだけの事ができずにいた。
チルノの小さなアゴを伝い最後の一滴が滴り落ちる。
のそりと立ち上がると、最早求める事しか知らない彼女は迷わず歩き始めた。
次のオアシスの存在を、当然ある物と信じ疑いの欠片も持たず。
§
──失礼します。
──なんだ人殺し。研究の邪魔だ。
むべも無く、男は背中を向けたままに言い放った。
女は表情を変えず、淡々と言の葉を並べる。
──上は、今回結果を出せなければ、ここに回す研究費及び施設維持費全てを打ち切ると。
男は突如くぐもった笑みを漏らした。自嘲めいた、狂人の様な。
──あんたはいいな。ここを出ても、俺みたいなのにくっついてりゃ綺麗な箱の中に住めるんだ。
──死にたいと思う事は多々ありますが。
──俺には次の当ても無い。ここを追われれば生きてはいけない。それもあんたのせいだ。あんたは人殺しだ。
──そうでしょうね。あなたもきっと消えてしまう。
──……恐らくは、次で最後だ。もうサンプルがもたない。頼む、もう一度だけチャンスを……。
応えの代わりに、扉の閉まる音だけが重く響いた。
一人残された男は、禁を破り震える手で煙草に火を点ける。
しかし定まらず、零れた煙草から上がる煙を、同じく定まらぬ目線で追っていた。
§
日時不明 蠱惑のペリドット
チルノは友と誘い合わせて夕暮れの森を遊ぶ。
既に門限は過ぎている。しかし禁を破ったわけではない。
今日の遊びはかくれんぼ。日の高い内の彼女は浮き彫りの闇を纏う。
彼女を相手取るなら空が濃紺に染まる時分が旬の刻。
そう主張するチルノに、翡翠も渋々承知した。
もーいーかーい。まあだだよー。もーいーかーい。もういいよー。
かくして鬼のチルノは闇に紛れる友を走査する。
しかし彼女は夜の森に一日の長がある。
枝を払い藪を除け息遣いを求め耳を欹てるも、そう簡単に尻尾は出さない。
貴石の輝きを求め右へ左へ。時々躓きながらもめげずに探し続けた。
どうしよう。
チルノは空を仰ぐ。頭上では無数の星達が消え入りそうな個性を主張していた。
夕暮れ過ぎてとっぷりと暮れた夜空。
既にかくれんぼが成立する条件を逸していた。
まさか一回も終わらない内に真っ暗になるなんて。さりとて時間とは無常なる物。チルノは思案する。
諦めて降参を宣言するか、継続するか。
チルノの山盛りの負けん気は降参を受容しない。そして何よりも。
全然遊んでないのに終わるのはいやだ。そうと決めたら萎えかけの心に気合を一つ。力いっぱい頬を打つ。
風船が割れる様な鋭い破裂音が響き渡り、加減を誤ったチルノは頬を押さえて蹲る。
じんじんと痛む頬を摩っていると、不意に背後からくすくすと小さな笑みが漏れた。
災い転じて福となる。それがまさにチルノの心情。
音のした方に目を凝らす。薄らと見える茂みが風も無いのにか細く揺れている。チルノは心の中でにんまりと白星を付けた。
ルーミアみーつけた。たっぷり探しちゃった。
しかし返事は無い。漂う違和感に小首を傾げるチルノ。
タンザナイトは嘘を知らない。潔い彼女が見つかって尚息を潜める筈も無く。
待たせ過ぎたかな。
警戒せず近付くチルノ。違和感の意味に気付いた時には遅すぎた。
揺れている茂みは一箇所に留まらず。前で後ろで左で右で。
よくよく目を凝らす。空気が、地が、闇までもが蠢いていた。
絡み付く剣呑な気配に、思わず羽がピンと張る。
闇に潜むそれは確かな存在感を主張しながらも、見えぬチルノを嘲笑うかの様に沈黙を保つ。
ルーミア、何か言って。
それは希望。わかっていても縋りたかった。しかし沈黙は破られぬまま。
だ、誰かいるんでしょ、出てきなさいよ!
震える声で精一杯の虚勢。
それが薮蛇となり、一斉にチルノに注がれる不穏な百の視線、千の視線。
流石のチルノも冷や汗滲む。心が恐怖に塗り潰される瞬間。
前後不覚な闇の中、敵対者だけに夜目が利く。
動くに動けず逃げるに逃げられず。
深い闇に奥歯の鳴る音だけが虚しく響く。
そんなチルノを見兼ねてか、先に動いたのは闇に潜む者。
暗闇の中から溜息が一つ。チルノはそれを異形の合図と取った。
目を堅く瞑り耳を押さえその場に蹲る。
睨む恐怖からただ目を逸らす。対策ならぬ対策が、今のチルノの精一杯。
震えるチルノの背を優しく撫ぜる手が一つ。
びくりと震えたチルノに、静かに声がかかった。
そんなに怯えなくてもいいじゃない、失礼しちゃうわ。
少しおどけた調子のその声に、チルノは警戒しながらもゆっくりと顔を上げる。
目を開けた瞬間、チルノを飲み込む鮮烈な光の奔流。
幻孕む灯が情熱の鼓動を刻む。夜のしじまを妖しく照らすは無数の蛍火。
暗黒に慣らされた目には蛍の暖光すらも鋭利に刺さる。
顔を顰めながら声の主を探す。ややあって捉える愛しい色。
しかし目が慣れるに連れ気付く。捕捉したそれと求める色との間にある齟齬。
そこにあるのはつぶらなペリドット。愛しい翡翠とは似て非なる物。
途端にチルノの顔が凍り付く。裏切られた想いに視界が歪む。
ごめんね悪気はなかったんだけど。
その言葉に一瞬反応が遅れたチルノ。ペリドットは怪訝な色を浮かべて覗き込む。
本当? おずおずと聞き返すチルノに、無邪気にくすりと微笑み頷いた。
チルノはほっと胸を撫で下ろす。解れた緊張が涙腺を苛み、一筋の雫が零れた。
それを見たペリドットは妖艶な笑みを湛え、チルノの頬に手を添えてその涙を舐め取った。
飛び上がったチルノを見て悪びれた様子も見せずくすくすと笑う。
水に大きく依存する氷精。その形は住まう土地の水を映す。
ねえ、あなたの家に連れてって。
突然の要求に戸惑うチルノ。不快な湿り気を帯びた衣服が、目の前の貴石への警戒を促していた。
なんであんたなんか。沸々と怒り込み上げるチルノは言葉を飾らず。
それを聞いたペリドット。無言でチルノの腰に腕を回し抱き寄せる。
あなたがこんなに甘くて、可愛いから。
きっと素敵な水場に違いない。唇さえ触れそうな距離で、ペリドットは囁いた。
トマトの様に真っ赤なチルノ。たじろぎながらも強がって見せる。
そこまで言うなら、仕方ないわね。
ペリドットの抱擁を押し退けたチルノ。熟れた顔を隠すように踵を返す。
先を行くから着いて来て。
背中越しにそれだけ言うと、笑う膝をぎこちなく動かし歩き出す。
それを見て満面の笑顔の彼女も、素直に従い着いていく。
その口から漏らした小さな安堵の溜息に、チルノは気付かない。
一時はどうなるかと思った。血の上る頭でチルノは考えた。
それはペリドットにしても同じ事。
老い先短い大勢の仲間達を抱える彼女は蛍の女王、リグル・ナイトバグ。
餌場の確保もままならず、途方に暮れていたのは彼女だった。
それを救った凍れる女神と、それに巡り合えた幸運に、顔は笑い心で泣いて感謝した。
チルノは不意に立ち止まる。消えぬしこりが心に一つ。
なんだろう、まあいいや。
解決を見ぬまま、後ろを歩くペリドットに急かされる様に帰路を急いだ。
もういいよー。もういいよー。チルノー。もういいよー。
寂しげなタンザナイトの声が寝息へと変わるのは、もう少し先の話。
§
何時からか心の内に棲み付いた物。
或いは諦めにも似た感情を伴うそれは、失敗を重ねる毎、一つの形となって男の脳裏を静かに埋めた。
幻想が幻想として在り続けているとするのなら。
何故彼女達、妖精石はここに在る。
そこには確かな矛盾があった。
膨らみ続けるそれは、無視できない大きさへと成長する。
男の積むあらゆる業に悉く唾を吐いた。
妖精石は語らない。
そこに僅かな幻想と、その残り香を預けたまま。
幻想は、何処に在る。
エデン幻想。在りし日の姿を幽かに閉じ込めた貴石、妖精石。
自らが犯す業の先駆が定義したそれに口付けを一つ贈り、式の口にねじ込む。
──抽出再開。
命令を受けた式が伝える膨大な文字列を祈るような目で追い続けた。
皮肉なる土塊は、幻想を求め幻想を逸する。
§
試行最終日
今を見失った惰性の日々が連なり行く中で。
チルノは紙屑に埋め尽くされた机に向かいしゃにむに筆を走らせる。
しかしその筆はピリオドを打たずして唐突に止まった。
行き場を無くした先端が無垢な白地に黒い穢れを広げていく。
広がれど。広がれど。薄まる事の無い黒は、彼女の瞳に映り込み、交じり合う。
紙に降りた言の葉は一つだけ。後を継ぐ文字は無い。
言霊成らず、のたくる蚯蚓が紙面を這うばかり。
気に障るそれを便箋ごと握り潰すと筆と共に壁に叩きつけ、力無く机に突っ伏す。
後に響くは押し殺した嗚咽。チルノの手紙に届かない。
会いたい人がいる。会えない人がいる。
一方的な手紙を何百何千と書き連ねようとも。
行き着く果ては、引き出しからはみ出した封書の山。
会いたい。深層に根付いた思いは消えず。
手の届かないどこかで、静かに疼く痛み。
果ての無い想いだけが無為に募り、忘我の最果てへと誘う。
なぜ苦しむのか。誤魔化してしまえば楽になれるのに。
しかしその選択は彼女の内には存在し得ない。
なぜなら幻想を愛する事を止めた時、彼女はきっと消えてしまうから。
チルノは立ち上がり、窓の外を見る。
銀の代わりに緑が萌え、降りる涙は舞う暇も無いまま忙しなく地を叩いていた。
全てはその目が求めぬ色。生が謳歌する灰色の世界。
色の無い世界の中心で、音も形も、全てが変わらない。
変わる事を願う彼女は、宛の無い手紙を書き続けていた。
泣いている暇は無い。便箋を敷き、筆を取る。
言いたい事、伝えたい事は無限にあった。
しかし心底願う事は一つしかない。
だからこそそれを書いてはいけない。そこで筆が止まってしまうから。
部屋を満たす緩やかな時の流れ。
それに押し流されまいと、彼女は筆を通して語りはじめた。
あたいは、元気です。
§
──止めろ。
従順な式が吐き出した瑕だらけのアクアマリン。
それをポケットに詰めた男は別の式により自動化された扉を抜けベランダに出る。
燻る煙草が湧き上がる不安を麻痺させてくれる。
通気口の傍で煙を吐いても、誰からも文句は言われない。
男は煙草の端と共に自由を噛み締めた。
回らない換気扇。点かない灯り。
男が見上げた古巣は、今はまるで巨大な棺桶の様相を呈していた。
──何がエデンだ、新天地の糸口等と踊らされて馬鹿を見た。
灰色のパノラマを一瞥し、汚れた白衣は呟いた。
§
日時不明 妖精石
湖の弾幕ごっこ。今日のチルノもきんきんに冷えている。
それは得意の中でも上の上といきり立ち、剋目せよと躍り出る。
やれ、この副将に挑む馬鹿はどこのどいつだ! そいつはきっとあたい以上の馬鹿だ!
すっかり乗り気で副将を気取る。
なぜ副将か。大将はちゃんといる。
大好きな大将に一番可愛がってもらえる副将が、チルノの指定席。
相手はリグル。ペリドットの瞳が走れば幻想の蟲達はレギオンを組み、マーチを開始する。
チルノも認めるなかなかの実力者。
だからなんだと手を打ち鳴らし、さあ来いと咆えた直後に待ったをかける。
手が痺れてる。少し待て。
憎めないから共に居る。リグルは後にそう語る。
遊びは終り、戦果を早く大将へ。力の限り羽ばたいた。
体は上へ上へと上がり行く。浮力は十分。だけど推進は悪いな滑った方が速いかも。良しならば。
目の前に広がる湖に、無色透明の橋を架ける。さあ急いで帰るぞ大将の元へ。凍れ凍れ、凍ってしまえ!
一方大将。聳え立つブルーハワイ恐山が雪崩を起こすのを見て、存外に遅いなと溜息を吐いた。
ただいまレティ! 鼻息荒く飛び込んで来たチルノに、大将は一瞬仰天した後、ほっと胸を撫で下ろす。
どうだった。大将は優しく尋ねた。見れば分かる、ボロボロの身なり。
ふんぞり返って鼻を鳴らし、チルノは堂々と報告する。負けました美しい。
正直者はあなたかしら? ご褒美は絶品の恐山よ大声は出さないで雪崩が起きるわ。もう起きてます大将。
結果なんてどうでもいい。元気なチルノを優しく見守る大将が、チルノは堪らなく好きだった。
チルノと愉快な仲間達。組み木の家で切り株仕立てのテーブルを囲み、一同に会する。
ルーミアの暗幕にリグルの照明。
二つのコントラストが幻想を奏で、晩餐は特別な物となる。
これに聖母の囁きがあれば。しかしミスティアは食事にご執心。
謡っている間は食べれない。太い歌手人生にミスティアが見出した法則だった。
所在無げに食器が並ぶ宴も酣。あらあら困ったわとレティ。
もうちゃんとしたチルノの服が無いの。全部ぼろぼろ、困ったわ。
チルノ、失意のどん底に沈む。世界が自分中心に回っていない事を嘆き悲しみ喉を震わせて泣いた。
私の服を一つあげるよと大妖精。チルノに笑顔の花が咲く。
でも、それも破いちゃったらとじわりと痛ましいチルノ。
レティがリグルのおでこをつんと突く。次は少し手加減なさい。
彼女の涙は甘いジェラート。泣かせないでよまた太っちゃう。
ずっしりと定位置を確保するレティに、全員が腹を抱えて笑った。チルノも笑った。
笑って泣いていい時分。チャントがしめやかに晩餐のトリを飾る。
昨日も今日も、そして明日も続いて行くだろう幸福。誰もが今を感謝した。
§
雑然とした夢の跡。そこが彼女達の遊び場。
ふざけてじゃれあい、やがて疲れて寄合い眠る。
積る残骸が彼女達の毛布。
瑕だらけの妖精石。遠き幻想に夢を見る。
日時不明 化石色の妖精石
出たい。
出たい。出たい。出たい。
切ない痛みが胸を埋め、チルノは無為に空を掻く。
アメが投げ込まれる事が無くなって随分経った。
しばし狂気の坩堝に飲まれ自我を失いかけていたチルノも一先ずは落ち着き、そして今また狂おうとしていた。
身を焼く苦しみは抜けた。しかし喜びも無い。魂を掻き毟る孤独だけが降りていた。
表情を失った次は心だった。
それを手放す事を彼女は拒んだが、何者とも触れ合いを無くした心は緩やかに形を崩していった。
焦るのが億劫になり座り込む。
チルノはただ一人、手の平をじっと見つめる。
この手は何を掴んでいたのか。彼女はゆっくりと思い返す。
巡る螺旋は色とりどりの奔流。どれもが眩しく暖かい。
チルノが探していた物、本当に欲しかったもの。そこにはあった。
一つの手。二つの手。三つの手。四つの手。五つの手。たくさんの手。
それらは大きく或いは暖かく、それでいて不快では無かった。
チルノはついと立ち上がり氷鏡の前に立つ。
何時からか、閉ざした氷で覆ってしまっていた。
時が止まればいいと、自分の歩みだけを止めていた。
昨日までは孤影を映すだけの虚ろな鏡。
今ははっきりと扉が見える。
添えた手に力が篭り、仮初の鏡は脆く崩れた。
早く、皆の所へ。
開け放たれたドアの向こうから春の日差しが差し込む。
人が捨て去りやがては忘却の彼方へ追いやったからこそ、幻想足りえた幻想。
再び人がそれを求めた時、それは幻想では無くなる。
多くの者が願わぬ虚無の果てに、罪無き幻想を迎え入れるエデンは在った。
懐かしい香りがする。友の語らいが聴こえる。
遠くに、しかしはっきりと。
最後の妖精石が音も無く砕け散り、暖かな日差しが差し込む。
それを全身に受けたチルノは伸びを一つ。満面の笑顔で額に浮いた珠の汗を拭う。
チルノは振り返らない。もう迷いはしない。
友は皆等しく彼女を迎えるだろう。それが既に彼女の形に非ずとも、友の形に非ずとも。
さあ、誰に会いに行こうかな。でもその前に、まずは大ちゃんに謝らないと。
踏み出した一歩が麗らかな陽気の中へと溶け込んでいく。
その優しさに微笑みを一つ、チルノは軽やかに飛び出した。
最初はとっつきにくかったけど、読み進め状況が解ってくるにつれ引き込まれ、貪るように読んでしまいました。
チルノを中心とした仲間たちとの思い出は、まるで宝石のように綺麗で希少。
だからこそラストで感じた喪失感は、チルノの笑みが透き通っていればいる程に胸を抉られました。
酔わせるような言葉回しと共に、状況を理解する為に脳がオーバーヒートしかけましたが、何よりそれが心地良かったです。
読ませてくれて、本当にありがとうございましたw
えも知れぬ感情が湧き上がってきました。
良い作品をありがとうございます。
幻想は甘いだけではなく、苦いだけでもなく。
彼女の喪失感と殺風景な情景をあらわすには相応しいのかもしれませんが、イメージ貧困な自分には一読ではきついものがあります。もう二割でいいので分かりやすい表現を挟んでくれていたらな、とか個人的には思いました。
でも作品の切り口自体はかなり好きなほうだったので、敬意を込めてこの言葉を贈ります。『君には感謝している』w
お見事でした。
感想も無粋になりそう、感謝。
だれか かいせつを つけてくれ たのむ!
(´;ω;`)