雨が踊っている。
そうとしか言いようのない光景だった。雨の降る量が多すぎて、『降る』という感覚がない。
空気がすべて雨粒に変わったような光景。湖にぶつかった雨粒が空へと跳ね、さらに落ちてくる雨粒に押されて湖に戻る。
その繰り返し。
竹製の永久機関のような、不完全な繰り返し。
雨の勢いはつねに変化している。一瞬たりとも同じ表情を見せない。そのくせ、その強さだけは変わらないのだ。
雨は振り続ける。
竹林に。森林に。山河に。野原に。神社に。
巨大な湖に。
その中央にある――紅色の館にも、雨は同じように降りそそぐ。
一週間連続で。
月曜日の天気は小雨だった。
火曜日は一日中雨が降っていた。
水曜日、門番の昼食は春雨だけだった。
木曜日には本降りになった。
金曜日には雨以外には何も見えず。
土曜日を迎えるころには、誰もが雨に慣れていた。
そして、今日は日曜日。
妹様は地下でお昼寝――つまりは本寝――ついでとばかりに姉様も就寝中。赤いベッドで紅い姉妹は丸くなって夢の中。
動かない大図書館は、傍で紅茶を呑みながら、夢をこっそり覗き見中。
紅色の傘をさした門番は、門の前でくしゅんとくしゃみ。
メイドたちは雨季休暇。
メイド長だけは湿気と終わりのない戦いの真っ最中。ナイフがキノコを貫き、動きを止めた湿気が箒で払われていく。
そして。
そんなお上のことは――妖精たちにとっては、雲の上、雨の向こうの出来事だった。
「――ラ、ラ、ラ!」
軽快で活発で、明るく楽しい歌声が、紅魔館の一角に響く。
紅色の図書館、天へとそびえる本棚の間を、歌声は走り回る。静寂を求める主はおらず、いまや図書館はダンス・フロアとさして変わらない様相を見せていた。
歌い手は一人。
旋律にあわせてミスティアが楽しそうに歌う。
「あんたと笑いに~♪ あんたを笑いに~♪」
奏で手は四人。
「姉さん、もっと早く、もっと高く!」
「リリカ。これでも私としては明るいつもりだよ?」
「あら。あら、あら! 三拍子? 六拍子!」
ルナサが、メルランが、リリカが、思い思いの音を奏であげる。
「リズムなんて知らないよ! あたいは楽しくやるだけよ!」
チルノは湿気を固めて氷を作り、微細な雪と氷の結晶が砕けて音をつむぎ出す。
幻楽と自然が混ざり合い、テンポの速いメロディが次から次へと生まれ出る。
そして――踊り手は一人。けれど独りではない。
唄にあわせて。
曲にあわせて。
リズミカルに、本棚の間を小悪魔が踊りぬける。
「ラ、ラ、ラ――♪」
――ジルバのリズム。
ジルバはつねに六拍子だ。正確には二拍子が三回。
一、ニ。一、ニ。一、ニ。それがワンセット、その繰りかえし。
リズミカルな二人三脚。足の代わりに手を繋ぎ、足を鳴らして踊り続ける。
手を繋ぐ相手は――踊る相手は、人ではない。
歌だ。
皆が奏でる歌とともに、小悪魔は軽快に踊る。
ミスティアが唄い、四人が奏で、小悪魔が踊る。
それは、突発的で、突拍子もなく、だからこそ楽しいお遊びだった。
雨が降っていた。
雨宿りにきた。
暇だった。
暇?
まさか!
暇な日なんてあるはずがない、364日が特別な日――
というわけで、少女たちは遊び始めた。外に出ることなく。
雨宿りのお礼とばかりにプリズムリバーが演奏を始める。
曲があれば唄わずにはいられないとばかりに、ミスティアが唄いだす。
楽しいことならあたいもまぜてよ、とチルノが氷を打ち鳴らす。
悪戯好きの小悪魔が、楽しそうな気配に引かれてやってくる。
気づけば、舞台の幕はあがっていた。
観客のいない、脚本のない、楽しむことだけが目的の即興劇が。
雨の日、紅魔の館の――愉快な愉快なミュージカル。
「冗談じゃない♪ 冗談だよ♪」
ミスティアの声が唄になり、唄が音符になって地面を跳ねる。
その上に、小悪魔はぴょんと跳び乗った。
黒いスカートをはためかせ、黒い革靴がかつんと音を立てる。
かつ、かつ、かつ。かつ、かつ、かつ!
リズムをもって足が踏み鳴らされる。その音にあわせて、メルランがトランペットを吹き鳴らし、曲は少しずつ早くなっていく。
そのたびに、足音も早くなる。
スカートの裾を二本の指でつまみ、右へ左へとはためかせる。
黒いストッキングに守られた足が、右へ左へ前へ後ろへと駆ける。
小悪魔が右へ跳ぶ。赤い髪が左に流れる。
小悪魔が左へ飛ぶ。赤い髪が右に流れる。
「――姉さんたち、もっと速く、もっと高く、もっと楽しく!」
「雨の日くらい大人しくするべきだよ――」
「――雨の日だから、よ~!」
ハイテンポ、アップテンポ。踊るように、舞うように。
跳ねるように、弾くように。
曲は踊り、小悪魔も踊る。楽しそうに笑う口元からは、小さな八重歯が覗いている。
かつ、かつ、かつ――かっ、かっ、かっ。
足音が早くなり、それに比例してスカートと長い髪がはためく。
曲はどこまでも昇り、
「笑えたよ♪ ――みんな笑ったよ!」
ひと際大きな氷をチルノが砕き、ミスティアが唄いきって肺の空気を声とともに外へと吐き出した。
曲の終わり。
その瞬間、小悪魔は跳んだ。両足を揃え、跳び箱でも跳ぶかのように、三姉妹の上をぴょんと越えた。
空気を受けて膨らんだスカートを、小悪魔は両腕で抑える。赤い髪が空へと広がる。
ゆっくりとすら思える速度で、小悪魔が見事に着地する。
はらりと、スカートが元へ戻った。
「ひゅーひゅー!」
チルノが茶化すように笑い、小悪魔が照れたように羽を掻いた。
くるりと一回転し、演奏者たちを見て、小悪魔は会釈した。スカートの両端をつまんで、膝を交差させて折りまげる可愛らしい会釈。
応えるかのように、ミスティアがぺっこりとお辞儀をした。深く頭を下げすぎたせいで帽子が落ちかけ、慌てて頭を抑える。
「――お次は?」
バイオリンを手にルナサが言う。
「楽しい曲よ、もちろん」
トランペットを回してメルランが応える。
「その通り! さ、準備はいい?」
浮いたキーボードを指さしてルナサが叫ぶ。
「もちろん!」
チルノが机に腰をかけ、足をうちならして拍足をした。
「一番ミスティアに続いて、二番ミスティア! 『ヒロシゲ36号で行こう』歌います!」
小指をマイク代わりに唇につけ、ミスティアが笑った。
「――っ!」
全員を見回して、小悪魔が声もなく満面の笑みを浮かべる。
誰からともなく、三、ニ、一、という合図。
指揮者の棒は必要なかった。
自由気儘に、感性のままに。
――チャチャチャのリズムが始まった。
小悪魔の靴が再び鳴りはじめる。
規則のないチャチャチャは、もはやタップダンスに近かった。メロディのままに楽しげに踊る。
ジルバよりもなお速い、情熱的なダンス。
あるいは、盲目的な踊り。赤い靴を履かされたかのような。
小悪魔の靴は黒だ。けれど髪は赤く、図書館は赤く、館は赤い。
靴が赤く染まってもおかしくない世界。
けれども、小悪魔は楽しそうに踊る。
ずっと踊り続ける呪いなど、悪魔にとっては今がずっと続くという祝福でしかない。
そして、呪いも祝いも関係なく――ただただ楽しく小悪魔は踊り続ける。
「――ラ、ラ、ラララ!」
右へ左へ真ん中へ。
前へ後ろへ真ん中へ。
行っては戻り、戻っては跳び、回って踊って踊って回る。
音の響きに負けないように。
音が届くその果てにまで。
小悪魔は、自由気儘、楽しく愉快に踊り舞う。
かつ、かつ、か、か、か。
かっ、かっ、かかか。
変則的な四拍子。小気味の良い足音。
前の足音が消えるより早く次の足音が。
前の足音と前の前の足音が消えるよりも早く。
前の足音と前の前の足音と前の前の前の足音が消えるよりも早く。
次の足音が鳴るよりも早く――小悪魔の靴がリズムを鳴らす。
地上だけでは、とても足りない。
踊り足りない。
場所が足りない。
「――ラ・ラ・ラララ!」
鈴の鳴るような――否、雨の降るような声で小悪魔は高らかに歌う。
リズムを足で刻み、メロディを口から漏らす。
音は、上へ、上へと伸びて行く――図書館の高みへと。
そびえ立つ本棚。その壁面を小悪魔は踊りながら登っていく。
本棚が揺れ、反対側から飛び出し、雨のように床へと降る。
小悪魔は気にしない。本棚の木の部分を、綱渡りでもするかのように踏んでいく。
決して本は踏まず――板だけを踏んで、小悪魔は上へ上へと踊り昇る。
重力に縛られた髪が横に流れ、重力に縛られない小悪魔は昇ったり降りたりを繰り返す。
その瞳からすれば、すべてが横になっている。
世界の中心は、いつだって小悪魔だ。
自分が横向きになっているのではなく。
世界がまるごと、傾いているのだ。
「踊らなきゃ! 歌わなきゃ!」
ミスティアが唄いながら空を飛ぶ。横向きのまま小悪魔と目があい、二人でにっこりと笑った。
チルノと虹川三姉妹も、演奏をやめることなく飛ぶ。
そうなってしまえば――もはや、上も下も関係なかった。
図書館の空間、その全てを使って小悪魔は踊る。
本棚から本棚へ、本棚から床へ、床から本棚へ、本棚から天井へ。
縦横無尽に小悪魔は踊り、冷やしたシャンデリアをチルノが人差し指でドラムのようにつつく。
後で怒られるかもしれない、とか。
片付けはどうしよう、とか。
そういった様々なことは――『今』に較べれば、瑣末なことだった。
『――ラ・ラ・ラ――ラララ!』
五人の声が一つになって、雨の音に負けない強さをもって図書館に響き渡る。
主も吸血鬼も門番もメイドもいない。
雨の日の休日――ちょっと愉快な昼下がり。
小悪魔は踊る。踊り続ける。踊ることが楽しくて仕方がないといいたげに。
汗ではりついた前髪ごと顔を振る、汗の雫が跳ね、チルノが氷にして砕け散る。
赤い髪が、黒いスカートが、黒い羽が、赤い瞳が、夢のように踊る。
踊る小悪魔の――それはそれは楽しそうな笑顔。
「――ラ、ラ、ラ!」
ひと際大きな声とともに、小悪魔が本棚を蹴って跳び――
『――あ。』
全員の声が重なる。
全員の視線の中。
――本棚のドミノ倒しが始まった。
(少女の遊びはいつだって意味もなく突飛に始まり、そして訳もなく唐突に終わる。了。)
後にも先にもここまで賑やかなヴアル図書館は……
いや、この後もっと賑やかになりそうですな、怒りの弾幕で(笑顔