Coolier - 新生・東方創想話

幻想郷、育児パニック症候群 後

2006/06/18 07:00:11
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*前編の続きです。まだ未読の方は前編の方からお読みください。



 白玉楼へと続く永遠とも思えるように長い階段を掃除しながら、魂魄 妖夢は溜息をついた。押しに弱い自分の不甲斐無さに、そして何も考えていなさそうでやっぱり何も考えていないだろう自分の主に。
 事の発端は数日前にさかのぼる。普段どおりに庭の掃除をしていたら、何処かで見たような門番が赤子を連れて白玉楼に転がり込んできた。嫌な予感はその時から何となくしてはいたが人の良い妖夢は何事かと尋ねたところ、突然門番が連れてきた赤子を引き取ってくれと頼んできたのだ。
 妖夢はスッパリと断った。そもそも赤子を引き受けなければならない理由は無いし、赤子のように手間と面倒がかかる主がいる。それに、やれ紅魔館の未来の為にだの、やれ咲夜さんの精神安定の為だのと訳の分からない言葉を繰り返す門番の言う事など聞く耳を持たなかった。それどころか、哀れに思った妖夢は精神の治療を受ける事を勧めたくらいだった。
 しかし、それで引き下がる門番ではなかった。彼女が思いつく限り一番人の良さそうで、ちゃんと頼みごとを聞いてくれそうな人妖は妖夢以外思いつかなかったので、妖夢の脚にしがみ付いて懇願したのだ。ここまでされると流石に無下に断る事ができなくなり、この時かなり嫌な予感がしていたものの彼女の主西行寺 幽々子に判断を任せた。
 当然の事ながら妖夢は幽々子が一言で断ってくれるものだと半分信じていた。しかし、幽々子の一言でその期待は半分裏切られた。恐ろしく軽いノリで、OKサインを出してしまったのだ。有無を言わさずに門番を切り潰しておけばよかったと妖夢が心底後悔したのもこの時だった。
 しかし、OKを出した当の本人が赤子の世話などする訳もなく、むしろお腹を極度に減らすと食料と言い出しかねないので、結局妖夢が面倒を全て見る事になった。しかも赤子の面倒を見るからといって日々の仕事量が減るわけではないので、妖夢にとっては仕事が増えた事を意味する。妖夢が毎日つける日記に、面倒ごとを押しつけてどこかへトンズラした祖父に対する恨み言が書かれるようになったのはこの頃からだった。
 毎日赤子の面倒を見ながら階段掃除や庭掃除、家の掃除、炊事、その他雑用などをこなすのは大変である。しかし、親に捨てられた可哀想な赤子の為に、妖夢は一生懸命世話をした。
 そんなある日、幽々子は珍しく悩みを抱えるようになった。いつものほほんとしていて、何も考えて無さそうな顔をしながらその日の晩御飯は何かと考えていた幽々子が、何か面白くない表情をするようになったのだ。

「ねえ、妖夢。おやつに桜餅を食べたくなったから買ってきてくれない?」
「今はこの子のお昼寝の時間ですので、寝かしつけなければなりません。また今度にしてくれませんか。」
「え~、じゃあ妖夢が桜餅を作って。」
「それも駄目です。この子が眠っている間に残っている掃除とお洗濯をしなければなりませんので、そんな暇有りません。」

 このように幽々子の我が侭にも似たお願いが聞いてもらえなくなったのだ。自分が何も考えず、と言うよりも妖夢を少し困らせてやろうと思って引き受けた赤子が、まさか自分の首を絞めるとは思いもよらなかったようだ。しかし、嫌がる妖夢にOKサインを出して押付けたのは紛れもなく幽々子なので、今更どうしようもなかった。

「ねえ妖夢、お出かけするから一緒に来てくれない?」
「今せっかく寝付いたばかりなので、今度にしてくれませんか?」

 いつもなら何も言わなくてもお供をしてくれた外出の誘いも、

「ねえ妖夢、一緒に花火をしましょう?」
「今からこの子をお風呂に入れてあげなくてはいけませんので、また今度にしてください。」

 いつもなら顔を輝かして一緒に遊んだ花火の誘いも断られ、

「ねえ妖夢」
「しっ、この子が眠そうにしていますのであまり声を出さないでください。ほら、今にも眠りそうですから。」

 お話をする事さえ断られる事もあった。
 幽々子の憂鬱は募る一方だった。妖夢がかまってくれない。妖夢が自分に冷たくする。妖夢が自分の事を見てくれない。そう鬱々と思いながらいつしか幽々子は家の中で孤立するようになってしまった。

「……妖夢が、私の妖夢が、変なのに取られた……」

 しだいに幽々子の胸中は寂しさが渦巻くようになった。妖夢と一緒に赤子の世話をすればいいだけの話だが、無茶を妖夢に押付けた手前、今更どういう顔をして妖夢と向き合えばいいのか幽々子には分からなかった。そして幽々子が胸をモヤモヤさせたまま無常にも時間だけが過ぎていった。
 そんなある日、いつもの様に昼食の準備ができた事を幽々子に告げに来た妖夢は、幽々子の部屋で一枚の手紙を見つけた。

『少し旅に出ます。探してください。
                   西行寺 幽々子』

「な、な、な、幽々子様!?」



 口うるさい閻魔様こと四季映姫・ヤマザナドゥは頭を抱えていた。彼女の部下である小野塚 小町が真面目に仕事をしない事で頭を悩ますのはいつもの事だし、最近ストレスのせいか枝毛が増えてきた事にも悩んでいた。ついでに言えば、仕事が仕事だけに誰からも邪険視される事に密かに心の中で悩んでいたりもしていた。
 しかし、今彼女が抱えている問題は別にあった。何の因果かは知らないが、泣く子も黙る天下の閻魔様が赤子の面倒を見なくてはいけなくなったのだ。仕事が忙しい彼女にとって迷惑極まりない話である。
 彼女にとって悲劇の始まりは突然やって来た。仕事の関係上冥界とお付き合いがあった彼女の元に、思いつめた様な顔をした妖夢が赤子を連れてやって来て、経緯を説明した後赤子を引き取って欲しいと頼み込んできたのだ。
 当然映姫は断った。理由など挙げればきりが無いだろうが、彼女にとって一番の理由は赤子の面倒を見るだけの暇は無い事だった。ただでさえ遅れがちの仕事を、これ以上遅れさせたくないのが彼女の本音だったのだろう。
 しかし、妖夢も簡単には引き下がらなかった。妖夢が思いつく限り信用できて頼りになりそうな人妖といえば、公明正大な閻魔様いがいにおいて他にいず、かつ妖夢にとって映姫は知らない間柄ではなかった。それ故になんとか頼みを聞いてもらおうと食い下がり、終いには引き受けてもらえなかったらここで切腹するとまで言い出す始末だったのだ。ここまで来ると流石に引き受けざるをえなかった彼女は、泣く泣く面倒ごとを背負い込む事になってしまった。

「はあ、まだこんなに裁かなくてはいけない死人がいるわ。これは今日も徹夜決定ね……」

 仕事がまるではかどらない。当たり前の話だが一番世話のかかる時期にいる赤子の世話をしながら仕事ができる訳が無い。せめてもの救いはもう既に母親の母乳を卒業していたくらいで、あとは夜中だろうが仕事中だろうがお構いなく泣き始める。ならば小町に任せるかとも思ったが、サボる口実を与えるようなものなので速攻で却下した。

「四季様、生きてます?とりあえず死人を運んできたのでここに置いておきますけど、仕事がおっつかないようでしたら運ぶ量を控えますよ。それとも、なんでしたらお守りを変わりましょうか?」
「いいえ、結構です。小町は従来通り自分の仕事をしていればいいのです。そもそも私はともかく、貴方の仕事が遅れているというのはどう言う事ですか。最近運んでくる死人の量が減っているのは私の気のせいですか?」
「やだな、四季様。あたいは四季様の事を思って運ぶ量を少し減らしたんですよ。毎日赤ん坊の世話をしながら身を粉にして働く四季様のお体を心配して、三途の川を渡ろうとまだかまだかと待っている死人を運びたい気持ちをぐっと抑え、職務を全うしようとするこの体を涙を呑んで押さえつけている訳ですよ。」

 真面目に聞けば上司思いの良い部下の話であるが、映姫はいけしゃあしゃあと話すこの不良部下に怒りを覚えた。結局のところ、自分をダシにしてのんびりとサボっていたという事なのだろう。

「小町、貴方という死神はどうして……!」
「あ、四季様、大声を出してはいけません。赤ん坊が起きちゃいますって、ああ、言っているそばから泣き始めちゃいましたよ。」

 小町に非常に色々と言いたい事があったが赤子が泣き出してしまったので、怒り収まらぬ顔で映姫は赤子をあやそうとした。しかし、元々こういう事には不慣れな映姫は、なかなか赤子をあやす事ができない。最近ようやくコツを掴み始めた映姫だが、この調子では泣く子も黙る閻魔様とは言えない。

「ああ、よしよし。御免なさいね、突然大声を出したりして。さあ、もう少し眠りましょうね。」
「駄目ですよ、四季様。この子が急に泣き出した原因は四季様が大声を出したのもありますけど、お腹がすいているんです。ほら、この子に食事を取らせて上げましょう」

 そう言ってすばやく哺乳瓶を準備してきた小町は、なれたような手つきで赤子にミルクを上げ始めた。この事で満足した赤子がすぐさま泣き止むのを見て、映姫は非常に驚いていた。

「小町、貴方一体……?」
「ははは、伊達にそこら辺をほっつき歩いていませんよ。ちょっとばかし気が向いて、何度か子守を引き受けた事がありましてね。」

 仕事をサボってそんな事をしていたのかと映姫は問い詰めようかと思ったが、結局ミルクを飲み終えた赤子を眠らせる事にした。何はともあれ、小町に助けられたことは事実なのだ。

「四季様、そうじゃありませんよ。ほら、こことここを持って、ゆっくりと優しく。」
「こ、こう?」
「そうそう、そうです。ほら、赤ん坊が眠たそうにしていますよ。」

 こうして、二人の何とも言えないゆったりとした時間が流れて行った。赤子の世話は決して楽なものではないが、映姫にとっては仕事に追われる毎日だった頃には得られなかった言い表しようの無い充実感と、上司と部下という関係を超えた小町との時間が、日々のストレスで荒んでいた映姫を満たしていた。
 人生とは一体なんだったのかを、そして幸せとはどういうものだったのかを思い出させる時間を十分に満喫していた映姫だが、世の中仕事をしなければ仕事が片付く訳もなく、現実を直視すればそこには絶望が広がっていた。未処理の仕事が山ほど溜まっていて、ついでに言えば小町が死人を運ばなかった事によって花が再び咲き乱れていたのだ。

「な、あ、あ、こ、これは一体……」
「まあ、あれですね。ずいぶんサボりましたからね、あたい達。って、ああ、四季様、お気をたしかに!?」
 


 赤子が引き起こした騒動は、この後も幻想郷各地で続いた。一身上の都合でやむを得なく赤子を手放さなくてはならなくなったり、また生活がどうにもこうにも立ち行かなくなってしまって泣く泣く手放す事になったりと様々な理由があるが、結局のところ誰も赤子の面倒を見きれる人妖はいなかったのである。
 博麗神社から始まった騒動は紅魔館に移り、白玉楼や閻魔様の元に移り、幻想郷の各地に移り、そして今マヨヒガに移ろうとしていた。

「はあ、みんな酷いわね。ちょっとした慈善活動を兼ねた軽い気晴らしだったのに、あんなに怒るなんて酷すぎるわ。」
「自業自得です。毎度毎度の事で何度言ったかは忘れましたが、紫様はいつもお戯れが過ぎるんですよ。もう少し限度というものを考えたらどうなんですか?」

 涼しい顔をしてお茶を飲む藍に文句を言うのは、何故かボロボロの姿になった八雲 紫であった。普段の余裕のある表情とは打って変わって、心底疲れ切った表情をしている。

「何よ、藍まで。私は妖怪に親を食い殺されて、自信も危うく食い殺されかけた哀れな赤ちゃんを思ってやった事よ。ちょうど一日中暇を持て余していた巫女を知っていた事だし。まあ、普通に託してもつまらないから、少し欲を出したのは事実だけど。」
「よく言いますよ、皆さんが困って苦労しているのを喜んで見ていたクセに。それに、慧音さんあたりに渡ると面白くないからって、裏から色々と手を回していたのは誰ですか。」

 要するに、紫が新たな暇つぶしの為に赤子を利用して霊夢達を散々困らせたという事である。赤ちゃんの世話などした事が無い彼女達にとって育児は困難を極めたので、ほとんど紫の目論見どおりになった。
 しかし、いくら探しても見つからない親、人里離れた神社に何故か捨てられていた赤子、そしてどこかで見覚えのある字で書かれた置手紙など、様々な要素と彼女達の執念でついに紫の悪事がばれたのだ。玩ばれた事に完全に怒り狂った幻想郷の主たる面々が団結し、ありとあらゆる方法で追い込んだ紫に正義の鉄槌を下したのは言うまでもない。その裁きの宴において紫がいかなる事を体験したのかについては、紫が三日三晩うなされたという事実だけが物語っていた。
 そして、紫に降り注いだ困難はこれだけでは済まされなかった。当たり前のような話ではあるが、皆から責任を持って赤子を育てるよう言われたのだ。

「まったく、みんなは赤ちゃんの事をなんだと思っているの。まるで物のように他人へ渡して、赤ちゃんが可哀想だと思わないのかしら?」
「その赤ちゃんを遊び道具にしたのはどこの誰ですか。それに、皆さんはどうにか育てようと色々と死力を尽くしていましたよ。結局毎日を気ままに過ごしてきた人達ばかりでしたから、駄目でしたけど。」

 紫がどこまでも冷静に冷たく言い放つ藍に拗ねた表情をして抗議しようとしたとき、賑やかな声が居間に近づいてきたので会話は中断された。赤子を抱いた橙が入ってきたのだ。橙はどうやらこの赤子の事を気に入ったようだ。

「どうするんですか、あの子。嫌ですよ、私に全部押付けないでくださいね。」
「どうするもこうするも無いわ、どこか安全で適当な場所に置いてくるだけよ。そうね、私の安全の為にも外の世界なんてどうかしらね。」

 当然のごとくやる気の無い返事を聞いて、藍は呆れかえった。しかし、自分の主の性格をよく知っている藍は大方予想していた事ではあった。

「はあ、やっぱりそうなるんですか。でもいいんですか、そんな事をしたらまた皆さんから怒られますよ?」
「ああもう、面倒臭いわね。いっそうの事食べちゃおうかしら。この子の存在自体が私の胃の中に吸収されればバレやしないでしょうし。だって、妖怪と人間の関係ですものね。」

 もはや赤子を育てる気が毛頭に無い紫に対して、藍はただただ呆れるばかりだった。しかし、そんな紫を見つめる小さな瞳があった。

「あら、どうしたの橙?」
「……紫様って、ずるい」

 当然赤子の事を気に入っていた橙が反論してくる事は紫にとって予想はしていた。しかし、今の橙が紫に向けている目はどうであろう。感情を向きに出して訴えかけてくるような目ではなく、何か汚いものを見るかのような目である。

「こら、橙」
「だってそうでしょう、藍様。この赤ちゃんって紫様が助けたんですよね。だったらこの赤ちゃんを橙達で育てるのが、助けちゃった橙達の責任だと思うの。だってお父さんもお母さんもいないんだよ、どんなに寂しくても。だから橙達でお母さんとお父さんの代わりをしてあげなきゃいけないと思うの。」

 目には涙を溜め、しかしそれでいて真っ直ぐに見つめてくる視線を受けて紫は居心地の悪さを感じた。

「なのに紫様ったらこの子を育てる気なんてまるで無いんだよ。紫様の勝手でこの子を助けちゃって、都合が悪くなったから紫様の勝手で捨てるなんて酷すぎるよ!」

 藍は我が子のように育ててきた橙の成長振りに目を見張った。それに対し、まだ子供だと思っていた橙に痛い所を突かれて返答に困窮している紫は、橙のその真っ直ぐな視線がいよいよ耐えられなくなってきた。

「あ、あのね橙。私は別にその子が憎くてこんな事を言っている訳じゃないの。これには色々と山より深く谷よりも高い大人の事情っていうのがあるの。」
「紫様はただこの子を育てるのが面倒臭くて嫌がっているだけだよ!それとも自分の勝手な都合で赤ちゃんを振り回すのが大人だって言うの!?」

 動揺を隠し切れない紫に対し、一気に感情を爆発させる橙。半ベソをかいて半ばムキになっている橙のどこに、幻想郷随一の力を持つこのスキマ大妖怪の紫が気圧されるほどの力があるというのだろうか。

「そんな勝手なのが大人なら、橙は大人なんかになりたくない!!大人になんてなるもんか!!」

 それだけを言い残すと、橙は居間から勢い良く飛び出していってしまった。その目が涙に濡れているのを見て、居間に残った駄目大人とその式は気まずい雰囲気の中に取り残された。

「……どうするんですか、紫様。今その赤ちゃんを手放せば一生橙は紫様に口を聞いてくれなくなりますよ?」

 半ば橙の成長振りに感激している藍の問いに、紫は力なく頷くしかなかった。



 奇しくもあの怠惰なスキマ妖怪が育児に挑戦する事になったのだが、そもそも面倒事は全て藍に任せてきた紫にとってそれは遥か高き壁として紫を苦しめた。赤子のあやし方一つをとってももたもたとするのだ、オムツの変更やミルクを上げる事が上手くいくはずが無かった。

「あー、またお腹が減ったの?ミルクを飲んでもすぐに出すだけなんだから、少しは飲むのを控えたらどうなのよ!」
「紫様、落ち着いてください。赤ちゃんに八つ当たりをしても情けないだけですよ。」

 生活時間帯の違いから来る寝不足、そもそも他人に合わした生活をしてこなかった事からのストレスなどが紫を苦しめていた。しかし、皆から強要されたというよりは失った橙の信頼を取り戻す為に紫は頑張った。

「えーと、授乳の時は哺乳瓶を暖めてからで、哺乳瓶は毎回熱湯で消毒をする。オムツの替え方は……」

 どこから持ってきたかは分からないが暇を見ては育児に関する本を読んだり、何もしていないときでもぶつぶつと育児に関する事を小声で反復して忘れないようにしていたりしていた。何も知らない者が側から見れば、頑張りママの容姿である。
 半ば強制的に始めた子育ても、今となってはなかなか堂に入っているものになっている。紫自身は嫌々やっているという素振りだが、嫌々育児をしてここまでできるほど紫は我慢強くない。やはり、いつの間にか自分に懐いてきた赤子に情を移してしまったのだろう。

「紫様、入りますよ。おや添い寝をしている最中でしたか。それにしても、あの紫様が添い寝をしてあげるとは、よほど懐かれた事が嬉しかったんでしょうね。」

 赤子と一緒に寝ている紫の姿を確認して、藍はそっと部屋の戸を閉めながら感慨にふけた。あの紫が、添い寝である。昔なら雨の代わりに槍が降ってきてもおかしくない出来事である。しかし、今ではすっかり赤子の相手が上手くなって、色々な子守唄まで歌えるようになっている。最近では夜行性であったはずの紫が赤子と一緒に縁側で日向ぼっこまでしているほどだ。よほど自分に懐いた赤子が可愛くて仕方が無いようだ。
 それにしても赤子は本当に紫に懐いていた。本能的に危険な存在を察知して、咲夜の時みたいにまず懐くことは無いはずだった。しかし、ある意味もっとも危険な存在である紫にはしっかり懐いていた。赤子は何をもって紫に心を開いていいという判断を下したのかは分からないが、紫のどこにそういう要素があるのかは紫の式ですら頭を捻っている難問である。
 紫が赤子と一緒に過ごすようになってから、1年と数ヶ月の月日が流れた。赤子は今ではすっかりハイハイを卒業し、八雲家を歩き動き回れるようになった。また、手間はかかるが事あるごとに紫の姿を求めるその姿は、なんとも微笑ましいものである。
 しかし、紫はある決断をしなくてはいけなかった。赤子にとってそろそろ物心がつく重要な時期に差し掛かったのである。

「紫様、すこしお時間をよろしいでしょうか。お話をしたいことがあります。」
「分かっているわよ、藍。私だってこのままでいいとは思っていないわ。橙を呼んできて頂戴。」

 赤子にとってこのまま自分の家で育てる事がはたして良いことなのだろうか。このままでいけば、妖怪に育てられた事によって特異な子供になってしまわないだろうか。物心がつく前に、人里で育てられた方がよいのではないか。これらの事について紫は随分と悩ましてきた。
 しかし、歩くことを覚え、必死に自分の後を追ってくる赤子の姿を見ていると、どうしても紫は赤子を手放す気になれなかった。しかも赤子を手放すことに躊躇っているうちに、紫の中で赤子の存在はいつしか大きくなってしまっていた。もはや手放す事を考えただけでも紫の心は悲しみで溢れた。
 だが、紫は決断するしかなかった。この赤子の事を大切に思っているのなら、赤子の幸せを考えてあげなくてはいけないからだ。
だから紫は決断した。決して平坦ではないだろう特異な人生を送らせるよりも、人として普通に生きながら、平穏な中で幸せになってくれる事を。



 この日、少女は16歳の誕生日を迎えた。里ではささやかな祝いが開かれ、育て親の上白沢 慧音と里の人間らが少女を祝福した。
 少女にとってこの日は幸せな一日だった。割と能天気なところがある少女は誕生日というだけで何時になく幸せな気分になっていた。誕生日の祝いが終わった後は気が向くままに里の中を歩き、いく先々で祝いの言葉がかけられた。また、同い年ぐらいの娘達と日が暮れるまで思う存分遊び回った。少女はこの日を思う存分堪能したのである。
 夕暮れになり、少女がノンビリと家に向かって歩いていた時だった。道の向こう側から歩いてくる見慣れない女性を発見した。紫色と白色を基調とした服に、もう夕方だというのに日傘をさして歩いてくるその女性は、同じくノンビリと少女の方へと向かってきた。

「今日は。それとも、もう今晩はかしら。」

 この決して広くない人里で知らない人物に出会った事に驚いた少女は、その知らない女性に話しかけられた事に更に驚いた。

「あらあら、驚かしてしまったかしら。でも安心して、決して怪しいものじゃないから。そうね、貴方の家の慧音とは知らない仲じゃないわよ。」

 育て親の慧音からは知らない人について行ってはいけないと厳しく言われていたが、少女はこの女性をなんとなく信用してもいいと思った。根拠は無いが、昔からよく働く直感で信じてもいいと思ったからだ。

「そうそう言い忘れるところだったわ。16歳のお誕生日おめでとう。近いうちに独り立ちするんですってね?」

 何故この女性が慧音の元から巣立つ事を知っているのかを不思議に思ったが、それよりも祝いの言葉を受けて思い出すものがあった。前の誕生日にも、その前の前の誕生日にもこの女性の声を聞いた覚えがあるのだ。残念ながら姿まで見た記憶は無いが、ひょっとしたらこの女性と知らない間に何度も会った事があるのではないかと少女は思った。

「あの、失礼ですが前にもどこかでお会いしましたか?」
「……そうね、こうして会うのは初めてじゃないかしら。未練がましいのは好きじゃないけど、今日は貴方の門出となる日でもあるし、少し気が向いたのよ。」

 ふふふ、とどことなく大人の雰囲気が漂う笑みを浮かべ、女性は満足そうに少女を見つめた。少女の気のせいだろうか、その視線には隠し切れぬ親しみが込められているように少女には思えた。

「さて、用も済んだしそろそろお暇させていただくとして、最後にちょっといいかしら。変な事を聞くようだけど、貴方は今、幸せ?」

 少女は女性の質問の意図が掴めず、ぽかんとした。しかし、その質問には悪意や他意が込められている感じはしなかった。

「は、はい。誕生日の日っていつも見ているものでもなんだか新鮮に見えてしまうし、いつも聞いている事でもなんだかとっても楽しく聞こえてしまうんです。誕生日ってとっても摩訶不思議ですよね。」
「……御免なさい、聞き方が悪かったわね。今日の事だけじゃなくて、普段の生活の事も含めて聞いているの。どう、この変わらない毎日、変わりようの無い日常、ただひたすらゆるりと流れる時間の連鎖、そんな代わり映えのしない退屈な日々は貴方にとって幸せかしら?」

 その時、少し聞きにくそうに尋ねる女性の目にほんの僅かに後悔や迷いといった感情の色が灯ったのに少女は気が付いた。恐らく、理由は分からないがこの女性はずっと迷っていたのではないか。そして、今更にこの質問をしたことにも後悔をしているのではないだろうか。そう少女には思えた。

「私はたぶん幸せだと思います。確かに大きな変化や出来事は無いですけど、それでも私は里での生活に満足しています。だってどんなに変わらない毎日でも、気がつけばほんの小さな変化がありますし、新鮮な出会いもあります。変わっていなさそうでどこかが少しずつ変わっているこの生活が、私は大好きです。」

 少女は力強く頷いた。どんなに小さくてくだらない事でも、要は受け取る側の問題である。注意を払うに値しないと決め付けて目を背ければそれまでだが、素直にそれを受け入れて感動すれば宝にも成りうる。能天気な少女にはほんの僅かな変化や見慣れているはずの変化、端的に言うなれば四季の移り変わりですら感動を覚えていた。
 この言葉を聞いた時点で女性は、『この能天気は誰に似た』とか、『まさか霊夢』とか、『ほんの一時期でも預けるんじゃなかった』とか呟いたが、少女には聞こえていなかった。

「それにですね、私は今がとっても幸せです。だって、貴方とこうしてお会いできたんですから。人の出会いって本当に不思議ですよね。」

 微塵にも嘘や穢れの無い、少女の本心からの言葉を聞いて女性は少しの間呆気に取られた後、照れたように後ろを向いた。少女は理由も無くこの女性の事が好きになっていた。何故か一緒に話していると不思議と安心できるし、温かい気持ちになれる。そんな気持ちを恥ずかしげもなく言葉として直接ぶつけてきた少女に、聞いている女性の方が逆に恥ずかしくなってしまったのだろう。

「それじゃあ私はそろそろ行くわ。御免なさいね、呼び止めて変な事を聞いてしまって。」
「あ、あの、待ってください!」

 後ろを振り向いたまま立ち去ろうとした女性を、いきなり少女が呼び止めた。少女はどうしても聞かなくてはならない事があった。一緒に話していて沸きあがってくる感情、温かさや安心感と同時に、何か胸を締め付けられる感情が何故か湧いていた。

「あの、あの、本当に以前お会いしていませんか。なんだかとっても懐かしい気持ちになって仕方が無いんです。」
「……さあ、どうかしら。」

 短く答える女性のその表情は、どことなく寂しさが滲んでいた。しかし、それと同時に嬉しさも滲み出ているようにも少女は見えた。

「さて、長居しすぎたわね。そろそろ夜になるし事だし、貴方も妖怪に気をつけなさい。いくら里の中とは言え、ボーとしている貴方には特に注意が必要よ。ああそれと、メイドにも気をつけたほうがいいわね。」
「大丈夫ですよ、不思議と私は怖い妖怪さんに出合ったことが無いんです。間違えて危険な森に入って迷子になった時でも、何故か怖い妖怪さんに出会う事無く無事に脱出できましたから。でも、一度妖怪さんともお話してみたいですね。」

 やれやれ、といった感じで何故か女性は溜息をついた。まるで人の苦労を知らないでと言わんばかりの表情だったが、にこやかに笑う少女を見て機嫌を直した。

「あまり運に頼らない方がいいわよ。運というのはすごい気まぐれで、何時も貴方を凶暴な妖怪から護ってくれたり、道に迷っても道しるべの様なものが現れてくれたりするとはかぎらないから。」

 何故この女性が森で現れた不思議な道しるべの様なものについて知っているのか少女は不思議に思ったが、あえて聞くことは止めた。どこか不思議な雰囲気を漂わせるこの女性なら、何故か知っていてもおかしくないと思ったからである。

「それじゃあ、御機嫌よう。」
「あの、また会えますよね。今日は立ち話になってしまいましたが、今度はぜひお茶をご馳走したいです。」

 またこの女性と会いたい。またこの女性と話をしたい。そう思った瞬間少女は女性に問いかけていた。

「……そうね、気が向いたらまた貴方に会いに来るわ。でも覚悟しなさい、どっかの巫女のせいで、私は少しお茶にうるさいわよ?」

 そう笑顔で言い残し、女性は今度こそ立ち去って言った。いつまでも女性の後姿を見送っていた少女も、女性が見えなくなると再び帰路へと着いた。

「あ、しまった。あの人のお名前を聞くの忘れてた。」

 ふと、少女は自分がしたミスに気がついた。あれだけ好きになった相手の名前を聞くのを忘れるなんてうっかりするにも程があると反省したが、また会った時に聞けばいいと思いなおした。
 今日こうやって不思議な出会いをしたのだ、私とあの女性とは不思議な縁があるに違いない。だからきっとまた会える、と少女は固く信じた。
どうも、すごいお久しぶりです。
さて、すごく久しぶりにSSを書いてみた物ですからちゃんと書けているかどうか心配です。誤字脱字があったら教えてください。
それにしても長い文章になってしまいました。仕事の合間に少しずつ書いていたら、いつの間にかこんなのになっていて自分でもビックリしています。
それでは、また。

*誤字のご指摘ありがとうございました。また、『今日は』は辞書的にはあっているようなので、このままにしておきました。
ニケ
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コメント



0.6980簡易評価
2.100名前が無い程度の能力削除
だれが こんないいはなしを かいていいと いった!
3.90名前が無い程度の能力削除
お見事
7.100K&K 削除
すばらしい、この一言に尽きます。
10.100AIM-120M削除
なんちゅうモンを書いてくれたんや
12.100名前が無い程度の能力削除
あぁ、心が温まる・・・
13.100名前が無い程度の能力削除
紫に泣かされるなんて・・・くやしい・・・・・・
18.無評価おやつ削除
GJっした。紫様は母性に溢れかえってあまりまくってる妖怪さんですね!
誤字報告としましては、『自信』→『自身』 『今日は』→『こんにちわ』ではなかろうかと。まぁ、後者にはひたすら自信が無いので間違ってたら嗤って下さい。
23.90雨虎削除
うん、ゆかりんはおいしいところを全部持って行くんです。ちくしょう。
良いゆかりんを読ませていただきました。ありがとう。
26.100名無し参拝客削除
いつも悪戯なスキマ妖怪も、穢れを知らない猫又少女に教えられたシーンが
好きです。文句なしにこの点数です。
35.100名前が無い程度の能力削除
最後のあたり、この子はひょっとしたら夏に本格的にお目見え予定の稗田のとこの阿求さんかとも思っていたのですけど、さすがに深読みし過ぎたようです。
でもむしろ、名前のないままに終わって、すとんといい感じにまとまったようにも思います。
うん、これもありかな。
38.100名前が無い程度の能力削除
サイコーですよぉぉ。。(涙
39.100名前が無い程度の能力削除
素晴らしかったです。序盤で苦労した少女たちも、自分の子を持ったときにこの子の事を思い出すんだろうな~などと妄想してしまいました。
45.100紫音削除
・・・最早、細々と語る必要なし。ただ、この一言に尽きます。

『素敵な話をありがとう』
47.100TNK.DS削除
凄い話だ・・・紫様の母性もさることながら、紫様を説得する必死な橙の姿に感動しました。
48.80名前が無い程度の能力削除
このドタバタ展開ちゃんとまとめられるのかと思ったが綺麗にまとめられている。
紫をしかる橙がよかったです。
地味に魔理沙の「香霖の奴め、私という者があるというの」もよかった。
58.80変身D削除
良い話でした。特に母性全開の紫が良い感じで。
ちなみに自分もこの赤子が後の阿求女史になったのかなあと思ったクチです(w
59.100ぽんた削除
うん、いい、すごく・・・。
61.100兎波羅の民削除
終わり方がすっきりしてていいですー
62.100名前が無い程度の能力削除
ああ、文句無しに綺麗な物語だ
63.100名前が無い程度の能力削除
もう、言葉が出ない
64.100名前が無い程度の能力削除
上手いなぁ~、素晴らしかったです。
ぬぅ、この子がメリーだと思ってたのは私だけですか?
65.90数を書き換える程度の能力削除
どこかで読んだ野良猫や野良犬の話を思い出しました。
『救ってしまった命には責任が生じる。最後の別れを覚悟するまで。』
79.100名前が無い程度の能力削除
最高、これ意外言葉が出てこない。
82.100加勢旅人削除
美しい!!
93.100無銘削除
このゆかりんはとてもよいゆかりんですね
104.100名前が無い程度の能力削除
ああ、うん、とても良い。じんわりとしました
108.90名前が無い程度の能力削除
紫一家の掛け合いがグッド。
116.100名前が無い程度の能力削除
育児環境が良い八雲家最高
134.100時空や空間を翔る程度の能力削除
十六歳・・・
元服のお祝いに紫さんからメッセージ
良かったです。

・・・・・・・しかし・・・・
本当の母親は一体誰でしょか??
141.80名前が無い程度の能力削除
探してくださいに吹いたw
誤字や言葉の誤用が多いですが、いい話でした
172.100名前が無い程度の能力削除
場面を想像すると思わずニヤニヤしちゃうなこれは…
しかしいい話だ