その頃太陽はは中天を脱し、緩やかに西へと日差しを傾けていた。霊夢はその位置を確認し、残された時間をおよそイメージする。長くはないだろう
博麗神社には実に様々なものが運ばれ、境内の一角にまとめて積まれていた。首に縄をかけた鶏が放されているのが一番異様だが、高貴な宝石が無造作に置かれている傍らに古びた注連縄が掛けられていたり、大量の桶が山になって捨てられていたりと非常に混沌としている。
その端っこに、椅子に寄りかかってヒョウタンをひっくり返している萃香もいた。
「なんかお祭でも始まるわけー?」
やる気なさげに問いかける萃香。霊夢は答えず、机に布や玉や鏡や……とにかく色々ばら撒いて玉串――いつも持っているお払い棒を豪華にしたもの――作りをしていた。
準備にはさほど時間はかからない。祭具を集め、幻想郷中に白の紙を配って回るほうがよほど大変だった。頑張った甲斐もあり、これから起こるであろう異変に十分対処できるだけの準備が整っている。
「宴会にしては面子が足りないしー。あんたにしちゃ風流のかけらもないわねー」
よほど寂しいのだろう、空を見上げながら管を巻く萃香。時折間欠泉のように彼女の口から火柱が立ち昇っては空に消えていった。鶏がびびって逃げ出していく。
全て無視し、霊夢は玉串を完成させた。改めて眺めると、彼女の作にしては丁寧な出来だ。それを提げ、霊夢は社の正面に移動する。
「何が始まるのよー?」
すぐに分かるだろう。
あとは待つだけ。まさに人事を尽くして天命を待つのみ。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
「――それじゃああいつ、ここにもきたのか」
「ああ。まったく桶なんて何に使うのか、見当もつかないけどね……」
霖之助は窓際で真っ白な紙を眺めつつ、魔理沙にそうこぼした。
昼下がりの香霖堂、今は霖之助と魔理沙以外誰もいない。彼女は研究材料の補給とかいう理由でやってきていたが、いつも通り商品には目もくれずにだらだらしている。その研究が行き詰ったのだろう、多分。
この店に霊夢がやってきて、旋風のような勢いで桶をかっさらって代わりに紙を捨てていったのが一時間ほど前だった。それより以前に、霊夢は魔理沙の家から剣も持っていったらしい。
相変わらず謎だ。
「こんないい天気に巫女が張り切るもんじゃないぜ、こっちまで気を張らなきゃいけない気分になる。例によって縁側でお茶でもすすっていればいいんだ」
「同感だ。まったく、霊夢が動くといつも騒動が――」
ふと、背後に影を感じて霖之助は振り返った。
その先には窓があったが、予想に反して何者の姿もない。かといって錯覚かというとそうでもなく、彼の手元が暗くなった理由は別にあった。
目をしばたいて、それこそ錯覚かと疑ったが視線の先は明確に変化していた。魔理沙が言っていたように、外はいい天気のはずだった。それがなぜか……光が減っている。
太陽は直接見えないが雲に覆われたわけではない。木々の隙間に見える青空には雲ひとつないし、その青さ自体、どこか薄暗かった。
一体いつから――
「おい、変だぜ香霖……」
魔理沙も異常に気づいたようで、彼の横に並んで外を見つめていた。霖之助は魔理沙の手を引っ張って出口を指す。
「表に出てみよう」
急いで扉をくぐり、辺りを見回す霖之助。魔理沙も多少緊張した様子で、箒を手に油断なく周囲を警戒している。
「霊夢の焦ってた理由はこれみたいだぜ……どこぞの妖怪が昼の時間を縮めようとでもしたのか?」
「――いや違う、魔理沙。上を見るんだ」
「何?」
霖之助に倣い、上空を見上げる魔理沙。直後、彼の隣で息を飲む音が聞こえた。
「……なんだあれ!」
■ ● ■
「時間通りね」
永琳は永遠亭の屋根に立って空を見上げていた。吹き上げる風が身体をかすめていく。
彼女は遮光プレートを掲げ、遠く輝きを放つ太陽を見つめていた。真っ黒なプレートに円を描いて現れる太陽は――いや、太陽はそのとき、円を描いてはいなかった。
ほんの少し、直接見ては分からない程度に、縁が欠けている。
「あなたたち、食を見るのは初めてだったかしら」
「はい……こんな感じになるのですね」
「なかなか面白いじゃない」
永琳の隣に、屋根にしゃがみこんだ鈴仙とてゐの姿があった。鈴仙は数分前まで高台を暴走していたが、永琳が殴って連れ戻したのだ。今は、二人とも興味深そうにプレートに食い入っている。
「どうでもいいけどね、ウドンゲ。日食如きで変な電波を受信して混乱してもらっちゃ困るわよ」
「いえ、その……強烈だったものですから……つい……」
「ねー永琳、なんかこれどんどん削れてるように見えるんだけど」
てゐが太陽を指しながら言ってきた。永琳はこともなげにうなずく。
「予測では、丸々消えてしまうことになっているわ」
「え!」
「はいはい、慌てない」
同時に腰を浮かせた二人を制し、永琳は疾風に流される髪を押さえた。
天測のデータや、鈴仙が狂乱するほどの電波を放つことから、月が太陽を食い尽くすことは間違いないだろう。
髪をさらう風にも、早速淀んだものが混じり始めた。陽の光――浄化の象徴が勢力を失うにつれ、穢れた者どもの跳梁が始まる。今は意識しなければわからないほどの小さな変化だが、地上から光が失われるにつれ、さらに悪化していくはずだ。
永琳はプレート上の欠けた太陽を見つめ、その輪郭をかつて見た皆既日食の記憶に重ねつつ告げた。
「月を挿げ替えるのとはわけが違うわ。さすがの私でも、あれはどうしようもない。なるようにしかならないわね」
「あのー、師匠……当然、元通りになるんですよ、ね……?」
「分からないわよ」
太陽が隠れる。それをただの天体の気まぐれと解釈することもできるが、果たして本当に月が通り過ぎれば元に戻るかといえば、保証などないのだ。太陽は月に飲み込まれ、永久に姿を現さないかもしれない。
「地の者に愛想を尽かして、世を照らす気も失せてしまったのかもしれないわね。姫みたいに、引きこもりきりになってしまってもおかしくないし……」
彼女は腕で周囲を示しながら続けた。
「感じる? 太陽の衰退を察知して、良くない者たちがほうぼうから湧き始めているわ。夜は歓迎だけど、太陽がなければ月も昇らない。下等な妖怪たちが我がもの顔で大地を闊歩し、綺麗な自然は丸ごと萎れていくっていうのに、私達の環境はちっともよくならないわ。まさかそんな天下がお好みじゃあ、ないでしょう?」
「それは……気持ちのいい話じゃないわね。どうすればいいのよ」
「難しい話じゃないわ。二人とも、今私達にできることは一つだけよ」
永琳は用意してあった紙――霊夢が置いていったアレだが――を取り出し、二人に渡した。
ウィンクなど交えつつ、気楽に続ける。
「こういうときは――」
■ ● ■
「太陽がえぐれてるぞ、香霖!」
「落ち着け、魔理沙。あれは日食だ。月が陽の光を遮っているんだ」
もうだいぶ前から食は始まっていたのだろう。すでに、肉眼でもその欠落が確認できる規模にまで太陽は縮んでいた。まったく異様な光景ではある――半分以上、ごっそりと太陽が消えてしまったのだ。
「恐ろしいな。あれほど大掛かりな日食はもうずいぶん見てない……ひょっとしたら、全部消えてしまうかも」
「き、消えるのか?」
「戻るよ、多分。そのために霊夢が頑張ったんだろう」
とはいえ、霖之助も胸中では自分の言葉に確信を持てなかった。見上げた空は不気味としかいいようがなく、それとなく周囲を探ってみると、そこかしこから尋常ならざる気配が漂ってくる。
穢土の大気だ。陽のみそぎはらえを失って、蛇蝎どもが無理やり押し寄せてきたと見える。
「……なぁ、香霖。ほんとに大丈夫なのかぁ」
「……うーん」
さすがにいきなり妖怪たちが勢いづくとも考えられないが、こうも不吉な空気になってしまうと何と言っていいのか分からない。太陽が永遠に消えるという結末だけは、強いて考えないように努めた。
霖之助は魔理沙をかばうように移動して、霊夢から渡された紙を手に取った。魔理沙も同じように懐から取り出す。なんでもない紙切れだが、霊夢がこの時のために残していったのは間違いない。
そうこうしている間に、太陽はさらに致命的にやせ細っていく。
「やばいぜ、香霖。めでたくないことに太陽は絶賛先細り進行中だ。日食っていうのは急には止まれないのか? 順調に暗くなってなんとも具合が悪いぜ」
「少し混乱してるぞ、魔理沙……大丈夫だ、ほら」
彼女の手を握り、どうにか笑顔を向けて落ち着かせる。彼も心中穏やかではなかったが、情けないところは見せられない。
霖之助は深呼吸すると、もう一度紙に目を向けた。
「これが何か、特別な力でも持っていてくれたらいいんだけど……」
そう呟いたとき、声を聞いていたようなタイミングで紙に変化が起こった。何もなかったはずの紙面に、筆を走らせるように墨が引かれていく。
そして二人の目の前で、あっという間に一枚の水墨画になって完成した。
■ ● ■
「お嬢様ぁー。紙に絵が浮き出てきましたよー」
「美鈴、門番……まぁ、この状況では無理があるかしらね。で、何が書いてあるって?」
「それがよく分からないんです。咲夜さんはこれが何かご存知ですか?」
「あら、これ……えーと……そう、確か太陽神の御尊容ですわ。以前神社の掛け軸で見たことがあります」
「太陽神? また霊夢も、ひねりのかけらもないものを置いていくわね……」
「お日様が消えるのは大陸で何回か見ましたけど、何度見ても慣れるような景色じゃないですね。やっぱりお日様も、地上を照らすのに飽きちゃったんでしょうか」
「何回か……て、あなた何気に長生きねぇ。私ですら昔一度しか見たことないのに」
「お嬢様、メイドたちも不安がっていますわ。早急に対処のご指示を」
「あんな底抜けの大異変なんて、私じゃどうこうできないわよ、悔しいけど。このまま真っ暗になっちゃうかもね」
「では、どうすれば――」
「ねぇ咲夜、永遠の夜の世界っていうのもなかなか魅力的だと思わない? 人間も妖怪も、誰も私には逆らえないわ。息が詰まる太陽なんかゴミ箱に放り込んで、素晴らしい夜空の下で想いきり羽を伸ばすの。きっと素敵よ」
「お嬢様、しかし」
「――でもねぇ、それは面白くないのよ。前に霧を広げたときそう思ったわ。昼があるから夜も面白いの。それに、年中無休で支配し続けなきゃいけないなんて疲れるったらない。だから仕方ないけど、昼を戻すのに少しばかり力を貸してあげることにしましょうか。なすべきことは、ただ一つ。咲夜も美鈴も手伝うのよ」
「はい」
「はい!」
「こういうときは――」
■ ● ■
「……これは、犬?」
魔理沙が間の抜けた声でぽつりとそう言った。
闇に反応して墨が浮かんできたのだろう。その絵は単純ながらも力強い構図で、見る者の心の深い部分に語りかけてくるようだった。繊細にして大胆、流麗にして重厚……紙の端の方に絵師の名前が記されていたが、ただ者ではない腕前の持ち主だというのに心当たりはなかった。まぁ、それはいい。
そこに描かれているのは、確かに犬に見えた。「天」一文字を背景に、巨大な岩の上に立ち遠吠えの仕草で空を大きく仰いでいる。その鼻の先には燦然と輝きを放つ丸が描かれていて、「照」一文字が収められていた。
そして絵の右――犬と、太陽らしきものの右――に、「天照坐皇大御神」とあった。
ふと、これが一体なんなのか、霖之助には分かった。彼の能力も、こういうときには役に立つ。
「いや、これは狼だよ。大神とかけているのだろうね……太陽神を表したものなんだ」
「それが……どうかしたのか?」
「あぁ、うん。そうか、霊夢の言いたいことが分かったんだ」
額に手を当て、閃いたことを反芻する。難しい話ではない――難しい話ではなかった。なんとも単純で、彼女らしいといえば彼女らしい。それが一番、もっともだと納得できる方法ではないかと思う。
薄れゆく光明、深まる妖気を肌に感じながら、霖之助は指を立てて魔理沙に向き直った。
「いいかい、魔理沙。この絵は、忘れちゃいけないことを思い出させてくれるためのものなんだ」
■ ● ■
もはや夜と呼んだほうがよさそうな暗がりの中、妖夢は唖然と空を見上げ立ちんぼし続けていた。自慢の妖刀を二本とも手に持ってはいるが、そんなものは何の役にも立たない。
いまや、彼女が丹精込めて手入れしてきた庭は、数時間前の精彩をまるで欠いていた。陽の光が薄れるにつれ、毒気に当てられたように木々は萎れていくのである。妖夢は必死になって木や花の手入れに走ったが、まったく効果が上がらず手の打ちようがなかった。
どこぞの妖怪の仕業かと本気で疑ったが、最終的にはそれも否定せざるをえなかった。たとえ八雲紫であっても、太陽を打ち消すなどという途方もない術は不可能だろう……
肩を落とし、ぼんやりと細い太陽を見やる。白玉楼のあちこちから怨霊が噴出してくる気配を覚えはしたが、たとえ斬っても次から次へと現れるだけだ。どうしようもない。
「妖夢」
振り返ると、縁側に幽々子が佇んでいた。手に二枚の紙を提げている。
「そんなところでぽかんとしてても、お天道様は戻ってはこないわよ」
「幽々子様……」
フラフラと消沈しながら、彼女の元へ向かう。刀を収めて幽々子の前まで来ると、彼女は妖夢の頭をぽんぽんと叩いてきた。促されるまま、縁側に並んで座る。
「申し訳ありません、幽々子様。力及ばず、西行寺家伝統の庭をむごたらしい有様に……」
「どうしようもないことだわ、妖夢。お天道様が機嫌を損ねられたら、木も花も元気をなくしちゃって当たり前なのよ。あなたが太刀打ちできるような問題ではなかったの」
「……無念です。なぜ太陽が突然……」
霊夢が何か関係しているという予想はついたが、それ以上は不明だった。いよいよもって取り返しのつかない事態になろうとしているのに、彼女でも解決できないということも心配の種だ。
「お天道様がお隠りになるのは、六十年の周期よりさらに長い三百六十年に一度。書物によれば、かつて幾度もお天道様は暗中に潰え再誕を得られたとか。長久を、実に長久を地上に神明のお導きを授け給うてきたお天道様は、かの天照る神により遍く照らされ生を賜る大地の民が尊崇の念を忘れないよう、幾年を経るごとに岩戸に隠られて御身のご威光を世の者に知らしめなさるのよ」
「……さっぱりです」
幽々子が突然難しいことを言い出すのは、大抵妖夢を煙に巻くときだ。今はそれどころではないのだが、反論する気力もなく妖夢は足元の地面を眺めていた。
「妖夢、あなたはお天道様がぽかぽか照ってくれたほうが嬉しいわよね?」
「当たり前じゃないですか……まさか幽々子様、暗いほういいのですか?」
「それはそれで快適だけど、私もお天道様が笑っていただける世の中のほうが過ごしやすいわ。でも妖夢、そんなお天道様のありがたみって、何かと忘れがちになってしまうものなのよね」
言葉の終わりに、幽々子が紙を渡してくる。それ自体は霊夢が残していった紙だったが、誰が付け加えたのか犬と――太陽の絵が描かれていた。
心に響く絵だった。この感情を何と表せばいいのだろう。感動とは違う、畏敬でもない。単なる希望を感じさせるものではないし、心の安寧をもたらすものとも言い難い。
――感謝。
そんな単語が胸に留まった。場違いな言葉だとは思う、絵を見て感謝の念を抱くなどと。
胸中の思いに戸惑っていると、幽々子がひょうひょうと横槍を入れてきた。
「忘れてはいけないわー。私も妖夢も、毎日お天道様の下で生きてるのよー……死んでるのよ?」
「いや、幽々子様。そんな無理してどちらか一方を選ばなくても……」
妖夢は苦笑して幽々子を見やった。彼女も笑って妖夢を見ている。
その笑顔を見ても、いつも通り真意を計りかねるだけだったが、おそらく幽々子なりに妖夢に何かを伝えたかったのだろう。
妖夢も大体は理解できたと思う。太陽が消えた理由――失くさなければ気づかないから、心優しい天の神は、時折地の者に大切なものが何かを教えてくれるのだ。
「妖夢、今私達にできることは、たった一つよ」
「心得ました、幽々子様」
妖夢は、消えかけた太陽を見上げた。大切な祈りが届くように……
「こういうときは――」
■ ● ■
「僕らは天の下に生きている。陽の光が花を咲かせ、風を呼ぶことを当然として生きている。野に獣が息づき、山に緑が芽吹く。それは当たり前のことだけど……とても大切なことなんだ。それを決して忘れないように、この絵はこんなにも語りかけてくるんだよ」
忘れてはいけない。
人を、命を見守る、尊くも広大無辺の優しさを忘れてはいけない。
それを蔑ろにしたとき、地の民は天を見つめなおす試練を与えられるのだ。人心は惑い、妖怪が蠢くこの皆既日食が過去幾度となく繰り返されてきたことを、彼は知っている。それでも陽の光が消えなかった理由は、確かにこの絵の中にあった。
「大神がなぜ姿を隠すのかは、僕は知らない。弱ってしまったのかもしれないし、呆れてしまったのかもしれない。でもそんなことは関係ないんだ。僕たちにできることは、最初からたったの一つだけだったわけさ」
「なんだ香霖、こんな天気なのにやけに饒舌だな……私達にできることって、なんだ? あきらめて不貞寝するのか?」
「何を言ってるんだ魔理沙。君がこの絵を見て感じたことをそのまま実行すればいいんだよ」
霖之助は片手で魔理沙の手を握ったまま、開いた腕で天を示した。思いを込めてその先を見上げ、今まで陽の光が照らしてきたであろう幻想郷の全てを思い描きながら、彼は口を開いた。
「こういうときは――」
■ ● ■
「良くない天気ですね」
「……その一言で片付けますか、映姫様……」
閻魔の庁にて、映姫と小町はそろって天を見上げていた。視線の先には、もう猫の爪ほどにも細く変わり果てた太陽がある。
恐ろしいことに、映姫は日が欠けはじめたというのに裁判を続け、ついさっきようやく死者たち全員に判決を下したところだった。小町などはとっくの昔に渡し守を放り投げ、映姫の傍らに控えて指示を待っていたのに。
霊夢に言われたとおり、彼女が持ってきた紙は死者たちに渡されている。今頃彼らは地獄か極楽かで紙と空を見比べていることだろう。
「仕事熱心にもほどがありますよ。どうするんですか、あれ」
「見れば分かるでしょう、小町。あれはどうしようもありません。ドンと構えて待ち続けるのが何よりも大切なのです。いたずらに心を乱しては大神にお礼返しなどできませんよ」
「映姫様、映姫様。言ってることが意味不明です」
小町はため息をこぼしつつ手元の紙を見つめた。犬と――映姫に言わせれば狼だそうだが――太陽の絵。一体いつの間に出てきたのか知らないが、それは見事な筆遣いだ。
よくできた皮肉か……いや、時期を待っていたということか。
もし太陽が暖かく照りつける日中にこの絵を見ても、何を思うこともなかっただろう。だからこの絵はずっと待っていたのだ、人の心を打つ時が訪れるのを。日が闇に没するその時こそ、まさにこの絵は最も輝きを放つに違いない。
よもや霊夢が描いたということもないだろう。絵師の名前に見覚えはなかったが、この凄腕の絵描きは遥か昔から太陽の危機を案じていたのだ。大したものだと、素直に思う。
小町は目を上げると、すっかり蔓延してしまった大気の淀みに辟易しつつ呟く。
「太陽がえぐれっちまったせいで、死界にまで堕気が流れ込んできてますよ。何もしないっていうのは、まずいんじゃないですかね?」
「小町、あなたもまだまだ精進が足りませんよ。大神がお隠りになられたのなら、私達が直接的な方法で解決することはできないのです……少し、歴史の話でもしましょうか」
映姫は壇上からひょいっと降りてくると、小町の横に立っていつもの説教口調で声をあげてきた。
「初めて大神が岩戸にお隠りになられたのは、古事記の話です。途中は省きますが、大神がいなくなっただけで、世の中は上へ下への大騒ぎだったのですよ。また、力ずくで連れ戻そうにも、岩戸はびくともしない。困った八百万の皆さんはあれこれと知恵を出し、ようやく大神をお引き戻しされたそうですが、それは苦労したらしいですよ。それだけ大神が皆に愛され、大切に思われていたのです」
笏を立ててとうとうと語る映姫は、こんな状況だというのにどこか楽しげですらあった。ふと小町は、彼女も天部と呼ばれる死界の大王であることを思い出す。映姫と件の太陽神とは、どこかで知り合いであるかもしれなかった。
「それでも何百年と経つうちに、世の中から大神へのありがたみはだんだん薄れてきます。大神はお嘆きになり、力を失ってふらりと岩戸にお隠りになってしまわれるのですよ。それが三百六十年に一度訪れる皆既日食の由縁です。月が太陽を飲み込むとか、何も分かっていないことを仰る方たちもいますが、天から陽の光が消えてしまって困るのは皆一緒です。大神が例によってお隠りになられた以上、八百万の皆さんも昔のように奮闘してらっしゃることでしょう。私達にできるのは、あくまでもその一助に過ぎません。大神には、自ら帰ってきていただかなければならないのですから」
映姫は帯に笏を挟むと、数秒間じっと狼と太陽の絵を見つめた。脳裏に焼き付けただろう時間を経て、彼女はそれも丸めて懐に入れると胸の前で手を組んだ。
「大神がお隠りになられたのは、世の中から感謝の気持ちが失われたせい。ならば何をもって大神にお戻りいただくか、もちろん分かりますね、小町」
「ははぁ……なるほど。大神様も、粋なんだかわがままなんだかよく分からない計らいをされます」
「忘れてしまったことを思い出させてくれるのです。これが粋でなくてなんでしょう」
映姫は微笑みながら、ゆっくり太陽の方に頭を垂れた。
小町も同じく紙を懐にしまい、手を組んでおもむろに目を閉じる。自然と胸の奥から、暖かいものがこみ上げてきた。
「なるほど、確かに私達にできることは一つだけですね……映姫様」
ただひとつ、そのために心を捧げる。
「こういうときは――」
◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
「――祈るのみ」
そう告げる彼の視線の先で、ついに太陽はその姿を完全に消し去った。
周囲の禍はとうとう最高潮に達し、湧き上がる不吉な気配はもはやごまかしようがない。
肌をなでる不快な風は延々と彼方より吹き荒れ、目に映る闇の蠢動は不気味な嘲笑の如き悪意に満ちている。空は夜よりもなお深く、耳朶を打つ残響はありもしない化け物の姿を幻視させた。
太陽が消えてしまっただけで、こんなにもじめじめした世の中になってしまう。
「ただ祈るんだ。たったそれだけのことさ」
魔理沙の手をいっそう強く握り、霖之助は瞳の奥で陽の光にあふれる幻想郷を思い出す。
「いいかい、魔理沙。僕らは天の下に生きている。君が毎日パワフルに弾幕ごっこをするのも、魔法の研究をするのも、友人とお茶するのも、太陽が遍く照らしてくれる大地にいるからなんだ」
幻想郷から太陽が消えたとき――
湖岸の森ではちょっとした騒動になっていた。氷精が人一倍騒ぎ立てながら天照の絵を振り回している。冬の忘れ物と大妖精がそれを抑え、夜雀と蟲の姫が苦笑して空と騒ぎを交互に見回した。闇の化身だけは心地よさそうに周囲を漂っていたが、氷精の猛烈な文句を受けてしぶしぶと輪に加わってくる。
まず、白と黒の春妖精が静かに祈りを捧げた。冬の忘れ物がそれに続き、残りの妖怪たちも皆一様に天に向かって頭を垂れる。
森は静かに、ひとつの想いに包まれた。
「その太陽がなくなってしまえば、どうなる? 見ての通りの有様さ。木々は萎れ、空気は淀む。そよ風は全然気持ちよくないし、表でのんびり散歩する気も起きない。本は読みにくいし、お客が来なければ店は商売上がったり。いいことなんてありゃしない」
八雲家は静かなものだった。
理由は簡単で、主が爆睡中だったためであるが。
九尾は猫又を引き連れ、小高い丘の上に足を運んでいた。泣き出しそうな猫又をあやしながら、九尾は二人で見えるように天照の絵を掲げる。
そして空に指で丸を書き、にっこり猫又に笑いかける。
猫又は一度九尾のふさふさの尻尾に抱きついて、数秒してから一人で立つと、精一杯の顔で天に祈りを捧げる。九尾も、安心したようにそれに倣った。
丘の上にて、想いが二つ。天へ届けと、一心に。
「それくらい、太陽は僕たちの暮らしを支えてくれていたんだよ。だけどそれを当たり前だと鼻で笑って、夜明けの光に感謝することもなくなってしまった。天にまします大神様も、無体な扱いにへそを曲げたって仕方ない」
一面に広がる鈴蘭畑。
あたり一面真っ暗な状況にとりあえず慌てふためく人形の横で、陽もないのに日傘を傾ける花の怪が寝そべっていた。上空では天狗が風の膜をまといながら空を見上げ、七色の人形遣いがさりげなくその膜の中に避難しながら緊張の面持ちで眼下を見下ろしている。
数秒ほどで痺れを切らした花の怪は、傘で殴って人形を黙らせ、浮いている二人を地面へ呼び戻す。天狗は天照の絵の完成度に舌を巻きながら、人形遣いは不安げに二体の人形を抱きながら地上の二人の横に並んだ。
花の怪はプリプリ怒りを露にし、残りの三人にグチグチと文句を垂れてから手を組んで目を閉じた。三人は顔を見合わせてから、花の怪と同じく天へ祈りを捧げる。
毒ばかりが満ちるその花畑も、そのときばかりは風が一途な想いを運んだだろう。
「おかげで地上は真っ暗さ。そんな陰気な世の中は、誰も望んじゃいないだろ?」
幻想郷から太陽が消えたとき――
閻魔の庁で、白玉楼で、紅魔館で、永遠亭で。
人里で、山中で、草原で、林間で、道端で。
誰もが等しく、お天道様の消えた空を悲しみ、天照の絵に心を打たれた。
そして思い出した。永い時を経て薄れてしまった大切な気持ちを、心の深い場所からそっとすくい上げた。
天を仰ぎ、祈りを捧げる。
ただひとつ、「ありがとう」と。
■ ● ■
「いつも大神様に助けられてばかりじゃしょうがない。こういうときこそ感謝の気持ちを捧げて、曲がった機嫌を直してもらおうじゃないか。皆の祈りが一つになれば、大神様もやれ仕方ないと腰を上げて、また暖かく世の中を照らし出してくれるはずさ。なんといっても大神様は……いつだってぽかぽか地上を照らしてくれる、とても優しいお方なんだから」
そう言って霖之助は天を振り仰ぐと、真っ暗な空に向かって手を合わせる。目を閉じ、真剣に祈っているようだ。魔理沙はしばらくの間、そんな彼の横顔を眺めていた。
そういえば、ずっと忘れていたかもしれない。
「感謝の気持ち、か……まったくだぜ。私みたいなけったいな生き方してる人間は、お天道様に申し訳も立たないな。ここらで一つ、ご機嫌取りといかせてもらうか」
そして彼女も、消えた太陽に向かって手を組んで、浮かんでくる一つの気持ちで胸が満たされるままに任せた。
森の片隅、寂れた道具屋。天に祈るは男と女。
闇に沈む大神も、よもや彼らの想いを聞き逃すまい。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
数多の想いが積み重なれば、悲しみに暮れ、力衰えた大神もしかと感じることだろう。
ならば岩戸に隠りし大神が、再び天を照らす道に踏み出さないことがあろうか。
――いや、ない。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
ずいぶん長いこと祈っていたような気がした。
玉串を掲げ、正座の姿勢でずっと境内の真ん中に座っている。視線の先に一条の光が差し込んだのを見て、彼女は心の底から安堵のため息をこぼした。
霊夢はあたりを見渡しながら立ち上がる。無意識のうちに笑顔が広がっていることに、ふと気がついた。
何はともあれ、今回もめでたく解決できたようだ。
顔を上げると、頭上には細く細く顔を出し始めた太陽があった。闇の桎梏を脱したのであれば、もう心配はいらない。
祭具を集めて転がしておいた一角に目を向けると、萃香が椅子ごとひっくり返った格好でまだ祈っていた。まぁ、彼女の役目はタヂカラオであるからして、もうしばらくそうして頑張っていてもらおう。
霊夢は巫女センサーを外し、天照の描かれた絵を眺めたあと、事の発端となった一巻の巻物を手に取った。
まったく、大した騒動になってしまったものだ。もっと目に付きやすいところに置かれていても良かったのに。
彼女はポツリと、巻末に記された歌の一節をそらんじた。
「探してた答えは、ここにあると、そっと教えてくれた……」
教えてくれるたびに世の中真っ暗になってしまっては、「そっと」も何もないなぁとは思う。
霊夢は苦笑して踵を返し、社へと戻っていった。
優しい神様だ。大切な想いが失われないように、いつだって地上の全てを見守ってくれている。お天道様が導いてくれた教えは、また永い間をかけて地の民に語り伝えられていくだろう。
霊夢は神社に入る一歩前で立ち止まると、再び太陽へ向き直ってその輝きを目に収めた。
「やっぱりお日様は、ぽかぽか陽気が一番ね。いつまでもその変わらぬお元気な姿で、遍く地上をみそなわして下さいな」
さて、太陽が戻ったのなら、やるべきことはただ一つ。
祝賀の宴会を盛大に開くため、幻想郷の皆のところへ招待しに回らなくては。
柔らかな日差しを、細いながらも確かに感じながら、彼女はクスリと笑って陽の光に満ちた幻想郷が帰ってくるのを感謝した。
博麗神社には実に様々なものが運ばれ、境内の一角にまとめて積まれていた。首に縄をかけた鶏が放されているのが一番異様だが、高貴な宝石が無造作に置かれている傍らに古びた注連縄が掛けられていたり、大量の桶が山になって捨てられていたりと非常に混沌としている。
その端っこに、椅子に寄りかかってヒョウタンをひっくり返している萃香もいた。
「なんかお祭でも始まるわけー?」
やる気なさげに問いかける萃香。霊夢は答えず、机に布や玉や鏡や……とにかく色々ばら撒いて玉串――いつも持っているお払い棒を豪華にしたもの――作りをしていた。
準備にはさほど時間はかからない。祭具を集め、幻想郷中に白の紙を配って回るほうがよほど大変だった。頑張った甲斐もあり、これから起こるであろう異変に十分対処できるだけの準備が整っている。
「宴会にしては面子が足りないしー。あんたにしちゃ風流のかけらもないわねー」
よほど寂しいのだろう、空を見上げながら管を巻く萃香。時折間欠泉のように彼女の口から火柱が立ち昇っては空に消えていった。鶏がびびって逃げ出していく。
全て無視し、霊夢は玉串を完成させた。改めて眺めると、彼女の作にしては丁寧な出来だ。それを提げ、霊夢は社の正面に移動する。
「何が始まるのよー?」
すぐに分かるだろう。
あとは待つだけ。まさに人事を尽くして天命を待つのみ。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
「――それじゃああいつ、ここにもきたのか」
「ああ。まったく桶なんて何に使うのか、見当もつかないけどね……」
霖之助は窓際で真っ白な紙を眺めつつ、魔理沙にそうこぼした。
昼下がりの香霖堂、今は霖之助と魔理沙以外誰もいない。彼女は研究材料の補給とかいう理由でやってきていたが、いつも通り商品には目もくれずにだらだらしている。その研究が行き詰ったのだろう、多分。
この店に霊夢がやってきて、旋風のような勢いで桶をかっさらって代わりに紙を捨てていったのが一時間ほど前だった。それより以前に、霊夢は魔理沙の家から剣も持っていったらしい。
相変わらず謎だ。
「こんないい天気に巫女が張り切るもんじゃないぜ、こっちまで気を張らなきゃいけない気分になる。例によって縁側でお茶でもすすっていればいいんだ」
「同感だ。まったく、霊夢が動くといつも騒動が――」
ふと、背後に影を感じて霖之助は振り返った。
その先には窓があったが、予想に反して何者の姿もない。かといって錯覚かというとそうでもなく、彼の手元が暗くなった理由は別にあった。
目をしばたいて、それこそ錯覚かと疑ったが視線の先は明確に変化していた。魔理沙が言っていたように、外はいい天気のはずだった。それがなぜか……光が減っている。
太陽は直接見えないが雲に覆われたわけではない。木々の隙間に見える青空には雲ひとつないし、その青さ自体、どこか薄暗かった。
一体いつから――
「おい、変だぜ香霖……」
魔理沙も異常に気づいたようで、彼の横に並んで外を見つめていた。霖之助は魔理沙の手を引っ張って出口を指す。
「表に出てみよう」
急いで扉をくぐり、辺りを見回す霖之助。魔理沙も多少緊張した様子で、箒を手に油断なく周囲を警戒している。
「霊夢の焦ってた理由はこれみたいだぜ……どこぞの妖怪が昼の時間を縮めようとでもしたのか?」
「――いや違う、魔理沙。上を見るんだ」
「何?」
霖之助に倣い、上空を見上げる魔理沙。直後、彼の隣で息を飲む音が聞こえた。
「……なんだあれ!」
■ ● ■
「時間通りね」
永琳は永遠亭の屋根に立って空を見上げていた。吹き上げる風が身体をかすめていく。
彼女は遮光プレートを掲げ、遠く輝きを放つ太陽を見つめていた。真っ黒なプレートに円を描いて現れる太陽は――いや、太陽はそのとき、円を描いてはいなかった。
ほんの少し、直接見ては分からない程度に、縁が欠けている。
「あなたたち、食を見るのは初めてだったかしら」
「はい……こんな感じになるのですね」
「なかなか面白いじゃない」
永琳の隣に、屋根にしゃがみこんだ鈴仙とてゐの姿があった。鈴仙は数分前まで高台を暴走していたが、永琳が殴って連れ戻したのだ。今は、二人とも興味深そうにプレートに食い入っている。
「どうでもいいけどね、ウドンゲ。日食如きで変な電波を受信して混乱してもらっちゃ困るわよ」
「いえ、その……強烈だったものですから……つい……」
「ねー永琳、なんかこれどんどん削れてるように見えるんだけど」
てゐが太陽を指しながら言ってきた。永琳はこともなげにうなずく。
「予測では、丸々消えてしまうことになっているわ」
「え!」
「はいはい、慌てない」
同時に腰を浮かせた二人を制し、永琳は疾風に流される髪を押さえた。
天測のデータや、鈴仙が狂乱するほどの電波を放つことから、月が太陽を食い尽くすことは間違いないだろう。
髪をさらう風にも、早速淀んだものが混じり始めた。陽の光――浄化の象徴が勢力を失うにつれ、穢れた者どもの跳梁が始まる。今は意識しなければわからないほどの小さな変化だが、地上から光が失われるにつれ、さらに悪化していくはずだ。
永琳はプレート上の欠けた太陽を見つめ、その輪郭をかつて見た皆既日食の記憶に重ねつつ告げた。
「月を挿げ替えるのとはわけが違うわ。さすがの私でも、あれはどうしようもない。なるようにしかならないわね」
「あのー、師匠……当然、元通りになるんですよ、ね……?」
「分からないわよ」
太陽が隠れる。それをただの天体の気まぐれと解釈することもできるが、果たして本当に月が通り過ぎれば元に戻るかといえば、保証などないのだ。太陽は月に飲み込まれ、永久に姿を現さないかもしれない。
「地の者に愛想を尽かして、世を照らす気も失せてしまったのかもしれないわね。姫みたいに、引きこもりきりになってしまってもおかしくないし……」
彼女は腕で周囲を示しながら続けた。
「感じる? 太陽の衰退を察知して、良くない者たちがほうぼうから湧き始めているわ。夜は歓迎だけど、太陽がなければ月も昇らない。下等な妖怪たちが我がもの顔で大地を闊歩し、綺麗な自然は丸ごと萎れていくっていうのに、私達の環境はちっともよくならないわ。まさかそんな天下がお好みじゃあ、ないでしょう?」
「それは……気持ちのいい話じゃないわね。どうすればいいのよ」
「難しい話じゃないわ。二人とも、今私達にできることは一つだけよ」
永琳は用意してあった紙――霊夢が置いていったアレだが――を取り出し、二人に渡した。
ウィンクなど交えつつ、気楽に続ける。
「こういうときは――」
■ ● ■
「太陽がえぐれてるぞ、香霖!」
「落ち着け、魔理沙。あれは日食だ。月が陽の光を遮っているんだ」
もうだいぶ前から食は始まっていたのだろう。すでに、肉眼でもその欠落が確認できる規模にまで太陽は縮んでいた。まったく異様な光景ではある――半分以上、ごっそりと太陽が消えてしまったのだ。
「恐ろしいな。あれほど大掛かりな日食はもうずいぶん見てない……ひょっとしたら、全部消えてしまうかも」
「き、消えるのか?」
「戻るよ、多分。そのために霊夢が頑張ったんだろう」
とはいえ、霖之助も胸中では自分の言葉に確信を持てなかった。見上げた空は不気味としかいいようがなく、それとなく周囲を探ってみると、そこかしこから尋常ならざる気配が漂ってくる。
穢土の大気だ。陽のみそぎはらえを失って、蛇蝎どもが無理やり押し寄せてきたと見える。
「……なぁ、香霖。ほんとに大丈夫なのかぁ」
「……うーん」
さすがにいきなり妖怪たちが勢いづくとも考えられないが、こうも不吉な空気になってしまうと何と言っていいのか分からない。太陽が永遠に消えるという結末だけは、強いて考えないように努めた。
霖之助は魔理沙をかばうように移動して、霊夢から渡された紙を手に取った。魔理沙も同じように懐から取り出す。なんでもない紙切れだが、霊夢がこの時のために残していったのは間違いない。
そうこうしている間に、太陽はさらに致命的にやせ細っていく。
「やばいぜ、香霖。めでたくないことに太陽は絶賛先細り進行中だ。日食っていうのは急には止まれないのか? 順調に暗くなってなんとも具合が悪いぜ」
「少し混乱してるぞ、魔理沙……大丈夫だ、ほら」
彼女の手を握り、どうにか笑顔を向けて落ち着かせる。彼も心中穏やかではなかったが、情けないところは見せられない。
霖之助は深呼吸すると、もう一度紙に目を向けた。
「これが何か、特別な力でも持っていてくれたらいいんだけど……」
そう呟いたとき、声を聞いていたようなタイミングで紙に変化が起こった。何もなかったはずの紙面に、筆を走らせるように墨が引かれていく。
そして二人の目の前で、あっという間に一枚の水墨画になって完成した。
■ ● ■
「お嬢様ぁー。紙に絵が浮き出てきましたよー」
「美鈴、門番……まぁ、この状況では無理があるかしらね。で、何が書いてあるって?」
「それがよく分からないんです。咲夜さんはこれが何かご存知ですか?」
「あら、これ……えーと……そう、確か太陽神の御尊容ですわ。以前神社の掛け軸で見たことがあります」
「太陽神? また霊夢も、ひねりのかけらもないものを置いていくわね……」
「お日様が消えるのは大陸で何回か見ましたけど、何度見ても慣れるような景色じゃないですね。やっぱりお日様も、地上を照らすのに飽きちゃったんでしょうか」
「何回か……て、あなた何気に長生きねぇ。私ですら昔一度しか見たことないのに」
「お嬢様、メイドたちも不安がっていますわ。早急に対処のご指示を」
「あんな底抜けの大異変なんて、私じゃどうこうできないわよ、悔しいけど。このまま真っ暗になっちゃうかもね」
「では、どうすれば――」
「ねぇ咲夜、永遠の夜の世界っていうのもなかなか魅力的だと思わない? 人間も妖怪も、誰も私には逆らえないわ。息が詰まる太陽なんかゴミ箱に放り込んで、素晴らしい夜空の下で想いきり羽を伸ばすの。きっと素敵よ」
「お嬢様、しかし」
「――でもねぇ、それは面白くないのよ。前に霧を広げたときそう思ったわ。昼があるから夜も面白いの。それに、年中無休で支配し続けなきゃいけないなんて疲れるったらない。だから仕方ないけど、昼を戻すのに少しばかり力を貸してあげることにしましょうか。なすべきことは、ただ一つ。咲夜も美鈴も手伝うのよ」
「はい」
「はい!」
「こういうときは――」
■ ● ■
「……これは、犬?」
魔理沙が間の抜けた声でぽつりとそう言った。
闇に反応して墨が浮かんできたのだろう。その絵は単純ながらも力強い構図で、見る者の心の深い部分に語りかけてくるようだった。繊細にして大胆、流麗にして重厚……紙の端の方に絵師の名前が記されていたが、ただ者ではない腕前の持ち主だというのに心当たりはなかった。まぁ、それはいい。
そこに描かれているのは、確かに犬に見えた。「天」一文字を背景に、巨大な岩の上に立ち遠吠えの仕草で空を大きく仰いでいる。その鼻の先には燦然と輝きを放つ丸が描かれていて、「照」一文字が収められていた。
そして絵の右――犬と、太陽らしきものの右――に、「天照坐皇大御神」とあった。
ふと、これが一体なんなのか、霖之助には分かった。彼の能力も、こういうときには役に立つ。
「いや、これは狼だよ。大神とかけているのだろうね……太陽神を表したものなんだ」
「それが……どうかしたのか?」
「あぁ、うん。そうか、霊夢の言いたいことが分かったんだ」
額に手を当て、閃いたことを反芻する。難しい話ではない――難しい話ではなかった。なんとも単純で、彼女らしいといえば彼女らしい。それが一番、もっともだと納得できる方法ではないかと思う。
薄れゆく光明、深まる妖気を肌に感じながら、霖之助は指を立てて魔理沙に向き直った。
「いいかい、魔理沙。この絵は、忘れちゃいけないことを思い出させてくれるためのものなんだ」
■ ● ■
もはや夜と呼んだほうがよさそうな暗がりの中、妖夢は唖然と空を見上げ立ちんぼし続けていた。自慢の妖刀を二本とも手に持ってはいるが、そんなものは何の役にも立たない。
いまや、彼女が丹精込めて手入れしてきた庭は、数時間前の精彩をまるで欠いていた。陽の光が薄れるにつれ、毒気に当てられたように木々は萎れていくのである。妖夢は必死になって木や花の手入れに走ったが、まったく効果が上がらず手の打ちようがなかった。
どこぞの妖怪の仕業かと本気で疑ったが、最終的にはそれも否定せざるをえなかった。たとえ八雲紫であっても、太陽を打ち消すなどという途方もない術は不可能だろう……
肩を落とし、ぼんやりと細い太陽を見やる。白玉楼のあちこちから怨霊が噴出してくる気配を覚えはしたが、たとえ斬っても次から次へと現れるだけだ。どうしようもない。
「妖夢」
振り返ると、縁側に幽々子が佇んでいた。手に二枚の紙を提げている。
「そんなところでぽかんとしてても、お天道様は戻ってはこないわよ」
「幽々子様……」
フラフラと消沈しながら、彼女の元へ向かう。刀を収めて幽々子の前まで来ると、彼女は妖夢の頭をぽんぽんと叩いてきた。促されるまま、縁側に並んで座る。
「申し訳ありません、幽々子様。力及ばず、西行寺家伝統の庭をむごたらしい有様に……」
「どうしようもないことだわ、妖夢。お天道様が機嫌を損ねられたら、木も花も元気をなくしちゃって当たり前なのよ。あなたが太刀打ちできるような問題ではなかったの」
「……無念です。なぜ太陽が突然……」
霊夢が何か関係しているという予想はついたが、それ以上は不明だった。いよいよもって取り返しのつかない事態になろうとしているのに、彼女でも解決できないということも心配の種だ。
「お天道様がお隠りになるのは、六十年の周期よりさらに長い三百六十年に一度。書物によれば、かつて幾度もお天道様は暗中に潰え再誕を得られたとか。長久を、実に長久を地上に神明のお導きを授け給うてきたお天道様は、かの天照る神により遍く照らされ生を賜る大地の民が尊崇の念を忘れないよう、幾年を経るごとに岩戸に隠られて御身のご威光を世の者に知らしめなさるのよ」
「……さっぱりです」
幽々子が突然難しいことを言い出すのは、大抵妖夢を煙に巻くときだ。今はそれどころではないのだが、反論する気力もなく妖夢は足元の地面を眺めていた。
「妖夢、あなたはお天道様がぽかぽか照ってくれたほうが嬉しいわよね?」
「当たり前じゃないですか……まさか幽々子様、暗いほういいのですか?」
「それはそれで快適だけど、私もお天道様が笑っていただける世の中のほうが過ごしやすいわ。でも妖夢、そんなお天道様のありがたみって、何かと忘れがちになってしまうものなのよね」
言葉の終わりに、幽々子が紙を渡してくる。それ自体は霊夢が残していった紙だったが、誰が付け加えたのか犬と――太陽の絵が描かれていた。
心に響く絵だった。この感情を何と表せばいいのだろう。感動とは違う、畏敬でもない。単なる希望を感じさせるものではないし、心の安寧をもたらすものとも言い難い。
――感謝。
そんな単語が胸に留まった。場違いな言葉だとは思う、絵を見て感謝の念を抱くなどと。
胸中の思いに戸惑っていると、幽々子がひょうひょうと横槍を入れてきた。
「忘れてはいけないわー。私も妖夢も、毎日お天道様の下で生きてるのよー……死んでるのよ?」
「いや、幽々子様。そんな無理してどちらか一方を選ばなくても……」
妖夢は苦笑して幽々子を見やった。彼女も笑って妖夢を見ている。
その笑顔を見ても、いつも通り真意を計りかねるだけだったが、おそらく幽々子なりに妖夢に何かを伝えたかったのだろう。
妖夢も大体は理解できたと思う。太陽が消えた理由――失くさなければ気づかないから、心優しい天の神は、時折地の者に大切なものが何かを教えてくれるのだ。
「妖夢、今私達にできることは、たった一つよ」
「心得ました、幽々子様」
妖夢は、消えかけた太陽を見上げた。大切な祈りが届くように……
「こういうときは――」
■ ● ■
「僕らは天の下に生きている。陽の光が花を咲かせ、風を呼ぶことを当然として生きている。野に獣が息づき、山に緑が芽吹く。それは当たり前のことだけど……とても大切なことなんだ。それを決して忘れないように、この絵はこんなにも語りかけてくるんだよ」
忘れてはいけない。
人を、命を見守る、尊くも広大無辺の優しさを忘れてはいけない。
それを蔑ろにしたとき、地の民は天を見つめなおす試練を与えられるのだ。人心は惑い、妖怪が蠢くこの皆既日食が過去幾度となく繰り返されてきたことを、彼は知っている。それでも陽の光が消えなかった理由は、確かにこの絵の中にあった。
「大神がなぜ姿を隠すのかは、僕は知らない。弱ってしまったのかもしれないし、呆れてしまったのかもしれない。でもそんなことは関係ないんだ。僕たちにできることは、最初からたったの一つだけだったわけさ」
「なんだ香霖、こんな天気なのにやけに饒舌だな……私達にできることって、なんだ? あきらめて不貞寝するのか?」
「何を言ってるんだ魔理沙。君がこの絵を見て感じたことをそのまま実行すればいいんだよ」
霖之助は片手で魔理沙の手を握ったまま、開いた腕で天を示した。思いを込めてその先を見上げ、今まで陽の光が照らしてきたであろう幻想郷の全てを思い描きながら、彼は口を開いた。
「こういうときは――」
■ ● ■
「良くない天気ですね」
「……その一言で片付けますか、映姫様……」
閻魔の庁にて、映姫と小町はそろって天を見上げていた。視線の先には、もう猫の爪ほどにも細く変わり果てた太陽がある。
恐ろしいことに、映姫は日が欠けはじめたというのに裁判を続け、ついさっきようやく死者たち全員に判決を下したところだった。小町などはとっくの昔に渡し守を放り投げ、映姫の傍らに控えて指示を待っていたのに。
霊夢に言われたとおり、彼女が持ってきた紙は死者たちに渡されている。今頃彼らは地獄か極楽かで紙と空を見比べていることだろう。
「仕事熱心にもほどがありますよ。どうするんですか、あれ」
「見れば分かるでしょう、小町。あれはどうしようもありません。ドンと構えて待ち続けるのが何よりも大切なのです。いたずらに心を乱しては大神にお礼返しなどできませんよ」
「映姫様、映姫様。言ってることが意味不明です」
小町はため息をこぼしつつ手元の紙を見つめた。犬と――映姫に言わせれば狼だそうだが――太陽の絵。一体いつの間に出てきたのか知らないが、それは見事な筆遣いだ。
よくできた皮肉か……いや、時期を待っていたということか。
もし太陽が暖かく照りつける日中にこの絵を見ても、何を思うこともなかっただろう。だからこの絵はずっと待っていたのだ、人の心を打つ時が訪れるのを。日が闇に没するその時こそ、まさにこの絵は最も輝きを放つに違いない。
よもや霊夢が描いたということもないだろう。絵師の名前に見覚えはなかったが、この凄腕の絵描きは遥か昔から太陽の危機を案じていたのだ。大したものだと、素直に思う。
小町は目を上げると、すっかり蔓延してしまった大気の淀みに辟易しつつ呟く。
「太陽がえぐれっちまったせいで、死界にまで堕気が流れ込んできてますよ。何もしないっていうのは、まずいんじゃないですかね?」
「小町、あなたもまだまだ精進が足りませんよ。大神がお隠りになられたのなら、私達が直接的な方法で解決することはできないのです……少し、歴史の話でもしましょうか」
映姫は壇上からひょいっと降りてくると、小町の横に立っていつもの説教口調で声をあげてきた。
「初めて大神が岩戸にお隠りになられたのは、古事記の話です。途中は省きますが、大神がいなくなっただけで、世の中は上へ下への大騒ぎだったのですよ。また、力ずくで連れ戻そうにも、岩戸はびくともしない。困った八百万の皆さんはあれこれと知恵を出し、ようやく大神をお引き戻しされたそうですが、それは苦労したらしいですよ。それだけ大神が皆に愛され、大切に思われていたのです」
笏を立ててとうとうと語る映姫は、こんな状況だというのにどこか楽しげですらあった。ふと小町は、彼女も天部と呼ばれる死界の大王であることを思い出す。映姫と件の太陽神とは、どこかで知り合いであるかもしれなかった。
「それでも何百年と経つうちに、世の中から大神へのありがたみはだんだん薄れてきます。大神はお嘆きになり、力を失ってふらりと岩戸にお隠りになってしまわれるのですよ。それが三百六十年に一度訪れる皆既日食の由縁です。月が太陽を飲み込むとか、何も分かっていないことを仰る方たちもいますが、天から陽の光が消えてしまって困るのは皆一緒です。大神が例によってお隠りになられた以上、八百万の皆さんも昔のように奮闘してらっしゃることでしょう。私達にできるのは、あくまでもその一助に過ぎません。大神には、自ら帰ってきていただかなければならないのですから」
映姫は帯に笏を挟むと、数秒間じっと狼と太陽の絵を見つめた。脳裏に焼き付けただろう時間を経て、彼女はそれも丸めて懐に入れると胸の前で手を組んだ。
「大神がお隠りになられたのは、世の中から感謝の気持ちが失われたせい。ならば何をもって大神にお戻りいただくか、もちろん分かりますね、小町」
「ははぁ……なるほど。大神様も、粋なんだかわがままなんだかよく分からない計らいをされます」
「忘れてしまったことを思い出させてくれるのです。これが粋でなくてなんでしょう」
映姫は微笑みながら、ゆっくり太陽の方に頭を垂れた。
小町も同じく紙を懐にしまい、手を組んでおもむろに目を閉じる。自然と胸の奥から、暖かいものがこみ上げてきた。
「なるほど、確かに私達にできることは一つだけですね……映姫様」
ただひとつ、そのために心を捧げる。
「こういうときは――」
◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
「――祈るのみ」
そう告げる彼の視線の先で、ついに太陽はその姿を完全に消し去った。
周囲の禍はとうとう最高潮に達し、湧き上がる不吉な気配はもはやごまかしようがない。
肌をなでる不快な風は延々と彼方より吹き荒れ、目に映る闇の蠢動は不気味な嘲笑の如き悪意に満ちている。空は夜よりもなお深く、耳朶を打つ残響はありもしない化け物の姿を幻視させた。
太陽が消えてしまっただけで、こんなにもじめじめした世の中になってしまう。
「ただ祈るんだ。たったそれだけのことさ」
魔理沙の手をいっそう強く握り、霖之助は瞳の奥で陽の光にあふれる幻想郷を思い出す。
「いいかい、魔理沙。僕らは天の下に生きている。君が毎日パワフルに弾幕ごっこをするのも、魔法の研究をするのも、友人とお茶するのも、太陽が遍く照らしてくれる大地にいるからなんだ」
幻想郷から太陽が消えたとき――
湖岸の森ではちょっとした騒動になっていた。氷精が人一倍騒ぎ立てながら天照の絵を振り回している。冬の忘れ物と大妖精がそれを抑え、夜雀と蟲の姫が苦笑して空と騒ぎを交互に見回した。闇の化身だけは心地よさそうに周囲を漂っていたが、氷精の猛烈な文句を受けてしぶしぶと輪に加わってくる。
まず、白と黒の春妖精が静かに祈りを捧げた。冬の忘れ物がそれに続き、残りの妖怪たちも皆一様に天に向かって頭を垂れる。
森は静かに、ひとつの想いに包まれた。
「その太陽がなくなってしまえば、どうなる? 見ての通りの有様さ。木々は萎れ、空気は淀む。そよ風は全然気持ちよくないし、表でのんびり散歩する気も起きない。本は読みにくいし、お客が来なければ店は商売上がったり。いいことなんてありゃしない」
八雲家は静かなものだった。
理由は簡単で、主が爆睡中だったためであるが。
九尾は猫又を引き連れ、小高い丘の上に足を運んでいた。泣き出しそうな猫又をあやしながら、九尾は二人で見えるように天照の絵を掲げる。
そして空に指で丸を書き、にっこり猫又に笑いかける。
猫又は一度九尾のふさふさの尻尾に抱きついて、数秒してから一人で立つと、精一杯の顔で天に祈りを捧げる。九尾も、安心したようにそれに倣った。
丘の上にて、想いが二つ。天へ届けと、一心に。
「それくらい、太陽は僕たちの暮らしを支えてくれていたんだよ。だけどそれを当たり前だと鼻で笑って、夜明けの光に感謝することもなくなってしまった。天にまします大神様も、無体な扱いにへそを曲げたって仕方ない」
一面に広がる鈴蘭畑。
あたり一面真っ暗な状況にとりあえず慌てふためく人形の横で、陽もないのに日傘を傾ける花の怪が寝そべっていた。上空では天狗が風の膜をまといながら空を見上げ、七色の人形遣いがさりげなくその膜の中に避難しながら緊張の面持ちで眼下を見下ろしている。
数秒ほどで痺れを切らした花の怪は、傘で殴って人形を黙らせ、浮いている二人を地面へ呼び戻す。天狗は天照の絵の完成度に舌を巻きながら、人形遣いは不安げに二体の人形を抱きながら地上の二人の横に並んだ。
花の怪はプリプリ怒りを露にし、残りの三人にグチグチと文句を垂れてから手を組んで目を閉じた。三人は顔を見合わせてから、花の怪と同じく天へ祈りを捧げる。
毒ばかりが満ちるその花畑も、そのときばかりは風が一途な想いを運んだだろう。
「おかげで地上は真っ暗さ。そんな陰気な世の中は、誰も望んじゃいないだろ?」
幻想郷から太陽が消えたとき――
閻魔の庁で、白玉楼で、紅魔館で、永遠亭で。
人里で、山中で、草原で、林間で、道端で。
誰もが等しく、お天道様の消えた空を悲しみ、天照の絵に心を打たれた。
そして思い出した。永い時を経て薄れてしまった大切な気持ちを、心の深い場所からそっとすくい上げた。
天を仰ぎ、祈りを捧げる。
ただひとつ、「ありがとう」と。
■ ● ■
「いつも大神様に助けられてばかりじゃしょうがない。こういうときこそ感謝の気持ちを捧げて、曲がった機嫌を直してもらおうじゃないか。皆の祈りが一つになれば、大神様もやれ仕方ないと腰を上げて、また暖かく世の中を照らし出してくれるはずさ。なんといっても大神様は……いつだってぽかぽか地上を照らしてくれる、とても優しいお方なんだから」
そう言って霖之助は天を振り仰ぐと、真っ暗な空に向かって手を合わせる。目を閉じ、真剣に祈っているようだ。魔理沙はしばらくの間、そんな彼の横顔を眺めていた。
そういえば、ずっと忘れていたかもしれない。
「感謝の気持ち、か……まったくだぜ。私みたいなけったいな生き方してる人間は、お天道様に申し訳も立たないな。ここらで一つ、ご機嫌取りといかせてもらうか」
そして彼女も、消えた太陽に向かって手を組んで、浮かんでくる一つの気持ちで胸が満たされるままに任せた。
森の片隅、寂れた道具屋。天に祈るは男と女。
闇に沈む大神も、よもや彼らの想いを聞き逃すまい。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
数多の想いが積み重なれば、悲しみに暮れ、力衰えた大神もしかと感じることだろう。
ならば岩戸に隠りし大神が、再び天を照らす道に踏み出さないことがあろうか。
――いや、ない。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
ずいぶん長いこと祈っていたような気がした。
玉串を掲げ、正座の姿勢でずっと境内の真ん中に座っている。視線の先に一条の光が差し込んだのを見て、彼女は心の底から安堵のため息をこぼした。
霊夢はあたりを見渡しながら立ち上がる。無意識のうちに笑顔が広がっていることに、ふと気がついた。
何はともあれ、今回もめでたく解決できたようだ。
顔を上げると、頭上には細く細く顔を出し始めた太陽があった。闇の桎梏を脱したのであれば、もう心配はいらない。
祭具を集めて転がしておいた一角に目を向けると、萃香が椅子ごとひっくり返った格好でまだ祈っていた。まぁ、彼女の役目はタヂカラオであるからして、もうしばらくそうして頑張っていてもらおう。
霊夢は巫女センサーを外し、天照の描かれた絵を眺めたあと、事の発端となった一巻の巻物を手に取った。
まったく、大した騒動になってしまったものだ。もっと目に付きやすいところに置かれていても良かったのに。
彼女はポツリと、巻末に記された歌の一節をそらんじた。
「探してた答えは、ここにあると、そっと教えてくれた……」
教えてくれるたびに世の中真っ暗になってしまっては、「そっと」も何もないなぁとは思う。
霊夢は苦笑して踵を返し、社へと戻っていった。
優しい神様だ。大切な想いが失われないように、いつだって地上の全てを見守ってくれている。お天道様が導いてくれた教えは、また永い間をかけて地の民に語り伝えられていくだろう。
霊夢は神社に入る一歩前で立ち止まると、再び太陽へ向き直ってその輝きを目に収めた。
「やっぱりお日様は、ぽかぽか陽気が一番ね。いつまでもその変わらぬお元気な姿で、遍く地上をみそなわして下さいな」
さて、太陽が戻ったのなら、やるべきことはただ一つ。
祝賀の宴会を盛大に開くため、幻想郷の皆のところへ招待しに回らなくては。
柔らかな日差しを、細いながらも確かに感じながら、彼女はクスリと笑って陽の光に満ちた幻想郷が帰ってくるのを感謝した。
いつから人間は『科学』なんて屁理屈をかざして『有』への感謝を忘れてしまったんでしょうねぇ。
例え何が起こっているのか分かっていても、細かく追求するのは野暮ってもんですね。
綺麗な作品、有り難うございました。
理屈抜きで背中がゾクゾクしてなんかよくわからないけどよかったです。
こういう『礼』に重きを置く日本的な作品を読めて本当によかった。
ありがとうございました。
なんとも言えない読後感、堪能させて頂きました、やはり太陽への感謝ってのは忘れちゃいけませんね。
あ、なんか幻聴が聞こえる・・・
「見てみろォ、アマ公。まだおまえサンのために祈ってくれる奴等は残ってるみたいだゼェ、有りがたい事じゃネエか」
>見てみろォ、アマ公。
イッスン!イッスンじゃないか!!
『壮大』
って言えば良いんですね、これは。
理屈なんていらない、やっぱりこういう現象は自分の内にある感性で楽しみたいものです。
アマ公と一寸もきっと喜んでるんじゃないでしょうか……
この作品への評価は天が晴れると書いて「天晴れ(あっぱれ)」ということで
でも、とりあえずあの大神さまがあくびしながら岩戸からひょこひょこ出て来てくれる様を幻視して思わず敬礼です。
「大神」が何だかはサッパリだったのですが、それでもよかったです。
太陽に感謝ー。
大神クリア済みの方から心優しいお言葉をいただけて、大変嬉しく思っています。あまりにもそのままな話ですので、実はもっと反感を買うのではないかと不安でした。
未プレイの方もお読みいただき、ありがとうございます。できれば是非、是非! 騙されたと思って買ってみてください、PS2用ゲームソフト「大神」。ラストで涙することは保証します。ありえないほどに。
そして現在プレイ中の方も、途中であきらめず最後まで絵巻を解いていただいて、作者と同じ感動を目にしてほしいと願います。ネタバレになってしまった本作をどうかお許しください。
本文執筆中もサントラを聞き続け、目頭が熱くなったまま突っ走った男、腐りジャムでした。ありがとうございました。
2009年7月22日に日本で日食が見えたんですよん。自分は見そこねましたがorz
太陽への感謝の気持ちを思い出させてくれるSSをありがとうございました。
なるほど、幻想郷の住民達を天岩戸開きに関わった神様に例えていたのですか。
萃香は手力男、永琳が思兼、霊夢が天宇受、他は...思い付きませんでした。
何はともあれ良い作品でした。