弾幕が倒れていたので、その姿を覗き込んでみた。
何かにぶつかったのか、ひどく身体が痛んでいた。
野ざらしになった魚の干物を思い出した。
風と埃と雨が、干物を少しずつ抉り続け、ついには原型を留めぬほどになっていた。もはや干物は干物に見えず、食べることなどできなかった。
結局、あの干物は土の中に還った。川に還らずに土に還ったのは、もはや魚は魚ではなく、うらぶれた肉片でしかなかったからだろう。
数年後、干物が埋まった場所から雑草が芽を出した。
ああ、干物は土に還ったのだな、とあらためて納得した覚えがある。
つまりはそういうことなのだろう。
目の前で倒れる弾幕は、すぐに土へと還るのだ。
「後生ですから」弾幕が云った。弱々しい声で。「助けてください」
無理だ、とも、任せておけ、とも云わなかった。
何も云わずとも弾幕の命は長くなく、もはやできることなど何もなかった。
ただ一つできることといえば、看取ることだけだけである。
しかし、黙って看取るというのも後味が悪い。
どうしたのですか、と問うと、弾幕はよろよろと手をさし伸ばした。人差し指と中指、それに薬指しかないことにようやく気づく。残り二本の指は、根のあたりから取れていた。
三本の指を、弾幕はゆっくりと掲げた。指先が血に濡れていてぬるりと光った。
「死にたくないのです」
答えになってはいなかった。
答える余裕がなかったのかもしれない。
欠けているのは指だけではない。あちこちが欠けていた。無事なところなどどこにもなかった。
これが弾幕の末路なのだな、と納得した。
奇異なることではなく、ごくありふれたものなのだろうと。
空で弾けて欠片も残らないのと、欠片と共に地に還るのはどちらが善いのだろうか、少しの間夢想した。
結論はあっさり出た。どちら変わらない。空だろうが地だろうが、幻想郷の中へと還るのだから。
「死にたくは、ないの、です」
絶え絶えな弾幕の言葉には、奇妙な力が込められていた。
願えば叶うかのような。
強く強く願うことによって、強く強く言葉を発することによって、それが現実になると信じているかのような声だった。
それが不可能であることを、弾幕自身が察していたのかどうかはわからない。
言葉を発するごとに発光は強まり、しかし言葉が消えるとともに、光は掻き消えそうになる。
蝋燭のようだ、と思った。
風に吹かれ、消えかける寸前の蝋燭は、残りの蝋を全て使って燃え盛る。けれどその力は持続せず、すぐに消え去る。
その繰り返しを、この弾幕はしていた。
死にたくないと願い、光を灯す。
迫る死によって、光が弱まる。
その繰りかえし。
言葉を発すれば発するほど、光は徐々に弱まっていく。
その灯火が完全になくなれば、ものいわぬ弾幕が残るのみだ。
そして、地へと還り、幻想郷の一部になる。
「わたしは死ぬのでしょうか?」
光がゆらりと揺れた。弾幕の心の不安を現すように。弱々しい眼差しが注がれる。揺れる光に照らし出された、黒い眼差しが。
正直に答えるべきだったのだろう。
貴方は死ぬのだと、冷徹な優しさを以って告げるべきだったのかもしれない。
けれど、口から漏れた言葉はまったく別だった。
――貴方は弾幕でしょう。
その言葉を聞いて、弾幕は驚いたように目を見開いた。発光が一瞬だけ強まり、すぐに収まった。
驚いたのかもしれない。予想外の返答に。
弾幕は驚き、それから時間をたっぷりと使って微笑んだ。笑みに力はなかったが、幸せそうではあった。
弾幕は笑って云う。
「ええ、その通りです。わたしは弾幕です」
三本の指を、指揮棒のように弾幕は振った。
上から右下へ。右下から左上へ。左上から下へ、そして上へ。
弾幕の手が揺れ、そのたびに赤い雫が地へと落ちる。放物線を描いて地へと落ちた雫は、ゆっくりと幻想郷へと還る。
「放たれ、跳び、敵を穿つ存在です」
今度は左手だった。ただし、左手には、一つとして指が残っていなかった。地面に落ちた衝撃で、中ほどから折れ曲がっていた。
三つの関節を得た腕が振われる。
「不規則に――あるいは幾何学的に――整然として――判然とせず――放たれる弾幕です」
右手と左手は、宙空でぶつかることなく交わる。血の雫は決して触れ合わず、模様を描いて地面へと跳ぶ。
奇妙な交響曲は、長くは続かなかった。
突然、力尽きたかのように――あるいは、楽曲を終えたかのように――手が落ちる。
一切の力が抜けた腕が、地面へと落ちる。
口以外の全てを動かすことを放棄して、弾幕は、空を見たまま云う。
「そして、消える。それが弾幕で、わたしはその一つです」
そう云う弾幕の声には、そして顔には、何の感情も含まれていなかった。
生気が抜け落ちた顔。
死期すらも感じ得ない顔。
透明に、希薄に、今にも消えてしまいそうな姿で、弾幕は横になっている。
何を云えばいいのか判らず、弾幕が何を考えているかわからず、
――ならば、それが定めなのでしょう。
そう云うと、弾幕は笑った。
皮肉も悔恨も感じさせない、鮮やかな笑いだった。
来るはずのない春の訪れを感じさせるような、不思議な微笑みを弾幕は浮かべている。
「ええ、その通りです。それが弾幕の定めで――」
そして弾幕は、幸せそうに笑って云う。
幸せそうに、笑って、云う。
「――わたしは、弾幕になど、なりたくなかったのです」
ゆらり、と。
光が大きく揺れた。弾幕の放つ光が。
それが最後の灯だった。
それを最後に、弾幕の光は消え去った。森の中に、静かな闇が戻る。
誰も何も云わない。
動かなくなった弾幕がそこにあるだけだ。
風が吹く。
枝が揺れ、葉がさざめいた。
それでも、弾幕は動かない。
巨きな樹の傍に横たわり、まったく動こうとしない。微笑みを貼り付けたまま、何も云わない。
――ああ。
わたし
ようやく――西行妖は納得した。
この弾幕は還ったのだな、と。
土に還り、空に還り、幻想郷へと還ったに違いない。
そして、かつて干物が土へと還り、そこから芽が出てきたように、新たな命となるに違いない。
命は巡る。
ふと夢想する。遠い遠い時間の果て、ゆるやかに変化していく幻想郷のどこか。
幻想郷へと還った弾幕が、再び姿を取り戻し、どこかへと放たれる光景を。
そして――今と変わらず、再び幻想郷へ還ってくる光景を。
閉じられた幻想郷で、鼠が滑車を回すように、命がどこに行く事も無くくるくると回り続ける光景を夢想する。
哀しいような、寂しいような。それでいて嬉しいような――複雑な気分だった。
それでも、夢想せずにはいられないのだ。
命が巡るところを。
巡り、ふたたび満開の花が咲く己の姿を。
(了)
そして、生と死について「幻想郷」という舞台を使って哲学的に描くのもとても良いと思った。