朝日昇る幻想郷。木漏れ日が森の中に佇む一軒屋を照らす。
近くの小鳥の囀りや、遠くの妖怪の嘶きがいつもの目覚まし。
でも今日は、昨日の実験に次ぐ実験で疲れたから、少しぐらい寝坊したって―――
「起きて下さい、御主人様。朝食が冷めてしまいますよ?」
「なあっ!!?」
聞き慣れた友人の声の、全く聞き慣れない台詞で、魔理沙の意識は完全に覚醒した。
* * *
「ああ、ああ、思い出した、思い出したぞ。今日の私は、霊夢の『御主人様』とか言う奴だった」
布団から飛び起きて、寝癖の無い頭をガシガシと掻きながら、魔理沙は目の前のメイド服姿の霊夢を見た。
話は昨日に遡る。
例によって、恐らくはかなりどうでもいい理由で弾幕ごっこを始めた霊夢と魔理沙。その日は魔理沙の勝ちに終わったのだが、実は弾幕ごっこを始める前―――これは絶対かなりどうでもいい理由…簡単に言えば只の思い付きだったのだろうが―――魔理沙がこう言ったのだ。
『この勝負、負けた方が勝った方の一日メイドをやるってのはどうだ?』
そういう訳で、霊夢は今日一日、魔理沙のメイドなのだった。が…
(……本当にやるとは思わなかったぜ?)
魔理沙は驚いていた。自分で言っておいて何だが、別に期待はしていなかったのだ。例え霊夢が実行しなくても、『ま、そうだろうな』で済むものだった。
「…御主人様?」
しかし、霊夢は実行した。それも唐突に、口調も馬鹿丁寧に。
「………あ、ああ? な、何だ?」
「朝食が出来ましたので、台所までお越し下さい」
「あ、ああ…ちょっと待ってろ。今、着替えるから」
「畏まりました」
ぺこりと頭を下げ、部屋を出て行く霊夢。彼女が閉めたドアを暫く呆然と見ながら、魔理沙は急いで着替えを始めた。
* * *
朝食は、和食だった。御飯に味噌汁、焼き魚に御新香、海苔と納豆。霧雨邸定番メニューとも言えるこのラインナップ、魔理沙は一口食べて頷いた。
「うん、美味い。流石霊夢だな、うん」
何度も頷いて、自分の横に立っている霊夢を見た。
「ありがとうございます」
微笑んで、霊夢は軽くお辞儀をする。
「霊夢は、食べないのか?」
「はい、私は御主人様の後に戴きますから」
「そうか………なあ、霊夢」
「はい、何でしょう?」
「その喋り方……何とかならないのか?」
「はい?」
首を傾げる霊夢。
「いや、何と言うか、その………首がむず痒い」
当然、と言えば当然だが、今日のメイド霊夢の言葉使いは、普段の彼女を知る者から見れば途方も無い違和感を感じるもので、まさに紅魔館の某メイド長も驚きのメイドっぷりであった。何と言うか、素晴らしい演技である。
「首? 大丈夫ですか?」
「………ああ、大丈夫だよ。ちょっと驚いてるだけだ」
「ふふ、おかしな事を言うんですね、御主人様は」
おかしいのはお前だ、とツッコミたい衝動を抑えるように、魔理沙は御飯をかっ込んだ。
* * *
「…掃除? そんな事しなくてもいいのに」
朝食が終わった後暫くして、霊夢がそんな事を言った。雑多な魔理沙の家を、メイド的には掃除しないと気が済まないのだろう。
「でも御主人様、掃除した方が綺麗になりますよ?」
「そりゃそうだけど…何だか、下手に動かすと拙いアイテムも在ったような無かったような」
頭を掻きつつ、魔理沙が答える。その間にも魔理沙の首筋は粟立ちっぱなしだったが、何とか抑え込んでいた。
「でしたら、御主人様も手伝って頂けると助かるのですが………ああ、申し訳ありません。メイドが主人に手伝わせるなんて……やはり、私だけで致します」
そう言って、霊夢は魔理沙に頭を下げると、一人でマジックアイテムの山へと歩を進めた。魔理沙はその手を握り、引き止めた。
「まあ、待て待て。誰もやりたくないなんて言ってないぜ? 私も手伝うから、一緒にやろう、な?」
「……ですが……御主人様にそのような事……」
俯いて、逡巡する霊夢に魔理沙は言った。
「いいんだよ、私がやりたいって言ってるんだからさ。それとも何か? お前は主人の言う事が聞けないのか?」
冗談めかして言ったつもりだった。しかし、
「っ!! も、申し訳ございませんっっ!! 承知致しました、承知致しました…!! ですから、どうか、どうか……お許し下さい、御主人様……!!」
霊夢は、魔理沙の袖にすがり付いて声を震わせた。霊夢のその尋常では無い態度に、魔理沙は困惑した。
「な、何だよ霊夢………大丈夫、大丈夫だよ、怒ってなんかないからさ…」
子供をあやす様に、霊夢の肩を押さえてなだめる魔理沙。
「本当…ですか?」
「ああ……本当だ」
目に涙を溜める霊夢に、魔理沙は微笑みかける。
「…ありがとうございます。それでは、お掃除を始めましょう」
「……ああ」
こうして霧雨邸の久し振りの大掃除が始まった。だが、魔理沙の頭の中は、先程の霊夢の言動に対する疑問で一杯だった。
最初、魔理沙はわざとらしく丁寧な言動をする事によって、うろたえる魔理沙を見て逆に楽しむという霊夢の悪戯かと思っていた。
しかし、あの時の霊夢の表情は、とても演技とは思えなかった。そうすると、霊夢は本気で魔理沙の言葉に怯えたという事になる。
何故?
普段の霊夢からは、とても考えられない。まさか本当に演技では無いのか。だとしても、理由が分からない。そもそも、霊夢は本気であんな言動をする娘ではない…と、少なくとも魔理沙は思っているし、他の連中もそう思うだろう。では今、魔理沙の目の前で掃除に精を出しているのは誰だ? 実は霊夢では無いのか? じゃあ誰だ? 何故こんな事をしている?
魔理沙の疑問は尽きなかった。
そうこうしている間に、大掃除は終わった。
* * *
「お背中、流しますね」
「ああ、頼むよ」
霊夢が作った美味しい夕食を食べた後、お風呂に入った魔理沙は、そのすぐ後に入ってきた霊夢に体を洗われる羽目になった。しかし、魔理沙はうろたえなかった。魔理沙は霊夢の様子を、今日一日見るという結論を出したからだ。もし明日になっても変わらなかったら、それから対処を考えようという割と気楽なものだった。
(それに…何と言うか、こんなにしおらしい霊夢を見る機会なんて、まず無いだろうからな…)
更に、微妙な下心も含まれていたという。
* * *
月昇る幻想郷。冴えた月光が森の中に佇む一軒屋を照らす。
近くの小鳥の囀りや、遠くの妖怪の嘶きがいつもの子守唄。
でも今日は、メイドになった霊夢の事で疲れたから、すぐにでも夢の中へ―――
「…御主人様」
…すぐには、行けそうになかった。霊夢が、魔理沙が寝ているベッドの傍らに、じっと立っている。
「何だ? 霊夢…。もう私は寝るから、お前も寝ていいぞ…?」
「………………」
霊夢に背を向けて横の格好のまま話しかけてみるが、霊夢からの反応は無い。
「ああ…寝る場所が無かったなぁ……何なら、一緒に寝てもいいんだぜ?」
少しからかってみる。はてさて、メイド霊夢はどんな反応を見せてくれる?
「………………」
しゅるり…
衣擦れの音。その後すぐ、ぱさりと何かが床に落ちる。
「……霊夢?」
その音に反応した魔理沙が、霊夢の方を向く。
「!!?」
息を呑む。霊夢はおもむろにメイド服を脱ぎ捨て、細身の体を惜しげも無く魔理沙に晒していた。
「なっ……霊夢…!?」
「……お休みの前に……最後の…御奉仕を……」
窓から差し込む月光に映える、霊夢の体。ぎし、とベッドに体を乗り上げて魔理沙の顔を覗き込む。その目に、光は無かった。
「霊夢…お前っ……!」
魔理沙は跳ね起きた。霊夢の異常は、もう明らか。明日になるまで、なんて悠長な事は言っていられそうにない。
すぐにでも、霊夢に起きている異変を取り除かなければ大変な事になる。魔理沙の勘がそう告げていた。
「御主人様……」
熱にうかされるように、魔理沙にしな垂れかかってくる霊夢。
「霊夢っ!」
どんっ!
その体を突き飛ばす。霊夢の体はあっさりと飛ばされ、床に尻餅をついた。
「悪い…けど、どうも四の五の言ってる場合じゃないみたいだしな……正気に戻って貰うぜ、霊夢…」
ベッドから降り、霊夢へと近付く魔理沙。
「誰かに変な魔法でもかけられたか? それならさっさと解呪魔法をかけて―――」
「―――御主人様―――」
言いかけたその時、冷え切った霊夢の声が、部屋に響いた。
「…え? 霊夢?」
「………やっぱり………私では、駄目、なのですか………」
がしっ!
「っ、ぐっ!?」
そして、急に何かに弾かれるように跳ねた霊夢に、魔理沙は不意を突かれた。そのままベッドの上に押し倒され、ぎりぎりと首を絞められる。
「わたしでは、だめなの、です、ね、ごしゅ、じ、んさ、ま、」
「なっ……かっ……!」
「どうしてわたしではだめなのですかわたしはこんなにごしゅじんさまのことをあいしておりますのにわたしはごしゅじんさまあいしてだってごしゅじんさまわたしはだめあいしてですからなんだってできますのにあいしてごしゅじんさまあいしてあいしてくれないそれならいっそわたしのてでわたしがごしゅじんさまをわたしはわたしは」
壊れた蓄音機の様に、無機質な言葉をつらつらと羅列する霊夢。その間にも、魔理沙の首を絞めるその手の力は強くなってゆく。
(くっ……霊夢……!!)
息苦しさの中、魔理沙は脳をフル回転させて霊夢の異常の原因を探る。何か少しでも、おかしい所は―――
(…! もしかして…!)
魔理沙の目が、ある一点に注がれた。それは、霊夢の首に巻かれたチョーカー。メイドファッションの一部だろうと思って特に気にしてはいなかったが、よく見れば、そのチョーカーには見覚えがあった。それは、魔理沙がいつだったか手に入れた、物騒なマジックアイテムだった。
そのチョーカーはペンダントサイズの宝石が装飾されていて、人目を引く。しかし、確か、その宝石こそが物騒の元だったはず―――
「それかっ………!!」
力を振り絞って魔理沙は霊夢の首元に手を伸ばし、チョーカーの宝石に触れた。途端、そこから異様な妖気を感じた。
深い絶望と、悲しみから来る怒り。それが、この宝石に宿る呪力…!
「…霊夢を返して貰うぜ!!」
魔理沙は指先にありったけの魔力を込め、宝石に流し込んだ。
―――ピシッ
宝石には、魔力を溜める力がある。この宝石に宿る魔力は恨みのそれ、似た力で言うと、呪力だ。普通ならばゆっくりと浄化して宝石を自分の物にしたい所だったが、今はそれどころでは無い。なので、少々強引な方法ではあるが、その宝石に自分の魔力を大量に送り込む。
―――パキッ
宝石には種類によって魔力の許容量が有り、入れられる魔力の量はそれぞれ違う。この宝石の許容量など知らないが、幸か不幸か、これには元々大量の呪力―――魔力が宿っていた。ならば、少し魔力を注ぐだけで、この宝石は空気を入れすぎた風船の様に。
―――パリイイィィン…
すぐ、割れる。
「あ――――――」
ふっ、と霊夢の手の力が緩み、体が魔理沙の上に倒れ込む。
「おっ、と……」
それを受け止め、様子を見る。
「………う……ん……」
気絶していると思ったが、どうやら意識があるらしい。霊夢はゆっくりと顔を上げ、魔理沙の顔を見た。
「霊夢…大丈夫か?」
「……うん……悪かったわね…色々と…」
「…気にするな。今は休んだ方がいいぜ?」
自分のした事、覚えていたのか? そう訊こうとした魔理沙だったが、今は止めた。
「…うん。今日はいっぱい動いたから、疲れちゃった…」
そう言って、霊夢は魔理沙の胸に顔を埋め、そのまま寝息を立て始めた。
「お休み、霊夢…」
魔理沙は霊夢をベッドに横たえると、その隣で自分も横になった。
* * *
「魔理沙、起きて…」
「………おお………後、五分……」
ゆさゆさと体を揺すられた魔理沙は、布団を頭から被り、そう唸った。
「……起きて下さい、御主人様。朝食が冷めてしまいますよ?」
「おわあっ!!?」
霊夢のその言葉で、魔理沙の意識は完全に覚醒した。
「…ふふふ、騙されたわね?」
「ああ、騙された…」
魔理沙は寝癖のついた頭を掻きながら、目の前の霊夢を見た。
「…で、霊夢。体は大丈夫か?」
「うん、別に何とも無いわよ。昨日は頭の中が凄くもやもやしてたけどね」
「…その事だけどな。何で霊夢はあのチョーカーを付けたんだ?」
魔理沙は、少し真剣な面持ちで訊いてみた。
事の顛末はこうだった。
弾幕ごっこで負けた霊夢は、罰ゲームであるところの一日メイドを実行しないと見せかけて実行し、魔理沙を驚かせる為に、昨日の朝早く霧雨邸に忍び込んだ。そこで適当なメイド服っぽいものを見繕って雰囲気作りをしようと思い探していたら、メイド服一式と例のチョーカーを見付けたのだという。
「あー……そうか…私、あのチョーカーとメイド服一式を一緒に手に入れたんだったな…」
記憶を辿り、納得する魔理沙。
「でも、魔理沙は何でそんな物騒な物持ってたの?」
「それはほら、アレだ。蒐集家の性と言うか何と言うか」
ついでに言うと、あのメイド服はチョーカーと一緒に付いてきた代物だったのだが。
「はあ……ま、いいか。で? このチョーカーは一体何だったの?」
「ああ、それか? それはな……」
その昔、とある屋敷にそのチョーカーの持ち主のメイドが居た。彼女はその屋敷の主人に想いを寄せていたが、所詮叶わぬ恋だった。主人には婚約者が居たから。それでも諦めきれない彼女は、その想いを胸の内に溜め込む様になり、気鬱になっていった。
その想いが憎悪へと転化するのに、さほど時間は掛からなかった。
主人に想いのたけをぶつけた彼女は、それでも主人に伝わらないと知った後、遂には主人を殺してまった。
「……で、最後にメイドは自らの命を絶った。その時の想いが彼女のチョーカーの宝石に溜まり呪力となって、宝石は呪いのアイテムになりましたとさ」
魔理沙は喋り終えると、床を見た。そこには、昨晩砕け散った宝石の破片が散らばっていた。
「やけに詳しいのね、事情に」
「保証書付きだったんだ」
「保証書?」
魔理沙に訊けば、買った時に付いていたらしい。
「変な物を売ってる店もあるのね」
「香霖のトコよりは実用的な物を売ってたぜ?」
「呪いのアイテムに、実用性なんかあるの?」
「服は使えるさ。あれ自体は呪われてない」
その服も、昨晩霊夢が脱ぎ捨てたまま床に落ちている。
「それで、呪いの効果は」
「そう。霊夢が身をもって体験した通り、身に付けた者は、そのメイドと同じ様な行動をとる。主人は誰であろうと構わない。そして、」
主人を慕い、嫌われぬようすがり付き、しかし思い余ってその手にかけてしまう。そして、最後には―――
「迷惑な話ね」
「…ま、そう言うな」
魔理沙はベッドから降りて、メイド服を拾い上げた。
今まで様々な仕事をこなしてきたであろうその服は所々汚れてはいるものの、朝日の所為だろうか、少しだけ輝いて見えた。
* * *
「ところで魔理沙。その屋敷って、もしかして紅魔館の事?」
「違うよ。大体、あそこの主人は殺したって死ぬもんか」
「…それもそうね」